ラーメン! ドラマ

ラーメン屋の息子が実家を継ぐってだけの非常にシンプルなストーリーです。 ロードムービー調にお笑い要素をプラスした形の脚本です。
B.B.ストラムナイト 75 0 0 11/19
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第一稿

 ラーメン! 

 俺が生まれた時、親父はまだ雇われで修行中の身。そんでその頃の母ちゃんは、大手の企業でOLをしていた。事務経理から営業まで全部自分でこなしちゃうような凄腕だっ ...続きを読む
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 ラーメン! 

 俺が生まれた時、親父はまだ雇われで修行中の身。そんでその頃の母ちゃんは、大手の企業でOLをしていた。事務経理から営業まで全部自分でこなしちゃうような凄腕だった。っていう話を本人から聞いた事があるっていうだけで、実際に俺が見た訳じゃあない。まぁ当たり前だけどね。

 だけど実際、ウチの経理関係は母ちゃんが一人で全部やっていた。親父はそういう事を全般的に母ちゃんに任せてるっていうような言い方をする。
でもそれはあくまで親父の個人的かつ、主観的な意見で、一般の言葉に置き換えるなら完全な丸投げ状態。そういう家って結構あるでしょ?

 一寸話が飛んだねごめん。そうそうそう俺が生まれた時に、親父は独立しようと思ったみたい。
「これで俺も、一国の主人だ」
みたいな感じだろうか?そんで人雇うぐらいなら一緒にやったほうがいいよねって母ちゃんに声をかけたら、快諾してくれたって様な言い方を親父はする。けどこれもまた、彼主観の都合の良い解釈。

 実際の所、当人曰く
「いやいやいや、あの人独りでやったら、絶対潰れるでしょ。もう籍も入れてたし、家族で借金抱えるのだけは絶対に厭。そう思っただけよ」
だってさ。ウチの親父は愛想が絶望的に無さすぎるんだよ。まぁその分なのかはわかんないけど、異常な程こだわりを見せる男でもあるのも事実だ。

 遥か昔、中華大陸からこの国に伝承したと言われる、俺達日本人が愛してやまない、このラーメンという食べ物に。






 それで母ちゃんの名前から取って、「みさきラーメン」ってつけたらしいんだけど、これまた比較的よくあるべタな話。んで街中の繁華街で修行してたのに、親父はあえて借金こさえて随分と、郊外の山奥に店を構える事にした。だからそこが俺の実家っていうことになる。

 親父は木造の二階建てをおっ建てた。1階は「みさきラーメン」の店舗、んで2階が居住区域、っていうかざっくり言って俺たちの住まいね。
 貴方の街にも昔からこういう店あるでしょ?
 でもこういう店って最近どんどん少なくなってると思わない?
 俺ん家みたいに居住する家と飲食店が一緒になってるような店。

 俺はこういった経営スタイルを、絶滅危惧種型の飲食店って呼んでいるんだ。




 郊外の山奥に建てたのは、親父の狙いがあったんだ。天然の湧き水でスープの仕込みをしたかったらしく、そういう環境を探してるうちに、今の場所になるべくしてなったらしい。

 まぁそういう他の人が拘らないところまで拘っちゃう、ちょっとイカれた男なんだよ。まだ太陽も上がんないうちから、湧き水を汲みにいってその水で昼前まで毎日豚骨を炊き続けるんだから、俺の家は朝っぱらから一日中、豚骨ラーメンの匂いが充満してた。そのせいで衣類にまで匂いが付着するもんで、学校じゃ揶揄われる事もあったけど、その親御さんもその子供の勿論俺の同級生も、大概のヤツはウチのファンだったんで、本気で馬鹿にされるなんて事はなかったけどね。
 
 座右の銘、かどうかなんて知らない。ただ親父は店に「旨い。は正義」ってえらい達筆な筆書で書かれた書き物を、額縁に入れて店のど真ん中に飾っている。前に聞いた話じゃ繁華街で修行してた頃、仕事終わりにバーで飲んでたら、東京から遊びに来てた有名な書道家の先生と出くわしたんだって。そんで飲んでいく内に、何故かその人と意気投合して夜明けまで飲んだらしいんだけど、最後に親父がコンビニでB3用紙と筆ペンを買ってきて、書いて貰ったって聞いた。その時は、へぇ-そうなんだって素直に思ったけど、今思うと普通に失礼だよね。
書道家捕まえて筆ペンて。あと文脈もなんか変だし。もし気性の荒い人だったら、
「こんなふざけた事書く訳ねえだろ。馬鹿野郎」
つって怒られるでしょ。

 ほんで親父は毎週定休の火曜日は、他の有名なラーメン屋に調査に行ったりしていた。旨い店を見つけると、仕込みの所から隠れて覗いて、それが店の奴にバレて怒られたり、マジで追いかけられたりした事もあったらしい。これは大人になってから初めて知ったんだけど、繁華街じゃ変な奴って事でまぁまぁ有名だったって事、聞いた時の恥ずかしさつったら、もう無かったよ。

 一回ガチギレした母ちゃんが親父に、
「アンタ、ちっとはラーメンから離れなさい!」
つって怒鳴る事も何回かはあったかな。でもそれはあまり意味を為さない。怒られてる最中もラーメンの事を考えてるのは、ガキの俺の目にも瞭然だったし。

 その母ちゃんも、親父のせいで自らの名前を冠するラーメン屋で働く羽目になったんだけど、それでも一生懸命働いてたと思う。OLやってた方がずっと給料も良かっただろうに、割に合わんと思う事もあったと思うわ。俺もこの歳だから最近わかるんだけどね。

 彼女の仕事は、ラーメンの提供とオーダー伺い、食後の丼ぶりとかの引き下げと皿洗い、そのあとテーブル拭きとお客さんが帰る時の会計だった。でも人そのものが好きなのか、お客さんの名前を一度で覚えて、
「〜さん。今日もありがとう」
って声かけていた。お客さんもそれに呼応するように、
「大将、美咲ちゃん、また来るね」
返していた。
 それは懐かしくも、美しい俺の思い出。母ちゃんはそんな中でも懸命に、家族に向き合いながら、直向きにこんな俺でも育ててくれた。よっぽどの事がない限り、毎朝こんな俺の為にでも味噌汁と飯の支度をしてくれていたんだ。

 俺の名前は包太郎って言うんだけど、これには由来があってみさきラーメン開店当初の構想として、サブメニューで点心、所謂小籠包も出す案があったらしくその名残らしい。俺の名前に名残だけが残るってどういうことだよとは確かに思うけどね。

 でも実際営業を始めた瞬間、親父はラーメンに思考の全てを全振りしちゃう。ほらもう完全にこだわり過ぎだから。昔はちゃんと案を固めてから、名付けてくれよって思ってたけど、俺自身最近はこの名前気に入ってるんだ。「アキさん」がつけてくれた
「パオ」ってあだ名も最初嫌だったけど、結局定着化しちゃったしな。あっごめんアキさんは後から出てくる人だから此処は一旦忘れて。んで失礼ついでに、もう一つ俺の好きな少年漫画のワンフレーズを引用させて貰うけど、

 この話は、俺が最高のラーメン職人になるまでの話だ。


 ガキの頃、俺はこの環境が大好きだった。親父の作るラーメンはマジで世界一だと思ってたし、店も繁盛していつも店はお客さんで賑やかだった、まるで毎日パーティーでもしてるのかってくらいね。でもこの仕事は、全て仕込みから自分で行うとなるとかなりの重労働。仕込みは太陽があがる前から始まり、午前11時に開店して、そっからぶっ続けで営業して午後9時に閉店。そして店の締め作業に入るんで、労働から解放されるのは大体午後10時以降だった。その頃は出前とかもやってたし、みさきラーメンとして、一番売上を立ててた時期だと思う。
 
 よく親父が仕事終わって食事中にビール飲みながら寝落ちすると、もう叩いても本気で起きないから、母ちゃんと二人で布団まで運ぶ事も少なくなかった。運ぶ時に二人でいっせーの。っていうデカめの掛け声で持ち上げるのに、それに親父が全然起きないのが可笑しくて、母ちゃんと二人でよく笑ったっけ。

 その頃の俺は学校から帰ってから、家の仕事を手伝っていた。当時やっていた出前も近所で顔馴染みのお客さんには、俺が持っていく事も少なくなかった。よく包ちゃん偉いねって、お駄賃を貰う事もあって、よくその金でアイスだとか、肉まんだとかを買って食ったモンさ。

 閉店処理の皿洗いとかもその頃はよくやっていたな。その時に翌日営業分の仕込みも少しやらせて貰ってて、うちは精肉店から直で豚骨と豚肩ロースを仕入れてたから、それを明日使用するスープ用の豚骨を分量を翌朝すぐ炊ける様に仕分ける作業。

 そのついでに俺は肩ロースを使ってチャーシューの仕込みもたまにはやらせて貰ってた。肉をタコ糸でキッチリ結び、だし醤油を水で薄めたやつを炊いてから、フライパンで焼き目をつけてから、またさっきの醤油をお玉で回しがけしながら、肉の内面がトロトロになるのを目指して作るというすごい熱いし、当時ガキの俺にはなかなかハードな仕事だった。

 たまにドジしてチャーシューを焦がしてしまう事もあった。そうすると親父は静かに作り直せと言う。そうした場合は当然、必ず俺の失敗作が夕飯に出てくる。俺が夕飯を食う時は、まだ店は営業してたので俺一人で食いながら、失敗した理由と次にどうやったら失敗しなくなるかを考えながら、そのチャーシューを一人で食べる夜もあった。

 あの頃は家の事と店の事が俺の全てだった。雑念や曇りがなく澄んだ感覚。色々あったけど、今となりゃ他の家よりも幸せだったんじゃないかと思ってる。

 だけどある日ね。あれは小4の時に同級生の小城って奴が、
「望月君って大変だよね。まぁだ小学生だって言うのに、お家の手伝いさせられてさ。ラーメン屋の息子に生まれただけで、子供の自由を取られちゃたまんないと思うわ。なぁみんなもそう思わない?」
って言いやがった。これにはビックリしたよ。俺は幸せなつもりだった筈なのに、ソレを根底から否定されるなんて思ってもいなかった。

 それから俺はしばらく幸せの基準っていうものが分からなくなっちゃったんだよね。

 俺はそれから家の手伝いをするのが、正解なのか間違いなのかもわかんなくなっちゃった。昔からの友達は、
「そんな事ねーって、気にすんな!お前の父さんが作るラーメンすげえ旨いじゃん」
って言ってくれた。でもその頃の俺はそういった優しい言葉でも、侮辱を含んだ慰めという感じでしか受け止められなくなっていったんだ。
「そんな事言いながら、ウチの事馬鹿にしてんだろ。俺ん家の事、ダセーって言って陰で皆笑ってんだろ」

 親友だった筈の奴に突っかかっていく度、友達も少なくなっていった。ガキな上に馬鹿だったから、俺は現状が見えず混乱を重ねた。それは更に俺を孤立化させる事に見事に直結する。あの心が一粒ずつ一粒ずつ日を追うごとに、失われていく感覚は今でもあまり思い出したくないな。
 
 それと比例する様に、両親との確執も広がっていく。次第に俺は親の事を憎む気持ちと、愛する二つの気持ちに苛まれ、なんか変な気持ちの悪いもやもやとした感情に、常に精神を不安定な状態にさせられた。

 でもそんな俺との確執のいっさいを無視するかの様に、勤勉にかつ粛々と、親父はラーメンに打ちこんでいく。毎朝豚骨を長時間炊く姿を、睨む様に見ていたのを今でも覚えてる。人を憎む事で心が歪んでいってたんだと思う、辛く哀しい時期だった。

 中学校にあがる頃には、俺は店の手伝いどころか、家族とのコミュニケーションすら無くなっていた。親父は毅然と、お前なんか居ても居なくても一緒だというような態度を取り続けたが、それが俺を更にイラつかせた。本当は俺は手伝えと怒って欲しかったのかも知れない。そう当時の俺としてはもし大変なのであれば、頼って貰いたかったんだ。勝手だよね。

 そんな感情で家には居たくなかったから、学校から帰ったら、俺は速攻で遊びに出かけて行く様になる。しかもクラスでも普通の生徒が、避けて通る様なガラの悪い連中に積極的に話しかけ、友達になって貰うように努めるダサい時期もあった。でも俺は自分で不良になろうと思った訳じゃない。彼らであれば俺の愚痴や、俺の親に対する不満等に賛同してくれる奴が居るんじゃないかと思っただけなんだ。

 そんな時に、俺の話をよく話を聞いてくれる奴に出会った。篤田稔という奴で俺とは一個違い、彼の方が年上で先輩だけどね。稔君はなんて言えばいいのかわかんないけど、兎に角凄い人。ヤンキーって訳でもないし、スケーターだし、実家は寺だし、勉強はクソみたいに出来るし、その上で滅茶苦茶面白いし、なんか常人離れした万能感のあるヤバい人だった。彼にスケートボードを教えてもらったりして、俺は家のある山から下におりた隣町で、彼が創立したチームに入れて貰い、次第によくそこに通う事になる。

 稔君は実家が寺だと言う事もあって、信仰心深く彼が敬愛を込めてブッダと呼ぶ、お釈迦様の教えや考え方を話を聞く時が好きだった。なんかキラキラしてたから。何故かそれはラーメン作ってる時の親父と、同じような目をしていたからかも知れない。彼もこれまただいぶ変わった人で、無地のスケートボードにサンスクリット文字を用いて、心経をペイントした事があった。其れはマジックで書き殴るとかじゃなくて、ちゃんとした塗料をホームセンターで買ってきて、下地から全て自分でデザインを構築してペイントしていた。そのボードはすげえカッコ良く、売り物としても成立するんじゃ無かろうかと言える程のクオリティだった。
 まぁ経典書いてるスケボーに乗りたい奴が居るならの話だけどね。

 稔君はベイビーフェイスというか、甘いルックスをしている。そのせいで隠れた女の子のファンが多かったんだけど、ちょっと人がしない事を平然とやってのけるようなマッドネスな振る舞いに、少し一線を置いてる子達が多いというか、それが殆どだったと思う。
 でも此間この事話したら、神聖な経典をボードに描いて、コンクリートの上を滑らせるなんて言語道断。若気の至りで完全なる間違いだから、決して他言しないでくれって言われたのか、果たして言われてないのか、よくわかんない感じだ。
 
「なぁ包太郎、今度の期末テストどうする?対策しておくなら俺が教えるぞ」
テスト前になる度、彼は俺に勉強を教えてくれようしてくれていた。
「稔君。俺に勉強は無理、根が馬鹿だからさ。頑張ったところで意味はないよ。諦めるしかないんだよ」
でも俺はいつも断ろうとする。

「包太郎。其れは認識を間違えている。俺はこの人間に生まれつき、頭の良し悪しってのは俺は無いと思うんだ。大事なのは包太郎のマインド次第なんだよ。包太郎が人生を生きていく上で、知る事と学ぶ事が愉しむ事に出来たら、包太郎の人生が最上に豊かなものになる。だからそれを楽しめば良いだけなんだよ」

「勉強が楽しくなる訳無いじゃん。マインドとかの以前に、基本的に先生共は高圧的だし、嫌味でムカつく奴だらけだ」
「全員がそうって訳でもないだろ。受け手側のお前の精神状態にも左右されるだろうし」
「嫌いなんだよね。アイツらみたいに上からもの言ってくる奴ら」
「包太郎がそう思ってるだけで、いい先生は間違い無く居るって。俺の担任の先生とか楽しくて、俺は好きだけどな」
「稔君は秀才だから、可愛がられてるだけだって。
俺みたいな落第生はゴキブリ見るような目で、見てやがるんだ。差別しやがってアイツら」
「包太郎の方こそ差別してるんじゃないか?先生の事」
「俺は差別なんかしないよ。アイツらと違って心があるからね」
「もうそれが差別じゃん。あと聞いた話じゃ親父さんのあとを継いで、実家のラーメン屋を継ぐつもりだろ?」
「継ぐ訳無えじゃん。親とはずっと仲悪い」
「ガキの時は、よく手伝ってたって聞いたぞ」
「だから友達が出来ずに孤立した。結果として孤独で最悪な少年時代を過ごした」
「最悪かどうかは知らないけどさ。ツレだったら、今なら俺が居るだろ。孤独じゃあねえ筈だぞ」
「……ありがとう。それはホントに嬉しい」
「それから包太郎、もし家を継ぐから勉強しなくて良いんじゃないかと思っているのであれば、それは大きな間違いだぞ。個人経営っていうのが、一番難しいんだからな」
「継がねえっつってんじゃん、マジしつこいぞ!」
「わかったよ。今はしたく無くても、必ずいつかしたくなる日が来るんだ。俺達サピエンスは死ぬまで間にどういう形であれ、学びという所作は続けるべきなんだ。それは包太郎の人生が豊かである為に、やるべき事でもある」
「こないだ稔君が語ってた人類の定義の続き?俺達まだ中学生で、まだガキなんだからもっと簡単な話をした方が良くない?お笑いとか、バンドとか、恋愛とか。そういった難しい話はおっさんとか学者にでもさせとけよ」
って俺が嘆くと稔君はいつも笑顔で、
「俺がしてるのは難しい話じゃなくて、趣深い話なんだよ」
「それがむずいんだって。俺には」
といつも優しく、そして厳しく、稔君に俺は諭されてしまう。

「でも包太郎は家のラーメン屋を継ぐのが、一番手っ取り早いだろ。お前の地元の友達は将来的には継ぐんじゃないかって皆言ってるぞ」
「……。未来の事はわかんねえよ」
「確かにそれは言えるけどな。たまには昔みたいに家の手伝いを…」

 俺はその先を言われたくなく、かき消すかのように、
「お前なんか居なくても変わんねえって言ってんだよ。あの顔が、背中が、だからムカつくんだよ!大変だったら手伝ってくれって言やぁいいじゃん。でも言わねえんだよ。だから手伝わねえんだよ!」
と熱くなって大声で吠えてしまった。

「感情的に熱くなんなよ、包太郎。俺がしたいのは落ち着いた議論だ」
「五月蝿えんだよ、家族でもねえ癖に!」
「ちょっと待てよ包太郎!」

 こういう話を振られると、恥ずかしくってもどかしくて、しどろもどろになっちまう。多分この頃は特に店の手伝いなんか一切してなくて、両親に対する気持ちが、ぐちゃぐちゃになっていたからなんだろうと思う。そういう隠してた気持ちも稔君は、頭いいから見抜いていたのかも知れないな。彼の言う、落ち着いた議論が出来る大人になれるのは、何時になったらなれるんだろうか?

 遊びや娯楽に全てを費やした俺の中学時代が終わる頃、親父が出前帰りに体調を崩した。原因はギックリ腰だったんだけど、大事をとって店は2日営業を休んだ。その時に常連さんが見舞いに来てくれたんだ。俺は常連さんに愛される親父を尊敬する心とその反面、素直になれない自分のモヤモヤとした葛藤に苛まれ、随分と難儀な思いをした記憶がある。

 中学生時代、ろくすっぽ真面目に勉強しなかったもんで、高校はそんなに頭が良いとはお世辞にも言えないような学校に合格した。稔君は坊さんになる為、東京にある大学を目指すってレベルの高い高校に入学した。結果俺達は疎遠になっちまった。俺が通う高校は山を降りた街中の都会にあったので、俺は毎日一時間以上バスにゆられて通学するハメに。

 そこでは地元からの友達があまり居なくて、体力作りと友達が出来ればっていう思いで、バスケットボール部に入部した。中学生の時に体育の時間で、すっごい楽しかったのと、スケボーする機会が減ったから、代わりの楽しみを探してたって事を、入部した事の理由の一つに付け加えておこうかな。
 
 バスケ部に入って思った事があるんだけど、一つのスポーツってのはやるんだったら、マジでガキの頃からやってた方がいいね。絶対小学生時代からやってる奴には勝てないよ。培ってきた基礎の量が違いすぎる。あの漫画の主人公みたいに身体能力が異常だったりとか、身長に恵まれてる奴じゃないとと正直厳しいと思うわ。

 でも監督の粋な計らいで、3年生の頃には試合に出させて貰った。最初、滅茶苦茶緊張したけどスモールフォワードで17分出させて貰って、なんとか8点。だからレイアップ3本とジャンプシュートが一本、決める事が出来たんだ。あとディフェンスは、阿呆みたいに一生懸命に頑張った。相手のオフェンス一本止めても、2点の活躍だからね。あんまりしつこいもんだから、相手が完全に嫌がるのが楽しくなってくるんだよね。その時俺ってSっ気あるのかもと思ったりしたけど、そういう訳でもないみたい。兎にも角にも、バスケットボールは今でも俺が大好きなスポーツの一つだ。

 試合の時は、親父と母ちゃんは店があるので当然応援には来ない。だけど常連さんにネットワークを張っていて、情報が仕入れられるようにしていたようだ。 
 
 最初「部活始めたから、帰り遅くなると思う」と言った時、「そうか」としか返してこなかったから、どうせ俺の事なんか興味ないんだろうな、このラーメン馬鹿はと思ってたんだ。でも母ちゃんは常に優しく俺の練習着やゼッケンユニフォームを洗ってくれて、そしてそれを常に綺麗に畳んで、毎朝忘れずに持っていく様に玄関に置いてくれていた。

 勿論、俺は試合に出れてない事は言ってなかったし、「部活どう?」という母ちゃんの問いにも、俺は「普通」としか答えてはいなかった。でもずっと興味なさそうにしてた親父が、俺が初めて試合で点取った晩に急に呼び止めて、
「おう。わいは今日、試合で点を取ったらしいじゃねか」
と急に話しかけてきた。予想外過ぎる反応に、俺はどう返して良いのかわかんなくなって、脳が完全にバグる。その混乱した脳内からなんとか言葉を絞りだして、
「興味ねえ癖に」
と悪態ついて、その場を後にして逃げる。親父はこの頃、俺に対してコミュニケーションを取ろうとしている時期があった。でも俺が拒んだんだ。

 ある日、学校が午前中だけで部活の練習が急に無くなった日があって、いつもより5時間ぐらい早い夕方前に家に着くと、店が暗い。昼の4時は営業中の筈なのに、何があったんだろうと思って、家に入ると、親父も母ちゃんも横たわっている。俺はなんかあったのかと思い、慌てて起こす。

 だが2人は仮眠をとっていただけだった。母ちゃんが、
「父さんがね、通しでやると体がしんどいから昼の3時からはお客さんも少ないし、7時まではちょっと休もうやって、3ヶ月前からそうしてるの」
と気怠そうに答えた。
「そうなの?親父どっか悪いの?」
と慌てて聞く俺に、
「どっこも悪い所なんか無か」
と面倒臭そうに親父は寝返りを打ちながら答えた。
無力な俺に出来ることは、
「あんま無理せんでね。こないだの事もあるし」
と小さい声をかける事ぐらいだった。


 高校に入って嫌な奴に遭遇した、小城だ。以前俺の家族が不幸せに見えるとかぬかしやがったクソ野郎。何にも知らねえ癖に、人の家族を馬鹿にしやがって、文句の一つでも言ってやろうって思ったんだ。

 商業科だった俺と比べて、奴は頭の良い進学科だったんで、その存在に気付くまでに約半年時間がかかった。初めて遭遇したのは学食の食堂だった。俺はあいつの存在に気づき、怒りにまかせ、その背中を睨みつけていたら異様な点に気がついた。奴の一度背中にうっすらと汚れがついてたんだ。あれって思ってよく見ると、それは足跡の様にも視認できたんだ。

 まさかと思うが、一応俺のバスケ部には進学科もいたんで、小城の状況を内密に探って貰う。結果は俺が望まない形に、彼を取り巻く環境に「虐め的現象」は無い訳では無いらしい。こう言う表現が適切かは判らんけど、小城が受けてる其れの規模はそこまで大きくはなく、3人ぐらいのグループから彼の容姿を揶揄されたりしているらしい。それを聞いて、俺の彼に対する怒りは方向性を見失う。

 容姿を揶揄ってのは少しだけ違うと。確かにアイツ一寸だけ太ってたけどね。俺は学校での昼飯はパンとか弁当が殆どだったんだけど、それから学食にするようにして、毎日小城に話しかけるようにした。それから追撃策として、俺の知ってる友達全員に小城に話しかけるようにお願いした。今思うと、一寸ウザかったかも知れないね。

 でも次第に小城は孤立しなくなり、虐めてた連中も手を引いたらしい。本当はそいつら許したくはなかったんだけど、進学科でそういう事やったら小城が可哀想だし、面倒臭い事になるのは目に見えてたからね。

 学食で俺が「かき揚げご飯うどん」喰ってる時に…、って説明してなきゃ解らないよね。俺の高校の学食で在学中に当時流行ってたのが、かき揚げうどんか蕎麦を頼んで、白ごはんを単品で別に頼むのよ。そんでツユをしっかり染み込ませたかき揚げを、ご飯に乗せて、更に醤油をひと回しかけて七味をぱらり。でかき揚げを崩しながら、飯とかっ喰らう。そして其れ等が喉が詰まらない様に麺と汁を啜る。

 多分これで確か220円ぐらいだった、或いはもっと安かったかも。今思うとマジ暴力的に安いよね。俺の友達は安くて腹一杯になる上に、超旨いこれをみんな喰ってた。あの頃はこれだけでも贅沢だったんだよなぁ。

 ごめんなんの話だったっけ?かき揚げご飯じゃなくて小城の話だわ。横でかき揚げ喰ってる俺に、あいつは小さな声で話しかけてくる。
「俺の知らない色んな奴が、滅茶苦茶話しかけてくるんだけど、あれって望月の差し金?」
「え?分かんなぁい」
俺は通りとかその辺で屯するギャルみたいに返す。

「バスケ部とか吉野の方でスケボー乗ってる奴らとかばっかじゃん。お前の絡みとしか考えられないんだけど」
「え? マージ知らなぁい」
と返しながらも俺の事を知ってくれてた小城に、惚けながらも俺の心は内心グッときていた。そんな俺に小城は言葉の一つ一つを噛み締めるかの様に、あの日の言葉に注釈を付け加えた。

「望月、前にお前に言ったことあっただろ。家のラーメン屋の手伝いばっかさせられて、可哀想みたいに言った事」

 俺は心臓の鼓動が、早くなるのを感じながらも無言で何も語らずにいた。

「あの頃、俺お前が羨ましかったんだよ。俺んち母さんと父さんがその頃仲良くなくて、家じゃ毎日喧嘩ばっか。もう離婚しちまったから、今じゃあんま気にもしてねぇけど」

 その話は知らなかった。そんな事も知らずに此奴の事をクソ野郎と決めつけて、善悪の吟味を辞めてしまっていた。自分の愚かさをまざまざと目の当たりにさせられ、更に言葉を失ってしまう俺に対して小城の奴は続けた。

「こないだラーメン食いにいったんだよお前んち。俺さお前の父さんに両親の離婚と小学生の頃、お前に言った事を話したんだ。もしかしたら包太郎君が変わってしまったのって、僕のせいなのかも知れないんですって言ったら、そんな事どうでも良いから、ラーメン食ってけって優しく言ってくれて。俺さぁその時、お前の父ちゃん凄えカッコいいなって思ったんだよ」
 
 知ってるよ。直向きなところ、目標を異常な所に設定して自分を追い込むところ。それを人生の全てをかけて全力で追い続ける親父がカッコいい事は俺が一番理解している。その憧れから俺は逃げてただけなんだよ、君のせいにして。
 
そして俺は一つだけ尋ねる。
「ラーメン旨かった?」
「滅茶苦茶旨かったよ」
という小城の瞳には謝罪と感謝の混濁した感情が、美しく反映されていた。

 それは良かったじゃんと俺は席を後にする。小城の哀しみと親父の寛大さ、そしてそんな事も梅雨知らず責任転嫁して彼を責める事で、自分の在り方に対する吟味を辞めてしまった自分の愚かさ。其れ等の事を考えると、心が少しだけざわついたので、平穏を取り戻そうとトイレの個室に隠れ、静かに呼吸をして心臓のこの鼓動。
 そのスピードを遅くする事、に暫く専念した。

 バスケは結局3年のインターハイで卒業だった。
 結局のところ俺は3年間の間、スモールフォワードという点取屋みたいなポジション志望で、レギュラーの座は獲得出来なかった。

 正レギュラーには小学からバスケを続けてる小湊って奴が居て、正直言うと俺の目から見ても、小湊の方が良いプレーヤーであるのは俺の目にも瞭然だった。だからジェラシー的な感情は産まれなかったよ。でも監督に望月ずっと頑張ってるから、試合出させてやってくれって、小湊が進言してくれてた事を知った時の方がずっとしんどかったわ。最後のインターハイは、結局県のベスト8にも届かなかったけど最後の試合の後、みんなで写真を撮った。それは今でもスマホやPCに写真を転送して、何時でも見れるようにしてある。
 これも俺の永遠に忘れられない美しい思い出だ。

 部活が終わり夏休みに入った時、稔君から連絡がある。年がひとつ上な彼はもう、東京の聖職者に進む大学に通っていた。今は夏休みで帰って来てるらしい。車の免許取ったから、海までドライブしようぜって話だった。リーバイスをゆったりと履いて、黒いヴァンズのチャッカスウェードに真っ白いTシャツのスタイルはスケーター時代から普遍でかつ、永遠にかっこいい。

 丁度暇してた俺は誘いに乗り、二人で笠沙恵比寿という海が綺麗で有名な港町まで、稔君が俺を乗せて車を走らせてくれた。ずっと続く遠浅のビーチを、海パン一丁で歩きながら、俺達は話した。好きな女優、お互いにイケてると思ってるバンド、また昔みたいにスケボーやりたいよねとか、いつも通り下らない話を沢山した。そして最後に小城の話もした。その話を稔君は黙って聞いてた。俺の話を一旦全部聞いた上で、稔君は暫く考えているように、口数が少し減っていった。

 俺は長年の間に両親の手伝いを辞めて、遊びという甘美な誘惑を知ってしまった。今の状態からガキの頃のように、もう一度戻れと言われると、それを跳ね除ける信念のようなモノも、その時は正直無かったんだ。

 彼が俺の高校卒業後どうするのかを気にしてるのが、俺には手に取るように感じ取れたが故、敢えて無視して、
「稔君大学に行って大人って感じになったね。坊さんになる大学って、どんな事勉強するの?」
とそっちの方へ会話が行かないように、やんわりと会話の舵を取る。稔君はその意図を察したかのように軽く舌打ちして、
「大学では宗教学と哲学と世界史を専攻してるよ。後は休みの日を使って、天文学や人文学みたいなリベラルアーツを中心に勉強してる」
「休みの日まで勉強してんの?稔君大丈夫?」
「まぁ、好きでやってる事だから。趣味みたいなもんだよ」
「勉強が趣味?稔君大丈夫ね?東京行って頭おかしくなった?」
「www.おかしくはなってなってねぇよ。俺は元々自分が知らない事とか、未知なるものを探求する事そのものが、本質的にかつ本能的に好きなんだよ。つい此間まで勉強してた、ウパニシャッド哲学とか超面白かったしな」
「ん、なんそれ?ユタノチャールストン?」
「ウパニシャッド哲学」
「ユタのチャールストン叔父さん?」
「www.覚える気ないだろお前」
「うし。わかった。ユタ州御在住のチャールストン伯父さんのほっこり湯豆腐専門店でしょ?」
「ふざけるなって包太郎。ユタ州みたいな、超アメリカみたいな街で湯豆腐専門店が売れるわけねーだろ。あとウパニシャッド哲学だから」
「うん確かに。そのウパニなんとかは、確かに凄いわ。…名前が」
「ったく。名前かよ?」
 俺達は気がつくと、昔の間柄に戻ってた。

 家に送り届けてくれる頃には、もうすっかり夜になってた。みさきラーメンはピーク帯を超え営業しながら、店の締めの作業を営業と同時進行で進めていく時間帯だ。稔君は別れ際になんか一回言おうとしてやめた。そして、
「応援してるから。頑張れ」
と俺の右肩を優しくパンチして、アクセル踏んで帰って行った。俺はみさきラーメンを営業している両親を見ながら、稔君と話して高揚した心を沈めてから家路についた。

 因みに後の休日に、ウパニシャッド哲学を満喫で調べてみる。でもアーリマンだとブラフマンだとか
マジで意味不明。とにかく訳わかんな過ぎて5分で辞めて、俺はユーチューブで昔のアニメを楽しんだ。訳わかんねーことばっか言いやがって。ブラフマンはバンドだろうが。
 稔君には永遠に内緒にしておこうと思う。

 インターハイが終わると急にする事がなくなる。俺達は商業科だったので、周りに大学受験の準備をしている奴もほぼほぼ居なかった。ほとんどの奴が誕生日が来たら運転免許を取りに行く事と、就職活動でドタバタしてたな。周りはどんな車に乗りたいとか、車メーカーのディーラーから貰ってきた車のパンフレットを、授業中だってのに、読み漁ったりしている奴が殆どだった。俺も免許は取りに行ったけど、車は親父がずっと店の軽バンの営業車に乗ってるもんで、それ以上の車に乗るのは気が引けたし、乗る事をカッコいいとも俺は思わなかった。

 高校卒業した俺は、街中に安いアパートを借りて一人暮らしをしていた。仕事は自動車の板金工場が丁度人が足らないらしく、空いた穴を埋める形でバスケ部の同級生のツテで働かせてもらう事に。

 働き手が足りない理由は、初日から痛感させられた。この仕事はマジでキツい。夏場はクソ暑いし、油まみれになる事もあるし、マジで社長は鬼みたいに怖え。だからなのか知らんけど、給料はまぁまぁ悪くなかった。だから決めたんだけどさ。高卒初任給で総支給25万は結構悪くはねえだろ。休みは週一だったけど、結構頑張ったと思うんだけどな。一生懸命働いたけど丁度一年頃経った頃、社長とケチな事で言い合いになっちまって、俺は辞めちまった。
 まだガキだったんだろうな。

 当時、金の使い方をよく知らなかったもんで、結構貯金っていうか、ただシンプルに手を出してないだけの金が50万ぐらいあったから、それで暫くの間やりくりしながら遊んで暮らした。すると凄まじいスピードで貯蓄は消耗した。1ヶ月も経たない内に俺は慌てて就活を再開する事になった。なんも目的も持たない俺の二回目の就活は、アパートから近いという馬鹿げた条件を最優先に行なわれた。

 さまざまな所を面接で落ちながら、奇跡的にレコード屋の店員に受かった。っていっても最初はバイトだったし、給料も月で13万そこそこ。それじゃ生活していける訳ないんで、其処の仕事が終わった後に、如何わしい店のキャッチとか深夜の工事現場で雑用とかして、なんとかやりくりしながらジリ貧で生活する日々が続く。そんな中、母ちゃんが常にメールでどの辺に住んでるのか?どういう仕事をしているのかとか、矢継ぎ早に質問をかけてきたが、俺はのらりくらりと受け答えを微妙に避けたり、たまには本当の事を答えたりと、なんとも言えないクズ対応を続けた。

 そこで働いてた頃に、スケーターだった頃の友達とか、バスケ部の同級生が来てくれる事が稀にあった。その連中は大学に通ってたり、最初の就職先で頑張ってる奴が多く、当時の俺みたいにふわふわした感じで生きてはいなかった。そういった奴らは俺の状態を見るなり、ちゃんとしろという当然の怒りを向けたが、当時の俺にはそれが鬱陶しかったんだ。気がついたらもう俺は20歳になっていた。

 正直言うと、俺はレコード屋の仕事が性に合ってた。ゆったりと起き、仕事場に行って珈琲を淹れて、古いロックンロールやソウルにレゲエ、初期のパンクロックから80年台のアメリカンハードコアのレコードを小遣いで集め、優雅に生きていた。
 ただし金が続くまではね。

 20歳になった玄担ぎだと、レコード屋の店長の誘いで、彼の友人のライブを見にいく事に。ヤニ臭いクラブから、耳をつん裂くようなヘヴィメタリックロックが、轟音と共に俺の聴覚を蹂躙し、俺は拷問としか思えないような時間を過ごす。

 それに耐えきれず俺は、店長に具合が悪いと嘘をつき、帰ろうとした。だが、
「まてや望月。こいでん飲んで気持ちをあげていかんか〜」
とビールを奢ってくれやがる。煩い音楽でだだ下がりになった気分を改善したく、帰宅したいと言ったつもりなんだが、理解して貰えないようだ。流石に本当の理由は言えないので、店長の機嫌を伺いながらそのビールを無理して流し込む。

 こりゃまるでサラリーマンだなと思いながら。

 この頃の俺はまだ酒を飲むという行為に対して、あまり良くないイメージを持っていた。成人式の時に高校時代の友達グループで行ったら、誰が酒に強いのかという、人生において全く意味を為さない謎の競争に巻き込まれ、そのカルマとして永遠に終わりの見えない、夜中のカラオケボックスのトイレから出られない嘔吐地獄という、最悪なトラウマの思い出があったからだ。

 その後も店長からライブに、付き合わせられる事例は数回続いた。でも実際の所、付き合いというよりかは、彼の仕事の加勢で物販でレコード売らさせられる事が狙いだった様。おまけに給料無しの上にこれが欲しかったんだろといった感じで、一回嫌いって言った筈の生ビールを毎度のように奢ってくれやがる。

 終いには、俺の方が味、覚えちまったよ。

 物販の売上は頑張って、CDアルバムやTシャツなんかを、最低でも一万円以上は売るように言われてたけど、メタルとハードロックが全く興味が持てなかった当時の俺は、その目標すら泣かず飛ばずのクソ結果だった。それが数回続く内に、店長はもうライブ物販事業から撤退しちゃった。だから俺はずっと悪い事したなと思ってたんだ。今だから分かるんだけど、そういったイベントに出店するのもタダじゃないから。

 そのまま俺にぐだぐだと、まとわりつく月日が流れ、気がついたら俺は21歳になっていた。初夏の始まりで、町中が全面塗装されたみたいに、新緑が勃興する青臭い季節。そんな時に最も望まない着信があった。俺の携帯画面はそれをかけて来た相手を篤田稔と表示している。おそらくにして東京から帰ってきて、電話をかけてきているに違いない。俺の現状を彼に見られるのは凄く良くないんだよ。これには困った。

 3回程着信を無視した後で、ビクビク構えながら仕事していると、彼はあっという間に俺の仕事場を抑え、直でおしかけてきた。
「包太郎。3回も電話したぞ」
声のトーンからして、其処まで怒ってないかなぁとケチな予測を立てながら、
「ごめん、忙しくて返せんかった」
理由にならない嘘の返事を返す俺に、
「じゃ仕事終わったら、電話頂戴」

 今日棚卸だから一寸遅くなるかもという、俺の嘘言い訳を薙ぎ払うかの様に、
「何時迄でも待つから」
と言う彼の静かなトーンに、俺に対して怒りの感情が見受けられた。
「わかったよ」
と言うしかない俺の右肩に優しくパンチして、
「久しぶりな」
と昔から見覚えのある一点の曇りもないような、あの笑顔を見せる。この瞬間、篤田稔というこの男は、本当に俺の事を心配してくれていたのが手に取る様に理解できた。俺みたいなダメな中途半端な奴に、ここまで入れ込んでくれるのは多分この人ぐらいなもんだろう。そして、そういう人には隠し事をしてはいけない。そう思った途端、俺は不思議と気持ちがすうと楽になったんだ。

 仕事帰りに電話し、街中の喫茶店で待ち合わせた。俺が入った少し後に稔君は入ってきた。表情が憤怒であっても、安堵であったとしても、そのどちらでなかったとしても、直視する勇気を持ち合わせおらず、俺はただ俯いていた。彼よりも早く此処に来れたのが、運が良かったのかも知れないと思える程に。

「レコード屋の仕事って、結構遅いんだね」

 声のトーンから、稔君のフラットな精神状態が伺える。
「始まりが遅いからね。前やってた板金の仕事は8時出社だったけど、彼処は10時からだもん。それにも増して今日は棚卸だったし、それしてからの閉店作業ってなれば、これぐらいの時間にはなっちゃうかな」
 此処で俺は一つ嘘をついている。棚卸は一昨日で、俺は1時間程、時間調整してからこの店来ている。現在時刻は23時をまわっていた。そんな事も気にかけず、稔君は俺の目をじっと見ると、
「月で幾らぐらい貰ってるの?」
と割と普通の事を尋ねてきた。
「最近ちょっと上げて貰って、手取りで15から良い時で16って感じっすかね」
当然俺も聞かれた事を、ただただ答える。
「それで生活は出来てるの?」
「ヤバイす。www,ほんっと、ギリギリです」
「だろうと思うわ。独り暮らししてるって聞いたけど、家賃とかライフラインとか食費とかも含めて、どうしてるの?」
「…うん。だからさっき言った通り、マジでヤバいっすよ。ガチの時は深夜の現場とか、客引きみたいな事やって、なんとかかんとか生きてます」
俺は聞かれた事を、ただ淡々と答えた。

 その返答に寄り沿うように、稔君は静かだった。代わりに彼の近況を語り教えてくれた。5日前に東京の大学を卒業して帰ってきたらしい。それはつまり僧侶になる資格を、取得して帰ってきたという事を意味する。その日の彼は俺の知っていた以前の稔君と比べ、随分と変わってしまったように俺には見えた。
 静かな彼の中に、俺に対する優しい怒りをずっと感じていた。彼にちゃんと話さなくてはいけない事が俺にはある。
「こないだ海に行ったじゃん、笠沙だったっけ?」
と言うと稔君は嬉しそうに、
「懐かしいね、吹上の先の方な。彼処の海、凄え綺麗だったよな」
とこの話に対して、凄い良いリアクションをしてくれた。俺は此処しか無いと思い、あの夜の真相を打ち明ける。
「稔君、正直に話する」
というまぁまぁ古典的な語り口で俺は話だした。

「あの日。って言うかその前から、俺はずっとずっと俺は人生をどうするべきか考えてた。ほんとうに自分にとってやるべき事を、俺なりに一生懸命考えた。色々考えたけども、どうせ働くんだったらやっぱ親父みたいにラーメン職人の道が良いと思えたんだ。それは純粋な気持ちでね。そして稔君とと海に行ったあの夜、家の手伝いをまた始めたんだよ、俺なりにね。そしたら親父が、急に『お前何してんだ』っていきなりキレ出してさ」
 気持ちが昂って、上手く話せない俺を誘導する様な優しいオーラを、稔君から一瞬だけど感じる事ができた。それに導かれる様に、俺は思いのままを、話す。

「親父が言うわけよ。小学の頃から、ずっと店の手伝いをしてきていて、それでそのまま店の跡継がさせて欲しい。これはわかる、筋も通っとる。でもお前はやれ、中学入ったらスケートボードに手ェ出したり、やれ高校入ったらバスケットボールに手ェ出したり。遊び呆け。ほいでそれが終わったら、就職はしたくねえ、進学もしたくなか。挙げ句ん果てには、俺に跡次いでやろうかときっさまえやがる。わいは俺と母さんの闘いの日々を馬鹿にしちょっとや。それともこん仕事を舐めよっとかって」

 俺は語りながら、自分の言葉が熱を帯び、そして震えてるのを、明確に感じていた。稔君は腕組みして俯いたまま静かに、そして真剣に俺の言葉を、噛み締めるように聞いてくれていた。
「本当に継がせて貰いたい言う気持ちがあるんやったら、他の店行って、修行積んで帰って来るぐらいの事はせえや。それが最低限の譲歩じゃ。って言われちゃってさ…」

 窓から外を見る稔君の横顔の頬骨の強張りから、心情がうかがえるような、全然見えないような、俺にはよくわからない感じだ。

「でもスケボーやってなけりゃ、俺との出会いもなかったもんな」
 ちいさい声で呟く、彼にも決してポジティブな話なんかでは無い。暫く俺達には無言の時間が続いた。俺は言葉を失い俯いていた。俺たちの間を無言の重圧がおしかかり、俺は思わず、『むぎゅう』と言ってしまいそうだった。言ってはないけどね。

「おっしゃ。そしたらラーメンでも食いにいっかぁ」
あっけらかんと、蓄積された空気の重圧を撃ち祓うかの様に稔君は立ち上がって言った。
 
 それを聞いた時、俺の心は否応なしに高鳴ってしまった。実は俺は親父に怒鳴られて以来、ラーメンそのものを避けてたんだ。というかそもそも俺は自分の家以外のラーメン店には、入った事もなかったんだ。

 もう夜中だったので開いてる店も少ないから、稔君が東京でよく食べてた「無双布武ラーメン」だったらまだやってるかもねって事で、俺達は其所に足を向けた。俺的にはそんな頭のバグった暴走族みたいな名前のラーメン屋、本当に美味いのかと半信半疑だった筈だったのだが。

 正直入って驚いた。まず店内が明るくてすごく清潔なこと。みさきラーメンが汚いって訳じゃないよ。でも其処はなんというかコンビニに入ったような真っ白い清潔さがあったんだ。当時はまだチェーン系のラーメン屋自体珍しかったから、そういった文化に不慣れだったな俺は、店内は明るいPOP等や掲示されているテレビタレントの宣伝ポスターなんかに、なんか不思議とワクワクする気持ちにさせられた。

 食券で購入するシステムも、俺的には画期的だった。たまに母ちゃんが金が合わんって頭を抱えて事があったんだよなぁ。俺はまるでいきなり都会に連れてこられたその文化を知らない異国人みたいに、あんまり俺がキョロキョロしながら店内を見回すもんで、稔君に笑いを堪えながら恥ずかしいから辞めてくれと言われる事で、正気に戻り俺は席に着く。

 勿論ラーメンも驚異的だった。こってりとあっさりと選べるスープでどっちも美味いけど、こってりの方が主流らしい。ラーメンが俺達のテーブルに来た時、凄い驚いたのはスープがなんかドロドロしていた事。レンゲで掬ってそれを飲むと、兎に角凄え旨い!

