「晩鐘」
登場人物
深水螢(26)大学生
前島妙子(71)きっずはうす代沢・所長
吉木里美(53)産科医
深水和人(26)会社員
女
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○吉木マタニティクリニック・診察室
リノリウムの床。
窓の外で桜が散りはじめている。
深水螢(26)と深水和人(26)、丸椅子に並んで腰かけている。
吉木里美(53)里美、白衣を着て二人の向かいに座っている。
螢「あの。サトミ先生」
里美「フカミカズトさん。ホタルさん」
和人「はい」
里美「先日行った新型出生前診断。NIPTの結果。お子さんは21番目の染色体が3本あると判明しました」
和人、螢の手を握る。
里美「お子さんは。ダウン症候群です」
螢、宙を見ている。
里美「これから医学的・統計的事実と、産科医としての私見を申し上げますが、よろしいですか」
和人、螢を一瞥し、里美に視線を戻す。
和人「お願いします」
里美「まず。検査の精度は99%です。しかしこれはただの数字ですし、検査結果の責任は、医師である私が負います」
螢、宙を見ている。
里美「検査前にもお話ししましたが、この検査自体を批判する向きもあり、論を待っている状況でもあります」
和人「はい」
里美「最近では同じような状況下にあるご家族との連携や情報提供など。サポートの仕組みも生まれはじめています。冊子を」
里美、和人に冊子を渡す。
里美「しかし現状日本で障害を持ったお子さんとともに生きることは、精神的・肉体的・経済的負担を伴うことも事実です」
螢、宙を見ている。
里美「そして欧米で9割。日本では95%以上のご夫婦が、お2人と同じ状況の下で妊娠の継続をあきらめています」
和人「妊娠の継続を。中絶ですか」
里美「この事実をどう見るか。それはお2人の問題だと私は思っています」
里美、螢と和人を見つめる。
里美「そして中絶を選択しなかった場合でも、ダウン症候群のお子さんの3割は胎内で亡くなるという統計もあります」
螢、宙を見ている。
里美「つまり。生まれてくるということ自体が一つの奇跡だということです」
窓の外で桜が散っている。
里美「医学は奇跡を起こせません。奇跡を起こすのは。人です」
螢、宙を見ている。
里美「私からは以上です。何かお聞きになりたいことはありますか?」
螢、宙を見ている。
和人、螢を一瞥し、里美に視線を戻す。
和人「少し。時間をください」
里美「もちろんです」
螢「なんで」
和人、螢に目をやる。
里美「螢さん」
螢「ねぇ。なんで?」
螢と里美、目を見合わせる。
螢、里美に掴みかかる。
螢「なんで!?」
和人「ほたる!」
和人、螢を引きはがす。
和人「すみません」
里美「いえ。お2人で。よく話し合われてください」
里美、出ていく。
螢、その場に座り込む。
螢「なんで」
和人「ほたる」
和人、螢の肩に手を置く。
和人「なぁ螢。今回は諦めないか?」
螢「今回は。諦める」
和人「正直。厳しいよ」
螢「正直。厳しい」
和人「子どもは。またできるよ」
螢「また。できる」
和人「ああ。またできるよ」
和人、微笑み、出ていく。
螢「かずと。わたし」
ドアの閉まる音。
○ライフパーク太子堂・外
雨が降っている。
ベランダに色褪せた紫陽花。
螢と深水、室内のリビングで向かい合って座っている。
螢、里美から受け取った冊子を読んでいる。
深水、螢の手から冊子を奪う。
螢と深水、目を見合わせる。
深水、視線を逸らす。
ベランダに色褪せた紫陽花。
○宮の坂停留所(夜)
セミが鳴いている。
止まっていたバスが走り出す。
螢、食材と惣菜の入ったスーパーの袋を手に、ベンチに座っている。
少し膨らんでいる螢のお腹。
前島妙子(71)、螢の隣に座る。
妙子「大丈夫かい?」
螢と妙子、目を見合わせる。
妙子「大丈夫かい?」
螢「はい」
妙子、螢の持っている袋を見つめる。
妙子「カレーだね」
螢「栄養。摂らないと。なので」
螢、お腹をさする。
妙子「ウチは子どもが多くてね。三日に一度はカレーだよ」
螢「さすがに多くないですか?」
妙子「マエシマタエコ」
螢「え?」
妙子「いつでもウチに来な。そこの商店街で前島妙子って言や。誰かしらウチまで案内してくれる」
螢「マエシマタエコ。さん」
妙子「東京の人間は冷たい。なんてマユツバだよ。みんな温かい手してる」
螢と妙子、目を見合わせる。
妙子「あんたがその手を掴むかどうか。だよ」
螢と妙子、目を見合わせる。
妙子「父親がいなくたって子どもは平気さ」
螢「どうして」
妙子「惣菜が。1人分だ」
螢「ああ」
妙子「じゃ。また」
妙子、去る。
螢、妙子の背中を見送る。
○ライフパーク太子堂・螢の部屋・中(夜)
六畳のワンルーム。
部屋の中央にテーブルがあり、その上に一枚の紙が置かれている。
螢、スーパーの袋を手に入って来て、袋をテーブルに置く。
テーブルから紙が落ちる。
紙は和人の署名・捺印済みの離婚届。
螢、離婚届を見つめている。
○商店街(夕)
店先はハロウィンの飾りつけ。
螢、乳児を抱えて出てくる。
手をつないで歩く小学生と両親、螢の目の前を通って行く。
談笑する小学生と両親の後ろ姿。
螢、親子の後ろ姿を見送っている。
女の声「妙子さんトコかい?」
女、蛍の後ろに立っている。
○道(夜)
左側に教会の建物。
螢と女、歩いている。
女「ここだよ。じゃあね」
女、去る。
螢、頭を下げる。
「きっずはうす代沢」の看板。
○きっずはうす代沢・玄関前(夜)
ドアが開く。
妙子、玄関の内側に立っている。
螢「あ。あの。ここは」
妙子「あー。ここは。みんなの居場所だよ」
螢「みんなのいばしょ」
妙子、螢を眺める。
妙子「ありがとね」
螢「え?」
妙子「その子。届けてくれたんだろ?」
螢「え。あ。いや。その」
妙子、螢から乳児を取りあげる。
乳児、泣き出す。
鐘が鳴り出す。
妙子「おお。おお。元気な子だね」
螢「え。あ。あの」
妙子「用が済んだんならさっさと帰んな」
螢「え」
妙子「なんて名前にしようかね?」
乳児、両手を振り回して泣いている。
鐘が鳴っている。
螢、乳児の手を掴む。
螢「温かい」
螢、乳児を取り返す。
乳児、泣き止む。
鐘が鳴りやむ。
螢「のぞみ」
螢と妙子、目を見合わせる。
螢「この子の名前は。のぞみです」
妙子、螢に微笑む。
妙子「入んな。カレー温めてたトコだから」
螢「今日もカレーなんですね」
妙子「いいから入んな。お母さん」
螢「はい」
螢、のぞみを抱いて入っていく。
〈おわり〉
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