桜の朽木に虫の這うこと ファンタジー

「人間って、何だろう?」 十六歳の少年ウツロは、山奥の隠れ里でそんなことばかり考えていた。 彼は親に捨てられ、同じ境遇・年齢の少年アクタとともに、殺し屋・似嵐鏡月(にがらし きょうげつ)の手で育てられ、厳しくも楽しい日々を送っていた。 しかしある夜、謎の凶賊たちが里を襲い、似嵐鏡月とアクタは身を呈してウツロを逃がす。 だが彼は、この世とあの世の境に咲くという異界の支配者・魔王桜(まおうざくら)に出会ってしまう。 ウツロは魔王桜から「アルトラ」と呼ばれる異能力を植えつけられてしまう。
朽木桜斎 18 0 0 08/29
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第一稿

「人間って、何だろう?」
ウツロがそう呟いたとき、アクタは気がついていないふりをしながら、また始まったかと内心そわそわした。弟分の悪癖が発動したからだ。
 穏やかな春の昼下がり ...続きを読む
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「人間って、何だろう?」
ウツロがそう呟いたとき、アクタは気がついていないふりをしながら、また始まったかと内心そわそわした。弟分の悪癖が発動したからだ。
 穏やかな春の昼下がり、外界から隔絶された山の奥深くの隠れ里。
 杉林に囲まれたその中の、ちっぽけなネギ畑の片隅で。
 二人の少年がそこで、言葉を発するのも忘れるくらい、せっせとネギを引っこ抜いている。一人は名をウツロ、もう一人はアクタといった。
 年齢は共に十六歳だが、彼らは自分の歳など数えたこともないし、そもそも知らない。生年月日がわからないのだ。
 西日も次第に強くなってきて、二人が身に纏う紺色の作務衣や、ほっかむりにしている白い手ぬぐい、あるいはゴム製の長靴や、その中の足袋だって、温室のように蒸れて、すっかり汗だくになってきている。
「何をもって、人間といえるんだろうか?」
 ウツロの悪癖、それは彼が思索と自称するものだ。
この少年は哲学書を愛読し、その思想について考えをめぐらせることを趣味としている。
もっとも彼に言わせれば、それは趣味ではなく、人間になるため、らしいのだが。
「何が人間を、人間たらしめるんだろうか?」
ウツロとアクタは孤児だった。
二人が赤ん坊のとき、それぞれ別な場所に捨てられていたところを、この隠れ里の主が発見し、拾い上げ、ここまで育て上げた。そう、聞かされている。
 親から捨てられたという過酷な現実を、二人は背負っている。
 特にウツロはその現実に耐えきれず、自分に責任があるのではないかと、自問自答を繰り返している。
 俺は親に捨てられた。
 こんなことが、人間にできるはずがない。
 そうだ、俺は、人間じゃないんだ。
 醜い、おぞましい……
 そう、毒虫のような存在なんだ、と。
 それゆえ、古今東西の哲学者・思想家の知恵をよりどころとし、つねに自分という存在について、問いかけつづけているのだ。それは考えているというよりも、隙あらば襲いかかってくる自己否定の衝動と、戦うためなのであった。
「人間が自身を克服できる存在だと仮定するのなら」
「ウツロ」
「その行為が人間的な生命活動といえるのであって」
「ウツロっ」
「それをたゆまず続けることで初めて、真の人間といえるんじゃないだろうか」
「ウツロっ!」
 果てしない思索の連鎖に陥っているウツロへ向け、アクタは手にした一本のネギを、頑丈な肩の力と腕のスナップを利かせて、手裏剣のように投げつけた。
 大気を切り裂くほどの速さと鋭さで飛んできたそれを、ウツロは片手を少し動かして、たやすくつかみ取った。たかがネギとはいえ、直撃していれば頭蓋骨にひびくらいは入っていただろう。だがウツロもアクタも、いたって涼しい顔をしている。
 屹立する杉林は変わらず、そよ風にさざめいている。こんな彼らのほほえましい日常を、春の陽気もにこにこと笑っているようだ。
「アクタ、いまいいところなんだ。邪魔をしないでおくれよ」
 ほおっつらを膨らませたウツロに、アクタは仏頂面で応酬する。
「催眠術はその辺にしておけ。こんなところで寝落ちしたら、ネギの肥やしになっちまうだろ?」
「うまい表現だね」
「ほめてねえだろ?」
「うん」
 アクタは柔らかい意思表示をしてみせたが、ウツロに軽くあしらわれた。
 ウツロの思索癖はいまに始まったことではないとはいえ、アクタにとっては読経をひたすら聞かされているようなものである。悪気など毛頭ないことは重々承知だったが、アクタにとってはこれが大きな心配の種なのだった。
「お前がこの世で一番好きな単語を発表してやろうか? 『人間』だ、そうだろ?」
 低く野太い、芯の通ったアクタの言葉に、ウツロは驚いた様子だ。
 長身のアクタに対し、首ひとつぶんほど背の低い彼は、かがんだ体勢からゆっくりと顔を上げ、目線を合わせた。
「アクタ」
「なんだ?」
「そこまで、俺のことを、わかっていてくれたなんて……」
「やめろ、勘違いするだろ」
「違うの?」
「違わねえけど、違う」
「何それ? 矛盾してるよ。誰の思想かな?」
「お前は……」
 アクタの態度にウツロは困惑気味だ。
 ウツロの心境を、アクタはじゅうぶんすぎるほど把握している。だから余計なことを考えすぎる危険性を、かねてから示唆してきた。だが当のウツロは、その配慮に気づきつつ、それでも思索をやめられないのだ。それほどのトラウマを彼はかかえているのである。
 ウツロは視線を落として、また何か考えこんでいる。
「人間とは何だろう、アクタ。俺はずっと、それを考えているんだ。何をもって人間といえるのか。何が人間を人間たらしめるのか……」
「難しすぎるんだよ、お前の『人間論』は」
「そうかな。もし、俺がこの問いかけに解答を見出したとき、俺は、人間になれるような気がするんだ……」
 こんな不条理があるだろうか?
 彼は自分が人間ですらないと思い込んでいるのだ。
 アクタも同じ境遇なので明かしてこそいないが、俺の存在は間違っている、俺は間違って生まれてきたんだとさえ考えてしまうのだ。
 理不尽にもほどがある。
 いったい彼が何をしたというのか?
 あるいは幸せに生きることだって、できたはずなのに。
 自己否定がウツロを食い殺す。
 精神に巣食う魔物が、彼を破滅へ導こうとする。
 それがどれほどの苦痛であろうか?
 ウツロの顔が苦悶にゆがんでくる。アクタは見ていられなかった。
 どうしてこんなに苦しまなければならないのか?
 お前は何も悪くなんかないのに。
 仕方ねえなと、彼は一つの決意を固めた。
 ウツロは顔を伏せて落ちこんでいる。
 フッと、気配を感じて――

 むぎゅー

 顔を上げた彼のほほを、アクタは真横に引っぱった。
 ゴムのように伸びた顔面を、アクタの鉄面皮がのぞいている。
「にゃんだよ、アクタ」
 アクタがひょいと手を放すと、ウツロのほっぺたは復元力にしたがって、ポヨンと元に戻る。
「俺で遊ばないでよ」
 いぶかるウツロに、アクタは相変わらずの能面顔だ。
 彼は一呼吸してゆっくりと、間を置きながら語り出す。
「なあウツロ、俺らは生きてるだろ? だから人間なんだ。それでいいじゃねえか。あんま難しいこと考えんな」
 一つ間違えれば、逆にウツロを傷つけてしまうかもしれない。しかし、危険な状況でもある。アクタは考えに考え、最大級の賭けにおよんだのだ。
 ウツロは口を一文字に結んで、難しい顔をしている。
 アクタはハラハラするあまり、冷汗が出そうになった。
「……生きてるだけでいい、か。うーむ……」
「納得できねえか?」
「人間は、難しい……」
 ウツロは例によって考え込んではいるものの、どこか頭の中が晴れていくのを感じた。それを感じ取ったアクタは、やっと胸を撫で下ろすことができた。
「いらんことを考えすぎるのはお前の悪癖だぞ。俺みたく頭をパーにしろ」
「それ、言っててつらくないか?」
「どうせ俺はパッパラパー助くんだよ」
「なんだ、それ」
 ウツロの顔が緩んだのを確認して、アクタはようやく笑顔を見せた。
 この場はなんとかやり過ごすことができたが、一事が万事である。
 今後も気が抜けない。
 だが、俺がやらずに、いったい誰がこいつを支えるのか?
 そう、自分に言いきかせた。
 兄貴分も楽じゃねえぜ。
 アクタは体の力が抜けていくのを、この憎めない弟分に悟られないよう、ただ笑い続けた。

   *

 東京都と神奈川県の辺境に位置する山脈地帯。
 とびきり標高の高いところの一角をすっぽり削り取って、この隠れ里は造られていた。ここがウツロとアクタの『故郷』である。
 彼らが作業をしている畑は、隠れ里にある小さな日本家屋に併設されたもので、ここでの生活に必要な食料はほぼ、その収穫物でまかなわれている。
家のほうは屋敷というよりも、大きめの庵といった感じだ。
長方形の母屋は前座敷と奥座敷に分かれていて、そこから直角に折れる渡り廊下の向こうに『はなれ』、そしてさらに直角に頑丈な塀が建てられている。
上から見ると、『コの字』の形になっているわけだ。
その中には簡素ではあるが庭園、植え込みの松や四季折々の花々、石燈籠や錦鯉の泳ぐ池などが設置されている。
 ここは空からの目視では死角になるよう設計されていて、地中にはソナーなどの音波、GPSなどの電磁波を誤認識させるシステムが組み込まれている。
端からはただの山にしか見えないというわけだ。
 隠れ里の主は傭兵上がりの殺し屋で、暗殺の請負で生計を立てている。
 ウツロとアクタをこれまで養ってきたのは、自分の暗殺稼業の後継者に据えるためであり、実際に二人は、その方法を徹底的に叩き込まれてきた。
 さまざまな武器・暗器の使用方法から古今東西の体術、果ては諜報の極意から実戦における戦略の立て方まで。
人間を殺傷するために必要な技術の多くを教育されたのである。
次第に傾いてくる太陽の角度から、二人はそろそろ夕刻であることを意識した。
「ウツロ、日が暮れるぞ」
「うん」
「腹あ、減ったな」
「うん、俺もだ。でも、もう少しで終わるよ」
アクタは手を止め、天を仰ぎながら額をぬぐっているが、ウツロは会話をしながらも、せっせとネギを引っこ抜いている。
里へと近づいてくる気配を、彼らは少し前から感じ取っていた。
そしてそれが、自分たちの育ての親、似嵐鏡月(にがらし きょうげつ)であることも。
「ウツロ、お師匠様が来る。急ぐぞ」
「いま、蛭の背中の辺りだ。この歩みなら、あと三十分はかかる」
「夕餉の準備をしなきゃならんだろ?」
「今日は差し入れがあるみたいだよ。一人分の携行食にしては強すぎる」
「お前、においまでわかるのか?」
「こっちはいま、風下だからね」
「いや、そういうことじゃなくてだな……」
 『蛭の背中』とは、隠れ里からだいぶ山を下った渓谷沿いの難所を指し、盛り上がった土壌がすっかり湿って苔むしていることから、彼らだけに通じる暗号として用いられている言葉である。
 そんな場所の状況をたちどころに言い当てる獣のような嗅覚に、アクタは驚いて呆気に取られている。
その態度にウツロ当人は、不思議そうなまなざしを送った。
気づかないうちに成長を続けているこの憎めない弟分の存在に、アクタはポカンと開き気味だった口をスッと締め、控えめに破顔した。
「どうかした?」
「なんでもねえ。ほれ、仕事仕事」
「変なの……」
 ウツロとアクタがそれぞれ最後の一束をギュッと結び、大きく伸びをして一息ついたところへ、その男は現れた。
 杉の大木が作る並木の、人一人がやっと通り抜けられるほどの間隙。
木漏れ日も弱まってきて、すっかりぼやけているその奥から、獣道を通り抜けて姿を見せるゆがんだ蜃気楼。
それは黄昏の闇を背負ってなお暗い、黒炎のような。
彼こそウツロとアクタの育ての親である殺し屋、似嵐鏡月その人である。
 群青色のストールから、ほぼ白髪だが中年としては端正な顔がのぞいている。
藍色の羽織と着流しの下には、筋肉細胞を爆縮したような、屈強極まる体躯を隠してある。
ただでさえ豪奢に見えるが、これでも着痩せしているのだ。
腰にはマルエージング鋼製の愛刀・黒彼岸(くろひがん)を差している。
斬るというよりは『砕く』ことに主眼を置く大業物だ。
軍靴の仕様に改造した黒色のロングブーツで大地を重く踏みしめながら、彼は二人の前まで歩み寄ってきた。
その右手には風呂敷包みを引っ提げている。
ウツロの予見どおり、その中には三人分の夕食が納められていた。
「お帰りなさいませ、お師匠様」
 ウツロとアクタはすぐさま片膝をついて、その男の前にかしずいた。
「せいが出るじゃないか、二人とも」
 ウネの横いっぱいに結束されたネギの列を一瞥して、水晶の帯留めをいじりながら、似嵐鏡月は満足げな表情を浮かべた。
同時に彼はその状況から、小脇に抱えている食事の存在を悟られていたことに気がついた。
「ウツロ、わしの差し入れを嗅ぎ当てたな?」
「ご無礼をお許しください、お師匠様」
 ウツロはハッとした。
 彼は心のどこかに、自分の成長をほめてもらいたいという願望があった。
だからアクタにも、晩の支度はしないよう促したのだ。
アクタもそれに感づいていたから、あえて反対はしなかった。
しかしウツロは、この親代わりの殺し屋を前にして、突如自責の念に駆られた。
 小賢しい承認欲求をさらし、自分を育んでくれた尊い存在を、不快な気分にさせてしまったのではないかと。
 お師匠様がそんなことをするはずがないと、彼は重々理解している。
 しかしどこかで、自分を否定するのではないかという恐怖が芽生え、それは決壊寸前のダムの水のように緩徐として、しかし十二分の重量感を持ってあふれ出てきた。
 お師匠様に無礼を働いたと考えているのか、それとも自分の保身のことしか考えていないのか、それすらもわからなくなってきた。
 頭が混乱する、思考の堂々巡りだ。
 ウツロはただただ平伏して、似嵐鏡月に黙して許しを請うた。
 しかしそこは、いやしくも育ての親。
 似嵐鏡月本人は、ウツロの複雑な胸中をすぐに察し、口もとを緩めてみせた。
「よいよい、わしはほめているのだ。お前のその鋭敏な嗅覚、いや、嗅覚だけではない。五感のすべてが突出して優れている。しかも日に日にその鋭さを増しているな? それがどれほどわしにとって有益であるか。ウツロ、お前の存在は本当に心強いぞ」
 ウツロはグッと拳を握った。
俺はなんて最低なんだ。
心の底からそう思った。
大恩あるお師匠様を煩わせた挙句、あらぬ疑いまで持ってしまった。
俺はつくづく最低だ。
恥ずかしい、この世に存在しているという事実が。
可能であるならば、いますぐ消えてしまいたい。
俺はこの世に、存在してはならないんだ。
彼はいよいよ思考の泥沼へ。
その鈍く重い深みへとはまり込んでいく。
落ちる先は自己否定という名の深淵。
たどり着くことのない奈落へと。
「頭を上げてくれ、ウツロ。アクタもだ」
 ウツロは反射的に顔を上げた。
 似嵐鏡月は跪いて、ウツロに目線を合わせていた。
その顔には温かい笑みがたたえられている。
「あ……」
 ウツロは喉の奥から、嗚咽にも似た声を漏らした。
似嵐鏡月はそっと、ウツロの頭に手を当てる。
「ウツロ、お前は心根の良い子だ。それゆえ、そのように自分を責めてしまうのだね? 恥じることなど何もないのだ。それがお前の個性なのだから」
 師を見つめるまなざしが濁る。
「う、お師匠様……」
 アクタも気丈を装ってはいるが、そのまなじりはにじんでいる。
「ウツロ、アクタ。何があろうとお前たちは、わしにとってかけがえのない存在だ。たとえ天が裂け、地が割れるようなことがあっても、お前たちを否定することなど、あるはずがない。それだけはどうか、わかってほしいのだ」
似嵐鏡月は身を寄せ、ウツロとアクタを両腕で抱え込む。
彼らはしばし、伝わってくるその温もりを享受した。
「よし、もう大丈夫だな。ウツロ、お前は強い子だ。アクタ、どうかこれからも、ウツロのよき支柱となってくれ。お前がいてこそなのだ、アクタ。車輪と同じく、どちらが欠けても成り立たない。お前たちは、二人で一つだ」
「もったいないお言葉です、お師匠様……」
 アクタは隠しているつもりだが、体が小刻みに震えている。
 兄貴分として気を強く持とうと、普段から常々と振る舞ってはいるが、彼もウツロと同じ境遇には違いない。
思いの丈をぶつけたくなるときだってある。
それを察してくれる師の存在は、何ものにも代えがたい。
ウツロもアクタも、心は決意に変わっていた。
 アクタはウツロを、ウツロはアクタを、絶対に守り抜く。
 そしてお師匠様に、この偉大なる救い主に、絶対の忠誠を誓うと。
「うむ、よきかな。さあ、立ってくれ二人とも。今夜はうまい飯を手に入れてきたのだ。冷めないうちにいただこう」
「はい、お師匠様」
「ウツロのやつ、さっきから腹あ減ったってグーグーいわしてたんですよ、お師匠様」
「なっ、それはお前だろ、アクタ!」
「お師匠様、早くご馳走持ってこないかなあって言ってたくせに」
「アクタっ、虚偽の弁論をするな! お師匠様っ、反駁の機会を俺に!」
「ははは、本当に仲が良いなあ、お前たちは」
「良くないです!」
 顔を膨らせてのにぎやかなやり取りに、似嵐鏡月は笑いが止まらないのであった。

   *

「二人とも汗をかいたろう。ネギを小屋へしまったら、筧の水で体を癒してくるといい。わしは先に、中で夕餉の準備をしておこう」
 似嵐鏡月はひとしきり笑うと、ウツロとアクタにそう言った。
 筧とは山間部で生活用水を得るために、水源から水を引きこむ人工的な仕掛けだ。
 隠れ里での暮らしのため、もっと山奥の源流の辺りから、とびきり大きな竹を半分にさばいたものを何本も連結して、ここまで水を誘導している。
 その水は似嵐鏡月が里を作るとき、その辺に転がっていた巨石を頑丈な金属の『のみ』で砕いて、受け皿としたものに流れてくる仕組みだ。
 似嵐鏡月は飛び石をじゃりじゃりと鳴らしながら、屋敷の中へと入っていく。
 彼らはそれをちゃんと確認してから、屋敷の裏手にある小屋へ、せっせとネギを運びはじめた。
塩蔵と味噌蔵の手前にある簡素なものだが、通気性は抜群だった。
 収穫済みのネギは湿気を嫌う。
いたみやすくなるし、虫がつくからだ。
 小屋の奥から敷き詰めるように、結束したネギを立てていく。
うまく立つように下の部分をトントンと床に叩くのがコツだ。
束はなるべく密着させて。
そうすれば物理的にたくさんの収納が可能となるし、ネギが倒れないのである。
すべてのネギをしまって一呼吸し、二人は畑と小屋の間にある筧へと向かった。
「ひゃーっ、さっぱりするぜ」
 アクタは作務衣の上半分を脱いで、手桶にたっぷりとぶち込んだ水を頭からかぶりながら奇声をあげた。
ウツロも筧の前にしゃがんで、両手で水をすくいながら顔を洗っている。
「ここでの暮らしはやめられんわな。なあ、ウツロ」
 筧にたたえられた水に映る自分の顔を見つめながら、ウツロは何かまた、物思いに耽っている。
「ウツロ?」
 まさかまたと、アクタは濡れた半身をぬぐいながら、ウツロの様子をいぶかった。
「また何か考えてるだろ? お師匠様がさっき」
「アクタ」
 心配したアクタの声を、ウツロは決然とした勢いではねのけた。
 彼はやにわに立ち上がり、顔をしとどに濡らす水滴をも意に介さず、凛とした眼差しでアクタを見つめた。
その表情には、熱く燃える決意が宿されている。
「アクタ、俺は、お師匠様のためなら、たとえ、魔道に堕ちたっていい」
「ウツロ……」
「お師匠様は、俺のすべてだ。俺のことを、俺という存在を、問答無用で肯定してくれる。それが、俺にはうれしい。世界から全否定された俺を、何の義務もないはずなのに、認めてくれる。俺は、お師匠様のためなら、こんな命でよければ、投げ打ったっていい」
 さっきまで泣きべそをかいていた少年は、このように力強く、敢然としてその意志を告白した。
それをくみ取れないほど、アクタは間抜けではない。
「バーカ」
「アクタ?」
「俺を忘れんなよ?」
 ウツロへの挑発は、その覚悟を見極めてのこと。
ならばと、アクタも語り出す。
「お師匠様が言ってただろ? 俺たちは二人で一つ。お前がそうするってんなら、俺はつきあうぜ? 魔道だろうが、地獄の果てだろうがな」
「アクタ……」
 あのウツロが、自分から切り離すことなどできるはずのないこの弟分が、これほどの精神的な成長を見せてくれたのだ。
アクタもすでに、迷いはなかった。
「俺たちは境遇が一緒だ。俺たちがいまこうしていられるのは、ほかでもない、お師匠様あってのことだ。つまり、お前の考えてることは、イコール俺の考えてることってわけだ」
「アクタ、すまない」
「謝んな、お前の悪い癖だぞ。ウツロ、お前は独りじゃねえ。お前は、俺が絶対に守る」
「アク、う……」
「バカな弟だぜ、お前は」
「お前こそっ、頭の悪い兄さんだよ!」
「悪かったな、パッパラパー助くんで。ほーら、ウツロくん! パッパラパー助お兄ちゃんだよ!」
「よせ、バカ! バカが移るだろ!」
「よーし、ウツロくんにバカを移しちゃうぞー、それーっ!」
「くるな、バカっ! パッパラパーのお兄ちゃんめっ!」
 組み合って仲良くケンカをしながら、二人は和気藹々と家の中へ入っていった。

   *
 ウツロとアクタが敷居を跨いで土間へ入ると、上がりの座敷では似嵐鏡月が囲炉裏の火を起こして待っていた。
「楽しそうじゃないか」
 彼は見透かすように顔を綻ばせている。
 二人はなんだか気恥ずかしくなって、視線を落としながら中へと入った。
「早くおいで」
「はい、お師匠様」
 二人は汚れた長靴と足袋を脱ぎ、手拭で足をきれいにしてから座敷へ上がり、囲炉裏を挟んで似嵐鏡月と差し向かいに座った。
 手前には二段の重箱。
 黒地に金の凝った細工が施してある。
 弁当とセットとになっている箸は、光沢のある箸置きの上にちょこんと乗っかっている。
 師の心づくしを二人はつくづくうれしく思った。
 似嵐鏡月は鉄器のやかんを五徳に乗せ、湯を沸かしている。
「熱い茶が飲みたくてな」
 ほどよく赤く光ってきている炭を見て、ウツロとアクタは不思議な感覚に囚われた。
 茶を飲むぶんの湯を沸かすにしては、量が多いのではないか?
「どうした、二人とも」
「え?」
「いえ、何でもないです」
 ウツロもアクタも鍛錬によって感覚が鋭敏になっているから、単なる思い過ごしだろうと考えた。
「さあ、早いところいただこうじゃないか」
 似嵐鏡月は二人を気づかって、自分から先に重箱へ手をつけた。
「いただきます」
 蓋を開けるとまだ温かい中身の熱気に乗って、うまそうな料理のにおいが鼻まで届く。
 嗅覚だけでウツロとアクタは幸福になった。
「すごい」
「ひえー、うまそ」
「アクタ、はしたないぞ。お師匠様の前で」
「うるせえ、お前だって、ウツロ。よだれ垂らしそうな顔してるくせに」
「何っ」
「これこれ、二人とも。ケンカなら飯のあとにしなさい。ほら、遠慮しないでおあがり」
「は、お師匠様」
「よしよし、わしもいただくとするかな」
 ちらしは五目。
 錦糸卵、レンコン、ニンジン、シイタケ、絹さや、いりゴマ、カンピョウ、トビコにイクラ。
 五目といいつつ五目以上入っているのがうれしいところ。
 おかずの箱には季節の野菜に、肉に、魚に、煮しめに、漬物まで。
「銀座に本店のある老舗のちらし寿司だ。特上だぞ」
 似嵐鏡月は淹れたばかりの湯気を出す番茶を二人にふるまった。
「汁がないのが惜しいところだな」
 三人は笑い合いながら、しばし食事と会話を楽しんだ。
「銀座って、どんなところなんでしょう?」
「そうだな、人間がたくさんいるところだな。それに、ウツロの好きな本を売っている店もたくさんあるぞ」
「うお、本の店ですか。行ってみたいです、銀座。でも、人間がたくさんは、なんだか怖いな」
「ウツロ、何ビビってんだ? 楽しそうじゃねえか」
「ビビッてなんかない。アクタこそ、方向音痴だから、銀座で迷うんじゃないのか?」
「うるへー。山でも迷ったことなんてねえのに、街なんて簡単だろ」
「人間を侮るな、アクタ。奴らはキツネよりも狡猾な知恵で、クマよりも強い機械を作って、そうしてできた街は、夜になったって、ホタルよりも明るいんだぞ」
「知った風なこと抜かすな、ウツロ。街なんて、行ったこともねえだろ」
「うー」
「ははは、街か。いつかお前たちを、連れていってやりたいな」
「お師匠様のお仕事を俺らが手伝えるようになれば、すぐに行けるだろ」
「うん、そうだね。早くお師匠様のお仕事の手伝いがしたいです」
 炭の赤黒い亀裂がパチンと跳ねた。
 似嵐狂月はピタリと箸を止め、硬直している。
 その眼差しは遠く、何かを考えこんでいる。
 ウツロとアクタはキョトンとして、彼を見つめた。
「アクタ、ウツロ。聴いてほしいことがある」
 にわかに口を開いた彼は、何やら話を切り出す。
「いったい、何でしょうか? お師匠様……?」
 ウツロを気づかったアクタが率先してたずねた。
 それを受け、似嵐鏡月は酷く重い口調で語りはじめた。

ここから「第4話 師の告白、そして」だよ~

「実はな、わしは近々、いまの稼業から、身を引こうと思っている」
 何を言っているんだ?
 ウツロとアクタの口は、麻酔をかけられたように弛緩した。
「なん、と……」
 アクタがやっと絞り出したセリフがそれだった。
 似嵐鏡月は間髪入れずに続ける。
「わしはいままで、殺人の請負を生業としてきたわけだが、もうこの辺で、引退を決めようと思うのだ」
 二人の世界が崩れ出す。
 口から魂が飛び出してもおかしくないような顔だ。
 誰でも知っているに誰にも答えられない命題。
 そんなものを提示されたような無情感が彼らを襲った。
「なぜ、ですか……ご教示ください、お師匠様……」
 アクタは意識が遠のいていく感覚の中、亡霊のような口調でたずねた。
「もう、疲れたのだ。身を立てるためとはいえ、人様の命をみだりに奪うことにな。わしが一人殺めるだけで、その者に関わる者、関わった者の人生のすべてを破壊してしまうことになる。決して終わることのない憎しみの連鎖が生まれ、それはわしだけではなく、ひいてはアクタ、ウツロ、お前たちにまでおよぶことになるだろう。それが、わしにはそれが、耐えきれんのだ」
 似嵐鏡月は間を置きながら話を続けた。
「アクタ、ウツロ。身寄りのないお前たちを引き取り、育ての親となったのは、確かにこのわしだ。わしはお前たちに跡目を継がすつもりで、持てる技や知識のすべてを叩き込んできた。しかし、お前たちがすくすくと成長するにつれ、ずっと思ってきたことがある。罪悪感というべきものか。なぜわしはお前たちに、『普通』の生活を与えてやれなかったのか、と。わしは不器用な殺し屋だ。できることといえば、人を殺すための術を伝授することくらいだ。もしわしが平凡でも、『普通』の父であれば、あるいはお前たちを学校へ行かせ、充実した青春を送らせ、世にいう温かい家庭なるものを、ともに分かち合えたかもしれんのだ。それをわしは、わしはただ、お前たちの人生を、奪ってしまったのではないかと……」
 似嵐鏡月はときおり声を詰まらせながら、このように語ったのだった。
「お師匠様……」
 アクタはどう返せばいいのかわからずにいた。
「だからわしは考えた。いまからでも遅くないと。廃業し、けじめをつけた上で、お前たちを自由の身にしてやりたい。こんな隠れ里から出して、もっと広い世界を見せてやりたい。当たり前の、『普通』の日常を、お前たちに取り戻して――」
「お師匠様あっ!」
 ウツロの勢いあまった大声に、似嵐鏡月とアクタはびっくりして口をつぐんだ。
「俺たちにとって、親があるとすればお師匠様、あなたこそが、そうなのです……」
 膝の上で拳を握り、全身を震わせながらふりしぼった言葉がそれだった。
「俺は、肉親によって捨てられました。この世にいらない、必要のない存在なのです」
「ウツロ……」
 似嵐鏡月は悲痛な面持ちになったが、ウツロの話を最後まで聞こうとした。
「ですがお師匠様、あなた様はこんな俺を、無用の存在の俺を、拾い上げてくれた、手を差しのべてくださった。衣食住を与えてくださった、学問を教えてくださった、生きていくためのあらゆる術を伝授してくださった。そんなあなた様が、親ではなくてなんでしょう? 血のつながりなんか関係ない。お師匠様、あなた様こそ、いやあなた様が、俺の親なのです」
「ウツロ、お前を不幸したのは、このわしであるのに……」
「不幸だなんて、とんでもないことでございます! 俺は最高に幸福です! お師匠様が、そしてアクタが一緒にいてくれる。俺にはこの里の暮らしが幸せでならないのです。これ以上、何を望みましょう? ですからお師匠様、そのような弱気にならないでください!」
「なんという、ウツロ……だが、お前たちを、わしと同じ闇の中へは、魔道へなど、落としたくはないのだ」
「魔道、喜んで落ちます。俺は、世界が憎い。俺を捨てた世界が、俺を全否定した、この世界とやらが。お師匠様のためなら、こんな世界なんか、粉々に破壊してやる。愛される者を、愛する者の目の前で八つ裂きにしてやる。世界中の人間が俺を憎めばいい。それが俺の、世界への復讐なのです。その本懐のためなら、魔道、喜んで落ちます」
 彼の矜持は確かに兄貴分へと届いた。
「お師匠様、俺もウツロとまったく同じ気持ちです」
「アクタ……」
「俺はウツロを本当の弟のように思って、いや、ウツロは俺の弟です。俺は兄として、ウツロを傷つける存在を絶対に許さない。ウツロにこんな仕打ちをした世界が、消えてなくなるまで戦います。世界の頂点でヘラヘラ笑っている奴を、俺たちの存在に気づこうとさえしないようなやつのツラを、グシャグシャにぶん殴って、内臓を引きずり出し、四肢を切り落として、ウツロの足もとに這いつくばらせてやる。そして、許しを請うその舌を、引きちぎってやるんだ」
「アクタ、何でそこまで……」
 アクタの同調に、口火を切ったウツロですら驚いた。
「何度も言わすな。俺たちは二人で一つ。お前の敵は俺の敵だ。お師匠様、平にお願いいたします。稼業の引退など、どうかご撤回ください。ウツロも俺も、ご覧のとおり、覚悟は決まっています」
 似嵐鏡月は両眼を深く閉じたが、少しの間を置いてからキッと見開いた。
「いや、撤回はせん。これだけは譲れんのだ。アクタ、ウツロ、どうかわかってくれ」
「なぜでございますか、お師匠様!」
「平に、平にその理由をお聞かせください!」
 ウツロとアクタはどうしても納得がいかない。
 稼業から身を引くという決意を、なぜ師は頑なに固持するのか。
「ならば話そう。話さなければ、お前たちの気持ちを踏みにじることになる」
 似嵐鏡月は重いその口を開いた。