 何で出汁を取ってるのかもわからないような、ドロドロの激旨スープに、小麦の風味が強い太麺がなんとも言えないぐらいにマッチしている。気がついたら俺はスープまで完全に完食していた。満足と驚きの多い一皿だった。

 そしてスープを飲み干したどんぶりの底に、
「ありがとう、と思います!」
と比較的大きめに記載されていた。俺は、
「普通そこは、ありがとうございますじゃないの?」
って純然たる気持ちで疑問に思った。
 
 まぁ何はともあれ、俺は一夜にしてこのラーメンのファンになった。なんというか親近感を感じたんだ。ラーメンの器がみさきラーメンと似ていたから。器にあの「顔面鱗剥がされ龍」が居たから。

【顔面鱗剥がされ龍の物語】

【龍の身体の色は基本的に緑。でもあれは皮膚の色じゃなく、鱗の色なんだ。そのせいもあって赤く描かれる西洋文化とは違い、中華の文化を色濃く影響を受けている東アジア区域では、ボディの部分を緑色に描かれる傾向が高い。

 でも魚と一緒で鱗は当然剥がれるし、塩素漂白を施す事で表面上の汚れに加え生臭さも取れる。その工程の後に、紙やすりやコンパウンドで研磨作業を重ねる事で、強度性に優れた淡いグリーンのダイアモンドの様な輝きを持つ、ギターピックの様な形状の美しい物質になる。貴金属買取店に持っていったら、1枚で大体7千円ぐらいで買い取ってくれるっていうこれは俺が作った仮想現実の話ね。

 そこの世界に昔、勇者って言う奴が、龍を見つけて鱗剥いでソレを売っては、その鱗の剥いだ後の龍を要らねーつって、路地裏にポイ捨てして悪どい稼ぎを重ねていた。そいつが後輩連れて、
「オイ、飲み行くぞ。今日は俺の奢りだ」
って息巻く土曜の夜に惨事は起こる。

 繁華街の端に、稼ぎの低い労働者階級の龍が仕事終わりに、
「寒ぅ、今日もしんどかった。疲れたわ…」
って感じで家路に着く途中に、その勇者に見つかっちゃったから困ったもんだ。そいつは無慈悲にも、その龍の顔の部分だけ鱗を添いで、非加工のまま貴金属屋に持って行って、割安で換金化してその金握りしめて大笑いしながら、後輩を連れて繁華街へ消えていく。

 その龍は顔の鱗剥がされた箇所が、ピンク色に腫れあがってしまって
「痛いよう。痛いよう」
と泣きながら、薬局行ってニベア買って顔に塗って痛みを耐え凌いだが、二度と鱗が生えてくる事はなかった。その後なんかいい感じに、ラーメンの器に張り付いたって言う、俺が幼少期に作った凄く可哀想な龍の創作話】

 因みにこの話、人前でしたら変な目で見られる様になるから絶対すんなって、母ちゃんから怒られたような怒られてないような、今となってはよくわからない感じだ。

 だいぶ話飛び過ぎたようだ、俺の悪い癖。当時は、まだ今ほどネットがそれ程近い存在じゃなくて、そういう時は漫画喫茶に行ってネット検索していた。その時もいつもと変わらず漫画喫茶で「無双布武ラーメン」で検索する。
 
 俺が知らなかっただけで、全国に進出しているマジで凄い企業だった。あの謎のドロドロスープのベースを検索すると、鶏ガラをベースに野菜を煮込んで作るらしい。どうやって作ってるんだろう。あのドロドロした成分は何なんだろう?どうやったら全国に出店して、全ての店で同じ味が提供できるんだろう。俺の脳内は無双布武ラーメンで一色になってしまう。

「そんなに気になるんだったら、行ってみればいいじゃん。修行」

 稔君はそんな俺の気持ちも顧みず、サラッと半笑いで言う。ホームページには採用募集のページがあり、中途の採用もしていた。面接試験は本社がある兵庫県西宮市というところにあるらしいが、マジでビビるぐらい遠い。

 それでも俺の心に産まれた「いっちょやってみっか」という、恐怖心と高揚感のハイブリッド型心情を胸に、その日のうちにレコード屋の店長に事情を話し、その日の限りで辞めさして貰う。彼とはライブのイベントを任されたり、結構信頼して仕事させて貰える優しい方だったので、俺も随分と辛かった。

 翌日アパートを引き払い、所有物の売れるものを全て換金化して貯金と合わせ、俺の所有金は10万ポッチだった。それじゃ足らんだろつって、稔君が無金利で10万を更に貸してくれた。

「稔君ありがとう。これから坊さんになる大事な時期だってのに、こんな貴重な金」
「大した事ねぇよ。俺大学時代ずっとバイトして貯金があるから。それにちょいとやる事あるから、すぐには家は継がない。もう少し親父も現役でいるつもりだし、二、三年は好きな事やらせて貰うっての約束もあるしね」
「え、何するの?」
「言ってなかったっけ?ニューヨーク行くんだよ俺。実は切符もう買ってるんだ。英語を覚えようと思ってさ。大学時代ずっと英会話教室は通ってたんだよ。でもネイティブの言葉で慣らしたいっていうのがあってな」
「ニューヨーク?」
「うん。ガキの頃からの夢なんだよ」
「それは知ってるよ。ビースティとかラモーンズとかよく聴いてたもんね。ニューヨークかぁ、遠いねぇ。とりあえず家賃めちゃくちゃ高そうだけど破産しない?」
「いやマジで、それなんだよ!ネットで調べたけど、俺の想像を遥かに超えたわ。だからバックパッカー向けのシェアハウスにマンスリーで借りることにした。それでもバカみたいに高いんだ。だからあっちに行ったら、本気速攻で仕事探さんと俺マジで餓死する可能性あるね」

 こんなこと笑いながら話す稔君は、常に俺の範疇に収まらない男だ。この時も勿論、今も現在進行形で俺のずっと先の方にいる感じなんだよね。

 最後に稔君は噛み締めるように、希望を託す。
「だからこそ包太郎が飛び立つ姿が見えたのは、俺には嬉しいんだよ」
彼が居なければ俺はもっと長い間、燻ってたんだろう。多分今の生活は無かったかも知れない。
「親父さんには、俺から包太郎が飛立った事は言っとくから」

「え?」 
それを聞いた時、俺は本当に「え?」ってなった。もう聞いたよね、ごめん。

 でも本当の所、俺はこの時すっげえ動揺しまくってて、脳がまともに稼働してなかったんだと思う。ウチの親父と稔君が繋がってるっていう現象への流れの推測が全く出来ない。
「www.だよね説明せんとわからんよね。あの人が説明する訳ないし。あの後お前の家つまり『みさきラーメン』に行って親父さんに会いに行ったんだわ。包太郎君がスケボーやってた時、一緒に遊んで貰ってた者です。包太郎は僕が責任持って、良い店で修業する様に彼を先導しますってさwww.」
「〜マジでか!俺ですら随分家に帰って無かったのに?」
「うん。だから気にしないで、旅と修行を楽しんでこい!」
 篤田稔という男は昔から、人間のスケールが壮大というか未知数というか、それらがよくわからない感じだったんだよ。俺は彼の掌で踊ってただけかも知れない、でも稔君の掌だったら一生踊っててもいいかもね。
 
            
 格安だったLCCの航空券で関西空港につき、それから電車に揺られ2時間ぐらいローカル線を乗り継ぎ、俺は西宮市に着いた。道中目を覆いたくなる程、眩しいまでの大都会に目を回しながらも、俺はなんとか電車を乗り継いで、無双布武ラーメンの総本山、本社に到着した。
 
 ラーメン屋の2階が事務所になっているのかと思いきや、普通にドラマに出てくる様な大企業の事務所だったので少し、いやかなりビビる。俺は受からなかったらどうしようという不安が募り、トイレで稔君に貰ったお下がりのスーツの丈を必死に揃えた。

 心臓が口から出るんじゃないかとか言って、実際は出ないぐらい、緊張して面接に挑んだ。面接官は思いの外、優しい口調だったので緊張が解け、自分のやりたい事を素直に伝えることが出来た。ただし実家がラーメン屋をやっていて、そこを継ぐために修行する事が本当の目的、という事を伝えるのは宜しく無いのではと思い敢えて伏せた。結果が出るまで稔君の指示に従い、周辺のゲストハウスに寝泊まりしながら、周辺を散策するという予定通り、俺はチェックインを済ませる。

 そのゲストハウスは超破格で一泊2千円だった。今まで実家の味しか知らなかった俺は、無双布武ラーメンを食べてから、他のラーメン屋も勉強しとかないといけないと思ってたので、此処を拠点に関西方面の有名なラーメン店を勉強するべく、周辺の情報を入手する為にゲストハウスのリビングルームでラーメンに関する情報誌を見ていた。

 その最中に俺は見知らぬ2人の外国人に声をかけられる。一人は短髪で体格の良い30代ぐらいの男性で、モスグリーンのポロシャツの袖からゴツいライオンのタトゥーが見えている。ガタイも良いせいもあって少し怖いが、聖者の如き笑顔なので恐らく敵意は無いのだろう。もう一人は20歳なるかならんかぐらいの若僧、まあ俺と変わらんぐらいのヒョロッとした奴で、焦茶色の天然パーマが特徴のガキという二人組だった。

 天パのガキが、凄い早口の英語で話してきたので、俺が意味が解らず、凝固していると体格の良い方が、
「ラーメン、オスキナンデスカ?」
と訳してくれる。見た目の迫力に最初ビビったけど悪い奴では無いようだ。超絶的にカタコトだが時間をかけて、よく聞けばボディランゲージを交えて真剣に語りかけてくるすごく感じの良い奴。

 ゴツい方の彼はショーンというらしい。歳は35才でアイリッシュビールの名の知れた会社の営業マン。俺は営業でタトゥー大丈夫なのかと思ったが、怒ったら怖そうなので聞くのは辞退した。

 もう一人の最初に早口の英語で、話しかけたコイツはパブロっていうドイツ生まれの天パの奴、コイツはショーンと違って、全く日本語が喋れないようだ。せかせかした性格で、早口の英語でショーンに話しかけた事を、彼が丁寧にカタコトに変換して話してくれる。

 かくいう俺も、普通だったら忙しいのでと逃げる所だが、面接の合否を待つ約2週間ぐらいの間、間違い無く暇。が確定してる上に、俺も見知らぬ都会で、仲間が居るなら木片であったとしても嬉しい。日本人が居たら、話しかける予定だったのだが、想定外の出逢いに驚き、そして感動した。それから真剣に考えると、友達とはいえ流石に木片は無理だな。俺は考えて発言した方がいい。

 二人の来日の目的を聞いてさらに俺は驚いた。二人の白人の来日目的はラーメンそのものだった。

 ショーンは生まれ育ったダブリンの一等地に、会社が新しいショッピングモールを作るらしく、それに日本の大手のチェーン系ラーメン企業を取り込もうと提案営業する為、ビジネスを目的として来日。

 かたやパブロは、フランクフルトにある実家の倉庫を改造して、そこに自分の店を持とうと思って修行先を探しているらしく、このゲストハウスで二人は出逢い意気投合したらしい。俺が知らない間にラーメンっていう食べ物は世界に進出していたんだ。この事を親父が聞いたら、どう思うだろうと
胸がドキドキした。

 この二人の間柄、パワーバランス的には圧倒的にショーンが上、年が全然上だしね。パブロは彼の行動力に、無策で付いて行ってるという感じだ。剛腕のショーンは気前が良い。

 いや良過ぎるんだよ、こっちが黙ってたら缶ビール一本でも奢ろうとしてくるぐらいだ。
「ケイヒデ、オトス、No problem.」
を事あるごとにもの言う。まるで、このタイトルの往年のヒット曲でもあるんじゃないかと思える程に。
 
 ショーンは金銭的な面でも当然、パブロを世話しているようだ。そして俺も日が経つにつれ、それに恥ずかしくも甘んじる形に。ショーンの所属している会社は、この男に全幅の信頼を寄せているらしい。随分とイカれた会社だと思う。

 俺が無双布武ラーメンで入社試験の面接を受けて、結果待ちの今の状況を話すと、ショーンはso cool!と両の親指を天に突き上げ、奥ゆかしい我ら日本人は決してとらない、例のあのダサいポーズをとった。

 彼の来日目的は、ショッピングモールに無双布武ラーメンへ出店交渉するのが目的。商談事態がそもそも双方ウィンウィンの物だし、商談中も雰囲気良い感じでショーンの手応えでは間違いなさそうだ。デカい商談を決め、このアイルランド人は気分がこの上なく良い。金なら俺が持ってるから3人でこの辺りのラーメンの名店巡りをしようかと言いだす。
 
 こんなうまい話人生で一回有るか無いかぐらいだろ、まさしく奇跡だ。当然俺はこの話に乗っかる。そして此処にアイルランド人とドイツ人と鹿児島人という、奇妙なラーメン冒険隊がその夜、結成された。

 ゲストハウスで契りを交わした俺達は、無双布武の合否を待つ間、3人で何店もの関西方面で名の通ってるラーメン屋を探検、訪問、爆食いしまくった。

 神戸の「もっこす太郎」尼崎の「ピッグスター」、大阪城近くの「かみまち」西長堀の「中華そばカドタ食堂」京都の「猪児」「極みの鶏」等あげたらキリが無い、何件も何件もまわった。昼はラーメンで夜は早い時間から居酒屋に行って、翌日の丑の刻まで飲んで最後はまたラーメンで締めると言う、健康的生活とは真逆の不健康道を、マッドマックスばりに爆走する日々を過ごした。

 彼等との生活で気づいた事がある。彼奴らはマジで酒が強い。そりゃ俺だって、ヨーロッパ人が全員もれなく強いって訳じゃない事ぐらいわかるけども。

 ショーンは外出の際、常にハリントンジャケットの内ポケットに、アイリッシュウィスキーをストレートでぶち込んだスキットルを忍ばせており、気分が良くなると路上でもそれを煽る。映画だと良くあるシーンだが、こんな奴、肉眼で見たのは初めてだったので、ただただひくぐらいの事しか俺には出来なかった。

 続いてのパブロはビールしか飲まない。だが量がヤバい。一回飲み放題の居酒屋で自分の為にピッチャーで頼み出した時はマジで、
「なんだコイツ〜」
て思った。
一体なんなんだよ、こいつら。
二人とも、うわばみがひくぐらい呑みやがる。

 俺は合わせて飲んでると、最後のラーメンが食えなくなる事があって、それはまずいなと思って上手く抑えて飲む様に努めた。ショーンとパブロと連む様になってから、9日経った午前10時に俺は無双布武ラーメンに内定の電話が来た事が、随分と騒がしく、最高に楽しかったトリオの終わりを告げる。

 俺は二人に真っ先に合格の事を伝えたら、パブロは俺に抱きついてきた。俺達は10日間に国境を越え親密な間柄になっていた。腕にあるライオンのタ
トゥーが、イカつ過ぎるこのアイルランド人は、
「キョウ、ハ、ホウタロウ、ノ、マツリデス」
とおおらかに笑いながら言った。
 俺は如何様に祭りあげられるのでしょうか?

 3人で居酒屋行ったり、クラブ行って馬鹿な踊りをしたり、随分バカやったあの夜。このアイルランド人は、一体幾ら使ったんだろう?ケラケラと笑いながら、異国の地で武勲を立てられるかも定かでは無い若輩者2人に躊躇いも無く、多額の出資をしてくれた。

 俺はあの3人で騒いだ、ゲストハウスの10日間を死ぬまで忘れないと思う。粛々とメールアドレスの交換だけ済ませて、この奇妙な多国籍トリオは、この日を以て解散することになった。翌日朝、俺はまたサイズの合わないスーツに袖を通し、ゲストハウスを後にした。最後に3人で飲む珈琲は感慨深く、目頭が熱くなるものを感じたが、一応クールに装った。この頃の俺はまだ若い。
 勿論今思ったらの話だけどね。
 
 無双布武ラーメンの人事課を尋ねると、キビキビとした無表情の女性に言われるがまま、色々な契約書を書かされた。書類が多すぎて何の書類なのかも、よくわからない物も多くあったが、まあ書けばいいんだろうと思い、言われるがまま、なすがまま俺は記入した。

 全て書き終えた後、色々な説明をされたが正直難しい言葉を乱用するもので、聞き返すのが面倒になった俺は、そのほぼほぼを聞き流した。

 但し、
「望月さんの勤務先は、広島の流川店になりますので、早急に移動しておいて下さいね」
と言う彼女の発言には流石の俺も、
「マジっすか?」
と聞き返したのだが。

 新幹線で広島市まで移動、領収書を専用の書式に貼り付けて本社に送れば、給与に上乗せする形でその代金を振り込む。但しその領収書がない場合、天変地異が起きても絶対に支払いはされない。だから死んでもなくすな的な事を、あくまでも事務的にかつ無表情で淡々と話すこの女に些細な恐怖心を抱きながら、俺は事務所を出てまたローカル線で大都会を梅田大阪駅まで。

 俺はそれ以降、今後の生活が急に怖くなったのか凄くケチになった。駅内の100均ショップにて小さな電車代の領収書を無くさない様に、管理する為のファイルを購入する。このファイルごと紛失するなんて事はねーよな。なんて考えながら新幹線で2時間書類整理したり、買っておいたジャンプを読んだりしている間に、新幹線は広島市に着いた。駅から川沿いを歩いて30分程歩いた所の、繁華街のド真ん中に無双布武ラーメン流川店はあった。

 丁度ランチの時間が終わって、営業を休んでいる時間帯だった。話はしやすいかもなと思ってリラックスして、戸を開けて入ろうとする。停止状態の自動ドアをこじ開け入ると、中は薄暗く奥の厨房から人の話し声と作業音が聞こえる。どうやら人はいるようだ、俺の事は聞いてもいないのかと思うと、少し怒りの感情も混じってきた。
「すいませーん、新入社員の望月と申しまーす」
と大声で呼ぶと20代後半だろうか、女性が出てきたので要件を話す。
「てーんちょー」
と呼びながら、中に入っていった。すると代わりにショートカットのもっと若い女が出てきた。余りにも若いので、またこの人も学生のバイトかなんかと思った。

「そういえば虎聞さんから言われとったわ。ごめんなさいね」
その女は面倒臭そうに言い、はい。と鍵とアパートの住所が記載された小さな紙を渡された。いやそれだけ?と思って、大体どの辺りの場所なのか聞いてみると、
「ちょっとそこは自分で調べて下さいよ。それアタシの仕事と違いますわ」
と冷淡にあしらわれる。なんか嫌な女だなと思うが怒りを抑え、わかりましたと言う俺に、
「今日明日で身支度揃えて、明後日朝9時出社してくださいね。上長が対応致しまーす」
と突き慳貪に言い放ち、俺は追い出されるように扉をバタンと閉められる。
 一体なんなんだこの嫌な女は。

 そのマンションの場所へはコンビニで場所を、数件尋ねて俺はやっと辿り着いた。重たい荷物を持って結構歩いたんで正直疲労困憊だったが、生活水準の確保と確認は絶対しないといけない。先ずは其れを最優先する。いわゆるライフラインは確保されていたが、逆にそれ以外のものは一切無かった。色々諦めた俺はシャワーを浴びて楽な格好に着替え、床に寝転がってるうちにその日は眠りについていた。

 翌日はそのせいもあって、まぁまぁ早起きだった。カラスの鳴き声が古弾する、早朝の繁華街を歩くとなんとも言えない孤独感を感じた。だがコインランドリーで洗濯物を突っ込んで回す間、コンビニでパンと珈琲を買って、公園でゆっくりしていると俺を照らす太陽が、不安だった背中を不思議と後押ししてくれるような不思議な錯覚を俺は確かに感じたんだ。

 街中を回って、安価な敷きと掛けの二つの布団と枕を購入した。それ以外の必要な物はあとから購入しよう、なにぶん金が無かった。その日は広島と言えばお好み焼きだろと思い、「へんくつおじさん」という少し変わったユニークな名前の店に入って、一番オーソドックスらしい「そば肉玉入り」を注文。俺も地元で今まで広島風お好み焼きは食べた事ぐらいあった。しかし俺が今まで食べてきていた其れとは圧倒的な違いがあったんだ。

 それは調理の過程で、麺を実際に茹でる工程が組み込まれていた事だった。加熱された鉄板の上で、生地や麺の焼ける音と、ソースが焦げる音と匂いに心躍らせながら飲むビールは格別だった。お好み焼きを食べやすいサイズにヘラでカットして口に運ぶ。やっぱり予想以上に美味い。香ばしいソースの匂いも良いのだが、特筆すべきはやはり麺の食感だ。表面のカリカリしたスナックの様な食感と、麺そのもののもっちり感が混合した様な食感。俺が今までずっと食べた広島風お好み焼きより、ずっと美味かった事に感動した。
 
 翌日はボーッとして過ごしたが、昼からは出かけてビートルズの曲名を店の名前にした、雰囲気のいい感じの喫茶店で珈琲を飲んだりして過ごした。それから弁当とビールを買って部屋に戻り、それらを平らげると不思議と寂しい心持ちに、俺の脳内に両親の事が過る。ずっと実家を離れてからも母ちゃんはメールをくれていた。今日は店は忙しかったとか暇だったとか、お父さんはどうだったとか、最近足が良くないとか、ほんの些細な事でもメールをくれていた。そのおかげもあり、俺は実家の状況を遠くにいながらも認識する事が出来ていた。真摯にメールを送り続けてくれた母ちゃんの心には本当に感謝したい。

 でも久しぶりに電話すると忙しそうに、生きてるんだったらそれで良いって一方的に電話を切られる。俺は多分電話するタイミングを間違えたんだろうと思う。なんかその間のずれた感じが少し俺と母ちゃんっぽいなと思って、正直心がほっこりした。

 テレビも何も無い静かな部屋の中で、買ったばかりの安物の布団に入ると、近いからなのか俺の部屋が静か過ぎなのか、下の路上から呑み騒ぐ若者の怒号のような叫び声が聴こえた。この薄っぺらい静寂を掻き消すような離れた若者の喧騒が聞こえる中、俺は見知らぬ土地でやっていけるのか。とか一昨日鍵を預かった性格のキツそうな小さい女とは上手くやれるのだろうか。とか考えるうちに気づいたら俺は眠りについていた。

 携帯のアラームは7時にセットしたはずなのに、目覚めたのは早朝5時半頃とスーパーに早起きだった。こういう時無理に横になったところで、再び眠りにはつけないことを、俺は昔から良く知っている。小学生の頃からよくある現象だから気にも止めず、朝飯を求めて性懲りもなく早朝の繁華街をまたぶらつく。

 繁華街の朝はまだ目覚めて居らず、酔い潰れた若者と、それに狙いをつけたおそらく東南アジア系と思われる女性が口論に近い商談をしていた。
「五月蝿えな」
と思いながら歩いていくと牛丼屋が見えた。ここでいいじゃないか。この頃から早朝には味噌汁付けてくれたりサービスが良くなってる事を、一人暮らし始めた頃から俺は知っていた。味噌汁付き牛飯を食う。安心かつ安定の美味さで俺は腹拵えて一時アパートへ戻る。だが時計を見るとまだ9時まであと2時間もありやがる。満腹感から眠気が再燃し軽く睡眠とろうかとも思ったが、それは非常に危険な香りがするので早めにアパートは出る。9時前までコンビニのイートインで、心から溢れ出す不安を宥めながら過ごした。

 緊張を抑えながら、無双布武での初めての出勤。通電されてないらしく、また重たい自動ドアを手動でこじあげて入ると、あの嫌な女が客席に座ってスマートフォンを眺めてた。
「どうもはじめまして新入社員の望月です、よろしくお願いします」
と俺は元気良く挨拶したつもりだったが、彼女はなんとも言えない熱量の少なさで、
「ちゃんと聞こえてます。担当居てますんで呼びますわ」
と無表情に応えると、奥にスタスタと消えていく。

 イントネーションで、この女が関西圏の人間というのは分かった。相変わらずの冷淡な態度に、やっぱこいつは苦手だと感じる。その女は紺のシングルスーツをサッカーの若き日のジョゼ・モウリーニョ監督を思わせるような着こなしをした清麗な顔立ちの男性を連れてきた。まるでスーツのCMに出るような綺麗な着こなしに、俺は稔君のサイズが合ってないお下がりスーツが恥ずかしくなった。

 でも稔君だったら、そんな事気にするだろうか?きっと彼なら人間の本質は見た目じゃないって言ってくれるような気がする。俺の脳内に稔君が背中を押してくれる様なイメージが瞬間的に沸き起こった。

 俺はもう一度全力で挨拶する。それをこの女は興味なさげに軽く鼻で笑うような素振りをした様に見えた。
「うんいいですね。元気のある挨拶、ありがとうございます。このエリアのスーパーバイザーを務めさせてもらってます。コモンと申します」
とスーツの男は名刺を渡してきた。虎聞拓人と書かれ、役職名はスーパーバイザーと記載されていた。
「で、この子が、この店舗の店長を任されている鳴丘玉美さん。鳴ちゃん宜しくって」
っていうスーツ男の紹介にこの女は、
「店長の鳴丘です。宜しくお願いしまーす」
と感情の全く感じられない挨拶を、外方を向きながらした。

「まぁこんな感じだけど、一応これでもこの辺り。あ、そうだ望月さんは九州の出だから知らないかもね、この辺り山口~広島~岡山県の辺りのいわゆる瀬戸内海側の地区を山陽地区エリアって一般的に呼んでます。そこを当社ではこの山陽エリアを西と東に2分割してエリア管理してるんですよね。
 そしてこの店は東区に該当しますので、そこを管理しているのが僕、虎聞ですね。後で企業としての組織表もお出ししておきます。実は鳴丘店長は山陽地区としても、全国的に見ても、実績トップクラスの凄い店長さんなんです。こんな若いけど凄い人だから、彼女の元で色々と勉強して下さいね〜」
と信じられないような事を言って、虎聞とかいうスカしたイケメンの上司は淡々とした内容を俺に伝えた。

 それとは対照的に鳴丘玉美は外方を向きながら、
「恐悦至極にございまーす」
とボソッと発した。俺がバイトと見間違ったこのチビな女は店長でかつ、やり手らしい。嘘だろと正直思ったが、俺はもう一度宜しくお願いしますと改めて頭を下げた。

 そこで鳴丘玉美とかいう女は、他の仕事があるという事で席を後にした。その後も虎聞さんとの打合わせは続く。その話の中でこの会社の立ち振る舞いとして、俺は二つの道を問われた。一つはこの会社で彼の様に会社員として出世していく事を目指して働くか、もしくは経営のノウハウを学び、最終的に自立して独立するのが目的なのかを問われる。俺は後者の目的は許されないだろうという小さな思い違いをしていた。だから面接でも言わなかったのに、俺は正直に実家の事や将来的に地元に帰って、親父の店を継ぎたいという本当の希望を語った。

「鳴ちゃんこの子も鳴ちゃんと一緒。独立希望だってー」

 虎聞さんの素っ頓狂な語りかけを聞いた時、鳴丘玉美は初めて俺の目を見た。

「あ、そなんですねー」
と真顔でかつ、単調に放たれる言葉の裏側に、どういう意図や感情で喋っているのだろうと思い、俺は奇妙で不気味な心持ちにさせられた。

「えっと、望月君はLINEってやってる?今当社はね、店舗でグループラインを作って貰って、その中でコミュニティを持って貰おうとしてるのよね」
と尋ねてくる虎聞さんに対し、
「あ、僕未だガラケーなんですよね」
と答えるしかない俺。言い訳じゃないけど、そういった所の生活費は正直ギッチギチに切り詰めていたんだよ。

「あ、そなんだ。それは一寸困りますねー。それだと仕事に支障があります。早急にスマートフォンに変えて貰わないと一寸困りますねー」

 虎聞さんのその冷たい言葉を少し離れた場所で聞いて、鳴丘玉美がふっと鼻で笑う素振りを見せ、俺は顔真っ赤になりそうな気持ちで一杯になる。

「じゃあ俺。他の店舗廻りあるんであと宜しく、望月君しっかり頑張ってね。鳴ちゃん、ちゃんと見たげてね」

 俺の肩をポンポンと叩いて去っていくスカしたイケメン上司に、この女と二人きりだけは勘弁してくれと、頼み込みたい気持ちで一杯だった。
 
 虎聞さんが居なくなったあと、鳴丘玉美はお前なんかにどう思われたところで知った事かよと言った感じで、
「ほんだら、仕事にかかんで。そこに自分の制服置いとるから着替えたら声かけや」
と退屈そうに、静かなトーンで言うと、厨房にスタスタと消えていく。嫌で重い気持ちを抱えて更衣室でユニフォームに着替えてみると、それはオーダーメイドかよってぐらいサイズはぴったりだった。

 俺の最初の仕事は、店外の窓拭きと店舗に面する道路のゴミ取りだった。鳴丘玉美とかいう嫌な女は、辞書の様に分厚いマニュアルブックを机にドンと置き、
「ほんだら。これに書いてある通りに掃除して貰います。自分の考えで勝手な事はしないでください、ここに書いてある通りの事をやるだけなんで超簡単です。アタシ仕込みあるけ、厨房で作業してます。記載してある通りの作業が終わったら報告してください。ほんだら宜しく」
と言うとスタスタ厨房に帰っていった。
 
 そのマニュアルは掃除なんてもんは、適当に履いたり拭いたりすればいいだけのもんだろって思っているあの日の俺みたいな奴を、会社が求める人物像への型に嵌める為のもので、窓拭き一つにしても拭き方の一つ一つの取るべき所作の全てを細かく作り込まれている、クソ細い業務マニュアルだった。今までの俺だったら、間違いなく適当に済ませていただろう。でもそのやり方だとあの女は、絶対文句つけてくるに決まってやがる。其れに対し俺の中で対抗心が芽生え、今までちゃんとやったこともない掃除をマニュアル一文一文を頭に入れ、記載されている様に実行した。

「めっちゃ良いじゃないですか。凄く綺麗になってますねー。ありがとーございまーす」
 
 とその時、この女は比較的薄っぺらい言葉を並べて少しだけ笑った。だがこういう風に笑う事もあるんだと感じる事で、俺の中で此奴に対して切り詰めた対抗心が、少しだけ薄れる感覚を感じたが、

「でもちょっと時間かけすぎですわ。今日の半分の時間で出来る様にならなあかんすねー」
とまた彼女が急に厳しい一面を見せる事で、俺達は何故か少しだけ良い距離感になった様に感じられた。錯覚かも知れないけど。

「店長ご出身関西なんすか?」
「うん大阪やね。2年前此処に来るまでは、ずっと関西。そしたら開店まで、も少し時間あるから、葱の仕込みでもやって貰おうかな。この箱に入ってる葱を切ってこのタッパーに詰めたってな」
とドサッと白葱が一杯入った段ボールとタッパーを置くと、またすうっとに居なくなる。

 俺はこの時、この食材の切り方が正直わからなかった。言い訳って訳じゃないけど、実家の「みさきラーメン」では青ネギと呼ばれるよく味噌汁とか蕎麦に入れたりする細いネギを大体3ミリぐらいの長さでカットしてタッパーに入れ冷蔵保管する。それをお客様に提供する前に、丼の中央部に山盛り状に盛り付けるスタイルだった。因みに青ネギを乗せるという調理工程は親父が絶対するという暗黙のルールでね。

 そういう事もあって、この時点で俺はこの太い白ネギは切った事がなかった。どうしようと思った俺は稔君と行った時の無双布武ラーメンの器の葱がどういう形で丼に配置されていたかを必至に思い出すが、ヤバいぐらい思い出せない。正直言うと先日パブロ達といった店の中に、白髪葱をアホみたいにてんこ盛りにしてた店があって、そこの記憶が異常に強くそれしか思い出す事が出来ない。これには参った。

 とりあえず無双布武ラーメンはその白髪葱じゃ無かった事だけは間違い無い。じゃあ普通に切ればいいだろ。とりあえず実家同様3ミリの長さに切っていく。やってみると思いのほか難しい、だがこういう葱乗せている店あるよねと思って少し気が楽になる。切るネギが3本目に突入する時、鳴丘玉美はなんかの書類を見ながらブツブツ言いながら、俺の作業する厨房に戻ってきた。俺が居る事を完全に忘れてたみたいで、軽くビクッとなる素振りを見せる彼女に、俺も反応してビクッとなってしまう。だがお互いの其れに気づいた俺達は何もなかった様に装った。バツが悪く、俺はその後も作業に集中するフリをして目を逸らしていた。

 油断していた俺の臀部に強烈な痛覚を感じる。
「おいなんやねんこの切り方。何これ?ブツ切りになっとるやん」
 急に蹴られた尻を抑えながら、戸惑っている俺に、
「切り方がわからへんのやったら、聞かなあかんやろ。お前がラーメン屋の息子や言うから、知っとんのかなってこっち思うやんけ?やり方がわからへん時は人に聞かんとあかんのとちゃうんけ?」
と言葉を捲し立てながら、顔を近づけてくる。その迫力に思わず、つい俺は謝罪してしまう。
「簡単に謝罪すんな。貶めよう思ってやっとんちゃうねん。せやのうてわからん時はまず聞いて欲しい。聞かなあかんと思うし。ほら、下の冷蔵庫にもう切ってあるヤツがあんねん。これ見ながら目指して切ればええだけの話。な、聞けばわかる簡単な話や」
と葱がぎっしりと入ってるタッパーを出した。その中には斜めに薄切りされてある葱がギッシリと入っていた。
「もうこの葱は使われへんから持って帰り、ウチではもう使われへんから。食材を無駄にするのは許さへんど。タダじゃないんで。なんや、葱の切り方から知らへんのかいな。知らへんのやったら聞いてくれな困るわ…」
と言って、俺がブツ切りにした葱を袋に入れてくれる。越して来たばかりで、正直俺は鍋一つも持っていないんだけど。

 白ネギを斜め切りしていると、稔君と食いに行った時の無双布武ラーメンの映像が今頃になって思い出される、今思い出してもなぁ。そのうえ落ち着いて周りを見ると、無双布武ラーメンのポスターには斜め切りされた白ネギをフワッとのせたラーメンの画像が写っていた。これ見て切れば良かったじゃねえか。俺の馬鹿。

 それからその斜切りされてある白ネギを見様見真似で切っていく。長さや切る角度に集中するので時間を要した、取り敢えず切ったネギを鳴丘とかいったっけ?あの女に見てもらう。
「ん。まぁえーけど…。とりあえず今からクオリティを5倍、スピードを10倍あげ。じゃなけりゃ仕事にならんわ」

 は?ふざけんな。慣れてないとはいえ、俺なりに一生懸命やったつもりだ。仕事にならんって言うのは言い過ぎだろ、俺は異議を申し立てる。

「だったらその『仕事になるレベル』っていう仕事を見せたる。その葱貸してみ」

 そういうと女は藍色の皮製の包みから、中華包丁を出した。柄の箇所が赤黒い木材で作られており、柄の部分と刃の部分の合間にターコイズが飾られていてすごく綺麗なまるで中世ヨーロッパ調のような中華包丁だった。それで俺が渡した白ネギをまな板の上に乗せ、リズミカルに手早くあっという間に白ネギを捌く。確かに俺のやるスピードの十分の一程の速さだった。5本のネギは斜め切りの状態に、しかも俺のより切り口が美しく鮮度が失われてないように俺の目には映った。
「それだけとちゃうぞ、ほらこれ見てご覧」

 俺の切ったネギを彼女がもって見せると、それは完全に切断されてなく、くっついている状態だった。仕事の精度の低さを指摘され、焦燥感に俺は駆られてしまう。

「まぁ最初は誰でもこんな感じや。やっていくウチについていく技術やし。やかまし言う事でもないけども。ただしアンタは店長候補で社員やからな。せやったら向上心を持って取り組まなアカンと思うよ」
「ウィス。そうですね…なんかその包丁カッコいいっすね」
「お。よう気がついたね、これなアタシのオリジナルやねん」
「オリジナル?」
「前に知り合いから高級な欅材を貰ってな。これを京都の木造作家に拭き漆仕上げにして貰って、これを柄にして金物屋さんにお願いして、中華包丁を仕立てて貰ったんや。其れにアタシのハッピーストーンのターコイズをあしらってね。これ可愛くてカッコよくてめっちゃお気に入りやねん」
 この時、初めてこの女が笑った所を見た。
当たりがキツく、冷くて嫌なイメージしかなかったのに、俺はそのギャップに少しドキッとした。

「マジでカッコいいすもんね。それ、なんか…厨二病って感じで」
「お前ぶっ殺すぞwww,」
「冗談です、冗談。店長、その包丁すっごく可愛くて素敵」
「やかましわ。とりあえず葱切りその箱全部やり、終わったら休憩!」
「えー全部?」
「ごちゃごちゃ言わんとやれや」

 ネギ切りを終えて休憩室に入ると、お茶と菓子が用意されていた。確かにあの女厳しい言い方するところもあるが、色々気がつくしネギの切り方も凄かったし、本当はいいヤツなのかも知れないな。

 休憩が終わると、俺が最初にこの店のドアを開けて入った時、出て来てくれた女性が来ていた。赤石アキさんという大学院に通ってる方で、この店では一番長いスタッフさんになるらしい。明るい方で鳴丘店長とは仲良いらしく、友達の様に話している。
「アキさん此奴新人店長だから。今日からホールでちょっと鍛えんとアカンわ。キッチン任せていい?」

そのアキさんという女性は「えーよ」と頷いて、
「殺されないよう気をつけて下さいね。この人関西では『鬼のナルタマ』言うて周りの人から、恐れられとったらしいんで」
と俺に笑って話しかける。その彼女に、
「殺さん殺さん。アキさんやめて。アタシこれでも丸くなったなんじゃ」
と鳴丘玉美は笑って返す。

「でもまぁ〜大事な事は厳しく教えるけど、悪意はないからな。年もあんま変わらんようやし、確か22やったっけ?」
「です。今年で23」
「そっか年下やな。ところで接客業ってやった事あるん?」
「あ、ここに来る前もずっとレコード屋で品出しとか、レジ打ちとか普通にやってましたよ」
「何?自分音楽とか好きなん?」
「働いてた頃は、結構レコード持ってたんですけど、地元離れる時全部売っちゃいましたねー」
「何?アンタ博打みたいな生き方しとる人なん?」
「博打っていうか…うん〜。普通に金が無かっただけだと思います」
「わかったわ…飲食の接客は初めてや。言う事でええな?」
 優しい言葉はそれで最後だった。

