ナレーション(以後N)「良く晴れた五月のある日、海沿いの駅に一人の男が降り立った。香
取太知という二十八歳の青年だ。波の音が聴こえた。近くには海がある。その海は鏡海と呼
ばれている。凪の時は、穏やかな海面が鏡のように空を映す事からその名がついた。太知の
母、五十三歳の優子と三十一歳の姉、洋子はその海の近くで民宿を営んでいる。民宿につく
と、母が出迎えてくれた。白い壁と白い床、白いテーブルと白い椅子がある部屋に通された。
部屋には時計が無かった。全ての窓は開け放たれていて、そこから穏やかな風が吹き込み、
波の音が聴こえる。ただ、海がみえる西側の窓にのみカーテンがかかっていた。カーテンが
無ければ、そこからは鏡海、青い空と白い雲、そして白い砂浜が見えるはずだ」
優子「ひさしぶりね」
太知「ああ。十年ぶりだね」
優子「背が伸びたんじゃない?」
太知「そんなはずないだろ」
優子「あんたが出て行った時はまだ十八歳。身長は二十代でも伸びる事もあるしね」
太知「ハハハ。母さんは相変わらず物知りだな」
優子「そんな事ないって」
太知「いや、昔からそうだったよ。母さんに知らない事はなにもない。姉さんに聞いてごらん
よ。姉さんだってそう言うはずだよ」
優子「ふうん。ずいぶんと持ち上げてくれるのね」
太知「そんな事ない。昔から母さんの事は尊敬してるんだから」
優子「バカ言わないで。あんたがどれだけ私の事バカにしてるか知ってるんだから」
太知「そんな事ないって」
優子「いいえ。あんたが家にいた時はいつもそうだった。あんたはこの家にいた十八年間をも
う忘れたって言うの?」
太知「忘れてなんかいないさ」
優子「それならいいけどね。この家にいた十八年間の事はきっぱり忘れて、まっさらにして、
それから新しい生活を始めたいっていうのなら、それでもかまわないのよ」
太知「そんな事はないってば。俺は東京にいる時もね、一時たりとも十八年間の事は忘れた事
はないんだから」
優子「私たちの事を思いやってくれてたって事? 嘘つかないでよ」
太知「だから、戻ってきたんじゃないか」
優子「それはあんたの問題でしょう。どうせ他に行く場所が無くなったから、ここに戻ってき
ただけなんでしょ」
太知「そんな事ないってば」
N「太知は苛立ちながら席に着いた。先が思いやられるが、こんな母とも仲良くやっていかな
ければならない。太知はカーテンの向こうの海に思いをはせた。しばらくしたら、あの海を
見に行こう。そうすれば気分も落ち着く。太知はそう思った」
優子「なあに、怒ったの? 変わってないね。あんたは、そうやって簡単に怒るんだから」
太知「怒ってないってば」
優子「いいえ、怒ってる。あんたはここに戻ってきて正解よ。いい? この家はあんたみたい
に心がささくれ立って、不安定な人が来るところなのよ。時間も忘れてほしいから、時計も
外してあるの」
太知「繁盛してるって事? 父さんがいなくなってからも、お金の心配はしなくていいという
わけだね」
優子「……あんた、今なんて言ったのよ? まるで父さんがいなくなっても私が平気みたいじ
ゃない」
太知「まあまあ……。ところで、何でカーテンを閉めてるの?」
優子「……海が見えるからよ」
太知「母さんこそ、あの海でも見て心を落ち着かせたらどう?」
優子「私たちにとって、あの海がどういう海だか知ってるの?」
波の音。
太知「もちろん知ってるよ」
優子「知っているなら、なんでそんな事を言うの?」
太知「いい? 母さんはもうあの事を受け入れるべきなんだ」
優子「あんたは受け入れたって言うの?」
太知「もちろん、受け入れたさ」
優子が椅子から立ち上がる音。
優子「馬鹿馬鹿しい。あんたは逃げたじゃないの」
太知「逃げただって? 何言ってんの」
優子「逃げたじゃないの。あの事があって、すぐにあんたはここを出て行った」
太知「逃げたわけじゃない。ここにいるべきじゃないって思っただけさ」
優子「ここにいるべきじゃない? なんでそう思ったの」
太知「起こった事はしょうがないんだよ。あとはそれをどう前向きに受け止めて行くかだよ」
優子「受け止めるって事はここから出ていく事なの? 姉と母を残して、ここから出ていく事
なの? やるべき事は、私たちと一緒になって、ここで頑張る事だったんじゃないの?」