ここから第5話「絶叫」だよ~

「よいか、アクタ、ウツロ。わしは夥しい数の人間を殺めてきた。わしによって殺められた者たちには、当たり前だが家族がいる。友人が、恋人が。どんなに小さくとも、関わりを持つ者がいる。その者たちの悲痛な叫びを聞くことに、わしは耐えられなくなってきたのだ。愛する者を奪われた人間たちの、嗚咽を聞くことに」
「おそれながらお師匠様、それは先程もお聞きしました。しかしそれが何でしょう? 生きるために他を犠牲にするのは、世の常でございます」
 ウツロはこのように申し立てをした。
 アクタも言葉には出さずとも同意している。
「もう十年ほど昔のことになるが、わしはある政治家の暗殺を依頼された。わしはすぐにその男の身辺を調査した。名を|万城目優作《まきめ ゆうさく》。当時、政権与党の中堅政治家だったが、幹事長に目をかけられ、強い発言力を持っていた。万城目の妻は最初の子、|日和《ひより》という名の少女を生んだあと、不慮の事故で鬼籍に入っていた。彼は男手一つで娘を育てる『戦うパパ』として、世間での評判も良好だった。しかしこの男、支持基盤である大手ゼネコンと結託し、その企業の受注を有利にする見返りに、多額の賄賂を受け取っていたのだ。依頼主は素性を明かさなかったが、おそらく万城目に遺恨を持つ何者かだろう」
「そのような|悪行《あくぎょう》を……おそれながらお師匠様、そんな男など、始末されて当然ではないでしょうか?」
「最後まで聞いてくれ、ウツロ。わしは身辺調査の過程で、万城目が国際的なテロ組織から何度も脅迫されていることを知り、これを利用することにした。万城目の主催するパーティーの会場を、そのテロ組織の犯行に見せかけて襲う計画を立てたのだ。ビルのほとんどを爆破するという大胆な作戦だったが、正体を知られないためには一番合理的だった」
「その話が、いったいどう、つながるのでしょうか?」
 話の筋が見えない。
 アクタはぶしつけを承知で、おそるおそる質問した。
「わしには万城目の娘、日和のことが気にかかっていた。ちょうどお前たちと同じ年頃だったからだ。わしはなんとか、彼女だけでも逃がしたいと考えていた。父親を殺せば、万城目日和は二親を失ってしまうわけだが、それでも命だけは助けたいと思ったからだ。幸いにもイベントの当日、父方の実家に預けられるという情報を得たわしは、作戦を決行した。しかし……」
 ウツロとアクタはゴクリと生唾をのんだ。
「万城目日和はその会場にいたのだ。父が忘れたスピーチの原稿を届けるという理由で。こっそり行ってパパを驚かそうという、子どもの発想で」
 まさかと、二人の顔に冷汗が浮き出る。
「わしはこの黒彼岸で万城目優作の頭を砕いた。作戦の完遂を見届けて、その場をあとにしようとした矢先、あの声が、少女の絶叫が……」
 人殺しいっ!
 お父さんをっ、返してえええっ!
「わしは名状しがたい恐怖に駆られた。いままでわしのしてきたことは、すべて間違いだったのではないかと。そしてわしは、混乱したわしは、手に握っていた黒彼岸を、その少女に向かって、振り下ろした……」
 ウツロとアクタは絶句した。
「そのとき以来わしは、頭の中からあの少女のことが離れなくなってしまった。あの声が、わしに憎悪を惜しみなく向ける、あの顔が……」
 まるで覚醒しながら悪夢を見ているかのような心境を、似嵐鏡月はまざまざと吐露した。
 ウツロもアクタも身じろぎすらできずにいる。
「あの少女が、お前たちと重なる。お前たちが成長するごとに、わしの頭の中のあの少女も大きくなってくるのだ。そしていつか、わしに恨みを晴らしに来るのではないかという、幻影が……」
 このように彼は、精神の中に巣食う呪詛について告白した。
 普段の威厳ある師からは想像もできない姿に、二人は息を呑むのも精一杯だった。
「だからもう、わしは耐えられなくなった。この稼業を続けることに。アクタよ、ウツロよ、どうかわかってくれんだろうか? このとおりだ……!」
 似嵐鏡月はおもむろに、その頭を深々と下げ、板の間に両手をついた。
「おやめください、お師匠様!」
「頭をお上げください、お師匠様!」
 ウツロとアクタは慌てふためいて、師を土下座に追い込んでしまったことを、激しく後悔した。
「アクタ、ウツロ。愚かなわしを許してくれ」
 その後、三人は会話も乏しく食事を済ませた。
 ウツロとアクタは師のすすめで風呂に入ることになった。
 鋳物の風呂釜は似嵐鏡月がわかして、すっかり湯気の立ちこめる熱湯になっていた。
 二人は順番に湯につかったが、先ほどのことが頭から離れない。
 薪は外で似嵐鏡月がくべている。
 不器用ながらも親を演じようとする態度に、彼らは人知れず落涙した。その涙は文字どおり、結露の中へと消えていったのである。
 風呂から上がったあと、ウツロとアクタは薪をくべると申し出たが、似嵐鏡月は「残り湯で入るから、お前たちは休みなさい」と逆に気づかわれた。
 彼らは奥座敷の二十帖ある寝室に入り、畳の上に布団を敷いて、横になった。
 言葉は、ない。
 アクタは頭の下に両腕を組んで、天井をボーっと見つめている。
 いっぽうウツロは、書棚から一冊の本を、おもむろに取り出した。

ここから第6話「深淵をのぞく者たち」だよ~

彼は迷ったとき、いつもこの一冊を選択する。
 ボロボロになったハードカバーの哲学書。トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』。
 表紙には王冠をかぶった金髪の少女が描かれている。
右手には闘争の象徴である剣を、左手には統治の象徴である錫杖を、それぞれ携えている。
人間は自然な状態では闘争、すなわち悪へと向かうが、法という概念を導入することで、善へと向けることができる。そんなホッブズの思想を、端的に示していた。
少女が身に纏うドレスは、喘ぎ苦しむ人間たちの集合体として、表現されている。
概念による統治には夥しい犠牲が伴うという、ホッブズが危惧した状態の描写だった。
どこかの出版社が、若者に哲学を親しんでもらうというコンセプトで企画し、『リヴァイアサン』の初版に使われた挿絵を、人気のイラストレーターにアレンジさせたものだ。
原文の翻訳には、新進気鋭の哲学者を採用したものの、予算の都合でわずかな部数しか発行されず、売れ行き自体も芳しくはなかった。
しかしながらウツロにとっては、特別な存在だった。本といえば初めにくる1冊なのである。当たり前であれば小学校高学年くらいの年頃のとき、本が読みたいという彼に請われ、似嵐鏡月が買い与えたものだからだ。
お師匠様が本を買ってきてくれた。物静かなウツロが、柄にもなく興奮して喜んだ。
彼は夢中になって読み耽った。
言葉は字引を借りて調べられたが、そもそもこれは哲学書である。思想を読み解くのは、幼いウツロには難しかった。しかし読まずにはいられなかった。
世界のすべてがこの本の中に詰まっている。
近代から現代に至る社会システムの基礎は、このホッブズという男の頭の中で完成していた。この死と双子の孤独な思索家の脳内で――
ウツロは前半の『人間論』を愛してやまない。
ホッブズは人間を信じなかった。人間による統治では平和は訪れない。だから概念を定義し、導入した。人間ならざる概念に統治させれば、世界は平和になると考えた。
貨幣を、法律を、社会を、国家を――あるいは世界そのものを。まるで仏作って魂を入れるように。
魂というより亡霊。
ホッブズは死してなお、亡霊となって世界を支配しているのではないか?
世界。
ページをめくるごとに、世界が降り注いでくる。同じ箇所でも、読むたびに違う景色に見える。『遊園地』というのはこういう感覚なのだろうか?
そう、ウツロは読書に『遊園地』を見出していた。
隠れ里から一歩も外へ出たことのない孤独な少年の心を、読書という『遊園地』が慰めてくれたのだ。
外の世界とはどのようなものか? このあわれな創造主の手になる世界とは。
もし叶うのなら、いつか見てみたい――
ところでこの本は、似嵐鏡月が古書店で買い求めたものだった。
本文の前後には白紙のページがそれぞれあって、そこには鉛筆で殴り書きがしてあった。
前に三行、後ろにも三行の都合六行。
しかしその六行が、たったの六行が、ウツロの心を鷲掴みにして放さなかった。

   人間とは何であるか?
   何をもって人間というのか?
   何が人間を人間たらしめるのか?

 これが前の三行。
 備忘の筆者は、人間という存在について、問いかけているようだ。
これがすなわち、ウツロが常日頃から問いかけている命題である。

   俺は解答を得た
   あとは実行あるのみ
   俺は、人間になるのだ

 こちらが後ろの三行である。
 備忘者は何かを発見したようだ。ウツロにはこれが気になって仕方がなかった。
 この筆者はいったい何者だ?
いったい何を悟ったというのだ?
そして何を起こそうというのか?
人間という存在についての問い。
少なくともこの筆者は何かの解答を得たということである。
何なのだ?
いったい人間とは、何だというのだ?
この筆者は何者なのか?
存命なのか故人なのか。
生きているなら、会いたい。
いったい人間とは何であると結論づけたのか、問いただしたい。
この恐るべき問いかけは、ウツロの現実とガッチリと噛み合っていた。
肉親から捨てられたという出自。その事実から発生する強烈なトラウマ。
俺は親から捨てられた。こんなことが人間にできるはずがない。
そうだ。俺は人間じゃないんだ。
何かおぞましい、そう、毒虫のような存在なんだ。
俺はこの世に必要ない。いらない存在なんだ。
しかし、醜い毒虫だって、美しい蝶になりたい。
俺は、人間になりたい。
この問いかけに解答を見出したとき、あるいは俺は……人間になれるのではないか?
「ウツロ」
 いつもの思索に耽っているウツロに、アクタは声をかけてみた。
 この弟分が黙っているときはつい、心配になる。
「眠れないのか?」
「アクタこそ」
 ウツロは本を開きながらも、意識はアクタへ向けた。
「これからどうなるんだろうな」
 アクタがウツロに弱気を晒すのは珍しい。それほどの衝撃を受けたということだ。
「自由、か。俺は『枷と鎖』のほうが楽だけどな」
「何、それ? 何かの比喩かな?」
「お前の真似してみたんだよ」
「……変なの」
 あえてとぼけたが、ウツロとてアクタの心中は察して余りある。
 つながれていようとも、俺はこの里の暮らしがいい。
 願わくば、ずっと。
「自由、って何だろう。何をもって自由というのか――」

 ぺしん

「いっ」
 アクタは体を翻して、ウツロの頭を打った。
「なんだよ、アクタ」
「いらんこと考えるなっつーの」
「悪いかよ。俺は人間的生命活動の発露として――」

ぺし、ぺしっ

「いたっ、アクタ!」
「バーカ」
「うー」
 今回ばかりは、アクタの意趣返しも、ぎこちない。
 彼らのやり取りには、どこか小芝居のようなむなしさがあった。
「ほれ、寝るぞ」
「……うん」
 お互いに背を向けて横になる。涙を隠すため。
 これからどうなるのだろう? まるで見当もつかない。
 でも確かのは、お師匠様が、アクタが一緒にいてくれる。
 それなら何も怖くない。怖くなんてあるもんか。
 そうだ、大丈夫だ。大丈夫、大丈夫……
 ウツロは言い聞かせるように「大丈夫」と念じた。
 羊を数えるようにしているうちに、彼は眠りに落ちていた。

   *

「ウツロ、ウツロっ」
 アクタの声? 夢だろうか?
「ウツロ、起きてくれ。早くっ――」
「アク、タ……?」
「ウツロ、何かがここにくる。それも、すごい速さだ」
「まさか」
 アクタは畳に耳を押しつけて、振動を拾い取っている。
「『忍び足』だ。人間、それも訓練を受けた奴らだ」
「賊か?」
「早く、お師匠様のところへ!」
「うん、急ごう!」
 すでにウツロの眠気は吹き飛んでいた。
 危機の察知を鋭敏にするための訓練として、似嵐鏡月から仕込まれたものであった。
 ウツロとアクタはすぐさま布団から起き上がると、われ先にと部屋の外へ出た。

「お師匠様っ!」
 似嵐鏡月は縁側にどっしり座って、黒彼岸を片手に握りしめながら苦い表情をしている。
「いったい何事でしょう?」
「賊だな、明らかに。とすれば、答えは一つ。わしらを殺しにきたのよ」
 このような状況での気づかいはむしろ、厄災の元だ。
 似嵐鏡月ははっきり、「殺しにきた」と二人に伝えた。
「ま、わしに恨みを持つ何者かが放った刺客、といったところだろうな。やれやれ」
「そんな……」
「いつかはこんなことが、と思っていた。アクタ、ウツロ、すまぬ」
「こんなときに、お師匠様!」
「話はことが済んでからだ。お前たち、わしについてきなさい」
 似嵐鏡月はすぐさま、普段自室にしている『はなれ』に、ウツロとアクタを導いた。
 二人とも彼の部屋へ入るのは、日課になっている掃除のときくらいだ。
 似嵐鏡月は室内の一番奥にある長持の前まで、彼らを案内した。
 重量感のある木製のそれを開けると、黒光りするアタッシェケースが二つ、収められている。
「これは……」
「お師匠様」
「お前たちがわしの仕事を継ぐときにと思い、密かに用意していたのだ」
「なんと……」
「これがアクタ、ウツロのはこれだ」
 似嵐鏡月は順番にそのロックを解除した。
「まずは戦闘時に着る衣装だ。二人とも、身につけて見せてくれ」
「はい、お師匠様!」
 ウツロとアクタは師匠の手を借りながら、その『戦闘服』を身に纏った。
 強化繊維の下地は薄く軽量だが、急所の集まる正中線上は、ナノレベルで高密度に作られていた。やはり繊維強化が施された胸当てと肩当ては、心臓や肩甲骨をじゅうぶんに守れる上、防御力はもちろん、機敏に動ける仕様だ。
 手袋と足袋を模したものは、フットワークが軽くなるように設計されている。
 いずれも衝撃を最大限、分散させられる効果を持っていた。すなわち、防御のときは受けた衝撃を最小に抑え、攻撃のときは与えた力を最大にできる。現代科学の粋(すい)による、闘争に特化した技術の結晶である。目的にかなうこと申し分ない。
 前腕と下腿のみ、素肌が露出している。あえて弱い部分を作ることで、そこへの攻撃を相手に誘導し、活路を見出すためだ。人間の心理をうまく利用した戦術と言えよう。
 黒く艶のあるそれらを装備した二人は、すっかり『戦士』の出で立ちとなった。
 その姿は実に凛としている。
「うん、よく似合っているぞ。さて、武器だ。まずはアクタ」
「はっ、お師匠様!」
「この手甲(しゅこう)を使ってくれ」
「これは……」
 見た目はカブトガニのような、V字に細かく装甲が重ねられた合金製の手甲だった。
「アクタ、お前は体術に優れている。これを両腕に装着し、戦うがよい」
「もったいない、ありがたき幸せにございます!」
「そしてウツロ、お前はこれだ」
「なんと……」
「剣術に長けたお前には、この刀を授けよう。黒彼岸を模して作ったものだが、ちゃんとお前の体躯に合わせてある」
 師の愛刀を一回り小さくしたような、黒刀(こくとう)が手渡される。
「お師匠様、うれしゅうございます! 謹んで承ります!」
「よし、準備は大丈夫だな。ゆくぞ、アクタ、ウツロ」
「はっ!」
 装備を整え、三人は急ぎ足で玄関へと向かった。
「さて、どの辺まで来おったかの」
「『蛭の背中』をやすやすと越えてきやがる……お師匠様っ!」
「ああ、相当な手練れとみえるな。ウツロ、何人かわかるか?」
「すごい数です。二十……いや、全部で三十人……!」
「十倍か。敵もやりおるわ」
「なあに、一人十人だ。俺らにかかれば、一捻りですって」
「うむ、アクタ。その意気だ」
「お師匠様、どうかこたびの作戦をお授けください!」
「ウツロ、よく申した。よいか、これからわしの言うことを、よく聴きなさい」
「はっ! 何なりとお申しつけください!」
「アクタ、ウツロ。わしが時を稼ぐゆえ、戦いながらバラバラに分かれ、逃げるのだ」
「なっ、お師匠様! 逃げるなどと! われらが力を合わせれば、相手が何人だろうと、負けることなどありえません!」
「ウツロの言うとおりです、お師匠様! それに逃げるということは、この里を捨てるということ! 里が敵の手に落ちてしまう可能性だって、じゅうぶんにあります!」
「二人とも、冷静になれ!」
 逃げるという指示が腑に落ちず、反論した二人に、似嵐鏡月は『喝』を入れた。
「よいか、アクタ、ウツロ。この隠れ里の存在が知られた以上、たとえこの場はやりすごせたとしても、敵は何度でも、ここを襲いにやってくるだろう。わしとしても不本意であるし、何より、お前たちの故郷であるこの里を落とすのは口惜しいが、やむをえないのだ。アクタ、ウツロ、どうかわかってくれ」
 二人は唇を噛み締め、拳を強く握った。しかし師匠の言い分は至極もっともである。
 彼らに同意しないという選択肢はあり得なかった。
「……仰せに従います、お師匠様……」
「すまぬ。そうと決まれば二人とも、覚悟を決めてかかるのだ!」
「はい、お師匠様!」

 ほどなくして、くだんの賊たちは現れた。
 杉並木の隙間から、虫が這い出るように、ぞろぞろとその姿を見せる。
 全員が一様に黒装束だ。顔にはカラスを模したような、『とんがり』のついた仮面を被っている。ウツロの予見通り、その数、実に三十名。
 玄関の前に陣取る三人の前を、弧を描くように、たちどころに取り囲んだ。
「こんな夜更けに、何のご用かな?」
「問答無用、似嵐鏡月。お前に恨みを持つ者は、お前が思うよりも、多いということだ」
「ふん。見ればえらく大人数だが、引っ越しでも始める気かね?」
「ああ、そのとおりさ。ただし、運ばれる荷は、お前たちだ。あの世へな」
 弧の中心の首魁とおぼしき男は、似嵐鏡月の皮肉を、皮肉で返した。
 だが当然、皮肉で終わらせるという雰囲気ではない。
「さかしらぶりおって。黒彼岸の『錆』にしてくれる」
「そう、うまくいくかな? 者ども、かかれえいっ!」
 合図とともに、『カラス』の群れは、一気に三人へ跳びかかった。
「ぐげっ!?」
 似嵐鏡月の黒彼岸が、前方の中空を、大きく切り裂いた。
 五、六人がそのまま後ろに吹っ飛んで、杉の大木に叩きつけられる。
「なっ……」
「ひるむなっ! かかれ、かかれえいっ!」
「ぎゃっ!」
「ぐえっ!」
 黒彼岸は次々と、襲い来るカラスの群れを叩き落す。
 彼らはまるでハエがされるように、たちまちのうちに、のされてしまった。
「おやおや、もう半分くらいになってしまったかのう。誰をあの世へ送るだって?」
「くそっ、調子に乗りおって! ガキだ、皆の者! 後ろのガキ二人を人質に取れ!」
「させるかっ!」
 似嵐鏡月はまた、黒彼岸を大きく払った。
「ぬっ!?」
 吹っ飛んだそのさらに上方から、別動隊が出現し、彼の後ろまでついに降り立った。
「くっ、しくじったわ! アクタ、ウツロ! 逃げろっ!」
「ごえっ!?」
 カラスの一人の首から上が、ねじれるように弾けた。
 アクタが身につけた手甲で、裏拳を炸裂させたのだ。
「人質に取るだって? 取られるのはてめえらの命のほうだ!」
「ガキがあっ!」
 カラスたちは空から円陣を組んで、アクタに襲いかかる。が――
「げおっ!」
 鉄壁に構えた彼は、正中線を軸に体を回転させ、その群れを薙ぎ払った。
「なんだこいつ、強いぞっ! もう一人を狙え! いかにも弱そうだ!」
「失礼だな」
「ひっ!?」
 ウツロはカラスよりも高く、跳躍していた。
 落下しながら舞うように、カラスの群れを矢継早に、叩きのめしていく。

 ――ヒヨドリ越え

 その姿はまるで、踊っているかのようだ。
 彼の身軽さと俊敏さ、そして一体化でもしたように刀を操る、無駄など一切存在しないその動き。すべての要素が有機的に絡み合うことによって初めて可能となる、ウツロの個性を最大級に生かした絶技だった。いったい何者が、彼を制することができるというのか?
「誰が弱いだって?」
 音もなく着地して、すぐさま体勢を整えたウツロは、自分が倒した敵たちに問いかけた。
 『念のため』ではない。
 答えなど帰ってくるはずがないということを、彼は知っているからだ。
 自分がまかり間違っても、仕損じるはずがない――初めての実戦にして、ウツロは絶対の確信を持っていた。それは決して、おごりなどではなく、突き詰められた経験が、彼にそう、教えるのだった。
 時間にしてほんの二十分ほど。
 屋敷の前の庭には、大地に接吻するカラスの山ができあがっていた。
「ふん、他愛もない。アクタ、ウツロ、見事だったぞ。初陣ではあったが、学んだことを発揮してくれ、うれしい限りだ」
「滅相もないことです、お師匠様!」
「アクタの言うとおりです。お師匠様からのご教授が、あったればこそで――」
 ウツロは嗅覚に不穏なにおいを感じ取り、息をこらした。
「どうした、ウツロ?」
突然黙った彼をいぶかるアクタが、その顔をのぞきこむようにたずねた。
「お師匠様っ、遠くからまた気配が!」
「何だって!?」
 まさかと、アクタは混乱気味に叫んだ。
「ちい、援軍かっ!」
「どのくらいかわかるか、ウツロ?」
 不安げなアクタの質問を受け、ウツロは嗅覚神経をフル稼働させた。
「においが強すぎて鼻が曲がる……ゆうに五十人は軽く超えています!」
「そんな……」
 アクタは戦慄のあまり、冷や汗を垂らした。
 いまの戦闘は圧勝とはいえ、三人には確実に、疲労が蓄積されていたからだ。
「……どうやら、ここまでのようだな。アクタ、ウツロ、かくなる上は、当初の予定どおり、三方に散って、逃げのびるのだ。わしが時を稼ぐ。早く行け!」
 意を決した似嵐鏡月は、力強くそう言い放った。
「そんなっ、お師匠様も一緒に!」
「このままでは共倒れになってしまう。ウツロよ、何とかこらえてくれ」
「いやです、お師匠様! 俺はあなた様とともにいとうございます!」
「ウツロっ、落ち着け!」
 慌てたアクタは、動揺するウツロを押さえつける。
 その様子に似嵐鏡月は覚悟を決めた。
「……仕方がない。アクタ、頼む」
「うっ……」
 ウツロの首筋に、鈍い感覚が走る。アクタが当て身を見舞ったのだ。
 崩れ落ちるウツロの体を、アクタはすくい取るように支えた。
「アクタ、ウツロを頼む!」
「御意! お師匠様も必ず!」
「なあに、またすぐに会えるさ!」
 アクタは気絶したウツロを担いで、山のさらに奥へと駆け抜けた。
 その涙を必死に隠しながら――

   *

「ここまで来れば、とりあえず大丈夫だ」
「アクタ、なんで……」
 目を覚ましたウツロは、肩を貸すアクタとともに、暗い林の中を歩いていた。
 小一時間ほど山中を駆けめぐり、木の枝に傷つけられ、苔むした岩に足を取られ、二人はもう、ボロボロになっている。
「アクタ、少し休んでくれ。もう、傷だらけじゃないか」
「なあに、こんなもん。ちょっとかゆいくらいさ。俺よりウツロ、お前が心配だ」
「……なんで、俺のことばっかり」
「何回言わすんだ。お前は俺が、守るんだっつーの」
「アクタ……」
「ま、一休みか。少しだけな」
 ちょうどいい大きさの岩壁があったので、アクタはそこにウツロを降ろして休ませ、自分も隣へ座った。
「ふう」
 アクタはうなだれながら、一息ついた。その顔はなぜか、穏やかだ。
「へへっ」
「アクタ?」
「いや、わりい。昔のことを、思い出しちまってな」
 ウツロは不思議に思って、アクタを見つめた。
「覚えてっか? ガキの頃、お前『厠』ですっ転んで、頭からはまったことあったよな?」
「あれは、アクタ! お前が前の日に、掃除をさぼったのが悪かったんだろ!」
「お前、クソ塗れになってたよな? 落とすのたいへんだったし、しばらく臭かった」
「おまっ、こんなときに、俺の人生の汚点を!」
「汚物だけに汚点ってか?」
「バカ、アクタっ! 全然うまくないぞ!」
 アクタはゲラゲラ笑っている。
 ウツロは顔を赤くしながらも、何だかおかしくなって、一緒に笑いあった。
「……もう、戻れないのかな? あの楽しい日常に……」
「さあな。ま、これからまた、作りゃいいだろ? 三人で、な?」
「……うん、そうだよね。それがたとえ、別な場所でも……」
「そうさウツロ。また一緒にネギ育てようぜ。知ってっか? この辺はネギの産地で有名なんだと」
「ネギ、か。思索にネギ掘りは、うってつけだしね」
「またネギこさえて、そしたら思う存分、思索したらいいぜ?」
「うん、そうだね。俺はやっぱり、考えてるのが、性に合っているしね」
「哲学者だかにでもなったらどうだ? 儲かるんじゃねえの?」
「お金か。概念は人間の敵だからね。俺は人間のほうがいいよ」
「おっ、出たな思索!」
「悪いかよ。俺は人間的生命活動の発露として――」
「はいはい、わかったから。ほんと難しいよな、お前の『人間論』は」
「アクタの頭が悪すぎるんだよ」
「何だとー? お前もパッパラパー助くんにしてやろうか!?」
「やだよ、そんなの」
「うるせー。そらっ、パッパラパー助くんになれー!」
「バカっ、来るな! アク――」
 気配を感じて、ウツロとアクタは息を殺した。
「この辺まで歩いた跡があるぞ」
「残りは近くに必ずいる。探せ!」
 彼らとしたことが、疲れとしゃべるのに気を取られ、敵の接近に気づくのが、遅れてしまったのだ。
「ウツロ、ここは俺がなんとかする。先に行け!」
「そんな……ダメだ、アクタ!」
 真剣な表情のアクタに、ウツロは言い知れない不安を感じた。
 これがもしや、今生の別れになってしまうのではないか、と――
「このままじゃお師匠様の言うとおり、共倒れだ。なあに、すぐ追いつくから、心配すんな」
「いやだ! 一緒に行こう、アクタっ!」

   ぱしんっ

 アクタはウツロに、気つけのビンタを食らわせた。
 ウツロはほほを押さえながら、悲しい顔でアクタを見た。
「ウツロ、こらえてくれ。大事なのは、生きのびることだ。俺はもちろん、お師匠様が万が一にも、やられるわけねえだろ? だからウツロ! 俺を信じて、ここは行ってくれ!」
「う、アクタ……」
「泣くんじゃねえよバーカ。パッパラパー助お兄ちゃんは、無敵なんだぜ?」
 複数の声が近づいてくる。
「いたぞ、あそこだ!」
「ちっ、見つかったか。ウツロ、行けっ!」
「……絶対、あえるよね……アクタ?」
「あったりめえだろ。俺たちは二人で一つ、な?」
「……うん」
「よし、行けっ!」
 ウツロの背中を押すと、アクタは阻むように、敵のほうへと突っこんでいく。
「かかってこい! パッパラパー助お兄ちゃんが相手だっ!」
「殺せ、殺せえいっ!」
 ウツロは振り返らなかった。
振り返ればアクタ、そしてお師匠様の気持ちを、踏みにじってしまうから。
 独り戦う兄貴分を背に、ウツロはただ、ひたすら駆け抜けた――

   *

「ううっ……」
 ほうほうの体のウツロは、気がつけば、深い闇の中にいた。
 森――深く、暗い森。
ここはどこなんだ?
 深夜とはいえ、夜とはこんなに暗いものだったか?
 月も星さえも見えない。真っ暗だ。
 恐怖、そして寒さ。
 彼は震えながら、暗黒の中をさまようように歩いていた。
「あ」
 明かりだ。
 ゆらゆらと燃えている。近いような遠いような。
 すぐに掴めそうでいて、永遠につかめないような。
 こんなところに人が? 何か妙だ。
 しかし違和感はあるものの、ウツロにとってはまさに、希望の光だ。
 彼は不信に思いながらも、その明かりのほうへと、近づいていった。
 明かりは次第に大きくなってくるが、人の気配など、まったく感じられない。
 得体の知れない恐怖に、ウツロは自身の心臓の鼓動が聞こえてくるのを認識した。
「う」
 明かりの近くに、別な明かりが突然、浮かび上がった。
 さらに一つ、もう一つ――次々と。
 それはあたかも、空間上へランダムに並べられた蝋燭に、適当な順番で、火をともすような。
「まさか、これは……」
 鬼火。
 その単語が真っ先に脳裏をよぎった。
 いけない。
 何かわからないが、とても危険な気がする。
 ウツロは退こうと試みるが、なぜか足が動かない。
 依然として、鬼火の数は増えていく。
「な……」
 桜の木。
 空間を満たした鬼火を前置きとするように、とてつもなく巨大な桜の木が出現した。
 おかしい。ここはどこだ? こんな木の存在など知らなかった。
 しかしこの桜は……なんと、美しい。
 まず、幹の太さ。
 黒ずんだそれは、岩盤のようにごつごつと硬そうで、いまにも膨らみきって爆ぜそうだ。
 どこかしわくちゃの老人の顔のようにも見え、不気味なことこの上ない。
 根は鬼の爪のように地面に食いこんで――いや食らいついているかのよう。
 枝はといえば、天を串刺しにするかのような勢い。
 そして瞠目すべきは、その大輪に咲く花である。
 雪よりも白いような花びらが、ひらひらと静かに舞い散っている。
 醜い『胴体』との対照は、まるで天国と地獄が、同時にここに存在していると表現したくなる。
 ウツロは金縛りにあったように硬直した。
 不思議なことに彼の心から恐怖は消え去っていた。それほどの生命力。
 まるでこの桜が宇宙の中心であるかのような存在感に圧倒される。
「お師匠様がいつか、おっしゃっていた。この世とあの世の境に咲くという、幻の桜――その名を、『魔王桜(まおうざくら)』……」
 体が前方へ動き出す。
 自分の意思なのか、眼前の桜の意思なのか、それすらもわからない。
 ウツロはあやかしの引力に吸い寄せられるように、そちらのほうへと足を進める。
「この桜が、そうなのか?」
 桜の巨木は周囲を青白く照らし出している。
 見れば見るほど、美しい。何という力強い存在。
この桜の前では、どんな存在もかすんでしまうような――
「これが魔王桜だとしたら――俺は、死んだということなのか?」
 突如体の力が抜けて、ウツロはその場へ、へたりこんだ。
「それにしても……きれいだな」
 ウツロはすっかり、その桜に心を奪われて、うっとりした気分になってきた。
彼はしゃがみこんで座り、魔王桜の美しさに見とれた。
「……疲れた」
 ふいに物悲しくなって、ウツロは少しうなだれた。
 こんなに美しい桜でさえも、俺の心を癒やしてはくれないのか?
「お師匠様、アクタ……無事だろうか? 早く、会いたい。独りぼっちは、さびしい……」
 茫然自失のウツロは、しばらくの間くだんの桜と、静かなにらめっこをしていた。
 ここにいると時間への意識がなくなってきて、ふわふわと漂っているような、夢の中で遊んでいるような感覚に陥る。こんなに気持ちが楽になるのは初めてかもしれない。
「なんだか、いい気持ちだ……」
コクリとうなだれたところで、かすかに目を開いたウツロは、眼前に人間の腕ほどの朽ちた一枝が転がっていることに気づいた。
「枝……枯れている……」
 それは桜の枝のようだが、ほとんど風化して、カラカラに乾いている。
 この桜から分離したものだろうか?
「あ」
 虫――一匹の地虫。
 小指の先ほどもないような、それは矮小な地虫が、枯枝のくぼんだ穴から、ひょっこり顔を出して、何やら小刻みに、痙攣でもするように、ぴくぴくと動いている。
 ウツロにはその地虫が、苦しみ喘いでいるように見えた。
 存在していることに、この世に生を受けたことそのものについて、何か劫罰でも受けているかのような――
「桜の朽木に虫の這うこと、か。はは、俺のことみたいだ」
 ウツロはなんだか、おかしさを覚えるいっぽう、その地虫に、どこか親近感を覚えた。
虫が朽木を這うように、自分もこの世の一番下で、這いつくばっている。
その感情はすぐに、強い共感へと変わった。
「この虫は……俺じゃないのか……?」
 鏡でも見ているかのような気分だった。
 もはや彼には、その地虫が他の存在とは到底、思えなくなってしまっていた。
 こんなちっぽけな虫けらに、心が引き裂かれそうになるほど、共感してしまう自分がいる。
「……俺は、間違って人間になった……戻りたい、あるべき姿へ……」
 ウツロのほほを滴が裂いた。
 その落涙はやがて滝のように。
「俺は、虫だ……醜い、おぞましい毒虫……」
 なんで俺は人間なんだ?
 毒虫のほうがずっといい。
「……お前に、なりたい……」
 そっと手を伸ばす。
 こいつに触れればあるいは、悲願成就となるのではないか?
 彼は地虫が這うよりもゆっくりと、愛する者に対してするように、その距離を縮めていく。
 もうすぐだ。
指先が触れる。
「……なるんだ」
 うれしい。
 こんなに幸せでいいんだろうか?
「俺は、お前になるんだ」
 涙はいつしか歓喜のそれへ。
 ほら、もう独りじゃないよ。
「俺は、毒虫になるんだ」
 あとほんの少し、毛ほどの長さで指が届くというところで、ウツロの全身に、異様な怖気が走った。末端神経の全部に、『つらら』をぶち込まれたような、激しい悪寒。
 気配――目の前だ。
彼が条件反射で顔を上げると、くだんの魔王桜が、風もないのに、ざわざわとさざめいている。揺らぐようなその動きは、催眠術でもかけているようで、彼にはまるで桜の木が、意思を持ってこちらへ、やってくるような気がした。
いや、本当に動いている。
桜の一枝がゆっくりと、触手のようにウツロのほうへ、向かってくるではないか。
鋭い先端に咲く夥しい花は、まるで目玉のように彼を狙いすましていて、明らかに何かをしようとしている。わかってはいるのだが、ウツロの腰はすっかり抜けて、恐怖のあまり、後ずさりすらできず、次第に距離を詰めてくるあやかしの桜に、おののいた。
「くるな、くるなっ」
 そして――
「うあ」
 魔王桜の枝は、ウツロの額に、ぐさりと突き刺さった。
「……が……あが……」
 枝がどんどん、頭の中心に食いこんできて、まるで何かを注入されるような感覚が走る。
 そして彼の意識は、奈落へと落ちていった――