 それからコイツの接客のスパルタ教育が幕を開ける。何度怒鳴られただろうか?何度尻を蹴られただろうか?もっと全身全霊でやれ、魂が篭ってないと詰め寄られただろうか?
「挨拶は人間の基礎、それが欠けてるっちゅう事は人間の基礎がなっとらんと言う事や」
と俺は帰ったアパートでも挨拶の練習をさせられ、それの合格を貰ったのは初勤務から3日後の事だった。

 俺はあのコッテリとしたスープの味の作り方が、盗められたらと思ってこの会社に入ったのに、接客のスパルタ指導の終わりが全く見えてこない。そのうえ営業時は基本、接客メインで営業終了後はレジ清算とか、家で母ちゃんがやってたような細かい、金関係のめんどくせえ仕事の指導が続いた。思ってたのと違う状況にひどく俺は困惑した。
 
 仕込みの時間は葱切りと、メンマの仕込みだった。メンマの仕込みは、袋に入った大量のメンマを水洗いして完全に塩を落とす。それが終わると、湯掻いてからの水洗いの工程を3回施す。完全に塩抜き出来たそのメンマを、本社にあるセントラルキッチンから送られてくる漬けダレと混ぜたそれを、タッパーに入れ冷蔵庫に一日漬込む。少量だと苦にもならないんだろうが、寸胴鍋で一杯の水でやるとすると、これまたなかなかの重労働だ。
 
 初めてやった時、勢いで湯気が直に眼球に入り、その余りの熱さに「グワ」という奇声をあげてしまった時、
「熱いんやったら、熱ならんよう工夫すればええやん。湯気が上がるところに、眼球が在るから熱い。ほな目を背ければ、ええだけの話やろ?」
と半分笑いながら、俺に言う。それは一寸おかしいと、こうなるのが分かってるんだったら最初にやる前に教えて欲しい。こうなるのは分かってたんじゃないかと言うと、
「人間は痛いとか、熱いとか、ネガティブな過程を経た時に、初めて学習して成長すんねん」
とにこり。俺はムカつきを通り越して逆に一緒に笑ってた。

 この女の凄い所は、変わり身が凄く相手次第でキャラクターが180度変化する。俺の前では完全に鬼軍曹なのに、客の前ではまるでアイドル。実際にファンもついてるらしく、玉ちゃん玉ちゃんだの呼ばれて本人も満更でも無さそうだと思ってたら、
「でもあの人の凄さはそこだけじゃないんじゃ」
 何も考えないで見てると、適当に愛想振り向いてるようにしか見えないかも知れないが、ああ見えて実はしたたかでかつ、情に満ちた信念のある人間であると言う事をアキさんは語る。

 彼女の話では店長が広島に来たばかりの頃、ご老人で常連のお客さんがいたらしい。鳴丘玉美が来る前の店長がお気に入りだったらしく、お前じゃ駄目だとか、お前のような小娘はよう好かんとか、来る度に酷い言われ方をされていた。アキさんは腹を立ててないかと聞いたら、
「そんなもんやて」
と気にも留めないしない様子。その上、
「そこから認めさせるのが、オモロいんやん」
と彼女は楽しそうに笑ったらしい。

 その後もそのご老人は、鳴丘玉美を罵倒しながらも来店をし続けた。でもご年齢のせいか入退院を繰り返していたらしく、来店の頻度が次第に少なくなっていく。そこで前任の店長に連絡を取り、ご老人の入院してらっしゃる病院を聞き出し、調べるとご老人は緩和ケア病棟で療養中だったらしい。
 鳴丘玉美は何を思ったのか、だったらいけるなと思ったらしく、ご家族と病院側に頼み込んで食材と調理器具を持ち込んで、そのご老人に無双布武ラーメンを無料提供したらしい。その2ヶ月後老人は御他界されたらしいが、最後に店長に手紙を書いた。
それにはインデックスにボールペンで、酷くヨタヨタの字で、
「ありがとう いろいろとわるい」
とだけ書かれていたそうだ。それを見て鳴丘玉美は、
「この仕事を選んでホンマによかった。アタシの天職や」
と目頭を熱くして語ったらしい。この話をアキさんは、
「優しくて熱い人なんじゃ。怒りっぽい所があるのも確かじゃけどねぇ」
と困ったように笑いながら語った。

 初勤務から7日経った2回目の休日、俺は携帯電話をスマートフォンに変える為、販売店に足を向けた。スマートファンを最新型では無く比較的古めの機種に変更する事で、ほぼ出費無く変更出来た。
それから店長が、広島のラーメンで一番好きと言う「明朗」という江波という港町にある店に向かい電車に揺られていった。その結果、俺は初めて見る世界遺産原爆ドームを電車越しで見る羽目になってしまう。

 江波についてから、まだ慣れない操作のスマートフォン頼りに行ったラーメン店は、建物から凄みを感じる程の老舗店だった。暖簾を潜るとおばちゃんの元気な挨拶が聞こえ、旨そうな香りがこの店で提供される食物全てのレベルの高さを物語っていた。
何故か俺は無性に実家を思い出し、心臓の鼓動が幾分か早くなった。

 帰りの電車で虎聞さんからダウンロードする様言われてたLINEを落とすと、自動的に母ちゃんの名前が出てくる。俺が遅れていただけで、俺の実家にもデジタル化の波は押し寄せていた。俺は慣れない操作で、
「スマホデビューしました」
って送ると、数分もしないうち、
「遅過ぎ!」
って返ってくる。それから10分ぐらいしてから、みさきラーメンの店内の写真と、麺を湯がく親父の姿の写真が送られてきて、
「お父さんとお母さんは少しだけ歳をとりました。包太郎が今どの辺りに住んでるのかも、私達は知りません。でも何処で働くにしても、周りの人に迷惑かけない様に、一生懸命やりなさい。でも無理はしちゃ駄目だからね。辛くなったら帰ってきても良いからね」
という文章を見た時、俺は電車の中で声も出さずまた泣いちゃったよ。

 帰り道に行きがてら、電車越しにフライング気味に見てしまった原爆ドーム。原子力爆弾にて大破した荘厳なる建造物は、人類の争いの愚かさを雄弁に物語っていた。毀損されたその施設は歪な形をそのままに残されており、心を撃つものが確かにあった。しかしそれよりもドームに群がるかの様に取り囲む、大勢の欧米系観光者の異様な光景に、俺は凄く奇妙な感覚を覚えた。アパート近くの焼鳥屋でビールを飲んでいると、スマホの電池はほんの僅かになっている事に気付いたので、あまり長居はせず帰路に着いた。

 翌日出勤すると俺の仕込みの仕事は、葱切りとメンマではなく、待ちに待っていたスープ造りだった。
「無双布武ラーメンのスープは、全てセントラルキッチンで作ってんねん。そして輸送しやすい様に水分飛ばして、ペースト状にしたこの固形物がスープの素。ウチらは送られてきたこれに、マニュアル通りの水分を加水していく。ペーストは絶対焦がしたらアカンから、此処に書いてあるようにせなアカンから気をつけてな」

 とラミネートされた2枚のプリントを渡して店長は続けた。

「手順一つでも間違えたら、もうそれは無双布武ラーメンでは無いものになるから、十分に気を付けんなアカン。調理場の室内温まで完全に固定するよう定めてあんねん。相当作り込んだマニュアル、これでどこの店でも同一のテイストが提供ができる様になる。これは一種の発明やと思うわ」

 愕然とした。そもそも俺が無双布武ラーメンに身をおきたいと思った理由が、旨味が強い謎のドロドロスープの作り方を学ぶ事が最大目的だったからだ。スープの仕込みを学べないんだったら、何の為に地元を離れて来たのか修行の意味すら見失ってしまう。

「スープって、店じゃ1からは仕込まないんですね」
「ん、どゆこと?」
「豚骨とか鶏ガラ炊いたりとか、そういう作業ってないんだなぁって思って。ウチの家は朝早くから豚骨炊いてます。そういう所も勉強出来たらなぁって気持ちもあったんすけど。俺ここのラーメンのスープに衝撃を受けて入社したんで」
「うん…スープの仕込みなぁ。そういう事は確かにウチでは、勉強は出来ひんかもなぁ…」
 
 鳴丘店長は少し考えて、
「うーん。ほなアンタがアパートで休みの日に作ってみればええんちゃう?」
と俺を振り返り、裏手で指差して言う。
「家で?休みの日に?」

「そうや。ベースは鶏ガラ。買うてきて炊いてみりゃええやん。スープ作りならアタシもけっこうやってたから必要なら圧力鍋とか寸胴鍋とか、貸したるで?」
「すんません。俺のマンションまだコンロも無いんすよね」
「えええ?ご飯とかどうしてんの?」
「コンビニとか、外食とかで適当に済ませてますけど?」
「絶対アカン!適当ってどう言う事や?野菜とかもちゃんと取らなあかんし。」
と鳴丘玉美は首を大きく振って否定した。ラーメン屋の店長なのに。

「店長。休みの日はスープ作りみたいな事ばっかしてんすか?」
「馬鹿にしとんかお前。自惚れちゃうけど、ある程度の所まで到達した思うから、最近はあんまりやってへんの。まぁでも最初入ったばかりの時は、確かによう鶏ガラに豚骨、牛肋肉とかも炊きよったで?」
と懐かしそうに過去を振り返る彼女。本当に自分のアパートでスープ作りを模索していたと言うのはどうやら嘘じゃないみたいだ。

「やっぱ無双布武のラーメンが、店長の憧れの味だったりするんすか?」
「ホンマはな、憧れの味は正直他にあんねん。大阪の実家の近くの醤油ラーメンやねんけど」
「へえそこも食べてみたいなぁ。あ、そいえばこないだ教えてもらった江波ってとこの…なんだったっけ?」
「明朗ちゃう?彼処もホンマにええラーメン屋やね。こないだの休み行ったん?」
「はい。それで行ったんすけど、彼処良いっすよねぇ。港の近くって所もなんかグッと来るって言うかポイント高いっていうか」
「せやねんせやねん。ノスタルジックっていうか、ホッとするっていうか、ああいうホンマに優しい雰囲気?やっぱああいう店がええねんな」
「やっぱああいうほっとする感じの店が、好きなんですか?」
「ほんまはな。でも無双布武が駄目ってわけでも無いで」
「一応俺ら社員ですしね」

「うん〜。まだ、君は社員の域とは言い難いな。早よスープ作り、時間なくなってまうよ」
「ウィス」
「ちゃんと読んでマニュアル通りに作成すんねやで?愚直なまでに徹底してな」
「ウィス」
「ほんで鍋どうするん。借りるん?」
「ウィス。借ります」
「そん前にコンロ買わんとどうしようもないね君、www .」
「ウィス」
「ウィスしか言うてへんやん大丈夫?」
「ウィス。今集中してるんです」
「あそうなんwww.ごめんごめん出来たら教えてや」

 広島に越してきてから1ヶ月半が経つ頃、俺はホールの仕事を店長に見張られず、出来る様になってた。この頃から店長は俺に恐らく経営のやり方を教えてくれようとしていたんだと思う。

「ボーっと突っ立っとらんと、一日中考えながら仕事せなアカン。なんで今日は暇だったかとか、今日はなんで忙しかったかとか。幾つかの仮説をたててそれが立証された時、それは仮説では無く定説になるやろ。そういったデータベースの積み重ねがなによりも大事。それを基に売上の予測を立てていくねん」
「そしてその予測を基にシフトを組むですね」
「そう。ちょっとは理解出来てきたやん。じゃあ今日22時ぐらいから急に忙しくなったのはなんでやと思う?」
「今日のお客さんはカープの帽子被ってる方が多かったんで、試合観戦の帰りじゃ無いですかね」
「そういう事や!わかってきたやん」
「ってアキさんが言ってました」
「あwww,そうなん。まあえーわ。色々お客さん観てどういった流れでご来店されたかは、見といた方がええから、習慣つけとかなって事だけは覚えといてね」

 広島には広島東洋カープっていう強い野球チームがあるので、そこの勝敗次第でも繁華街の盛り上がりは大きく影響を受けるんだ。あと俺が働いていた頃は原爆ドームの流れとか、欧米人の観光客も顧客の大きな要因だったね。まあ兎にも角にも店長から営業時は全身全霊で接客して、お客さんに顔を覚えてもらうよう厳しく育てられたって感じかな。店長から言われていたスープ作りも10回ぐらいはやったっけ。でもユーチューブで人が作ってる動画を見ながら作ってたら、通信料が上がりすぎて携帯代がめちゃくちゃ高くなった上に、ガス代までマジでどえらい事なったからそれを言い訳にやめちゃった。結局俺は親父の味を引き継ぐ形になるんだろうし。
 
 休みマジ大事だし。

 広島で肌寒いを超え、ロングコートを着た人達がチラホラ通りを歩き、俺も買ったばかりの厚手のパーカーのフードを被りながら、通勤する様な季節に入る頃、俺は仕事として店舗の精算•売上金の入金•日報報告等、所謂店長としての内務をなんとか出来るようになっていた。百貨店はクリスマスに彩られ、忘年会帰りと思われるサラリーマンが膨大に増え、店も常にドタバタしっぱなし。俺達は会話もすらままならないまま、なんとか日々の営業もなんとか乗り越えるので精一杯だった。

 若い男性のバイトも大勢居たが、色々口実をつけ深夜前に上がり、本当に忙しい午前1時時以降は常にアキさんと店長と俺の三人で店を回す事が多かった。俺はホールを駆け回り、アキさんは厨房で叫びながら働いていた。そして店長たる鳴丘玉美はオーケストラの指揮者が如く、俺達に指示を出しながら双方のバランスを保てる様に常に気を張っていた。年末が近づくにつれ、店はどんどんと忙しくなり、俺達はあまり雑談をする余裕がなくなっていった。会話と言ったら閉店後に店の締めをしながら、こんな感じでドタバタと話すぐらい。

「店長も実家がラーメン屋だったりするんですか?」
「いやウチは違うで、ウチの親はアレや、なんちゅうか資産家っちゅうか?そっち系?みたいな感じかなぁ?」
 まごついた様な彼女の受け答えに、
「資産家って凄いっすね。もしかしてお嬢様とかだったりして?」
と俺は何も考えず聞いてしまう。すると小さくなった声で、
「そんな大層なもんやあらへんよ。ウチもこんな感じで、学生時代は比較的ヤンキー気味やったし、もう家出てもう結構経つし、あっちはアタシの事なんかもう覚えても居らへんのやないかな」

 言い辛そうに俯く、様子の彼女の心が小さくなっていくような気がしたので、もうそれ以上の詮索はしないようにした。

 その辺りから、俺に「パオ」ってあだ名がつく。許可なく勝手につけられ、俺はそんなふざけた名前で呼ばれる様になる。つけたのはアキさん。
 
 包太郎をパオタローってアキさんが面白がってつけた名前で店長が
「なんで『包む』の字だけ中華風やねん」
ってツッコんで、まぁまぁの笑いにはなってたらしいよ?丁度その時、俺は仕事で一杯一杯だったから、聞き流していたけど、本気で五月蝿いし勝手にしろって思ってたっけ。それも最近じゃあ、それ程嫌じゃなくなっているって言うから、人の心はうつろいやすいっていうか、マジSGMJって感じで、もう俺にはわかんないや。

 は?SGMJって何って?
諸行無常の略称だよ。学校で習ったっしょ?
 
 アキさんに後から聞いた。店長の実家は関西では名の知れた会社らしく、其処の令嬢さんだったらしいんだが、家の近くあるラーメン屋の大将に、惚れ込んでこの世界に入ったらしい。因みにずっと、家族とはあまり良い関係じゃないらしく、この話をふったら、かなりの確率で落ち込むから禁句だそうだ。もう遅えよ。

 年が明け、成人式の日に若い奴が集団スーツで闊歩する頃には、俺は初勤務から6ヶ月が経っていた。いつも通り出勤すると、虎聞さんが店に来ていた。俺はあまりに久しぶり過ぎて、彼の名前がスッと出て来ずちょっと焦った。虎聞さんの要件は俺の異動通知だった。その先は「難波千日前店」という店らしく、彼が言うには関西エリアで一番売り上げが高く、若手の叩き上げにもってつけの店らしい。彼曰く、
「望月君みたいな新人の登竜門みたいな店だよ」
とニコニコしていた事に、俺の不安は結構肥大化した。

 難波って確か大阪だったよなと思い、この件を店長に伝えるとビックリした様子で、
「ホンマに難波千日前?澤ヤンとこやん」
と素っ頓狂に答えた。
 どんな所か聞くと、関西エリアで若手の登竜門とか新人の叩き上げとかそんな感じの所で兎に角、忙しい店らしい。

 翌日店長は休みだった。俺はこの頃、開店準備を任せて貰うようになっていたので、一人で済ませ大概の所まで済ませ開店まであと20分余裕があったので、お茶でもしようといった時、店長からLINEがあった。

 内容は、
「難波千日前店。
 新宿店、博多中洲店と無双布武の3大地獄店舗と称される激烈ハード店。繁華街に面している為、客層は余り流川と変わらない。その量が膨大な上、仕事量も当然エグいぐらい多い」
 
「関西圏では若手の登竜門といった所。私も前に勤務していた事あるけど、まぁ控えめに言っても地獄。何回かマジで辞めたいって思ったもん。この店でやれたら、何処でも行けるでしょって会社の目利きなんやろけど。多分辛いと思うわ。パオはここが正念場だと思って、頑張らんとアカンと思うよ」
 
 それを見て、俺は正直相当ナーバスになった。

 異動日は2週間後で、当然引越も考えないといけない。それよりも折角慣れてきたばかりの街、そして鳴丘玉美やアキさんとの別れが近づいている事が、俺を哀しい気持ちにさせた。

「パオごめん!アタシの思ってたよりもずっと異動早かったわ。ホールしっかり教えてから、キッチンやらすつもりやったのに、やらす前に異動がきてもうてんって状況やねんけど」

 そう、俺は厨房の仕事は仕込みしかしてなく、営業時は常にホールの仕事つまりは接客業。お客様のオーダー伺い•配膳•食事を終えた方の皿の撤去作業•テーブルチェック等表の仕事と、精算•銀行振込•開店準備•日報報告しかしてなかった。この状態で難波千日前店に行くのは些か不安であるが、あっちで覚えるから気にしない様答える。
「やらす前に異動がきた」
って言い回しが、なんか妙に可愛かったし。

 もう今から慌てて覚えても店でやり方微妙に違ったりするから、ホールと店長職を完璧にさせようという事で、最近優しくなりかけていた店長の鬼軍曹化が再燃した。それは接客だけに留まらず、日報文章の句読点の使い方までに及んだ。

「他はええとして、これ以上にキッチンで一番しんどい仕事ないから、一つの指標としてこれだけやっとこうか」
 
 すっごく明るく言うので、なんというか奇妙な恐怖心を抑えながら、俺は指示に従わざるを得ない。

 グリーストラップ、通称グリストの清掃という作業だ。グリーストラップは飲食業に於ける厨房で設置されている、いわゆる一般家庭のキッチンに於ける、シンクの役割を果たすものだ。三層になっており、まず一層目のバスケットに食物のカスとか厨房のゴミとかを、排水溝に流さないように捕らえるいわば網の役目の部分、二層目は油分を蓄積する為の層。そして三層目はそれらの汚れが排水溝に流れる事がない様、阻止する為の装置。
 
 清掃作業として、まず3つの層を隔てる敷居を外す。次に専用のスポンジを投入して油分を吸わせる。それが終わったら、網でスポンジを掬ってバスケットに入れる。次はバスケットを上げて水気が切れる場所に引き上げる。バスケットの下に隠れてるスポンジを掬って水気が切れる場所に引き揚げたバスケットに投入する。そこまで終わったらバスケット内に入っていたゴミを、バスケットに設置してある網ごとしっかり水気を切って捨てる。終わったら新しい網を張り替えて元の位置に戻す。そこまで終わったら、仕切り板をして蓋をする。此処までやって一連の作業は終了する。

 この仕事の辛い所は凄く臭い上に、スーパーに汚い。俺は最初被せてある鉄蓋を開けた時、あまりの匂いに思わず戻しそうになった程だ。あとは油を吸ったスポンジがなかなかにかなり重たい。
 作業を通して汚く辛いハードな油仕事。俺はつい高校卒業してすぐ就職した車の板金工の仕事を一瞬思い出すが、臭さの種類が全く違う。まぁどっちにしろ臭いし、重いし、精神的に辛い。厨房の人間がこんなハードな仕事をしていた事を俺は知らなかった。
「清掃が終わったら、最後に清潔な状態を写メって虎聞さんに送信すんねん。これ送らなかったら、お叱りの電話来るから怖い事なんで」
鳴丘玉美は腕を組んで壁にもたれかかりながら、悪戯っぽく笑った。

「結構大変っすね。マジでしんどいわ」
「毎日やってたらそんなにキツい事やないって、人間っちゅうんは慣れるから。でもそれにも限界があって一回、前に駄目な店長が三ヶ月間も掃除してない状態のグリスト見た事あってな」

 もう俺はそれ以上聞きたくなかった。だがそれを無視するかの様に鳴丘玉美は続けた。
「なんかもう凄いねんもん。この世の終わりみたいな匂いと見た目してて、流石のアタシももう無理ーってなって、ちょうど居たおじさんにして貰ってん」
 いや、ちょうど居たおじさん可哀想。
 どのおじさんかは知らんけど。

「でもな、最近では写メって毎日本部送るシステムを考えたのって虎聞さんなんよ。これで誰もグリスト清掃をサボることが出来なくなった。これって革命的な事やねん」
「何時だっておじさんが丁度居てくれるとは限らんしね」
「www.せやせや。キープのおじさん待機させなあかんくなるしな」
「店長って何気に酷いとこあるね」

「www.冗談やて。ジョーダンジョーダン…」
「…ん?もしかしてマイケルジョーダン?」
「誰やそれ?此処は普通エアージョーダンやろ?」
「いや。その元になってるのが、マイケルジョーダンなんですよ。バスケの神様って言われてる凄い選手なのに知らんの?」
「知らん知らん。バスケの試合とかよう見らん」
「じゃあなんでエアージョーダン知ってるの?」
「ああそれはな、前の彼氏がそのエアージョーダンって高いスニーカーを大事に大事しとってん。保存用とか言って磨いて部屋に飾るぐらい。スニーカーやで?こいつホンマ頭バグってないとか思うとったら、ソイツ二人で借りてた部屋に、知らん女連れ込んどってさぁ。滅茶苦茶ムカついたから、ソイツの眼の前でその靴切り刻んでやってん」
「!……」
「どしたん?急に黙って」
「いや、純粋にひいてて」
「せやねん。浮気信じられへんよな?」
「じゃねーよ、おかしいのはアンタの挙動でしょ。状況はどうあれ人のスニーカー切り刻むのは良くねーだろ」
「オイ!ア・タ・シは店長ですよ。そのアタシにd逆らうんですか?」
「ウグ。汚え…」
「汚く等無いのです。歴史を紐解けば、権力を得た人間こそが正義。逆に言えば権力を持たぬ人間等正しく無力も同然なんです。ですよねぇザーボンさん。ドドリアさん。……そして。ペサメムーチョ白澤さん?」
「最後のやつ誰よ?」
「wwwジョーダンジョーダン。冗談やて。ええかでもなビジネスという物は、必ずお客さん目線で考えなあかん。お客さんの立場にたってどうあって欲しいという事を吟味し続ける事が、一番大事な事やねん。その吟味の量が、サービスのクオリティに直結するから」

 何故かこの日の鳴丘玉美は、クリティカルにボケてくる事が多かった。おそらくにしてそう言う日なんだろうと思う。でもスニーカー切り裂いた件はマジでびびった、流石「鬼のナルタマ」と呼ばれるだけの事があるわ。

 広島最後の勤務の時に、店長の奢りでアキさんと3人で飲みに連れて行って貰う事に。
「広島に来てまだ牡蠣食うてへんの?勿体無いわ、アタシが奢ったるから行こうや」
始まりは些細な事だった、アキさんの同級生がバイトしている牡蠣食べ放題の店がある。というか広島という街はこういった牡蠣食べ放題の売りにしている店が、繁華街に結構多くあるらしい。

 正直言うと、俺は牡蠣が嫌いだ。ガキの頃、母ちゃんが鍋にぶっ込んでたの食べた時、
「なんだこれー」
っつって吐きだしてしまった。臭えし、なんか苦い。それ以降も、母ちゃんは俺の好き嫌いを克服しようと牡蠣フライを食卓並べたりもしたが、俺は頑なまでに拒否を続けた。今思うと俺って最低な奴かも知れないな。

 銀山町にビールを飲ませるだけで、行列ができる有名な店があるから行こうと二人が言うので、そんな店ある訳ねーだろと思ってついて行くと、マジで並んでるのでビビる。並んでいる間、大阪弁と広島弁から挟まれながら、俺が方言を使わない事が話題に。

 癖が強いから使っても、伝わらないからと弁明すると店長が戯けて、
「せやせや、鹿児島いうたら西郷隆盛や。ゴワスやゴワス。ホニャララでゴワス、そういう風に言うねん。今日は休みだからパルコ行くでゴワスーとか、折角の休みだからネイルつけに行くでゴワスーとか、そういう使い方すんねん」
言わねーよ。なんでその文脈でゴワスつけんだよ、あと俺の地元にゃパルコはねえしー。地元を馬鹿にされた感じになり、俺は少しムカついた。

「ゴワスなんて誰も使ってないすよ。方言を誇張して使うつまらん地方タレントですら、使ってないっスよ」

 声のヴォリュームを間違えたんだろう。怒ってるような感じになってしまい、3人の空気が変な感じになってしまい、俺は少し困る。
「まぁウチらもガンスなんてよう言わんのんで」
とアキさんが優しくフォローしてくれたお陰で、すこしだけ場が保たれ、俺は申し訳ない気持ちになった。

 話してる間に俺達の順番が廻ってきた。店内に入ると見たこともない様な、かなり旧式だと思われるビールサーバーを使っていた。初老といった男が白衣を思わせる様な白いジャケットに白いシャツに蝶ネクタイをしていた。その男は講談師さながら、ビールに対しての様々な知識や彼の哲学を語りながら、ビールを注ぐ。その一切の挙動がまさしくプロフェッショナルといった鮮麗な風貌で、俺達は其れに魅了されてしまう。

 俺たちも一応は店でやっているので、ビールの継ぎ方ぐらいは知っているのだが、その旧式のサーバーの驚く所は、ビールの出るスピードと水量が桁違いな所だ。なんというか水道の蛇口を全開にしたかの様な勢いで、ドワーッと出てくる。それを一気にジョッキに入れ泡切りをするのが「一度注ぎ」、ビールが出るスピード弱めながら注ぎ、2分程少し置いて炭酸を飛ばす「マイルド注ぎ」等、同じビールでも様々な口当たりを楽しませてくれる面白い店だった。

 俺は早く飲みたかったので、一度注ぎを注文したが御淑女お二人はマイルド注ぎを注文。当然俺のヤツが来る方が先に来る。お二人は炭酸抜きの時間待ちだ。
「同じメニューにした方が良かったじゃん」
と怒るアキさん。
「ここは普通オーダー揃えるトコやろ。コイツ空気読まれへんねん。一人っ子らしいしの!」
 
 一人っ子関係なくね?と思いながら、俺はそのビールを一気に飲み干した。旨い!俺のビール人生最強かも知れない。何故かわからんが、ケツを蹴られた様な気もしたが。
「いやー美味しい美味しい。乾杯は2杯目でさせて頂きまーす」

 これは本当に申し訳ない。

 彼女達のビールの炭酸が抜ける間にアキさんが、
「なぁ鹿児島弁ってどんなんじゃ。教えてぇや」
と言うと、店長もそれに乗っかって、
「ほんまや、その話終わってへんわ」
本当にこの人達はしつこい。俺はイライラしてきて、
「はんたちゃ、んのごてせがらしかの!」
俺たちの世代でも普段使わないぐらいの親父の世代の方言、いわゆる「かごいまべん」で文句を言ったつもりだった。

 また俺は声のヴォリュームスイッチを捻りすぎたようで、また沈黙とおかしな空気になってしまった。
「貴方達は本当に騒々しいですねって意味です。ほぅらわかんないでしょう?」
 場をとり繕う為、慌てて俺は弁明する。すると堰き止めていた川を勢いよく流れ出すかのように、
「めっちゃ謎言語やん」
「何言うとんかホンマにわからんわ」
となんとかかんとかそれなりに笑いにはなった。この場合して貰ったと解釈するべきだろうか?

 等等言ってる間に、ビールが飲み頃になったとの事で、それに合わせて俺も「一度注ぎ」を注文して乾杯した。勿論美味かったよ!

 その店を出てアキさんの大学院の同級生がバイトしている牡蠣専門店は、テーブルの上にバーベキューコンロが設置されていた。
「うわぁ、マジで牡蠣喰わんといかんとけ?」
と俺は、クソみたいに憂鬱だった。

 でも二人はそんな俺の憂鬱なんか知ったもんかというばかりに、バケツ一杯大量に注文しやがる。炭火で加熱された網に手際良く並べられ、俺達は凄まじい磯の香りに包まれる、ヤバいヤバいヤバい。

「すんません。俺、牡蠣駄目なんすよね」
と俺は随分と遅れたこのタイミングで告白する。
「え、なんで今言うん?」
「せやで、もっと早よ言わなアカンやろ」
当然、御淑女2人は怒りを露わに。
これはまずい。本当に困った。

「www.えと、言い出すタイミングを逃しちゃった感じでゴワス〜みたいな。www,」
「さっき自分で言わへん言うたばっかやん」
 ちくしょう。

「知らんがな。もう頼んだからしゃあないやん。もう焼いとるし。この場で克服せぇよ」
と当然のように言いやがる。
「えー無理だよ〜」
と必死に返すも、
「焼きが一番癖が無いから。騙された思うて試しに食べてみんちゃい」
とアキさんも言う。

 騙されたと思って~の件は、昔からあんまり好きなフレーズじゃないけど、どうやら俺は逃げられんパターンの中にハマってるらしい。網の上でじゅうじゅうと良く言えば香ばしい、正直それが俺には臭いんだが、牡蠣は食べ頃のようだ。覚悟を決めねば。

「オススメの食べ方ってなんすか?」
「覚悟決めたようじゃの。私の本当のオススメ教えちゃる。先ずは塩を適量をかける。その後レモンを搾ってかけるんよ。これで大分臭みも少しは取れる。美味しいから。保証する!」
その保証が効くんだったら警察や保険屋は要らねえよと思ったが、俺は観念して口に運ぶ。

「んんん。ううう」
「どしたん蹲って。食あたり?」
「にしては早すぎじゃ。体質的に合わんかったんかも知れん!」
「うううぅ」
「大丈夫か。吐き出し吐き出し!あたったら大変じゃ。強制して悪かったわ」
「パオ大丈夫か?救急車呼ぶか?」

「うううぅぅ••••••。美味い!」
「古典コメディかオイ!」

「いやマジで美味い。一寸人生最強かも知れん!なんこれ?めちゃくちゃ旨い!ウマー♪」
「なぁアキさんコイツ殺さへん?」
「奇遇じゃね。ウチもおんなし事思うとったとこじゃ」
と叫ぶ俺にとって、後ろで恐ろしい響きが聞こえる。

 幸運にも俺は殺害されることは無く、翌日荷物をまとめ広島を後にする事に成功した。

  
 広島から大阪へは新幹線で3時間と一寸、週間少年ジャンプを読んで、スマホ弄ってる間にふわぁっと眠気がきて、はっと起きたらもう神戸だった。携帯の時刻見て驚く、ヤバいもう少し寝過ごすと通り過ぎてた。慌てて身支度してる間に、もう新幹線は大阪駅には着いてしまっていた。

 昨日ブチギレていた鳴丘玉美が別れ際に、めっちゃ使えるからダウンロードしときと言われた「ヤフー乗換案内」のアプリを使う事で、梅田から心斎橋へは容易く行けた。テレビのニュースで大阪を紹介する時、いつも映る道頓堀周辺を少しだけ散策した。眩いばかりの街が俺を否応なく圧倒し、俺にはこんな凄え超大都会で、生活や仕事をやっていく事が出来るだろうかと思う不安な心持ちと、新たなるフィールドに対して高揚感のハイブリッド型感情に苛まれた。

 広島の時と同様に、働く予定の難波千日前店に鍵とマンションの地図を受取りに行く。時間は15時半に合わせて行った。流川町店では15時から17時迄は客の入りがあまり見込めない為、意図的に営業を中止して、その時間は休憩扱いとしていた。そういった時間に行った方が、自己紹介もしやすいだろうと先読みして、その時間に合わせた新幹線の切符も計画的に購入していた。

 でもその予想は全く外れ、この店は11時から翌朝1時まで休まず、所謂ぶっ通しの営業。時間合わせた意味なかったじゃん。営業時間ぐらいちゃんと調べておけよと自分の準備不足に少し腹立てながら、恐る恐る中に入る。当然の様に、スタッフが接客してこようとしてくるので、
「あ、すいません広島流川町店から異動で参りました望月と申します。店長様いらっしゃいますでしょうか?」
と聞くとそのスタッフさんの反対側の方からひょこっと頭を出して、
「望月君!聞いとる聞いとる。ナルタマがよろしゅう言いよったわー」
 
 大体40代前半ぐらいの男性が、パッと駆けてきて、俺の新居になるマンションの鍵と住所のプリントを渡し、その場所を教えてくれようとする。前の鳴丘玉美の対応とは全く違い、俺は少し面白く思ったがその優しさには敢えて甘えず、住所は自分で調べますと丁重にお断りした。
「わしゃあれみたいに厳しくないけぇ、安心せえや」
とバツが悪そうにかつ、申し訳なさそうに笑う感じが、この方の人の良さを表してた。
「まぁ〜あの人には最初ん頃は、よくケツ蹴られましたね〜」
と俺は恥ずかしさから頭をかいて答える。
「ま〜だそんな事やりよんかアイツは。今のご時世的に見て、そういった事は辞めるよう言いよんじゃが」

 困った様に嘆くこの人のネームに「澤北」と書いてあった。鳴丘店長がサワヤンと呼んでいたのはこの方とみて間違いないだろう。それに気付くと緊張がグッと解れたので、
「でも厳しいながらも色々丁寧に教えてくれたんで、今ではあの人の事、尊敬してるし、感謝もしてます」
「望月くんがアイツの良さが分かる器量の男で良かったわ。とりあえず今日明日は君休みやから。ゆっくり休んだり。そして明後日にまたおいで。最上級の地獄を準備しといたるさかい。うちがどういう店かは聞いて来とんやろ」
と澤北店長はにっこりと笑った。俺はそれにひきつった笑いで返すしかなかった。

 マンションに入ると広島の時と比べ、築年数が古かったり、風呂がユニットバスになってたり、外の騒音が倍増してたり、正直前の時と比べて俺の新しい生活環境は地味に悪くなってた。その夜には引越業者が来て、
「今まで一番荷物が少なくて楽でしたわ〜」
などと言われる。余計なこと言うんじゃねえよと思いながら荷解きを適当に済ませ、その夜は繁華街に出る。
 
 街の喧騒を見ながらタコ焼きをビールで流し込みながら、若者、サラリーマン、ガタイの良い白人にこれまたガタイの良い黒人、たまにガタイのいいおそらく日本人だろうと思われるアジア人。その通りを歩く人々のそれぞれを俺はずっと、ぼーっと見ていた。

 楽しそうに話しながら歩くギャルもいれば、何かに怒ってる様に見える人もいる。でも基本的に歩く人々は、感情を表には出さず無表情だ。当たり前だけどね。皆どんな事考えて、どんな人生を歩んでいるんだろうと考えると、自分の人生や俺たちが賭けているラーメンと言うファーストフードの文化を含めてもの凄く小さな事の様に感じられ、心をかなりメランコリックな気持ちにさせられた。
 ガタイも良くない上に、身長も大した事のない俺は、その店を後に家路に。業者に荷物が少ないって言われた事のダメージだろうか?
床につくと自分では気付かなかったが、思いの外疲れていたらしく、翌日の昼まで寝過ごした。広島で中古で買った安くて小さいアジア製のテレビで漫才の2時間番組を見て、その日は大人しく早めに寝た。

 難波千日前店での初勤務に行くと、一昨日色々案内してくれた澤北店長は、休憩室で仮眠をとっていた。起こさないよう音を立てないよう気をつけてながら支度をしていると光の明暗の動きが、彼を起こしてしまったのか、
「あゝおはよう」
と言う彼の声に驚いて、思わずこっちが逆にビクッとなってしまう。

 改ってちゃんと挨拶しようとする俺に、
「いらんいらん。店長の澤北じゃ」
「望月包太郎と申します。よろしくお願い致します!」
「うん宜しく。九州じゃあ聞いたが?」
「ハイ!鹿児島から来ました」
「ほぁ〜鹿児島かぁ、行った事ないのぉ。ワシが知っとるんは地元の岡山とココ大阪ぐらいなもんじゃ」
「あ、岡山のご出身なんすね。僕もここに来る間通って来たぐらいです」
「新幹線だと速すぎて風景もわからんじゃろ」
「…正直言うと寝てたんでよく覚えてないです」
「www.なんや寝とったんかいな。覚えるもなんも見てないんやったら意味無いやんけ」

「www.すんません。ココ忙しいって聞いて来たんですけど、やっぱ凄いんすか?」
「うーん。まぁ売上としては君がおった広島の流川の約2倍ってところかの。まぁでも当然じゃがその分人数は構えとるし、個人の負担はさほど変わらん思うけど。流川だって暇な訳では無かったやろ?」
「約2倍…それはヤバいな。すんません澤北店長、一つお伝えしないといけない事が」
「どしたんな」
「すんません。俺は広島ではホールだけやっていました。キッチンでやってたのは仕込みぐらいで…」
「営業時間は厨房入らへんかった言うことか?」
「そう…ですね」
「ほか。ほたら先ず、キッチンの回し覚えんとあかんな」
「すんません」
「気にせんでえーわい」
と言って、椅子に座り顎に手を当て少し考えて、
「教育係つけちゃる」
腰掛けていた椅子から飛び起きる様に立って、俺の方を見て悪戯っぽく、
「鬼にホールを教えられたんやったら、キッチン教えて貰うんは悪魔が最適じゃの」
と言うと澤ヤンは席を外して厨房へ入っていった。

 悪魔?いや普通に厭ですけど?
 頼むから普通の奴にしてよって言えずにいる内に、30代ぐらいの、女みたいな長髪に猫背で出っ歯の、目玉がギョロッとしている奇妙な出立の男が、ノソッと厨房から出てきた。一眼でわかるぞ此奴が悪魔だ、間違いない。
 
 コイツはなんかヤバい。

「澤ヤンから厨房教えるよう言われた『御子柴』言うモンです。モチヅキさんでしたっけ?社員さんなんすよね。まぁ自分此処で5年ぐらいバイトでいてますんで、わからん事あったら、自分に聞いてもらえると良いおもいます。あと自分バイトなんすけどこの世界、実力主義や思うとります。仕事に関しては結構キツい言い方する事ある思います。けんども基本は悪気は無いんで、恨みっこなしでどーぞ宜しゅう」

 最初の見た目で俺は完全に圧倒されてしまった。だいぶ早口だったし、なんか危険な事も言ってたし、コイツに教わる俺大丈夫かよって滅茶苦茶不安になったのを覚えてる。

 でもあれがミコシンとの最初の接触だったんだ。

 御子柴了、生まれも育ちも大阪。関西人という曖昧な括りなんかじゃなくド大阪人。大阪のど真ん中とも言えるこの店から歩いて、5分程の所に実家のある、この一癖も二癖もあるこの男は家から近いという理由でだけで、この糞忙しい店で5年もバイトを続ける強者だ。店でもバイトリーダーを任されているが、厨房のみで接客はしたことも無い様子。だが厨房に入ると異様な風貌から想像もつかない程、凄まじい集中力を放つ。澤北店長からは殆ど厨房の総指揮を任せられてると言って過言でない。社員になるよう誘いが来ても、異動とか転勤とかは絶対嫌だとその話し自体を蹴るような、そんな濃ゆい主張を持つ男。

 この男は仕事こそ凄く出来るのだが、口がまぁ悪い。暴力こそ無いが一緒に働き始めた頃、俺は罵詈雑言の海に沈没しそうになった程だ。

「何度言わせんねんあほんだら。麺は一食一食茹でんなやボケ。そのやり方でいちいちやりよったら、逆に茹で時間の管理が出来ひんくなるやろがい。ある程度オーダーを貯めてから一斉に茹でろや!そっちの方が効率がええねん!ちったぁあたま働かせぇよ、脳みそ捨てとんかカス」
…逆に捨ててる奴見たことあんのかよ…

「スープはたまに味見せぇ言うとるやろ。煮込みすぎる事で塩分濃度が変わることがあんねや。無双布武ラーメンの味は何処の店でも、同一である事に意義があんねん。会社の味変えてお客様を失望させるようなことあったら、グツグツ煮えとる鉛、喉から飲ますど」
…罪に対して罰の比重があってないって。アウトレイジの見過ぎだろお前…

「盛り付けがばっちーんじゃ。この写真見てみいや。この写真とおり作んねん、このラーメンなんやこれ。これじゃサルバトール•ダリの絵みたいになっとるやないか、普通に作れあほんだら」
…誰がダリだよ? 俺あんな変な髭してねえだろうが…

 この男は悪口のパターンがなんというか多彩だ。そこの表現力が良くも悪くも秀でてる。喰らっている俺からすればその才能こそが、辛さの原因なのだが。
「お前ちょけとんか。一回脳みそ外して、一晩ドブかヘドロにでも漬け込んで、翌朝また水洗いしてまた再度装着するタイプの性癖の変態なんやろ?」

 いやそれどういう性癖だよ?ってな感じで、謎の角度からの悪口がドンドン飛び出てくる。普通はムカつくところだが、この男の独自の表現のセンスと言葉の言い廻しが俺は少しだけ好きだった。ただ悪口の言われすぎで、この男は多分俺の事嫌いなんだろうなと少し距離を置いていたのだが。

「なぁ今夜、飲み行かへん?」
と急に俺達の間を埋めたのは、まさかのミコシンだった。でもあんな仕事中、罵詈雑言吐き続ける相手を飲みに誘う心情が、俺には理解出来なかった。がまあ俺は帰ってもどうせ独りだし、寂しいから仕方無しについていく。居酒屋に着いてビールと食べ物を3品程注文して、それらをつまんでいると、
「お前さ、モンストやってへんの?」
と聞いてくる。ここでいうモンストは君の知っているあのモンスターストライクであってるよ。説明要らんかったでしょ。

 当時まだやってなかったんで、やって無いと答えると、人生損してるとばかりに必死にその面白さを訴えてくる。じゃあやってみようかなと答えると、
「そか、ほんだらワシの紹介で入ればえーやん。このIDでホイ」
そんときは初めてでわからなかったけど、初心者を紹介したら紹介者に特典があるの確認した時は、
「いかにもミコシンって感じだよな」
と思って、思わずなんか笑っちゃった。

 絶対、要らないと思うけど、一応彼「ミコシン」の説明をしておこう。御子柴でミコシン。それは皆そう呼んでるから。俺がつけた訳じゃないし。貴方だってこういう場合は周りの人達と揃えるでしょ。ほら、すげー要らなかったwww .