太知「頑張るって、何をさ?」
優子がゆっくりと椅子に座る音。
優子「父さんが残した、この民宿を守る事。父さんがどうしてここを作ったか知ってる? あ
んないい大学を卒業して、ここに民宿を作ったのは何故だがわかる? この鏡海でみんなを
癒すためよ。まだ大学を出たての若者が、そんな事を考えて、実際に行動に移したのよ? 今
のあんたより若い年齢でね。これがどれだけ凄い事かわかってる?」
N「遠回しな自慢だと太知は思った。母も父と同じ大学を出ている。父と母は大学の同級生だ
った。この民宿を作る事に、母も大きく貢献している」
太知「でも父さんはあんな事になったじゃないか」
優子「黙りなさい……」
太知「いや、はっきりと言っておくよ。もしかして母さんは忘れているかもしれないからね。
父さんはね、死んだんだ。自殺したんだよ。あの鏡海でね」
N「太知はカーテンを指さした。その向こうには、父が消えた鏡海がある。遺体は見つかって
はいない」
太知「こんな民宿を作ったところで、自分は救えなかったじゃないか。そんなものを守ってど
うするんだよ!」
優子がテーブルを叩く音。
優子「黙りなさい。父さんを馬鹿にする気? あんたよりも何倍も頭が良かったのよ! あん
たは何なの? 三流高校しか出てないじゃないの。あの人は立派な人だったのよ。他人を救
う事に一生懸命で、自分の事は後回し。家族に対してもそうだったんだから。自分の事を癒
す暇なんてなかったんだから! そうよ、覚えてる? あんたが七歳ぐらいの時、鏡海で子
供が溺れたでしょ?」
太知「覚えているよ。同じ学校の同じ学年だった」
優子「父さんが第一発見者だったの。もちろん、父さんには何の責任もない」
太知「知ってるよ」
優子「でもね。父さんは罪の意識に苦しんだのよ。自分がもっと鏡海を見ていれば、その子を
発見できたに違いないって。手遅れにならずに済んだって! 鏡海で人を癒そうとしている
んだから、普段からもっと鏡海に向き合っているべきだったって」
波の音。
優子「そういう人なのよ。あんたなんかとは人間の出来が違うんだからね」
太知「相変わらず、息子に対して酷い言い方だね」
優子「……あんたが父さんを尊敬しなかったからそういう言い方になったんじゃない」
太知「わかったよ。俺が悪かった」
優子「どうせ、悪いとは思ってないでしょ?」
太知「……ところで、姉さんは?」
優子「恋人のところよ。もうすぐ帰ってくるはず」
太知「ええ? 恋人?」
優子「何かおかしいの?」
太知「姉さんには友達すら一人もいなかったのに」
優子「変わったのよ、あの子も。あんたと違って成長しているのよ」
太知「引きこもりみたいだったって聞いたけど」
優子「まだ、接客はできないけどね、徐々に明るくなってる」
太知「へえ。そりゃ楽しみだね」
家の外から足音。
ドアが開く音。
優子「噂をすれば。おかえり!」
洋子「母さん、そんな大きな声出さないで」
洋子が部屋に向かう足音。
洋子「あっ」
太知「姉さん。久しぶり」
N「十年ぶりに会う姉であったが、まるで昨日会ったかのように太知は挨拶する事が出来た。
太知は姉の姿を見て驚きを覚えたが、それは母が太知に期待する驚きではなかった。やや猫
背で伏し目がちな表情。十年前と何ら変わる事のない姉がそこにいた」
洋子「久しぶりね」
太知「姉さん。元気そうだね」
優子「さあ。そんなところに立っていないで座りなさい」
優子が椅子を引く音。
洋子「ごめんね」
太知「突然なに? 何を謝っているんだい?」
洋子「あんたが今日戻ってくるって知ってたのに、何も用意してなくて」
太知「用意? 何の用意だよ」
優子「歓迎会でもやろうって言ってたの、この娘」
太知「ハハハ。やめてよ姉さん。転校生じゃないんだから」
洋子「あんたが家を出ていくとき、お別れ会みたいなものをやらなかったから」
優子「あんたきっとそういうの恥ずかしがると思ってね、私がやめさせたの」
太知「へえ、母さん気が利くね」
優子「あんたは私の息子よ? それぐらいわかるよ」
波の音。
太知「久々に帰ってきたんだ。海が見たいな」
洋子「鏡海?」
太知「そうだよ。海岸まで行ってじっくりと見たいな。ここからじゃ見えないし」
N「太知はカーテンを睨んだ。洋子も海の景色を遮る白い布に視線を向ける。優子はじっとテ