   二

「……う……さくら……まおう」
ウツロは悪夢にうなされていた。
あたかもあの桜――魔王桜の大枝に絡め取られるかのように。
 必死で逃げ回る――その恐ろしい触手から。
 走って、走って、走り回って――
 何かにつまずいて、頭から地面へモロに転げ落ちる。
 顔面をしたたかに打った直後、気づいた。つまずいたのではない。
足の感覚が鈍い。石のように重く、大地に根を張ったように動かない。
「ひっ……」
 両脚が、大根の『ひげ根』のように――赤と黒の入りまじった、おどろおどろしい色になって、ドロドロと不気味に蠢いている。
 『ひげ根』のように見えたのは、無数の『触角』。まるでナメクジの化物のような。
「おげえっ」
 吐き気を催した――そのあまりのおぞましさに。
 口を抑えた両手へ向け、豪快に吐瀉物をぶちまけた。喉の裂けるような激痛が走る。
 手の中をのぞいて気が遠くなった。
 そこには虹色の『落花生』――怪しく輝く、バカでかいウジムシの群れ。
「うえ」
 嘔吐は止まらない。ウツロの体はみるみるうちに、極彩色の海へと沈んでいく。
「……からだ、が……」
 肉の腐っていくような、名状しがたいその異臭。
 耳は取れ、鼻はもげ、目玉もボロッと落ちる。
 毒虫。
 ウツロは一匹の、異形の毒虫の姿へと、変じていた――
「ああああああああああっ!」

 ウツロが目を覚ましたとき、彼の体はおぞましい毒虫の姿、ではなかった。
 白い天井に暖色の蛍光灯が光っている。
「う……」
 なかなか目が慣れない――もぞもぞと手を動かしてみる。
 柔らかい感触が伝わってくる。布団の中にいるのか?
 なんとか体を起こそうとしたとき、ギシッとかすかに軋む音が聞こえた。どうやらベッドに寝かされているようだ。
 ウツロ自身は生まれてこの方、ベッドに横たわったことも、目撃した経験すらなかったが、知識として持っている情報から、これがベッドであると認識したのだった。
「ん」
 全身にキリキリする痛みがある――起き上がろうと試みるが、うまくいかない。
 なんてもどかしいんだ……しかし、いったいどういうことなのだろう?
 隠れ里に賊が侵入してきて、戦って、逃げて、それから――あの恐ろしい桜の木が――そうだ、お師匠様は? アクタは?
「ア、アク……」
 ウツロが口をパクパクさせながら、必死で言葉を捻り出そうとしていると――
「目、覚めた?」
 突然飛び込んできたその顔に、心臓が収縮した。
 人間――人間の少女。確かに少女のようである。
 右側の白いカーテンの前に、ポニーテールの少女がいて、彼の顔をのぞき込むように、ほほえんでいる。クリッとした潤いのある目をしていて、艶のある髪の毛には、少し癖がついている。
「……あ……あ……」
 ウツロは事態がまるで呑み込めず、口もとをゆらゆらと上下させた。
 彼女がこちらに顔を寄せるとき、ピンク色のパーカーのフードが少し揺れて、しみついたその香りが、ほのかに嗅覚を刺激した。鼻のよいウツロにはわかった。
人工的な香料などは、一切つけていない、素のにおいなのだと。
これが、女性のにおいなのか――馥郁たる香りとは、まさにこれだ。
汗のにおいがまじっているが、それも含めて心地いい。
なんだか、落ちついてくる……不思議な存在だな、女性とは。そんなことを考えた。
 女性に遭遇するのが、そもそも初めてであるから、彼は他方、大いにどぎまぎした。
「……ここ、は……」
「医務室だよ、『忍者くん』。アパートの一室の、だけれどね」
 前方から、別な少女の声が聞こえた。
 悲鳴を上げる節々を黙らせながら、ウツロは上体を起こす。
 ベッドの両側に柵がついていることに気づき、これからどんな状況に運ぼうとも、決して気を抜いてはいけないと、彼は覚悟した。
 顔を上げたことで、二人目の少女の姿が飛びこんできた。
 ありふれた事務用の可動チェアに、すました顔で腰かけるその少女は、新調したばかりのような、清潔感の漂う白衣を羽織っていて、その下のカーディガンから飛び出したワイシャツの襟は、研いだ包丁のようにピンと張っている。折り目正しいというというには緩さがあり、かといって崩しすぎてはいない。カーディガンとソックスは、ダーク・ネイビーで合わせてある。
 両脚は、九十度に近い鋭角に曲げて座っている。
 七分丈のフレアスカートは、座るときにちゃんと折りたたんでいるらしく、脚にフィットしすぎず、かといってだらしなくならないように履いている。スカートとスリッパは、アイボリーで合わせてある。容貌も同様だ。
 黒いロングヘアーを肩に軽くかかるくらいに、髪質はストレートすぎず、癖を帯びすぎず、整髪してある。目鼻立ちもきつすぎず、緩すぎず。化粧も濃すぎず、薄すぎず。
 要するに、他者が心理的に警戒せず、しかし油断もしない、絶妙なスタイリングを採用しているのだ。その年齢に対しては、知的で大人な印象を受ける。
 彼女の美貌を形容する表現は、いくらでも浮かんできそうだ。しかしながら、違和感がある。どこか人工的な、絵姿の美女を、写真だと思いこんでいるときのような違和感だ。
 ウツロが見つめていたとき、彼女は口もとから一瞬ではあるが、ペロリと舌先をのぞかせた。これを受けて、ウツロの抱いていた違和感は、確信へと変わった。
 ヘビ――ヘビだ、この女は。チラリと舌をのぞかせる所作は、まさにヘビのそれだ。
そう、違和感の正体は、『擬態』によるものだったのだ。これがこの女のすべてなのだ。
そのすべてが虚像――存在そのものが、まやかしにすぎない。
わざわいをもたらすために生まれてきたという、ヘビそのものではないのか?
「何?」
「……あ、いや。すまない」
 長いこと見つめられていたものだから、彼女はさりげなくウツロを牽制した。
 彼はわれに返って、混乱する頭を整理した。
 医務室……医務室か。
 白色が基調の部屋。
 医務室か、そうか――治療をする部屋なんだな。
 奥の少女が陣取っているデスクの上には、書類やら筆記用具やら、あるいは治療に使うとおぼしき道具などが、きっちりと整頓して置かれている。
なるほど、やはり間違いないようだ。
 ウツロは少ない経験から、医務室という場所の意味を予想した。
ロングヘアーの少女は、こちらを向いた状態で、体勢を一切変えず、彼に視線を送っている。
この女、俺を『観察』しているのか?
 ベッドにいる状況では、この部屋の全体は見渡せない。しかし右側にカーテンが引いてあって、左側は壁であることから、部屋の中の位置としては、一番奥であると推理できる。地形としては最悪だ。さらに人間が二人――少女とはいえ、いまの俺は、こんな容大だ。
 手前の少女は、あどけない感じがするが――奥の少女は何か、得体の知れない妖気のようなオーラを漂わせている。いったい彼女らは何者なんだ?
いずれにせよ、抜き差しならない状況には違いない。この二人が俺の『逃げ道』を塞いでいるわけなのだから――
左手の白壁の奥に小さな窓が見え、そこから線の強い日光が差しこんでいる。色合いから、西日ではないようだ。つまりあの小窓は、東側についていると推測できる。
いまが午前中だと仮定すると、その入射角からおそらく、正午近くだろう。いったい自分は、どれほどの時間、気を失っていたというのか?
このような『分析』をするのに、ウツロにはものの十秒も必要なかった。
「……医務室……アパート」
 しかし彼はとぼけたふりをして、さらなる情報を引き出す時間稼ぎとした。
「わたし、真田龍子(さなだ りょうこ)。あなたとは年、近そうだね」
 手前の少女、真田龍子は、にっこりとほほえんでみせた。
「……さなだ、さん」
「『龍子』でいいよ。あなたは?」
「……?」
「名前、あなたの」
「……え? 俺は、ウツロ……」
「『ウツロ』、って名字かな? フルネームはなんていうの?」
「フルネーム……わからない。俺の名前は、ウツロ。それだけ」
「ああ、うーん……」
 真田龍子は困惑して、言葉に詰まってしまった。
「何か事情があるみたいだね、『ウツロくん』。ああ、わたしは星川雅(ほしかわ みやび)だよ。よろしくね」
見かねた奥の少女、星川雅がすかさず助け舟を出す。
「鎮痛剤を処方したんだけれど、まだ痛みも多分に残ってるでしょ? だからしばらくは、おとなしくしててね」
「……鎮痛剤……盛った、のか……?」
「失礼な言い方だね。あなたを助けるためでしょ?」
 シャーペンを指でくるくる回しながら、彼女は不機嫌そうな顔をした。
 気まずい雰囲気が場を支配する。
少し間が空いたところで、重苦しいその空気を入れかえるように、星川雅が会話を切り出した。
「ウツロくん、あなたはきっと、情報を欲しがっている。そうでしょう? 順番に説明するから、よく聴いて」
 図星だった。
混乱半分ながらも、ウツロの思考回路は、現在自分が置かれている状況を把握しようと動いている。
「まず、わたしたちの名前はいいよね? そしてここはどこなのか、だけれど――ここは住所でいうと、東京都朽木市(くちきし)南西部の蛮頭寺区(ばんとうじく)。で、このアパートは、もともと旧財閥の持ち物だった洋館を、『ある目的』のため、特別に改装したものだよ。その中の医務室ってわけ。ここまではいいかな?」
 彼女の口から得られた情報を、ウツロはただちに整理した。
 朽木市蛮頭寺区。
 お師匠様から聞いたことがある。
隠れ里のある場所は、地図上では、その住所であったことを。
 地理的に鑑みて、隠れ里を山から東へ下った場所がおそらく、この辺りなのだろう。
 しかし次の『含み』はいやおうなく、頭に引っかかった。
 いま自分のいる場所、洋館を改装したアパートだというが、『ある目的』とはいったい、何なのか――
「うふ。頭が切れるんだね、君」
 星川雅の口もとが綻んでいる。まるで心を読まれているようだ。
 真田龍子という人はまだわからないが、この星川雅という少女は何か、得体の知れない部分がある。ウツロは決して油断してはならないと、思考をめぐらせた。
「『油断ならない』、そう思った?」
 表情にこそ出さないものの、ウツロは内心、ギョッとした。本当に心が読めるのか――
「……心が、読めるのか……?」
「まさか、ただの経験則だよ。わたし、両親が医者でね。二人とも専門が精神科なの。小さい頃から、いろいろと教わってきたから、勘ぐるのは得意なんだ」
 彼女は抑え気味に、くつくつと笑った。
 不気味だ……この少女は。
 精神科医だという両親から教わった? 本当にそれだけなのか?
 気まぐれにシャーペンをカチカチとノックしながら、星川雅は薄気味悪い笑みを浮かべている。
「続きを話そうか。あなたはこのアパートの前で気絶していた。『三日前』にね。深夜に物音で発見されたの。だからあなたは三日三晩、眠りに就いていたわけだね」
 三日前だと? 俺がここに来て三日目? そんなにも長く、俺は眠っていたというのか? ほんの少し、仮眠した程度に感じられるのに。
あの恐ろしい桜――魔王桜に何かされて、気が遠くなってから。
 そうだ、アクタにお師匠様だ。こんなところで油を売っている場合じゃないなんだ。
 二人を探さなければ――
「うっ……」
「あっ、ダメ、動いたら! 君の体はボロボロなんだよ!? まだ動いちゃまずいって!」
「……平気……だから、うっ……」
「ね? 言ったとおりでしょ? ほら、お願いだから横になって、その……ウツロくん?」
「んん……」
 何かに追い立てられているかのようなウツロのしぐさに、真田龍子は焦りを隠せなかった。すぐ後ろでは、星川雅が呆れた顔をしている。
「まったく、龍子に感謝しなきゃ駄目だよ、ウツロくん? あなたをいままで介抱したのは彼女なんだから。それこそ献身的に尽くしたんだよ?」
「雅、わたしのことはいいから……」
「こういうのはしっかり示しておかなきゃ。それともウツロくん、あなたは受けた恩を仇で返すタイプの人間なのかな?」
「……いや、違う」
「ならよろしい」
「いや、そこじゃなくて」
「は?」
 星川雅はキョトンとした。
「人間じゃない」
「人間じゃない、ってどういうこと……?」
 真田龍子も不思議そうな顔をしている。
「……俺は、人間じゃないんだ」
「……はあ」
 人間ではない、とはどういうことか? この少年は何を言っているのか?
 真田龍子と星川雅は、呆気に取られるのが半分、あとの半分は、何かとんでもないことを聞いてしまったような気まずさに支配され、言葉を失った。
 何かフォローしなければと、真田龍子は口を開こうとしたが、かける言葉が見つからない。どう対応すればよいかと、考えあぐねているとき、部屋のドアをノックする者がある。
「はいっ」
 彼女はどこかすがるような口調で応答した。
 ドアが軋みながら開く音に、建物の年式が感じ取られる。
 誰かが部屋に入ってくる気配がしたかと思うと、カーテンの奥から、長身の少年がぬっと、顔を出した。その姿を一瞥して、ウツロは雷に打たれたように硬直した。
「……アク、タ」
 その鋭い眼差しには、目力のみで相手の心臓を止めるような凄みがある。
 黒くボリュームのある髪の毛は、あちこちピンで留めてあって、白いタンクトップからのぞく体躯は、筋骨隆々としている。褪せたブルーのダメージデニムを履いた脚は、次の瞬間、蹴りでも繰り出してきそうなたくましさだ。
 いかにもいけ好かない、うさんくさい感じの男だった。けれど不思議なことに、ウツロは彼を見てアクタを連想したのだ。背格好くらいしか共通点はないのに――
 だが何か――雰囲気というか、オーラというか――アクタに共通する何かが、感じ取られたのだ。
 そしてその大男の陰から、もう一人の少年――大男と比較して、ずいぶん背の低い少年がひょっこり顔を出して、二度驚いた。
 ザンギリ頭にひきつった笑顔。
結んだ口は、下に凸の緩い弧を描いていて、口角に不自然な『えくぼ』ができている。
 角ばった太い眉の下に、丸い目をギンと見開き、こげ茶色の肌には脂汗がにじんでいる。
 鼻の穴は大きく開かれて、いまにも鼻毛が見えそうだ。
 赤白チェックのネルシャツと、カーキのチノパンを、ピシッと着つけている――というより、『着せられている』印象を受ける。
 二人の少年は、ウツロにまじまじと視線を送った。
「虎太郎、こっちへおいで」
 真田龍子が合図をすると、小さいほうの少年が、てくてくとした動きで、早歩きで寄ってくる。
「ウツロくん、弟の虎太郎だよ。虎太郎、この方はウツロくんという人なんだ。あいさつしてごらん」
「ど、どうも、どうも」
 しどろもどろではあったが、その少年――真田虎太郎(さなだ こたろう)は、ウツロにぺこりと会釈をしてみせた。
彼はウツロを警戒しているのか、姉の前にしゃきんと立って、何やら守るような体勢を取っている。
 いっぽう、最初の大男は、ハンドポケットでつかつかとウツロのほうへやってくると、ベッドに横たわっている彼を見下ろして、見世物でも眺めるかのような薄笑いを浮かべた。
「目え覚めたんだな、『原始人』」
「柾樹っ」
開口一番で悪態をついた彼を、真田龍子がなだめるように制した。
「柾樹、お客人に失礼でしょ。それにこの子は原始人じゃなくて、ウツロくんて名前なの。ああ、ウツロくん。こいつは南柾樹(みなみ まさき)。わたしたちとこのアパートに住んでるルームメイトだよ。こんな感じだけれど、悪いやつじゃないから安心して」
 星川雅はさりげなく南柾樹の紹介をした。
「ウツロ? ウツロってどういうこと? 偽名? コードネームとかか?」
 思った通りの態度で、彼はウツロを挑発した。当然、ウツロの心中は穏やかではない。
「本名だ。お師匠様からいただいた名を侮辱するな」
「『お師匠様』だあ? こいつガチで原始人じゃね? 平成も終わったってのに、『お師匠様』だと」
「貴様っ! 俺はまだしも、お師匠様を愚弄することは許さん!」
「何キレてんの? 変じゃね、お前? もっと言ってやろうか? 『落ち武者野郎』」
「貴様あっ!」
 ウツロは両側の手すりを掴んで前方へ翻り、壁を蹴って弾丸のように、勢いよく南柾樹へと跳びかかった。その加速のままに、体の中心の急所を狙い、攻撃を仕掛けようとするも――
「がはっ!」
 南柾樹に首根っこを取られ、遠心力で床に叩きつける。
「柾樹っ、やめて!」
 真田龍子が叫んでいる間にも、ウツロは体を起こし、次の攻撃に備えようとした。だが――
「ぐっ!」
 ウツロの体はたちどころに絡め取られた。南柾樹がチョークスリーパーをきめたのだ。
 必死で抵抗を試みるが、完全にきまった技から逃れることができない。
「柾樹、そのまま動かないで」
 星川雅はシャーペンから『軸』を取り出し、それを口に含んだ。
「うっ……」
 軸から飛び出した『芯』が、ウツロの腕の静脈に突き刺さった。
「雅っ、何を!?」
「護身用の暗器だよ、龍子。ヒグマも黙らせるレベルの麻酔薬が入ってるんだ」
「そういうことじゃなくて!」
 ウツロの体から力が抜けていく。意識を失いかけながら、彼は真田龍子のほうを見た。
 弟、真田虎太郎が姉をかばうようにしている。その光景にアクタのことが頭をよぎった。
 アクタが俺にするように、彼は姉にしているのか? 大切な存在を守るために。
 アクタ、無事なんだろうか? 会いたい、アクタ――
 ウツロは一筋の涙とともに、再び気を失った。南柾樹はベッドの上にそっとウツロを降ろす。
「ウツロくんっ!」
 真田龍子はかけよって彼の身を案じたが、息はあることを確認して胸を撫で下ろした。
「二人とも、ひどいよ!」
「だって、向こうから手え出したんだし。龍子だって見てただろ?」
「まったく、無茶してくれるじゃん。まさか、あの状態で動けるなんてね」
 南柾樹と星川雅は、まったく意に介していない態度だ。
「もうっ! 彼は重傷なんだから! もう少し手を抜いてくれても――」
 真田虎太郎が、姉の上着の裾を引っ張った。
 彼はそうしながら、横たわるウツロに慈しむような眼差しを送っている。
「虎太郎?」
「この方は、悪い人には見えませんでした」
「……虎太郎」
 弟のことを知る姉は、そのいたわりの精神に胸が痛くなった。
 星川雅は、仕込みの暗器を何事もなかったかのように戻している。
「念のためにシロナガスクジラ用のも用意しておかなきゃ」
 あっけらかんとした彼女に、南柾樹は引き気味に口を開けた。
「それにしても」
「なんだよ?」
 切り出した星川雅に対し、南柾樹はベッドの柵に寄りかかって、いかにも気まずそうな顔をしながら返答した。
「彼はうなされながら確かに言っていた。『魔王桜』と――」
「つまり、それは……」
 彼女の一言に、真田龍子は一抹の不安を拭い去れなかった。
「こいつ『も』、『アルトラ使い』になったってことかよ?」
「可能性として、低くはないでしょうね」
 南柾樹と星川雅は顔を見合わせた。
 真田龍子は心の中で、この純真無垢な少年が背負ってしまった、重すぎる宿命を憂いた――

   *

 気絶したウツロは、再び悪夢にうなされていた。
 似嵐鏡月とアクタが、遠くのほうに並んで、こちらを見ている。
 彼らはどこか、悲しそうな表情で視線を送っていた。
「お師匠様、アクタっ!」
 ウツロが呼びかけると、2人はふいに、背を向けて歩きはじめる。
「……なん、で」
 ゆっくりとした動きのはずなのに、彼らはどんどん遠ざかっていく。
「お師匠様、アクタっ! 行かないで!」
 2人の姿はとうとう、豆粒のように小さくなってしまった。
「……どうして……お師匠様……アクタ……」
 ウツロは必死に、彼らを追いかけているつもりなのに、その距離は限りなく、広がっていく。
「……俺を……独りにしないで……」
 2人の姿はついに、消えてしまった。
「……なんで……なんで……」

「お」
「虎太郎?」
「姉さん、目を覚まされました」
 落涙とともにウツロが目を覚ましたとき、かたわらには真田虎太郎がよりそっていて、すぐさま姉にその事実を報告した。
 もっとも、すぐ報告できるようにずっと彼によりそっていたのだけれど――
「……ん」
「大丈夫? ウツロくん?」
「……うん」
「さっきはごめんね。勢いとはいえ、柾樹や雅が酷いことをしてしまって」
「……いや、謝るのは俺のほうだよ。ごめん、あんな風に暴れてしまって」
「……あ、いえ」
 真田龍子は、ウツロの気づかいにその心根のよさを認めた。
 その上で、少しでも彼の気を紛らわそうと、場を和ませることにした。
「改めて紹介するね。わたしは真田龍子。『りょう』は『龍』、『ドラゴン』の『龍』だね。変わった当て字でしょ? で、弟の虎太郎だよ。『こ』は『虎』、『タイガー』の『虎』だね。龍と虎の姉弟(きょうだい)なんだ。ちょっと面白くない?」
 彼女はウツロを元気づけるため、少しおどけた調子で自己紹介をしてみた。
「『タイガー』の虎太郎です。ウツロさん、よろしくお願いします」
 真田虎太郎も姉の意思をくみ取って、流れに乗ってみせる。
「……うん。なんだか素敵だね」
 ウツロはその気づかいを理解したものの、どこかぎこちない返しになってしまい、もどかしく思った。
「……ごめん、2人とも俺に気をつかってくれているのに」
「いや、いいんだよ。こっちこそ、ちょっとおせっかいだったかもね」
 真田龍子はまた態度に詰まってしまった。真田虎太郎も同様に萎縮してしまっている。
 ウツロは気まずくなって、何か話を切りだして雰囲気を変えようと思った。
「さっきの男――南柾樹、だっけ? なんだか俺と同じ感じがした」
 真田龍子は息をのんだ。彼はまたとんでもないことを言おうとしているのではないのか?
「俺が何者なのかを伝えておきたいんだけど、その……話してもいいかな?」
 やはり、と彼女は思った。そんなことをさせたら、彼はさらに苦しむのではないか?
 せめてこの場はやりすごさなければ――
「ウツロくん、とても傷ついていると思うし……あ、無理して話さなくてもいいんだよ?」
「いや、さっきあんなことをしてしまったし。誤解があったらいろいろ困ると思うんだ」
「あ、うん……ほんとに、いいの……?」
「聴いてほしいんだ。俺はいったい何者で、どこから来たのかを」
 真田姉弟はお互いに視線で確認し、黙ってうなずいた。

 ウツロは話した。
 自分の出自。肉親に捨てられ、山奥の隠里で育てられたこと。
師である似嵐鏡月のこと。そして、盟友アクタのこと。
頼まれてもいないのに、自身の知りうる情報はおよそすべて伝えた。
なぜそこまでしたのかは、彼にもよくわからない。
ただ、この真田龍子と虎太郎の姉弟が、自分にとてもよく接してくれたから。
証明なんてできないけれど、俺によりそい、気づかってくれたから。
そんな漠然とした理由だった。しかし、ウツロは心の中に確信できることが一つだけあった。少なくともこの2人は、俺を『人間扱い』してくれた――と。
 真田龍子は話が進むごとに、このウツロという少年の壮絶な人生に、その境遇について悲痛な気持ちになった。真田虎太郎も目を充血させて明らかに動揺している。
 どうしてこんな人が? こんなに優しくて純粋な少年が?
 そのような扱いを受けねばならなかったのだ? 彼は人間だぞ? どうしてそんな目に?
 どれだけつらかったか。どれほど苦しかったか。なぜ彼に救済が与えられなかったのか?
 なぜ、なぜ、なぜ……
「真田、さん?」
「……え?」
「どうして泣いているの?」
「え、あ……?」
「虎太郎くんも、なんで?」
 真田姉弟の目から滴が垂れている。なぜだ? 俺をあわれんでいるのか?
 しかしそれは、見世物の道化に対して抱くような気持ちなのではないか?
「……泣いてくれるんだね。はじめて、いやここに来てからだけれど」
 出会ったばかりの人物をそうやすやすと信用できるはずもない。
 ウツロにはどこか彼女らを軽蔑する心があった。
軽蔑されるべきは、彼の心のほうなのであるが――
「……でも、こんなことを言って失礼だけれど、俺に同情なんかしないで。俺は人間じゃないから……醜い、おぞましい毒虫のような――」

   ぱしんっ

「人間だよっ! ウツロくんっ!」
「あ……」
 真田龍子はウツロのほほに平手を見まった。
 表皮がうっすら赤くなるのにしたがって、痛みが伝わってくる。肉体のみならず、心へと。その痛みは憎むべきものではなく、むしろ逆であると彼は理解した。
 目の前の少女は偽りの同情などではなく、真のあわれみを向けていることを、ウツロはおぼろげながら感じ取った。
 アクタが重なる。あいつが言いたかったのはこういうことなのかもしれない。
 存在として弱者であることと、弱者根性を持っていることは違う。
 アクタが、そしてこの少女が否定するのは後者なのだ。
 俺が毒虫であったとしても、醜いのは姿ではなく、心のほうだったのだ。
 俺はおぞましい毒虫なんです、かわいそうでしょう? そうだ、俺はそう言っていたんだ。
 なんという奴隷道徳か。俺のそんな精神こそ、毒虫だったのだ――
「……あ、……う」
 ウツロは一つの悟りを得た。しかしそれで彼が癒えるかは別の問題だ。
 アクタにしても、この少女にしても、気づかってくれていることはわかるし、とてもうれしい。だが、彼に刻まれた傷痕はあまりにも深すぎた。
 心の奥深くに封印されている鉄格子の隙間から、毒虫どもがぞろぞろと這い出してくる。
 肉の下を這うような地獄の蠢き。苦しい、助けてくれ――、いまにも食い殺されそうだ。
「……俺は、……人間じゃないんだ、……毒虫なんだ。……醜い、……おぞましい。……なのに、……なんで、……なんで」
 シーツを握りしめながら激しく嗚咽する。その苦しみを口からぶちまけるように。
「……苦しい、……苦しい。……人間に、……なりたい。……なりたいだけなのに。……うっ、ううっ」
 人目もはばからず、子どものように泣きじゃくる。
噴きだすその涙は次の瞬間、血にでも変わりそうな勢いだ。
「……ウツロくん」
 どれほどの、いったいどれほどの不条理を彼は背負ってきたというのだ?
 こんな年端もいかない少年が。
 それがどれだけ苦しかったか。どれだけ長い夜を耐えてきたのか。
 こんなにも慟哭して――
 彼を助けてやりたい。彼女の心は決意へと変わった。
真田龍子はウツロに飛びつき、両腕で力強く彼を抱きしめた。
「あっ……?」
 ウツロはびっくりしたが、彼女はさらに強く彼の体を圧迫する。
「ちょ……」
 その体がほのかに光り出した。
「……え?」
 温かい、優しい光。
 ウツロは何が起こっているのかわからなかった。わからない、が――これは?
 楽になってくる。傷ついた体も、心さえも。
 うまく表現できないけれど、心身から『膿』が消えていくような――
 体の痛みが和らいでくる。心に巣食う毒虫の群れが消えていく。
 安らぐ。こうしていると。この少女のおかげなんだろう。
 その慈しみは、それがそのままこの子の存在であるような――
「ん……」
「……どう、ウツロくん?」
「……何だか、とても楽になった」
「よかっ、た……」
「姉さん!」
 真田龍子は、ウツロを抱いたままベッドに崩れ落ちかけ、慌てた弟にすかさず支えられた。
「真田さんっ! 大丈夫!?」
「ええ、全然平気だから……」
「全然平気そうじゃないよ! 誰か、人を――」
「いいんだ、ウツロくん。『この力』を使うとね、けっこう疲れちゃうんだ。いつものことだから、安心して」
「……まさか、俺にずっと『それ』を?」
「えへへ」
「なんで、そんなこと……自分を犠牲にして、……他人を癒やすなんて」
「だって、見てらんないでしょ? 目の前に傷ついた人がいるのに」
 ウツロは自分を呪った。他でもない、自分の身勝手な思いこみについてだ。
 俺は、苦しいのは自分だけだとでも思っていたのか?
 この子を見ろ。真田龍子という、この高潔な少女を。
 彼女の力については何なのかはわからない。
 だがそれは少なくとも、わが身を犠牲にして他人を癒やすというもののようだ。
 彼女はそれを使った。俺のために、こんな俺を救うために――
 お師匠様も、アクタも、この真田龍子も、自分を賭して俺を助けてくれた。
 それなのに俺はなんだ?
 自分だけ苦しいとのたまい、他者に施しなどせず、なんて自分勝手なんだ。
 それは結局、自分のことしか考えていないということだ。
 恥ずかしい、俺は自分が恥ずかしい――
「ウツロくん」
 自己否定の循環論法に陥った彼が顔を上げると、真田龍子がほほえんでいる。
 その表情は、神仏が持つと聞いた慈愛の心――まさにそれが表われていた。
「また、余計なこと考えてるでしょ?」
 彼女はウツロの額を優しく打った。そのしぐさに、彼はいやおうなくアクタを重ねた。
 みんな、こんな風に俺を心配してくれていたんだな――
「あ、俺、俺は……」
「バカのほうがいいこともあるんだよ?」
「……そう、かもね」
「パッパラパーになっちゃえばいいのに」
「え? パッパラパーか、はは」
 まさにアクタ、いや、上辺のことだけではなく、その本質的な部分が、アクタと似通っているのだろう。
 人間。これが、人間なのかもしれない――
「ウツロさん、よかったです」
「虎太郎くん、ごめんね。お姉さんにつらい思いをさせてしまって」
「いえいえ、何にもです。姉さんは『ドラゴン』だからタフなのです」
「こら、虎太郎! 人を怪物みたいに!」
「食欲だけなら、怪物かもしれません」
「こらっ! わたしの恥部を晒すな!」
「ははは」
「ははは、じゃなーい!」
 真田姉弟は仲良くじゃれ合っている。ウツロはますます気持ちが安らいだ。
 先ほどの不思議な力なしで――
 何だかアクタとのやり取りを思い出す。
 人間か。やっぱり、これが人間ってことなのかもな――

「……そろそろ」
「え?」
「入ってきたらどう?」
 ウツロの遠い呼びかけに、何事かと驚いた真田龍子が後ろを振り向くと、半開きのドアの隙間から、星川雅と南柾樹がそっと顔を出した。いかにも気まずそうな表情を浮かべている。
「2人とも、そういうのはよくないよ」
「いや、いいんだ、真田さん」
「わり、立ち聞きするつもりはなかったんだけどよ」
「つもりはないけどしてしまったのなら、それはしたということじゃないかな?」
「あんだと? こっちが下手(したて)に出てるってのにその態度は――」
「まーさーきっ」
「お、わりい」
 毒づく南柾樹を制しながら、星川雅はつかつかとウツロの方へ歩みよってくる。
「ウツロくん、病み上がりなのを重々承知の上で大事な話があるんだけど」
「毒食らわば皿まで。なんでもどうぞ」
 ウツロの開き直った態度が星川雅の癇に障ったが、彼女はそこには触れず、話を切り出した。
「あなた、魔王桜に『会った』でしょ?」
 意外な単語が飛び出したことに、ウツロは驚いた。
「魔王桜……、どうしてそれを?」
「あは、思ったとおり。あなた、嘘がつけない性格だね」
 ウツロはムッとしたが、情報の収集を優先させるため、反論はしなかった。
「ああ、ごめんごめん。それはとりあえず置いといて――、『会った』わけだね? 魔王桜に?」
「確かに……でも、なぜそのことを?」
「あなたがうわ言で繰り返していたからね。『魔王桜』と」
「なるほど。けれどあれが魔王桜だったとして、それがどんな問題になるのかな?」
「やっぱり賢いよね、君。魔王桜に『出会った』過程を教えてくれない? そしたらこちらも知っている情報はすべて出すからさ」
「……いいよ」
 ウツロは隠里強襲から魔王桜遭遇への流れを簡潔に説明した。
「……なるほど。ここからは少し長くなるんだけれど、退屈しないで聴いてね」
 星川雅は一拍、置いてから話しはじめた。
「いまから約50年前、アメリカ合衆国マサチューセッツ州で起きたある『事件』。州都ボストン郊外の閑静な住宅街に、両親と息子2人の4人家族が暮らしていた。物語の主人公はその長男だね。彼は地元の高校を出たあと、やはり地元にある大手フランチャイズのスーパーマーケットに就職した。勤務態度は極めて真面目。実際に、『事件』が起こるまでの20年以上、無遅刻無欠勤だった。休日には自宅で鳥の鳴き声をBGMに読書を楽しむ、物静かだけれどごくごく平凡な男性。しかし――」
「その『事件』とやらが起こったわけだね?」
 星川雅は勘の良いウツロに感心した。
「ある日曜日の朝のこと、長男が目覚めると、リビングには誰もいない。通常であれば、母親が朝食の用意を済ませ、父親はコーヒーをすすりながら新聞に目を通しているはずだった。不思議に思った彼は、両親の寝室をのぞいた、すると――」
 独特の間を置きながら話す彼女に、ウツロは意に反して引き込まれていく。
「絶命していたんだね、両親が。その顔は恐怖に歪んでいた。まるで未知の怪物でも見たかのようにね。仰天した男はすぐに警察に通報した。警察が来てからわかったことなんだけれど、弟もやはり、寝室で同じ状態で息絶えていた」
 ウツロはゴクリと生唾をのんだ。
「両親と弟の体には、鋭利な刃物で切り刻んだような傷痕が無数についていた。当然、警察は長男であるその男の犯行を疑った。けれど、検死の結果は驚くべきものだった」
「……それは、いったい」
「『鳥』だよ。両親と弟に体につけられた傷の正体は、鳥の『くちばし』についばまれた痕だというんだね」
「……『鳥』、だって?」
「捜査はすっかりお手上げ。未解決事件(コールド・ケース)として書類倉庫行きになった。でも、問題なのはこのあと」
「……いったい何が?」
「どこで聞きつけたのか、1人の研究者がこの事件に興味を持ち、男の自宅をひょっこり訪ねてきた。米ハーフォード大学教授、グレコマンドラ・ジョーンズ博士。彼女は精神医学および脳神経科学の世界的権威でね。ジョーンズ教授は男にいくつかの質問をした。その中の1つに、教授は異様な関心を示した。それは事件が起こる前後で、何か変わった体験をしなかったか、というのもの。すると男はこう答えた――」