 この店に来て痛感したのは、無双布武3大地獄店舗の異名は伊達じゃなく、マージーでとてつもなく忙しい。でも決して流川町が決して暇だった訳じゃない事も付け加えておこうかな。でも本当にそう思えてしまう程に本当に忙しいんだ。一日の時間の流れが異常に早く、ずっと全速力で走ってる間に、気がついたらもう終わっちゃってる感じ。

 この店のピーク帯は開店直後の11時から14時まで、それから少ないまでも疎な時間が18時迄、でそこから再び25時の閉店までずっとピークが続くといった感じだ。俺は最初の1ヶ月間は体力的にも精神的にもほぼほぼ限界ぐらいの精神状態で仕事していた。一緒に飲みに行くまでは、ミコシンって基本的に何考えてるかもわかんないし、仕事も超キツいし、もう辞めて実家帰りたいと何度か考えた事もあった。

 それを考えるとミコシンに飲みに誘って貰った事は、俺の大阪生活の分岐点となった事は間違いないな。彼と飲みに行くようになってから、それ以降少しずつだがスムーズに仕事が出来るようになった。売り上げの低い時間帯は彼と二人で厨房をまわすこともあったが、他のバイトの子が居ない方がやり易いんじゃないかと思える日もあった程に。

 彼ミコシンはちょっと変わっていて、生粋の大阪人なのに、タコ焼きやお好み焼きといった、ご当地で愛されている所謂「粉もん」を嫌う。それには彼なりの持論があって、
「騙されたらアカンて!あんなもん炭水化物の塊や。炭水化物っていうのは実は『糖質』やねん。それが身体に本当はよくないねや。この辺の酒のアテはワシに聞けばええ。本場ってもん教えたるけ」
と言って連れて行くのが、狭いホルモン屋や、どて焼きで有名な比較的汚めの立ち飲み屋とか、角打ちとか言われる酒屋と居酒屋が合体した様な、比較的「色」が濃ゆいハードコアな居酒屋が多かった。

 そんな味の濃ゆい飲み屋で味の濃いものと、ハイボール飲みながらずっと二人で携帯ゲームやってると、普通に飲んでいる時よりも更に酔いが回り、俺たちはいつもゲームどころじゃなくなった。

 二軒目のバーに移ると、更に俺たちは飲みを重ねた。そこでミコシンがたまに悪酔いした時、
「おう、なんかおもろい事言えや」
と雑すぎる大喜利みたいな問答を振ってくることがあった。あの晩は俺も大分酔ってたんで、母ちゃんから止められてたあの「顔面鱗剥がされ龍」の話につい手を出してしまう。その話が終わる頃には何故か悪酔いしていた筈のミコシンが、何故かど素面に戻って、
「自分ホンマに頭おかしいんちゃうか?」
と真顔で真剣に馬鹿にされた。その上に冒頭に、面白くない上に頭がおかしいとしか思えないという、宣伝文句を付けられた状態で、他の客にも同じ話を強制的にさせられる。

 結果として、当然の様に連続的に滑り、俺まで素面に戻るという辱めを受けた悲しい夜もあった。

 二人ともベロンベロンになって騒いだ、あの不毛の様な戯れとでも言うのだろうか。今ではあの頃の夜を思い出すと愛おしく思える。ただあの頃のミコシンに一つだけ言う事が俺にあるとするならば、
「ホルモン焼きもどて焼きも確かに美味いと思う。酒のアテといっても申し分ないだろう。ただ野菜も同時に摂取出来るという観点において、お好み焼きの方がずっと健康的だと俺は思うぞ」
という事ぐらいだろうか?
 
 ミコシンはずっとバンドをやってるという話を聞いた。それが理由で大阪というか、難波を離れたがらないらしい。広島流川町店の鳴丘店長と1年程コンビを組んでた時代があって、その時に「鬼のナルタマ、悪魔のミコシン」というネーミングがついたらしい。その頃は普通の新人バイトが2人についていけず、一日も保たず辞めてしまうヤバい時期があったが、それを機に人員不足というハンデを凌駕する程のスキルを二人とも身につけたらしい。二人の関係性が少し気になったが、まぁ仲は良く無いだろうなと俺は思い、ミコシンには彼女の事は特に尋ねなかったが、

「久しぶりー元気しとる?
 なんかヤバい奴とつるんどるって聞いたでー」
という鳴丘玉美からのLINEで彼らの繋がりと、それがもたらす彼らの距離感をなんとなく確認してしまう。

 彼女を少し懐しく感じたので、電話してみるとミコシンとばっか遊んでないで、折角関西住んでいるんだったら、有名な観光地に行くだとか、その流れで有名ラーメン店に行って勉強するとか、アパートでスープ作りをしてみるだとか、自分にとってプラスになる事をしないと駄目だと五月蝿い。有名店回るるんだったら、前にドイツとアイルランドの友人と3人で済ませたよと答える。すると、
「訳の分からん仕様もない嘘をつくな」
と一切聞き入れてくれない。嘘じゃないのにね。

 わざわざ説明するのが面倒なので、彼女の言う通りにする事にして、テレビで何回か見た事のある有名な城を見に行った。その外観が視界に入った時は、テンション爆上がりしたが、いろいろ話聞くとではなんだかんだで外壁にしろ、内装にしろ時と共に劣化するので、建てた時のオリジナルの素材って、あんまり存在しないらしい。結局のところ木材だからしょうがないよねって、自分に言い聞かせたけど、なんかそれ聞いてちょっとだけ醒めちゃった。
 結局レプリカじゃねえかって。

 けどそんなひねくれもんの俺にも十円玉でお馴染みの「平等院鳳凰堂」は響いた。まず思ってたより建物がそこまで大きくなかった事が逆にリアルに感じられた。あと当時の柱を意識して、製作されたリメイク物の緑を主体としたビビットな絵画が、現代の技術を用いて記載されてるんだけど、そのリメイクの絵画がなんというか、程よくマットな質感だったんだ。
 それまた結局はレプリカじゃんって話なんだけど、そのレプリカがマジでヤバいっていう逆のヤツ。その柄も発狂したあのジミヘンドリクスのアルバムジャケットみたいだなとその時は感じたけど、今スマホで見ると、やっぱあれともまた違うな。
ともあれこんなアートワークは他で見た事がない。これにはマジでヤバいと正直に思った。

 そんな些細な感動を熱弁する俺に、
「んなモンどうでもええけ、モンストやろうや」
とミコシンは寂しそうにゲームに誘う。鬼と悪魔の引っ張り合いを上手く交わしながら、大阪に来てから丁度一年になる頃に澤北店長が、
「望月もそろそろ1人前なるん違うか?」
と褒めてくれた。そういえばここの所、ミコシンに仕事で怒られる事が、前に比べ随分少なくなってる事に気づく。気が付けば、俺は地元鹿児島を離れてから過ごす二回目の冬が来ていた。 

 今日もミコシンはいつも通りだ。
 そういえばコイツバンドやってるとか言ってたよな?なんか本人に直接聞くのはなんか危険な香りがしたので、間接的に鳴丘店長にLINEで其れについて聞いてみると、
「ヤバいという言葉の権化」
としか返ってこない。ついでに、
「バンド活動よりも、ミコシン5年以上付き合ってる彼女おるから、転勤したないんと思うけど?」
と付け加えてきた。

ってかアイツ彼女居るの?
其れなのにずっと俺と連んでて大丈夫なの?
っていうかあの出っ歯の何処が良いの?
と色々なツッコミが俺の脳内で同時多発事故を引き起こす。

 それから「ヤバいという言葉の権化」っていうフレーズがずっと頭にひっかかっていた。その次の日ミコシンになんとなく聞いてみると、そのバンドは相方がパナマに修行に行って一年になるので、その間は活動休止らしい。

 なんでパナマ?運河好きなの?

 相方?もし2人でやってるんだったら、コンビもしくはデュオじゃない?

 とか色々なツッコミが俺の脳内で再度接触事故を、ふたたび同時多発的に起こし始めたので、めんどくさいと感じた俺は思考を意図的に頓挫させた。
彼女とは今も続いてるらしく、長すぎてもうなぁなぁになってもうてるわ。と少し寂しそうな影を見せたので、俺はそれ以上追求しなかった。

 ミコシンのバンドやったらユーチューブで見れるんとちゃうと鳴丘玉美は言ったが、俺が調べたところどうやら現在は削除されているらしい。そのバンドの名前は「なにわドクコタツ」というらしい。意味はわかんないけど、語彙の破壊力となんとも言えないへこい感じの同居感が、如何にもミコシンといった感じだ。でもその動画は結局削除されているらしく、その日暇してた俺は、2時間ぐらいかけて色々探したが、閲覧は不可能だった。

 その翌週の休日は特段する事もなかったので、梅田の方まで足を運ぶ。煌びやかな街中を闊歩するカップルやグループの若者、アジア系観光客らがごった返すなか、一人で来てる奴は俺だけの様に感じられた。色々見て回った上で、好きなスポーツブランドの防寒性の高そうなパーカーを購入して帰る。その際に、不思議と俺の心の中に空虚な小さな固まりが出来た。それは世間一般で孤独感と称されるヤツらしい。

 その小さな固まりがとれればと思ったのかは定かではないが、俺はもう少し歩いて佇まいが妙に渋い立ち飲み屋に入った。ミコシンが好きそうな店だなと思った。そこで湯豆腐と刺身と久し振りに芋焼酎を頼んだ。俺は地元を離れてもう2年半以上にもなる。職場にも先輩同僚にも恵まれて良い期間であったが、急にとてつもなく孤独に苛まれる時がこの頃から増えてきた。

 母ちゃんとはLINEで状況のやり取りはしているものの、親父とは「あの日」以来会話もしてない。稔君はニューヨークに一年程滞在した後、チベット、ミャンマー、ラオス、インドと渡り歩いているらしく、各地で有名な寺院や仏像等の写真を時たま送ってきていたが、無知な俺は其れの凄さと良さが全くわからず、只凄いねとから空返事を続けていた。その過去のやりとりを見てると、彼が凄い遠くに行ってしまった感覚と、それと比較して見る俺の現状があまりにもしょぼすぎる事に落ち込む。このまま此処で飲んでるとそのまま潰れてしまいそうな気がして、俺は仕方なしに電車で難波に戻る。

 アパートに帰る前に店の前を通ると、思いっきりミコシンと目が合ってしまう。店に寄っていけというジェスチャーをしているのに、俺は会釈で逃げるようにその足でそのままアパートへ帰宅する。新しく機種変したスマートフォンで、昔レコード屋で働いてた頃、よく聴いてた音楽をかけそしてもう少しだけ酒を飲んで寝た。
 店は珍しく暇そうだった。

 次の日出勤するとミコシンは休みだった。平日だったので対して忙しくもならず、それなりに仕事をこなす。その日ミコシンは職場に姿を現す事は無かったが、
「相方帰ってきたわ。パナマから」
という謎の倒置法文LINEがちょうど仕事が終わる頃に送られてきていた。

 それからというもの、俺とミコシンとは職場でも疎遠になりがちになった。あんだけ大好きだったモンストの誘いも、
「すまん。最近忙しゅうて、それどころではないねんて」
と手刀を切る苦笑いで返され、俺は誘いをふられる事が多くなった。次第に俺は暇を持て余すようになり、更なる孤独を体感するハメに。

 そんな中、広島のアキさんから電話があった。彼女は大学院を卒業すると、同時に無双布武ラーメンのアルバイトも辞めるらしい。だから世話になったといって電話をくれた。本当に世話になったのは俺なのにね。

「そしたら店長大変になりますね。流川大丈夫かな」
「それがな、本人から聞いたんやけど、もうすぐ異動があるかもみたいな話を、虎聞さんだっけ?上司の人に言われよるらしいんじゃ。まだ何処かは決まっとらんらしいんやけど。パオ太はなんも聞いとらんの?」

「いやそれは俺も初耳っスよ。何処、異動なんでしょーね?」

 例えば澤北店長の様に、家庭や世帯を持っている人間は対象外だが、そうでない人間は基本的には県を跨ぐ様な広範囲の異動もこの会社では少なくない。正直俺もいつ来るかとヒヤヒヤしていたぐらいだ。

「そういや玉ちゃんな、パオ太がおらんようなってから淋しそうにしよったよ」
アキさんは仄めかすように話し出した。彼女は鳴丘玉美より年上な為、彼女の事をそう呼んでいる。
「ああ。店長とは今でもLINEでやりとりはしてますよ。まあ俺も最後に広島で食べた牡蠣を思い出す事ありますよ。楽しい夜だった、懐かしいなぁ」
「懐かしいよなぁ。食べられない言ってた筈のパオ太が一番食べてたのよう覚えてるわ」
「あの時、店長めっちゃキレてましたよね。面白ろかったぁ」
「あの人を馬鹿にすな」
「してないよ。尊敬はしてるもん」
「www.真面目じゃからねぇあの人。ずっと気はっとるじゃん。親御さんとも疎遠になっとるらしいし、多分独りぼっちなんじゃないかと思うんじゃが」

 アキさんは店長の右腕というか、二人はうまいバランスでよく店を回していた。当時初心者丸出しとしか言えない俺に常に絶妙な指示を出してくれた。

「玉ちゃんな。大阪の頃彼氏居ったらしいんじゃけど、なんか浮気されたらしいんじゃ。付き合って半年も経たんのに」
「聞きましたよそれ。エアージョーダン切り裂いたヤツでしょ?」
「嘘!私はその男の頸動脈に刃先を当てたって聞いたけど?」
「マジで?あと3ミリで殺人犯じゃん。当てただけだよね?」
「当たり前じゃろ。それ以上やったらもう務所じゃ。多分冗談と本気で脅しただけじゃろ」
「やられた方は冗談じゃすまんでしょ…。アキさんこの話は店長から聞いたんですよね?」
「うん。本人から聞いた話で」
「マジで怖いんだけど…」
 俺も本人からこの件は聞いた。つまりはこういう事、浮気の現場に遭遇した鳴丘玉美は、まず浮気した男の大事にしてるエアージョーダンを切り裂き、そのままの刃物の切っ先を男の頸動脈にあてて脅したという情景が立体的かつ浮き彫りになった。

 これを被害者側の男目線に置き換えると、かなりのホラー映像になるだろう。俺も一瞬だけ置き換えようとしたが、一生涯悪夢として出てきそうなので、あまりの恐ろしさに俺は即座にその行為を中止した。

「まぁ言うてあの子も繊細な子やし、ああ見えて色々抱えとるけぇ。誰かの支えが必要やと思うんよ」
「でも実家めっちゃ金持ちなんすよね?」
「疎遠になっとるらしいで。絶縁状態らしいけ」
「なんかあったんすかねぇ?」
「そこはアタシもよう知らんのんよ。前にだいぶ飲んでる時に聞き出そうとしたら、忽ち泣き出してしもてな。それでもう辞めたんやけど、根っこは大分深いと思うわ…」
「泣きだす程深いんだ…」
「そういう事やろうね。センシティブな事あんま深堀して聞いてもな」
「うん…確かにそうですね」
俺達は互いに言葉が詰まっていった。

「こんなぁが支えてあげりゃええんじゃ」
急に、アキさんは無責任な発言を。
「うええ?マジで?俺がっすか」
「ほーじゃ。負けん気の強い玉ちゃんには、年下がえー前から思うてじゃ」
「だって…ほらアッチにも選択権ぐらいあるでしょう?俺も軽動脈に刃物当てられるのはちょっと怖いし」
「それは、浮気せんけりゃええだけの話じゃろ?」
「そういう問題じゃないような気がするけどな〜」
「いや、仲はよかったじゃろ?」
「うーん。気は合う方かな?……でも確かに最初会った時、ちょっと可愛いって思いましたけど、即座に超冷たくされて印象悪くなったからなぁ。えーどうしよう?だって浮気したら殺されるんでしょ?」
「パオ太は浮気する男なんか?」
「ちょっと何言ってるかわからんど…」
「パオ太は浮気するような男なんか?言ーて聞いとんじゃ!」
「わかったて。せんせん、せんど!おいはそいげな事すい男じゃなか!」
「パオ太パオ太!」
「今度はいけんしたとよ?」
「訛りでとるてwww.」
「……。知っちょう。馬鹿にせんで下さい」

 その後、俺達は他愛もない事を20分程話してから電話を切った。アキさんはずっと付き合っていた大学院の教授の元に嫁ぐ事になるらしい。住まいは広島だから何時でも牡蠣食いのついでにでも、寄ってくれって言ってくれた。熱くまた優しい人に逢えた事が、嬉しい心持ちにさせてくれる優しい電話だった。


 翌日出勤した時、暫く疎遠になっていたミコシンが、
「自分来週の日曜の夜、空いとるか?」
と聞いてくるので、仕事が無ければ空いてるよと当たり前の事を答えた、シフト見ればわかる事だろ。
「せやな。ワシか自分とどっちか在らな、現状キッチンが回らへんしな」
と口を丸めた手で、口元を隠すような素振りを暫く見せ、
「ちょっと考えるわ、とりあえず空けたってくれや」
と振り返り仕事に戻る。何故かはわかんないけど俺はなんとなく腑に落ちなかった。

 翌日またミコシンは、
「おう。昨日話した来週の日曜なんやけど、他ん店からヘルプ借りれるらしいわ。ほんだら自分はこれ見に欲しいねんけど」
と一枚の紙を渡してきた。
それは彼等のライブの告知フライヤーだった。
「なにわドクコタツンビート1年ぶり、待ちに待ったライブ!」
と大きく記載されていた。

 いや、待ってねえよ! 
 俺は反射的にかつ、素直にそう思った。そのフライヤーにはミコシンと、丸坊主のミコシンぐらいの背丈の男と共に写っていた。ミコシンより少し背の高いと思われる、その丸坊主の男は胸に利き腕なのだろうか、その右の平手を当て表情はなんらかの悟りを開いたかのような優しい笑顔を浮かべていた。
 その笑顔を見た時、確かに俺が知らないだけで、確かにこの街には彼らのライブを待っている人も居るかも知れないなと感じた。けれども彼らと違い俺は待ってた訳じゃない事を、ここで改めて強調させてもらおう。

 それからと言うもの、相変わらずミコシンは忙しそうだった。毎夜仕事が終わると、誰とも話さず一目散に帰っていく。あまり相手してくれなさ過ぎて、俺は暇を持て余してしまう。このままじゃ俺の方がモンスト上手くなるんじゃないかと思った程に。その代わりになるミコシンと話が出来ない間、ホールのバイトの子と話す事が増えた。
 思えば俺達は厨房に籠ってずっと駄弁ってばかりだった。その子等からすると、ミコシンはちょっと怖い存在で、近寄りがたいらしい。
 当たり前だよね。
でも最悪なことついでに、俺も同様に怖い奴って思われてたらしい。
 ウッソでしょ?

 ミコシンはどんな状態でも、ホールへは出ないもんな。俺もこの店はそれで良いのかと思ってた。それを謝るとその子達はミコシンみたいに、俺が怖くなくてよかったと嬉しそうに会話が弾む。
 あれ?俺は今まで凄く損をしている様な気がするんだが。

 ライブ当日、始まる1時間前に俺は現場についていた。地元で中古レコード屋で働いていた時の事を思い出し、感慨深い気持ちを胸に余った時間を珈琲を飲んだりしてやり過ごした。始まる10分前に会場に向かうと、そんな俺を見つけたらしくミコシンは笑いながら駆けてきて、
「おおぅ来てくれたんやな。滅茶苦茶嬉しいわ」
と言って、見て取れるように嬉しそう。ミコシンはいつものスリムの黒パンツに半纏ではなく、ダブルのライダースレザージャケットを着ていて、シルエットはイケてるパンクロッカーみたいだ。でも俺から見ると顔がミコシンだから、なんか笑っちゃう。
 それから相方も紹介して貰う。写真で見た相方さんはスコットランド風のタータンチェックスカートに草履、奇抜なデザインの東南アジア風ジャケットに丸坊主という奇人丸出しの出立ちだった。彼はミコシンが彼を紹介している間、フライヤーの写真同様に胸に平手を当てモナリザの様な笑みを浮かべていた。

 もう俺は彼とは無理して、コミュニケーションは図ろうとはしなかった。彼の事を理解するのは当日中には無理だと判断したからだ。ミコシンは彼の事を呼男(ヨブオ)君という名前の男だと言う事を、なぜか本人が居ない時に説明してきた。俺の個人的な主観に基づく話だが、なんか彼は霊的な変な生き物を呼びそうで怖いとも思える程、奇妙ななんらかのオーラを感じた。それがゆえにその名前を冠してるのかと思える程に。

 やはりミコシンのバンドメンバーは二人だけの様だ。ミコシンと呼男君の「なにわドクコタツ」はその日のライブのトップバッターだった。ミコシンは赤いエレキギター一本に、呼男君の周りは楽器が色々と配置されていた。それはデジタルな機械から、アナログな打楽器を始め、見た事もない民族楽器など、挙げ句の果てにはトランペットまである。
 それらの楽器を全て目視確認しても、彼らがどのジャンルの音楽をプレイするかは、全く予想が出来ない。観客こそ少なかったものの、その二人の立ち姿は今から何かが起こるような、期待を包含させる心持ちにさせるなんらかの気配があった。

 ミコシンがライブ会場のSE担当なんらかの合図を送ると会場にピートシェリーのテレフォンオペレーターが鳴り響いた。人気のバラエティ番組に起用されてることでもよく知られてるこの曲だ。ミコシンの合図により、この曲のヴォリュームが沈むようにダウンされていくと、
「どうもー、僕たち私たちは『カップラーメンの食べ終わった容器をそのまま灰皿として使うヤツ』大嫌い芸人でーす」
とミコシンはボソりと発した。

 どう言うこと?マジで意味わかんない。うーん。正直いうとあの拙僧のない挙動は俺だって好きじゃない。でもそういったことはコンビニの設置されてある灰皿突きながら、駄弁るようなレベルの話だし。言われたところでこっち知らないし。そもそもそのフレーズはあの番組の好きな事とか趣味を紹介する時の常套句だし。自分で処理してくださいよのヤツだし。

 豆鉄砲を喰らった鳩の様な、俺たちの白い目を掻い潜るかのように、ミコシンは持っていた赤いエレキギターをコードを一鳴らしした。ぼんやりとした会場の空気が茹であがった饂飩の麺を氷水で締めるかのように観客はシャキッとなったのか、果たしてなってないのか?
 知らん。すると呼男君が、ドラムマシンで16ビートを刻み出す。そしてそのリズムをなんらかのマシーンにインプットすると、そのリズムがループして繰り返し繰り返し刻まれる事で、それは一つの音楽になった。
 彼はトランペットや打楽器等で更に音を足し、またその場で録音したその音をループさせていく。更にその音は先程ループさせたリズムに乗り、グルーブに彩りが生まれた。気がついたら所謂一つの「打ち込み系」の音楽が成立していた。俺はこの時中々にカッコいい音楽が始まるかも知れない。この時はこれは事件だとすら思えたんだ。その時はね。

 その期待を知ってたのか知らなかったのかどうかは知らないけど、ミコシンは呼男君のプレイを両手を腰にあてなんか偉そうに傍観していた。いやお前もなんかやれ。ミコシンは腰に当てていた両手を解き、またギターを一鳴らしした。それでも観客のレスポンスは良かった。2回しか鳴らしてないのに、こんだけウケれば上出来だろう。そんなギター弾きの世界は甘くないと思うぞ。だってたった2回コードを鳴らしただけだぜ?

 だが俺の期待をよそに彼はギタースタンドにギターを置き、さらに踊りだした。それはなんとも奇妙な踊りだった。音楽のサウンドは呼男君が完全に作り上げてくれたし、正直音楽としては、ミコシン抜きでも十分成り立ってはいた。確かにでも俺は、友人の立場としてはミコシンが活躍する所が見たかったんだ。変なダンスを見たかった訳じゃない。そのわけのわかんない踊りをするぐらいだったら、せめて歌ぐらい歌ってくれればいいのに。
 
 それが伝わったように、ミコシンは踊りながらマイクスタンドに近づいていく。お~とうとう満を辞して歌うのかと思えば、
「イエー」
と雑にシャウト。それには飽き足らず、
「カモン」とか「イエー」とか「ヒエー」
的な事を発しながら、ずっとクネクネと踊り続けるだけだった。

 おい。なんじゃこら。知り合いじゃなければ、余裕でもう家に帰ってるぞ。もしかしてこれをずっと見せるつもりか?
 だがそんな俺の気持ちも裏腹に、呼男君は更にストリングス的なエフェクトをサウンドに加えた。それにより、その音楽は美しさと重厚感をさらに増した。ミコシンはそれに合わせ更に奇妙なダンスを踊る。更にヒートアップして、声にならないような叫びを入れ出した。結局その曲中ミコシンはそれ以上、ギターを弾く事もなく、唄う事もなかった。

 一曲を終えたミコシンは、スタンドマイクを掴んで、息のあがった声で観客に向かい曲紹介をする。
「ありがとさん。一曲目はジェイムズブラウン物真似大会でした」
 
 なにそれ?
 曲名に「大会」って入る事ってあるの?

 前衛的どころの騒ぎじゃない。これはシュール過ぎてもう意味わからん。色々と連立するツッコミどころの多さに、俺は呆気に取られていた。呼男君はともかくミコシンは酷い。こんなもん人前でやるな、やるんだったら家でやれと俺は心底感じていた。だが昔から彼等の活動を応援している方も居るらしく、その方々は暖かい声援を送っていた。間髪入れずに、次の曲に行こうとするミコシンを制しながら呼男君が、
「どうもありがとうございます。僕ら『なにわドクコタツ』言いまして、2人組で音楽演らせて貰うとります。一応我々のコンセプトがありまして、『本来自分の家でやるレベルの芸。其れにもかかわらず敢えて人前で演るのである』という事を理念に活動させて貰うとります。なのでそんなもん家でやれと思うような方がいらっしゃった場合、実際に大声で叫んでください、家でやれと!それを励みに我々は活動してゆくのである!」
と胸に平手をあて雄弁と語った。

 それに合わせて昔から観客たちは、
「家でやれー!」
という声援なのか、罵倒なのかも定かではない、エールなのか、ディスリスペクトなのかも、
判断しかねる罵倒のような声かけをしていた。
その罵声を浴びながら、呼男君は平手を胸に当てたまま天を仰ぎ、ふるふると立ち尽くしていた。

 俺は自分自身と彼等とこの状況をどう形容すれば良いのか、至る術を知り得ない。もし敢えて形容するならば、多分現在今自分まで、存在を確認された事がないタイプの変態なんだろう。
 長い人類史において。

 その後も二人は本当に家でやれというレベルの音楽を数曲披露した。ライブ会場にも観客の、
「家でやれ」
という愛のある暖かい罵倒が響き渡った。怒り、呆れ、愛おしさ、等色々な感情が混濁して、気付けば俺も本気で叫んでいた。人生で最も無駄と感じられるような時間を過ごし、俺らは本当に奇妙な一体感に包まれていった。この馬鹿げたショーと俺たちは最後は全員笑顔になっていた。多分通常の音楽では感じ得る事の無いとても空虚でかつ、幸福な一体感だったと言えるだろう。

 知らないけど。

 打ち上げの居酒屋ではミコシンは大分酔っ払ってる様子だった。他の出演者の方々と揉みくちゃになりながら騒いでる。俺を見つけては奇声をあげながら駆けて来て抱きつく、この30半ばのオッサンが俺は愛おしくも思えた。ライブにはミコシンの彼女が来ていたが、女優かよオイっていうぐらいの美人だったんで俺はぶったまげた。

 俺は羨ましさと悔しさで、感情が不安定になってしまい、そのまま店を後にしてそれからラーメン銀龍に行き激辛のキムチを投入して、それを悶絶しながら喰った。喉が焼けるぐらいの辛さに耐えながら、あんな綺麗な彼女が居るんだったら、ミコシンは普通に社員になって家庭を作った方が良いのに。そんなこと思いながら、汗だくになって激辛ラーメンを完食した。

 数日後、丁度電話の来た鳴丘玉美に、ミコシンのライブの内容を教えてあげると、
「家でやれ」
のフレーズがツボにハマったらしく、声が聞こえないぐらいの爆笑していた。こっちは軽い結果報告のつもりで伝えたのだが。彼女にとって余程面白かったのか、ツボに入り過ぎてて此方が伝えたい内容が全く進まない。それが面倒臭くなって、俺は一旦電話を切る。

 1時間ほど寝かせてからもう一度電話すると、彼女は一方的に切るのは酷いと少し怒っていた。無礼をしっかり詫び状況確認の為、
「家でやれ」
と言うと、笑いという奈落の崖に落ちる事のないよう、片手で必死に踏ん張ってるような様子で応対している。もう一度切ろうと思ったが、流石に可哀想なので本題のミコシンの彼女を知ってるかと聞くと、
「知っとるで。前はよく店にも来よったしな。メッチャ美人やろ?」
そういう良い人が居るんなら、社員になって家庭を持った方がいいんじゃないかと俺の意見をいうと、
「せやけど、それはミコシンが決める事なんちゃうん?アンタが気にする事とちゃうやろ」
と冷淡にあしらわれた。さっき迄、あんなツボってやがった癖に。

 その時は不思議と腑に落ちなかったが、その原因は途中で俺が電話を切った事がそうさせたのかもなと気づいたのは、その日アパートに帰ってシャワー浴びてる時の事だった。
 
 ミコシンはライブ終わった次の日から、呼男君が来る以前の振る舞いに戻った。次は高知に行くってまた出て行ったらしい。

 また二人でモンストやら飲み行く機会は増えたのは良かったが、ミコシンの彼女は凄い美人だったので、言い寄る男も多いだろうと思うんだ。もし彼女に去られたら、こんな万年バイトの出っ歯誰が惚れるだろうか。

 いや!俺も人の事言えた口じゃないのは知ってる。余計なお世話だろ、そもそも俺自身に彼女が居ないじゃないか。こんな状態で人の幸せを与える為に影で奔走する奴がいるだろうか。要領のいい奴っていうのは自分の幸せに対してピュアに忠実で、それでいて当たり前のように幸福を手に入れているように思うぞ?
 それでも何故か俺はあの不器用なロン毛の出っ歯に幸せになって貰いたいという気持ちが止められず、行動を起こしていたんだ。
 たぶん俺も同じく不器用な人間なんだろう。

「まぁ自由な奴やけ、好きにさせてやりたい言う気持ちもあるんじゃが。でも確かに御子柴がここの店長やってくれるんやったら、それでこの店がぐっと纏まるかも知れへんなっていうような気も確かにせん訳でもないかなぁ」

 無双布武超ハード店3大店舗「難波千日前店」を束ねる「澤ヤン」こと澤北将善店長は人徳者で有名。俺は此処で働きだしてもう2年程になるが、この人が怒ってるところを見た事がない。感情で怒らず、論と徳で導いてくれるといった感じで、人間的に大きい、一見地味に見えて実は本当に凄い人。なので彼を慕う人間も多く、ミコシンも勿論その一人だ。

「だって澤北店長には管理職への出世の話が来てるんですよね」
「せやねん。ワシの年齢的にも、この店の運営はちとハード過ぎんのんじゃ。ぶっちゃけ言うなら2年前から腰もいわしとるし、それを思うての会社からの提案やねん」
「よく休憩室でそのまま寝られてる事ありますもんね」
「ほんとは家帰りたいねんけど、終電回ってもうてたりすると、しんど過ぎてそんまま寝てまう事もあるわ」
「一寸働き過ぎじゃないですか?」
「しゃあないやんけ。お客さんが来てくれるんやけ、ありがたいことやないか。お客さんが来てくれへん心辛さに比べりゃ、ワシはこっちの方がええわ」
「でもそれでも体壊したら、仕様がないと思う…誰もフォロー出来ないし…」
「…やねんな。店で寝てもうたら、子供にも会われへんし。せやけど代わりがおらへんねん。何処の店長も此処はキツいから、ようせん言うとるらしいしわ。望月お前どうじゃ?一度此処で店長やってみんか」
「www.いや…ちょっと…僕には荷が重いっていうか、www.結局僕は実家のラーメン継がんといかんし。それ考えちゃうとちょっと無理かな〜みたいな。ねぇwww.」
「フワフワと逃げんなや望月www.」
「だからミコシンに彼女と籍入れさせて、そのまま店長継がさせるのが一番早いんですって!」
「うん。確かにせやねんけど。本人が乗り気とちゃうからさぁ」
「うん〜。でも店長的にはミコシンが継いでくれた方がいいんすよね。そしたら無理矢理にでもそっちの方に舵切るように進めた方がいいと思うんだけどなぁ」
「うーん…余計なお世話とちゃうか?確かにあいつが最初に入った頃は、全国何処でも異動OKじゃないと社員にはなれへんかった。けども最近では働き方改革とかあって会社も規制も緩なって、異動無しの店長っていう選択も出来るように最近変わったのは望月も知っとるやろ。もちろんその話は御子柴にもしとるで?」
「でも聞く耳持たない状態みたいな。多分意固地になってると思うんすよね。あの人らしいというか」
「アイツは不器用で馬鹿なんじゃ。今の自分の稼ぎじゃ食わせられへん。せやけ今の彼女ともわざと距離を置いとる」
「ライブの時来てましたよ。すっごい美人すよね」
「モデルん子やからな。元やけど」
「あの人モデルだったんすか?」
「ww. 君、なんで御子柴?って思っとる?」
「正直言うとムカついてるぐらいです」
「でもいいよったんはあの娘からやで。ミコシンってあだ名をつけたんもあの娘じゃ」
「へー、そなんだー」
 滅茶苦茶羨ましい嫉みを胸に、俺は安っぽい相槌が打つだけで精一杯だった。ついでに足元にある何らかの鉄パイプを足先でこずくという地味な上に痛いしムカつく例のドジ挙動をしてしまった。

「でもミコシンもホールの仕事ってしないっすよね?」
「厨房から出ようともせえへんやろ。でもな昔はホールもやってた」
「マジですか?ミコシンが接客してるの想像しただけでちょっと面白いす」
「ペコペコ頭下げんのダサいわ言い出して、厨房に籠りだしてん。まぁそこで他に文句言わさんぐらいスキル上げたんは、流石といったところでもあるんじゃが。俺がこういった話し出すと、今んままでええですわ言うて聞かへんしな」
「意固地になってるだけでしょ?」
「おそらくはそうかもしれへんな」
「あの人結構面倒くさいトコありますもんね」
「一応お前よりも年上でかつ大先輩や。望月」
「すんません」

「店長。ミコシンのその一件、俺に任せて貰えないですか?」
「うん〜ええで。お前が1番仲ええもんな、今んとこ。なんか策でもあるんけ?」
「一個も無いっす」
「ないんかい、ある感じの言い方やったやんけ」
 それから俺はどういうやり方で、あの強情っ張り出っ歯をなんとか幸せにする術を、無い知恵を絞って考えた。

 仕事終わりに一杯やろうと誘って、深夜までやってる彼奴ん家の近くのチェーン系の居酒屋に。𩸽の塩焼きと鶏の軟骨唐揚とビールを二つ頼んで、色々話した。ミコシンが呼男君に電話してみようというので、電話をしてみる。すると鍛錬と精神集中の為、桂浜で座禅を組んでいるらしい。
 
 今。真夜中だぜ?
 相変わらず天然なのか、ボケてるのかの境目がよくわからない人だ。ハイボールに移行するミコシンに対し、酔い過ぎると良くないなと俺は慌てて本題に移行する。
「ミコシンあのさ、これからどうしていこうみたいな気持ちとかってあるのかなぁ〜みたいな事、此間のライブの時に思ったんだけど」
「なんでよ?ワシは今からもこんままじゃ」
 という返しに俺は気にし過ぎなのかも知れないけど、若干俺達の間を流れる空気がピリついたように感じた。
「いやあのね。こないだライブん時、彼女さんきてたじゃん。すっごい綺麗だねぇあの人って思って」
「なんや麗のことかいな。彼奴がどうしたんか?」
「ミコシンもそろそろいい年だし、嫁に貰っとかないとあんだけ美人だったら、何処ぞのすけこましに持ってかれるかもしんないよ」
「そんなもんお前に関係あらへんやないか。確かに麗はええ女や。モテる事ぐらい知っとる。せやけどアレはワシに惚れとんねん。ワシもバンドとか色々あるし、色々忙しかったりするしの」

 悪いけどあれはバンドじゃねえよ。音楽は呼男君任せで、お前奇声発しながらクネクネ踊ってただけじゃねーか?と言いたいのを堪えて堪えて言葉を選んで、店長をするように薦めると、
「澤ヤンに言え、言われたんか?」
 そう言う彼の瞳孔の奥に仄かな怒りと、微かな怯えを俺は確認した。それに応じるように俺の中にミコシンを導いてやらなくてはと想いが再浮上する。
「店長は関係ないよ。俺の考え」
「あ。ほうか」
と体の向きをずらし、またスマホを弄りだした。これじゃ埒があかない、
「ミコシンはどうしたいの?」
「さっきも言うたやろ。暫くはこんままや」
「それは彼女さんも同じ意見?」
それを聞いた途端、ミコシンは俺の方に体を向け舌打ちして、
「おどれに関係あらへんやないか!」
と今度は明確に声に怒りが混じっているのが、確認出来るトーンと音量。ついでに机も叩いたんで、思いの外だいぶ大きな音がした。ミコシンも思ってたより、大きな音がしたみたいで、ほんの一瞬だけその音に微かに怯む表情を確認した。

 隣の席のカップルが俺らを見て、なんらかの話をしだす、まあ当然こうなるわな。俺達に集まってしまった視線を分散させる為、会釈を含む謝罪を周囲の客にふりまく事でピリついた空気が、若干緩和された様に俺には感じとれた。俺は空気を静かに吸って、言葉を選んで、丁寧に伝える様努める。
「確かに俺には関係ないのかも知れないけど、俺はただミコシンに幸せになって貰いたいだけなんよ。澤北店長もミコシンがあの店の店長やってくれるんだったら助かるし、任せられるのもミコシンぐらいしか居ないって言ってるんだし…」
「せん。ワシやらへん言うとんじゃ」
 ミコシンは静かにまた外方を向いた。

「だから目の前の俺がやれって言ってんの」
「け。年下のペーぺーが少し厨房まわし覚えたぐらいで、先輩の人生にどうこういうようになるとはの。おどれの教育の仕方、何処で間違えてもうてしまったんかいの。お前もうええわ。そんな人の事気にしとる暇あんねやったら、通り出てナンパでもせーや。彼女もおらん癖によ」

 一番痛い所を突かれて、感情的になる気持ちを必死に宥めながら、俺は彼の人生が良くなるように進言を続けた。それでもこの男はゆるりふわりと其れを避け続ける、もう拉致があかん。致し方なく最後のカードを切ろう。

「でもさ。呼男君と何年やっても、音楽で飯は食える様にはならんと思うよ」

「うん。それは解っとる」
 ミコシンは間髪入れずとに即答した。

「解っとったんかいオイ!」
 思わず、俺は年上に全力ツッコミを入れてしまった。

 とまぁそんなこんなでミコシンは難波千日前店の店長になった。本人はホールの仕事や内務は出来るって言いやがったが、このおっさんは物の見事にその全てを忘却してやがった。だから俺が教育係となり、全てを再教育する事になったんだが、メモは取らない、言った事はすぐ忘れる。教えるのには、正直相当往生した。

 でもそこで気がついたのが、俺は鳴丘玉美やこのミコシンとは違うタイプの人間らしい。磁石にプラスとマイナスがある様に、人間も二つのタイプがある様に思える。彼等がプラスであるとするならば、俺はマイナスの人間なのかも。人を叱るときに相手の感情を鑑み過ぎて、上手くというか悪く言えば無慈悲に律する事が出来ない。人間っていうのは生きれば生きる程、そのやり方が難しくなるような気がするのは俺だけだろうか?