ーブルの上に目を向けたままだ。太知の言葉には棘が含まれていたが、何も言い返せないで
いた」
洋子「じゃあ、行く?」
太知「そうだね」
優子「え? せっかく三人そろったのに?」
太知「母さんも来ればいいじゃないか」
優子「私は行かない」
太知「そう。まあいいや。また戻ってきて三人で話そう」
優子「何で今なの?」
太知「行きたくなったからね。思い立ったら即行動。そういう息子だったろ?」
優子「確かにね。父さんの子供とは思えない。父さんはそんな行き当たりばったりの行動はし
なかった。きちんと計画通りに動く時計みたいな人だった」
太知「そうだったかな? 俺の印象とは少し違うかも」
優子「あんたが父さんを語れるの? あんたなんて物心ついてから十数年ぐらいしか父さんの
事しらないじゃない」
太知「俺が父さんの事語っちゃいけないの? 俺だって父さんの息子だよ。もちろん姉さんに
だって語っていいはずだよ」
洋子「も、もういいじゃない二人とも。母さんも久しぶりに海を見たらいいじゃない。ね?」
優子「いいえ、あんたたち二人で行って。私はここで待ってる」
洋子「母さん……」
N「洋子は苛立ちや怒りよりも、哀しみを感じていた。十年ぶりに再開したというのに、この
ありさまである」
太知「いいよ。放っておこう」
洋子「でも……」
太知が席を立つ音。
太知「母さんはまだ父さんとのお別れを済ませていないんだ。鏡海に行ってきちんとお別れす
べきなんだよ。お別れしない限り、いつまでたっても前に進めないよ」
部屋から出る太知の足音。
玄関のドアを開ける音。ドアが閉まる音。
洋子「母さん……」
優子「ごめんね。何とか穏やかにいこうと思ったんだけど」
洋子「母さんのせいじゃない」
優子「そう言ってくれるのはあんただけよ」
洋子「母さんも海に行こうよ」
優子「いいえ。そういう気分じゃないの。あんただけ行きなさい。久しぶりに弟と二人で話せ
ばいいじゃないの」
洋子「母さん。太知の言った事、気にしてる?」
優子「お別れがどうのこうのって話? 私は気にしてない。私は私なりにけりをつけたのよ。
私が父さんの話ばかりしているから、あの子、あんな事言ったんでしょうけど。いい? き
っぱり忘れる事と別れる事は別なのよ。たぶん、あの子は勘違いしてる」
洋子「あの子が言いたかったのは多分……」
優子「大切な人たちの事はいつまでも忘れない。それが当り前じゃないの? そうよね?」
洋子「うん……。そうね……」
優子「今ってあの子みたいに冷たい人ばっかり。嫌な事があればすぐに距離をとる。私たちみ
たいにちゃんとした心を持った人たちには生きにくい時代なのかもね」
洋子「うん……」
優子「さ、海に行きなさい」
洋子「え?」
優子「きっと、あの子は私たちの助けを必要としているのよ」
部屋で聴く時よりも大きな波の音。
太知が砂浜を歩く音。
N「太知の目の前に鏡海がある。太知は砂浜を歩きながら、海の上を真っ直ぐに伸びる桟橋を
見た。白いペンキが塗られ、まるで海に浮かぶ一枚の板のようだった。この海を間近で見る
のも、砂浜を歩くのも十年ぶりだった」
洋子「どう、十年ぶりの鏡海は」
太知「やあ、姉さん。……やっぱり一人か」
洋子「うん。母さんは家で待ってるって」
太知「そう」
部屋で聴く時よりも大きな波の音。
二人が砂浜を歩く音。
洋子「ねえ、気にしてるの?」
太知「何をさ?」
洋子「母さんが言ったこと」
太知「どの事さ。色々言われすぎてわからないなあ」
洋子「ごめんね。せっかく十年ぶりに帰ってきたっていうのに」
太知「ハハハ。いいって。むしろ安心したよ。母さんも変わってないってね」
洋子「そう。あんたも元気そうでよかった」
太知「そういう姉さんも変わってないよ」
波の音。
洋子「そう? それは少し残念だな」
太知「え? どうしてさ」
洋子「それって少しも成長してないってことじゃない?」
太知「そういう意味じゃないってば」
太知が砂浜を踏みしめる音。
太知「元気そうって事だよ」
洋子「お世辞は言わなくていいよ。私は何も変わっていないんだから」
太知が貝殻を拾って海に投げ入れる音。
太知「ああ、そういえば、恋人が出来たらしいじゃない」
洋子「え……」
太知「恥ずかしがるなよ。母さんが言ってたよ」
洋子「うん……」