そういえば、夢の中で見たんです。
大きな『桜の木』を――

 ウツロはゾッとした。
「そう。魔王桜のことでまず間違いはない。実はこのジョーンズ教授、似たような事件をいくつも調査していて、その共通事項として魔王桜が存在することを突き止めていたんだね」
「……そんな、ことが」
「彼女のさらなる調査で、その男が優秀な弟を引き合いに、幼少期から両親にさんざん罵られていたことがわかった。さらにその男にとって、『鳥』が何か象徴的な意味を持つことも。教授はこの事件を、その男の『異能力』が発動したものによると推理した」
「……『異能力』、だって? まさか――」
 ウツロは真田龍子を見た。彼女は「君が思っているとおりだよ」という顔をしている。
「何の目的でなのかは不明だけれど、魔王桜は出会った者に不思議な能力を与えるらしい。その力をジョーンズ教授は便宜上こう名付けた――、『アルトラ』と。『超越する』という意味の英単語をもじったものだけれど、いくら都合とはいえ遊びすぎだよね」
「……『アルトラ』、……『異能力』」
「これも都合のいい話なんだけれど、ジョーンズ教授の夫ナイジェルは米国防総省(ペンタゴン)勤務の官僚でね。アルトラの存在は時を置かずして国家機密となった。あの国のことだから、どうせ軍事利用にでもしようなんて考えたんでしょうね。世間知らずの君は、アメリカ前大統領の名前なんて知らないでしょう? 『ナイジェル・ジョーンズ』だよ?」
「……そんなことを、どうして知っている?」
「『アルトラ・ホルダー』が世界的に存在するからだよ。魔王桜はどこにでも現れるってことだね。よっぽど暇なのかな? そして、世界各国はわれ先にと、『アルトラ』の対策を始めたってわけ」
「……俺も、それを得たということかな……その、『アルトラ』を?」
「その可能性はじゅうぶんにある。だからここからは、それを踏まえた話をするね」
「待ってくれ。俺はそんな能力なんて持っていない。何かの間違いじゃないのかな?」
「能力への覚醒は遅れる場合も多いんだよ。君が気づいてないだけって可能性もあるわけだね。とりあえず話を最後まで聴いてくれる?」
 高圧的な星川雅の態度に、ウツロは押し黙った。
「事件から遅れること約30年。日本政府は厚生省の外局として『特定生活対策室』を組織。公的機関ではあるけれど、もちろん一般には極秘となっている。アルトラ・ホルダーを見つけだし、保護する第一課、監督する第二課、第二課を補佐する第三課からなる。このアパートは、その『特生対』第二課の朽木支部ってわけ。とまあ、話はこんなところかな」
 語り終わると、星川雅は椅子にどっしりと腰かけた。
ギシッと軋む音とともに、彼女はため息を吐く。
「はあ、疲れた。概要はこんな感じだけれど、どう、ウツロくん?」
「……難解な話ではあるけれど、言いたいことはだいたいわかったよ」
「何か質問はある?」
「俺はこれからどうなるのかな?」
「あはっ! 一番重要なことだよね、ごめんごめん。ほんと君は鋭いよね、ウツロくん」
「いちいちほめなくてもいいから、俺の処遇を教えてくれないかな?」
「『処遇』ねえ。しびれる単語をチョイスするじゃん。そうだね、平たく言うと、これからはわたしたちの意思にしたがってもらうことになる。それが『お上(かみ)』の意思である以上はね」
「はい、わかりました、と俺が言うとでも?」
「言わなくてもいいよ。言わせるから。無理やりにでもね」
「……たいした自信だね」
 腹に一物かかえているであろうウツロをたしなめるように、南柾樹が前に出た。
「もう気づいてると思うけどよ、ここにいるのは『全員』、『アルトラ使い』なんだぜ? もちろん虎太郎も含めてな」
 ウツロはギョッとして彼らを見まわした。
 自分も異形(いぎょう)の存在だと思っていたが、目の前にいる者たちはさらに異形なのか?
 そして『アルトラ』か。
 魔王桜が与えるという特殊な能力だというが――おそらく、真田さんの『治癒の力』もそれなのだろう。
 星川雅や南柾樹はともかく、虎太郎くんまでとは。さて、どうしたものか――
「どう? あなたがどうしようと自由だけれど、その気になればねじ伏せるのなんて『わけない』んだよ?」
 またしてもウツロの意図を悟ったように、星川雅は応答した。
 その言葉には彼を御する意味合いもあるのだろう。
「ウツロくん、不本意なのはよくわかる。でもどうか、いまのうちはおとなしくしていてほしいんだ」
 真田龍子は状況から、ウツロがまた早まった行動に出ないかと心配し、声をかけた。
「……真田さんが、そう言うのなら」
「なんだよ。龍子に惚れたのか?」
「お前は、嫌いだ」
「ふうん。俺もお前は嫌いだね。うじうじしやがって。日の当たらねえ、いかにも湿っぽいとこが好きそうだよな。虫ケラみてえによ」
「……虫」
 ウツロがおそらく一番傷つくであろう悪態をあえて選んで、南柾樹は叩きつけた。
「柾樹っ、あんたいい加減に――」
 真田虎太郎がずいと南柾樹の前に立ちはだかる。
「虎太郎?」
「ウツロさんは、虫ではありません――!」
 肉体的に圧倒的な差がある大男を相手取り、彼はこのように勇気を見せた。
 ウツロはその少年の矜持に驚くとともに、どうして自分にそこまでしてくれるのか、その心中を計り知れずにいた。さすがの南柾樹も、真田虎太郎の勢いに気圧されたようだ。
「……わかったって虎太郎。どうせ俺は悪者だよーっと」
「待ちなさい、柾樹」
 立ち去ろうとした南柾樹を、星川雅が引きとめた。
「なんだよ? まだ何かあんのかよ?」
「ウツロくんに着替えてもらうから。手伝ってあげてちょうだい」
「はあっ? なんで俺が」
 どこか命令を下す支配者のような視線を、星川雅は南柾樹に送った。
「……けっ。わかったよ」
 素直に従う彼を見て、ウツロはこの奇妙な主従関係をいぶかった。
「着替え、って?」
「その『衣装』はボロボロになってるし、アパートの中じゃ不釣り合いでしょ? 動きにくそうでもあるしね」
 『戦闘服』のことを指摘され、師から授かった『黒刀』の存在を彼は思いだした。
「……俺の刀は、……お師匠様から頂戴した黒刀は?」
「刀って『これ』のこと?」
 星川雅の手には、いつのまにかその『黒刀』が握られている。
 彼女は挑発するように、それをひらひらと弄んでみせた。
「返せっ!」
「おあずけ」
「返してくれっ! それはとても大事なものなんだ!」
「ウツロくん、お願いだから立場を理解してよね? これはわたしが預かっておく。ちゃんと保管しておくから、そこは心配しないで」
「誰が信じると思う?」
「ウツロくん、わたしはあなたに頼んでるんじゃない。命令してるんだよ? すでにね」
 煮え湯をのまされている気分だったが、この場はおとなしくしておき、期を見計らう必要がある。ウツロはそう考えた。
「……扱いには、気をつけてほしいな」
「よしよし、いい子ね。じゃ、柾樹。着替えはこれだから、あとはお願いね」
 星川雅はウツロの思考に気づいていたが、面倒を避けるためあえて詮索はせず、南柾樹に着替えの入った籠を手渡して、そそくさと医務室を出ていった。
「へいへい、雅様。ほらほら、おめえらも。まったく、やってらんねえぜ」
 南柾樹は真田姉弟にも退出を促した。
「ウツロくん、本当にごめんね。雅にはわたしからちゃんと言っておくから」
「いや、真田さん。俺は大丈夫だから」
 そんなことをしたらあの女に何かされるのではないかと思い、彼は真田龍子を気づかった。
 結局、あとにはウツロと南柾樹が残された。なんとも重苦しい空気が流れる。
「ほら、手伝ってやるから。とっとと着替えようぜ、『ウツロくん』」
「むしずの走るやつだ」
「何とでも言えよ。女の陰に隠れるような腰抜けが」
「何だと!」
「はいはい、わかったから。ちっとも話が進まねえだろ。ほれ、着替えだ」
 手渡した籠の中には、柔らかそうな布地がきちんとたたまれて収まっている。
「……これを、着るのか?」
「着る以外にどう使うんだよ。火でも起こすのか?」
「火種にしては燃えにくそうだ」
「おめえな――ちっ。ほれ、ベッドに腰かけな」
 南柾樹は当たるのをこらえて、着替えを手伝うという目的を優先させることにした。
 それに従い、ウツロはそろりそろりと軋む体を動かす。
「うっ……」
「痛むか? ほら、ゆっくりでいいから」
 なるべく体を動かさなくてもいいように配慮しながら、南柾樹はウツロが身につけている装甲を脱がせていく。
「ふう、やっとはずれたぜ。そのピチピチした下着はそのままでいいから、上にこれを着な。野郎の裸なんて見たくねえし」
 紺色七分袖のスポーツパーカーと、黒地に白の3本ラインが入ったジョガー・ジャージ。
ともにノーブランド。やはり気をつかいながらウツロに着させる。
「へえ、意外と似合ってるじゃん。どうだい? 『人間』の服の感想は」
「柔らかくて肌に吸いついて、動きやすいから立ち合いのときにはいいかもしれないけれど。こんな薄っぺらい布じゃ、防御力は期待できないかな」
「『立ち合い』ね。まったく、クラシックな野郎だぜ」
ウツロの一挙手一投足に、南柾樹はすっかり呆れた様子だ。
「あの」
「ああ?」
「……あり、がとう」
感謝してくれているということは了解しつつ、南柾樹は「ふん」とまた悪態をちらつかせた。
「歩けるか?」
「……ん、大丈夫だ」
 南柾樹はウツロを支えながらスリッパを履かせ、そっと歩かせた。
「無理すんなよ。とりあえず外へ出るぞ」
「ああ、すまない……」

 『人間』の服、か。それを着たからって、人間になれるわけじゃない。
 俺は虫だ……醜い、おぞましい毒虫。でも、あの子は――
 真田さんは俺に言った、人間だと。俺が人間だと言ってくれた。
 何なんだろう、この感じは。胸が、苦しい……苦しいのに、心が安らぐ。
 わからない、いまの俺には。でも、あの子は……真田さんは――

 南柾樹は肩を貸すウツロのことを憂いていた。自分と同じ本質を持つこの少年を――
 彼にはわかっていた。つらく当たったのは、自分と同じだから。
 鏡で自分を見ているようで、イラついたから――
 こいつを救ってやりたい。もしかしたら、それが自分にとっても救済になるのではないか?
 虫か……、知ったらこいつは軽蔑するのかな? 俺も虫だってことを――

   *

「自己否定ね」
「えっ?」
 医務室を出た真田龍子は弟を部屋へ戻し、星川雅と立ち話をしていた。
「きっと何か、トラウマを抱えているのね。あまりにも強すぎるトラウマを。そこから発生する強烈な自己否定。彼の場合――自分は人間ではない、虫か何かのようなおぞましい存在だという強迫観念に取りつかれているのよ」
「……なんて、こと」
「龍子、ここを案内する必要があるから、悪いけれど――」
「雅は?」
「『上』に報告だね。それに、わたしは嫌われてるから。龍子と違って、ね?」
「あっ……」
 手の甲で星川雅は真田龍子を軽くつついた。
「じゃ、お願いね」
 その手を翻して、足早にその場を去っていく。残された真田龍子は立ちつくした。
 ……ウツロくん、……どうしてこんなことに、……あんな、優しい子が――

   *

「あ」
 医務室を出た廊下で、真田龍子が待っていた。
 部屋にいたときは確認できなかったけれど、ボトムは七分丈のロングスパッツという、男性の情念を刺激するかっこうをしている。黒地の両側に入った細い白ラインは、内側にクイッと曲がっている。内股になっているからだ。
 彼女はパーカーの着つけを手で弄ったり、両足を揺らしたりして、何やらもじもじしている。
 ユリ。ウツロはその姿に、可憐に咲きほこる純白のユリを想起したのだった。
 ならばさしずめ、あの星川雅は血に飢えた真っ赤なバラか――
暖色の壁に真田龍子の姿が映えて、ウツロの鼓動が不規則になる。視線が合うことによって与えられる不思議な心の揺れ。彼はその正体がいったい何であるのかまた考えてしまった。
「ウツロくん、いいね。よく似合ってるよ、その服」
「そ、そうかな」
 評価されたことにどぎまぎして、ウツロもつられてパーカーの気つけを弄った。
 ちゃんと着こなせているのか心配だ。人の目が気になることなどこれがはじめてかもしれない。彼女の目にいまの自分がどう映っているのかが、思考回路を占有してしまう。
 こんな感じで2人がお互いに見つめ合っているものだから、南柾樹は昭和のラブコメディでも見せつけられているかのようで、いい加減うんざりしてきた。
「動けるなら放すぜ」
「わっ」
 突然支えがなくなって、ウツロはよろめいた。
「あっ、ウツロくん!」
 倒れるのではないかと焦った真田龍子が、反射的に体を受け止める。
「あ」
 今度は文字通り目と鼻の先で視線が合い、両者の鼓動は急激に加速した。
目を反らすことができない。2人は時が止まったように見つめ合った。そしてこの瞬間が永遠に続けばいいのにという願いを、それぞれの心で共有した。
 南柾樹は辟易している。まるで場違いじゃねえか。ピエロもいいとこだ。
 世界から置き去りにされたような状況が、彼に虚無感を煽ってやまなかった。ここは黙って消えるのが人情。南柾樹はその場を去ることにした。
「柾樹?」
「今日は飯当番だから俺。昼の支度しなきゃなー」
 呼び止めた真田龍子に会話の帳尻を合わせると――
「いっ!?」
「ごゆっくり」
 振り返り様にウツロの背中をポンと叩く。
南柾樹は翻したその手をズボンのポケットに突っ込むと、廊下の赤いカーペットをとぼとぼ歩いていった。タンクトップからのぞくその背中はいかにも切なそうだ。
 ウツロはポカンとして彼を見送った。
「妙な男だ。ねえ、真田さん」
「え? ああ、そうだね。ええと、何だっけ?」
「……?」
「あ、そうだ。ウツロくん、このアパートの中を案内するね」
「あ、そうか。そうだね、お願いします」
「か、肩貸すよ。まだ一人で歩くのはたいへんでしょ?」
「いや、この程度。隠里での鍛錬に比べればなんてことないよ。気を遣ってくれてありがとう、真田さん」
「え、そう? すごいね。じゃあゆっくりで大丈夫だから、順番に行ってみよう」
「真田さん」
「え?」
「顔が赤いよ?」
「えっ!?」
 ウツロが手を伸ばしてくる。華奢に見えるのに力強いその手が、しなやかな動きをもって。
 意外に大胆なんだな、この子――
「ひゃっ」
 手が額に触れる。ひんやりした感触に、思わず奇声を上げてしまった。
「熱はないみたいだね。風邪を引いているのかと心配したよ」
「……ああ、どうも」
 ウツロは真田龍子に特別な感情を持ってはいたけれど、それが何なのかは自分でもよくわかっていない。一方真田龍子は、ウツロの鉛のごとき鈍さについて思い知った。
 やはり認識の不一致とは恐ろしいものである――

   *

 ウツロのいた医務室は東向アパートの1階。方位でいうと南東に位置していた。
 廊下を出て西へ歩き、T字コーナーを曲がってさらに北へ歩くと、広いロビーに出る。洋館を改装したというだけあって、いかにもレトロな様式と装飾になっている。年代物とおぼしき大きな柱時計の振り子の音は、規則的ではあるが古風な響きで心が落ちついた。
秒針の動きはいかにも頼りなげで、いまにも止まってしまいそうだ。いや、時計は活動しているのだけれど、時間そのものは静止しているかのように感じられる。ウツロはこの空間についてそう思いを馳せたのだった。
 建物の全体はほぼ左右対称になっているらしく、出入口から見て両側に2階へ上がる階段がついている。外の世界を初めて体験するウツロではあったが、この建物はなぜか隠里への郷愁を満たしてくれて、それほど抵抗を感じなかった。
 窓から外をのぞきこんでみる。
 敷地は相当広いようで、さまざまな種類の花や樹木が植えられた庭園の遠くに門らしきものが見て取れる。その周りはツタが縦横無尽に絡まった白壁で囲まれていて、外界からの侵入を拒絶しているような雰囲気がある。美しいけれど、どこか人工的に見えるような。
 分厚いはめ込み式の窓は、強化されたくもりガラスのようである。
 『改装』か、なるほど。きっとまだまだ秘密があるのだろう。
 彼はそれを悟ったものの、真田龍子を煩わせまいと気づかないふりをした。
 やっぱり俺は閉じ込められ、つながれているんだ。隠里でも、ここでも。
 いや、おそらく世界のあらゆるところで――
 彼を閉ざしているのは他ならぬ彼の精神自体であるのだけれど、ウツロはそれを認識しつつ認めたくないというジレンマに苦しんでいるのだった。
 自由を欲する一方でつながれていたいという矛盾に。
 それはちょうど、牢獄の個室で何不自由ない暮らしをしたいというわがままにも似ていた。
「1階はこんなところかな。建物の北側の半分は食堂と厨房だね。いまごろ柾樹がお昼ご飯を作っている頃だから、楽しみにしてて」
「……あの男の昼餉か。悪いけれど、あまり食欲がわかないな」
「あはは。言っておくけど、柾樹の料理は絶品だよ? わたしの実家が食堂でさ。柾樹はバイトでよく来てくれるんだ。父ちゃんも認める確かな腕なんだよ?」
「真田さんのご実家、お食事処なんだね」
「うん。『竜虎飯店(りゅうこはんてん)』っていうところでね。なんでも亡くなったおじいちゃんが、本場中国で修業して開店したのが最初らしいんだ。わたしと虎太郎の名前もそこから取られてるってわけ。いまは父さんと母さんが切り盛りしてるけど、やっぱり将来はわたしが継ぐのかなーなんて。ま、虎太郎もいるしね」
「そうだったんだね。ご家族が、帰る家があるのはいいことだよ」
「……あ」
「あ、ごめん……また悲観的なことを言ってしまって。悪い癖なんだ」
「いやいや、いいんだよウツロくん」
「本当に優しいね、真田さんは」
 ウツロは窓辺に手を添えて外を眺めながらまた物思いに耽っている。
 彼はすでに、思索に耽溺しながら他人とのコミュニケーションも円滑に取るという、仙人のようなデュアルタスクを体得していた。彼の思考はその名の通り虚ろっているのである。それはさしずめ、水に映える月のように儚い存在なのかもしれない。
 ウツロの瞳は家族や帰る家、それを探しているようにも見える。しかしそれはまさに水面に映る月であって、永遠に掴むことはできないのではないか? 彼はこの世のいたるところで孤独なのだ。彼は世界に捨てられたのだ。
 真田龍子はその寂しそうな横顔を憂いた。いまは無理だとしても、いつか必ず――
「真田さんが継ぐとしたら、跡取りの男子がいないとね」
「ええっ!?」
 やにわに吐き出された言葉に彼女は仰天した。
「ど、どうしたの?」
「いえ、ごめん。何でもない」
 ウツロは不器用な少年だ。真田龍子は彼の鈍感さに少し疲れを感じてきた。
「そうか、南柾樹。あの男が真田さんのご実家を手伝っているのか。何という、こすずるい奴だ」
「……あはは」
 鈍いところと鋭いところのギャップがすごすぎる。彼女は御しがたいこの少年にかなり呆れたのだった。しかしとりあえずここは気を取り直す必要がある。
「じゃ、次は2階ね。2階はここの住人の部屋がほとんどなんだ。ウツロくんの部屋もちゃんと用意してあるから」
「え? あ、ありがとう。その、いいのかな? そこまでしてもらって?」
「これも何かの縁だからね。遠慮なんかしなくていいって。さ、上へ上がりましょう」
「……うん」
 正面左側の階段を登る。
 真田龍子はウツロに気をつかってゆっくりと歩いた。もしも体勢が不安定になったとき、すぐに支えられるように。手すりを掴ませて、よりそうように上階へと移動する。
 ウツロは階段を登りながら考えていた。
 このままでいいんだろうか? こんな状況になってしまって――
 少なくとも真田さんはよくしてくれるし、拘束されているようで自由さはある。でも俺は、それに甘えていていいのか? そもそもこんなことをしていてよいのだろうか。
 お師匠様もアクタも、無事なのだろうか? どこかで傷ついて、俺の帰りを待っていてくれているかもしれないのに――
 そこには漠然とした不安だけがあった。
 自分が裏切りを働いているのではないかという葛藤もある。
考えながら何の気なしに顔を上げると、階段を上がった右手に――、建物からすると2階の壁面ちょうど中心の位置に――、バカでかい額縁が飛びこんできた。
中にはなにやら絵が描かれているが、パッと見た感じ、どうやら地図のようだ。
「……あれは」
「あれ? ああ、朽木市の拡大図だよ。ちょっと見てみる?」
「うん。お願いするよ」
 2人は階段を上がりきったところで右に折れ、ほんの少し歩いて、くだんの巨大な額縁の前に立つ。布のキャンバスに油絵の具で描いてあるようだ。
ウツロはその絵地図が気になって凝視した。
「朽木市出身の画家さんが描いた絵らしいんだけど、わたしもよくわかんない。このアパートに最初から飾ってあったみたいだね」
 絵の内容は朽木市を簡略化したもののようだけれど、写実的かというと砕けているし、ポップかというと渋い感じで、カジュアルとフォーマルの折衷といった風情だ。その一方で、朽木という土地のエッセンスを凝縮しようと試みたようにも感じられる。
 ウツロは言葉もなく、その絵の隅々に視線を這わせている。
「いまわたしたちがいる蛮頭寺区は南西、つまり左下のこのブロックだね」
 真田龍子は右手をひょいとかざして、現在地をウツロに示してみせた。
 蛮頭寺区を基準とすると、時計回りに西の六車輪区(ろくしゃりんく)、北西の斑曲輪区(ぶちくるわく)、北の御石神区(みしゃくじく)、北東の美香星区(みかぼしく)、東の黒水(くろうずく)、南東の百色区(ひゃくしきく)、南の坊松区(ぼうのまつく)、最後に中心の朔良区(さくらく)と、都合9つのブロックに区切られている。
「この、朽木市というのは――、碁盤の目のようになっているんだね」
 ウツロはその絵地図をまじまじと眺めながら素朴な感想を述べた。
「お、気づいた? そうだね、朽木市のモデルは京の都なんだよ。朽木市民なら学校で習うんだけれど、室町時代に足利将軍家が京の都を真似てこの土地を開発したのが最初なんだ。戦国時代には北条家が拠点にしたり、江戸時代に入ってからは徳川家が西国ににらみを利かすために整備したり、歴史的には面白いところだね」
「そんな『いわれ』があるんだね。朽木市か。でも、これも世界から見ればほんの一部でしかないわけだよね?」
「え? うん、まあね。でもそれを言い出したら、地球の外はーとか、宇宙の果てはーとかって議論になっちゃうかもね。それともウツロくんはそういうのに興味があるのかな?」
「……よくわからないけれど、世界って何なんだろう? 世界という特定の主体が存在するのか、単なる概念の総体なのか――」
「ええ? うーん。難しい話だね。世界、か」
「あ、ごめん真田さん。また変なことを言ってしまって」
「いやいや。きっとウツロくんはすごく頭がいいんだよ。わたしは体育会系だからピンと来ないだけで」
「よくない癖なんだ。アクタもよく悪癖だって言ってた」
「アクタ、さんって、ウツロくんの大切な存在なんだよね? その、ご無事だと何よりだよ」
「真田さんは」
「え?」
「痛みのわかる人なんだね」
「あ」
「ありがとう。心配してくれて。何だか、真田さんと一緒にいるととても落ちつくんだ」
「……そんな風に、言ってくれるんだね。こっちこそありがとう。ウツロくんこそ、心根の優しい人だよ」
 ウツロと真田龍子は、お互いに顔を綻ばせた。何だかとても不思議な感じだ。
 この感情の正体はいっこうにわからないし、どうして彼女といるとその感情を持ってしまうのか? しかしそれは少なくとも、悪いものではないようだ。
 彼は顔を合わせているのが照れくさくなって、視線を反らす大義名分として、もう一度くだんの絵地図を見やった。自分の知る世界がどれほど狭いものだったのかを、こんな1枚の地図を眺めただけでも思い知らされる。
 世界。世界って何だろう? ウツロは絵地図に見入りながら、また思索を膨らませた。

「姉さん」
「虎太郎? どうした?」
「ちょっと、ちょっと」
 左手奥の方から真田虎太郎が姉を呼んでいる。
「虎太郎が何か用があるみたい。すぐ戻るからウツロくん、気兼ねしないでその辺をぶらぶらしててよ」
「うん、ありがとう真田さん」
「龍子でいいってば」
 真田龍子はほほえんで弟の方へ向かった。
ウツロは遠ざかっていく彼女の背中を見つめていた。
「……龍子、……真田龍子さん、か」
 何だろう、この不思議な感覚は? 胸もとが締めつけられるような……
 まだ出あったばかりだし、ほんの少し会話をした程度だ。
だけど何か、彼女のことが気になる。
 一緒にいて落ち着くのはアクタと同じだけれど、彼女の場合は何か……、アクタのときとは違う別な感覚が――
 わからない、でも何だろう? この感じ。
 苦しい。
悪い意味でじゃなく、彼女の存在を意識すると、何というか……心が洗われるような、解放されるような気持ちになる。
心地がいいのに苦しいと表現してしまうのは何でだろう?
わからない。
人間はやっぱり、難しい――

「ウツロくん」
 真田龍子に突然呼びかけられ、ウツロはハッとなった。
「虎太郎が君と話をしたいみたいなんだ」
「虎太郎くん、が?」
「部屋へ来てほしいって」
「え、ああ……」
「どうしたの?」
「え? いや、何でもないよ」
 冷静沈着だと思っているウツロであったが、彼女の前では馬脚をあらわしてしまう。
 それも含めて、人間とは不思議だなと思った。
「ほら。あの一番の奥の右側が虎太郎の部屋だよ。ちなみに左側はウツロくんの部屋ね。虎太郎と遊んでいる間に片づけておくから、任せといて」
「あ、ありがとう」
 ドアが開いて真田虎太郎がこちらへ手招きしている。
「こちらへどうぞ」
「ゆっくりしてきなよ。くれぐれも、遠慮なんてしないでね?」
「あ、うん。ありがとう。お邪魔させてもらいます」
「どうぞ、どうぞ」
「お邪魔します」
 ウツロは他人の領域に踏み入ることをためらったけれど、真田虎太郎の勧誘があまりにも軽いものだったから、勇んで彼の部屋へと入った。
 畳張りの和室。10帖ほどか。
 部屋を4分割したとき、上座の上座はベッドで占められている。
 その隣には木目調の本棚があり、中は書籍やCDで満たされている。
 あとはちゃぶ台を模したテーブルくらいか。
 そのテーブルの前後に座布団が対になって敷かれている。彼が用意してくれたのだろう。
「お客さんは上座へどうぞ」
「え、失礼じゃ?」
「どうぞ、どうぞ」
 真田虎太郎にいざなわれて、ウツロは上座側の座布団へと座った。
 ちゃぶ台の上には、陶器の皿に盛りつけられた茶色っぽいものが置いてある。甘く、いいにおいのする円盤状のものが2つ。
「これは、お菓子かな?」
「どら焼きというんです。どうぞ、お召し上がりください」
「あ、ありがとうございます」
 この子がまさか毒など盛るわけはないだろう。それに断るのは失礼だ。
 ウツロははじめて目にするその『どら焼き』を口に含んだ。
「……う」
「ウツロさん?」
「……おいしい」
「よ、よかったです」
 なんだろうこれは? ホクホクした柔らかい生地と、濃厚なこしあんが絡まって、口の中に無上の幸福をもたらす。あまりの美味に、ウツロはついほおばってしまった。
「こんなにうまい食べ物があるんだね」
「どら焼きとは、そういうものです」
「どら焼きか、まるで魔法のお菓子だね」
「ご一緒に麦茶もどうぞ」
「ど、どうも」
 行き届いたもてなしを受け、ウツロは恐縮した。
しかし、ただ食べているだけというのも違う気がする。ここは何か話を切りだそう。
「さっきはありがとう虎太郎くん。俺を守ってくれて」
「いえいえ、何にもです。柾樹さんは悪い人ではないので、嫌いにならないでください」
「ん、虎太郎くんがそう言うなら……」
 あの気に食わない男の一挙手一投足が脳裏をよぎる。
他ならぬ虎太郎くんがそう言うのならと、ウツロはとりあえずのみこむことにした。
実際は腹に据えかねているのだけれど。
 うーん、何か話題はないのか? 彼が考えあぐねていると――
「音楽、聴きましょう!」
 真田虎太郎は右手をひょいと上げてウツロを誘った。
「え、『音楽』かい? 俺はそんな難しいのわからないよ?」
「音楽は、難しくないです」
「……そう、なのかい? じゃあ聴こうか、音楽」
「聴きましょう、聴きましょう」
 真田虎太郎は本棚から1枚のCDとプレイヤーを取出してきた。
 プレイヤーをコンセントにつなぎ上部のトレイを開ける。
 ケースからCDを取り出すと、そこにセットして蓋を閉める。
 見たこともない道具の数々と一連の行動に、ウツロはただただ呆気に取られていた。
 自分は何も知らないんだな、という困惑を覚えた。
「グスタフ・マーラーという人の曲なんです」
「……はあ、……マーラー、……ですか」
 真田虎太郎は閉じたCDケースを両手でひょいと差し出した。

   グスタフ・マーラー 交響曲第7番ホ短調『夜の歌』

 裏面にはそう記述されている。
「こちらがマーラーの資料になります」
 彼はちゃぶ台の下から、もそもそとA4サイズのコピー用紙を取り出して、ウツロに手渡した。
紙面には作曲家の基本情報と、くだんの曲目を簡単に解説した内容が、パソコンで記述して印字してある。
 真田虎太郎が書籍やネットなどを参考として自分用に作成してあったものを、今回ウツロのために突貫工事でまとめなおしたものだった。
しかしそこには触れないところが、彼の謙虚な性格を物語っていた。

 グスタフ・マーラー
旧オーストリア領、現チェコ領の村カリシュト出身の指揮者、作曲家
 未完の作品も含め、番号付きの交響曲を10曲。ほか歌曲やカンタータなどを作曲。
 交響曲第7番ホ短調は、第2および第4楽章を作曲者マーラー自身が『夜曲(やきょく)』と呼んだことから、『夜の歌』と通称される。

「タイトルが気に入ったので、姉さんに買ってもらったんです」
 資料に目を通すウツロの思惑に、真田虎太郎はドキドキしている。
 一方、ウツロはチンプンカンプンだった。
 きっと、恐ろしく難解なものに違いない。せっかくの誘いではあるが、さて――
 彼は内心、どうしたものかと唸った。
「聴いてみましょう」
 戸惑う彼を尻目に、真田虎太郎はプレイヤーの再生スイッチを入れた。
 いったい何が飛び出すのかと、ウツロは息をのんだが――
 何かが聴こえる――、音だ。
何なのだこれは? この音の洪水は? これが音楽というものなのか?
静かな管弦楽がゆっくりとしたテンポで、しかし酷く重い戦慄を奏でている。
大太鼓のかすかな響きはまるで地鳴りか遠雷のようだ。
誰かが鋼鉄製の棺桶を引きずりながらとぼとぼと歩いていて、ときどき硬い地面にその端っこをこすりつけている――、そんな音楽だ。
しかしウツロの所感は違っていた。本質は同じでも表現が違うという意味であるが。
 森――、これは森だ。深く、暗い森。彼はそう感じたのだ。
テノール・ホルンの主題が陰鬱に鳴り響く。当然ウツロは楽器の名前など知るよしもない。
しかし聴覚へ働きかける情報から、彼は脳内でマーラーの精神構造を分析し、その表現しようとする映像をイメージする。
虫――、虫だ。この楽器が奏でる旋律は、まるで虫が這っているように聴こえる。
 つまりこれは、この音楽は――、暗い森の中を1匹の虫がさまようように這っているわけだ。
 それは――、まさに俺のことではないのか?
 お師匠様やアクタと切り離され、たった独りで森の中をさまよい、恐怖に怯えていた自分。
 いや、あのときの特定的な体験だけではない。もっと広い意味を含んでいるのではないか?
 自分の存在を疑い、その意義を手に入れようともがいている。
そんな俺の存在そのものにも当てはまるのではないか?
 ひいては人間そのものの存在について、いや――存在するとはどういうことなのかについて。
 その気になれば無限に一般化できる命題なのではないか?
 そうだ、これは音による命題なのだ。
マーラーという作曲家はきっと、音楽による哲学者なのだ。
思索を音楽に昇華し、またその音楽によって聴き手に問いかけているのではないのか?
われわれはいったい、何者であるのか――と。
なるほど、『夜の歌』とはよくいったものかもしれない。
『夜』とはメタファーであって、作曲者マーラーが存在そのものに対する懐疑を投影し、それを比喩として表現しているのではないだろうか? そしてそれは、決して明けることのない『夜』なのではないか? ウツロは音楽を鑑賞しながらこのように思索した。
この共感は能動ではなく、彼の思考回路とマーラーのそれがリンクしたことによる受動的な現象であった。鏡越しに自分自身と対話をしているような親和。
それはまさに『双方向に響き合う(シンフォニー)』以外の何物でもない。
音楽は次第に盛り上がっていく。
毒虫は打たれ、嘲笑され、喘ぎ、呻きながら、それでも果敢に突き進んでいく。
人生。これは人間の人生なのだ。
樹海の奥底に突然視界が開けて、巨大な花園が出現する。隠された天国の色香に誘われて、極彩色の蝶たちが群れ遊んでいるようだ。
ウツロはあの魔王桜がいた原を想起した。怪しくも美しかったあの場所を。
ここはマーラーが封印した楽園なのか?
ため息すら出す暇もない。彼はすっかり打ちのめされてしまった。人間の表現の力にだ。
 鑑賞した第一楽章は、時間にして30分程度だった、だが長さはまったく感じなかった。
 むしろずっと浸っていたい、永遠に音楽が終わらなければいいのに。ウツロはそう考えた。
 しかしながら、曲の結びには少なからず驚かされた。大団円に終わっていたからだ。
 マーラーは森に出口を見出したようだ。あの暗く深い森に。
 彼は愛読書である『リヴァイアサン』の備忘を思いだした。
 あの備忘者も、あるいはこのマーラーも、見出している。暗闇の中に光明を。
 俺は見出せるのか? 『人間論』に。
 暗黒に閉ざされた海を小舟で航るようなこの人生に、ともしびを――
 