 ミコシンがホールの仕事や経理関係の仕事が、だいたい一人前になったかなと思えるようになった頃、懐かしい声から電話がかかって来た。

 虎聞さんは相変わらず山陽地区方面の担当をされてるらしく、あの優しい口調は相変わらずだった。もう何処でもやれるレベルになったと澤北店長から聞いてるらしい。それを踏まえた上で、俺に新店立ち上げの異動通知が来た。店名は児島店という名前だった。

 俺の新しいミッションは、先ずはこれから開店する新しい店舗の基盤を作る事。それが出来るまでの間のみ、サポーターとして猛者を送りこむという内容の通知だった。その猛者から、
「店長就任おめでとー。ちょっとの間やけど、アタシも応援に行くらしいでー」
という懐かしく、また嬉しいLINEがあったのはその日の夕方だった。

 もう鹿児島を離れてそろそろ3年になるが、その間俺は一度も帰郷出来てない。地元や家族の事を考えると、こういった生活は何時迄も続けられんかも知れないなと思うと少し不安に感じた。大阪を離れる前日の勤務、ミコシンとゆっくり話したい気持ちとは反対に、店は驚く程の大盛況だった。だいぶ経った後に、御子柴店長から聞いた情報では、開店から歴代3番目の売上を叩き出した日だったらしい。その日のミコシンは俺と澤北店長が居なくなる事と、店舗を任される責任に対する不安で心が押し潰されそうだったらしい。それは後日談ではあるのだが、意外と可愛いとこあるんだよねミコシンって。彼女さんの気持ちも少し分かるわ。

 店の締めが完全に終わって最後の荷造りがあるので、足早に帰ろうとする俺にミコシンはスッと手を差し出した。ミコシンの目を見ると彼の色々な感情が伺えた。あえて握手はせず、互いの拳を重ねて俺達は別れた。
 


 〜Aside〜

 岡山市までは新幹線を使って1時間ちょいだった。それからローカル線に乗換え、30分程乗車すると都会をドンドン離れ、穏やかな風景に俺は心が穏やかになっていく。大阪ではアメリカ村に行って買い物を楽しんだり、電車で天満や新今宮、十三に北の曽根崎新地等へ飲み歩いたりもした。俺はあの街が好きだった。休みの日にはよく憧れのなんばグランド花月に漫才を観に行ったもんだ。ミコシンという同僚にも恵まれた俺は、生涯の親友も得る事が出来た。俺はあの大都会で決して無理してた訳なんかじゃない。

 ただ中心街を離れ田舎になっていく、電車の夕景に穏やかになっていく心に、俺は結局田舎モンで自然の風景が好きなんだなと痛感させられた。

 岡山県倉敷市児島は情緒深い港町だ。電車を降りると、ネットで調べてた通り本当にデニム一色だった。流石に駅までジーパンになってると思いもしなかった俺は、少し興奮してしまった。虎聞さんとの打ち合わせとアパートの鍵の受け渡しまで、少し時間があったので、ブラブラと波止場を歩く。潮騒の香りを楽しみながら、こういう所で釣りでもしながら生活するのも悪くないねと思いながら、ジーパンだらけの駅や海の画像を、ミコシンにLINEで送ったりした。

「無双布武ラーメン児島店」は所謂ロードサイド店だ。本州と四国を繋ぐこの街の、そこを車で行き来するであろうサラリーマンだったり、近隣の家庭層をしっかり掴む事で成り立つと思われる比較的小さ目の店舗。なので、席数はカウンター中心の作りになっており、カウンター12席に4名テーブル席が8席という構造で、前の店と比べ印象は「ちっさ。せま」という感じだった。でも前の千日前店に比べると、随分とシンプルな構造で仕事はしやすそう。俺はこの店が立地も含めて初見で好きになった。店の前に『堂々オープン』という看板がその日付を、所狭しと掲示していた。

 店内に入ると、虎聞さんはいつもの洒落たスーツ姿でノートパソコンをカタカタと叩いてた。久しぶりに会う若過ぎる中間管理職は、全国の店舗の中でも3本の指に入るハードな店、難波で戦ってきた俺を賞賛してくれた。俺は恥ずかしくなり、笑って誤魔化しながら店に入ると、全てが新品の厨房が待っていた。寸胴鍋やお玉等はまだビニールに入ったままだった。こんな綺麗な店を、俺に任せてくれるのかと思うと純粋に嬉しい。その時の感覚はガキの時にオモチャを一つだけ買ってやるから、選んでいいぞと言われた時に似てた。

 そんな俺をずっと虎聞さんは可笑しそうに眺めてた。彼に見られてる事に気付きふと我に戻る。頭を落ち着かせ冷静にもどり、懸命に働く事を伝える。
 
 いつも通りアパートの鍵を預る。
「仕事は明後日から。だからお前ゆっくり休め、どうせ昨日たいして寝れてねえんだろ。英気を養って、明後日気合い入れて出て来い。改めて開店準備の指示を出すからよ」
 昨日難波千日前店が忙しかったのはお見通しか。流石、あの鳴丘玉美に敵わないと言わせた男だ。礼を告げ店を出ようとする俺を、
「望月、お前ジーパン持ってるか?」
と呼び止める。持ってないすよと応えると、
「適当なヤツ2足ぐらい買っとけよ。仕事で使うわ」
どうやら児島店はジーンズ着用での勤務となるらしい。 

 俺の新しいマンションは海の近くだった。こんなにテンションのあがる事なんて他にあるか?引越業者が来るまであと2時間ぐらい余裕があったので、手荷物だけパッと下ろして短パンとサンダルで漁港を歩く。缶コーヒー片手にテトラポットから海を見ていると、稔君と行った浜辺を思い出し感傷に耽った。先程ミコシンに送った写真と同様の物を送って、
「今、何処だと思います?」
と稔君のラインに送信した。

 律儀な稔君から折返しの電話があったのは、奇しくも引越業者の搬入の時間だったので、ドタバタと手短に今までの経緯をざっくり説明した。彼もまた忙しかったようで、お互い今までの経緯を簡単に聞いた。東南アジアの旅が終って、今では一応日本には居るけど、全国を車で回って色々な僧侶の方と宗派問わず、日々議論し勉強させて貰ってるらしい。
なんて勉強が好きな人だ。
 
 引越業者が帰る頃には夕方を越え、辺りはもう薄暗くなっていた。最初鹿児島から出てきた頃と比べ、中古で購入し揃えたベッドやテレビを見て、少しは快適になったと思える環境になったと我ながら思う。だが今日は折角の初めての児島の夜だし、シャワーだけ浴びて、駅前の居酒屋に出かけよう。その前にもう一回、さっきの波止場を歩き気分が良くなったのでミコシンに電話をかけてみると、
「忙しんじゃボケ!」
って電話先で激しく怒鳴られた。
なんて怖い奴だ。

 駅前の居酒屋に入りビールを頼み、何かオススメありますかと聞くと、この土地の海産物は蛸が有名らしい。蛸なんて何処で食っても一緒だろとは思ったが、そういえば暫く食ってないな。まあ久しぶりに食ってみるかと一応頼んでみる。

 料理が出てきて驚く。なんというか表面というか、皮というか皮膚というか、例の赤い箇所がない。あの部分はなんと呼ぶのだろうか。おそらく表面の赤い部分は、恐らく除去されているのだろう。それはともあれ蛸の刺身は勿論鮮度も高かったし、抜群に美味かった。児島最初の夜は、良い夕食にありつけた。コンビニでレモンサワーとちょっとしたつまみを買って帰り、アパートに帰りテレビを見た。大阪で毎週見てた若手芸人の深夜番組が見れなかった事が少し悲しかった。

 翌日、この土地で有名らしい児島ジーンズストリートという所へ出かける。通りの中はジーンズショップがなんと40店近く存在していた。店舗を色々と見てレギュラーなテーパード型とゆったりしたデザインの二足を購入する。帰りに中華そば幸嬉という店に立ち寄った。店の外観からもう渋いルックスの俺好みのラーメン屋。甘いテイストの豚骨醤油ラーメンを食うと、頑なそうな店主がどうしても親父と被り、俺はどうしてもこの方と話したくなった。

 他の客が丁度居なかったので、自分は昨日この街に来た事と、此処から少し離れた所で「無双布武ラーメン児島店」という所で、1週間後に店長として勤務する事を話すと、
「なんじゃ自分、先制布告言う事か?」
と少しピリついた空気になってしまう。これはヤバいと思って、そういう訳じゃない。実は俺の実家もラーメン屋で大将の姿を見ると、どうしても自分の親父の姿を思い出してしまう。それで話しかけた事を必死に説明しても、大将の曲がったヘソは戻せなかった。怒鳴られて帰る俺の後ろ姿に、見かねた奥さんが、
「負けんと頑張りんさいよ〜、応援しとるけ!」
大きな声をかけてくれた。まるで俺ん家みてえじゃねーかと思って、後ろを振り向かず俺は店を後にした。

 翌日新品のジーンズに、制服のTシャツで約束の時間より30分早く出勤すると、まだ虎聞さんはまだ来てなかった。店の駐車場に落ち葉が散乱してたので、掃除をしようと思ったが箒が無いので、仕方無く手で落ち葉を拾っていたら、約束の時間5分前に虎聞さんの営業車が到着し、
「どうしたの?やる気満々じゃん」
といつも通りの優しい笑顔で車から降りる。この人とだったら良い店が作れそうな気がした。多分錯覚ではないと思う。

 虎聞さんと店を開け、打ち合わせを始める。先ずこの1週間でやる事の説明から。

 今日明日の2日間は店舗内の立ち上げ。厨房内を調理及び、実際に料理が提供出来る段階までのセッティング。その間に今後お世話になる、本部から来る物品の搬入業者が来る事になってるから、その方々と挨拶及び名刺交換。因みに俺の人生初の名刺だった。厨房のレイアウトは会社が決めた通りになっており、器具やその場所のセッティング作業は基本的に俺が全て行う。虎聞さんがチェックし、ダメ出しというか修正するという感じで勧められた。

 3日後からは、近隣住人の方々への挨拶回り。グーグルマップを拡大して、プリントアウトして一軒一軒、対面式に近隣住人を挨拶で軒並み訪問。当然だが好意的な方もいれば、露骨に嫌な顔される方もいらっしゃる。当たり前だ、俺だって家でゆっくりしてる所にこんな訪問来たら、鬱陶しく思うのは間違いないと思う。でも俺の予想とは裏腹に、住民の方々は思いの外優しく受け入れてくれ、俺にはこの場所が随分と身近に感じられた。これは虎聞さんと二人で地図のプリントをテリトリー分けして回り込んだ。

 回り込みが終わった後に、偶然にも俺達は「中華そば幸嬉」の前を通る。虎聞さんは「よってくか」というので、此間あった事を正直に話す。
「なおの事だな。ラーメン喰ってこうや」
 虎聞さんは平然と店に入っていく。
俺は此間から二日も経ってないので、親父さんから怒鳴られた事を思い出して、気が進まない気持ちを抑えながら、重たい扉を開ける。と奥さんが、
「あらあ、店長さんじゃない。この人とお店の場所見に行ったんよ。二人で良い場所じゃ言うてねぇ。オープンはいつの予定になるんよ?」
と明るく話しかけてくれたが、親父さんはぶすりと奥で麺を茹でていた。

 虎聞さんは親父さんに名刺を出し、俺の上司であると名乗り挨拶した。しかし親父さんは厨房から出る事はない。無理もない、当然の対応だと言えるだろう。注文したラーメンを二人で頂く。やはり此処は旨い。この地でラーメン店を経営するのであれば、強敵になるのは間違いないだろう。支払いは虎聞さんの奢りだった。

 店を出る前、親父さんに
「旨かったです。ご馳走様でした」
と虎聞さんは深々と頭を下げた。親父さんは少し困った感じで、
「お手柔らかに頼むわ」
と仰られる。その間も、虎聞さんは無言で頭を下げたままだった。慌てて頭を下げた俺にも、
「店長さんもな」
と苦笑いだった。どう返して良いのかわからず俺も、
「旨かったです。ご馳走様でした」
と俺も虎聞さんを真似て礼を言った。

 帰り道、虎聞さんはスラックスに手を突っ込んだまま静かに歩いていた。俺は何か言わないといけないと思いつつも、言葉がうまくでてこず、ただ俯いて彼の後をついて帰路を進む。
 
 店に近づいた道路で急に虎聞さんは立ち止まる。
「あの人はこれから俺達の敵になるだろうな」
ポケットに手を突っ込んだままで、夕陽を背に俺に問う彼の声のトーンや挙動に、俺はなんらかの緊張を感じた。
「今後あの親父さんや奥さんがでしょうか?」
「おう。しかも強敵な商売敵になっていくだろうと俺は思うぜ」
「敵っすかぁ。それ正直俺も考えてたんですけど、昔から争い事ってのは好きになれんくて、平和に共存ってのは難しいんすかね?」
「なるほど…。共存…平和…ね。じゃあ逆に聞くけど一つの地域にラーメン店が、元々一店だけあったとする。でも他の業者が参入して更にもう一店、出店したとする。そしたらどういう状況が発生するか?」
「一つの地域にラーメン屋がもう一軒多くなりますね」
「必然的にそうなるよな、そしたらよ。その地域全体のラーメン一食分を食べる回数、求める回数とも言えるかな?其れをニーズという呼び方に変えよう。そしてその地域のラーメン屋が、1店しかなかった所から、2店もある状態に増える。その事によってその需要。つまりそのニーズが2倍にするという現象は起こりうるだろうか?」
「……起こりえないと思います…起こりっこないや」
「そういう事」
「…甘すぎるって事なんすね…」
「そこが望月の良いところなんだろうけどな。俺達が身を置いてる現代の資本主義ビジネスは、もう少しだけビタースィートな世界ってわけ」
「戦いって事なんか…」
どういう表情で虎聞さんはこう言う事を言うのだろうと思って、彼の顔を見ようとするが沈みゆく西日の光が邪魔してうまく見えなかった。

 この先、虎聞さんと俺は、何故か会話が弾まなくなる。だがその分スムーズに仕事をこなし、新店準備は着々と進んだ。そんなこんなで、俺と虎聞さんと開店前3日前の夕方、聞き覚えのある関西弁が聞こえた。虎聞さんと3分程話して、
「久しぶり、宜しくな」
と足早に帰ってく、久し振りに見る鳴丘玉美は何処となく元気が無いように、俺の目には映った。

 当時なかなかに俺達を苦悩させた、オープニングスタッフが全然集まらないと言う問題も、なんとか前日には瀧本さんという主婦の方が、ギリギリで応募してこられたので、即採用。これでも当初の予定よりは全然足りないという状況。でも頭数を確保出来ただけでもありがたい。

 瀧本さんは生まれも育ちも岡山県で、根っからの児島人だ。ご主人はジーンズ生地を作る職人さんらしく、バッグからキーケースまでそれで作られたものを愛用されている。パンツを作る際に、余る生地を夫婦で活用して作っているらしい。はつらつとした感じの良い方で、俺達は直ぐに彼女が気に入った。

 開店当日、11時の開店時間の前には有難い事に5人程の列が出来ていた。こちら側は俺がキッチンの全て、ホールは鳴丘玉美が瀧本さんに指導しながら店舗を運営するというスタイルで対応。2人体制状況を見てヤバそうだったら、虎聞さんも参戦するという布陣を敷く。昼の営業11時から、15時までの営業で30食分のラーメンを1人で捌く形になった。だが難波で鍛えられた俺からすると、正直余裕だった。だがホールの「鬼のナルタマ」こと、鳴丘玉美は何故かいつもと違い、心此処にあらずと言った感じに見えた。その彼女に少し瀧本さんは混乱している様に見えたが、気のせいだろうなとその日は深くは考えなかった。

 次の日は初日の9割強の売上だった。俺はこの日で此処での仕事にも大分慣れ、手隙でホールの片付けの手伝いをする余裕も出来た。酔っ払いや粗い若者中心だった難波や流川に比べ、此処、児島はサラリーマンや家族という客層で比較的トラブルも少なく、俺にとって楽に働ける環境だと思い、表面には出さないものの正直内心は嬉々としていた。

 ただしこの日の営業中、俺は重ねられた3枚の丼が客席にずっと鎮座している事に気がつく。こういった状態の丼を俺は良く知ってる。所謂「下げ忘れ」というヤツだ。客が完食した丼を早く下げる為、一つの皿に飲み残しの汁を集める。そして空いた皿を下に重ねる。そのまま洗い場に運んで仕舞えばギリギリセーフ。本当はこれも会社のルール的にアウトなんだけどね。

 この案件は重ねたまでは良いが、誰かに呼ばれたり他の仕事にかかって、そのまま忘れ去られているかなり宜しくない状況と言える。当然お客様に対してもだし、見栄えも良くない。

 これは実際、俺が広島時代に良くしていたミスで、よく鳴丘玉美に怒鳴られていたヤツだ。そもそも皿を重ねる事自体、会社のマニュアルとしては、禁じられている。最悪割っちゃう可能性が増えるからね。  

 まぁそんな 他の店じゃタブーの事でも、大阪の難波の店では、普通に皆ゴリゴリにやってるから飲食業界ってのは正直わからん。でもあの店ではそれぐらいやらないと本気で店が回らないから、暗黙の了解で皆やっているからなんとも言えないなぁ。

 俺はこんな初歩的なミスするのは、瀧本さんだろうと思った。こういった事は何故してはいけないのかという理由を説明をしっかりとして、最初で指導しないといけないと思って、彼女に聞いてみると知らないんだって。じゃあやったのは鳴丘玉美?
 ないないない、そりゃねーだろ。多分勘違いで俺が自分でやって忘れてるだけだろうとその日は閉店する。俺がキッチンを閉めている間に、彼女は退勤を押して帰宅していた。でもなーんか腑に落ちないんだよなぁ。

 その翌日もオープン日からは右肩下がりだったが、それなりに集客できた。俺は出勤時から鳴丘玉美の挙動を気にしていたが、ちゃんと働いてはいるものの、常に俺の死角にいるような感じで、行動を上手いこと把握できない。ピーク帯が終わり俺も動きに余裕が出来たので、ホールに出るとあの女の姿が10分程見当たらない。

 瀧本さんに聞いてみると、仕事中もずっとスマホ見たりずっとソワソワしているらしい。今みたいにトイレに篭る事も2度ほどあったという。最後に瀧本さんは、
「あの人やる気あるんですかね?」
とあっけらかんと言った。あの鳴丘玉美が?俺は思わず吹き出してしまった。少し面白いが彼女を囲む状況がに、なんらかの異変が起きているのは間違いなさそうだ。
「なんかあったんすか?」
俺はトイレから出てきた彼女に、なんとなしに聞いてみる。
「なんでや?なんもないわ」
と鳴丘玉美は早口で答え、俺の方を向こうとせずその場を足速に後にした。これは絶対なんかあるヤツだ。こういった事に全く気の利かない無頓着な俺にだって流石にわかる。

 その日は彼女に無理に聞き出すことはせず、その日店を閉めてから有力な情報を入手する為に、情報源に聞き込みを始める。

「あん娘、未だ帰っとらんの?」
 アキさんは俺からの来電で全てを理解したらしい。
 詳しく聞くと、鳴丘玉美は高校卒業と同時に、何不自由無い鳴丘通商を営む実家を離れ、幾つかのラーメン屋でアルバイトしながら、数件もの友人の家を渡り歩き、現在の無双布武に就職したらしい。勿論家族は反対していたので、鳴丘玉美は連絡を基本的には取らなかった。ただ母親からはずっとメールが毎日送られてたらしいが、鳴丘玉美は好意的な返事は返さなかった。彼女の中でずっと抱いていた反抗心は家を出た日から、実は既に消失していた。それとは代わりに生まれた喪失感や、虚無感に苛まれながら生活する様になった。

 そのわだかまりは歳月を追うにつれ肥大化し、それが彼女を逆に仕事に駆り立てる。家族に寄り添えなかった後悔やもどかしさが、皮肉にも彼女自身を潔白でなくてはならないという思いを確固たるアイデンティティとして無意識のうちに構築していく。それに基づいて今まで気丈に生きていたが、母親が10日前になんらかの病気に倒れたという連絡がある。その事で積み上げてきた自己が崩れ、どうして良いのかわからずパニック状態でアキさんに相談したらしい。

「私は立前なんかどうでもええけ。帰りゃええんじゃ何度も言うたんよ。顔見せんと一生後悔する事になんで。言うてな」
と困り果てた感じでアキさんは悲しそうに言う。

 鳴川玉美、なんて不器用な女だ。もっと合理的な生き物だろ女性って。俺の個人的な偏見かもしれないけど。

「パオ太頼む、玉ちゃんをなんとか説得したってや。今のままではお母さん亡くなったらあの娘一生後悔する事になってしまうような気がしてさぁ」
 
あのミコシン並みに強情っぱりの女を説得して、地元に帰らせないといけないという新たなるミッションが俺にふりかかる。
 
 次の日も鳴丘玉美は平然と出社してきた。
「ぉざーす」
なんて軽い挨拶して俺の横を通り過ぎていく。多分コイツは死ぬほど真面目。それに対して、すごく凶暴な一面もあるのも事実。だから伝え方に気を付けないと、こちらもどうなるかわからない。俺は事前に話す手順を一度脳内でシュミレートしてから試みた。瀧本さんが出社してくる前に、ケリがつけられるよう仕掛けてみよう。

「児島慣れましたかぁ?」
「うん?慣れた言うて、アタシ此処きて3日も経ってへんけど?」
「確かにそっすね。んー広島に比べてどーっすか、やり易いやり難い?」
「んーまぁやり難いかなぁ、広島で慣れとるし」
「そうかぁ。広島懐かしいよねー。あ、俺一人でカープ戦見に行ったんすよ」
「へー初めて聞いたわ」
「初めて言うもん」
「子供か。ほいでどうやったん?」
「微妙だった」
「そーなん、なんで?」
「休みにふらっと行って観たんだけど、演ってたのは広島対ロッテ戦だったんよね。でも俺そもそも巨人ファンだし」
「知らんし。なんやねんその話」
「しかも俺、間違ってロッテ側のチケット買ってたんだよね〜」
「アホやな〜。じゃあスクワット応援もジェット風船もやってへんの?」
「うん。ロッテ側からなんか赤い奴らがやってるのをなんかぼ〜って見てたわ」
「赤い奴らて。自分がやってないんやったら意味無いやん。アタシはアキさんと一緒にやりに行ったもん」
「店長は行くと思う!赤くなって」
「茹でだこみたいになってるから、その表現やめてもらえる?まぁアキさんからユニフォーム借りたから上着はそれなりに赤かったかな?」
「へぇ、カープファンなんすか?」
「いや…親譲りの比較的薄味タイガースファンやね…」
「じゃあ俺と一緒じゃん!この裏切者!」
「いやあの…信仰心が低いと言うか、アタシは…その…ライトなヤツやから。居酒屋で六甲おろしのアンセムとかも参加せんし、あんなもんフーリガンの一族の方々やと思っとるし」
「一族て。色んな人に怒られるから、その差別発言。俺も見てきたよ、ミコシンに色々連れ回されたんだからさー。新世界とか、尼崎とか神戸の新開地とか」
「ホンマに御子柴って感じやね。激震区ばっか攻めたてるやん。あの人立ち飲み屋で、どて煮とかばっか頼んでそうやもん。アタシも嫌いでは無いけども」
「マジでそんな感じだよ。粉もんは嫌う癖にね」
「そうなんやったけ?アタシアレの事よう知らんし、知りたくもないし。うん〜…なんの話やったっけ?」
「あ、そういえば昨日「下げ忘れ」の丼見たんだけど、瀧本さんかなと思って指導しないとって思って、話しかけたら彼女じゃ無いんすよ。なんか知らないすか?」
「アグ!……それは…アタシ…やね」
「広島じゃ絶対すんなって言ってたじゃん」
「…せやね…。ごめんなさい」
「謝らなくてイイっすよ。なんでそんな事すんのかなって思って」
「テンパっててん。昨日のアタシは正気を失ってた。ホンマにごめんな、今日は気を引き締めてかかるわ。さて今日はどれぐらい忙しいかねえ」
と立ち去ろうとする彼女に、

「ちょっと待ってよ。本当にそれだけっすか?」
「なんやねん!しつこいな」
「……アキさんに聞きましたよ。お母さんよくないんでしょ?」

 面と面を合わせた時に、彼女の眼が薄く紅い炎症の様な痕がある事に気づいた。母親の事を言われると直ぐ顔に出る事に、彼女の単純で真っ直ぐな気質が伺える。

「要らん事言うな、言うたんやけどなー」
と顔を背けようとする彼女を、
「違うよ店長、俺が問い詰めて聞き出した。此処二日のアンタは俺が知ってる貴方じゃねーよ。らしくないって!バッシングの皿は直し忘れてたし、提供の時は宅番間違えもあったでしょ。挙げ句の果てはトイレに篭って、30分近くも出てこなかった」
「うぐぅ…それはお腹が痛かったんですー」

「え?そうなの?だったらごめん…」
「嘘。…LINEしてた」
「でしょ?ヤバい事聞いちゃったと思って、俺が焦るじゃん」
「五月蝿いねん。お前に関係あらへんやないけ」
「ありますー、瀧本さんもあの人やる気あるんですかねって言ってましたー」
「マジ?」
「マジで言ってたって!」
 
 それを聞くと同時に鳴丘玉美は力が抜けた様に、椅子に腰掛ける。
「もうダっさ。死んでしまいたい…」
力の抜けた彼女の言葉に、しまったこれは言っちゃいけないヤツだったと焦ったが、もう取り返しがつかない。
「ごめん傷つける気はなかったん…」
「え-ねんえーねん。アタシがダサいのがあかんねん。滝本さんがトイレに篭ってLINEなんかしてたら、アタシだったら殺してるし」
「殺しちゃ駄目じゃん」
「なんで?」
「え?殺すまでの事では無いし。普通に犯罪だし。えっと…そのうえ捕まるからかな?」
「せやね。捕まるのしんどいね」
感情が見えねー、なんだコイツ?

「取り敢えず、ひとまず帰ってお母さんに逢った方が良くない?」
「……高校卒業して家出てから一回も帰ってないのに、今更会うてなんの話するんよ?」
「え?そんな帰ってないの?」
「ヤバいと思わへん? ホンマのアタシはヤバいヤツやねんて」
と鳴丘玉美は俯いたまま、悲しそうに笑った。

 こんな表情する彼女を初めて見たような気がする。朧げで儚い哀しみ、彼女の強靭なメンタルの中に混在する弱さを俺はこの時初めて知ったんだ。
「それでも帰らんといかんって。もし今帰らんでお袋さんなんかあったら、一生後悔する事になっど?」
「五月蝿い。ゴワスも言わへん鹿児島弁よう聞かんし」
「じゃかしいのは、ワイじゃボケ。虎聞さんには俺から言っとくから、もう今日は帰って準備して大阪帰れよ!」
「……」
「店は瀧本さんと俺とで暫くなんとかするし」
「……」
「何とか言えよ」
「…育てた新人が店任されるって聞いてな。応援してやりたかってん」
「…ありがとう。ホントに嬉しい。でも玉ちゃんが今すべき事はそれじゃないと思う」
「…わかってんねんアホ。そしたら帰るわ…」


「玉美ちゃんさぁ、」
「なんなん?」
「なんでもねーよ。早よ上がり、おつかれ」
「うん?ありがと」

あーあ、もっと言いたいことあったのになぁ。
 

 ~Bside~
 
 もーなんなん?
 めちゃくちゃ情けないやんけ。
 新人店長はめっちゃ気使わせてるし。黙っときゃタメ口聞いてくるし。なんやよう知らんけど、入ったばかりのバイトのおばちゃんにはやる気あるのかわからんとか言われてるし。此処んところのアタシは目も当てがならんぐらい程にホンマにダサい。

 いや、広島でもちゃんと働けてたんやろうか?アキさん指示のもと、ずっと皆んなでフォローしてくれていたんやろね。ホンマにどないしてもうたんやろな?アタシ。その落ち込みをまるで見てたかのようにスマートフォンに着電が。やっぱりアキさんからやった。

「玉ちゃん、パオ太と話した?」
「……うん」
「ずっと実家帰るよう言いよったじゃん。アンタまだ帰ってへんかったじゃろ?」
「……うん」
「パオ太と話して、どがーなったんよ?」
「…今日から休めって言われた」
「良かったじゃん。ちょっとゆっくりしたり、大阪帰るのは何時?」
「明日ん朝帰ろう、思っとるよ」
「えーね。良かったじゃん」
「良ぅないわ、全然」
「なんで?」
「だからずっと言ってるやん。アタシは怖いねんて!家帰んのめっちゃ怖い。家族に会うのはもっと怖いねん」
「おちつき、おちつき。前にも言うたけど、娘を煙たがる親が何処の世界におるんよ?」
「娘にもよると思うわ…」
「私の見た所、玉ちゃんはなかなか良い奴やと思うよ。何時でも一生懸命やしね。そろそろ自分を許さな。その生き方はしんどいやろ?」
「ちゃう。アキさんがアタシに対して甘過ぎんねんて。だから甘えてまうし、その都度アタシはダメになってまう…」
「甘やかしちゃおらんて…」
「……」
「……」
「此処の件、前もやったよね?」
「www.せやね」
 そのあともアタシ達は多くの事を語り合った。アタシは彼女こそ本当の友人だろうと思う。アキさんに会えただけでもアタシは広島に来たかいがあったと心から感じた。

 虎聞さんから、
「望月から聞きました。そういった大事な事は早めに相談して欲しかったです。随分溜め込んでいたみたいだな。有休は32日もあるそーだぞ!」
とラインがあったので、
「すいません。ありがたく休みます」
と返信する。

 もう離れて何年になるんやろう。せやね最後の上本町で働いてから、広島に異動やったから実質1年と半か。懐かしいなぁ、コンビニで豚まん買うた時に酢醤油と辛子つけますかと言われて、
「酢醤油?なんそれ?」
なんて思ったあの日から、アタシの間を時間は凄まじい速さで通り過ぎていった。
 
 翌日眼が覚めると、まだ朝の6時やった。正直この町に来てから、正直なんもする気がなくて荷解きもまだちゃんとやってへん。その荷解きを全然してないおかげで、帰郷の準備は20分もかからへんかった。2年前に奮発して買ったお気に入りのモンブランのスーツケース転がして、引っ越してきたばかりのアパートをアタシは朝早く起つ。

 コンビニでサンドイッチと珈琲を買って、アタシは児島駅から岡山駅迄のローカル線を渡る。岡山駅に着いた時はまだ8時過ぎ、焦ってもしょうがないよね。駅前の珈琲ショップで時間を潰そ思うて、珈琲頼もうかと思ったけど、さっき飲んだばかりだったんで、今度はホットミルクを注文した。ちょっと前に買ってた「吉本ばななのキッチン」の文庫本をバッグから出して読む。これは丁度高校生の頃、読んで好きだった本。その頃のアタシは多感というか何もかもが気に入らない、生物学的にもようわからん難しい時期やった。

 その頃までのアタシは今では死語かも知れへんけど、絵に描いたようなお嬢様やった。よう母さんがベッタベッタなフリル付きのワンピースを買ってきて、女の子らしくしなさいと育てられた事に対して、中学生になったあたりから其れに反発するようになりはじめた。強制される事が色々と鬱陶しく思えて、いつも存在の無い何かにムカついていた。あの謎の激情はなんだったんだろう?そういった時期にアタシは、希望軒というラーメン屋の赤い暖簾をくぐる事になる。あの希望軒の暖簾を捲った事は間違いだったんやろうか、疑いようのないアタシの人生分岐点。アタシはそこで事もあろうに、社長令嬢の道まで捨てて、泥臭い庶民食に携わる人生を選ぶことになってしまった。

 そんなアタシにでもずっとメールやラインを送り続けてくれていた母からの連絡が途切れた。それから4日経って弟からの連絡で、母が重症である事を知らされる。その時、アタシはなんかの悪い冗談であると受け止めた。でも弟から2度目の電話があった時、声のトーン、そしてその切迫感で、母の容態は深刻な事実である事を認めざるを得なくなった。
 結局新幹線は午前中に乗り、昼過ぎにはもう新大阪駅に着いてた。でも地元の住吉区へは思うようには足が進まない。お気に入りのスーツケースをコインロッカーに入れて、梅田辺りをぶらつく。

 なんか悪い事してるみたいに、知り合いにあったらどないしよみたいなネガティブ感情が横行したので、ベースボールキャップを買い深めに被る。心のやりどころがしんどかった。その日はエステを堪能し、街中のホテルで一泊する。
「アタシ何をしてるんやろ?」

 翌朝目が覚めると弟の沖春から、
「おい!いつになったら帰ってくんねん?」
というラインが入ってる事に気づく。沖春は私の二つ下の弟で、私が鳴丘家を勝手に出て行ってからも、ずっと両親と今回のお母さんの件も逐一LINEで教えてくれていた。それと同時に彼が鳴丘通商でなかなか良いポジションで仕事しているという沖春の現状を、母からもメールで教わっていた。
 二人からの連絡でアタシは鳴丘家の状況を、離れた広島からでも立体的に把握することが出来ていた。

 恐る恐る沖春に電話してみる。
「玉姉!久し振りやな、LINE見たんか?」
「見たから電話しとるんやないの。うるさいな」
「玉姉がいつまで経っても帰ってこんからやんけ。一体何時になったら帰ってくるんじゃ?」
「……。もう帰って来とるわ」
「は?何時よ」
「昨日」
「なんで連絡せんの?」
「……うん」
「質問の答えになってへんわ。ほんで今何処なん?」
「北。梅田」
「う〜梅田の何処?」
「上がってきたら教えたるがな。どうせ今会社やろ、迎えに来てや」
「なんやええ女みたいな振る舞いするやん。ほんだら後でまた連絡するわ」

 かけるまでの不安を蹴散らすぐらい、息のあった昔ながらの会話が出来て良かった。弟は仕事中だし、普通に高速で直行で来ても30分以上はかかるだろうと言う距離。私は大体2時間ぐらいはかかるやろうねという、高括った気持ちで過ごしてたら彼奴は45分後には大阪駅に到着し着電があった。

 沖春は営業で回る様のバンでサッと乗り付ける。
「なんやの。格好つけた所で営業車やん」
「仕事中やけ、しゃあ無いやん」
久しぶりの弟は、アタシの想像を越えるぐらいのマッチョな体型になっていた。そういえば高校と大学時代はラグビーやっていたって話だったっけ。あの泣き虫沖春のマッチョなスーツ姿は、少しだけ今日のアタシには可笑しく見えるけど。
「なんや、ちゃんと仕事しとんか。見た目だけは一応?営業マンやん?」
「見た目だけじゃなく、中身もバリバリの営業マンじゃ。姉ちゃんはよ乗ってや、長う止めてると後ろから鳴らされてまうやん」
「せやね」
 アタシは弟のバンの助手席に散乱している書類を纏めてダッシュボードに丁寧に直してから、車に乗り込む。

 いや片付けとけや。

「ほんで母さんはどうなん?最近では癌やいうた所で初期で見つかったら、手術で取れたよ。みたいな話よう聞くねんけど?」
「そんないい状態やあらへんねや…」
「結構進行しとるん?」
「良うないんじゃ…ホンマに」
「なんや小さい声でおんなじ事2回も言わんでもええやん。なんかそのステージ?とかいうやんそれとかどうなってんの?」
「……ステージは4らしい……」
「ヤバいやん…」
とアタシの言葉を聞くや否や、沖春は急ブレーキをかけて車を止めた。シートベルトをしてるとはいえ、思わず前にガクッとなる。

「ちょっと危ないやん!」
「ずっとヤバいって、俺は言うてた筈やど!」

 沖春の唇は強張り、小刻みに震えてた。
 嗚呼完全に怒らせてしもうた。それはそうやな。
「ごめんなさい。お姉ちゃんが全部悪いわ。アタシがちゃんとしなかったせいで、アンタに辛い思いさせてもうた。ホンマにごめんな…」
「…2回も謝らんでえぇわ」

 その後、弟は無言で車を走らせる。走行する車内には宜しくなさげな空気が流れた。アタシはまた失敗してもうた。ホンマは最初にしっかり謝るつもりだったのに。

 アタシの2個下だった頃、沖春は小さい頃身体が平均より低くアタシの後をチョコチョコ追いかけてくる可愛らしい弟だった。スーパーで玩具を父に買って貰えず、売場でぐずつくどころか号泣したのを、宥めるのに往生したのを今でも覚えてる。

 今では筋骨隆々たる体を小綺麗なスーツで包んでいる。こういうタイプの男が好きな女だったら素敵って感じるんやろうねって純粋に感じれる程。
「大阪久しぶりやろ?」
「一年と半ぐらいかな。でも思いの外変わってへんで。ミナミ見たらまた変わっとるかも知れへんけど」
「あの辺はまぁ、ホンマ忙しないからなぁ。姉ちゃんもあんま見た目変わってへん様に見えるけど」
「アンタが変わり過ぎなだけとちゃう?そんな短期間で人間変わらんて」
「ほうか?そんな変わったかな俺。それでも姉ちゃんはラーメン屋ずっとやってて今店長さんなんやろ?ホンマ姉ちゃんは凄えと思うわ」
「なんでやねん。大した事あらへんわ、好きな事やっとるだけやし。後継いで頑張ってるアンタの方がずっと立派やし。アタシは鳴丘家の裏切り者ですからwww.」
「誰もそんなこと言うてへんわ」

 病院は実家の車で10分程の所にありそこは小学生の頃のアタシが風邪ひいて、連れて行って貰った思い出もある病院で何処か懐しかった。母の病室に着くまで、彼女と何を話せばいいんだろうと考えると、そのしんどさとはたまたその辛さから、心が耐えられず、アタシはまた思考から逃げてまう。

 高校生の頃、一度母と意見が割れ、激しい口論になった。激しい言い合いはその時だけだったが、アタシ達はそれ以上傷つくのを恐れ、互いにコンタクトする事から逃げた。その後も在学中はギクシャクした関係が続き、卒業すると同時にアタシは逃げるように家を出て、友人宅を彷徨いながらバイトで生活した。バイト先は常にフランチャイズ系ラーメン企業ばかり。そうしている間に、気がついたらアタシは無双布武ラーメンの社員になっていた。その間も母は根気強く私に電話をして来たり、メールやラインを送ってきた。面倒臭がって適当に返したり、酷い時は無返信のまま質問を流したりもした。アタシは母に対して、彼女の愛から逃げているだけの臆病者に過ぎないんだろう。

 病室の前で沖春の右肘の裾を掴み、
「やっぱ辞めよ。無理や」
と駄々を捏ねた。沖春はそんなアタシを力ずくで病室に押しこむようにして入れた。

 足をもつらせながら病室に入ると、電気を付けてないらしく静かで薄暗い。なんとなくその空間だけひんやりとした、でもなんとも言えない優しさの感じられる独特な空気感を感じる。薄暗い病室で窓から斜めに入る太陽光に本を当てながら母は読書を楽しんでいた。その風景はまるで絵画の様に美しく、アタシは思わず息をのむ。そしてその美しさに吸い込まれるかの様に近づいた。

 アタシの記憶の中の彼女と比べ、随分と皺が増えた彼女の顔、細くなった腕、これ程に彼女は小さい生き物だっただろうか。生気が薄いような彼女の表情から、現在の病における彼女の状態の深刻さが伺える。アタシはついその儚く揺蕩うような彼女の心に触れたくなり、更に近づく。

 彼女はアタシの存在に気付くと表情が一瞬驚きに変わり、安堵と慈悲が混じったような、なんとも言えない柔らかい表情に変わり、
「玉やないの。何処ぞの別嬪さんや思うて驚いたわ」
と優しく笑った、アタシは彼女の横に座り、
「母さん久しぶり。玉美です。随分とご無沙汰してました」
と手を握った。

 震える声、鳴り止まない心臓、嗚呼アタシは多分感情が随分昂り過ぎたようで、頬を伝う涙にも気付くことが出来ない程、何度も何度も彼女に謝罪を続けた。

 随分と痩せてしまった顔、水分を失いまるで枯れ木のように力を失ったその腕には力が無かった。だがアタシは彼女の瞳の中に、かつての母の燃える暖炉の様な優しさを確認した。涙が止まらず、言葉が出なくなってしまったアタシを慰めるように、母は私の頭の上に手を置き、静かに話し出した。

「前にな、父さんと二人でアンタが働きよった…あれ何処やったっけ?ああそうそう高槻の店に、隠れて見に行ったんよ。アンタ随分大きな声出して一生懸命走り回っとったわ。それ見て二人でな、あの子はああいう生き方が性に合ってるんやろうなぁって話してな。お祖父さんが若い頃、一生懸命働いて事業を大きゅうしたから今の会社があるんや。ホンマの所、アンタが一番その血を継いどるんかも知れへんねって二人で話したんよ。早いもんやねえ、こないだまでこんなおチビちゃんやったのに」
と彼女はか細くなった手で野球のボールぐらいの容積を手でジェスチャーして見せた。
「いや。そんな小さい事あらへんやろ」
アタシは泣きながら笑った。

 母はその一週間後、容態が急に悪変して、嘘みたいに呆気なく他界してしまった。アタシ達はその間にまるで今までの空白を埋めるかのように、ずっと今までしてなかった分の話をした。高校の時に勃発した隔たりの原因は、アタシの進路だった。母はラーメン屋になりたいというアタシの夢に猛烈に反対した。鳴丘通商の事務として働いて欲しかった彼女の想いとアタシの夢が完全にコンフリクトした。でも今となっては、やりたい事をやり続ける方がアタシらしくてカッコ良いとさえ言ってくれた。
 おそらくアタシは一方的な言い訳を言っていただけだと思う。それでも母はその話を真剣に耳を傾けてくれた。学生の頃にアタシの主張を聞きもせず、自分の考えを押し付けてしまったのは間違いだったと謝ってすらいた。どう考えても間違っているのはアタシやろ。誰が商社の社長令嬢とラーメン屋で油と汗まみれになって働く事を両天秤にかけて、そこで後者を選ぶ人居ますかって聞くなら、恐らくアタシぐらいのもんやろうと思う。アタシは何処で変わってしまったのだろうか。小さい頃は両親の愛に恵まれ、そのまま鳴丘通商で働こうと思ってたらしく、当時男性社員に配布していた金バッジのついた紺のブレザーをぶっかぶっかに羽織って、女性社員に配布していた赤いチェックのスカーフを巻いてピースサインをしている幼少期の写真が今のアタシからすると酷く疎ましい。

 アタシは家族の裏切り者だ。中学生から高校生の反抗期にかけては、両親の言う事もろくに聞かなくなった。高校も親の希望ではなく、わざと学力を落とし、低め目の高等学校を受験して親の期待外れな行いをする事で、意図的にその期待から逃がれようとしていた。そういった行動をしていく度に、自分の中で向上心だとか自尊心と言った、自分という人間性の根幹たる内面部分を自傷してしまい、結果として完全に自分自身を見失なってしまっていたホンマに哀しい時期があった。

 そんな時期の帰り道、あの懐かしい「希望軒」の赤い暖簾がアタシの目に止まる。小さい頃、ここの大将はいつも笑顔で店の前を箒で履きながら、通りを歩く方々に朗らかに挨拶をしていた。それにあわせ店の中から鶏ガラを長時間炊く事で発生する、脳髄の奥の方を優しく刺激する様な甘く優しい香りが、
「ふわぁっ」
とアタシを誘惑した。彼の笑顔とその香りに引き寄せられる様に、アタシは父に彼処に行きたいと言った。しかし父にはその日は高級なレストランを予約してあるから、そこで食事しようと失念した記憶がある。

 高校の心が荒れてた頃に再度、その赤い暖簾がまた瞳に映る。朝の登校時、何時でも大将は通りを箒で履き続けていた。私が初めて彼を見た幼少期の頃から随分とご年齢を重ねられた様で、見た目は初老のように見えるけど、其れを感じさせない様な寛大なるオーラを放っていた。

 暖簾を捲り、恐る恐る店内に入ってみる。アタシにとって、生まれて初めてのラーメン体験。
「いっつも前通っとったお嬢ちゃんやんけ。随分大きゅうなったのー」
まさか大将はアタシの事を覚えててくれた。一回も暖簾を潜った事も無くここのラーメンを一食も食べた事が無いアタシを。
 
 何で憶えてるのかと聞いた。当然の疑問やろ?