太知「どうしたの? その人のところに行ってたんだろ?」
洋子「あんたには本当の事言うけど、別に付き合ってないんだ」
太知「どういうこと?」
洋子「ただの片想いなんだ。それを付き合ってる事にしてるの」
太知「面倒な事するなあ。母さんきっと言いふらしているぜ。あの奥手だった姉さんに恋人が
出来たってね」
洋子がしゃがみ込み砂を掻く音。
波の音。
洋子「見て、とげつき魚」
N「洋子は砂浜から棘のある魚の死骸を摘み上げた。太知は笑顔を見せたものの、姉の突飛な
行動に一抹の不安を感じる」
太知「ああ、小さい頃踏んずけた事があったな」
洋子「あんた泣かなかったわね。ずっと強い子って言われてた。度胸を見せるため、あの桟
橋から海に飛び込んでみたり」
太知「で、どうするのさ」
洋子「何が?」
太知「姉さんの架空の恋人の事さ」
洋子「仕方ないんだ。母さんを安心させるためには……。最近、母さん不安定だからね」
洋子が立ち上がり、スカートの砂を払う音。
太知「安心させてるだけじゃダメだよ」
洋子「え?」
太知「厳しい事も言わなきゃなあ。母さんに父さんはもう帰ってこないって現実に向き合わせ
るべきだよ」
洋子「太知……」
太知「母さんは混乱しているよね。鏡海の素晴らしさを説きながら、鏡海に対して向き合えな
いんだ」
洋子「……うん」
太知「父さんが消えた現実と向き合ってないって事だよ」
洋子「そういうあんたは、向き合ってるの?」
太知「自分とも現実とも向き合ってるよ。俺は父さんとは、もうきっぱりとお別れしたんだ」
N「太知はそう言うと、桟橋に足をかけた。そして、一歩一歩、先端に向けて歩いてゆく。ま
るで水の上を歩いているようだった。洋子はそれを見守っていたが、すぐに後を追いかける。
彼女の父、そして太知の父はこの桟橋の先端まで行き、海に飛び込んだと言われている。洋
子には太知の姿と父の姿が被った。昔から父には似ていると言われていた太知だが、この十
年でますます父と似てきた」
桟橋を歩く音。
洋子「どうしたのよ。急に」
太知「父さんがいなくなってから、この桟橋を歩いたかい?」
洋子「……いいえ」
太知「ハハハ。それじゃ姉さんも父さんに別れを告げた事にはならないよ」
洋子「そうかな」
太知「姉さん。なんでそんな心配そうな顔をしてるんだ?」
洋子「えっ。そうかな……」
太知「俺が海に飛び込んで、父さんみたいにどっか行くとでも思ってるの?」
洋子「そんなんじゃないよ」
太知「大丈夫だよ。もうお別れはない。ずっと姉さんと母さんのそばにいるよ」
N「二人は桟橋の先端まで来ると、どこまでも広がる穏やかな鏡海、そして水平線との境界が
あいまいになった青空を見た。透き通った青空と白い雲は、ここが父が消えた地点である事
を二人に忘れさせた」
太知「ここに、靴だけが残ってたんだよね」
洋子「やめてよ……」
太知「しっかり見なよ、姉さん」
N「ここから父は海に飛び込んだと言われている。溺死したのならば、遺体が打ち上げられる
はずであるが、それは無かった。そもそも、鏡海とよばれるほど穏やかな海である。考えら
れるのは、そのまま沖に向かって泳ぎ、潮に流されたという事だ」
太知「母さんもここに来て父さんとお別れすれば、きっと前に進めるのに」
洋子「あんた、どうしてここに戻ってきたの?」
太知「そりゃあ、みんなを助けるためさ」
洋子「助ける?」
太知「そうだよ。姉さんも母さんも、助けを必要としているんじゃないか?」
洋子「誰がそんな事を言ったのよ?」
太知「ここ最近、母さんと電話でやり取りしててわかったんだ。俺にはわかる。これは助けが
必要だなって。みんな助けが必要だって」
桟橋に波がかかり、水が弾ける音。
洋子「……ハハハ」
太知「え?」
洋子「アハハハハ」
太知「どうしたんだよ。何がおかしいんだい?」
洋子「あんた、さんざん人に自分と向き合えなんて言っておいて、自分はどうなの?」
太知「自分?」
洋子「あんたは逃げ帰ってきた。そうでしょ?」
太知「なんだって?」
洋子「東京での仕事が辛くて、ここに帰ってきたんでしょ?」
太知「誰がそんな事を?」
洋子「あんたの考えている事なんてお見通しよ」
太知「それは姉さんの勘だろう」
洋子「昔からあんたはそうだった。弱い自分を隠すために、強がってばかりよ」