 音楽が鳴りやんでからどのくらいたったのだろうか。
 真田虎太郎は黙っている。いや、『黙っていてくれている』のだ。
 彼は俺が何かに気づくのを待っているのだ。
 その気になれば、肉体が朽ち、躯となるまで待っているのかもしれない。
 ウツロはそんなことを考えて、おもむろに彼に語りかけた。
「虎太郎くんは、こんな難しい音楽がわかるんだね」
「いえいえ、ウツロさんのほうがよくわかるかなと思ったんです」
 ハッとした。やはりだ。
この子が俺にこの曲を聴かせたのは、そういう理由があったからなのか。
待てよ、ということは――
 この真田虎太郎という少年もまた、この音楽に深く暗い森を、その中を這う虫を、あるいはそれと等価な何かを見出しているというのか?
 たずねてみたい。
この少年ならもしかしたら、俺の問いかけに解答を与えられるのではないか?
ウツロにその衝動を抑えることはできなった。
「虎太郎くん、その……人間って何なんだろう? 俺は自分が人間ではない、おぞましい毒虫のような存在であるように思ってしまうんだ。でも、毒虫だって美しい蝶になりたい。毒虫ももし這いつづけるのなら、蝶になれるんだろうか?」
 ウツロの口から発せられた問いかけは、真田虎太郎によほどの衝撃を与えたようだ。
 姿勢はエビのように前のめりに反らせ、膝の上で握る拳は強さあまってズボンに食いこみ、全身を小刻みに震わせている。
 ジッとウツロを凝視していたかと思えば、眉間とまなじりがしわくちゃになるほど目をつむり、挙句の果てには目玉が飛び出るのではないかというほど眼孔を見開く。
 彼は何やら嗚咽するように唸りながら、その解答を必死で探しているようだった。
真田虎太郎の瞳孔が極限まで収れんしていく様子を垣間見て、さすがのウツロも慌てふためいた。このまま彼を放っておいてはいくらなんでもまずい。
「虎太郎くん、落ちついて」
 ウツロは焦りながらも真田虎太郎の力みを取り除こうと試みた。その一言に彼も何とかわれに返ったようである。
 息づかいは荒いが肩で深呼吸をし、必死で酸素を取りこもうと努力しているように見える。
「ごめん、変な質問をしてしまって」
 やっとのことで彼の吸気のリズムが落ちついてきたので、ウツロはとりあえず安堵した。
「すみません、悪い癖なんです。いろいろ考えちゃうのは」
 なんということだ、この子も俺と同じ苦しみを持っているんだ。
 自分だけではないという事実が、彼に安心を与える一方で、年齢の下である真田虎太郎が、やはり自分のように苦しまなければならないというある種の悲劇に、背負ってしまった宿命の残酷さを感じた。憂いに満たされたその心が、どんよりとした空のように曇ってくる。
「俺もよく言われるんだ。いらないことは考えるなって。考えちゃうものは仕方ないのにね」
 ウツロは少しうなだれる感じで言った。
 真田虎太郎はその告白に驚き、同じ苦しみを抱える者への共感を示した。
「ウツロさんも、考えちゃうんですか?」
「うん。考えすぎちゃって、つらくなることもあるんだ。ひょっとして、虎太郎くんもかい?」
「はい。頭の中が、ぐちゃぐちゃになっちゃうんです」
「……そうだったんだね。俺もなんだ。いろいろ考えちゃって、頭の中がぐちゃぐちゃになるんだよ。本当にごめんね、くだらないことをきいてしまって」
「いえいえ、何にもです。気にしないでください」
「優しいんだね、虎太郎くんは。こんなことをした俺なんかを気づかってくれて」
「ウツロさんはなんだか、他人とは思えないのです」
ウツロはまたハッとした。なんて強い子なんだろうか。
俺と同じ苦しみを抱えていながら、この強さはなんだ?
いま彼は、自分が苦しんでいながらも、俺のことを気にかけていてくれる。
それにどれほどの強い精神力を要するというのだろうか?
やっぱり自分のことしか考えていないのだ、俺は。
恥だ。恥ずかしい。俺はなんて狭量な存在なのだ。
姉にしても弟にしても、なんて慈愛に満ちあふれた存在なのだろう。
ウツロは真田姉弟への感謝と、自分への卑下が入りまじった精神状態の中で、うれしさともくやしさともつかない落涙を必死で隠したのだった。
「はっ、生意気なことを言ってしまいました。すみません」
「いやいや、とんでもない。うれしいよ。こんなに優しい言葉はないさ」
 ウツロはもっと話をしていたいと思いつつ、彼の領域を侵犯するのもほどほどにと考えて、キリのよいタイミングで退場しようとした。
「そろそろお邪魔するね。ありがとう、いろいろと教えてくれて。マーラー、面白かったよ。よかったら、あとでまた音楽を聴かせてくれないかな?」
「ぜひ、ぜひ」
 彼はおもむろに立ち上がって、改めて礼を述べると、部屋をあとにしようとした。
「あの、ウツロさん」
 真田虎太郎がふいに背後から話しかけた。
「蝶になることにではなく、這うことに意味があるのではないでしょうか?」
 ウツロは愕然とした。
 自分よりもずっと若い少年が、そよ風がほほを撫でるよりも優しく、そっと言い放ったその一言に。
 何なのだ? 何なのだ、この子は?
 蝶になることにではなく? 這うことに意味があるだって? 這うことにこそ意味がある?
 それは完成することにではなく、そこに至る過程にこそ、意味があるということではないのか?
 人間。
そうだ、人間の存在とはまさに……それではないのか?
 すごい。すごいぞ、この子は。
 あまりの衝撃に、ウツロは体を捻った状態で硬直してしまった。
何かまずいことを言ってしまったのかと、真田虎太郎の顔面にはまた脂汗がにじんできている。顔を見合わせたまま、しばらく2人は石化したように動けなかった。

「ウツロくん?」
「わっ」
「虎太郎も、どうかしたの?」
 半開きのドアの隙間から、真田龍子の首がにゅっとのぞいている。
口をすぼめてすっとぼけた顔面が突然現れたことにびっくりして、ウツロは酷く間の抜けたリアクションをしてしまった。彼女はヘンテコな表情で2人を交互に眺めた。
「いや、姉さん。ウツロさんとのお話が楽しくて、つい固まってしまったんです」
「え? そうなの?」
「うん、そうなんだ真田さん。虎太郎くんのしてくれるお話がとても面白くてね。はは」
「お、おう、よかったよ。やるじゃん、2人とも」
「ははは、何にもです」
 真田虎太郎のナイスフォローによって、とりあえずなんとか事なきを得た。
 同時にウツロの張りつめた心も、風船の空気が抜けるように解放されたのであった。
「ウツロくん、部屋の用意が整ったから、ちょっと確認してほしいんだけれど――」
「え? あ、ありがとう真田さん。じゃ、虎太郎くん、そういうことで。充実した時間をありがとうね」
「いえいえ、どういたしまして。ははは」
「……変なの」
変なのは君の顔だよと、2人はのどまで出かかっていたが、真田龍子の登場もまたナイスタイミングには違いなかったので、そこは何も触れず、彼女の誘導に従うことにした。
「さ、ウツロくん」
「う、うん。じゃあ虎太郎くん、お邪魔しました」
「また、いつでもいらしてください」
 ウツロがドアを閉めきるまで、真田虎太郎はひらひらと手を振っていた。

「さ、ウツロくん。ここがあなたの『お城』だよ」
「『お城』か。一国一城の主みたいだね」
 真田虎太郎の部屋を退室して回れ右し、真田龍子が自分のために整えておいてくれたという、向かいの部屋の前に立ったウツロは、少なからず緊張していた。
 しかしそんな彼を尻目に、彼女はきびきびと勢いよく、そのドアを開け放った。
「うお」
 畳張りの和室。広さは12帖。角部屋。ここまでは真田虎太郎の部屋と同じ条件だ。
 しかし彼の部屋が北向きだったのに対し、向かい合うこの部屋は南向きだから、立地としては最高だ。
 その証拠に、南側のベランダの窓からは、南中直前の力強い太陽光が、これでもかといわんばかりに降り注いでいる。また、半分開け放たれたその窓のレースのカーテンは、そよ風にひらひらと舞い遊んでいた。
「ちょっと外の風に当たってみない?」
「うん、そうだね」
 ベランダは簡単なウッドデッキになっていた。
 ウツロはつい、わくわくしてしまい、はしゃぎたくなる気持ちを抑えて、前に出た。
「わあ……」
 街、街が見える。
 これが夢にまで見た外の世界、すなわち人間の世界なのか――
「すごい……これが、街なのか……」
 視線の奥には相模湾の水平線が横たわっている。
 目の良いウツロには、海の波がのんびり揺れる様子や、その上を行き交う何艘かの船、また水面のきらめきなどが見て取れた。
「あれが、海なのか……なんて、きれいなんだろう……」
 視界に入る光景、そのすべてが彼には新鮮だった。
 なんという広さ、大きさ、この解放感。
 その眼がにじんでくるのに、時間は要らなかった。
「これが、世界……なのか、なんて美しい……」
「ウツロくん?」
「あ、ごめん、真田さん。あんまりきれいで……」
「……大丈夫? いったん中に戻ろうか?」
 涙ぐんでいるウツロを横目に見た真田龍子は、彼はもしかしてまた苦しんでいるのかと心配になり、恐る恐る声をかけた。
「いや、いいんだ……つい、感動しちゃって。もう少しだけ、見ていてもいいかな?」
「……うん、全然大丈夫だから。好きなだけ眺めてごらんよ」
「ありがとう、真田さん」
 彼女はおもんぱかって余りあった。
 この少年の心中やいかばかりであろうか?
 真田龍子は隣で涙を流すウツロを――たかがベランダから外の景色を眺めるという、ありふれた行為に、これほどの感慨に耽るこの純真無垢な少年の横顔に、彼の全人生を投影し、それを如実に物語るその姿に、自分自身も落涙を禁じ得なかった。
 ウツロもまた、思索をすることが止まらなかった。
 初めて目撃した外の世界。
 この光景を前にして、俺のつまらない考えなど、こんな存在など、どんなにちっぽけなものであるのか。
 アクタにも見せてやりたい、可能であるならば、いますぐにでも教えてやりたい――世界とは、こんなにも美しいものなのだと――
 2人はしばらくの間、ベランダの桟に両手を添えて、よりそうように並んで、その広大なパノラマに見入っていた。

「あ、真田さん、ごめん。俺……もう、大丈夫だから」
「もっと見ていてもいいんだよ?」
「いや、情報の量が多くてね……これじゃ整理しきれないよ。ちょっと中へ入って、落ちつきたいんだ」
「それなら……じゃ、中、行こうか」
 本音を言えばもっと見ていたかったのだけれど、視界に入ってくる情報量が多すぎるというのは事実だったし、なによりいつまでもこうしていては彼女に迷惑だろう。
 そんなウツロの気づかいだった。
 2人はまた回れ右して、初めは通過しただけの部屋の中へと戻った。
「ベッドの用意が間に合わなくて、とりあえず布団で我慢してくれないかな?」
 上座の上座には、キッチリとたたまれた布団など寝具一式が置かれていた。
「いやいや、ベッドなんて性に合わないから、布団で大丈夫だよ。寝床をいただけるだけでありがたいんだから」
 真田龍子の心づくしを受けて、ウツロの内心、感謝の気持ちでいっぱいだった。
「もう、ほんとに謙虚だよね。「この家は俺がもらう」くらいのほうがかっこいいのに」
「……それは、さすがに。こればっかりは性格なんだ、ごめん」
「そこがウツロくんのいいところだもんね」
「……え?」
「えっ? いや、何でもないよ。さ、テーブルと座布団もあるから、ゆっくりしててね」
「……本当に、ありがとう」
 さりげないほめ言葉ではあったが、ウツロが食い下がるのではないかと懸念した真田龍子は、とっさの判断でそれを牽制した。とりあえず彼は気付いていない。
「お昼ができたら呼びに来るから、それまでくつろいでて。寝っ転がってもいいし、さっきみたいに景色を眺めててもいいから」
「うん、そうさせてもらうよ。感謝するよ、真田さん」
 ウツロとしては心からの敬意を伝えたいのであるけれど、真田龍子にとっては同じことを何度も言われるのがちょっと、うっとうしくなってきた。
 これも認識の不一致である。
「もう、ここはウツロくんの部屋なんだから。何をしようとウツロくんの自由なんだからね? はい、堂々とする、男子!」
 張り手のような勢いで、背中を2、3度、パンパンと叩かれる。
「いっ、いつつ……」
「あっ、ああ、ごめんウツロくん。わたしったらそそっかしいから、つい」
「あはは……」
 南柾樹といい、彼女といい、どうして自分はこうも、つっけんどんに当たられるのかと、ウツロは軽い理不尽を感じた。
 しかしこれもやはり、認識の不一致なのであった。
「じゃ、ウツロくん。禁物なのは遠慮だよ?」
「うん、真田さん。ゆっくりしてるよ」
 ウツロは独り、部屋の中に残された。
 文明から隔絶された山奥の隠れ里で育った彼には、時間にしてたかだか数時間の体験であったが、与えられる情報の量が確かに、あまりにも多すぎた。
 頭がくらくらして思考の整理がおぼつかない。ただでさえ短い時間に、賊との戦闘や魔王桜の悪夢に見舞われていたのだから。
 とりあえず座布団を敷いてその上に座り、じっくり思考を整理しようと試みた。
 こうなれば思索のスイッチが入るのは必定であろう。
 ウツロは抜きたくもない伝家の宝刀を、ごくごく自然に抜きはじめた。

 俺はいま、夢を見ているんじゃないだろうか?
 あのとき、あの恐ろしい魔王桜に出会ったとき、俺はすでに死んでいて、いま体験していることは、彼岸での出来事なのではないだろうか?
 お師匠様、アクタ……会いたい――
 2人は無事なのだろうか? いや、無事でなければ駄目なのだ。
 あの2人に何か起こるだなんて、とうてい俺には耐えられない。
 どうか、無事でいてくれ……
 いや、待てよ。
 もし俺が本当に死んでいて、2人が存命であるのならば、俺たちは永遠に会えないことになる。いっそ、そのほうがよいのか? でも、会いたい。くそっ、何なんだ、このトンチ問答は? 循環論法にはまってしまいそうだ。落ちつけ、違うことを考えよう。ふう。

 真田虎太郎くん。
 俺は心のどこかで彼を見下していたのではないのか?
こんな子どもに何がわかるのかと。
 しかし、あの子は確かに答えた。問いかけるという形で。
 蝶になることにではなく、這うことに意味があるのではないか、と。
 這うこと、這いつづけること、か。
 それが人間という存在なのではないか?
 蝶になれたら、そのあとには何があるというのか?
 這うことに意味があるという命題は真ではないのか?
 俺は耐えられるのだろうか? 毒虫として這いつづけることに――

 南柾樹。
 なぜ俺は、あの男にアクタを重ねたのか?
 あんなうさんくさい、いけ好かない奴に。
 気に入らない、あの男のすべてが、その存在が――
 待て、落ちつけ。
 存在を否定してはいけない、それだけはダメだ。
 どんな存在にも他の存在を否定する権利などないはずだ。
 いまの俺は冷静ではない、とりあえず落ちつくんだ。
 彼にはどこか、『影』のようなものがあった、確かにそれを感じた。
 そこに何か、アクタが重なった秘密があるのかもしれない。

 星川雅。
 彼女は魔物だ。
 おそらく内面は、あの表面以上に――
 決して立ち入ってはならない領域が、彼女の中にはある。
 立ち入れば、あるいは――
 あの女からは、聴きださねばならないことが、山のようにある。
 魔王桜、アルトラ、そしていま、俺を閉じこめるこの空間。
 その元締めである組織の正体とは、いったい?
 ただでさえ混乱しているのに、さらに情報を集める必要があるのか。
 くそっ、もどかしい。

 そして、真田さん。真田、龍子さん。
 真田さん、真田さん……ん、なんなんだ? この感覚は。
 頭の中が、真田さんでいっぱいになる。
 彼女の容姿が、その優しさが、俺の心を埋め尽くす。
 なんだか、変だ、俺。なんなんだ、これ。
 体がほてってくる、熱い。
 心が、満たされてくる、ああ……
 わからない、わからないが、これは――
 真田さん、真田さん……龍子――
 ……人間は、難しい……はあ……

 こんな風にして、ウツロはしばし、思索に耽った。

   *

「ウツロくん」
 いくらか時間が経ち、ノックの音に続いて、ドア越しに真田龍子の声が聞こえた。
ウツロは部屋の中で、顔をそちらのほうへ向けた。
「はい」
 もっとも人の気配は感じ取っていたから、返事をする『準備』はしていたのだけれど。
「入っていいかな?」
「……どうぞ」
 ドアが少し開いて、その隙間から彼女がひょいと顔を覗かせた。
ノブが捻られる独特の人工的な音も、山で育ったウツロにはまだ不思議な響きに感じられた。
「昼食の用意ができたから、食堂に来てほしいんだ。わたしが案内するから」
「……うん、ありがとう」
「体調は大丈夫? 少しは落ちついたかな?」
「すっかり回復してきたよ。もうピンピンさ」
「そう、よかった。でも、しばらくは絶対安静にね? 何か困ったことがあったら、遠慮なく言っていいから」
「……本当に、ありがとう、真田さん。こんなによくしてくれて」
「謙虚だなー。もっと堂々とふるまっていいんだよ? ほら、わたしみたいにさ」
「え、ああ……」
「そんなんじゃ女子にモテないよ?」
「え? どういうこと?」
 はずみで言ったに過ぎなかったが、ウツロが食い下がってしまったので、真田龍子は慌てた。
 彼は言葉の意味に納得する解答を求めている表情だ。
 真田龍子は「しまった」と思い、考えをめぐらせた。
「えー、あー、その……、あんまりこだわりすぎると、答えのほうが逃げちゃうよ、ってことかなー……?」
 彼女は相当苦しい言い訳をした。つもりだったが――
 ウツロはなにやら目を丸くして硬直している。
「……ウツロ、くん?」
「……なるほど。『人間論』に固執しすぎると、その解答は逆に遠ざかる。逆説的だけれど、真理の持つ本質から鑑みれば理にかなっている。そう言いたいんだね、真田さん!?」
「え、あー、まあね……」
「すごい、すごいよ、真田さん! ぜひ真田さんとゆっくり議論したい! 一緒に『人間論』を完成させよう!」
「……あははー」
 何度でも言おう。ウツロはあまりにも純粋なのである。いったい何者が彼を責められようか?
 彼女はそれをすっかり理解して、今後はじゅうぶんに気をつけなければと、肝に銘じたのだった――

   *

「うお」
 ウツロが真田龍子の案内で食堂へ入ったとき、嗅覚をくすぐる、いかにもおいしそうな食事のにおいに、彼は思わず唸ってしまった。
 レトロな内装はこの洋館に相応であるが、広い空間に木製の大きなテーブルと椅子の列、入って正面の北側に位置するテラスからは庭が見え、開け放たれた窓からはそよ風が時折入り込んでくる。
 ウッドデッキの奥には、くだんのツタの絡まった白壁がそびえているから、そこより外の様子はうかがい知れないが――
「おう、座れや。メシの用意はできてるぜ」
 タンクトップの上にベージュのエプロンを着込んだ南柾樹が、配膳をしながらウツロに声をかけた。慣れた手付きで料理を並べる彼に、ただならないミスマッチを感じたウツロは、足を止めて、その姿を呆然と眺めていた。
「ウツロさん、どうぞどうぞ。こちらへお座りください」
 真田虎太郎が気をきかせて、ひょいひょいと手招きした。
「ああ、どうも……」
 彼はウツロを一番手前の、外の景色がよく見える席へと案内した。
テラスに広がる風景は、洋の中に和を取り入れた、モダンな雰囲気だ。それなりの大きさの池には、彩色豊かな錦鯉が数尾泳いでいて、苔むした岩や、ぐにゃりと曲がった松などが、玉砂利を芸術的に敷いた中にすっぽりと収まっている。
 やはり人工的――ウツロはそう思った。
 これが人間の世界なのだ。この庭園のように、自然さえも自分たちの思う通りに、そして思うままに作り変えてしまう。虚飾だ――人間の世界は、虚飾に塗れている。あるいは、そこに暮らす人間そのものまでも――彼はそんな風に思索した。
 隠れ里にも似た風景があったが、まさに似て非なるもの。そのおぞましい本性を、加工した仮面ですっかり、隠してあるのだ。吐き気を催すけばけばしさ。けれど自分もすぐに、この庭のように作り変えられてしまうのか? 仮面を被せられ、人形のようにされてしまうというのか?
たかが風景の一つに、ウツロの思索は止まらないのであった。
「まあ座りなよ、ウツロくん」
 真田虎太郎が指定した席から見て左向かいの席に、星川雅がすでに座っていた。彼女は例によりすました態度で、またも見透かすようにウツロに話しかけた。
「おなか減ってるでしょ? 早いところいただきましょう」
 両手を組んだ中に、あの薄気味悪い笑みが隠されている。
 食われるのはこの料理ではなく、俺なのではないか? この女こそ、もののけの類で、このまま俺を引き裂いて、食い殺そうというのではないだろうか?
 ウツロの心配は考えすぎにすぎるけれど、星川雅から相変わらず放たれる妖気は、その焦燥が決して思い込みではないという、名状しがたい得体の知れなさを持っていた。
「失礼、します……」
 恐縮しながらも彼は、せっかくの招きであるからと思い、いそいそとその席へ腰かけた。
 星川雅は例によって、観察するような視線をウツロに送っている。しかしほかのメンバーもいるという状況を鑑みて、彼はあえて、その点には突っこまなかった。
 それよりも、眼下の料理が気になる、というのもあったが――
「柾樹、本日のお品書きは?」
 執事に対する主人のように、星川雅は問いかけた。その態度が相変わらず、ウツロには気がかりだったが、南柾樹は慣れた様子で答えを返す。
「まず、テーマは和洋中のコラボ。肉は『和』、魚は『洋』、スープは『中華』だ。順番に、『鶏肉のトコトン蒸し』。ブロイラーをネギと一緒に、岩塩で固めて、オーブンでその名のとおり、トコトン蒸してある。ネギの甘みが、うまい具合にしみこんでるはずだ。次に『シタビラメのムニエル』。スパイスはバジルと塩コショウ。ソースはマヨネーズとトンカツソースを、俺なりのパーセンテージで配合。隠し味に七味も入れてある。添えてあるネギとあわせて食ってくれ。で、タマゴとワカメのスープ。ネギも刻んで入れてある。お冷とライスはおかわり自由だから、さ、召しあがれ」
 芝居の台本のようなセリフを、造作もないと言わんがばかりに、抑揚をつけて彼はそらんじた。
 ウツロには、にわかに信じられなかった。こんな見事な料理が、このようなガサツな男の手で、生みだすことができるものなのか? 人は見かけによらない、と言っては失礼だけれど……いや待て、判断は味を見てからだ。良いのは表層だけで、酷く、まずいのかもしれない。人間なんてそんなものだ。人間の作る食事とてそんなものだ。
 ウツロは豪勢な卓上のフルコースを前に、南柾樹という男への疑念から、しかめ面してのにらめっこに余念がなかった。
「……本当に、お前が作ったのか……?」
 思わず例を欠く質問をした彼に、南柾樹はさすがに不機嫌になった。
「『お前』じゃねえ、南柾樹だ。そんなに信じらんねーの?」
 見かけで判断する行為は、本来ウツロも嫌うのだが、こればかりはというが本音である。
「……毒は」
「入れるわけねえだろ! どんだけ信用ねえんだよ!」
 自分はいったいどんな目で見られているのか?
 基本的に考えるのは面倒くさい南柾樹だが、そこまで言われては反論もしないわけにはいかなかった。二人は小憎らしい表情をお互いにぶつけ、嫌悪のツーカーをした。彼ら以外の面々は、すっかり呆れ果てている。
「はいはい、お二方。せっかくの料理が冷めちゃうでしょ? それとも目から火花でも散らして温める気? みんなお腹が減ってるんだから、早くいただきましょう」
 業を煮やした星川雅が、ため息を散らしながら、「いい加減にしてよ」という意図を伝える。
「雅の言う通りだよ、二人とも。ケンカもいいけど、お腹をいっぱいにしてからお願いね?」
 さすがの真田龍子もうんざりして、食事の開始を促した。
「ウツロさん、柾樹さん。戦をするなら、お腹を満たしてからにしましょう」
 表現こそ奇妙だったけれど、真田虎太郎も同様に、いがみ合っている二人をいさめた。
「お、おう。そうだな」
「ご、ごめん。俺としたことが、冷静さを欠いていたよ」
「けっ、話は飯を食ってからだ」
「ふん、望むところだ」
 これではまるで漫画である。残る三人はもはや、言葉を発する気にすら、なれなかった。

   *

「うまい……」
 料理を口に含んで数回咀嚼したところで、ウツロは衝撃を受けた。箸を持つ手が硬直する。
 ブロイラーと一緒に固めた岩塩の中で、トコトン蒸されたネギから溶け出す甘み。極限まで凝縮されたその旨みの成分が、彼の口内で奇跡の化学反応を起こす。
 なんだこれは? 舌に絡みついてくる……液体とも固体ともつかない汁が、俺の味覚を蕩けさす。ネギの甘みと、塩の辛みが、ほどよく融合し、噛めば噛むほど、飽和する。
 ウツロはわれを忘れて、その美味を文字通り、噛み締めた。
舌が嫌悪を感じるギリギリの熱さ。味わうほどにそれが鼻から抜けていき、味覚だけでなく、嗅覚をも刺激し、形容できない至福をもたらす。ああ、幸せだ。こんなに幸せで、いいんだろうか?
「……悔しいけれど、おいしいよ、その……『柾樹』……」
「やっと名前、呼んでくれたな、ウツロくん?」
「……」
屈辱だ……だが、俺の負けだ、完全に。
この男、南柾樹の腕は確かだ。俺を、料理で……その味で黙らせた。俺は屈服したんだ。
隠れ里での生活で、飯を作るなど日常茶飯事だった。自分で言うのもなんだけれど、自信があった。アクタもお師匠様も、俺の作る飯が一番うまいと言ってくれた。俺自身、調理の腕には覚えがあるほうだと思っていた。だが、これは……
南柾樹――この男の作る飯は、なんてうまいんだ……言葉などではとうてい表現できない。ただ、『口福』であるとしか言えない。
くそっ、なんでだ。なぜこんな男に、こんなうまい飯が作れるんだ? 理解の範疇を、遥かに超えている。
人を見かけで判断してはならない。それはわかる、重々わかる。だが、いくらなんでもこれは、この落差はなんだ? くそ、忌々しい。うますぎる、こいつの料理は。手が止まらない。箸ごとかじってしまいそうだ。いっそ皿までしゃぶりつきたい。くそっ、うまい、うますぎる――
「おいおい、ゆっくり食えって。飯がのどに詰まっちまうぜ」
「うっ!?」
 ハッとして周囲を見回す。
 一同が料理にがっつくウツロの姿を、ポッカリ口を開いて見つめている。
 し、しまった――
 俺としたことが、あまりのうまさに……
 はっ、まさか……これもこの男の策略なのか? 俺に料理を貪らせ、その醜態を衆目の場に晒させることで、俺に恥をかかせ、精神的に追い詰めるという、作戦だな? おのれ南柾樹、やはり、狡猾なやつだ――!
「……仕込んだな? 南柾――」
「お、おい!」
「ウツロさん!」
「ちょっと、ウツロくん! 大丈夫!?」
 料理がのどに詰まった。
 外見も内面も一見クールな彼であるが、気道を塞いだ『ネギ』を必死に吐き出そうと、咳き込んだり胸元を殴打するその姿は、はっきり言って、『バカ丸出し』である。
「はー、あ……」
「うっ!?」
 深くため息をついたあと、星川雅が的確な位置に『当て身』を入れ、ウツロの口からそれは立派な『ネギ』が吐き出された。
「いっ!?」
 『食事』から『吐瀉物』に変化したそれは、真向かいに座っている真田龍子の眉間を、したたかに打った。
「おい、龍子っ! バカか、てめえっ!」
 白目をむいて泡を吹いた真田龍子。南柾樹は唾を飛ばして、ウツロを叱責した。
「姉さん! しっかり!」
 椅子から崩れかかった姉を、真田虎太郎はがんばって押さえている。
「ウツロくん、あとでゆっくり、お話ししましょうか?」
 引きつった笑顔を、星川雅は目の前の『バカ』に向けた。
「す、すみません……」
 ウツロはすっかり恐縮して、彼女が真田龍子を処置するのを、縮こまりながら待っていた。地獄の時間である。南柾樹、真田虎太郎両名は、ジトッとした視線を、余すことなくこの愉快な少年に送り続けた。
 終わった……俺もここまでか……
 『人間』なるどころではない。これでは、道化役者のほうがよっぽど高級だ。
 それよりも何よりも、ああ……真田さんに、嫌われる……
 彼の全身は鳥肌と脂汗で満たされた。がんばれウツロ、負けるなウツロ。千里の道も一歩からだ。だが、『人間』までの道のりは、果てしなく、遠い――

   *

「あの」
 くだんの『騒動』で、一同はしばらく沈黙して食事を口に運んでいたが、それを破ってささやくように、ウツロが声を上げた。
「どうしたの?」
 眉間の湿布を押さえながら、真田龍子が返答した。
「ちょっと、聞いてもいいかな?」
「なんかあるのか?」
 恐る恐るな雰囲気の要求に、箸を戻して南柾樹が聞き返した。
「その、わからないことが、あまりにも多すぎて。魔王桜とか、アルトラとか、みんなが所属する組織とか」
 こんなことをこんな場で、聞いてもいいものかと、ウツロは躊躇していたのだけれど、疑問は解消しておきたいのが本音である。それに、好奇心も少なからずある。
 ウツロを囲む面々は押し黙っている。「やはり、まずかったか?」とウツロは思ったが、そんな彼を察してか、星川雅が両手を膝に添えて、口火を切った。
「そういえば確かに、具体的なことは何も話してなかったね。フェアーじゃないし、これからのことも考えて、話しておこうか」
「うん、頼むよ」
 彼女の言い方はいくらか含みがあったけれど、ウツロは真摯な態度で応じた。
「順番に行こうか。まず、魔王桜とアルトラのこと。いったい何の目的で、魔王桜がアルトラを『植え付ける』のか、また何を基準に『植え付けられる』者が選ばれるのか――それはわからない。少なくとも、『私たち』にはね。ただ、アルトラが発動する仕組みは、ほぼ解明されているそうだよ。『種』だね。魔王桜は、人間の脳の中の、原始的な記憶を司る器官に、『種』のような細胞を『植え付ける』らしい。それがまるで『発芽』するように、アルトラに目覚めるってわけ」
「『種』、か。魔王桜はいったい、何を考えているんだろうか」
「『考えている』ってところがそもそも、違うのかもしれないよ? 何かしらの『条件』を満たす者の前に、機械的に現れている可能性だってある。魔王桜の正体自体が謎だしね。人間とは違う知的生命体なのか、その見た目のまんま妖怪なんてのもナンセンスだし、いずれにせよ、ファンタジーの世界だよね」
「『全員』、アルトラ使いだと、言っていたけれど」
 空気を読まないウツロの質問に、一同はギョッとした顔つきになった。彼としても触れるべきか、かなり迷ったのだけれど、毒食わば皿までである。
「『異能力』というのはおそらく、個体差があると推理するんだけれど、実際はどうなのかな?」
「なんだか、尋問されてるみてえだな」
「まあ、柾樹」
「すまない、他意はないんだ」
 不快感をあらわにした南柾樹を、真田龍子がいさめたので、ウツロは少し、妥協してみせた。場の雰囲気をおもんぱかった星川雅が、すかさず続きを切り出す。
「それは、おいおいね。ただその時が来るまでは見せられない。君もいずれ、嫌でも知ることになるはずだけれど、アルトラっていうのは、その人間の『精神の投影』なんだ。アルトラを見せるってことは、自分の心を外部にさらけ出すようなもの。賢い君なら、言いたいことをくんでくれるよね、ウツロくん?」
 アルトラは『精神の投影』――なるほど、『異能力』とはよくいったものだ。それはきっと、『強み』であると同時に『弱み』でもあるのだろう。まだまだ謎は多い。だが、この場はこれ以上、彼らの起源を損ねるべきではない。少し問題の方向性を変えてみよう。
「俺も、なったということだけれど、その、アルトラ使いに。まだ、全然わからないんだ。何かしらの不思議な能力が宿った、という感覚なんてないし」
 同じ内容ではあるけれど、ベクトルの向きを変えるように、ウツロは質問の仕方を変化させてみた。
「最初はみんなそうだよ。何かの拍子にドヒャーッと出てきてさ、そのときはさすがに焦ったけれど――」
「龍子、しゃべりすぎだぜ。俺らはまだ、お前のことを信用したわけじゃないんだからな、『ウツロくん』?」
 はずみで答えた真田龍子を、南柾樹はすぐさま牽制した。その態度に、今度はウツロが不快になった。
「俺だってそうだ、『南柾樹』。やはり、むしずの走る男だ」
「ああ? もういっぺん、ドンパチやらかしてえのか?」
「お前がその気ならな」
「はいはい、そこまで! ったく、なんで男ってこう、ケンカっぱやいんだろうね。何度も言うけれど、ウツロくん。ねじ伏せるのなんてわけない、でも、私たちはそれをしていない。この意味を理解してほしいな」
 いきり立った二人を、いったい何度目になるのか、星川雅が収めた。どうにも相性の悪い彼らに、さすがの彼女もイライラしてきた。
「止めるな雅。こいつの減らず口を止めてやるんだ」
「貴様こそ、灸を据えてやる」
「あらら、ウツロくん。本当に『黙らせる』ことになるよ?」
「みんな、落ち着いて!」
 真田龍子が必死に場を収めようとするが、三人は意に介していない。もうダメだ――彼女がそう思ったとき――