 大将は少し困った様な笑い顔で、
「ワシは何時も店の仕込みで、毎朝鶏を炊きよるんですけどね。一段階済ませたところで表、箒で履くようしてますねや。そん時は幸せな気持ちで美味しいスープが出来ますように思いまして、まるで神さんにでもお祈りする様な気持ちで、表履きながら通り行く方々に挨拶させて貰うとりました。
 其れずぅっとやっとるとですね、意地の悪い事考えたりとかしとったらね。今炊いてるスープが不味なってまうやないか?みたいなちょっとした不安材料みたいなモンが芽生えてくるんすよ。せやけそうならへんように、ずっと履いとったら、次第に歩いてはる方々の幸せを祈りながら挨拶するようになりましてん。ほんでそういったきもちで仕事してますと、どしてん店ん前歩いている人の顔まで覚えてまうようになってまうんですよ〜。もし気分悪されたらほんますいまへんの。お嬢さん、確か小学生の頃からずっと、ウチん前通ってはったからどしてん…」
 
 そう彼は、年老いた顔をクシャっとさせながら申し訳なさそうに笑って頭を下げた。そしたら店は急に忙しくなって、あっという間にカウンターは一杯になっていた。

 頼んでいた醤油ラーメンがテーブルに届く。少女だったアタシを、昔からずっと誘い立てていたこの香り。丼の横に置かれている白い角ばったスプーンが設置されている。これを用いてスープを飲むんやね。周りを真似て恐る恐る飲む。
 
 びっくりするぐらい美味しい!鶏出汁の甘さと醤油の芳醇な香りが絶妙にマッチしている。大将の人間性をそのまま凝縮したような優しく甘いテイストのスープにアタシは思わずうっとりしてしまう。

 続いて麺を食す。香り高い小麦の香りにプチプチと食感の良い麺。喉越しの良い其れを頬張る度に、なんとも言い難い幸せに埋もれてしまう。それに合わせてスープの香り高さに小麦の香りが混入し、何とも言えへん多福感に、アタシの思考回路がショートしかかる。あそこの空間は今まで両親に連れて貰って行っていたレストランとは一線を画す、底知れん庶民の、いや人間そのもののパワーがあったんや。

 調理したり、接客したり、大将はドタバタとひとりで店を切り盛りしながら、会計する私に、
「どーもすんまへんの。うちは何時もこんな感じで、忙しゅうなると店ん中は基本ぐちゃぐちゃなってまうんすよ。嫌な事なんかなかったですか?」

 アタシはすっかり興奮してしまって、嫌な事など一つもなかった。美味しく頂きましたと伝える。会計を済ませ帰ろうとするアタシに、
「毎度おおきに!」
と大将は言った。それは優しさと元気の割合が超絶的に黄金比率のトーン。アタシの人生においてあんなに元気が出る挨拶を、他に聞いた事がない。アタシは心臓の鼓動が速くなるのを感じた。

 希望軒の大将はまるまると太っていた。いつも真っ白い作務衣をきてガニ股で特徴のある歩き方と鼻がかかった様な特徴のある話し方。
「街の人の希望になりたい思いましてね、店ん名前決めたんですわ」
とまん丸と出た腹を叩いて言うのが、妙に愛嬌があった。そうアタシは間違いなく大将に憧れてこの世界に入った。でもアタシは大将にこの事は伝えてはいない。大阪に住んでいた頃は通って居たので、アタシの事を玉ちゃんと呼んでくれて可愛いがってくれていた。彼の事を心底慕って居たからこそ、敢えて同業者である事は伏せたかった。そんな事で彼との関係性が無くなるのを、アタシが恐れたからやと思う。

 しかし母が他界してからのアタシは凄まじい虚無感に襲われ、なんにもしたくない無気力な精神状態になってしまう。一週間程何もせんと実家でゴロつく私に、弟は馬鹿にして抜け殻にでもなったのかと無慈悲に言う。でもこんな時って不思議なもんで怒りも哀しみも起きひんのよ。感情を何処かで紛失したような暗闇のような気持ちやった。虎聞さんにLINEで有給の残りを聞いたら、あと10日もあるんやて。そんなに休んで現場復帰出来るやろうかアタシ?

 確かに今のままだと良くない。脳の奥というか、心というか、人間としての感受性が日を追うごとに鈍化していくような感じがしていく。何か行動せなアカンわと思い、奮起してアタシは久しぶりに希望軒に足を向ける。まだ大将は相変わらず元気なんやろうか?

 希望軒は今も健在である事を高らかに歌うかのような、あの憧れの赤い暖簾に心を躍らせて、アタシは入店した。

「いや誰やねん?」

 思わず発してしまったのはアタシやった。そこには大将の姿は無く代わりにほっそい身体。比較的イケてない方のツーブロックに黒いセルロイド眼鏡の30代前半ぐらいと見受けられる年齢の男性が厨房からお前こそ誰だとばかりに不機嫌そうにこっちを見てる。なんとなくヤバいね。

 まず状況を整理せなあかんわ。急に扉を開け此方側を見て先ず、店員である自らに対し、いきなりお前誰だ発言。これはどう考えても完全にこっちが失礼でした。

「いきなり失礼してホンマにごめんなさい。私此処の先代店主さんに色々可愛がって貰うてまして、尋ねてきたんですけど…」

 その黒縁メガネの方は気が立ってるように、
「なんや松永さんの事かいな?」
とぶっきらぼうに仰る。どう考えても私の誰やねんは彼に聞こえたのは間違いなさそう、無礼を真剣にお詫びすると、本当は随分と気さくな方だった。

 彼は田岡さんと言うらしく、大将の2代目としてこの店を引き継いで経営しているらしい。大将の本名は松永さんというらしく、大将の元で一年程修行したと彼は言う、アタシが最後にこの店に来たのが約二年前。それからいままでの間に、色々な事が起きた事だけは間違いなさそう。
「すいませんが松永さんは今?」
アタシは率直な疑問をかける。営業中の今、店にいないのも考えるとおかしい。

 田岡さんは大きく息をつくと、厨房に置いてある椅子に腰掛け、
「今から丁度、半年前にご他界されましたわ」
と静かに仰る。アタシに対してもそうだったが、大将は自分の事を余り多く話そうとはされなかった。アタシが地元を尋ねると、
「その辺の関西のどっかや」
と面倒臭そうに、詮索するなというような素振りを見せるので、タブーとされてきた質問だったのはアタシも憶えてる。田岡さんは当時サラリーマンだったらしいが、丁度跡継ぎを探して居た大将の人間性に惚れこみ、脱サラして弟子入りしたそう。大阪を離れている間に、アタシの地元の味は微かに変貌しとった。

 田岡さんは話していくうちに愛嬌のある方で、少しだけ大将の影もうっすらではあるが、微かに見受ける事も出来る。大将は生前に希望軒のレシピを田岡さんにに引き継いでご他界された。お子様が居なかったので、跡継ぎが見つかったのは嬉しかったに違いないやろね。そういう事あったんやとアタシはそのまま帰るのも失礼やし。懐かしい思い出の「醤油ラーメン」を注文する。

「ありがとな。でも俺の作るヤツは松永さんの味とはちょっとだけ変わってるみたいなんや、確かに俺は松永さんのレシピを引き継いだ。俺はそこからなんにも変えてへんねん。其れはホンマや。でもなお客さんからは前と味がちゃうわとか、一寸レシピ変えたやろって言わはる方がおんねや。なんでなんやろうね。それがホンマにわからへんねん」
と田岡さんは不思議そうに語りはる。

 実はアタシも似たような記憶と経験があんねん。 
無双布武に入りたての頃、生活費に余裕がなくアタシは職場の賄いで一日の栄養を満たしていた時期があった。何故かバイトが全員辞めてしまって人員不足の状況で、当時駆け出しだったアタシと、御子柴いう口の悪い出っ歯の同期と、澤北店長でピーク帯から閉店までぶっ続けで、休憩も取らず店舗を運営していた地獄としか言いようのなかったあの頃。

 アタシ達は閉店後、疲労困憊で3人で賄いを食べて帰宅するという時期があった。賄いは当然、無双布武ラーメンやから、慣れているアタシ達は調理役を交代制にした。でも当時、正直言うと今でもやけど、アタシは特にこの口の悪い出っ歯の御子柴を毛嫌いしていて、奴の作るラーメンは何故か美味しいとは感じることが出来ひんかった。でもその反面、優しい澤ヤンこと澤北店長の作るラーメンは何か味付けを変えてるんちゃうかと感じてた時もある程、美味に感じるという不思議な経験があった。
結局味覚を判断するのはブレインやからなんやろか?

 この田岡さんという脱サラ叔父さんは今まで懸命に努力して来られたんだろう。麺の茹で方からスープの丼への移し方まで、ホンマに大将そっくりだった。それはまるで物真似芸人を思わせる程に。

 傷つけたらアカンと思って流石にそれは言わへんけどね。仕上がったラーメンのルックスは間違い無く「希望軒」のラーメンで間違いなかった。
チャーシュー、シナチク、青葱の天乗せ、少し黒みがかった黄金色のスープ、鼻腔をくすぐる甘い香り、私をこの世界に引き摺り込んだ張本人の様なラーメン。

 でも彼はこのラーメンが、先代の大将が作った物と、全く同じレシピであるのにも関わらず、別物であると仰られる。アタシはそんな事言われてもリアクションに困るわと思った。恐る恐るスープを飲んでみると、確かに希望軒の醤油ラーメンに違いないと思う。更には麺をたぐって食してみると、いや間違いなく「希望軒」の味だ。懐かしい希望軒の味に、私が学生の時に初めて食べたあの瞬間とリンクし、デジャブのような感覚が生まれた。アタシは思わず、大将がそこに居るような錯覚を感じ、居ないはずの彼に思わず話しかける。

 やけど実際厨房を見るとそこにいるのは、田岡さんやった。当たり前やけどね。でもそう感じた瞬間に食べていたラーメンの味も大将の時と違うような気がする。私の味覚が変わってしまったのかも知れへんけど、言われてみれば違うような気がせんでもない。正直言うとよくわからへん。

 田岡さんは困った様な笑顔で、
「やっぱり…松永さんのヤツとはやっぱりちょっとちゃう感じします?」
と尋ねてくる。アタシは彼が大将に寄せようとしすぎて居るのかも知れへん、実際目の前にいる人間が違うんやし、受け取るほうのコンディションも受け取り方も、今日と明日では違う可能性も絶対あるし。そういう事はなんとも言えへんやん。

「あんま気にせんとえーやないかと思いますよ。確かに大将には大将の味があったとしても。貴方はそこに100パーセント、寄せる必要は無いんやないかな思います。貴方は貴方なので、如何に貴方の素晴らしさを出す事に、一生懸命ならはったらええんやないでしょうか?…こんな小娘が生意気言ってごめんなさい」
 ほら!また勝手に熱なる癖が出てしまった。
 アタシが自分の嫌いな所。
 
 田岡さんはは静かに俯いていて、何かを熟考されている様に見受けられたが、ふと顔をあげられて表情の曇りがやや少しだけ晴れた様に見えた。
「確かにあんたの言う通りやなぁ。ワシはなんかに囚われとったんかも知れへん。確かにあの人になるのは無理やね。俺は俺にしかなられへん。そう言う事やろ」

 多分そういう事なんじゃないかなと思う。同時にアタシもアタシにしかなれへん。其れを聞いて、田岡さんの表情は少しだけ明るくなった様に見えた。姉ちゃんはなんの仕事しとるん聞いてくるので、正直に今までの経緯を話す。

「www.なんや同業者やったんかいな!それやったら松永さんからスープ作りのレシピ預かってんけど、持って帰る?」

 田岡さんは急に、聞き間違いやあらへんか思う様な事を言い出す。他所がどうかは確かにはわからへん。けども基本的に飲食業の人間が、料理のレシピを部外者に口外するなんてありえへん事。私の働いている無双布武に至ってはスープはセントラルキッチンと言われる工場で作成されていて、詳細なレシピに関しては上層部の人間ですら知り得ない。つまり飲食店においてレシピというものは、絶対的に他言不可のトップシークレットという事や。

 彼の言ってることがわからず、ポカンとしていたアタシに田岡さんは、
「www.それも松永さんの意思やねん。確かに店のレシピって人に教えへんもんやもんな」
と笑って続けた。
「あの人って、俺の前には弟子とか取らへんかってんな。でもひょんな事から健康診断に行った時に、いきなり余命を宣告されてまうねん。本人はもう少し長生き出来るつもりておったらしいねんけど、急に余命宣告された時に、急に自分の味を守りたいっていう思いが生まれたらしいねん。ほんで俺を雇ったって理由」

 と話しながら、田岡さんは大将と肩を組んで笑っているスマホの写真を見せてくれた。二人とも店内で穏やかに笑っている素敵な写真だった。それを懐かしそうに眺めながら、田岡さんは大将との思い出を続けた。

「亡くならはる数日前にな、もし俺を尋ねられる人間がいて、またその人が俺の味を引き継ぎたいという人が来る事があったら、誰にでもかまわず教えたってくれや。その人の中で、俺のラーメンが生き続けてくれるとするならば、其れは其れで美しいって思えんねんっていうんが、松永さんの遺言やったんや」

 と田岡さんはスマホの写真を、懐かしそうに眺めながらに語った。アタシなんかに味を引き継ぐ資格は無いと断ろうと思ったが、正直言って大将のレシピには興味は大あり。恥を捨て去り田岡さんが書き移したレシピを写メさせて貰う。そのあと数分程アタシ達は雑談した。帰ろうとするアタシの背中に、
「毎度おおきに!」
 田岡さんのお見送り挨拶は、まるで大将の生き写しかのようやった。思わずアタシは振り返る、田岡さんの背の上に、大将の薄らとした影の様なシルエットの様な映像が一瞬だけ錯覚のように感じられた。

 多分見間違えやろけど。


 アタシは今まで、独立して自分の店を持つ事を目標に生きてきた。せやからマンションには寸胴鍋やラーメンを作る為の調理器具は一式置いてあるし、休日はスープを作る事も結構やってきてると思う。流石に毎回麺を食べると、スタイルに響くんで、スープが出来ると野菜や豆腐を入れて食べるようにしてた。圧力鍋で豚骨を長時間も炊いたこともあるし、魚介系だしに昆布を潜らせた和風のスープに敢えて牛の背脂を入れたり等、我ながら色々やったと思う。

 預かった大将のレシピは鶏ガラを80度の水で長時間煮るという調理法は、アタシの立てた仮説を外れることは無かった。
「仮想希望軒の醤油ラーメンのスープ製作」
を着工した回数は、二本の腕の指足してもきかへんぐらい。なんといっても希望軒はアタシの原点やから。

 実家のベッドで撮影したスマホで大将のレシピを見ながら、田岡さんの全く同じ調理法でも結局味が変わってまうという話を思い出してた。味覚というものは不思議な感覚で、時が経つにつれて美化されたり、逆に風化されたり、不安定な側面も持っていると思う。

 2年前当時付き合っていた彼氏とデートで行ったイタリアン、彼は気取ってジュノベーゼパスタなんか頼みよった。洒落たようにお高くとまったその注文に、アタシはちょっとだけ不服やった。けど少しだけ分けて貰ったそのパスタはもの凄く美味しかった。でもその彼とは最悪な喧嘩別れになってもうて、バジルという食材そのものを、避けてしまう今があるように。

 虎聞さんに有給の残日を確認すると、あと8日あると言うので、取り敢えず2日後には復帰したいと伝える。児島店は今のメンツで大丈夫そうだから、現時点としては取り敢えずマンションにて待機。
勤務先に関しては後日報告との事。アタシは大阪を離れる前に、母の墓に彼女の望む道に背き、我が道を突き進む愚かな娘を許してほしいという謝罪と、これからの人生何があろうと自分の間違ってると思うような生き方はしないと誓う。

 アタシのこういう人間性を、前に重たいって言われた事もある。でもこれがアタシやから。
 
 大阪を離れる前に、父から鳴丘通商の役員の席を提案されたが、そんな事より今まで会社を支えてくれた社員さんに還元したれやと怒鳴りつける。やっとホンマの姉ちゃんが帰ってきたと、横で見ていた馬鹿弟は喜んでいたが、正直アタシには全部どうでも良いように感じられた。田岡さんと会った後でも、アタシの心はまだ抜け殻のままの状態やった。  
正直言うと、このまま会社辞めたいような気もするし、もうラーメンなんかどうでもいいような気持ちも正直言うたら無い訳じゃない。田岡さんみたいな純粋な人だったらこんな精神状態にはならへんのかなぁ?

 岡山から児島に向かうまでのローカル線から見える風景がアタシは好きや。長閑な山道を越え、最初に海が見えた時は思わず声を出して喜んでしまった。一人なのに急に感嘆した私を隣の子供が指をさして笑ってたのがめっちゃ恥ずかった覚えがある。
 愛想笑いで誤魔化し心の中で、
『すいまへん。都会っ子なもんで』
と心の中で内密に毒づく。でも正直言うとこの街に最初に来た時から好印象だった。アタシは勿論生まれ育った大阪を愛しとる。だからこそ離れる時は抵抗もあったが、広島も実際住んでみると良い街やった。離れた今でも、彼処がまるでもう一つの故郷の様に思える瞬間がたまにある。

 恐らくにして間違いなくアキさんのおかげやね。

 児島駅に着いて、またこのデニム一色の駅に着くと、何故かこの真っ青な駅の構内にて食事したくなったので、キオスクでサンドイッチとコーヒーを買って食べてみる。やっぱこれで正解や。母が他界してしまってから、アタシにまとわりつくモヤっとした暗い気持ちがずっとついてまわってた。でもそんな気持ちの悪いヤツを此処から一枚ずつ丁寧にひっぺがしていこう。アタシの中で少しずつ少しずつ心の温度が、温度を取り戻していく。

 此処はそんなポジティブなブルーや!
 食事を終えて、駅の近くを歩いてみる。すると港が見えてくる。思えば港に来る事自体、アタシの人生において数回ぐらいしかないぐらいの貴重な経験。気がつかない内に、アタシは気分が高揚していた。太陽の光を受け反射する水面、停泊する船に朽ちかけた様な漁具、その全てがその日のアタシにホンマに新鮮に映る。なんて長閑で美しい風景……。
 
 そうそう港の端には久しぶりに見るのはアタシの後輩、パオこと最近店長任されたばかりの望月君。テトラポットに座って彼は魚釣りを興じてた…。此処の漁港の雰囲気ホンマに素敵…まるで時が止まったかの様に長閑やし…。 

 ちーがーうって。何してんねんコイツ!

 なんやねんこいつ。人がこんなに落ち込んでいるのに。なんかムカつくから、なんもされてないのに目に物を見せたろ。アタシは奴の視界に入らないように音を立てないように近づく。でもこのテトラポットの上を移動してみると、足場が悪く移動が滅茶苦茶大変。汗だくになりながらも、なんの為こんな身体張ってるのか自問自答繰り返しながら、必死でテトラポットの間から釣り糸を垂らしているパオのこっそり横につく。荒れた呼吸を整え、年老いた老婆に声色を寄せて語りかける。
「どうですかな、釣れますかいの?」

 パオはアタシの方をみる事もなく、小さなクーラーを乱雑に指差した。気になるんだったら、そん中開けて見ろよとその指は語ってる。なんやねん此奴と思って開けてみると、クーラーの中にはメバルと型の良いガシラが5匹ぐらい程入ってた。
「凄い!」
と口走りそうになるのを抑え、一回落ち着く。音を立てず、パオの横にスッと入り、
「ほんで、店は今どうなっとんじゃ」
と声質をあたし本来のトーンに戻し、軽めにドスを聞かせて脅すように話しかける。

 パオは私の方を向き、ビクッとなって子リスの様な驚嘆のリアクション。やっぱ此奴ちょっと可愛いわ。
「こんな所で、脅かしたら下に落ちるでしょうがー」

 まるで子どものように、怒りだした。
やば。笑い止まらん、此奴こんなオモロかったっけ?

「この下落ちるとめっっちゃ、痛いんだよ」
「www.落ちた事あるん?」
「中1の時、一回だけね。一回落ちただけなのに5個も怪我したんだから」
「その上に海水濡れるし、付随するバツ効果としてはしんどいなwww.まぁパオは落ちそうなイメージ確かにあるかな?」
「俺そんなドジキャラじゃ無いよ!」

 その返に会話にならない程、アタシはツボに入って笑ってしまう。

「ちょっと笑い過ぎだって、玉ちゃん」
「わかったってごめん。あと5箇所な、正しく言うなら」
「うん? でも良かった玉ちゃん元気そうで、お母さんの件は聞いたけど、大変だったね」
「うん。しんどかったけど、さよならは言えたわ」
「お母さんは?」
「幸せそうに見えた。でも私の主観的な願望がそう見せているだけ…」
「幸せに決まっとるがよ!娘に会えて嬉しくない親が何処においもんかよ?」
「そうやったらええんやけどなぁ。パオさ」
「何?」
「感情的になった時、方言出るな」
「五月蝿か」
「アタシゃえー思うで。味があって」
「どーもあんがとさん」

 海が太陽に照らされ、キラキラと反射してえらい綺麗。まるで見る物の心を撃ち抜くレイザーみたいかも。この後輩はアタシに対しては、もうタメ口でいくって決めたみたい、でもこの海見てるとまぁええかって思えてくる。母さんに会えたのもこいつのおかげやしな。
「ほんで店はどうなっとん?」
「新しい店長来てる」
「は?」
「俺、会社辞めんだよね」
「えマジ?なんで辞めるん?」
「実家に居る同期がそろそろドイツに帰るから、親父だけじゃもうしんどい。店まわらんから帰ってきてくれって」
「そうなんや…。」

 同期居らん筈かったやけど?日光当たり過ぎて頭やられたんかな?まぁええか。

「ちょちょちょ、これどうやって釣るんよ。教えてや」
 穴釣りという漁法らしく、テトラポッドの間にエサを落として居着いた魚を釣る釣法らしい。こんなんで釣れる訳無いやろとツッコむ所やけど、既に実績が物語ってるしな。

 オモチャのような短い竿に、玩具の如き小さなリール。こんなんで魚が釣れんのと疑いながら、パオ持参の塩締めアサリがあんまりにも臭すぎたので、餌付けは本人にして貰った。此奴曰くテトラポットの間は魚の棲家らしい。言われるがまま、隙間に餌をゆっくりと落としていく。オモチャの竿にツンツンという小鳥が餌を啄む様な反応がある。童心に戻るとはまさしくこの事。ドキドキとワクワクがほんまにヤバい。

 ツンツンいう反応が無くなった。パオが言うには餌が無くなったらしく、巻き上げてみると確かにその通り。もう一回餌をつけて貰って別の隙間にずいっと落として見ると、ゴンッと竿先が曲がってギュウゥと引っ張られる。中に人間がおって引っ張っとんちゃうかという意味不明の錯覚とかが交錯し過ぎてアタシは完全にパニックに陥った。それを見かねたパオが竿をグッと支えてくれて、
「リール巻いて!」
と大きな声で言う。結構な引きを懸命に釣り上げて、あがってきた魚は大きなガシラ、母さんが買ってきてよく煮付けてくれた思い出の魚やった。

「見て!めっちゃ大きいガシラやぁ」
というアタシに対し、パオは何それって顔して
「いやアラカブっしょ」
と返す。
「なんやねん、その…語彙力ヤバい名前。この魚はどう見てもガシラやん」
「何だよ。そのゴジラもどきみたいな名前。この魚はアラカブってゆーの」

 アタシ達はお互いに顔を見合わせて首を傾げた。ググってみると関西の呼び名がガシラで、ほんで九州ではアラカブって呼ばれていて、でも本当の名前つまり学名はカサゴって言うらしい。争っていた私達は二人とも別の名前で呼んでいた。なんやねんそれ統一せぇよ、って言うてアタシらはそこそこ笑った。

 しかしアラカブって名前の語彙力ヤバくない?
ついアタシはホンダカブに乗った荒くれ者風バイカーが、暴走族に入れてくれって頼みに行くけど、
「いやwww.原付だとちょっと無理っすね〜」
って冷淡に加入を拒否られる映像を想像した。入れたりゃえーやん可哀想に。でも原付に速度合わせんといかんから、今後暴走は出来ひんくなるけどなwww.

 でもこれは恥ずかしいから、アタシの中だけで留めて誰にも言わんとこ。
 
「今日釣った魚、家で煮付けようと思うんだけど来ない?」
ってパオに誘われた時には、テンションあがって絶対行くわって快諾した。ほんでもよくよく考えたら彼奴って男なんよなぁ。最悪やで。押し倒されたりされる様な事があったらどうしようと一瞬よぎる。でもパオに限ってそれは無いやろ。最悪そうなってたとしても、金玉蹴り上げればなんとかなりそうやし。

 それにしてもアタシどうなるんやろ?異動待機ってなんなんやろ、初めて聞くフレーズや。寒い所だけは勘弁やで、アタシ極度の寒がりやからな。いやほんま。
 
 夕方、彼奴に教えてもらったアパートの前で電話する。でも、なんぼ鳴らしても出らへん。どういう事なんやろ?部屋がわからんから電話かけてんのに。3回かけても出らへん。これはどうすればええんやろ?帰ろうか?無駄足過ぎひん?コンビニで珈琲でも買って時間潰す?それ女として負けてない?うーんどっちに転んでも全部ムカつく。

 色々考えたけど、もう一回電話をかけてみる。

 うん?聞こえてくる着信音から彼奴の部屋が断定されてしまう。窓から覗くと彼奴は寝てた。自分から誘っといて、まさか寝てるとは思わへんかった。あり得なくない?男のツレとちゃうで?一応レディやねんで!ホンマに考えられへんねんけど!

 腹たってきたんで部屋のドアをガンガンしてやったら、
「新聞だったら取らんですよぉ」
と寝ぼけ眼でドアを開けて私を見て、
「店長、新聞勧誘のバイト始めたんすかぁ?」
昔の漫画みたいな天然ボケ。あまりに古典的過ぎるボケに呆気に取られて、アタシの方が固まっちゃったわ。

 このオールドスクール天然ボケに、しっかり現状を把握させるのに3分も費やした。コイツは釣りから帰ってきてから、そんままベッドに倒れて寝たらしく、クーラー内の魚もそのまんま。氷が溶けてへんかったのが責めてもの救いやった。しゃあないから、今から二人で仕込まなあかんね、と言う状況やねんけどここで一つ問題が発生。アタシが魚触られへんねん。ぶっちゃげこの魚棘だらけで怖いし。こっちは来たらもう出来てるつもりで来てるし。調理未着工なんて想定外過ぎやし。

 顔洗ってしっかりしたのか、パオは私の知ってる望月君に戻っていた。地元のレコードショップで働いていた時から結構釣りはしてたらしく、鱗落としと料理バサミで手際良く魚の処理を済ませていく。パオが余りにも手際が良かったので、私もなんかやらせろいうと、出汁が身に良く沁みるよう魚の腹部にバツの字の切れ目を入れるよう言われる。魚触られへん言うてるやん言ったら、
「そんな事も出来ないなんて、まるでちっちゃい女の子みたいに可愛いね。玉ちゃん♪」
って馬鹿にされた。

 むっかついたから、ムキになってやったら確かに普通に出来たけど。

 処理した魚を生姜と牛蒡、白出し•醤油と酒で味付けすると、母がたまに作ってくれたガシラ改めカサゴとメバルの煮付けが出来た。パオのアパートは、ベッドとテレビと洗濯機しか無いぐらいの質素の極みといった生活やった。彼処で2千円ぐらいで売ってそうな安っぽいちゃぶ台。出来た料理と奴の地元から送って貰ったらしい「多良㐂」とかいう焼酎を薄めに割ってもらう。中古の画質低めのテレビで丁度やってた漫才のネタ番組を見てると、不思議と昔家族で笑いながら食卓を囲んでた頃を思い出した。

「やっぱ魚めっちゃ旨いわ。外で食べると千円以上するもんねぇ」
と言うとパオは自慢そうに、
「新鮮さが違いますから」
とイキってきやがる。ので、
「放って寝てた割にはな」
とチクリ。するとバツが悪そうに視線を逸らした。

 帰る時、見送りに来てくれてコンビニで珈琲を買って漁港を歩く。
「仕事何時迄なん?」
「今週迄。それから有休消化。そうなったら鹿児島もう帰る」
「そうか〜虎聞さんはなんて?」
「決めたんだったらしょうがねぇって」
「あの人らしいっちゃ、らしいかな…」

「玉ちゃんも来ない?鹿児島」
「なんでアタシが行くん?」
「なんでって言われても…。一緒にやったら楽しそうじゃん」
「楽しいかも知れんけどさぁ。行く理由がないやん」
「……。そうかなぁ?」
 
 なんなんこいつ?
「ほんで店はどうなっとん?新しい店長ってどんな奴?」
「玉ちゃんの知ってる人だと思うよ」
「御子柴?」
「じゃないよ。ミコシンは難波だよ一生。多分だけど」
「せやんな。え、誰やろ。めっちゃ気になってきた」
「明日来てみればいいじゃん、そんなに気になるんなら。俺も出勤だし、どうせ暇っしょ」
「やかましわ。んーまぁ確かに暇は暇やねんけど、なんか行ってオモロい事あんの?」
「オモロい事は間違いなくあるだろうね。まぁ玉ちゃん次第だからねぇ、受け取り方次第かな?」
「んーまぁ、あれや。行けたら行くわ」
 漁港のベンチに二人で座って全然お洒落じゃ無いのが逆にメロウ。珈琲の香りと磯の匂い。合う合わんで言うなら、勿論合いませんけども。

 次の日パオに言われるがま、アタシは無双布武•児島店に足を向ける。彼奴が言ってた新しい店長、アタシが知っている人間だというが、ホンマに誰なんやろ。店に近づくと、確かにアタシの見覚えのある丸坊主の図体のデカイ男が飛び出して出てきて、見送りをしている。

 彼奴や。ヤバい奴や。パオの言ってた新人店長は、確か御子柴とバンド的なヤツを組んでいた呼男君とかいう奴やった。確かアタシと入れ違いで難波に異動で来たというのは聞いていた。でもその頃から、変なバンドしてるとか、色んな意味でヤバいとかいう事で界隈では有名やった。でも仕事は超絶的に天才で、凄腕過ぎて逆に会社辞めたっていう謎のエピソードを聞かされた事あったっけ。

 知らんけど。
 
 呼男の視線に入らん様に、アタシは店内に侵入する。客の入り率は2割といった所。厨房を見るとパオと瀧本さんが談笑している。お客さんの目に映る所では私語は慎む様に育てたはずやねんけどなぁ。

 アタシは二人の視界に入らない様に、すっと厨房内に侵入しパオの背後へまわり込み、奴の後頭部を優しく叩く。
「お客さんから見える位置でくっちゃべんな。言わへんかったか?」
「あ、すんません店長!・・・・www.玉ちゃん」

「お久しぶりです瀧本さん。以前勤務で一緒になった時は、心ここに在らずといった感じで大変ご迷惑おかけしました」

 彼女には深々と頭を下げる。この人にはホンマに迷惑かけた。彼女は全てはパオから聞いたので、アタシの心を逆に気遣って下さる。職場の雰囲気も良く、アタシが居ない間に二人は良いラーメン店に作りあげていてくれていた。

「あーれー、知ってる人だぁ!」

 声のボリュームにビックリさせられた。
しかもその上、近距離でかつ声が五月蝿い。振り向くと其処に居たのは他でもない丸坊主の呼男とかいう奴やった。

「前に御子柴と一緒に働いてたでしょ〜?僕彼奴と友達なんですよ〜」

 知ってますけど何か?と思いながら適当に処理して流そうと思っていたアタシは、呼男のその直後の行動に度肝を抜かれた。ヤツはその場でいきなり、胸に平手を添えたまま、その場で直立の姿勢のまま、直線上にかつ連続的に跳び続けた。
 
 いやなんで跳ぶねん。以前過去にアフリカの部族で飛びながら、なんらかの儀式をする部族をテレビで見たことがある。が、これはあれのカバーかなんかやろうか? わからん。どっちにしてもコイツがどういう感情で跳んでるのかも、こっちは知らんし理解する気もあらへんし。
「ハハハー!知ってます、知ってますよ!
    前に御子柴と仕事してた…ねえ!」

 賛同を求め、パオの立ち位置を振り返ると誰も居らへん。え?と思い周囲を見回すとパオと瀧本さんは二人でコソコソと洗い物に取りかかっていた。しかも二人とも含み笑いで、チラチラと此方を覗き見してやがる。これはアタシにこの呼男とかいうこの奇人をあてがう為の罠だったんや。

「アハハ…。会社戻ってこらはったんですね〜」

 最悪にもアタシは奇しくも、目の前の飛び跳ねる男の対応をせざるを得ない状況に陥る。

「そーなんですよ。僕は此間まで四国の高知まで行ってたんですよね。そこには桂浜っていう美しいビーチがあって、そこで禅の修行を初めましてね。実は其処でとある真理に辿り着いたんですよね〜」

と彼は飛び跳ねる事を辞め、その場でボックスステップを踏み始めた。もう会話にならないので、とりあえずダンスは辞めて貰う。

「真理ですか?凄〜い哲学的ですねぇ。アタシ興味深いですぅ♪」

 正直言うと、この変人が発する言葉にビタイチ興味ない。でも空気が変になって会話が長引かないよう、取り敢えずそれなりの相槌を返す。そんなアタシの思惑に気づく様子も無く、呼男は胸に平手を当てたまま、高らかに宣言した。

「それはですね。人間という生き物は、働いて収入を得ないと、生活していくことが出来なくなってしまうという事です!」

 いや、極めて普通の理論なんやけど。それ出すのに禅要らんやろ。

「凄〜い!へぇ~確かにそれ、真理かも知んないなぁ」
と取り繕って返すも、このやり取りに終わりが見えない。っていうか、ホンマになんやねんこの人、本当に変わってはるわ。

 頼む。助けてくれという気持ちで、厨房のパオ達を見ると、瀧本さんとこっちに来てくれる動きだしを見せる。助かったこの地獄から早く解放してくれ。戻ってきたパオは勿体ぶって、
「二人とも知ってる間みたいだから、放っておいたんですけど、後任の佐々木店長。こちらは僕を育ててくれた上司の鳴丘店長です〜」
と比較的雑目に、私達を紹介した。

 うん。放っといたってどういうことやねん。


 なんやこの人、苗字佐々木っていうんやねと思って、呼男の名札を視線を向けると「佐々木翔」と記載されていた。呼男ちゃうやないか。なんで呼男って呼ばれてるんやろ?何故かアタシそれが妙に面白くなり、吹き出すのをまた堪える事になってしまう。

 堪らず下を向いて、笑いを堪えてるアタシに追い討ちをかける様に、パオは佐々木翔に質問をかけた。
「そういえば翔さん。高知に住んでる頃、禅にハマってたんですよね?」
「そうなの、禅はええのよ。禅を組んで瞑想をするとな。体内思想における全ての悪が浄化され、体内における本来の透き通る無限大の愛を放出することが出来る心になれるのよ」

 いや、どんな心理状態やねん。達観しすぎやろ。そんなあたしのサイレントツッコミも虚しく、翔は胸に手を当てたまま、目を閉じ語り続ける。

「スピリチュアルな瞑想をしてると、精霊が語りかけてきます」

 そう語る翔にパオは合いの手を入れるが如く、
「そういえば瞑想される時間のベストってありましたよね?」
と質問する。翔は胸に手を当てながら、
「うん。瞑想は深夜がベスト。得に午前3時を廻ると面白いもので、急に精霊達の声が良く聞こえる様になります。まるで靄が開けたかの様に……」

 いや。それ精霊やのうて、亡霊やないの?

 もうホンマにこの人ヤバいと思って、パオを見るとコイツも完全に笑いを堪える顔になっている。いやいやいや、アンタら仕事中やし、ホンマに霊やったとしてもちょっと怖いし。

 一体何をしているんでしょうか、アタシ達は。

「ねぇ、そろそろ仕事に戻りましょうか?」
と無理矢理目に話を打ち切り、アタシはその場を離れ瀧本さんに話しかける。勿論大分変わっとるけど新しい店長と今後一緒やっていけるのかという相談をする為に。

「うん。少し変わっとるけど、仕事はめっちゃ早いし、良い人よ。せやねぇ、天才肌って感じなんよ。うーん例えて言うなら、リオネル•メッシとジミー大西を足して2で割ったって感じかな?」

 誰と誰を掛け合わせとんねん。おい。

 結局の所、この人も伏兵だった。可笑しすぎてもう付き合いきれへん。全員一丸となってボケすぎやし、いちいちツッコむのもしんどいし。もう良いやと思ってアタシはそのままアパートに避難するかのように帰る。虎聞さんから異動の連絡が来たのは、その日の夕方やった。その移動先は関東より結構上の寒い事で有名な県やった。遠いなぁ。

 異動日はその2日後やった。殆ど荷造り解いて無かったアタシは、午前中のうちに荷造りを終わらせた。人寂しさを覚えたアタシは無双布武ラーメン児島店に立ち寄ろうかと思うも、あそこはなんばグランド花月みたいに笑いを仕掛けてくるので、行くのは辞めてジーンズストリートに出かけ、パンツを一着買って喫茶店で紅茶を飲んで時間を過ごした。

 希望軒二代目田岡さんから預かった醤油ラーメンのレシピをずっと眺めていた。大将の後継者は田岡さんになった。もし私がこの味でもし店が持てたとしても、それは結局の所、田岡さんの二番煎じの様な気がしてならない。

 それってアタシのやりたかった事やろうか?

 そもそもアタシ何がしたかったんやろうか?

 アタシは何がしたくて500万も必死に貯め込んでたんやろ?

 真剣に何時間も考えたところで、答えなんか出てくる訳なんかあらへん。帰ってベッドに寝転んでニュースを見ていると、中東の辺りの物騒な事件を報道していて、アタシは少し悲しい気持ちになりながら、うとうとと微睡に。

 ピコリンとラインの通知でその微睡から、ずるんと引き起こされる。

望月包太郎
「話あるから、いつもの漁港で23時に」

 いつもの漁港って、なんなん?此間釣りしただけやん。ワードチョイスのダサさに思わず吹き出したが、それまではもう少し時間にゆとりがあるみたいなんで、アタシはまた微睡の中へ。

 漁港に着くとパオはベンチに座ってボーッと真っ暗な海を見ていた。
「どしたん、精霊の声でも聞こえるん?」
「俺、呼男君じゃないし」
とパオは薄く笑った。
「ホンマにヤバいなあの人、もうなんかに取り憑かれてんかも知れへんやん」
「共存出来ずに出ていくんじゃない?霊の方が」
「この人間には憑いてられへんわ〜言って出ていくん?だったら凄いな〜陰陽氏泣かせやん」
「逆にバチバチ陰陽氏の血脈って可能性もあるよね」
「www.めっちゃウケるなそれ」

「そういえばあの人、名前は佐々木翔って言うんやな」
「実はそれが本名みたいなんだよね。呼男っていう呼び方されるの嫌いみたいで、ちょっと怒るんだわあの人」
「なんで怒らはんの?」
「知らんて」
「そもそもなんで呼男なんやろね」
「ミコシンが言うには『ノブオ』を呼び間違えて『ヨブオ』になったらしいよ」
「なんで?佐々木翔なのに?」
「俺も知らんて。ミコシンに聞いてよ」
「面倒くさ。御子柴の番号知らんし。それ知ってどうすんねんって話やし」

「あ!あのさ今日アタシ思ったんだけど、『佐々木翔』って名前見て、一つ感じた事あんねんけど」
「うん何?」
「『B級暴走族の旗持ち』みたいな名前しとると思わん?」
「wwwなんじゃそら。全国の佐々木翔さんがブチ切れるって。真面目な佐々木翔さんはどうすればいいの?」
「佐々木翔に真面目な奴居らへんて。名前に授けられた勲章に従い、暴走するって」
「www.それ玉ちゃんの一人称差別だろ。ありとあらゆる所から怒られるよさ」

 アタシのネタ非難するのは、気に食わへん。トドメを刺さなあかんわ。そこでアタシは胸に平手を当て、
「本日は謹んで旗持させて頂きます!」
と少し佐々木翔に寄せて言うと、パオは笑い崩れた。
「族が謹むな」
と返すのがやっとらしい。随分とツボに入ってたみたいでコイツの回復を待つ時間が、少々面倒くさかった。

「ほんで本題わい?」
「まぁ飯でも食いながら話しましょうや」
「後ろのファミレスぐらいしか、やってるとこ無いやろ」
「そっすね。そこでご馳走しますから」
「それやったらファミレスで待ち合わせれば良かったやん。なんで漁港にしたん」
「港で待ち合わせってフレーズが、カッコいいじゃん。ギャング映画みたいで」
「お前は中学生か。あとアタシ女やし」

 アタシ達が丁度入った時、そのファミレスは客は2組やった。壁にかけてる時計を見た時丁度午前0時。パオはお腹空いてるらしく、ハンバーグの中にチーズの入ってる、超ベタなザ•ファミレス注文になぜかその日のアタシは少しひいていた。別に良いじゃんね。

「異動。らしいね」
「うん。らしいな」
「場所聞いたんだけど」
「あーホンマに?」
「遠…くない?」
「ホンマやねえ…、アタシも正直マジ参っとるわ」
 パオが頼んでいたチーズインハンバーグが届く。アタシはドリンクバーで紅茶飲むだけだった。少しだけハンバーグを分けようとするパオに、今食べると太るから意図的に食べないのという事を説明するのに、多少なりの労力を多少なりに大目に使う。
マジで面倒くさ。

「行かんで良くね?」

 ハンバーグのタレでライスをがっつきながら言うパオに、アタシは思わずキョトンとする。

「なんでなん?クビになってまうわ」
「そーなるだろーね」
「ちょっと。どう言うことなん?」
「俺も辞めるし」
「パオは実家継がんと、いかんからしゃあ無いとしてもアタシは継ぐ店もあらへんのよ。職を失う事になるやん」
「…。だから玉ちゃんも一緒に継ぐの。俺の実家を」
「え?なんで?此間もそないな事言いよったよね。アタシが継ぐ意味が無いやん。大体パオはどうするんよ」
「俺も継ぐよ。親父の店を」
「ん〜…せやんな、店被ってるやん」
「被ってない。二人で継ぐから」
「は?ホンマ意味わからんて」

「だから…その…玉ちゃんが俺の元に来る感じになるね」
「は?なんでそうなるん」
「うーん。わからない?」
「一個もわからへん」
「そんな俺ってさぁ、魅力無い?」
「はぁ?…マジ何が言いたいんよ?」
「だからぁ、俺の所に来てくれっつってんの」
「そこがわからへんねん。何で行かなあかんねん!」
「おいがわいの事が好きやっで、一緒にラーメンを作っていきたいっつってるところやろうが!」
「は?」
「ん?だからわいん事が好きやいう訳よ」
「え?」
「うん?解らんの?んんー…。だから貴方の事が好きなのよ」

 え?誰が?