太知「黙れよ……」
洋子「あんたと違って、私は自分の弱さを認めてる」
太知「黙れってば!」
二人がもみ合い、桟橋が軋む音。
洋子「ここから落とす気?」
太知「落ちただけなら死にはしないよ」
洋子「あんたも一回落ちたもんね」
太知「いい気分だった。海と自分が一体になったような、生まれ変わった気分だよ」
洋子「そう……。じゃあ私も落としてみたら?」
太知「……やめておく。びしょ濡れの姉さんをみたら、母さんになんて言われるかわかったも
んじゃない」
桟橋に波がかかり、水が弾ける音。
太知「父さんは、きっと沖まで行ったんだ。ここからね」
洋子「……私たちを見捨ててね」
太知「おい、今なんて言ったんだよ……。父さんは卑怯者だって言いたいのかよ!」
洋子「ごめん……。そんな事言いたいわけじゃないけど。ただ……」
太知「ただ?」
洋子「父さんは私たちにお別れの理由も言ってないのよ。お別れの言葉もなし。遺書も何も残
していない」
太知「ああ……。うん」
洋子「どうしたの?」
太知「いや、なんでもない」
洋子「とにかく、正直になりなさいよ」
太知「何の話だよ」
洋子「私たちは、受け入れの準備が出来ている」
太知「受け入れだって?」
洋子「そう」
太知「だから、一体何の話だい?」
洋子「あんたも、色々あって戻ってきたんだから。素直に弱い自分を認めなよ」
太知「俺は姉さんたちを助けにもどったんだよ。母さんに聞いてみろよ」
洋子「母さんはそんな事言ってなかった。それにあんたは父さんとお別れしたわけじゃない。
ただ忘れただけだって」
太知「そんな事ないさ」
洋子「とにかく、あんたが心を開かないことには……」
太知「ちょっと待ってくれよ。母さんや姉さんには何の問題もないのかい? 問題を抱えてる
のは俺だけって言いたいの?」
洋子「そんな事言ってない」
太知「母さんは不安定って言ってたじゃないか! もちろん姉さんもね!」
洋子「そうよ! だからみんなで助け合うのよ! お互いに弱いところを認めて……。それで
……」
桟橋に波がかかり、水が弾ける音。
洋子が嗚咽する音。
太知「……少し落ち着きなよ。姉さん」
洋子「ええ……。ごめんなさい。興奮しちゃって」
太知「先に戻ってくれ」
洋子「あんたはどうするの?」
太知「もうちょっと、海を見ていくよ。久しぶりなもんでね」
洋子「そう」
太知「ちゃんと、涙は拭いて家に戻りなよ。俺が泣かしたって、母さんうるさいから」
洋子が桟橋を走る音。
優子「あら、もう帰ってきたの? ……まあどうしたの?」
洋子「え……? 何?」
優子「何、じゃないでしょ。あんた泣いてたの?」
洋子「別に何でもないよ」
優子「何か言われたの!」
洋子「何でもないったら!」
優子「あんた、いつからそんな口きくようになったのよ!」
洋子「ほっといてよ!」
優子が椅子を引く音。
優子「さ、座りなさい」
洋子が椅子に座る音。
優子「帰って早々、あの子と喧嘩したんでしょ」
洋子「母さんだってそうじゃない」
優子「喧嘩したわけじゃない。あの子を正してあげてるだけ」
ポットからお茶を入れる音。
優子「何があったの?」
洋子「私はまだ、父さんとお別れをしていないって」
優子「あんたにもそんな事言ったのね」
洋子「でもね。確かにそんなところはあるかもしれない。私は未だに、父さんがいてくれたら
って、思うことが多くて」
優子「それでいいのよ。さっきも言ったでしょ。結局、あの子は父さんの事を一切忘れただけ
にすぎないんだから。きっと父さんがどんなに素晴らしい人だったか、それも忘れてるのよ」
洋子「そうかもね」
優子「そうよ。きっとそう」
洋子「でもせめて、お別れの理由を知りたかった」
優子「お別れの理由?」
洋子「そう。つまり……。死んだ理由よ」
優子「それは……」
洋子「母さんは何だと思うの?」
優子「よしなさい。今さら父さんが死んだ理由なんて」
洋子「私は、ずっとその事を考えていて、わからなくて、だから、父さんとお別れが出来てい
ないのかも」
優子「理由なんて考えちゃだめ」
優子が立ち上がる音。
洋子「ねえ母さん。母さんも理由ぐらい考えたでしょ」
優子がポットを片付ける音。
洋子「母さん!」
優子「うるさいわね!」
優子がポットをテーブルに叩きつける音。