   ぶうううーっ

 真田虎太郎が、壮大な『おなら』をかました。一同はあ然として、彼のほうを見やった。
「す、すみません。今朝からおなかの調子が、悪かったもので」
「くさ! 虎太郎! あんたのおなら、臭すぎ! せっかくのお料理がまずくなるでしょ!」
「ははは、何ともすみません」
 苦笑いをしながら、真田虎太郎は後頭部をすりすりと撫でている。
 ウツロは気付いた。『ワザと』だ。虎太郎くんはワザと、この場を調停するため、こんな行為に及んだんだ。なんという機転、判断力と行動力。やはり、ただものではないぞ、この子は。そして、真田さん。彼女もワザと、弟を叱った。なんというコンビネーション。それはきっと、この姉弟の絆の深さを、如実に物語っているのだろう。なんてことをしてしまったんだ俺は。恥ずかしい――
「くせえ! 虎太郎! バカ、こっちによこすな!」
 ひらひらと手を振って、真田虎太郎はにおいを散らそうとしたが、これでは拡散するだけである。南柾樹は鼻を押さえながら、顔を背けた。
「虎太郎くん、あとでお薬をあげるから。ああ、もう」
 星川雅も鼻から下に手を添えて隠した。ウツロはまた気付いた。
 虎太郎くんが作った流れに、みんなが『乗って』いる。なんなんだこれは? おそらく、長い間一緒に暮らしているのだろうが、これが人間の絆の力なのか? わからない、俺にはまだ――
「さあさあ、みなさん。おいしい料理が冷めてしまいます。いただきましょう、いただきましょう」
 四人は何事もなかったかのように、食事を再開した。ウツロは眼下の澄んだスープに映る自分の顔を眺めながら、おのが浅ましさを恥じたのだった――

   *

「こんなにおいしいものが、存在するんだね」
「お前どんだけ好きなんだよ、『存在』」
「『存在』、大事です……!」
「なんだよ虎太郎、こいつのこと気に入ったのか?」
「ウツロさんは、いい人です……!」
 真田虎太郎、ウツロをかばうように、真田虎太郎は、南柾樹に詰め寄った。
 昼食もすっかり終盤。食卓を鮮やかに彩っていた豪華な料理は、余すところなく、五人の少年少女の胃袋に収まった。テーブルの上には、後は洗うだけとなった食器の山ができあがっている。
「ふう……」
 ウツロは満足だった――心の底から。うまい飯と、最初こそぎこちなかったが、後半はそれなりに打ち解けて、会話を楽しむことができた。それだけに、あんな態度を取ってしまった自分が恥ずかしかった。
『人間』に対する漠然とした憎悪を、ウツロはかねてから持っていた。しかしそれが、いかに曖昧な感情であったかを、思い知らされた。
こんなにいい人たちじゃないか。『人間』――それがどういうことかは、まだわからない。でも、この人たちといると、気持ちが安らぐ。コミュニケーション、というのか。独りで思索に耽っているよりも、こっちのほうが楽しいかもしれない。きっと俺の見ていた世界は、あまりにも狭すぎたんだ。彼はそう考えた。
「ごちそうさま。うまかったよ、柾樹」
「お気に召して、なによりだぜ」
「さっきはごめん、あんな態度を取ってしまって」
「気にすんなよ。過ぎたことだろ? いらねえことは考えんなって。うまい飯でハッピーになって、それでいいじゃねえか」
「あ……」
 なんだろう、この感覚は……前にも感じたことのあるような……そうだ、アクタだ。アクタはいつも、こんな風に俺を、気遣ってくれていた。南柾樹、この男もそうなのか? だから俺は、こいつにアクタを重ねたのか? いや、それなら、真田さんや虎太郎くんだって……そうか、もしかすると、これが『人間』の本質なのか? 俺は『人間』を、おしなべて『悪い存在』だとばかり思っていたけれど、それは思い込みに過ぎなかったのかもしれない。うーん、難しい……まだ全然わからない。なんて難しいんだ、『人間』は――
「おーい?」
「え?」
「まーた難しいこと、考えてんだろ?」
 まだ出会ったばかりではあるけれど、ウツロの思索癖はすでに、悟られていた。
「パッパラパーになっちまえよ?」
 こういった手合いの対処法は、南柾樹は感覚的に心得ている。彼は軽いノリで、ウツロをいなしてみせた。
「パッパラパーか、うーん」
 やはりアクタと似ている、本質的なところが――
 俺は深く考えているようで、実は物事の表層しか見ていないのではないか? うーむ、反省しなければ……
「ウツロさんがパッパラパーなら、僕はさしずめ、『デビルズ・クソムーチョ』でしょうか?」
「なんだよそれ? わけわかんねーよ」
「いくらなんでも卑下しすぎだよ、虎太郎」
「『ヒゲヒゲの実』を、食べたのです」
「そんな実あんのかよ!」
「役に立たなそうな能力だね!」
「ははは」
「ははは、じゃねーよ!」
 真田虎太郎が支離滅裂なギャグを披露して道化役となり、南柾樹と真田龍子がその流れに乗る。ウツロはこの構図がどのように、そして何のために形作られるのか、理解しがたかった。作っているようでいて、自然にやっているようでもある。
 コミュニケーションか。俺は難しく考えすぎているのだろうか? アクタやみんなが言うように、物事の本質とはもっと、単純なのかもしれない。だが、単純だからこそ、逆に俺には難しい。
 ウツロは例により、考えを弾ませているのだけれど、独りでの思索とは違い、気持ちが楽な気がした。
「ちょっとまとめなきゃいけない資料があるから、医務室にいるね」
「うぃー」
 食事を済ませた星川雅が、そっけない仕種で、食堂を後にした。通過儀礼的な相槌を打つ南柾樹に、ウツロは彼女の冷めた態度が気になった。
食器くらい自分で片付けていけばいいのに……そうだ、片付けだ――こんなにおいしいものをいただいたんだ。せめて片付けくらい、手伝いたい。
「片付けを、手伝わせてくれないかな……?」
 遠慮気味に彼は願い出てみた。
「いいって、ウツロくん。あなたはお客さんなんだから。先に部屋へ戻って、お昼寝でもしてるといいよ」
「でも……」
「厨房を引っかきまわされでもしたら、かなわねぇぜ? いいから、部屋でゆっくりしてろって」
 真田龍子と南柾樹が、自分を気遣ってくれているのはじゅうぶん察する。ウツロは食い下がっては慇懃無礼だと思い、妥協することにした。
「そう、か。わかった。お言葉に甘えさせてもらうよ」
 食堂を後にする前に、例の一つくらいは言っておきたい。その程度なら推し量れるし、いま俺にできる唯一のことだ。
「柾樹」
「あん?」
「口福、ごちそうさまです」
「……」
 これがいまのウツロにできる、最大限の謝意だった。不器用かもしれないけれど、彼は彼なりに、感謝を表明したつもりだった。
「そう言ってくれるとうれしいぜ、『ウツロ』?」
「――」
 深く一礼して、彼は食堂から退場した。その足取りが、自信のなさを物語ってはいたけれど、そこも含めて、一同はウツロの心中をちゃんと、理解していた。彼は成長したがっている。もちろん、精神的に――
「よっぽど、柾樹の料理がおいしかったんだね」
「ほんと、クラシックな野郎だぜ」
 遠ざかるウツロの背中を見つめながら、南柾樹の顔は緩んでいた。
 食堂を出たウツロは、まっさきに、星川雅のことを思い浮かべた。
 彼女だけ――彼女だけが、他の三人とは違う気がする。何かとてつもない、『闇』をかかえているような感じだ。奪われたままの『黒刀』のこともあるし、問いたださねばなるまい。ウツロはそう考え、彼女が『根城』にしているのであろう、医務室へと向かった――

   *

医務室のドアは開いていた。まるでウツロを招き入れるように。彼は少しためらったけれど、意を決して、中に足を踏み入れた。
奥のデスクに、彼女はいつもの様子で腰かけていた。
「あら、どうしたの?」
「いや、別に。独りでいるよりは、と思って」
「ふうん。心境が変化したの?」
「よく、わからない……」
「まあ、いいよ。立ち話もなんだし、こっちへ来て座りなよ」
 ウツロは黙って、星川雅に向かい合う椅子にゆっくりと腰かけた。
「どう? 『人間』の世界は」
 星川雅はかなり皮肉を含んだ言い方をして、ウツロをはぐらかした。彼女は頭を傾け気味に、ウツロをのぞき込むような姿勢を取っている。それはまるで観察するような、心の中まで侵入して、彼をしゃぶり尽くそうとしているように見える。
 ウツロは目の前の得体の知れない少女に――少女の姿を借りた、魔物か何かではと錯覚させるその存在に――体験したことのない恐怖を――恐怖と表現するのが、適切かどうかさえわからなかったが――じわじわと精神を貪られる感覚を覚えた。クモは獲物を生きたまま融かしてから食らうというが、その感覚なのかと考えていた。
「難しいね、『人間』は」
「また言ってるし」
 ウツロは状況を打破するために意趣返しをしたつもりだったが、星川雅は呆れた口調で彼の言葉をそらした。小手先ではこの少女を御することはできないようだ。ここは時間を稼ぎつつ、突破口を見出す必要がある――彼はどんな奸計であろうとも、駆使しなければならないと思った。そうしなければ、こちらがやられる。鍛えた肉体だとか、磨き抜かれた技だとか、そのような瑣末な話ではない。経験によるところは同様であるものの、彼女が使うのは心理攻撃だ。山ではクマとでも渡り合える自分だが、このような戦闘は経験がない。キツネとの化かし合いなどとは、次元が違うのだ。
「また何か、考えてるでしょ?」
 今度は表情を緩めてニヤニヤとウツロの顔色をうかがっている。これも作戦の内なのか? 俺はすでにこの少女の術中にはまっているのではないか? トラの穴に潜り込んでなお、「ここはどこだろう?」などとぬかしている間抜け。ひょっとしたらいまの自分がそれなのではないか?
 星川雅はウツロの一挙手一投足から、まるで彼の全情報を吸い出しているかのようだ。
いけない、このままでは呑み込まれてしまう。ここは虚勢であっても、冷静に振る舞わなければならない。彼は必死で自分を落ち着かせた。
「何かな?」
「いえ、ごめんなさい。つい、癖でね。精神科医の両親を持ったせいか、観察癖がついちゃってるんだ」
「……頭が、いいんだろうね」
 ウツロは先だって、彼女からかけられた言葉を、復唱してみせた。心を見透かされたのは、正直いって屈辱であったし、何より、彼女の正体のようなものを、確かめたかったからだ。
「まあね。医学部って、基本的にどこの大学も、レベル高いんだよ? お父様もお母様も、学生時代に知り合って、意気投合したクチだしね。医学って興味ある? ウツロくん。ああ、ちなみに、二人とも『赤門』の同窓生だよ。赤門って意味わかる? 東京大学のことね」
 星川雅がウツロをさらにはぐらかすため、あえてイメージしえないであろう会話を切り出していることを、彼は重々理解した。
ウツロは心の中で感じる圧倒的な敗北感――自分の知っている世界が、どれほど小さいものであったかということと、彼女の手玉に取られている事実に、すっかり意気消沈してきた。
「つらくなってきた? ごめんね。君がかわいいから、つい、いじめたくなっちゃってね。でも、勘違いしないで。これもウツロくんのためなんだよ?」
 彼女の言いたいことは、いっこうにわからないし、そのある種、猟奇的ともいえる精神への仕打ちに、返す言葉が見つからず、ウツロはただ、黙りこくっている。
「わたしは医者の娘だからね。医者の仕事は、患者に現実を見せることなんだ。これから君は、およそ想像もつかないことを、次々と体験するはず。だから始めから、厳しくしつけておかなきゃと思ってね」
 彼女はますます、穏やかではない単語をわざわざ選びながら、ウツロの反応を、どこか楽しむように言い放った。
「ま、ゆっくり、少しずつ、慣れていけばいいよ。まだまだ人生は長いんだから」
 星川雅の所作は、すっかり精神科医の診察のようになっている。この奇妙な問答はいったい、いつまで続くのか? まるでアリジゴクに捕らわれた気分だ。これも彼女の策略なのだろう。俺はもう、この少女の虜なのか? 
「ウツロくんて」
「――?」
「ほんと、かわいいよね」
 食い殺される。そう思った。この女が食うのは、人の心なのだ。獲物を気付かせぬまま罠にかけ、食らい、骨までしゃぶり尽くす。そうされた者は、文字通り骨抜き。生きながら死人のようになって、彼女の意のままに動く、人形にされるのではないか?
「怯えているのに、必死で隠してる。そこが、たまらない」
 なんだこの感覚は? 心が安らぐ……真田さんといるときとは、別次元の安らぎ。支配されたい。この少女に。枷でも鎖でも、何でもいい。俺を繋ぎ止め、隷属としてくれ。
「うふ。こっちへおいで、ウツロくん」
 体が吸い寄せられる。自分の意思に反して。いや、俺はすでに、彼女に服従する意思なのか? わからない。そんなことは、どうでもいい。
「座ってごらん」
 彼女の『命令』は、犬に対する『お座り』と一緒だった。しかしウツロは、その『命令』に従う。両膝をつき、両手を置いた。その光景はまさに、人の姿をした犬である。
「顔を上げて」
 もはや彼は星川雅の意のままだ。上げたその顔は恍惚に満ちていて、眼孔はすっかりぼやけている。もう彼女しか見えていないのだ。
「いい子ね、ウツロくん」
 ウツロは黙して次の『命令』を待つ。この少女に支配されていることが、うれしくて仕方がないのだ。奪われたい、すべてを――
「名前、呼んで。わたしの」
「……星川、さん」
「雅でいいよ」
「……みや、び」
 これではまるで腹話術だ。しかし現実でもあった。ウツロは人形になった。その繰り糸は、星川雅がしっかり握っている。おそらく南柾樹も、こんな風に懐柔され、手なずけられているのだろう。しかし気持ちはわかる。なんという快感だろう、精神を征服されるというのは。俺は自我を保ちつつ、一方で他人任せにしているのだ。自己の存在を。それがこんなに、気持ちのいいことだったなんて。
「頭、撫でてあげるね」
 星川雅の手が、怪しくうねるその指が、迫ってくる。次の瞬間、俺は完全に、彼女の奴隷に成り果てるのだろう。かまわない。それほどの快楽、圧倒的安心感。ああ、俺はすべてを奪われ、すべてを与えられるのだ。この女の思うがままに作り変えられるのだ。その存在を――
「――っ!?」
 ウツロは反射的にのけぞった。床を蹴って後方へ跳び、距離を取った。師である似嵐鏡月から叩きこまれた、危機回避の習性。本能に近いレベルで、彼にこびりついていたそれが、発動したのだ。
「面妖な術を、汚らわしい!」
 ウツロは怒りの表情で、星川雅をにらんだ。体勢を整え、戦闘の構えを取る。
「失礼だね、女性に対して」
 だが彼女は、いたって涼しい顔だ。椅子に座った状態で足を組み、手の平を『うちわ』のようにして、顔を扇いでいる。
「何が精神科医だ。いまのは、医学だとか心理学だとかじゃない。明らかに、忍びの術の類だ。そうだな?」
「だったら、どうするの?」
「口を割って、正体を表わしてもらおう。お前は何者だ?」
「教えてあげてもいいよ。君がわたしの『ペット』になってくれるのならね」
「……気色悪い、気味の悪い女だ。正気とは思えない……人間を家畜に変えるのが、趣味なのか?」
「そうだよ。だって、楽しいじゃん?」
 両手の指を噛み合わせて、前のめりの姿勢を取る。実験動物を前に舌をなめる、気の触れた学者のように。その表情は、自分自身に陶酔しきった笑顔だ。
「……狂ってる。お前の目的は、いったいなんだ?」
「だから、君がペットになってくれるのなら――」
「黙れ、黙れ! 頭が痛い……また術をかけようとしているな!?」
「うふふ。そのとおりだよ、ウ、ツ、ロ、くん?」
「う……」
「柾樹も龍子も、とっくにわたしの支配下なんだよ?」
「……な……に?」
「虎太郎くんは若いから、『まだ』見逃してあげているけれど、柾樹と龍子はもう、ね?」
「……く、なんて……ことを」
「弱みを見せた人間を食らいつくす、この術でね。ふふふ、ウツロくん。わたしが二人に、『何をしているか』、知りたくない?」
「……う……あ」
「かわいいんだよ? あの二人。遊んであげるとね。わたしの命令なら何でも、喜んできいてくれるんだ。君も仲間に入りなよ、ウツロくん?」
 ウツロが完全に彼女の術中に落ちようとした、そのとき――
「雅い、ウツロくん見なかった?」
 真田龍子の伸びのある声が、医務室の中にこだました。
「うっ……」
「あれ、ウツロくん? ここにいたんだね。雅と話してたの? ごめんね、邪魔しちゃって」
「いや、いいんだ、真田さん……」
「大丈夫? 顔が青くなってるよ?」
「ああ、たぶん、しばらくぶりに栄養を取ったから、脳に血が一気にいったんだ。少しふらふらしたから、星川さんに診てもらってたんだよ。もう落ち着いたから、安心して」
「そ、そうだったんだね。落ち着いたのなら、何よりだよ。でも、無理しちゃダメだよ?」
「う、うん……ありがとう」
 面倒事は避けたほうがよいと判断したウツロは、とっさに場を繕った。それは結果的に、星川雅を擁護した形だった。彼女はそれが屈辱なのか、苦々しい顔つきをしている。
「龍子、どうかしたの?」
「え、いや、布団を敷こうと思ってウツロくんの部屋にいったら、いなかったからさ。ごめんね、会話の途中に」
「いえ、いいんだよ、龍子。適切な処置は終わったから、もうオーケーだよ。ウツロくん、何度もいうけれど、くれぐれも安静にね?」
「あ、うん。ありがとう、星川さん……」
「布団は敷いておいたから、横になってるといいよ」
「うん、そうだね。ありがとう、二人とも、気遣ってくれて」
「さ、肩貸すから。雅、ありがとうね」
「何にもだよ、龍子。ウツロくんを、お願いね」
 身を寄せ合いながら退室する二人の背中を見つめながら、星川雅はペロリと舌をのぞかせた。
「やれやれ」
 事務用チェアに体重を預け、ため息をつく。ギシッという椅子の軋む音が、医務室の沈黙を一瞬、切り裂いた。彼女の表情が次第に、まがまがしいものになってくる。
「親友だと思いこんで、調子に乗りやがって……メス豚のくせに、生意気なんだよ……」
 その存在が狂気そのもの――彼女を形容するのに、これほどふさわしい表現は見つからなかった。彼女は真田龍子へ、怨念を向けるかのように、呪詛の言葉をそらんじた。
「次に術をかけたとき、どうしてやろうか……ガチで豚にするか? そうだ、それがいい。手も足も切り落として、豚に変えてやる。わたしのウツロを奪った罪は重い、重いぞ、豚女――」
 くるっと回したシャーペンを、信じられない怪力をこめてへし折った。強く握りしめたその拳から、血が滴る。そしてハッと、われに返った。
「ああ、いけない。この私としたことが、久しぶりにやらかしてしまった。てへえーっ!」
 独りで滑稽なノリツッコミを披露する。血迷ったときに精神を落ちつかせるための、自己暗示だった。彼女は目いっぱい伸びをして、さらに気持ちをリラックスさせた。
「ふう……」
 デスクの引き出しを開け、手の平サイズの黒光りする機器を取り出す。ラジコンの操縦桿のようなそれの、スイッチをオンにした。
 盗聴器――
 食事のあと、ウツロの部屋に仕掛けたものだ。彼女が最初に席を立ったのは、それが目的だったのだ。深々と椅子に腰かけなおすと、星川雅はその『受信機』を、手の上でひらひらと弄んだ。
「龍子なんかに、渡さないんだから」

   *

「さ、着いたよ。気分はどう?」
「うん、かなり良くなってきたよ。ごめんね真田さん、心配をかけてしまって」
「もう、いちいち謝らなくていいって。ウツロくんが何か、悪いことをしたわけじゃないんだからさ」
「ん、うん」
「さ、さ。横になって、のんびりお昼寝でもしてなよ」
「ありが……」
「んー?」
「うー、うーん……ぜ、是非に及ばず……?」
「あはは! 何それ!? かたいなー!」
「お、おかしかったかな……?」
「いやいや、言いたいことはわかるよ。ちょっとへたっぴなだけで」
「へたっぴか。堂々とするのは、難しいね」
「ウツロくんはいろいろと、難しく考えすぎなんだよ。ほら、私みたいに、頭をパーにするんだよ? パッパラパー子だよ」
「それ、言っててつらくない?」
「あはは、ちょっと……」
連れ添って二階に上がったウツロと真田龍子は、こんな風に部屋の入口で、和気あいあいと会話を楽しんでいた。二人もけっこう打ち解けてきて、少しずつではあるけれど、気の置けない仲になってきている。お互い一緒にいると気が楽だし、信用が信頼に変化してきている感じだった。もっともそれとは別に、ウツロには先ほどの、星川雅の文言がずっと、引っかかっていたのだけれど。
星川雅――彼女には魔性を感じていたが、現実として、俺に奇怪な術を繰り出してきた。
あれはいつか、お師匠様から話に聞いた『幻術』というものではないか? 仕組みはわからないけれど、ある条件を踏むことで、他者を意のままに操る、恐るべき技らしい。なぜあの女、星川雅がそれを使えるのか? いや、もしかしたら――あれが例の、アルトラと呼ばれる、異能力なのか? 人間を思いどおりに支配してしまう力――だとしたら、あまりにも危険すぎる。それがよりによって、あんな女に宿ってしまうとは――アルトラは『精神の投影』――だとしたら、人間を支配したいという欲求が、彼女にはあるということなのだろうか? それよりも何よりも、その力によって、この真田さんや、南柾樹を支配している――確かに、そう言っていた。情報によれば、みんなこのアパートで、『特生対』なる組織に、監督されているということだ。なら、みんな、『仲間』のはずでは? 星川雅はいったい、何がしたいんだ? 同じ境遇のはずの真田さんや柾樹を虜にして、いったい何の得があるというんだ? わからない、ちっとも。まだまだ、わからないことが多すぎる――
「おーい」
「え?」
「また何か、考えてた?」
「いや、柾樹の料理があんまりおいしくて。味を思い出していたんだよ」
「そんなにおいしかった?」
「正直言って、打ちのめされたよ。人を見かけで判断するのは、良くないね」
「あはは、いいやつでしょ? 柾樹。あんなナリだけど、いろいろと気を配ってるんだよ」
「そう、だね。なんだか、自分が恥ずかしいよ」
「ほらほら、卑下しない。ウツロくんも、『ヒゲヒゲの実』を食べたの?」
「『ヒゲヒゲの実』か。虎太郎くんの冗談は諧謔に富んでいるよね」
「カイギャク……なんだか、難しいね。そこは『ユーモア』でいいと思うよ?」
「なるほど、『ユーモア』か。横文字の使い方も、覚えないとね」
「『横文字』、って、昭和の人みたいだね。クラシックだなー、ウツロくんは」
「クラシック……なるほど。確かに俺は古典的かも――」
「はいはい、わかったから。頭を使いすぎると、疲れちゃうよ? ほら、パッパラパーになるんだって、パッパラパー」
「パッパラパーか、難しいけれど、がんばるよ。パッパラパー、パッパラパー……」
「うーん……」
 いつになったら部屋に入れるのか? 真田龍子は、そんなことを考えていた――

   *

「いい布団だね」
「お、わかる? 何とかって鳥の羽毛らしいんだけど、夏は涼しく、冬は暖かくって、都合のいい品だよ。ここの備品の中に埋もれてたから、死蔵するよりはと思ってね」
 やっとのことで入室したウツロは、真田龍子が敷いてくれた布団について、また一席打っていた。
「じゃ、ゆっくり休んでね」
 真田龍子は踵を返して、退出しようとしたが――
「真田さん」
「うん?」
「よかったら、話し相手になってくれないかな? 俺、独りでいると、どうも余計なことを考えちゃうんだ。いや、もし時間があるならでいいから」
 そうウツロに呼び止められた。彼女は一瞬、キョトンとしたものの、
「おー、いいよ」
「え、いいの?」
 あまりのも軽いノリで承諾したので、今度はウツロがキョトンとした。
「暇だし、いいよ。ウツロくんこそ、休まなくても大丈夫?」
「うん、独りでいると、逆に落ち着かない気がするんだ。それに、真田さんというと、なんだか気が楽だし」
「――」
 こうして二人は、布団を座布団代わりに、とりとめもない世間話を始めた。
「虎太郎がね、すごく喜んでたんだ。あんなにうれしそうな虎太郎、久しぶりに見たよ。ありがとうね、ウツロくん」
「そんな、俺は何もしてないし、ただ会話をして、音楽を聴いただけで」
 こんな調子でしばらく会話していたのだけれど、真田龍子は急にうなだれて、ウツロにこう切り出した。
「……こんな話、していいのか、迷ったんだけど。ウツロくんなら、聴いてくれると思って……うまく言えないけど、ウツロくんは、人の痛みがわかる人だと思うから……」
「――」
「話しても、いいかな……?」
「俺なんかが、お役に立てるとは思えないけれど、真田さんが、そうしたいのなら」
 こうして真田龍子は、とくとくと語り始めた。

   *
「『学校』っていうところ、知ってる?」
「学校……俺は行ったことはないけれど、たくさんの人が集まって、勉強をするところなんだよね? お師匠様から話で聞いたり、本で読んだ程度の知識しかないけれど」
「あ、ごめん。やっぱりやめようか。こんなことをしてたら、ウツロくんまで……」
「いや、俺は平気だから。それに、『ごめん』はなしだよね?」
「ん……」
「気にしないで、続きを聞かせてよ」
「うん、わかった。気に障ったら、すぐやめるから」
「全然かまらないから、お願いします」
 真田龍子は慎重に、言葉を選びながら、ウツロに話した。
「その、学校でね、虎太郎は……その……『いじめ』にあっているんだ……」
「いじめ……」
 暴力を振るわれたってわけじゃないんだけど、周りのみんなからいろいろ、からかわれたりね」
「……」
「虎太郎って、頭の中ですごく、考えすぎちゃう癖があって、それでなかなか、行動に移すのが苦手なんだよ。それを学校では、のろいとか、どんくさいだとか、勘違いされちゃってね。いちいち指摘されて、冷やかされたりしてるんだ」
「……そんな、ことが……」
「一度、雅のお母さん……朽木市の病院で、精神科医をやってるんだけどね、相談したことがあるんだよ」
 真田虎太郎を診断した星川雅の母は、真田龍子にこう告げた。
「軽度だけれど、アスペルガーと自閉の傾向があるわね。いわゆる発達障害よ」
 弟が発達障害――この事実は、当時まだ中学生だった彼女には、受け入れがたいものだった。
「虎太郎は、その……『障害者』、……なんですか?」
 不安を隠せない姉に、星川雅の母は、こう言いきかせた。
「龍子ちゃん、よく聴いて。発達障害は障害というよりは『特性』、つまり『個性』ね。そんなもの、誰でも持っているものでしょう? いわゆる『発達障害』は、それが少し強いというだけなのよ。ある基準以上だったら、医学的にそう、定義されてしまうというだけでね。虎太郎くんは素晴らしい個性を持っているわ。それは当然、誰かに否定される筋合いなんてないし、そんなことをする連中こそ、否定されるべき存在なんじゃない? だから気を落とさないでね。姉として虎太郎くんを見守ってあげるのよ。もちろん、無理は禁物だからね? もしつらくなったら、いつでも気兼ねなく、私のところへ相談しに来ていいから」
 真田龍子はその言葉を頼もしく思ったが、現実は厳しいものだった。真田虎太郎をとりまく状況は、そうやすやすとは変わらない。姉である真田龍子にも、それは耐えがたい重荷だった。気が強い性格とはいえ、まだ彼女も幼かったこともある。次第にそのストレスは、誰あろう、当事者である弟へと向けられた。
 ある晩、苦しみを吐露する真田虎太郎に、理性のタガが外れた真田龍子は、激しく呪いの言葉を吐いてしまった。弟の怯える顔を目の当たりにし、この姉は強烈な自責の念に駆られた。
 翌日の夕方、真田龍子は下校中の通り道で、遮断機の下りた踏切に入っていく弟の姿を目撃した。
けたたましく吠える警報機の音が、公開処刑に歓喜する見物客が、嘲笑しているかのように聞こえた。真っ赤な夕焼けは、これから起こる惨劇の結末を予見しているようだった。
 間一髪――電車が踏切を通過する直前で救出した姉に、弟はこう呟いた――

   姉さん、ごめん

「姉さん、ごめん。あろうことか私は、虎太郎にそんな言葉を吐かせたんだ。そこまで私は、虎太郎を追いつめたんだよ。虎太郎の苦しみに、一番よりそってあげるべき私が。私が虎太郎を、殺そうとしたんだ。虎太郎を一番憎んでいたのは、私だったんだ。クズだ、人間のクズなんだ、私は……」
 真田龍子は体を丸めて震えだした。その表情は恐怖に怯えている。
 ウツロは何も言えなかった。いったい何が言えるというのか?
 弟を死に追いやろうとしたという、強烈な自責の念に駆られるこの少女に。彼女もまた、自己否定に苦しんでいる存在だったのだ――
「警報機の音がね、鳴りやまないんだよ。あのとき以来、私の頭の中では、あのうるさい警報機の音が、いまでも鳴りつづけているんだよ」
 真田龍子は体を丸めたまま、うなだれている。その視線は遥か遠く、過去の光景と、そしていまの自分と向き合おうとしているようだ。
 ウツロはそれを感じ取りながらも、どう声をかければよいのもかと、考えあぐねていた。
 真田さんと虎太郎くんに、そんなことがあったなんて――細かいところはわからないけれど、苦しい体験をして、いやおそらく、いまも必死に戦っているのだろう。それなのに、俺に対しては、気丈に振る舞ってくれた。もちろん、俺を気遣ってのことだ。それにどれほどの、強い精神力がいるというのか? 俺とは大違いだ。俺はまるで、自分だけが不幸であるかのように、考えていた。違いはあれど、誰だって苦しいのだ。それを押して、明るく振る舞えるこの強さ。これが『人間』の力なのか――
「ごめん、ウツロくん」
「あ……?」
「せっかく誘ってくれたのに、こんなことを話してしまって……もう、この辺にしておくね」
「あ、いや……」
「私、ウツロくんの服を繕っておくから。変わった素材だったから、どこまで直せるかわからないけど……あ、ウツロくんはゆっくりしてて。もし何かあったら、遠慮しないで声をかけていいから。じゃ、ありがとう」
「あ、うん……」
 彼女は足早になるのをこらえたが、ウツロはそれに気付いていた。もちろん真田龍子としては、ウツロを不快にさせてしまったのではないかという、後悔の気持ちからだし、ウツロ自身もそのことは、頭の片隅にはある。だが、彼女を部屋に呼びとめたのは、そもそも自分であるし、もっと気のきいた返しができればよかったのにという、後味の悪さが、彼の心をまた、不安にさせた。
「真田さん、俺は……」
 先ほどの彼女のように、ウツロは体を丸めて、沈んでいくように、両膝に顔をうずめた。