「うん?え?えへへ。ぅえ?ホンマに意味わからへんねんけど。ホンマどゆこと?」

 正直言うとファミレスでそんな恥ずかしい事、デカい声で言うなって気持ちが強過ぎて、ホンマに思考が完全に止まっとったんよ。



   〜A side〜
 俺は一生涯のトラウマになるようなふられ方をしちまった。意味分からないってどういう男のふり方だよ、ふざけやがってあの女。まぁ別に良かったし、気にしてねえし、浮気したらナイフで脅すようなイカれ女、こっちから願い下げだし。

 帰ってきた地元の風景は、心の傷を癒やしてくれるかのようだ。そういえば俺が地元を離れ修行している間無双布武に入る前に会った、ドイツ人のパブロが親父の元で修行をしているのは言ってなかったよね。奴が俺が離れてる間、親父達の様子をラインで報告してくれてた。

 奴は俺と離れた間に関東に渡り、醤油ラーメンの超名門店で一年、その後札幌に渡り味噌の名店で有名らしい店で一年、それから塩を山陰の方面でまた一年。んで最後の一年に豚骨を九州で一年修行したいから良い所ないかと聞かれたんで、実家っつうか親父を紹介した。俺が兵庫で会った頃のアイツは日本語がてんで駄目だった癖に、今では普通に喋れてる。というか色々な所を転々し過ぎて、色んな所の訛りが混濁してるから再会した時には、既に面白い外人に変貌を遂げていた。

 パブロからの連絡で、親父も歳だからそろそろ引退させた方がいい、俺もそろそろドイツ帰ろうと思う。という知らせをラインで打ってきたのが、そろそろ帰らんとなと思うきっかけだった。パブロは色々な有名店で修行していたせいか、最初会った時と比べ、見た目も職人のような凄みのある風貌に変貌していた。日本語も片言どころじゃなく超流暢。なんだけど所々で鹿児島弁や島根弁、たまには急に江戸っ子みたいな事も言い出すので、良い意味でキャラがたってた。

 無双布武に入る前に3人でつるんでたアイルランドのショーンともテレビ電話で話した夜は、相当盛り上がった。騒ぎ過ぎて二人とも母ちゃんから、怒鳴られる程に。

 親父はパブロが相当お気に入りみたいで、自慢の一番弟子だと豪語し、逆に裏切り者の俺には冷たい。実際、全国の有名店で転々と修行してきたパブロの凄みは俺の目にも明らかだ。親父から学ぶ予定だったスープ造りも、俺はまさかこのゲルマン人から学ぶ事になるとは。パブロは常に勉強熱心でありとあらゆる事を吸収していた。彼の姿を見て俺は初心に戻らないとなって痛感させられる。俺が実家に帰って2週間が経とうとした頃、意外なラインの通知で驚かされた。


 「鹿児島中央駅なう」

 最初見た時意味がわからなくて、何かの間違いかなんだろうと思った。正直言って鳴丘玉美の文字は本能的に避けてたように思う。丁度豚骨を炊いてる大事な時間帯だったので、最初無視しようとした。けど「なう」ってなんだ?
 
 right nowの「なう」か?
 じゃあ今って事か?
 今鹿児島中央駅って事?
 もしかして迎えに来てくれって事?
 
 いやいやそんな訳無ーよ。あの女にはこないだしっかりとフラれた筈だぞ。あの傷掘り起こすのか?

 それでも曖昧にしててもしょうがねーし、一応確認の為電話をかける。クールにかつ冷徹に対応しなくては。

「どうしましたか?」
「鹿児島中央駅なう」
 久し振り聞く彼女の声は、少しか細く感じた。
「それはもう見ました。今いらっしゃるって事ですかね?」
「うん」
「会社の方は、どうされたんですか?」
「辞めた」
「なんでですか?」
「めっちゃ寒かってん」
 あの怖かった店長が、まるで子供みたいな事を言うので思わず笑い、俺も張り詰めた心が解れてしまった。

「もう玉ちゃん、子供じゃないんだから。そんで今何処ね?」
「スタバ」
「一階のとこ?」
「多分それであってると思う」
「迎えに行くけど、今から40分ぐらいかかっど」
「遅いわ」
「ウチ郊外なんだからしょうがないでしょ」

「親父車貸してー」
電話を切って俺は親父とパブロが茶飲んでる部屋を開けた。親父は驚きながら鍵を渡してくれた。パブロに炊いてるスープを引き継いで貰って、慌てて車に乗り込む。車のエンジンかけながら一つの事が浮かんだ。しばらく地元を離れてたもんですっかり忘れてたけど、俺は高速道路という便利なものを完全に忘れていた。

 高速すっ飛ばして駅に着いたのはわずか15分後だった。駅構内の商業施設に入ってるスターバックスのテラス席にあの鬼のナルタマこと、鳴丘玉美は行き交う人を見ながら、優雅に珈琲を飲んでいた。
 近づいていくと俺の姿を見つけて、時計を見てあれ?という顔で俺をもう一度見る。

 そうすると思ってたぜ。

「え。はやない?」
「高速っていう便利なものをすっかり忘れてたわ」
「アンタが遅い言うたから、珈琲もう一杯頼んでもうたやん」

 俺はテラス席に座り、
「俺も一杯飲んでこっかね」
 と答える。
「結構栄えてんやね、もっと田舎や思うとった」
「よく言われるけど、それはこの辺りだけ。俺の地元はなかなかのもんだよさ」
「どういう意味?」
「行ってみりゃ解っど」
「帰りも高速で帰るん?」
とコーヒーを飲みながら尋ねる。
「うん、そのつもりだけど?」
「下道でええよ、街も見たいし」
「じゃあ、そうしよっか」

 駐車場に向かう時、俺は店の車だったのが恥ずかしかった。この車は親父が仕入れに使ったり、出前をやっていた時に、原付で持っていけない量の時に使用していた超豚骨ラーメン臭い車だからだ。車を見たら笑われるんじゃないかと少しだけ思っていた。恥ずかしさを誤魔化す為、親父の車で軽のバンだけどね、という紹介で鳴丘玉美に車を見せる。
「仕入れの車や?みさきラーメン言うんやね?ん〜まぁまぁ渋いやん」
 
 そして車に乗って、
「めっちゃ豚骨ラーメン臭いし」
とケラケラ笑った。
 

 ~Bside~

 パオは聞かない。何故あの日の告白をぼやかす感じで、帰ってしまったのかを。
 パオは怒らない。何故今更になって自分を訪ねるアタシの身勝手さを。
 でもあの件に関しては、正直言うとこっちも本当は言いたい事があってん。でもそれを話し出すことが出来ず、車内にどんよりとした静寂が流れ、アタシをなんとも言えない微妙な心持ちにさせた。

 初夏に入り初めて来た南国の地、既にチリチリと肌に突き刺す様な紫外線が、対策を怠ったアタシを無言で叱責する。

 同じく無言で、運転するパオの横顔は怒ってる様にも見えるし、上機嫌の様にも見えるけど、実際のところはなんにも考えてない様でよくわからない。   
そのタイミングを図るうちに、横にみさきラーメンのロゴを入れた軽の箱バンは街から遠ざかり、細くぐるぐる回る坂道をずっと登る道に入った。

 その山道に入ってから、次第に森や樹木といった自然の驚異が凄まじさを徐々に増して行った。それは時に暴力的、しかし穏やかな母を思わせるような、剥き出しの自然の猛威がアタシの網膜に映る。石垣には苔が生え、走っている道路までも緑に写り、それらに飲み込まれる様な錯覚にアタシは陥った。

 勿論アタシの地元大阪にだって緑ぐらいある。小さい時は緑地公園や万博記念公園に行ったりして、家族でサンドイッチを作って出かけたりした事は懐かしく良い記憶。ほんでもここ迄は無かった様な気がするで?品目も解らんよな凄くぶっとい樹木や、無作為に電信柱に絡まる蔦、なんかアタシは圧倒されてもうて、なんかジブリの世界にみたいやなぁと呟いた。

 それを聞いたパオが、
「俺の地元はもっと田舎だよ」
と少し笑ったので、無言で少し居心地悪くなっていた、車内の空気が少しだけ解けた気がした。

 細くうねる坂道を抜け、大きな4車線の広めの道路に出る。恐らく此処がメインの大通りで、つまりは今まではショートカット的な近道やったんやね。どおりでぐるぐる回る道やと思ってたわ。
 
 コンビニやスーパー、携帯電話会社なんかが羅列している坂道を登りながらパオは、
「この辺は吉野。俺の地元はも一つ上の吉田ね」
と説明してくれたが、よそ者のアタシには今が何処走ってるのかすら全然解らへん。ただ山道をずっと登ってるようで、その山頂に向かうにつれ自然というか、全体に対しての緑色が一層深くなった。アタシは更に、山に飲み込まれていくような奇妙な感覚を感じてしまう。

 それからもうすこし走り、山頂を越えるとテレビの映像で見た事あるような、日本の原風景のような所に到着した。私の前方に拡がる畑の風景。恐らくだが山の湧き水が、そのまま畑に流れるように作り込まれてる稲田があって、とても牧歌的な優しい風景やった。またその奥には、自然の驚異と言ってしまう程の荘厳なる森が存在していた。

「パオごめんな。アタシあの日、正直色々混乱しとってんね。パオの言ってる事マジで解らんくて。いやなんやろ、言ってる事はわかんねん。でもその言葉の中に存在する真理というか…、ファクトとして認識出来ひんと言うか……」

「うん。来てくれただけで十分。ありがとう」

「ちゃうねん。こっちとしてはファミレスでああ言う事言う感覚もわからへんねん。もっとあるやん?雰囲気作りとか、ディナーとか、綺麗な夜景とかさぁ」
「雰囲気…?そういったってあの時間は彼処しかやってなかったし。俺も仕事上がりで腹減ってたし…何?だったら、先に漁港で言った方が良かったよって事?」
「なんで漁港で言うねん!アホwww.もうええわ」

 そういう問題ちゃうねんて。この人はホンマに天然やねんもんなぁ。

  ~Aside~

 ファクトってなんだよこいつ。正直ムカついたけど、俺は堪えて優しく接した。吉野の坂道を登り終え、道を下り、深い森に吸い込まれる様に車を走らせる。ふと時計を見ると、時刻は午前11時。もう店は開店してるし、急いで戻った方がいいだろうという時間帯だ。焦る気持ちを抑えながら少しスピードを上げようかと思った時、急に原付のスクーターが進路を妨害する様に前に出て減速、そして遂には停車した。そのまま走ると衝突するので、俺も同様に減速し停車する。

「なんなん?ヤバいんちゃうん?」
怯える玉ちゃんに大丈夫だからと言って、俺は車を降りた。スクーターに乗ってる奴がフルフェイスのメットを外した時に、俺は思わず叫んだ。

「稔君!」
「お前さぁ、帰って来たんだったら、電話しろよ」
 頭を丸めた以外には、稔君は何も変わってなかった。いつものリーバイス501にヴァンズのスエードチャッカに真っ白いTシャツ。
「何?彼女?」

 車の中で小さくお辞儀する玉美を見て会釈しながら言う。
「彼女っていうか〜、師匠っていうか」
俺は少し照れて頭をかきながら答えた。
「もう4年になるもんな。お前もだいぶ色々あったみたいな。かくいう俺も相当色々変わっちまったからなぁ。うし。ちょっと今急いでるから、夜に店また寄るわ」
と言い残し、スクーターで颯爽と消えてった。

「なに今のスキンヘッド?ヤバい奴?」
と玉ちゃんは少し怯えるような仕草を見せた。
「ヤバくないつったら、嘘になるかな」
って脅してみたが、よくよく考えたらコイツは広島ヤクザと激論して、打ち負かす程の気骨であった事も思い出し、思わず吹き出してしまった。

 よく言うぜ。

 家に帰った時は11時20分だった。もう客用の駐車場には4台も止まってた。俺はガキの頃から駐車場に何台止まっているかで、店がどれぐらい忙しいかが解る。4台は中の上といった所だと思う。店の中から熱気が伝わってくる。俺は営業に入らないといけないから、玉ちゃんは車の中で待っていて貰って、昼営業が終わったら紹介する段取りにして俺は店に戻る。
 
 
 ~Bside~

 そんな事されても、こっちは滅茶苦茶暇や。良く言えば牧歌風の長閑な景色も厳しく言えば、ただの田舎やし。それでも時間潰さな思って、車降りて畑を見たり、森を眺めたり、スマホを見たりしたところで、時間なんか上手い事過ぎるわけなんかあらへん。いや、エグいぐらいなんもないし。それでも大分頑張って結構経ったかな?思って時計見ても、経過した時間はたったの僅か1時間やった。パオの実家はこんな山の中なのにまぁまぁ繁盛しとるようで、駐車場の車は増え続け、もう今では満車になっとる。12時半か、多分今日一番のピーク帯。今行くと迷惑になるかな?アタシお腹空いてんねんけど。

 悩んでる間もさらに時間は経過し、今の時刻は13時。お昼営業時間が14時まで、あと1時間もあるやん。ちょっと暇だし、こっち来客なのに放っとかれ過ぎやし、もう知らんし、あんなド天然の言う事よう聞かんともう入ろう。

「いらっしゃいませ。空いてるお席にどうぞ!」

 爽やかに出迎えてくれたんは、謎の白人兄ちゃんやった。正直一瞬ビビったけど、気にせずアタシはツカツカ入って真正面の席に座る。厨房の奥の方からパオが段取りが違うぞという、無言のボディランゲージをしているけど知らんし。とりあえずそれを無視して、着席すると厳ついオッチャンが水を出してきた。コイツがボスやな、という事はパオの親父さんという事になるね。

「じゃあラーメンを」
「わかりました、ラーメンですね」
というとスッと振り返って、
「あい、ラーメン一丁〜」
の声に謎の白人とパオは、
「あいよぉ〜!」
と返した。 

 うん。良い声が出とるわ。美しいユニゾンや。

 何故かアタシは、最初に希望軒に行った日の事を思い出す。持論やけど本当の名店と言える店は、声出し、麺の湯切り、チャーシューを盛り付け方、全てにおいての所作が、もうスペシャルやねん。

 アタシの憧れた希望軒の大将は、まるで貴金属を扱うかの様にチャーシューを乗せ、まるで何年も磨いてきたダイアモンドを恋人にそっと手渡すかの様に、心を籠めて丼をお客さんに提供していた。
その所作の美しさが大好きやってん。

 それはまぁ置いといて。とりあえず出された水を飲んでみる。びっくりするぐらい美味しい。ラーメン屋で出てくる水なんて殆ど水道水、カルキ臭くてアタシはあんまり好きじゃない。でもこの水は、思わず「美味しい」と無意識の内に発してしまう、それに逆に驚いた程やった。パオのお父さんらしき方はそれが嬉しかったのか、

「お好きなだけ飲んで頂いて良いですよー」

と水が一杯入ったピッチャーを私の前に出した。
いやそんな飲まへんわと思ったけど一応、
「ありがとうございます」
と一応返事する。

 確かにこの水は美味しい。多分鉱泉水やろうかと考察してるうち、小鉢にのった大根の漬物が出てきた。ラーメンに漬物がセットで付いてくる地域があるみたいな話を聞いた事あったけど、ココやったんやな。漬物は薄切りにした大根を軽く塩締めした程度で優しい味。なんか心が綻ぶような緩く優しいフィーリング。パオのお父さんらしき人はパッと見、厳ついけど優しい方に違いないんやろな。

 心が和らいだついでに、油断してふと目線を上げるたアタシは、飲みかけた水を吹き出しそうになった。
「旨い。は正義」
って太めの線でメッチャ達筆で書いた習字の掛け軸が飾ってある。多分パオのお父さんが名のある書道家に頼んだやろうな。って思うたら、書いてもらった掛け軸をウハウハ気分で飾るお父さんの映像が浮かび、アタシは少し笑ってまう。

 でもアタシ、九州の豚骨ラーメンって博多系チェーン店でしか食べた事ないんやけど、基本的に細麺なんよね。固。とかバリ固。とかよく言うよね。でもあのパオのお父さんは麺の硬さは聞かへんかったよね。うーんあれとはちょっとちゃうんかな?

 ラーメンはアタシの想定を外れ、中太麺の豚骨ラーメンやった。ほのかな乳白色の優しいルックス、食欲をそそるワイルドな旨味の香り。アタシは思わず、そのスープを飲んだ瞬間、豚骨ラーメンのスープってこんな美味しかったっけと思う程、透き通るような旨味がアタシの体と脳内をなんか凄い優しく包み込む。小麦の香りが高い麺を食べてみると中太の麺は喉越しをつるんとなって、食感はとってもモッチモッチ。思わず笑いが出るような美味しさ。夢中になって食べているうちに、

「お客様、お味の方はどうですか?」
と聞いてくるパオ。

「想像以上!滅茶苦茶美味しいわ!」
正直な意見がスッと出てくるのは、嘘やお世辞じゃないからやと思う。パオはそれを聞いて恥ずかしそうに笑うと、
「父ちゃん、パブロ、紹介するわ。俺の師匠の鳴丘玉美さん」
とアタシの紹介を比較的に雑目にした。
でもそれぐらいで丁度いい。友達ぐらいの感じでええねん。

 当然状況が把握出来ず、厳ついオッチャンと見知らぬ白人はポカンとしとった。
「玉ちゃんごめん。あと30分で休憩なんよね。悪いけど食べ終わって一息ついたら厨房の片付け、手伝いお願い出来る?」
とパオは続けて言った。
「ええで♪」
アタシは袖を捲り、力瘤を作る様なジェスチャーをして返す。美味しいラーメンも食べたし、丁度ひと運動したかった所や。
 
「大阪府住吉区出身、鳴丘玉美です。宜しくお願いします」
と威勢良く入ったものの、初めてのキッチンは基本的に何していいか全く分からん。こういった時はとりあえず洗い場に入る。というか入る以外の選択肢が無いと言ったところやね。なめられたらアカンから一生懸命やろう。当たり前だけどみんな慣れとるね、手際が良いわ。特にこの白人の動きが一番ヤバい。一体コイツは何者やねん。

 呆気に取られてる間に、最後の客が帰り、パオが暖簾を下げる。そしたら厳ついオッチャンは居なくなって、代わりに絣のワンピースをお洒落に着た50代ぐらいの女性がささぁっと入ってきて。
「パブちゃん、包太郎お疲れ!忙しかったぁ?」
と二人に尋ねる。彼女が入ってきた事で、まるでモノクロームだった厨房が、急に天然色に変貌する様な錯覚をアタシは感じる。

「あーらー誰ねぇ。この可愛いお嬢さんは!」
 急にアタシを見て大声で話しかけられた。アタシは知らない人に声をかけられ、思わずアタフタしてしまう。
「母ちゃん紹介が遅れたわ。前の会社で俺の師匠の鳴丘玉美さん。まだなにも決まってないけど、俺この人と結婚したいと思ってる」

 え?
 一番ビックリしたのはアタシやった。思い切り振り切って、
「いやぁ。そないやもんとちゃうくて、友達みたいなもんなんです。アタシ一応、元上司でしたしねぇ、結婚とかはまだちょっと考えてはない感じかなぁ?みたいな。ハハハ」
と笑って誤魔化しながら、パオのお尻をグイッとつねる。
「美咲母ちゃんに兄弟子のパブロ君。ドイツ人だよぅ」
とそのお尻を撫でながら、パオは美咲さんと謎の白人を紹介した。

「あに言ってやんでえ。俺達は同期みてぇなもんよ!」

 するとそのパブロ君はパオと肩を組んで、ちょっと戯けて言った。え?聞き間違いやないよね?この白人は今「てやんでえ」って言った。江戸っ子名物「てやんでえ」を何でこのドイツ人から聞かなあかんねん?

 美咲さんは今は、レジ締めと経理だけをやってるみたい。アタシも売上金の数えを一緒にやろうって言われて、お手伝いさせて頂く。お札の数え方が凄く早いねぇとか褒めて下さるので、少し舞い上がってしまった。この人と一緒にいると緩やかで優しい気持ちが溢れてくる。まるで母さんや。せやな、パオにとっての母さんやもんなぁ。

 心が浄化されるような錯覚に陥るのは、多分アタシの心の隙間を埋めてくれるからなんやと思う。作業が終わった頃、パブロ君とパオが入ってきて、
「親父が今夜の営業休むって」

 美咲さんが何故かと聞くと、
「今後の話し合いをしないといけないって。あと母ちゃんは親父が話あるらしいよ。タマは俺とパブロとそれまで温泉でも行こうや」
「温泉?別にええけど、荷物車のままやん?
そっち下ろす方からやらせて貰いたいんやけど?」
「オッケー!じゃあそれは3人でやろう。パブロも手伝ってよ」
そのパブロという白人はポーズをつけて、
「やらいでか!」
と変なポーズをつけて、威勢良く即答した。
このインチキ江戸っ子ゲルマン人、悪いやつじゃなさそうやんけ。

 温泉は車で山道を10分ぐらい走った所にあった。外から見るとさびれた旅館みたいな作りになっていて、横を美しい渓流が流れとって、マイナスイオンが凄い。釣堀もやっていて、家族が楽しそうに釣りに興じてた。相変わらず後ろに聳える森は圧倒的に荘厳やし。

 その美しい景観にアタシは此処が一発で気に入った。温泉は源泉で泉質は抜群に熱すぎんとええ感じ、だって体が喜んでるのがわかるもん。露天もあって風景見ながら、しばらく入ってたら頭がボーッとしてしまう。気がついたら1時間も経っとって時間ヤバいかなぁと焦ってあがったら、未だ誰も居らんとあがったのはまだアタシだけで、パブロ君とパオは更に一時間もチルってやがった。

 今夜のその話し合いというのは、パブロ•マルクス君がもうすぐドイツに帰るそうで、多分その話らしい。パブロ君はアタシでも知ってるような超有名店を何店も修行を重ねていた。相当苦労したんやろね。日本で最後に修行したみさきラーメンとパオのお父さんを絶賛している所も含めて、彼は凄く純粋で人間性が優れている感じ。実家はフランクフルトの郊外らしく、そこはアタシも知ってる通りソーセージで世界的に有名な街。そのせいもあってか、当然畜産業は相当盛んで、豚骨は比較的安値で入るらしいわ。

 そんな中、フランクフルトの街中に一軒のラーメン屋が開店された。当時家族で街に買い物に来てたパブロ君は未だ学生だった。そのついでに昼食も済ませておこうと家族で試しに入ったのがきっかけだったらしい。その店を経営しているのが、当時フランクフルトではあまり見慣れない日本人だった。でもサッカーで地元のチームに真面目でかつ、無骨な日本人選手がボランチをしていて、その彼には家族も好感を抱いてたこともあり、抵抗なくその店に家族で入り昼食をしたらしい。

 そこでパブロ君はラーメンという食べ物に衝撃を受けたそう。それからインターネットで情報を集め、面する道路が交通量の多い実家の倉庫を、ラーメン店に改造したら絶対売れるだろうと確信を抱き、日本語なんか一切話せないまま渡日したと、今となっては完全に吸収して流暢な日本語で巧みに説明してくれた。恐らくこの若いドイツ人は、絶対成功するだろうとアタシは確信した。ただの思いつきではない明確なビジョンに、達成するまで死んでも諦めない覚悟が彼の瞳に映っていたから。


 みさきラーメンはその日の夜営業を、休業扱いとし店舗上の居間で話し合いが行われる事となった。

謙一(父)「来月の末で、おいと美咲は引退しようち思っちょる。それと来週にゃパブロも地元に帰る言うちょる訳やしよ。ほいで此処で包太郎が嫁さん連れて帰って来たんじゃったら、丁度潮時だろうち-…」
~遮る様に~
玉美「ホンマすいません!まだ結婚するつもり…」
~またそれを遮る様に~
美咲「アンタそんなこと言ったら、玉ちゃん嫌になって大阪帰るでしょうが。ねえ、気にしなくて良いのよ最初は遊びで。気に入らんけりゃ辞めてもいいんだから」
玉美「辞めるとかそういうのとも違うくて…」
口を噤む玉美の言葉により、少しの間緊張感を含んだ無音の重苦しさが流れた。

包太郎「うん。とりあえず引退するのはわかったよ。一応俺と玉ちゃんの二人体制でやっていけってだけの事でしょ?」
謙一「いんや、そいげな事じゃなか。みさきラーメンは来月で終わりっちゅう事じゃ。こいは母ちゃんの意見でもあるでね」
包太郎「なんでよ母ちゃん?」
美咲「個•人•情•報!なんで私居ないのにみさきラーメンなのよ。そのせいでずっと何処行ってもラーメンおばちゃんって言われてるんだからね。なんで山にあるのに、岬なんだよとか言われたところで私にゃ関係のない話でしょーが!
バカんよな、腹ん立つ」
包太郎「! 嫌だったんだ…。笑っちゃ駄目よ」
玉美「www.ごめんなさい。可愛いって思っちゃって、すいません」

パブロ「看板を変えるんであればよ、新しい店ん名前考えんといかんがや」
包太郎「めんどくせえから、たまみラーメンで良いよ」
玉美「個•人•情•報!ほんだらアタシまでラーメンおばちゃん言われるやんけ。そもそも結婚する気なんかあらへんし。入れるんやったら自分の名前入れればええんちゃうん?」
美咲「包ちゃんラーメンはどう?」
包太郎「ダサいって」
玉美「パオちゃんラーメン」
包太郎「ダセエの治ってねえ上に恥ずいって、あとパオって呼んでるの、お前とアキさんだけだし」
玉美「じゃあパオズラーメン」
包太郎「話聞いてる?」
パブロ「お!パオズラーメン良いがや〜」
美咲「お洒落な感じになったねー」
玉美「ウシ。決定やな」
包太郎「俺の意見はよ!」
玉美「したら他になんかあるんけ?」
包太郎「んんん…今んとこ出て来んけど…」
玉美「決定やな」
謙一「名前なんかなんでんよか!」
と粗く机を叩く。少し静まった部屋に来客者を知らせる呼鈴がなった。美咲が誰かしらと向かう、数秒の沈黙を割くように、彼女の明るい声が聞こえる。

美咲「稔君!!」

 包太郎が慌てて迎えに行き、流れで話し合いに混ざる形になる。
稔「どうも包太郎君の昔からの友人で、篤田稔という者です…」
パブロ「www.みんな知ってるよ。この人そこそこ有名人やから」
包太郎「稔君が有名?なんでよ?今実家継いで、坊さんやってるんでしょ?」
稔「まぁ〜大体そんな感じ…かな?」
親父「まぁ〜この町の出で稔を知らん人間はお前ぐらいなもんやど」
と包太郎を顎で指す。
稔「言い過ぎです親父さん。僕ん事は置いときましょう、そんな大したヤツではないんで。それよりも今、大事なお話してるって聞いたんで、僕は横でお聞きするだけで大丈夫なので…」

包太郎「なんで稔君の事みんな知ってるの?」
稔「くどいぞ包太郎。俺の話は後で聞けば良いだろう。それより彼女さんの名前の方が俺には大事だね。すみませんがお名前お聞きしても良いですか?」
玉美「あ、鳴丘玉美言います。どうぞよろしくです」
稔「そのイントネーションは関西方面だね。どの辺りに住んでたの?」
玉美「大阪っすね〜」
〜割って入る包太郎〜
包太郎「ちょちょちょっと。気になるって、なんで稔君は有名人になってるの?」

 稔は言いにくそうに頭をかきながら、
稔「ああ、もう面倒臭いな。前に俺アメリカ行ったでしょ。あの時の目的って言語習得、つまりよりネイティブな、発音で英語が発音出来るようになる為だったんだよね」
包太郎「うん。確かそんな感じだった」
稔「でね、それ以外の宗教も勿論あるんだけど、あそこの国は基本的にキリスト教な訳よ。その中でもカトリックとかルター派、カルバン派とか色々あるんだけど…」
包太郎「…?」

稔「とにかく俺の下宿先は敬虔なるクリスチャンのご家族だった。俺はそこでその家族に色んなことを教わったんだよ。正直キリスト教については、起源や歴史、思想、そういった表面上の勉強は大学でも当然勉強してた。実際に彼等と一緒に生活してみると、上っ面の知識だけじゃなく、俺の実体験に変わったんだ。それは座学では決して学べない本当に貴重な経験だったのよ」
包太郎「え?キリスト教に改宗したって話?」
稔「www.ちげーよ。俺は寺の跡取り息子だぞ。俺が改宗したら、親父が泣くだろうが」

包太郎「は?マジ意味わからん。どういう事?」
稔「だから。色んなもん省いて、目茶苦茶わかりやすく説明すると、俺はその家族と宗教をシェアしたんだよ。キリスト教の教えと、その信仰と生活を実体験させて貰う代わりに、俺は仏陀の思考理論哲学を説いた。そしたらよ、彼らも凄く感慨深いって感動してくれたんだよ。つってもさわりの部分だけね。空の思想とか、唯識の理論とかまで領域展開すると、もう皆訳わかんねーってなっちゃうから、最初はソフトな奴からね」
包太郎「何それ?ユイシキ?リョウイキ?」
稔「うん。包太郎にゃ、ムズいと思うわ」
包太郎「前に言ってたウパニシャッド哲学みたいな感じのヤツ?」
稔「似てる様で似てない。でもウパニシャッド哲学も仏教のルーツの一つであるのは間違い無いしなぁ…。までも一応ここでは分別する為、違うと言っておこう」
包太郎「…?どっちにしろ俺には無理だわ」

稔「ったく。お前と話すと論点がずれるから困るんだよ。何処まで話したっけ?そうそう、ステフの家に居候させてもらってた時の話な。彼女の家族と宗教をシェアした時、俺は閃いたんだよ。点と点で離れ離れになって、争いあっている宗教を繋いでひとつの輪にして行く為の活動に俺をひとつかけてみようと思った。包太郎!ガキの頃から言ってる俺の夢、知ってるよな」

包太郎「昔から言ってる稔くんの夢だったら、争いの無い世界にしたいって事だよね?」

稔「www.この星から人間が居る限り、争いが無くなる事だけはねえよ。あれから勉強重ねて、重ねれば重ねる程。その事がいかに難しい事、いかにあり得ねえ絵空事を言ってたのか、今となってはちょっと可笑しいぐらいだ。でも…それでも…そうだとしても! もししょうもない争い事の犠牲者の数を1パーセントでも、減らす事が出来るのであれば、それは俺の自身の人生の為さねばならねえ事なんじゃないかって思って、俺は今もまだ、懲りもせずアクションを続けてる」

美咲「それで英語でお釈迦様の教え…というかあれは、考え方や捉え方の概念よね。それを流し始めてもう1年と半になるの。ユーチューブでね、英語圏では結構有名らしいのよ。ホラ稔君カッコいいでしょ?だから女性ファンも多いの。凄く」
パブロ「マジで有名。俺の地元にもファンがいるぐらいだよ。英語圏じゃないのに」

包太郎「マジでか…。凄え…」
玉美「ホンマにすごい人やん。アタシ最初遭ったヤバいヤンキーかと思った。パブロ君にしろ此方の先輩にしろ、良い友達に囲まれてるパオはラッキーやな」
包太郎「…まあな」
玉美「いやいや!ちゃうんよ。彼らと対比としてみた時に、貴方が哀しいほどにショボいと言う現状に対して、これは皮肉なんですよ。ロドリゲス杉澤さん?」
包太郎「誰だよソイツ!むかつくからその知らない奴の名前最後に足してくるヤツ、もうやめて!」

稔「www.ほら、こーなるから俺の話は辞めたほうがいいって言ったの、やっぱ脱線したじゃん。で今どんな話してたの?」
美咲「店の名前を変えるのよ。ずっと私の個人名が入ってたからね。でも正直嫌だったから変えて貰おうと思って、ずっと父さんには前からお願いしてたの」
稔「マジすか。僕みさきラーメンって名前好きだったんですけど。美咲さん本人が変えたいと思うのであれば、しょうがないっすね。候補とかあったら教えて貰いたいんですけど」
玉美「今んとこ、パオズラーメン」
稔「パオズ?それはなんで?」
包太郎「コイツが俺の事をパオって呼ぶんだよ」
稔「ん?なんで?」
玉美「包むの字を中国風にパオって、同僚が呼んだんで」
稔「飲茶のパオな!包太郎の包むって字だろ?確か広東読みでパオだわ。俺、パオズラーメン悪くないと思う。響きが良いよな」
玉美「めっちゃ良いと思いません?アタシが考えたんですよ。本人がなんやごちゃごちゃ言うとるみたいですけど」
稔「なんで?」
と包太郎を見る。

包太郎「だって、俺ずっと包太郎で通ってきたのに、いきなり変なあだ名つけられてそれが店の名前?一生背負うんだよ。すっげえ微妙なんだけど」
玉美「嫌やったら、包ちゃんラーメンでもええで」
包太郎「それもヤダ。なんか他にいそうだし」
玉美「そーかー、それはしゃあないなぁ。ほたらもっちんラーメンは?」
包太郎「もっちんラーメン?何それ?」
玉美「望月からとって、もっちん」
包太郎「言われた事ないんだけど?」
玉美「言われそうやけどなぁ。じゃあ、間とって望月包太郎ラーメンってのは?」
包太郎「www.どこの間とったらそうなんの?自分の個人情報、鬼みたいにフルで掲載してんじゃん。俺どんだけ自分知って貰いたい奴なんだよ?」
と玉美と包太郎二人で笑い合う。

稔「お前ら仲良いな。じゃあ更に間とってよ、俺が包太郎の事パオって呼ぶからパオズラーメンにしようや」
包太郎「恥ずかしいよ。稔君に呼ばれると」
玉美「じゃあどうすんねん。望月包太郎ラーメンにするか?」
包太郎「それは…ちょっとオモロいけど辞めとくわ。なんか恥ずかしいし…もうわかったよ、そのパオズラーメンでいいわ」
と両の掌を見せ降参の素振りを見せる。
美咲「おし。お茶入れよっか玉ちゃん」
玉美「良いっすね」

~休憩を挟んで~

パブロ「僕と友達のショーン•マクワゴンって言うアイルランドのラーメン起業家から、一つ提案がある。まず、みさきラーメンは料理の値段が安過ぎる。今の日本の相場から比べても一杯600円はちょっと安過ぎだよね。今後サステナブルな運営を視野に入れ、此処で料金の引き上げをするべきだと思うよ」
玉美「確かにな。無双布武で一番安いラーメンでも、800円からやしな。ええんやない?アタシも賛成かな?」

謙一「ふざけるんじゃなか!ウチは今までどんだけ食材が高騰しても値上げせんかったのが『売り』やったたっが!大体今まで来てくれたお客さんに対しての顔向けが出来んど!」
稔「親父さん!確かに俺も600円は安過ぎると思ってた。値段を100や200円ぐらいあげても、俺は此処のラーメンは食いに来ますよ」
玉美「今後、小麦やガス代も高騰が懸念されてます。600円だと赤字になる時代だってそう遠く無いかも知れへんのですよ?」
謙一「そういう事じゃあ、無か!」
と再び激しく机を叩く。それに皆が驚き少しの間、静寂が流れる。謙一は少し落ち着きを取り戻して、静かにかつ熱い想いを内包するかの様に語り出す。

謙一「昭和の時代から、引き継がれてきた伝統ちゅうもんがあったっが。金持たん奴でも美味くて腹一杯になれるこのうんまかラーメンっちゅう食いもんに、おいは心を寄せて今まで人生を投じてきた。値段を上げる言う事は、その美学と信念と何より、お客さんに対する裏切り行為じゃ」
包太郎「親父…」
玉美「…今のはちょっと…ホンマにカッコええな…」
 
 謙一の発言は今までの彼の仕事に対する信念やプライドなどが包含されており、それに皆は心を打たれ誰も自分の意見が言えなくなってしまった。ただ共に歩み続けてたパートナーを省いてだが。

美咲「もう昭和じゃ無いのに?」
謙一「………時代とか、そう言う事じゃあなか」
 それを聞くやいなや、激しく机を叩く音がした。今度は叩いたのは美咲だった。

美咲「いやそういう時代なの!それどころかもう平成ももうすぐ終わるの。なのに未だに600円のラーメン作る為、まぁだ太陽も登らんうちから湧水汲みに行って、高いガス代叩いて、豚を何時間も炊いて、夜中まで営業して、稼ぎとしては全然割に合わない!最近ではこういう職場をブラック企業って言うんだよ!」
謙一「なんじゃ!わいは、俺の今までやってきた事がブラックやっちゅうか!」
包太郎「辞めてくれよ!親父も母ちゃんも。お客さんも来ちょる。恥ずかしいうえに申し訳がたたんて!」
謙一「……」
包太郎「親父。今後やってくのは俺や、いう訳よな。さっきの親父の言った今まで値上げせんかったプライドっちゅうんわ、凄えわかる。わかるしわっぜかっけえと思った。俺は馬鹿やっで知らんかったたっけど、今後色んな物の値段が高くなって、儲からんくなって首回らんくなって、もし赤字を重ねても、それでも営業するんやったら俺はどいげんして生活するとよ」
謙一「…」
包太郎「いけんして電気代を払えばええとよ?」
謙一「…」
美咲「父さん。きっとそういう時代の流れなのよ。私にもよくはわからんけどね」

パブロ「でもフランクフルトでランチする場合でも大体10ユーロが目安だよ。相場的にね、ヨーロッパ全体的にみても大体そんなもんだろうね。もっと安く済ませようと追ったら、当然下はあるけど。だとしても俺の見立てでは、みさきラーメンはランチとしてもディナーとしても、品質でみて日本円で一千円の価値はあると思う。かけてる食材もだし、まず調理の手間を考えたらね」
稔「俺も思うなぁ。住んでいたブルックリンに比べ、日本やアジア全体のランチは総体的にみても安過ぎるかなぁ。その内、問題視されるかも知れんと思えるぐらいっすよ。だから親父さん真面目過ぎなんすよ。なにより一番大事なのは家族の幸せ、じゃないですか?」
謙一「…それは…確かに…じゃったっけどなぁ…」
稔「俺も値上げには賛成です。今後更に食材費、ガス料金は高騰し続けると仮定しましょう親父さん。そしたら包太郎は今までの貴方達以上に、きつく辛い人生を送らないといけなくなるかもしれません。それは息子さんにとっての重荷になる可能性があるとは考えられないですか?」

美咲「稔君この人はね。今までずうっと太陽も登らん内に起きて、湧水汲みに行って、殺菌消毒の為に沸騰させて、粗熱取れたものを夏は冷やして、冬はお茶にして無料で提供しているの。ホントに真面目で純粋な人なのよ」

包太郎「んで汲んできた湧水で、豚骨を何時間も炊いてスープを作っている。だから親父のラーメンはやっぱり旨いんだよ」
玉美「そこアタシも感動しました。最初の水からラーメンまで完璧でした。今まで食べた豚骨ラーメンでは一番やったかも知れんです。美咲さんの今の話聞いて、そこまで裏で手を掛けてたとは思うてもおらへんかった。アタシの地元じゃそこまで手をかけた食べ物だったら、普通千円以上はするんじゃないかと思いますよ」
謙一「ラーメンが千円ちか?www.貴族の食いもんじゃなかど!」
包太郎「千円以上するラーメンは普通にあるよ。この世に間違いなく存在してる」
美咲「天文館にも昔からあるがね」
謙一「わかったわかった、もう好きにせ。でもこっちの要望は聞いて貰うでね」

包太郎「親父の要望?何?」
謙一「お前自身のラーメンを作れ。ウチで出してる豚骨ラーメンは俺が作った味や。それをベースにするのは構わんど。でもどう言う形であれ、お前のオリジナルを作れ、そいが店が継がす条件じゃ」
包太郎「え、本気?今のラーメン辞めたらお客さん離れるんじゃない?」
謙一「俺が作ったラーメンを残すのは構わんど。でもそれとは別のお前のオリジナルを作れ、じゃなきゃ店は譲らん!」
包太郎「えー。面倒臭えよぅ」
玉美「そこは黙ってやれや!」
と比較的強めに包太郎の後頭部を叩く。そのあまりのツッコミの激しさに、軽目にパブロがひくという現象がおきる。