優子「理由なんて……私たちにはわからないのよ。あの人は私たちなんかより、ずっと賢い人
なのよ。私たちは理由なんて……。理由なんて考えちゃいけないのよ」
洋子「父さんだって人間よ」
優子「そうよ! きっと耐え切れなくなったのよ。ここで、多くの人の心を癒そうと考えたけ
ど、それが上手くいかなくて。それで悩んだのよ。そういう……。優しい心の持ち主だった」
洋子「私たちに責任はないの?」
優子「え?」
優子が席に着く音。
優子「あんた何を言ってるのよ? あの人が死んだのは私たちに原因があるって事?」
洋子「そういうわけじゃないけど」
優子「私があの人に対してどれだけ尽くしたか知ってるの? どれだけ愛情を注いでいたか知
ってるの?」
洋子「母さんは、父さんに何もしていないって言いきれるの?」
優子「あたりまえじゃないの」
洋子「私は違う」
優子「違う?」
洋子「私は子供の時から弱くて嘘をついてばかり。父さんに対しても嘘をついたり、心配かけ
てばかり」
優子「それで父さんが死んだっていうの?」
洋子「そうは言ってないけど。父さんに対して何も迷惑かけていないわけない」
優子「もしかして、あんた自分の事を責めているの?」
洋子「母さんは自分と向き合うべきよ。父さんに対して自分が一体何をしてきたか」
洋子が立ち上がる音。
窓まで歩く音。
カーテンを引く音。
優子「……いいかげんにして。私は何もしてない」
洋子「母さんも、自分に向き合うべきよ」
優子「あなたは自分に向き合ってるの?」
洋子「もちろんよ」
優子「父さんとも?」
洋子「向き合おうと思ってる……。でも、お別れの言葉も言ってもらえなかった事が……。そ
ういえば」
優子「どうしたの?」
洋子「……その事を言ったら太知の様子が変だった。お別れの言葉……」
優子「それよ!」
洋子「え?」
優子「太知は何かを知っているのよ」
洋子「何かって?」
優子「そう。きっと、太知は父さんから直接、お別れを言われているの。あるいは何かもらっ
ているのかも」
洋子「ええ?」
優子が椅子から立ち上がる音。
優子「時計……。時計よ!」
洋子「時計って?」
優子「父さんの遺品に時計が無かった」
洋子「どんな時計?」
優子「もし自分が死ぬ時は、最後に誰かに渡すと言っていた時計よ」
洋子「じゃあ、誰かに渡したって事?」
優子「あの子が持っているかもしれない」
洋子「まさか……」
優子が歩き回る音。
優子「そう、あの子は今でも持っているかも!」
洋子「待ってよ、もしかして勝手に荷物を漁る気?」
優子「見張ってて」
洋子「ちょっと、やめてよ!」
優子が隣の部屋に向かう足音。
家の外から太知の足音。
玄関のドアが開く音。
洋子「ああ、どうしよう……」
太知「帰ったよ」
洋子「お、おかえりなさい」
太知のゆっくりとした足音。
太知「姉さん、母さん……あれ?」
洋子「おかえり」
太知「カーテンが開いている……」
波の音。
太知「母さんは?」
洋子「え? うんちょっと別の部屋にいる」
太知「どうしたんだよ。カーテンも開いてるし」
洋子「あ、うん」
太知「なんか変だな」
洋子「そんなことないよ。それより……」
太知「なんだい?」
洋子「あんた、なんで父さんとの別れの話をしたら戸惑ったの」
太知「え? 何の事?」
優子の足音。
優子「これは、これは何のよ!」
太知「それは……」
洋子「時計?」
優子「そうよ! 父さんの懐中時計! あんたの鞄の中にあったのよ!」
テーブルの上に時計が転がる音。
太知「……父さんの形見を投げつけるなよ」
優子「答えなさいよ!」
太知「……あの朝もらったんんだよ」
洋子「あの朝?」
太知「父さんがいなくなった日の朝さ」
優子「十年前の?」
太知「あの日は何だか眠れなくて。朝の五時に海岸を散歩していたんだ。そうしたら父さんが
来て……」
洋子「父さんが?」
太知「俺の姿を見て少し驚いた後、この時計をくれたんだ。そして桟橋を歩いて行った。桟
橋の先には青い小さなボートがあったよ。父さんは靴を脱いでボートに乗った」
優子「なんで、止めなかったのよ!」
太知「止められなかった……。見てわかったよ、父さんには旅立つ覚悟が出来ていた。それに
なんだか、夢の中の出来事みたいで……。父さん……」
波の音。
優子「なんで今まで黙っていたのよ……」