   *

 どれくらい時間が経っただろうか。ドアをノックする音に、ウツロはもたげていた首をそちらへと向けた。
「うぃー、いるかー?」
「……柾樹」
「入ってもいいか? 暇だから話でもしようぜ」
「……どうぞ」
 入室した南柾樹は、ウツロの様子を一瞥して、一抹の不安に駆られた。
「どうした? うずくまって。またなんか、考えてたのか?」
「……うん、ちょっとね」
 真田龍子の名前を挙げることはしなかった。それは彼女への配慮でもあり、南柾樹への配慮でもある。南柾樹自身は、「何かあったのでは?」と考えつつ、やはりウツロに配慮して、触れることはしなかった。
「邪魔するぜ」
 彼はのっそりと中に入ってきて、敷布団の上にうずくまっているウツロの隣に腰かけた。気の重さが肉体的な動きにでてしまっているが、今回ばかりは、ウツロに悟る余裕はなかった。視線を合わせようとしない彼を横目に、どう切り出そうかと、南柾樹は少し念慮した。
「柾樹の料理、うまかったよ」
「おお、気に入ってくれてうれしいぜ」
 ウツロは気を使って先に声をかけたが、無理をしているので、機械的な口調になっている。南柾樹は合わせたものの、これでは身を案じるなというほうが難しい。どうしたものかとためらっていると、またウツロがおせっかいで先に声をかけた。
「いいネギだったね」
「朽木市名産のブランド『朽木ねぎ』だ。ネギ、好きなのか、お前?」
「俺がいた隠れ里でも、ネギを栽培していたんだ。アクタと一緒に種から育てて、収穫して、料理や薬味に使っていた」
「アクタ、ってやつのことになると饒舌になるんだな。お前のダチなんだっけ?」
「アクタとは物心つく前から、ともにお師匠様に育てていただき、切磋琢磨しあった仲なんだ。兄弟同然だと思っている」
「そう、か……」
 物思いに耽っている彼に、南柾樹は一瞬、毒づきかけたけれど、自前の料理を評価してもらったこともあり、刺激するのは一応、避けることにした。
 ウツロはといえば、アクタの話題を切り出したのがきっかけで、自分たちの生い立ちを思い出し、先ほどの真田龍子の件も忘れて、くだんの自己否定が発動した。
「アクタも俺も、肉親に捨てられた。俺は憎い、俺を捨てた親が、俺を廃棄した世界が」
「――」
 彼は正直な気持ちを吐露した。しかし話には続きがある――そう感じた南柾樹は、ウツロの思いのたけを聞いてやろうと思い、あえて口は挟まなかった。
「だけど、ここに来てから……柾樹、お前や、真田さんたちに出会ってから……うまく言えないけれど、揺らいできているんだ。俺は人間とは、総じて悪い存在だとばかり思っていた。でも、ここで……お前たちと出会ってから……自分の考えていたことは、その……間違っていたんじゃないかって……」
「……」
 ウツロは丸くした体をさらに締め付けるように、自身の葛藤を伝えた。彼は身悶えるのを必死に抑えている。
「頭が混乱するんだ、わからなくて……人間とはいったい、何なのか……それを考えていると……」
 苦しみを吐き出したウツロ。南柾樹は、すぐ隣で震える同世代の少年に、最大限の配慮を試みようとした。
「……俺、頭わりいから、うまく言えねえけど……そんな、難しく考えなくても、いいんじゃねえか? なんつーか、同じ考えるなら、これまでのことより、これからのことをさ」
 この言葉にウツロはカチンときた。
もちろん南柾樹に悪意はない。それどころか、直情的な性格を押して、彼としては言葉を選んだのだ。しかし認識の不一致とは恐ろしいもので、ウツロは自分のことを、自分の人生を、あるいは存在そのものを、否定されたような気がしたのだ。
彼は隣に座る少年に、憎悪の眼差しを向けた。
「……何がわかる、お前に……俺は捨てられた、廃棄された……この世にいらない、必要ない存在なんだ……この苦しみがわかるか? お前『なんか』に? 俺はきっと、生きている限り、この苦しみと、戦っていかなくちゃならないんだぞ!?」
 この態度に南柾樹は切れた。しかし今回ばかりは、彼のほうがまだ冷静だった。この『ガキ』にものを教えてやる――そう決意した。
「俺だってそうさ」
「……?」
 何を言っているんだ? いったいどういう意味だ?
 ウツロは南柾樹の口走った文言の意味を理解しかねた。南柾樹は大柄な体躯を少しウツロのほうへ寄せて、重そうに口を開いた。
「……俺も、孤児なんだよ」
「――!」
 ウツロは愕然とした。その衝撃は、水に落ちた巨石がじわじわと波紋を形成するように、彼の心を蝕んだ。
 南柾樹は幽鬼のような表情に、薄い笑みを浮かべた。それがウツロには、得体の知れない恐怖となって、戦慄を禁じ得なかった。
「……ゴミ捨て場の生ゴミの山の中に、捨てられてたんだとよ。それを物好きなホームレスのじいさんに拾われて、育てられたのさ」
 のどが詰まったように感じた。言葉どころか、呼吸すらおぼつかない。南柾樹の両目から、ほほを切り裂くような涙が落ちる。
「ケンカ、盗み、変態の相手。生きるためなら、なんでもやったさ。人殺しだってな……」
 もはや思考すらあやふやになってくる。俺はなんてことをしでかしたんだ。この男の、触れてはならない部分に、触れてしまったのだ。
 気が遠くなる中、南柾樹は矢継ぎ早に口を動かす。はじめはまだ冷静だったが、話しているうちに自分の過去が蘇ってくる。こうなったらもう、制御はきかない。
「あるときそのじいさんが、その辺の不良どもにフクロにされてな。当然俺は切れて、そいつらをぶっ殺してやるって、ケンカをしかけたのさ」
 すでに彼は自動的にしゃべっているようだ。決壊したダムから、ためにためた貯水が、ダダ漏れになるように。
「だけど多勢に無勢で、逆にフクロにされかかった。さすがの俺も逃げたよ。必死に走って、気がついたら、あの魔王桜の原にいた」
 魔王桜――彼も出会っていたのか。いや、アルトラ使いだと示唆していたから、それは当然といえば当然なのだが。
「俺はアルトラ使いになった。で、最初に何をしたと思う?」
 ヘラヘラと薄笑いは激しくなる。ウツロは目の前にいる少年が異様な存在、まるで怪物でも見ているかのように映った。
「俺を襲ったその連中を、八つ裂きにしたのさ……アルトラの力でな。頭も腕も脚も、全部引きちぎってやった。快感だったよ。俺を見下してた連中が、必死こいて命乞いしてくるんだぜ? もちろん、聞くわけねえけどな」
 彼はやにわに口を締めた。口角を収縮させながら、南柾樹はまた落涙した。
「でもな、肉の塊になったそいつらを見たとき、泣いちまったんだよ。俺はもう人間じゃねえんだ。本当の、本物のバケモノになっちまったんだってな。心まで怪物になったんだ」
 南柾樹はしばらく、小刻みに震えていたが、少し落ち着いて、やっと一呼吸ついた。
「そのゴミ捨て場ってのがな、朽木市の南、坊松区の、『柾』の木のそばにあったんだと。だから『南柾樹』。ははは、ギャグだろ?」
 彼は体を揺らして、くつくつと笑った。
「ま、そんな過去があるわけ。だからな――」
 涙を拭って、ウツロを見た。
「お前みたいなやつを見てると、ムカつくんだよ。世界で一番、自分がかわいそうだなんて思ってるやつ。そういうやつって、ほんとは自分がかわいくて仕方ねえんだよ」
 何も言い返せなかった。
 南柾樹は魂の抜けた目つきで、ウツロに呪いの言葉を吐き続ける。
「わかる? てめえ『なんか』に? 髪の毛ひっつかまれて、便器にこびりついたクソのカスをなめさせられる気分が?」
 彼はにわかに両手を伸ばし、ウツロの方を掴むと、布団の上へ押し倒した。そのまま、馬乗りになって、ウツロの首を締め上げる。その眼光はすでに、おぼろげになっていた。
「……苦しい……苦しい……俺は呪われてる……バケモノだ、俺は……」
 ウツロは激しく後悔した。真田龍子のことも含めてだ。
自分の独りよがりで、俺はいったい、何人の人間を傷つけてきたのだろう? 申し訳なかった、柾樹。そんなつもりじゃなかったんだ。でも、俺にそんなことを言う資格などない。ごめん、ごめん……真田さん、柾樹……
「なんで、泣くんだよ……?」
 ウツロがその悲痛な表情から流した涙に、南柾樹はわれに返って、両手の力を抜いた。
「バカにしやがって、あわれんでるだろ?」
 ウツロは本心から落涙しているし、南柾樹もそれはわかっている。しかし彼は、断じてそれを認めたくなかった。
 こんなやつにわかってたまるか、俺の苦しみを――
「……そんな目で、俺を見るなよ……」
 あまりにも不器用、それしか言えない。
 南柾樹は、自分の言動が、そして加虐衝動が、本質的にウツロと同じ、奴隷道徳であることを、嫌というというほどわかっている。だからこそ、ウツロを否定することは、他ならない、自分自身を否定してしまうことになる。その事実が、彼には耐えられなかったのだ。
 ゆっくりと、その手を放す。
「……わりい」
 ウツロの瞳に映るその顔は、鏡を見ているようで、自分自身の投影であるかのように錯覚した。南柾樹も同様だ。等価であるがゆえに、傷つけあう。二人は言葉にこそ出さないけれど、お互いの考えていることを共有した。皮肉にも、であるが――
「これでわかっただろ? 俺は、お前が思ってるとおりの存在さ。俺の存在は、間違ってるんだ」
 南柾樹はよろよろと立ち上がって、おぼつかない足取りで、部屋を後にした。
 間違った存在――
 彼は自分を指して言ったけれど、それは同時に、ウツロのことも指している。わかっている、南柾樹はわかっている、が――それは名状しがたい事実であるという、強烈な自己否定に、彼は囚われているのだ。
 鏡に映したような二人の少年。互いに憎み合い、傷つけ合わずにはいられない。それはむしろ、互いのことを理解しすぎているがゆえの、宿命だった。
 滑稽なピエロたち。人生なんてサーカスだ。きっと見えないところで、誰かが誰かをゲラゲラと嘲笑しているのだろう。そんなものだ、人間なんて――
ウツロはそんなことを考えながら、なんだかばかばかしくなって、道化師のような顔で落涙しながら、そのまま深い眠りに落ちた――

   *

 日も暮れる頃。
 ウツロは目を覚ましていたが、敷布団の上にうずくまって、なかば放心していた。
 橙色の西日が、彼の陰鬱な気持ちに、拍車をかける。
 考えがまとまらない。やはり、俺の見てきた世界は、あまりにも小さすぎた。人間について、わかったつもりになっていたけれど、実際はとても、複雑だった。人間には、表面と内面がある。それは一概に、良いとか悪いとか、決められるものではないだろう。人それぞれ、ということだ。
 星川雅――
 彼女は邪悪な内面を、しとやかな表面で覆っている。しかし「悪い存在である」と、決めつけられるだろうか?彼女は彼女で、何か抱えているものが、あるのかもしれない。他者を平服させたいという欲求、もしかしてそれと、必死に戦っているのかもしれない。安易に悪だと断じるのは、早計にすぎるのではないか……
 南柾樹――
 彼は俺と、同じだった。
 俺と同様、強すぎる自己否定の衝動と、戦っていたのだ。
 俺はその表面だけを見て、彼を傷つけてしまった。
 自分だけが不幸だと思っている――そのとおりだ、彼の言うとおりだ。
 柾樹の苦しみは、俺にはわからない。
 いや、人の数だけ、苦しみの形があると、いえるのではないか?
 苦しみとは一つの、個性なのかもしれない。
 やはり良くも悪くも、だけれど……
 そして、真田虎太郎くんと、真田龍子さん――
 俺なんかには、理解しえないほどの苦痛・苦難、それをあの姉弟は、味わっている。推し量ろうとするのは、愚の骨頂だろう。他者の苦しみなど、理解するのは不可能だ。歩み寄りは、もちろん必要だけれど、「わかった気になる」のは最低だ。それはまさに、俺がやっていたことではないのか?
 俺は独りよがりな思いこみで、みんなを傷つけてしまった。罪深い行為――やはり、俺の存在は、間違っているのではないか――?
 ウツロの卑下は止まらない。彼は沸騰しそうになる思考を、なんとか押さえつけた。
「やっぱりここは、俺なんかがいていい場所じゃない。分不相応にもほどがある。毒虫が人間になろうだなんて、生意気だったんだ……」
 いまは無理でも、隙を見て、ここから抜け出そう。ウツロはそう、思案した。
 窓辺で数羽のスズメが、ちゅんちゅんと囀っている。その鳴き声は、いまの彼にはどこか、物悲しく聞こえた。そうだ、ここを去る前に、もう一度だけ、目に焼きつけておこう――『世界』のありさまを。ウツロは影を落とすようにふらふらと、ベランダのほうへ足を運んだ。桟の上に両手を預け、おそるおそる眼下をのぞいてみた。学生服を着た、下校中の高校生数名が、談笑しながら、歩道を歩いている。
 あれが学生――学校というところに、通っている人たちか。俺と同じくらいの年頃だ。なんて楽しそうな顔だろう。俺もあるいは、あそこにいたかもしれないのに……いや、そんなことを言っても、水掛け論だ。わかっている、わかっているけれど……
 ウツロは切なくなった。
本音を言えば、当たり前が良かった。家族がいて、学校へ行って、いつかは社会へ出る――そんな当たり前を、自分は持つことができなかったのだ。
 駄目だ、いけない。
 それでは、お師匠様や、アクタの存在を、否定することになってしまう。余計なことを考えるな、いいじゃないか。あるがまま、与えられたものを、受け入れなければ――
 相変わらず発動する、循環論法に嫌気が差し、彼は部屋の中へ戻ろうとした。
「……ウツ……ロ……」
「――!」
 桟の上の一羽のスズメが、なんとこちらに、語りかけてくるではないか。
「……これは、アクタの『口寄せ』か……!」
「……ウツロ……俺は逃げのび……いまは、人首山に潜んでいる……お師匠様も、一緒だ……早く、お前に、会いたい……人首山まで、来てくれ……」
 それを言い終えると、スズメは正気に返ったらしく、どこかへ飛び去っていった。
「アクタ、お師匠様、ご無事で何より……! 人首山……早く、行かなければ……!」

   *

 気配を殺しながら、ウツロは廊下を忍び足に、二階中央までやってきた。
 朽木市を描写した、くだんの絵地図に目を凝らす。
――人首山。
 アクタが『口寄せ』によって指定した場所が、そこだった。いったい、どこにある?
 彼は絵地図に、なめるような視線を送って、その名前を探した。
――あった。
 人首山――斑曲輪区の北、そこにそびえる連峰の一角にある。
 朽木市のブロック分けでいうと、現在地、蛮頭寺区の上が、六車輪区、さらにその上だ。
 ここからなら、西側の山伝いに北上すれば、縮尺から鑑みても、俺の足なら、一時間ほどで着けるはずだ。
 山歩きのほうが慣れているし、街の中を通るのは、あまりにも危険だ。
 よし、そうとわかれば――いや、待てよ――
 ウツロには一つ、心当たりがあった。静かに階段を降り、彼は医務室へと向かった。
入り口の外から、中の気配を探る。
――誰もいない。
 慎重に、物音を立てないよう配慮して、中へ侵入する。
 ウツロが最初にいた場所、横になっていたベッドの真向かいのデスク。きれいに整頓された、その周囲を確認する。
「――!」
 やはり、ここだったか――
 デスクと壁の、拳大の隙間に、彼の『黒刀』が、斜めに立てかけられていた。
 あの女、星川雅の考えそうな場所。俺にとって一番の盲点に、隠していたな。師・似嵐鏡月からたまわった大事な刀。これだけは、どうしても捨ておくことはできない。
 彼はそっと、黒刀を隠し場所から抜き取った。
 さて、あとはここを出るのみ――
 これもやはり、心当たりがあった。次に彼は、一階、反対側の、食堂へと向かった。
 表玄関から外へ出れば、さすがに人目につくだろう。あの食堂は建物の北側にあった。そこなら、地理的に山側にも近い。ウツロは感覚器官を駆使し、自分の気配は殺し、かつ、他者の気配は最大限、拾いながら、食堂へと足を踏み入れた。
 テラスの鍵は、下に降ろすタイプで、容易に開けることができた。
 なんだか逆に、気味が悪い。事が順調に、運びすぎではないか? これではまるで、脱出してくださいと、言っているような感じだ。しかし、そうだとしても、いまは詮索している暇などない。アクタが、お師匠様が、待ってくれているのだ――
 ウツロはくだんの『人工庭園』の、左奥の松の気によじ登り、そのまま高い白壁を、強く蹴った――
 この様子を、つぶさに観察していた『影』が、食堂の入り口から、姿を現した。
――星川雅、彼女だ。
 開いたドアに体を預け、口もとに指を這わせながら、彼女は思案していた。
 さあ、どうするか……雅樹や龍子に知らせていたのでは、時間を食ってしまうし、第一、『面白くない』――最高の選択肢、それをチョイスしてあげる。『わたしのウツロ』?
 邪悪な笑みを浮かべ、星川雅はペロリと、舌をなめた。

   *

「ウツロくん、服を繕ってみたんだけど――あれ?」
 開いたままのドアから、真田龍子が顔をのぞかせたとき、当然、中はもぬけの殻だった。
「トイレかな?」
 気になって部屋へ入った彼女の目に、テーブルの上にある、書置きが留まった。
「これは、雅の字?」

   ウツロくんが人首山へ呼び出された
   わたしは先に後を追う
   龍子、柾樹、早く来て

「……たいへん」
 開け放したドアを不審に思った南柾樹が顔を出した。
「龍子、どうした?」
「柾樹、これっ!」
「……マジかよ」
 文面に戦慄すると同時に、二人は胸騒ぎを禁じえなかった。
「何か、嫌な予感がする……」
「ああ、俺もだ。急ごうぜ!」
 慌てた二人は、ドアを閉めるのも忘れ、その場を後にした。
階段から転げるように降りていったあと、向かいの部屋のドアが、静かに開いた――