玉美「あのう。アタシからもお願いというか希望というか?ご相談がありまして……」
美咲「なあに?玉ちゃんの言う事なら、おばちゃん何でも聞いちゃう」
玉美「表の看板見ました。定休日、火曜と木曜ってなってましたけど、その日のどちらかでもアタシに貸して貰えんでしょうか?」
美咲「なあに?スイーツでも焼いちゃう?」
玉美「いや、申し訳無いですけど、提供するのはラーメンです。この店の風貌で、平日一日だけベイクドクッキーと珈琲やっても、お客さん来ないですってwww .」
包太郎「ゴリッゴリッのラーメン屋の風貌で、店ん中も超ラーメンの匂いが染み付いてるしねwww.」

美咲「何?貴方もラーメンマンなの?違う違う!貴方は女の子。だから呼ぶとするなら、ラーメンちゃんって事になるのかしら?」
包太郎「……? 母ちゃん! 訳わかんねえ事言うなって。肩震わせてツボってるじゃん。この娘ゲラなんだから。ね、ラーメンちゃん」
玉美「あははは!2回擦らんでええやん。折角堪えてんのに。」
稔「この際、店名もラーメンちゃんにするか?」
玉美「店名にしてはダサいですって。パオズラーメンで決めたとこやし」
美咲「何がそんなに可笑しいかしら」
玉美はまた爆笑して、呼吸を必死に整えてから、本題に戻した。

玉美「アタシ、鳴丘通商って言う関西ではそこそこ有名な会社の一人娘っていう生まれでした。社長令嬢としてめっちゃお嬢様みたいに育てられ、いつもフリル付きのワンピースにエナメル素材のドレスシューズ履いてて、小さい頃はホンマ幸せでした。全てが煌びやかで光り輝いて見えよった。でも小学生の高学年の頃から、そういった物が鬱陶しく思える時期がありました。中学生の頃には大好きだった両親とも、よう口聞かんくなってしまって」
 
 玉美は下を向きながら滔々と語った。稔が包太郎の頭を掴んで言う。
「お前と一緒じゃねぇか」
包太郎も俯いたまま黙っていた。更に玉美は俯いたまま続けた。

「中学高校の頃は台風かいうぐらい荒れてました。自分の母親に対し、じゃかしいんじゃクソババァ言うた事だってあります。汚い言葉を吐き、服装も以前のアタシとは、比べ物にならない程に変わってしまっていった。アタシは多分その頃、何もかも見失ってしまってたように思えます。自分の大事な、根幹たる自己を自分で傷つけていた。でも心が荒れていた時に、近くの赤い暖簾の希望軒っていうラーメン屋に入ったんです。アタシはそこの大将にホンマに救われました。本当に素晴らしい方でカラカラと笑い、人の悩みを吹き飛ばしてくれる体も心もホンマに優しい人でした。アタシは其れから大将とそこの醤油ラーメンに、魅せられてしまいました」

 玉美は過去を振り返るように、丁寧に話した。自らの人生において、あまり過去を人に話すことはなかった為、口調こそ冷静だったが、彼女の心情は大きく揺れ動いていた。でもその現象が理解出来ていたのは、この時点では玉美だけだった。

「それからアタシは希望軒によく行くようになりました。ラーメンの味も勿論やったんですけど、優しく温かい大将の人柄にも惹かれましたのが、一番大きかったと思います。そこには多分両親に向けられない想いも、混じっとったんやないかと今では思います。私がこの世界に入ったのも、あの人みたいになりたいという思いがあったんです」
 
玉美の口調は丁寧だったが、話し続ける内に感情を含み、肩が少し震えてるのを包太郎は気づいてしまい、彼女の心臓の鼓動に呼応するかの様に激しくなり始める。

「此間母が亡くなりました。彼女はこないなアタシでも、許してくれました。それどころか死ぬ前、彼女はアタシの事を立派だって言うてくれました。そして憧れた希望軒の大将もアタシの知らん間に亡くなってはりました。それを聞いた時、自分のルーツを無くしたような、空洞のような哀しい感情に埋もれてしまいました。でも希望軒は潰れた訳じゃなく、凄く生真面目な方が継がれてはって、その方に希望軒のスープ作りのレシピを何故か頂きました。

 アタシも無双布武で働きながら、いつの日かは自分の店をと思って、醤油、味噌、豚骨、塩味のスープを模索しながら作っていたので、正直その大将のレシピはアタシの想定を超えるものでは無かった。それでも大将の心や味を継いでいきたいという気持ちはホンマにあるんです」
 いつの間に俯いていた、玉美は頭を上げ語っており。その瞳には熱い光が灯っていた。

「……ほいでその醤油ラーメンをいけんしたいっちゅう所よ」

 謙一が腕組みして威圧的に訊ねるが、玉美も負けずと返す。
「はい。この店火曜と木曜が定休日と表の看板に書いてあるのを見ました。1日でええんです。アタシに貸して貰いたいと思いまして」
 
 黙って聞いていた稔が、
「定休日じゃないと駄目なの?普通の営業日に二つの味のラーメンを出せば良いんじゃない?」
「ガス代的に無理です。普段でも豚骨を大体8時間炊いていると聞いたので。それにプラスして、鶏ガラも炊くようになると月で20万は軽く超えちゃいます。美咲さん今失礼ですけど、お幾らぐらいでしょうか?」
と玉美は平然と返す。
美咲「そうね。毎月15万ぐらいかなぁ?」
謙一「じゅ、じゅ、15万ちな?」
今まで知りもしなかった驚愕の真実に、目玉を大きくしている謙一。
それに鬱陶しそうに美咲は、
「そんな事知ろうともせんかったでしょうが、アンタは」
と肘を突き、頭部を掌で支えながら、面倒臭そうに呟いた。

稔「IHに変えたらよ?俺の実家の寺は、改装時に全自動に変えたよ。排出ガスの低減は現代における人類の課題だからね」
玉美「確かにランニングコストも悪く無いらしいんすよね。でも導入費が結構するらしいんですよ。アタシ結構貯蓄あるんですけど、幾らか出しましょか?」
美咲「なぁんで玉ちゃんが出すのよ!こぉのポンコツが大学行くかもと思って、貯めてたお金を回せばなんとか出来ないかな?」
と言って包太郎を指差す。当の本人はバツが悪そうに下を向いている。
稔「それを言うんだったら、厨房も結構ガタきてますよ。これを機に建物ごと変えた方が良くないですか?大体千五百万ぐらいあったら足りるでしょ、それぐらいだったら俺が無金利で貸すぞ包太郎」

包太郎「!なんでそんなお金持ってるの稔君?」
美咲「だって売れっ子だもん。この町じゃ知らないのアンタぐらいよ」
包太郎「でも額がデカいって、無理よ。返せる自信が無いもん」

玉美「仕事キツい上に、あっちこっち引越させられる無双布武を辞めなかった理由は給料が良いからだったんです。自分の店を持とう思って7年間勤めて貯めたお金は500万ぐらいになりました。パオもまぁまぁ貯めてるやろ?」
包太郎「いや。貯めてない」
玉美「www.いや責めて100万ぐらい…」
包太郎「全部使った。もうすっからかんだって」
玉美「お前なんしてんねん!」
包太郎「違うんだって。ミコシンに毎日毎日飲みに誘われて、ホント大変だったんだから」
玉美「関係ないやん。お前が甲斐性無さすぎるだけや」
包太郎「はいはい、すいません」
稔「お前ら仲良いなぁ」
包太郎&玉美「何処がよ(やねん)?」

稔「ねぇパブロ君はどう思う?もうここで働いて大体一年になるよね?」
パブロ「確かにIHの方が炊くっていう調理法に関しては温度も安定すると思うんだけど。採用してる有名店もあるって話聞くがや。でも僕の地元もなんですが、この国は電気代がチョット高いのよね…」
稔「アメリカはもっと安いもんね…だとしても、やっぱIHは導入した方がいいと思う。直火じゃないと駄目なところがあるんだったら、そこだけカセットコンロ使えばいいじゃん」
玉美「良いっすね、その考え全然アリだと思います」
謙一「うおい!」
稔「なんすか?」
謙一「その…IHっちゅうんは何やっとよ?」

 
 色々あってタマや稔君の後押しが、凄すぎてその翌年の秋口に、店は立て直ししないといけない感じになっちゃった。まぁ確かにあの店をこれから更に使い込んでいくのは確かに無理があったかもしれないなぁ。稔君はそのあと、俺達に餞別だといって、自力で盾つけるタイプの太陽光発電ソーラー2枚を持ってきてくれた。これを貰った時点で、パオズラーメンはIH化から逃げられない形になってしまう。

 そうそう稔君をインターネットで調べてたら、マジで凄い事になってた。でもあの人は、中学生のスケートボード乗ってた頃からぶっ飛んでたからね。
 でもあの頃から言ってる事はずっと一緒。

~原始的な宗教という概念は、教えや哲学理論の事を指し、もし神が宿るとするならば、偶像の姿ではなく「教えのなか。もしくはそれに準じ、真理を追求する者の其の思考理論内」に宿るべきものである。
 同時に宗教とは、貧者及び社会的弱者への救いである共に、人生という長い旅に道筋を見失う、旅人への灯火である事を目的とする。ましてや自らの私服を満たす為に、信者を異常に獲得しようと取り組んだり、またその者から過剰に富を徴収したり、或いは権力者の覇権争いの種とされるなんて事は以ての他である~

 とか他にも色々言ってるんだけど、正直俺には難しいや。寺がボロかったから修繕費稼ぎに結局そう言った事をユーチューブで英語で説くのをやってたら、アメリカやヨーロッパの方で軽くbuzzったみたいでそれで一躍有名人になったって話。まぁ当然英語がわからない俺みたいな奴の為にも、字幕を付けてくれていたお陰で、見る事が出来たんだけどね。

 まぁ稔君は顔もカッコいいから、日本でも一時期はたまにニュースで少し取り上げられてた時期もあったらしいんだけど、それを良く思わん奴等から嫌がらせがあったらしい。プレイヤーヘイター型youtuberからネット上で喧嘩ふっかけられたり、マジでその筋の奴等から、直接脅されたりした事もあったらしい。もう今は、地元の吉野で通常の僧侶としてやって行きながら、たまに自分の思想をネット配信するライフスタイルが性に合ってる様で、取り敢えずはこのままかなだってさ。

 俺達はその年の秋には、一時的に店を畳む事にして改装に着工する事になった。その間、俺とタマは新作ラーメンの製作に。タマはレシピや今まで培った技術をみせ、たったの一日で希望軒醤油ラーメンの発展系と豪語するスープを作ってみせる。そんな簡単に出来る訳ねーだろと思って味見してみると、俺が今まで食った全ての醤油ラーメンのスープを遥かに凌駕する出来。まるで文句のひとつも出てこない。

 これにはマジで参ったもんだ。

 それとは対照的に俺の新作ラーメンは酷く難航する。親父の豚骨スープに白味噌を薄く伸ばしてみると、凄く旨いし良い感じ。でもどっかで他の店で食ったような味もして、なんかパクりっぽい感じも。
俺のオリジナル?そもそもオリジナルってどういう事?模索する為、オリジナルとはでググってみる。
「オリジナルー原型。原本。原図。原画。複写・複製・ダビングされたものに対していう」

 はい。知ってましたけど何か?

 策を模索し過ぎて完全に行き詰まった俺は、牛骨を買ってきてみて、圧力鍋でとろけるまで炊いてみるとこれが結構コラーゲンが凄くかなり旨い。これでいこうかと思ったが、ネットで調べてみると当然だけど、牛骨ラーメンはもう既に他にあった。少し遠い所だったので、タマを連れてドライブがてら行ってみる。すげえ繁盛店だったし、ラーメンそのものも相当高いレベル。でもこの店のパクりだよねって言われる予想が確定しかけた帰り道。当然のツッコミ所を、鬼のナルタマが逃す訳がない。

「謙一さんの豚骨は続けるんやんな?それにもましてあたしが鶏ガラ炊く言うてるのに、更に牛骨まで炊くん?ガスにするしろ電気でするにしろ、経費的に無理やろ?破綻してまうと思うけど?」
という、あまりにも芯をガツンと食ったツッコミをゴンって入れてくるので、もう俺は聞こえないふりをするしかなかった。

 一応新作ラーメンを作る場所として、稔君が寺を使えって言ってくれた優しい誘いを丁重に断る。
 
 俺達には策があったんだ。街中のゲストハウスを借りてキッチンを占拠すると言う手法をとる。此処には若いバッグパッカーの中国人やら、欧米人やら、もう何処人かもわからん様な、金を持たん若い旅行者が常に腹すかしている。なので俺達は永遠に試作品を作ってられる、永久機関とも言える調理場を確保した。しかも事もあろうに、俺達は一食300円の金を取って提供し続けた。これは恐らく刑法の何処かにひっかかるだろう。でもそこをツッコまれた時は、
「だって、知らなかったんだもん」
と言ってしらばっくれるのは必然の瞭然な。

 ゲストハウス宿泊3日目。どうしてもタマの醤油に勝てない。彼奴のラーメンは鶏ガラを70度ぐらいの温度で丁寧に出汁を取り、コイツの見つけてきたこの町特有の甘くて美味しい醤油を垂らす。あとはチャーシューと青葱をトッピングすると言った感じだ。元々はたまり醤油だったらしいが、醤油はその地域でテイストが違うから地域に合わせた方がいいと言う発想で考えたみたい。

 でも北欧系の方でヴィーガンって言うの?肉食わないとかそんな感じの人達って居るらしいね。まぁその人達に要らねーって断られた事があって、俺がそんな奴らはラーメン食わんけりゃいいじゃんねと言ったら、
「何言うてんねん!一つのことに囚われたら過ぎたらアカンって。考え方をもっと柔らかくせな、今後ヴィーガンラーメンの時代が来るかも知れへんやろ?」
とタマに凄え怒られた。そういえば実家にこないだ帰ったパブロも似たような事を言ってたかも。

 俺の新作ラーメンは、意外な所から生まれた。親父の豚骨スープにタマの鶏ガラのスープを合わせる。二つの旨味を内包するスープは、これだと思わせるモノがあったが、あと一つだけ何かが物足りないと感じた。だけどその時それがわからんくて一時的に保留した。

 2週間ぶりに吉田に帰る。俺の生まれ育ったみさきラーメンは姿を無くし、コンクリート製の三階建のベース部分が出来かけていた。衣食住が全然出来ない環境なので、元々提案してくれていた、稔君の寺に仮住まいさせて頂く。その間、親父達はずっと南薩の爺ちゃんの家に行っていた。

 俺の知らん間に稔君は結婚していた。ご相手はホームステイ先のお嬢さんはステファニーていうブロンドが美しいアメリカ人女性で、稔君はステフという愛称で呼んでいる。もうお子さんも、2人出来ていてハーフの男の子と女の子が、境内を子供がドタバタ駆け回っていた。稔くんの仕事部屋に入らさせて貰うともの凄い量の仏教の経典や、新約聖書や旧約聖書に加えコーランもあり、日々この部屋で研究しているらしくまるで教授の部屋みたいで、俺は息が詰まる。もっと面白い所教えてと言ったら、遊び部屋を教えてもらう。するとそこはスケボーからエレキギターやベースなんかが置いてある。壁にはキャバレロやMCAやジミヘン、フルシアンテのポスターがジャンルをガン無視で、ひっきりなしに貼られていた。休みの日は子供達と此処でよく遊んでいるらしく、俺もココは一瞬で好きになる。色んな要素がごった煮になった様な、ファンキーな寺生活を2週間程お世話になりながら、パオズラーメンの建物は完成していった。
 
 一階はカウンター客席が、コの字型に中央にある厨房を囲む作りにする事で、提供とバッシングが効率的に行える様になり、客席が以前の一列型に比べ4席多く作れた。正直言うとこれは一応タマの案。俺が恥ずかしいと言って、反対だったんだけど親父も稔君も絶対それが良いって事で、可決の方に流されてしまった。

 それと奥に4名席のテーブルを2つ作り、最大で23名席のオープンキッチン。二階は俺とタマの住居、んでスループをつけて三階は親父達の住居とした。そんでキッチンは稔君の進言通り、炊く調理用にIHコンロを2台配置。んで稔君はカセットコンロで良いって言ったけど、一応ガスも通して一台だけコンロを配置。勿論火が足りない時の為に、カセットコンロも購入しておいた。
 

 稔君から貰った太陽光発電パネルは俺が設置。
やるまでは面倒くせー、なんで俺がこんな事を…なんて考えていたが、実際作業すると午前中はかかるかなと思ってた所が、ユーチューブで同じ商品の取付の動画見ながらやったら、ネジ止め数カ所するだけで1時間程度で楽勝で終わっちゃう。

 店の作りもほぼほぼ完璧に出来、引退するって言っていた癖に、親父も新しいキッチンや店にはやっぱり興奮するらしく、暑中厨房に入ってはIHコンロをつけてみたり、真新しい包丁や寸胴鍋を触っては、ずっと一人でなんかブツブツ喋ってる。

 その様子が俺には児島で新店厨房を見た時、虎聞さんに笑われた事が、デジャブ現象の様に映った。
「店が再オープンした後、体調さえ悪くなければ、厨房入る?」
と聞くと、
「うんにゃ。タマちゃんに悪かど。俺もじじいになったで、あんま出しゃばらん方がえーど」
と恥ずかしそうに応える。人は年齢を重ねると少し可愛くなるのだろうか?それはともあれ、たまには厨房にたたせてあげようと思う。

 あと未完成だった俺のラーメンは、意外な所で完成した。俺と親父は此の所、三陸産の干しアミをフライパンで炒った物に塩などの旨味を足して、瓶詰めして冷蔵保存していた。それを朝食の白飯のお供に納豆の上からふりかけて食すのに、その時一時的にハマっていたんだ。それを何なしに朝食っているとピンときた。その炒ったアミを胡麻油に漬け込んで瓶詰し冷蔵保存、俺はこの液体に「海老油」という比較的ダサめの名前をつけた。この風味高い調味油をかけると鶏なのか豚なのか、はたまた甲殻類なのかもよくわからない、旨味全部乗せスープが出来る。よくわかんないけど、直感でこれでいきたいと思った!
 でも実際混ぜてみると、個々の旨味が主張し過ぎて、若干の違和感を感じる。この主張を包み込む食材とはなんだろう?など考えながら麺の茹で汁を、謝って少量だけスープが入った丼に入れてしまう。うーわ。やっちゃったと思ったが、それが何故かハマったみたいで、全部旨味のせスープの角張ったテイストを小麦のグルテンが優しく包み込むクリーミーな味わいのスープのパオズラーメンがひょんな経緯で完成した。
 
 さてあと開店まであと一週間だ。
  








   〜Bside~

 いやいやいや!ホンマに雨が多いて。
 この町というか、この辺りの地域はホンマに雨が多い。ただ多いだけじゃないねん。降水量が普通じゃない、エグい。よく美咲さんがバケツひっくり返したみたいに降るって言いはるけど、ほんまにそんな感じの日あるから。最近落ち着いたけど、来たばっかりの梅雨の頃は、ホンマに殺す気か言うぐらいに降ってた。そのせいか道路の横壁のコンクリートには苔生えまくってるし、だから溜池とか作らんくてええんかね?知らんけど。

 あとついでにやけど、虫がめっちゃデカいしキモい!特に夜歩く時、電燈に屯する蟲軍を発見した時、足がきしょ過ぎて足ガクガクなってもうてん。   
 
 外だけやったらまだいいんですよ。ある夜中、家でトイレに行こうと思ってドアを開けて電気付けた瞬間、カサカサ動く物体を見てまう。最悪!ゴキブリやんけと思ったら、そのゴキブリを軽く超越するなんか足が滅茶苦茶ある、気持ち悪過ぎる謎の昆虫に遭遇!そんなん見たらアタシは夜中の2時半でも、お構いなく超絶スクリーム!

 パオがドタバタと何事?って感じでと入ってきたが、
「なんだゲジゲジじゃん」
といって、窓からそっと優しく逃す。気が動転してたアタシは、
「なんで逃すねん。殺せよぉ!」
と都会のマンションやったら、通報されるぐらいの内容をフルボリュームで再びスクリーム&シャウトしてまう超失態を!
 それでも謙一さんと美咲さんは降りてこなかった。翌日その事を謝ったら、
「若いうちは、そういう事ぐらいあるよー」
と笑った。
いや、無いと思うけど?感覚がずれてるんやろか?まぁええか。
 しかしあのゲジゲジとかいう生き物は、ほんまにビックリした。パオが逃したのには理由があって、害虫を捕食してくれる良い虫だからって事らしい。ほたらもうちょっとアノ見た目なんとかしてよ。あとゲジゲジっても名前なんやねん、此間のアラカブみたいな地方名かと思ってググったら、正式名称ゲジ目ゲジ科ゲジ属ゲジっていうらしい。
 いやネーミングはもっとなんとかしたほうがいいと思うwww. でもあれはホンマに辛かった、大阪帰りたい思ってベッドで泣いたもん。

 あとそれからなんやけど。
 この男の呑気さにはホンマに呆れてものが言えへん。知り合いとはいえ借金したんやったら、年間で幾らずつ返して、いつ迄に返却しようとか、普通プランニングぐらいするやろ。あの男は天然でホンマにほわーっとしとるから、何にも行動しせえへんし、なんも考えてへん。
 
 アタシやったら、こう言う時は必ずアクションを起こす。起こす事に意義があると思うから。考えた策はメディアを能率的に活用するスタイル。この町で人気あるらしい土曜日夕方の女性向けの「クソナマイキボイス」とか言う情報番組に取りあげて貰う事に。こんな過激な名前の番組、ホンマに人気あるんだろうか?

『長閑な山奥に新しく開店する豚骨ラーメン。昔から吉田でお客様に愛されてきた「みさきラーメン」は世代交代して、新しいお店になりました。でも新しくなったのは店だけじゃなく、メニューも増やしたんです!
 以前からお客様に慕われた、人気メニュー「豚骨ラーメン」に加え、「醤油らーめん」「ハイブリッド」「肉不使用のヴィーガンの方専用ラーメン」と四種の絶品ラーメンを提供させて頂いてます。長閑な山奥に市内からドライブのついでにでも、お越し下さいませ』
という趣旨の広告を打ち出すという作戦。

 ヴィーガンの方専用のラーメンは、干し昆布と干し椎茸を一晩かけて水出し冷蔵保存。オーダーが入ったら、一定量を火にかけ煮立たす前に醤油とオリーブオイルで味を整え、スープに麺と薄切りした赤と黄のパプリカをバランスよく盛り付け、中央にサッと茹でた水菜を器中央部にソッとのせて出来上がり。

 当然インスタ映えも狙っとる。決して派手な事はしてへんけど、彩りとバランスが良く美しい皿。例えば難波でやるんであれば、器から飛び出す様なド派手な演出を求められると思うけど、こういった地方の地方ではそういった事は多分にして嫌がられると思う。提供する料理も立地に合わせなアカンという事やね。ホンマに勉強になるわ。

 けどあたしが一番やりたかった事って多分こういう事やってんな。誇張一切抜きでヴィーガン様ラーメンはホンマに美味しいから
 
 正直アタシの人生において最高傑作や。もし大将やお母さんが居たら食べさせてあげたいと思う。因みにパオと謙一さんがそんなモン旨い訳ないやろと反対派やったけど、まあそないに文句言わんと一度食べてみぃって食べさしたら、一口で文句は一切言わへんくなったしなwww.

「ヴィーガンじゃなくても、絶対食べたくなるヴィーガンラーメン」をその番組ではゴリ押しした事にはもうひとつ狙いがあってん。これは予想やけど、多分営業を再開しても、暫く営業は厳しいと思う。メインの商品を200円も値上げしてるから。でも謙一さんが作った豚骨も、希望軒の大将から引き継いだアタシの醤油も、絶対800円の価値は絶対にあるから、お客さんは必ず帰ってきてくれんねん。間違いない、あと2日で営業再開や。





 〜Aside〜

 みさきラーメン改め、パオズラーメンの再開店日は土曜日だった。
 正直開店前には行列でも出来るんじゃないかという俺の浅はかな期待に、舐めた相手から腹部に痛烈なボディフックを喰らうボクサーが如く、昼の営業は来店者は、ほぼほぼ皆無で燦々たる結果となる。
 その結果に狼狽える俺に「想定の範囲内や」と玉美は軽く言った。その日は悪い流れのまま、夜の営業も結局泣かず飛ばずに終わる。
 俺は失意に駆られ、恩威ある大先輩に借金をしている現状を真剣に考えると、今後の事が急に不安になった。

 そんな俺の気持ちを顧みもせずアイツは、
「明日は期待出来るから!備えて早よ休もうや」
と笑ってさっさと床に就くと、まぁまぁのいびきをかき出す。
そのタマのセリフは俺には一切響かず、今後の不安を拭えないまま床に着いても全然眠れない。どうせあの女なんも考えてないんだろうなと思うと、この店が流行んなきゃ俺なんか切り捨てて、大阪帰りゃ実家は金持ちだしな。とか考えてたらなんか次第にムカついてきて、更に俺は眠れなくなる負のループに突入してしまう。

 持病のネガティブ病が発症し、前の晩は寝付きが相当宜しくなかった。そこ言い訳にする訳じゃないけど、日曜は一時間程寝過ごしてしまう。

 タマはその寝過ごした事にブチ切れていて、無言激怒の重圧に怯えながら、俺も怯えて仕込みに入る。急に口を開いたと思ったら、声を荒げて開店後30分後には満席になるつもりで準備せえやってすげえ剣幕だし、五月蝿し、怖いし。
悪夢の広島時代の再来だ。

 なる訳無いでしょ〜ぐらいの気持ちで、パオズラーメン開店2日目、だが俺のナメた気持ちに更に深めのボディーブローを入れるべく、開店から実質45分後には本当に若いカップルと、女性客でマジで満席に。しかも注文は、タマがここんところ力を入れているヴィーガンラーメンばかり。

 そのレシピを頭に全く入れてなかった俺が、完全に足を引っ張り、流石に店が回らなくなって店はパニックになる。親父にヘルプを頼もうかと思った時、気がつくと親父はもうキッチンに入ってた。
多分店の外で俯瞰的に見てたんだずっと。実の親父に言う事では無いが悔しいし、なんか見張られてるみたいで少しだけキモいわ。
 
 ドタバタしたランチタイム終了の時、母ちゃんが降りてきて恐る恐る、
「なんか賑わってたみたいねえ」
と恐る恐る声を掛けてくれる。そう思ってんだったら、降りて来て手伝ってよって言いそうになったけど、
タマの更にガチ切れしそうな空気感が凄いので辞めたというか出来なかった。その晩、俺は自分の不甲斐なさを痛感させられ相当落ちこんだ。

「どしたん?」
「別に」
「元気ないやん」
「……。」
この状況で浮かれてたらアホだろと思い、無視して寝返りをうつ。

「ちょっとどしたんて?」
「いや眠いんだって。昨日寝れてないし」
「あそ。ほたらおやすみな」
「…なんで今日忙しいって解ったの?」
「こないだ撮影したテレビの放送が土曜夕方やから、やと思うよ」
「ああ此間のクソナマイキボイス?」
「www.せやねん」
「どうしたの急に」
「いやタイトルwww.強烈やからwww.」
「クソナマイキボイスが?俺見ねえからなんかよくわからないけど、昔からある番組だよ。それがどうしたの?」
「美咲さんにOLが見てそうな情報番組で教えてもろうたんやけど、クソナマイキって語彙力凄いし、普通に失礼やし、普通に女性蔑視www.」
「何だよまたツボに入って。俺には何が面白いのかもわかんねーよ。だいたい俺もうそんな気分じゃねーから」
「そうなん?ほなおやすみなwww.」

「ねー、タマちゃん。こないだ収録した反響は凄かったって事だよね」
「www.せやね。だからあの番組見た人がご来店されたって事が比率として多かったみたいやね。実際」
「そうか…教えてくれれば良かったのに」
「教えとったら話聞いたん?」
「…わからん。でも言ってくれんとわからんからさぁ」
「テレビ番組出てヴィーガンラーメン推すって話した時から、アンタちょっと馬鹿にしとったやろ?売れる訳無いやろって思ってへんかった?」
「…ちょっと憶えてないかなー?」
「売れる訳ないやろ思うとったんは、コッチにも伝わって来とったで?せやからあの件はアタシだけで進めたんやけど」
「ん〜。…ちょっとだけ、思ってたかな?」

「…ほらな。…全員がそうって訳ではないけど。女子はな、そういう新しい事が純粋に好きやねん。自分の体を大事する健康的な意識を持ってる子達も、年々多なってるし」
「でもそういう人ってラーメン食べないでしょ。普通イタリアンとかに走るんじゃないの?」
「だからこそやねん。でもそういう人こそ、本当はラーメンも食べたい筈やねん。本当は食べたいのに、我慢してはんねん。
 そこに未開拓の需要というフィールドがあるとアタシは感じるんよ。
 わかる?そういう人達の為に、健康的なラーメンがあるんですよって、提案する内容の広告を供給する。インスタ映えとまではいかへんけど、野菜の盛り方見せ方からやかまし言うんは、器の見た目が今凄く大事な事なんよ。パオには悪いけどこういった細かい感覚は、こう…女子にしかわからへん事やねん」
「…!インスタ映えって言葉ぐらい俺だって知ってるわ。馬鹿にすんな……でも色々考えてくれてたんだね……それはありがとう」
「それはまぁ…パブロ君と稔さんに、頭下げられたからかな?」
「それはどういう…?」
「包太郎はほわ~んってしてる所あるから、誰かが支えて引っ張ってやらないとダメだって」
「俺ほわ~んってしてるの?」
「皆もれなく言うてるし、実際アタシの目から見ても相当ほわ〜んってしてるけど?」
「うぇ?誰ぐらい?」
「まぁようわからんけど、サザエさんのカツオに似てるよね〜て、前にアキさんとは話した事はあるかなぁ?」
「俺あんなアホみてえに野球ばっか行かねーよ」
「キャラ設定がって話や。だからアンタが好きな釣りとか好きに行けるぐらい支えてあげなな最近では思うててんって話やんけ」
「…え?」
「だから、しゃあなしや。暫くはみさきラーメン時代のお客さんは期待出来ひんのよ。メイン商材200円も値上げしとんのやから。常連さんであればある程面白くはないと思うわ、でもこれはアタシ等が生きぬく為の必須の作戦で、逆の立場やったとするなら、もしアタシであったとしても、好意的には受け止められへんと思う、感情の話やし。せやから最短でも半年間はしんどい闘いになると思う。だからこそ、その場を繋ぐ為のネタとして新メニュー、ヴィーガンラーメンで店を保たさなアカンよねっていうホンマにしんどい時期やねん。此処が正念場や、次の策からは二人で相談し合って考える事にしようか?」
「……お前ってやつは…マジでヤベえな…」
「うん。天才ですからwww.」
 
 平日の営業、昼は客は少なく暇だった。けど逆に夜が少し増えたような気がする。若いOLがタマに凄く話しかけていて、あの番組の効果を痛感させられる。タマがやったアレは、確かにラーメン屋に入らない様な客層へのアピールだった。あの料理は俺と親父じゃ絶対出てこない発想だもんな。

 そしてそれと比例する様右肩上がりに、客が増えていったんだ。秋の終わり頃には、鳴丘通商の社長さんと営業本部長さんがご来店された。つまりタマの弟とお父さんね。鬱陶しそうに悪態ついてたけど、あれは相当嬉しい時のリアクションだって事は、もう俺も最近になってからだけど、流石にわかるようになってきたわ。

 そして値上げしてから半年経過した頃、ポツポツとみさきラーメン時代の常連客が帰ってきだした。俺達はラーメンの食券機の横に、値上げに対する理由と謝罪を記載していた。それとは別で俺達の視野外で、別のアクションを起こしている奴が居た。
 それは無論、親父達。

 親父達は周辺の常連客や、そうなのかも定かでない周辺の家にアポ無し訪問して、
「倅が店を継ぐ事になりました。先代である私に似て不器用なヤツですので、何卒宜しくお願いします。誠に勝手ではございますが、今後の物価高騰も視野に入れた上で、メニューの値上げをさせて頂いております。そちらも含め何卒良しなにお願い申し上げます」
と記載したプリントを配って回ってくれていた。
 
 皆は流石に気づくだろうけど、発案者とこの文章を書いたのは勿論母ちゃんね。俺は何も知らなかったんだけど初めて親父時代の常連さんに、
「気張らんか二代目!」
と言ってもらってこの配布したプリントを見せられた時、情けない気持ちと此処まで周りに支えられている環境に感謝し、トイレに隠れて泣いたの憶えてる。俺は周りに恵まれ過ぎていたという事を痛感させられてしまったから。

 寒い冬を超え、また若葉の季節になるとタマは梅雨の季節にビビりだす。此処は雨が怖いぐらい降るんだって。あと夏になると色んな虫達が勃興するから、それが嫌でしょうがないみたい。来たばっかりの時にトイレにゲジゲジ居ただけで、ヒッチコックのサイコに出てた女ばりに、激烈シャウトしてたからね。あれはマジで面白かったわ。

 丁度その頃、めっちゃ懐かしい来客があったんだ。ミコシンと呼男君を虎聞さんが連れて来てくれたんだ。俺は思わず嬉しくなって、彼等の名前を大きな声で叫んだ。
 すると仏のように穏やかな笑顔の呼男君が、急に鬼のような顔に変わって、
「オドレが変なあだ名つけるから、皆呼男言うやんけ。わしん名前は佐々木翔じゃ!」
とミコシンの頭に頭突きをお見舞いした。店内にゴツという鈍い音が響き、喰らったミコシンは、
「あぐぅん」
って言って、蛙みたいに地べたにぺちゃんと潰れた。

 普通であれば心配しないといけない場面だった。いきなり暴力だし。穏やかでそんな事するタイプじゃないと思ってたのに。
でもそんなの蹴散らすぐらいのその無様な、
「絵面とリズムの面白さ」
に完全に俺の腹筋は完全崩壊を喫してしてしまう。

 流石にもと先輩だし。笑ったらヤバいと思って、仕込みがあるとその場を後にし、裏に隠れてこっそり爆笑してる俺の背中に鈍痛が走る。
「聞こえとんじゃ、ボケ。普通先輩がどつかれたら、介抱するもんちゃうんけ?」
振り向くと頭部の痛みを手でおさえたミコシンが怒って立っていた。
「だってもう俺会社辞めたもん。もう部下じゃなくて、今は経営者だもんね」
「どうせやっとんのはナルタマやろ。お前にゃ無理じゃ」
「え、酷くない?難波じゃ結構頑張ってたと思うんだけどなぁ。……まあ彼奴は確かに凄いよ。頭があがんない。マジで天才だと思う」
「そうなんかいな?まぁ昔からやり手で有名やったけぇの。お客さんを記憶する機能が人の倍ついてるって、澤ヤンが昔言うてたような気がするわ」
「なんか勝てる気がしないんだよね。商売人気質っていうか、ヤバいバイタリティっていうか?アイデアも凄いし、行動力も凄いし」
「www.なんや自分落ち込んどんの?」

「そーじゃないけど。此処んところ忙しくて、それどころじゃないの。毎日スープの仕込みで、クソ早起きだし。毎日仕込むのマジでしんどいんだよ。正直本当に大変で、これずっとやってきた親父はマジで凄えって思うもん」
「そんなん言うやったら、なんかワシもじゃ。最近ずっと忙しゅうて、ゆっくりする暇もあらへんねや。なんでやねん思うて考えてみたら、お前が居らんなったせいで、ワシに負担が来とるんやないけ?」
「んふ!おまけに澤北さんも抜けちゃったしね。それはマジでごめん」
「まあしかし、ホンマにどえらい田舎じゃ。ただの山中やんけ」
「こー見えて慣れると良い所なんだよ。ミコシンも住んだらわかるって」
「まぁ、ワシは生粋の都会っ子やしの」
「それは十分わかったって。折角来てくれたんだから、ウチのラーメン食ってってよ」
「まぁ待てや。お前には色々話あんねん」
「何?」
「ありがとな」
「はぁ?」
「俺結婚する事になったわ」
「そっか……ミコシン…おめでとう!」
「おおきにのwww.」
 店に入った俺達を待ち受けたのは、虎聞さんと熱く語り合うタマと、それとは別の世界の様にBSのワールドニュースを腕組みしてみる、佐々木翔の姿という異様過ぎる光景があった。

 俺たちの結婚式から半年が経ち、タマは産休に入った。その間俺一人じゃ営業は無理だろって、アルバイトを雇用した。店の売上はずっと好調だったんだ。タマが一時的なものと言った若いOLやカップルの客層が少なくなりだすとほぼほぼ同時期に、親父の時代からのお客さんが戻って来てくれた。彼等は俺とタマの考えたラーメンを、親父のその域には到底及ばないと、厳しくまた愛の溢れる叱咤激励をくれるが、もう値上げの事は言われる事は無かった。
 
 それから俺一人体制に代わってから、一つ変えた事がある。俺の名前に起因する蒸物を新たにメニューに採用した。所謂小籠包、これをやろうと思ったのは、お客さんが少ない時にバイトにやらせる仕事がないよなって思って始めたんだけど、思いの外これが売れ過ぎるので、上に住んでいる赤ちゃん見てるタマや親父やお袋も、今じゃ家族総出で仕込んでいる。逆にやる事が出来て良かったかもしれないね。
 小籠包持ち帰りのお客さんも増え、売上もみさきラーメン時代の絶頂期を遥かに超え、我がパオズラーメンの経営は盤石の基盤が作られた。

 そう親父の代から粛々と掲げる「旨い。は正義」のスローガンのもとに
 
  ~終&始~

 の筈だったんだよ。

 そうそう、2019年まではね。
 それを最初聞いた時なんだそれ、太陽光かなんかだろの事ぐらいに思ってた。なんかあの国でなんかドワーって増えた頃は、俺は別の世界の出来事ぐらいに軽く思って悠長に構えてたんだけど、ゆっくりの様に見えて、かなりのスピードで、コロナウィルスはこの国に侵入してきていたんだ。
 
 俺の大好きだったコメディアンと、大女優を結構な短期間で失う事になった頃、そこで俺は現状の異常性に気付いたんだよ。俺はあの二人が大好きだったんだ。でもあの辺から、俺達は日常の生活基盤までも、変更しないといけない状態まで発展してしまった。

 あの福岡の有名店でも無いのに、席にはプラスチック製の敷居を作り、隣席とのコミュニティを遮断し、店頭にアルコールを配置しないと、衛星管理面で問題有りの飲食店という風に、見られる時代になってしまった。その内、外での外食自体が問題視される様になり、お客さんもだいぶ減っちまった。その結果、俺の友達の店ももうやってけんって言って数店か、閉めちまった。

 俺達は飲食業の諸葛孔明と化した、玉美様の状況判断に全てを委ね、指示を完全に実行に移す。非常事態宣言の前から、
「小籠包の持ち帰りサービス」
の広告を打ち、人流が薄い山里に構えた店なので、感染の恐れが少ない事を、必死でアピールしながら営業を続けた。
 飲食業界における氷河期とも言える時期を傷だらけになりながらも、なんとか…なんとか乗り越える事が出来た。

 そういった中、岡山県児島の瀧本さんから贈り物が届く。ご主人の職場で織ったデニム生地を反物の状態で郵送されてきたので、
「いや昔話か!」
 と一応ツッコむ。ライトオンスの軽い生地だったので、俺達はパオズラーメンの作務衣を作る為に仕立て屋に。二人で行くとタマが、裏地をTシャツ生地の赤のタータンチャックにしろだの、足元はリブをつけろとか色々注文をしていた。その結果もあり、俺達は渋くまた着心地と実用性を兼ねた、オリジナル作務衣を入手する事に成功した。

 その後政府から給付金貰ったり、小籠包の持ち帰りや、今流行りの出前サービスをフルに活用して、パオズラーメンはなんとか潰れずに今年2021年を乗り越えようとしている。この年は前半は去年と変わらずの氷河期だったが、秋ぐらいから景気が少しずつ良くなって、冬にはまた絶頂期の状態まで回復する事が出来た。でも年末にはあのコロナが新型のウィルスに変化を遂げ、各国で猛威を震い、再び俺達の方へじわりじわりと、牛歩の如く近づいて来ているのが凄く怖い。

 俺達は店が暇になった分、良かれ悪かれ皆で色んな事を話す事が多くなった。こないだなんかも稔君が来てくれて、小籠包の仕込みを皆でしながらダベるのがまったり出来て、結構俺は気に入ってる。勿論手洗いとマスクをしながらね。

 タマは楓太(ふうた)と名付けた俺達の息子にべったりだ。でも引退した訳じゃなく、駐車場に停まる車の数、一階から聞こえる騒がしさで、その日の営業がどんなだったかがわかるみたい。それと気温や天気と曜日とコロナの感染状況を含め、周辺の状況を鑑みると、どれぐらい忙しくなるかの予測ぐらい出来るやろって言われるけど、その辺は正直の所、俺にはさっぱりなんだよね。年が明けても、コロナウィルスのニュースでひっきりなしだ。世界中で多過ぎる程の犠牲者を出しながら、この疫病に俺達は生活の基礎基盤から変更させられた。
でも俺達は必ずこの事態を乗り越えることが出来ると信じてる。いつの日かペストとかスペイン風邪に比べりゃ、大した事の無い疫病だったって史実に残るぐらいの事なんだよ。だからもう少しだけ頑張ろう。大丈夫。俺たちはあんなチャチなウィルスなんかに負けたりしない。

 俺が言うのも何だけどさ。最初に俺ん家みたいな飲食店の事を、絶滅危惧種型っていう言い方をしたんだけど、貴方の街にもまだこういった店がまだあるなら、守っていってあげて欲しいと思うんだ。それは別にラーメン店に限らねえんだと思う。

 うどんに蕎麦、ピザにタコス、スルロンタン、ハンバーガー、ピロシキ、なんだってその地元に愛されてる食べ物だったらなんだって構わない。
 昔から地元の人達に愛されてる飲食店は、その土地のた確固たる食文化そのものなんだよ。それは地元の人達が守って、脈々と受け継いで行かないといけない、大事な大事な食の文化なんだと俺は今思ってる。

 だから「ソウルフード」って言うんでしょ?
おろそかにしてはいけないんだよ。貴方の魂と同じようにね。
 
  そう思わないか? 世界よ。
 
               ~FIN~

 

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