太知「父さんにこの事は言うなって言われている気がしてさ……」
洋子「正直に言ってよ。自分だけお別れ出来たって事に優越感を感じたかったんでしょ?」
太知「なんだって?」
洋子「あんたも父さんとお別れは出来ていない。お別れしたつもりになってるだけ」
太知「そんなことない」
洋子「あんたは、父さんに話しかけられなかったんでしょ? お別れの言葉は何ももらってな
いよね?」
太知「いや、それは……」
洋子「あんたはいつもそう。父さんとお別れしたつもり、自分と向かい合ったつもり、つもり
になってるだけ!」
太知「俺が自分と向かい合ってないだって?」
洋子「そうよ! あんたは自分の弱さと向かい合って無いのよ!」
太知「俺は自分と向かい合ってきた! 母さんや姉さんと違って!」
優子がカップを壁に投げ、割れる音。
優子「いい加減にしてよ!」
N「しばらく、波の音だけが聴こえていた。白いカップは白い壁にぶつかり粉々になったが、
誰も片づけなかった。カーテンを開けたため、波の音がはっきりと聴こえた。三人はただ黙
ってテーブルだけを眺めていて、お互いの目を見る事は決して無かった。太知はあの時、父
の目を見れず、父と言葉を交わす事も無かった。自分が父と別れをしたつもりになっていた
だけだと気付いた。そして、最後まで父がどういう人物なのかわからなかった事にも気付い
た」
太知「……母さん。教えてよ」
優子「何を?」
太知「父さんは、母さんにとってどういう人だったんだよ」
優子「……何度も言ってるじゃないの。立派な人だったわよ」
太知「違うよ」
優子「え?」
太知「きっと、立派なだけの人じゃないよ」
優子「どういう事なのよ」
太知「早朝に走りに行くと、酔いつぶれて海岸で寝ていた事もあったよ」
優子「何ですって?」
太知「一緒に走っていた女の子に下品な事を言ったりもしたよ」
優子「父さんはそんな事しないわ!」
太知「お酒が好きだったのは知ってるだろ」
優子「……それだけ大変なお仕事をしていたって事。みんなを助けなきゃならないんだから」
太知「みんなを助ける?」
優子「そうよ」
太知「ハハハ。助けが必要なのは父さんのほうだったろ。みんなからバカにされてたって知ら
ないのかい?」
優子「いい加減にしなさい! あんたが世の中のためになんかやったの?」
太知「俺の事は関係ないだろ? 今は父さんの話だよ」
優子「あんたみたいなのが、あの人を理解できるわけないじゃないの!」
太知「ダメな父親だったけど、自由奔放なところはあったと思うよ。そこは好きだったよ」
優子「父さんはそんないい加減な人じゃない」
太知「じゃあ姉さんにも聞くけど、父さんは立派な人だった思うかい?」
優子「言ってやりなさいよ! どんなに父さんが立派だったか!」
洋子「え……」
優子「あんたにはわかっているわよね? 父さんの素晴らしさが!」
太知「どうなんだよ?」
洋子「父さんは……父さんは。母さんが思うみたいに、強くて賢い人じゃなかった」
太知「ハハハ。ほらみなよ。姉さんもこう言っている!」
優子「……何てこと言うのよ!」
洋子「ごめんなさい……」
優子「あんたも父さんが飲んだくれだって言うの?」
洋子「そうじゃない! そうじゃないんだけど」
優子「なんなのよ?」
洋子「母さんの言うように、完璧な人じゃなかった。優しくて、物凄く弱い人だった」
優子「父さんが弱い人ですって?」
洋子「そうよ」
優子「父さんのどこら辺が弱いっていうのよ?」
洋子「私も父さんには強い人でいてほしかった。でも、そうじゃなかった。今まで母さんの言
う通り、そういう人だと思おうとしてたけど……」
優子「それはあんたが弱いからよ! 弱い自分を父さんに投影しているのよ」
洋子「確かにそうかもしれなけど、でも、父さんの弱い姿を母さんも見ているはずよ」
優子「いいえ! 私はあの人の弱い姿なんか、一度だって見たことはないのよ! あんたはど
うしてあの人が弱い人だって言うの?」
洋子「子供の時だった。私が近所の子供たちにいじわるされて、桟橋に追い立てられて、海に
突き落とされたことがあるの。それを、そこの窓から、父さんが見ていたのよ」
優子「父さんは何も言わなかったの?」
洋子「そうよ。見て見ぬふりよ。父さんは優しかったけど、気まずい場面があるとすぐに逃げ
出した。その子は町長の息子だった。だから強く言えなかったの」
優子「あんたの勘違いよ! 父さんはきっと気づいていなかったのよ」
洋子「そのあと、父さんに問いただしたのよ。どうして私を助けてくれなかったのって。そう
したら、父さんはただ気まずそうにうつむくだけで」
優子「きっと、あなたの勘違いなのよ!」
洋子「そう、自分の弱さに向き合えないから、ずっとお酒を飲んでいたのよ。夜中一人でお酒
を飲んでいるところも見た事ある」
優子がテーブルを叩く音。
優子「いい加減にしなさい! 父さんは弱い人なんかじゃないわ!」
洋子「母さん……」
優子「さっきの話にしたって、あんたに強い子になってほしかったのよ。父さんの助けを借り
ずに、一人で立ち向かって欲しかったのよ」
洋子「母さんは、父さんが強い人だったって言うの?」
優子「そうよ。何度言わせるの?」
洋子「じゃあ、その強い父さんが何で自殺したのよ!」
優子「それは……」
洋子「今まで海をカーテンで隠していたのは何故なの? 父さんの本当の姿を知っているから
じゃないの? ねえ太知。あんたの言った父さんが本当の父さんだと思う?」
太知「……さあね」
洋子「わからないの?」
太知「姉さんの言った父さんが本当の父さんかもしれないし。自分の望む姿を父さんに投影し
ていただけなのかもしれない……」
優子「私だって……」
洋子「え?」
優子「私だって、父さんの本当の姿は……。わからないのよ」
太知「何だって?」
洋子「……母さん」
太知「どういうことだよ?」
優子「だから、私にも父さんがどういう人か、本当はわからなかったのよ……」
太知「ハハハ。こりゃ可笑しいね!」
洋子「母さんが本音を言ってくれたのよ?」
太知「可笑しいだろ? さんざん俺たちに父さんは立派な人だ。お前らには父さんの素晴らし
さがわからないと言っていたのに。実は自分もわかっていなかったんだから!」
洋子「やめなさいよ」
太知「姉さんは腹が立たないの? 母さんは姉さんをずっと言いなりにしていたんだよ?」
洋子「静かに……。もういいのよ……」
N「優子は涙を流しながら、窓の外に広がる鏡海を見ていた。午後になって海はより一層穏や
かになり、陽の光を浴びた海面は、磨き抜かれた鏡のように輝いている。洋子と太知も母と
同様に窓の外の輝く海を見つめている」
洋子「結局。父さんが何者だったかなんて、誰にもわからないのね」
優子「正直に言って、父さんが死んだ理由なんていくら考えてもわからなかった」
洋子「父さんを恨んでいる?」
優子「そういう時期もあった。だってひど過ぎるでしょ? 私がどれ程、父さんを愛してい
たか、あんたたちも知ってるでしょ?」
優子「私たちにはわからないよ……」
太知「そうだな……」
洋子が立ち上がる音。
洋子の足音。
部屋の端にあるカップの破片を手に取る音。
洋子「とにかく、もう物に当たらないでね」
太知「いつもこんな感じなのか?」
洋子「カップを投げて壊したなんて、今日が初めてよ」
優子「今日は初めての事だらけね」
洋子「え?」
優子「これだけ心の内をさらけ出したのは初めてよ」
洋子「どうしてさらけ出せたの?」
優子「あんたたちのせいでしょ。好きな事を言いたい放題。私もつられて言いたいこと言
っちゃった」
洋子「すっきりした?」
優子「ええ。多少はね。でも……。父さんに対する感情は……」
洋子「私だってそう」
太知「じゃあ、お別れすべきだよ!」
洋子「え?」
太知「これから、海に行って父さんに本当のお別れをしないか?」
優子「父さんの事を全部忘れろっていうの?」
太知「そうじゃない。父さんは死んだ。その事をはっきりと認識するんだ」
洋子「本当のお別れね」
優子「結局、父さんが何者だったのかはわからずじまい」
太知「俺たちが向かい合えば父さんが何者だったか、わかるんじゃないか」
洋子「死んだ理由もね」
優子「そうかもね……」
N「それから三人は、父に別れを告げるため、父が消えた鏡海に行った。父はもう帰ってこな
い。その事を強く認識すると、三人の中でわだかまっていた感情も消えていった。もちろん、
父に対する記憶は三人の心に強く残っている。三人はいつまでも鏡海を眺めていた」
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