   三

 ウツロは山を伝い、北に向かって、ひたすら駆け抜けた。
アパートが山麓に建てられていたことが、幸いした。山中を行くのは骨が折れる。しかもただでさえ、痛手を負った体だ。肉体の節々が軋む。だが、アクタと師・似嵐鏡月が無事であったという事実が、ウツロの苦痛を吹き飛ばした。
 俺を待ってくれている――
 承認欲求を満たしてあまりある興奮が、彼の足に拍車をかけた。
 時間にして三十分ほど。
 常人であれば不可能なタイムを、歓喜のウツロは叩き出した。
 人首山の入り口には、褪せた朱塗りの鳥居がそびえている。招き入れるかのようなその佇まいに、彼は一瞬、足を止めた。
 しかし、行くしかない――
 ためらいはすぐ、わき上がる期待感に、かき消された。
 頂上へ向かって螺旋状の石段を、一気に駆け上がる。等間隔に配置された、石灯籠の電飾が、ウツロを幻惑するように、ゆらゆらと点滅している。それが逆に、不安よりもむしろ、焦燥を、彼へ煽った。
 再び鳥居が見える。
 あそこを越えれば、中腹の辺りへ出るはずだ。
 はやる気持ちを抑えながら、ウツロは鳥居が作る、暗黒の闇をくぐった――
「アクタ、お師匠様……いったい、どこに……」
 鳥居をくぐると、桜の森に囲まれた、広い空間に出た。風もなく、辺りはしんと、静まり返っている。
かすかな月明かりを頼りに、ところどころ草の生える地面を、ウツロはおそるおそる前進した。
「あれは……」
 広場の中心に、ひときわ大きな一本の桜の木が、どっしりと根を下ろしている。
 太い幹の周りに、注連縄らしきものが、巻きつけられているのが見える。どうやらここは、鎮守の森らしい。
 そのとき、雲間から少し、春の満月が顔を出して、周囲をほのかに照らし出した。
「――!」
 一本桜の根もとに、大きな人影が、浮かび上がった。
「アクタっ!」
 アクタ、確かにアクタだ――
 彼は大木の根に体を預け、うなだれたまま、動かない。
 気絶《きぜつ》しているのか? それとも、まさか――
 ウツロは大地を蹴って、アクタに駆け寄った。
「アクタ、大丈夫か!? いったい、何が――」
 ウツロは反射的に足を止め、後方へ跳んだ。強烈な殺気を感じたのだ。
 桜の木から、まがまがしい気配が伝わってくる。
「何者だ!? 出てこい!」
 ぬうっと、大木の左側から、長身巨躯の男が、姿を見せる。
「――お師匠様!」
――似嵐鏡月。確かに彼だ。ウツロの歓喜は頂点へ達した。
慌てて肩膝をつき、師の前へかしずく。
 似嵐鏡月はゆっくりと、アクタの横まで歩み寄り、ウツロのほうへ向き直った。
「お師匠様っ! 無礼をお許しください! ご無事でなによりです!」
 ウツロは顔を上げて、率直な気持ちを述べた。
だが、似嵐鏡月は、何も言わない。黙ったまま、ウツロを見つめているだけだ。
「アクタが、アクタが動かなくて……」
 時が止まったように、そのままだ。人形でも見ているように映る。
 ウツロにはそれが、何を意味しているのか、皆目わからなかった。
「……お師匠様?」
 様子がおかしい。その表情はまるで、感情が排除されたようだ。
「ウツロ」
 やっと似嵐鏡月は、能面のような顔つきで、口を無理やりこじ開けるように、言い放った。
「この、毒虫が」
 頭が空っぽになった。
 この世で一番大切な人が、一番言うはずのないことを言ったのだ。
 似嵐鏡月は、左下にうずくまるアクタに、残念そうな視線を送った。
「『しくじったな』、アクタ。そんなに大事か? こんな毒虫が」
 わけがわからない。何を言っているんだ、お師匠様は? 
「油断させて、始末しろと命じておったのだがな。こいつにはできなかった。まったく、その名のとおり『芥』、『ゴミ』だな、お前は」
 何なんだ? どういうことなんだ?
 目の前にいるのは、本当にお師匠様なのか? 姿をかたどった、偽物ではないのか?
あるいは、あやかしの類が、化けているのではないのか?
「さっぱり、わけがわからんだろ、ウツロ。一応、説明しておくか」
 うん、そのとおりだ。さっぱり、わけがわからないよ。
「わしにいつも、暗殺を仲介する組織があるんだが、縁を切る『けじめ』として、お前たち二人の始末が、条件として提示されたのさ。お前たちの存在から、わし、ひいては、その組織の存在が、明るみに出る可能性がある、という理由からだ。わしは、手塩にかけたお前たちを、殺すことになるから、組織は、それほどの意志があるならと、わしを試す意味も、あったんだろうよ」
 はあ、なるほど。そういう理由があったのですね。
「隠れ里を襲った賊どもは、わしが組織に頼んで、手引きした連中さ。あの騒ぎに乗じて、お前たちを始末する算段だったが、なかなか、うまくいかんものだな。わしの手にかかってはと、いらん気をつかったのが、裏目に出てしまった。は、わしもとんだ、甘ちゃんだのう」
 なぜそこまでして、『組織』から手を引きたかっただろう?
「この国では仕事が少ない。そもそも、仕事がしづらい。だから、まとまった金を得て国外逃亡し、海外で悠悠自適に、暮らそうと思ったのさ」
 あはは、そうか。俺たちの命は、紙クズ以下か。
「憎いか? わしが。しかし、わしには、その権利があるのだよ。それはな――」
 権利? いったい、どういう―
「アクタにはもう、語ったのだが、お前たちの出自を、教えていなかったな。昔の話だが、わしが生涯でただ一人、気を許した女がおったのよ。その女は、わしとの間に、二卵性の双子を宿した。ウツロ、お前はアクタと、年の頃が同じなのを、『偶然』だとでも思っていたか? 同じどころか、同じ日さ。その双子が、お前たちなのだからな」
 ウツロはその瞬間、放心した――
「アクタが兄。ウツロ、お前が弟だ。つまりわしは、お前たちの、実の父親ということになるわけだな」
 なんだって? 俺とアクタが兄弟で? アクタが兄さんだって?
 へえ、そうなのか。なんだか、おかしいや、あはは。
 で、お師匠様が? 父さんなんだ。
 ふーん、えへへ。知らなかったなー、びっくりだ。
 放心したところから、ウツロの精神はすでに、気の触れる寸前に、さしかかっていた。
 師の口から発せられる言葉の一つ一つが、面白くて仕方がない――そんな状態だった。
「ウツロ、わしのためなら、喜んで魔道にでも落ちる。確かにそう言ったな?」
 うん、言った。確かに言ったよ。
「ならばウツロ、アクタと殺し合え」
 あれれ。
「アクタ、そいつはもう、わしの言うとおりには動けん。人間の世界などというものを、味見したからだ」
 まあ、そうだね。確かにね。
「さあ、二人とも。生まれてきたその罪を、この世に存在してしまったその罪科を、償うのだ」
 そうだよね。やっぱり間違ってたんだよね、俺は。俺の存在は――
 亡霊のようになったアクタが、操られるようにふらふらと、ウツロのほうへにじり寄る。
 大気をゆっくりと切り裂いて、その大きな両腕が、ひざまずいている『弟』の首にかかる。
「ウツロ、すまねえ……俺、もう、どうしていいか、わからねえんだ……」
 アクタは謝罪らしき言葉を口にするが、その顔は幽鬼のように生命の存在を感じさせない。あまりの状況に、彼とて、精神が錯乱しているのだ。
 ウツロはそれに輪をかけたようだ。
自分が絶対だと信じてきたものが、すべてまやかしだった。そして、この追い打ち。
 こんな残酷なことがあってよいのか?
 もう、彼の理性は、吹き飛ぶ一歩手前だった。その顔は、へらへらとした笑みを、浮かべている。もう、笑うしかない。それほどまでにウツロは、追いつめらたのだ。
 ああ、アクタ……『兄さん』の手が、俺の首に、食いこんでくるよ……
 苦しい……けど、気持ちいい……だって、俺は、『兄さん』の『手にかかって』死ねるんだよ? 幸せだなー。こんなに幸せで、いいのかなー?
 ピタリと、首への圧迫が止まった。アクタが本能的に、何かを感じ取ったのだ。
 それは奇しくも、彼が師から、徹底的に教えこまれた、危機回避の習性だった。
 あれ、どうして? もう少しで、もう少しで、逝けそうだったのに……
 どうやら、気づいていないのは、『ウツロだけ』のようだ。
 似嵐鏡月は、森の一角の、桜並木の隙間を凝視した。
「見物したいのなら、見物料を払ってもらおうか?」
 一陣のそよ風が、森を撫でた。
桜の並木も、禿げあがった大地も、あるいはウツロたちをも。
ゆっくりと、優しく包みこむように。なめるように、肌を愛撫する。
 その、そよぐ音にまじって、くつくつと笑う、低い女性の声が聞こえる。
 森が笑っている――
 あやかしが三人を食い殺そうと、舌なめずりをしているかのようだった。
「兄弟を殺し合わせるだなんて、とんだ父親がいたものだね」
 この声はいったい、どこから聞こえてくるのか?
 似嵐鏡月は、視線を送っていたところに、声をかけた。
「『家族』の揉め事に、口を挟まないでもらおうか? 出てこい」
 ぼんやりとしながら、ウツロはそちらに首を回した。
 知っている、知っているぞ、『この女は』――
 桜の並木が作る、闇の奥から、一人の少女が、姿を現した。
 ――星川雅、確かに彼女だ。
 しかし、その出で立ちは、闇に溶けこむような黒装束。
 上半身は上腕、下半身は大腿までを覆う、五分丈の強化繊維。その上から、強化装甲を装着している。
 手には手袋、足には足袋。スカートを模したパーツもついている。
 ウツロとアクタのそれを、女性用に仕立てたような――そんな『戦闘服』だった。
 その背中には、身の丈近くもある、対になった大刀が、くくりつけられている。
 太い柄から見て、七分目の辺りが、異様に膨れあがった、バカでかい『ダンビラ』だ。
 彼女の顔には、この世のものとは思えない、狂気じみた笑みが、たたえられている。
 それはさしずめ、愛する者に告白をしながら、後ろ手にナイフを隠し持っている、気の触れた乙女のような笑顔であった。
「相変わらずのクズっぷりだね、『叔父様』」
「クズとは心外だのう。久しぶりだな、『雅』」
 星川雅は確かな歩みで、こちらへとやってくる。
「大きくなったな。最後に会ったのは確か、お前が小学校に上がったときか?」
「ええ、よく覚えてるよ。何せ、わたしを拉致った挙句、殺そうとしたんだから」
「いやいや、そうだったな。お前を切り刻んで、『姉貴』にプレゼントしたかったのさ」
「ふん、ぬけぬけと。あのあと駆けつけた『お母様』から袋叩きにされたくせに」
「しかし姉貴は、わしにとどめはささなかった。命まで奪うことはしなかったのだ。だからわしはいま、こうして生きている。悪魔も道を開けるようなあの女がだ。雅、お前の母もしょせん人の子よ。肉親にまで手はかけられんのだ」
 彼女は突然、何かに憑かれたかのようにケラケラと高笑いをはじめた。
「何がおかしい?」
「いえ、ごめんなさい。息子どうしを殺し合わせるようなクズが、よくもまあ言えたもんだなあと。あは、おかしい」
「ふん、それはわしのほうが姉貴よりも上手という証明よ。生まれてこの方あの女の優位に立てたことは一度たりともなかったが、いまならどうかな?」
 今度は両手で腹を抱え、笑い出した。
 いったいどんな道化役者が、このように人を笑い狂わせることができるというのか。
 彼女は引きつりながら、あふれる涙を拭っている。
「勘違いはよくないね叔父様。お母様がその気になれば、叔父様なんてすぐに始末できるんだよ? 黙殺されてるってことに気づかなかった? それにあのとき叔父様を見逃したのは、教育上の配慮らしいよ?」
「なんだと、どういうことだ?」
「娘の前で母親が実弟を肉塊にするのは、児童心理学に照らしてよろしくないってこと。どんな状況でも医者であることは忘れない。うーん、わが母ながら名医だよ。頭のわるーい叔父様とは違うんだから、ね?」
「は、言いおるわ! 姉貴らしい。お前もな雅。姉貴の娘らしいぞ」
「どうでもいいってそんなこと。あなたはこれから死ぬんだし?」
 星川雅は眼前の『叔父』をギリッと睨みつけた。
「ウツロくん、この男はね、わたしの母の弟、つまりわたしの、『叔父』に当たる人なわけ。とても奇妙だけれど、わたしたちは『いとこどうし』になるってことだね。あらためてよろしく。ああ、『お兄さん』もね、アクタくん?」
 この状況下で星川雅は、酷く緩い挨拶をおどけた調子で披露した。
 ウツロもアクタも急激な展開にわけがわからず、ポカンと口を開いている。
 その様子を楽しみながら、彼女は話を続けた。
「似嵐家は古来から暗殺を家業にしてきた家柄なんだ。ところがこの男は、次期当主の大任に耐えきれずに、逃げ出したんだよ。あろうことか似嵐家の当主が代々受け継いできた宝刀・黒彼岸を持ち出してね」
 黒彼岸。
 お師匠様の愛刀にそんな『いわれ』があったとは。
 ウツロとアクタは薄れた意識の中、そんなことを考えた。
「『持ち逃げ』とはこれまた心外だな。わしが次の当主である以上、この黒彼岸はわしのものだ。そうではないか、雅?」
「よく言うよね。おじい様のしごきや、優秀なお母様に反発してそうしたくせに」
「ふん、なんとでも言え。あんな家も家族もこちらから願い下げだ。見限ってせいせいしたわ」
「偉そうに。お母様から全部聞いてるんだよ? ああ鏡月、軟弱な弟。あんな腰抜けより、あなたが当主になるべきよ。だからね雅ちゃん、あのバカの首を、ちょっとわたしのところまで持ってきてちょうだいな、ってね?」
「はっ、その手には乗らんぞ。わしを幻惑して、事を有利に運ぶ気だな? 似嵐流兵法の基礎中の基礎よ。それに何が『雅ちゃん』だ。相変わらずネジがぶっ飛んでおるようだな姉貴は。雅よ、お前は母のいいように動かされているのだ。それがわからんお前ではあるまい? 姉貴はお前を体のいい駒にしようとしているのだぞ? その呪縛から逃れたくはないか? わしとともに来い。さすればそこの役立たず二人は、お前の好きなようにしてよいぞ。こんなバカどもより雅、お前のほうが頼りになる。どうだ?」
「あらあら。自分こそその『基礎中の基礎』を使おうとしてるじゃないの。わたしが引っかかるとでも思った? 『毒虫の叔父様』?」
「言うな雅! 忌まわしき過去だそれは!」
「あははっ、おっかしいっ! 自分がされたことを息子にするなんてねえ! とんだ父親だよあなたは!」
「どうやら交渉は決裂のようだな」
「はじめからそのつもりだし? おバカさん」
「ふん、そうか。ではかかって来い雅。出奔したと身とはいえ、似嵐流の技でわしがお前ごときに遅れを取るなど、万に一つもないわ」
 似嵐鏡月は腰の黒彼岸をじわりと抜いた。
「ああ、ちょっと待って」
「ああ?」
 星川雅は戦闘態勢に入ろうとした叔父を制し、へたりこんでいるウツロとアクタのほうへトコトコと近づいた。
「はじめましてアクタくん。ウツロくんは久しぶり。あらためまして、星川雅です。あなたたちとは『いとこ同士』になるから、よろしくね」
 おそろしく場違いな自己紹介を、星川雅はしてみせた。
 二人はこの少女の意図がまったくわからず、ひたすらポカンとしている。
「なるほど、二卵性の双子か。確かに似てないよね」
 彼女はウツロとアクタの顔をかわるがわる観察した。
「!」
 アクタの頭に、星川雅は左手を置いた。
 そのまますりすりと撫でる。
「筋肉質でかわいいね。ウツロくんとはまた違った魅力があるよ」
 その指を下に移動し、顎をつまみ上げる。
「んっ!?」
 無防備になったのどに彼女の口が吸いついた。
 唇でそこをなめ回す。
 虫が這うような奇妙な感覚、だがアクタはその『虫』に全神経を捕われた。
 体がほてってくる。
なんて気持ちがいいんだ。
 『虫』はゆっくりと、アクタののどを登ってくる。
「あふ」
 口と口が重なり、たちどころに舌を絡め取られた。
「ん、んん」
 口の中を侵食される。
 『虫』からの辱めに俺は興奮しているのか。
 かまわない、ずっとこうしていたい。
 もっと、もっとほしい、『雅』。
「うふ、かわいいね、『アクタ』?」
「あ……なん、で……?」
 蹂躙を中断され、アクタは物足りない顔だ。
「いい顔だねアクタ。あとでたっぷりしてあげるから、ちょっと待っててね?」
 すでに彼は骨抜きにされている。
 我慢できない。
 しかし待たなければ、『命令』なのだから。
「アクタ、なんてツラだ。雅、わしの『息子』をたらしこむなよ?」
「黙ってて叔父様。あなただって楽しんでるくせに」
「いや、その二人は女など知らぬからな。『戦士』をあっという間に『犬』に変える。なかなかの手管ではないか雅。いままでの鍛錬もこれですべてパーだな、やれやれ。おい、わしとの勝負があるのだから『ウツロのほうも』早くな」
「言われなくても」
 腑抜けになったアクタを放って、今度はウツロへ狙いをすます。
「ウツロくん、君は砂時計に似てると思うんだ」
 アクタ同様、頭を撫でながら、星川雅はウツロに語りかける。
「心の中にぽっかり穴が開いていて、その穴を埋めようと必死に砂を送り込むんだけれど、永遠に埋まることはない。そんな感覚じゃない?」
 おぼろげな意識の中、ウツロは妙に納得するところがあった。
「苦しいでしょ? だからわたしが助けてあげる。その穴を一緒に埋めましょう」
 口づけ。
 意味がわからない。
 どうしてこの少女はこんなことを?
 俺を支配したいのか?
 こうすることで俺を、自分の人形に変えようとしているのか?
 こいつは正気じゃない。
 ただでさえこんな状況なのに。
 でもこの感覚は何なんだ?
 こうされていると落ち着く。
 心が安らぐ。
 こんな局所的な肉体の営みが、俺の傷ついた心を癒やしていく。
 絡まってくる彼女の舌が、俺の精神の膿を洗い流すようだ。
 気持ちいい。
 ずっとこうしていたい。
 それは俺が、この女に支配されるということなのだろう。
 こうしている間にも、俺は彼女の隷属となりつつあるのだろう。
 すべてを、存在そのものさえもしゃぶり尽くされて、俺はこの女の人形に作り変えられるのだろう。
 しかし、それでもいい。
 全部奪われることで、俺は自由になれるんだ。
 うれしい。
 こんなに幸せでいいんだろうか?
 早く、一刻も早く俺に、枷を、鎖を。
 お前のものになりたい。
 俺をお前の人形にしてくれ、雅……
「あ……」
 快楽が消えた。
 ウツロの口への蹂躙を星川雅がやめたのだ。
 唾液の粘った糸が重力に侵されてだらしなく垂れ下がる。
「あ、なんで……?」
 呆然とするしかない。
 どうしてだ雅?
 もう少しでなれそうだったのに、お前の人形に――
「気持ちいいのは長いほどいいでしょ、『ウツロ』? それにあなたはじらしたほうがかわいいし。心配しなくても手なずけてあげるから。ゆっくり、時間をかけてね? 人間論なんて吹っ飛ぶくらい気持ちよくしてあげるから」
「ん……」
 もう一度、今度はバードキス。
 極限までじらして躾を施すテクニックだ。
「続きはこれが終わったら、ね?」
 恍惚の表情でよだれを垂らすウツロとアクタに、調教済みの『犬』を連想し、星川雅はまた舌をのぞかせた。
 もうこいつらはわたしの支配下だ。
 煮るなり焼くなりかわいがってあげるからね、ウツロ? アクタ?
 わたしのかわいいペットたち――
 事を済ませ、おもむろに立ち上がると、彼女は叔父・似嵐鏡月のほうへ向きなおった。
「いとこどうしは結婚できるんだよ? 民法734条、覚えておいてね?」
 両腕を頭の上でクロスさせ、背中にくくりつけてある双刀を、じわりじわりと引き抜く。
 巨大な二本のダンビラを、叔父に向かってかざすようにかまえた。
「叔父様、似嵐の家名をけがした罪で、処刑いたします」
「面白かったぞ雅。アクタとウツロをすっかり骨抜きにしたな。あの腑抜けたツラ、見てられんわ」
「同じ穴のムジナでしょ、叔父様? 人間を玩具にするという点においてね」
「ほざけ雅。ミイラ取りをミイラに。お前もわしの玩具になってもらうぞ? 今度こそバラバラに切り刻んで、その肉片を傀儡仕掛けにし、姉貴の前で人形劇きとしゃれこむのだ」
「ああやだやだ、下劣な男。わたしをそんな目で見ないでくれる?」
「ふん、悪女が。そうだ、どうせなら後ろの役立たずどもとまとめて檻の中へ放り込み、見世物にするというのはどうかな? わしは見物料をたんまりせしめて、お前たちは仲よく気持ちいい思いができる。一石四鳥じゃないか?」
「けがらわしい、ぶち殺す!」
「ふん、本性を現しおったな。やってみろ」
 対の大刀を星川雅は前方へ突き出した。
「わたしの二竪(にじゅ)であの世へ送ってあげるよ」
 その目は爛々と、殺意に輝いている。
「なるほど、二竪か。姉貴の両面宿儺(りょうめんすくな)を小型にしたレプリカだな? 母の真似事ではわしは倒せんぞ?」
「レプリカじゃないし。それに真似事かどうか、試してみなよっ――」
 星川雅は強く、大地を蹴った。
「――っ!?」
 早い――
 中空でくるっと横に回転しながら、右の刀を袈裟に振り下ろす。
 似嵐鏡月はそれを黒彼岸で止めた。
 少女とは思えない重さ、そして――
「ぬっ――!?」
 間髪入れずさらに回転し、今度は左の刀の攻撃が来る。
「くっ!」
 似嵐鏡月はかろうじてそれを弾き返した。
 星川雅はトンボ返りして、じゅうぶんな間合いを保った位置に着地する。
「なるほどな。片方の刀で注意を引き、その隙にもう片方で攻撃する。理にかなった戦法だ。やるじゃないか雅」
「うふ。右が阿呼(あこ)で、左が吽多(うんた)っていうんだ。叔父様の血を欲しがってるよ? このままあなたを切り刻んであげる」
「ふん、偉そうに。お前の母が編み出したやり方ではないか。しょせんは劣化コピーではないのか? あーん、雅?」
「……なめやがって、ぶっ殺す!」
 桜の森の間隙をぬって、二つの影が激しくぶつかりあう。
 斬撃につぐ斬撃の応酬――
 虚空の静寂を蹂躙するように、鋼鉄どうしがこすれる音と、生じる火花が咲き乱れる。
 森の桜よりもなお、美しいような――
「ふん、なかなか楽しませてくれる。アクタやウツロなどよりよっぽど使いよるな、雅?」
「あは、まーね。教える人のレベルが違うから、ね?」
「ふん、いちいち生意気な娘だ。姉貴を見ているようで怖気が走るわ」
「あなただって吐き気を催すおぞましさだよ? 『毒虫の鏡月』?」
「おのれ、まだ言うか!」
 黒彼岸の鈍い一撃を、星川雅は受け止めた。
 そのまま体をひねって回転し、また間合いをあける。
「叔父様、こんなのはどう?」
 星川雅は背後に跳躍すると、桜の木の枝をステップ台にして、さらに高く跳んだ。
「むう、これは――」
 そのまま一面に生える桜の木々を中継として、似嵐鏡月の周りを跳び回る。
 かく乱しているのだ。
 次第にそれは加速され、目にも留まらない速さとなる。
 足の裏が木を打つ音と大気を切り裂く音が入りまじり、その破裂音が敵の幻惑に拍車をかける。
「八角八艘跳(はっかくはっそうと)びか。お前の年でもう体得しているとはな」
 源義経が海に浮かぶ舟の上を跳び回ったとされる八艘跳び。
 それに古流武術の三角跳びを多角版に改良したものを組み合わせた、似嵐流の絶技である。
「うふふ、叔父様。どこから襲ってあげようかなあ?」
 挑発により、さらに相手を焦らせる。
 すべては作戦の内だった。
「ふん、調子に乗りおって。どこからでもかかってこい、雅」
「いないいない、ばあっ!」
「そこだ――!」
 しかし、それは桜の木の枝――
 彼女が技を繰り出している最中にへし折れたものを手にしておき、ダミーとして攻撃させたのだ。
 黒彼岸を振り上げたその真後ろ――
 完全な死角となったそこに、星川雅はいた。
「とった――」
「むうん!」
「ぎゃっ!?」
 似嵐鏡月はそのまま体を回転させ、背後にいる彼女の左の脇腹を黒彼岸でうがった。
「ぐっ――」
 だが当て身としては浅かった。
 浅いとはいっても、常人なら背骨にひびくらいは入るほどの打撃だ。
 右手で打ち身を押さえながら、星川雅はなんとか、間合いを取って着地した。
「お前の考えなどお見とおしだ。八角八艘跳びは確かに絶技だが、見切られればすなわちサンドバッグも同然。母に習わなかったか? 愚か者めが」
「いたた、くそっ。油断しちゃったあ」
「いまの一撃、急所ははずしたが、あとからじわじわと効いてくるぞ? どうするかね雅? 土下座でもすれば、いまなら許してやらんでもないがね?」
「ああ最悪、超うぜえ。屈辱すぎて頭がおかしくなりそう」
「くくっ、わしは最高の気分だがな。姉貴をなぶっているようで気持ちがよいわ。どうする? 降参するか雅?」
「てめえにひれ伏すくらいなら叔父様、便所のウジムシとキスするほうがマシだよ?」
「ほう、ならばどうするかね?」
「こうするんだよ――!」
 脇腹を押さえていた右手の阿呼を顔の前、左手の吽多を頭の後ろへかざす。
 合わせ鏡の原理で、少女の顔面が大刀に映し出された。
「雅、お前こそ最強だ、お前こそ支配者だ、お前こそ帝王だ……!」
 自己催眠の要領で自分自身に強力な暗示をかける。
「ふう、復活」
 心臓の活動を増大させ、神経レベルで身体能力にブーストをかける。
 パワーアップした彼女の肉体には、成人した男子を超える筋力が備わっていた。
「やめておけ雅。その鏡地獄(かがみじごく)は使い方を間違えば、名前のとおり地獄となる。爆発的なパワーは得られるが、体がボロボロになり、最悪、死にいたるぞ? 悪いことは言わん、いますぐ術を解くのだ」
「うるさいよ、叔父様? あんたに負けるくらいなら死んだほうがマシだって」
「せっかく忠告しておるのにな。わかった、来い」
「これでも食らいなっ!」
 コマのようにくるくると回転しながら、二本の大刀が渦を作る。
 かまいたちよろしく敵を切り刻む、似嵐流の大技だ。
 彼女は風の塊となって、似嵐鏡月に襲いかかる。
「秘剣・纏旋風(まといつむじ)か、姉貴の得意技だったな。だが――」
 似嵐鏡月は低くかがんでから地面との反発を利用し、高くジャンプした。
「やはり劣化コピーよ!」
「なにっ!?」
 中空でくるっと翻り、回転する渦の中心を真上から突いた。
「があっ!?」
 頭頂部をしたたかに打たれた星川雅は、もんどりうって地面に転がった。
 患部を両手で押さえながら、大地を這うような姿勢で悶え苦しむ。
「二竪を手から放したな。武芸者にとって武器を放るのはすなわち死を意味する。まだまだだな、雅」
「ううっ……」
「さて雅、どうする? 命乞いでもするかね? まあ、いまさら許してなどやらんがな。どれ、ゆっくりと貴様を切り刻んで――」
「ド」
「ああ?」
「チクショウがあああああっ!」
 地面に両手をつき、天を仰いで、少女は咆哮した。
「なんでだっ!? なんで思いどおりにならないんだっ!? わたしが支配者だぞ!? 帝王はわたしなんだ! なのに、なのにっ! なんでだあああああっ!」
 星川雅が抱える異常な支配欲求、それが満たされなかったときの成れの果て。
 幼児性と狂気の暴発である。
 もはや自分ではコントロールできない。
 制御不能に陥った彼女は、機械のようにひたすら大地を殴った。
 だだをこねる子どものように。
 この様子に似嵐鏡月は面白くてしかたがない。
「ははっ、これは傑作だ! 雅、それがお前の正体、お前のすべてだ! 人格までも母の劣化コピーなのだ!」
「うるさいっ、うるさあああああい!」
「ああ、滑稽だ! 滑稽なピエロだお前は! お前は姉貴の操り人形なのだあっ!」
「言うな、言うなっ! わたしはあいつの、クソババアの人形なんかじゃなあああああい!」
「あは、ははっ。クソババアだって!? 雅よ、お前本当は、そんなふうに思っていたんだなあ! ああ最高だ。ざまあみろ、姉貴いっ! あんたは弟も、娘さえも不幸にする、不幸製造機なのだっ! あーはははははあっ!」
 腹を抱え、歯をカチカチ鳴らしながら嘲笑する。
 その異様すぎる光景を目の前にしたウツロとアクタは、逆に冷静になった。
 これが夢であったらどんなに楽だろうか?
 あのお師匠様が、強く優しいお師匠様が、こんなふうになるなんて。
 事情はともあれ、少女一人をいたぶり、あろうことかそれを楽しんでいる。
 子どもだ、まるで。
 星川雅と似嵐鏡月、姪と叔父どうしで、こんな狂気の沙汰を演じるとは。
 ウツロとアクタは自分たちが受けた仕打ちのことも忘れ、ただただ眼前の出来事に戦慄した。
 それほどの狂態だった。
「ああ、はは。いやいや、楽しませてもらった。天にも昇る気分とはこれだな。こんなに笑ったのは久しぶりだ、はーあ」
「ふう、ふう……」
 やっと笑いを落ち着かせた似嵐鏡月に対し、星川雅は伏したまま、全身で荒い呼吸をしている。
「ああ面白かった。面白かったから、雅――」
 軍靴仕様のブーツをじゃりじゃり鳴らしながら、深くうなだれた少女のほうへ近寄る。
「ひとおもいに一撃で葬ってやる。ありがたく思えよ。似嵐家伝承の宝刀にかかって死ぬのは、屈辱の極みだろうがなあ」
 ウツロとアクタは途端にハッとなった。
 それだけはダメだ。
 いくらなんでも、叔父が姪を手にかけるなど、あってはならない。
 それだけはなんとしても避けなければ。
「お師匠様、おやめください!」
「相手はまだ少女でございます!」
 二人は必死に叫んだ。
 なんとかして止めなければ――
 それだけをただ念じていた。
「うるさいぞお前ら、空気を読まんか。こいつを始末したら、次はお前らなんだからな? いまのうちに念仏でも唱えておけ、この役立たずども」
 絶望した。
 正気じゃない。
 いや、これがお師匠様の正気なのか?
 これがこの人の本当の姿、本当の気持ちなのか?
 わからない、何もかも。
 いったい何を信じればいいんだ?
 頭がおかしくなりそうだ。
 どうすれば、いったいどうすれば――
 ウツロもアクタも憔悴あまって、どうすればよいのかいっこうに判じかねている。
「さあ、おねんねの時間だよ、雅ちゃん?」
 そうこうしている間にも似嵐鏡月は、彼女の頭上へ黒彼岸を振りかざした。
「やめてくださいっ!」
「お師匠様あああっ!」
 絶叫で制止するも、彼の耳にはもう、入っていない。
「死ねい、雅っ!」
 刀を握る手に全力を込め、一気に振り下ろそうとした――
「……」
「ああ、なんだと? 聞こえんな」
「……間合いに入ってんじゃねーよ、バーカ」
「な――」
 星川雅の髪の毛がしゅるしゅると伸びて、似嵐鏡月の体に絡みついた。
「なっ、なんだこれはっ!?」
 意思を持ったかのような乱れる黒髪に、腕を、胴を、首を、がんじがらめに縛りあげられる。
 星川雅はくつくつと笑いはじめた。
 毛髪の下からのぞく双眸が爛々と赤く光っている。
「ウツロ、見せてあげる。これがわたしのアルトラだよ」
 伸《の》びあがった黒髪《くろかみ》が、ヘビのようにしゅるしゅるとうねって、似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》の腕《うで》に、胴《どう》に、首に巻《ま》きつく。

「なっ、なんだこれはっ!?」
「あはは、叔父様《おじさま》! このままペシャンコにしてあげるよ!」

 ギリギリと締《し》めあげるその力に、彼はもがくことしかできない。
 星川雅《ほしかわ みやび》の変身、その異形《いぎょう》の姿に、ウツロとアクタは息をのんだ。
 彼女の形相《ぎょうそう》はまさに、獲物《えもの》を嬲《なぶ》るヘビのそれだ。

「暴《あば》れたのと、二人ががんばって叫《さけ》んでくれたおかげで、期《き》せずしてだけれど、正気《しょうき》に戻《もど》れたよ」

 似嵐鏡月はもはや、言葉を発《はっ》することも難しいほど強く、締めつけられている。
 その苦しむ様子を、彼女は舌をなめながら観察している。

「どう? 驚《おどろ》いたでしょ? 『ゴーゴン・ヘッド』って名前なんだ。こうやって、髪の毛で相手を弱らせてから、そのあとね――」
「――!」

 『ヘビの髪』が《《捕らえた獲物》》を中空《ちゅうくう》へ持ち上げ、そのまま少女の頭上《ずじょう》へと引《ひ》き寄《よ》せた。

 星川雅の後頭部《こうとうぶ》がパックリ割《わ》れて、とがった『歯』と、バカでかい『舌』が姿を現す。

「この大きな口で、むしゃむしゃ食べるんだよ」

 舌なめずりをする大きな口に、似嵐鏡月が運ばれる。

「……バケモノ」

 思わずアクタは、そう呟《つぶや》いてしまった。

「バケモノ? そうだよ。わたしは『バケモノ』なんだよ、アクタ? ヘビの触手《しょくしゅ》とこの大口《おおぐち》。これがわたしのアルトラ、『ゴーゴン・ヘッド』。『バラの花』みたく見えない?」

 星川雅はケラケラと笑っている。

「うふ。『ゴーゴン』はギリシャ神話の怪物、バケモノのことだものね。気に入ってるんだ、このネーミング」

 彼女は呆然《ぼうぜん》とするウツロのほうを見た。

「ウツロ、どう思う? 醜《みにく》いでしょ? わたしの姿は。アルトラとは精神の投影。つまり、わたしの心は、こんなにおぞましい醜さってこと」

 言葉にならない。
 どう声をかければよいのか――

 ウツロの心境《しんきょう》は悲痛《ひつう》だった。

「毒虫がどうとかって言ってたよね? それがなんなの? この醜さに比べれば、毒虫が何よ? わたしがどんな思いで、こんなのと向き合ってきたと思う? 地獄の苦しみだよ。これがわたしの正体《しょうたい》なんだ、わたしの心は、こんなに醜いんだ、ってね」

 自分の放った言葉で感傷的《かんしょうてき》になり、星川雅は急に、切ない顔になった。

「ウツロ、こんなわたしを、愛してくれる?」

 ウツロには確かに見えた。
 そう言った少女のまなじりに、光るものが――

(『涙《なみだ》』へ続く)
「ウツロ、こんなわたしを、愛してくれる?」

 ウツロには確かに見えた。
 そう言った少女のまなじりに、光るものが――

 『地獄』だと、彼女は言った。
 『生き地獄』、だろう。

「どうなの? 愛してくれるの?」

 何も言えない。
 どう答えればよいのか――

――「人間だよ、ウツロくん!」

 真田龍子《さなだ りょうこ》がどんな思いでそう言ったのか、ウツロはなんとなくわかった気がした。
 星川雅《ほしかわ みやび》の苦しみを、知っているからではないのか?
 おのれを『バケモノ』だと自嘲《じちょう》する、このあわれな少女の涙を――

「……ふん、つまんないの」

 『触手《しょくしゅ》』が似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》を放《ほう》り投《な》げる。
 桜の木の一本に当たり、低い呻《うめ》き声《ごえ》を上げ、その根もとに転がった。
 頭をしたたかに打って、彼は気絶《きぜつ》した。

「お師匠様《ししょうさま》!」

 ウツロとアクタは叫んだ。

「まだ『お師匠様』なんて呼ぶんだ? あなたたちの人生を奪《うば》った男なんだよ?」

 二人は黙《だま》ってしまった。

 現実は現実だが、まだ受け入れられないでいる自分たち。
 実は何かの間違いだったら――

 そんな風《ふう》に考えてもいる。

 たとえ現実だとしても、どうにかならないものか?
 その上での打開策《だかいさく》が、あるのではないか?

 甘いのかもしれない、俺たちは――

 しかしそれは、彼らが師《し》を、似嵐鏡月を信じているからにほかならない。

 あの楽しい日々、それが全部、まやかしだったなんて……

 人生を奪われた、確かにそうなのかもしれない。
 与えられたのか、奪われたのか……

 こんな状況でウツロは、得意の思索《しさく》を発動させていた。

「ねえ、ウツロ」

 髪の毛がこちらに伸《の》びてくる。
 体をゆっくりと絡《から》め取《と》られる。

「わたしのこと、愛してよ? じゃなきゃ、死んで」

 愛されたい。
 それがこの少女の本当の気持ち――

 母親の人形《にんぎょう》として育てられたがゆえに生《しょう》じる、支配欲求《しはいよっきゅう》。
 自分がされたことを、他者《たしゃ》にしたいという衝動《しょうどう》である。
 それが強すぎるのは、それだけ彼女が、抑圧《よくあつ》されたと感じているからだ。

 母に対する憎しみは、愛情の裏返し。
 わたしは本当の意味で、愛されたい――

 だが、彼女には、それがわからない。
 『真《しん》の愛』とは何なのか?
 それを求めてさまよっているのだ。

 彼なら、ウツロならあるいは、この問いかけに、解答を与えてくれるのではないのか?
 愛とは何であるのかを、教えてくれるのではないのか?

 そんな期待感があった。
 闇の中に光を探すような期待、ではあったが――

「ねえ、どうなの? 何か言ってよ?」

 ウツロは答えない。
 答えないのが、答えであることに、彼女は気づいた。

「……生意気《なまいき》」
「うっ……」

 じわじわと、ヘビがそうするように締《し》めあげる。

「はあ、その顔。かわいい……」
「おいっ! やめろ!」

 黒髪の一部がうねって、アクタをも絡め取る。

「ぐうっ……」
「アクタも一緒に、ね? うふふ、兄弟仲良く、逝《い》きなよ」

 アクタは苦しんでいるが、ウツロは違った。
 いや、苦しいのは確かだが、漠然《ばくぜん》とした開放感があった。

 俺がこのまま死ねば、もしかしたら『雅』に、救済《きゅうさい》が与えられるのではないか?

 そんなことを考えていた。

 こうなったらもう、どうでもいい。
 考えるのはもう、面倒《めんどう》だ。
 それに、こんな命で、この少女が救えるのなら――

 良くいえば自己犠牲《じこぎせい》、悪くいえば偽善《ぎぜん》。
 だがそんなことは、ウツロにはどうでもよかった。
 ただ純粋に、彼女を救いたいと思っていた。

 《《髪の毛ごしに》》その思いが伝わってきて、星川雅は葛藤《かっとう》した。

「……どいつもこいつも、バカにしやがって……」

 本心ではわかっている。
 しかし、絶対に認めたくなかった。

 こんな毒虫に同情されている――
 それが屈辱《くつじょく》でならなかった。

「望みどおりにしてやる、ウツロ……!」

 締めつける力に、一気に加速がかかった。

「雅っ!」
「おいっ! みんな大丈夫かっ!?」

 真田龍子と南柾樹《みなみ まさき》――

 だいぶ遅くはなったが、この場所に駆《か》けつけたのだ。
 二人は目の前の光景に、愕然《がくぜん》とした。

「雅、その姿……」
「おいっ、何してんだ!?」

 アルトラ『ゴーゴン・ヘッド』のことを知っているとはいえ、そのおぞましい醜《みにく》さを晒《さら》すは、彼女にとって、耐《た》えがたいものだった。
 それ以上に、自分の心の醜さを晒すことには――

「……見ないで……龍子……柾樹……」

 少女の顔が、悲しみに歪《ゆが》んだ――

(『同情《どうじょう》』へ続く)
「……見ないで……龍子《りょうこ》……柾樹《まさき》……」

 少女の顔が、悲しみに歪《ゆが》んだ――

 ウツロとアクタを捕《と》らえる髪《かみ》の力が緩《ゆる》む。
 星川雅《ほしかわ みやび》は糸が切れたように、その場へ膝《ひざ》を落とした。

「雅っ! しっかりして!」
「来ないで、龍子……わたし、わたし……」

 真田《さなだ》龍子は駆《か》け寄《よ》るが、星川雅は拒絶《きょぜつ》の言葉を吐《は》く。

 いっぽう南《みなみ》柾樹は、ウツロとアクタのほうへ駆けつけた。

「おいっ、お前らも大丈夫か!?」
「柾樹……すまない……」
「ウツロ、この人たちは……?」

 当然ながらアクタのほうは、状況《じょうきょう》がのみこめない。
 彼はいぶかり気味《ぎみ》に、ウツロへたずねた。

「アクタと別れたあと、俺をかくまってくれた人たちなんだ。手当てを受けて、食事までご馳走《ちそう》してくれたんだよ」

 アクタは言葉に詰《つ》まった。

 ウツロを助けてくれた人たちだったとは……

 知らなかったとはいえ、疑《うたが》ってしまった自分が、恥《は》ずかしかった。

「……そう、だったのか。すまない、その、『マサキ』さん」
「『柾樹』でいいって。それより、お前らのほうが心配だ。あんたが『アクタ』さん、でいいんだよな?」
「『アクタ』でかまわない。俺は大丈夫だから、ウツロを頼む」
「待ってろ、すぐに治療《ちりょう》できるところへ運んでやる。あ――」

 南柾樹には、ためらいがあった。
 だが、今後のことを考えれば、いま、はっきりさせておかなければならない。
 彼はたとえ、『鬼《おに》』と呼ばれようともと、腹をくくった。

「……お前たち、その……『兄弟』、なんだってな……」
「――!」

 ウツロとアクタはびっくりした。
 なぜ、この場にいなかった彼が、そのことを知っているのか?

「柾樹……どうして、それを……」

 ウツロがおそるおそる聞く。

「すまねえ、雅が『発信機《はっしんき》』を持ってたんだ。で、『受信機《じゅしんき》』のほうは、こっちにあったってわけ。わりいとは思いながら、ぜんぶ、聞いちまった。ごめん、謝《あやま》る」

 事実を述《の》べ、彼は正直な気持ちから、二人に頭を下げた。

「いや、とんでもない。事情《じじょう》が事情だからな、しかたないさ。むしろ、礼を言いたいんだ、マサキ」

 アクタは座った体勢《たいせい》から、恭《うやうや》しく地面に両手をついた。

「おい、よせって! なにやってんだよ!? 俺らは事《こと》の成《な》り行《ゆ》きを、ぜんぶ盗聴《とうちょう》してたんだぜ!? 非難《ひなん》されこそすれ、礼なんて言われるいわれはねえ! 体に響《ひび》くから、頭を上げてくれよ!」
「いや、こうさせてくれ。ウツロが、世話《せわ》になったようだ。守ってくれて、ありがとう……」

 痛む体をおして、アクタはさらに、深々《ふかぶか》と頭《こうべ》を垂《た》れる。

「アクタ……」

 南柾樹は複雑《ふくざつ》な気持ちだった。
 彼はまた、言おうか言うまいか、迷《まよ》った。

 だが、ここで自分が逃げては、アクタの矜持《きょうじ》を侮辱《ぶじょく》することになる。
 俺がやるしかない――

 そう、心に決めた。

「……こんなこと、言っていいのかわかんねえけど……お前ら、『いい《《兄弟》》』だぜ? アクタ……あんた、『最高の《《兄貴》》』だよ」

 アクタは衝撃《しょうげき》を隠《かく》せなかった。

 いま出会ったばかりのこの男が、ウツロと俺のことを察《さっ》し、仲《なか》を取り持ってくれた――
 なんてやつだ、マサキ……

 彼の頭に浮かぶのは、ひたすらうれしい気持ちだった。

「……マサキ……ありがとう……」

 アクタはこぼれる涙を拭《ふ》くのも忘れて、弟を大事にしてくたこの少年に、厚《あつ》く感謝した。

「ウツロ、おめえもな。バカなこと考えるやつだけど、『いい《《弟》》』だぜ? あんまり《《兄貴》》の足、引《ひ》っ張《ぱ》んなよ?」

 ウツロも同様《どうよう》、いや、アクタとは違い、南柾樹を知っているだけに、輪《わ》をかけてうれしかった。

 憎《にく》らしいやつだとばかり思っていたけれど、それは俺が、こいつの上《うら》っ面《つら》だけを見ていたからなんだ。

 こんなにいいやつなのに、俺は正直、軽蔑《けいべつ》していた。
 人の気持ちなんてわからない男だと、そう決めつけていたんだ。

 最低だ、俺は――

 すまない、柾樹。
 そして、ありがとう……

「……『バカ』は余計《よけい》だぞ、柾樹……」

 うれしさあまって、ついウツロは、憎《にく》まれ口《ぐち》を叩《たた》いてしまった。
 実際は、感激に打《う》ち震《ふる》えているというのに――

「おい、ウツロ。またヘンな思索《しさく》して、この人たちを困らせたんだろ? バカな《《弟》》だぜ、まったく。俺みてえにパーになれって言っただろ?」
「うるさい、アクタ。バカはお前だろ? パッパラパーの《《兄貴》》め!」

 現実は現実だ、しかたがない。
 でも、悪くはない現実も、ある。

 兄弟だった――
 いいじゃないか、それはそれで。

 二人はそんなことを思いながら、張《は》りつめていた心が氷解《ひょうかい》していく感覚を、お互《たが》いに共有した。

 『兄弟』は涙を流しながら、しかし笑顔でじゃれあっている。

 いいねえ、なんだか――

 目の前の楽しそうなやり取りを見つめながら、南柾樹は涙腺《るいせん》を緩《ゆる》ませた。

   *

「雅っ、しっかりして!」
「触《さわ》んな、豚女《ぶたおんな》……!」
「雅……」

 気づかう真田龍子の手を、星川雅は撥《は》ね退《の》けた――

(『あわれみ』へ続く)
「雅《みやび》っ、しっかりして!」
「触《さわ》んな、豚女《ぶたおんな》……!」
「雅……」

 気づかう真田龍子《さなだ りょうこ》の手を、星川雅《ほしかわ みやび》は撥《は》ね退《の》けた――

「友達ぶって、《《いい人》》のフリしやがって」
「雅、わたし、そんなつもりは……」
「ほら、それだよ。善人ぶってさ、吐き気がする!」

 立て続けに、呪いの言葉を吐く。

「何か言ってみろよ、豚女」

 真田龍子は、なんとかして星川雅の心を開きたいと思った。
 そのためには、こちらも心を開く必要がある――
 彼女はそう、決心した。

「豚《ぶた》でかまわない」
「……は?」
「……わたしは雅の、『豚』でかまわないよ」
「……なに、言ってんの……?」
「雅の、他人を支配したいという気持ち、わたしが受け止める。だからわたしは、雅の豚で、かまわない」
「なに、それ……聖人みたいなこと言わないでよ。わかってるんでしょ? わたしがあんたに、なにをしてるのか?」
「ええ」
「なら、なんで……」
「もし、雅が……誰も支配できないって、苦しんでいるのなら、わたしだけは、支配していい。そういうことだよ」
「なにを、言ってるのか……意味わかんねーよ……」
「少なくともわたしだけは、雅の支配対象でいいってこと」
「そんなこと言って、ポイント稼いで、ウツロをわたしから取ろうってんでしょ?」
「もちろん、わたしはウツロくんを愛してる」
「……ははっ、ほら、やっぱりじゃん。結局そこなんじゃない」
「いえ、違う」
「何が違うんだよ?」
「わたしはウツロくんを愛してる。でもそれは、ウツロくんを愛することで、ウツロくんを救い、わたし自身も救うって意味なんだ。そして雅、それとは別に、わたしは、あなたに支配されることで、あなたも救いたい。それは、あなたを救うことで、わたしも救われるということ」
「トンチ問答かよ。それってすごい、わがままじゃん?」
「わかってる。わがままなのは、わかってる。でもわたしは、ウツロくんも救いたいし、雅のことも、救いたい」
「自己犠牲《じこぎせい》、とでも言いたいの? あんたのそれは、『偽善《ぎぜん》』だよ?」
「偽善でいい。わたしだけでも支配することで、雅、あなたが救われるのなら」
「……ああ、そうかよ……」
「――!?」

 星川雅は髪の毛で、真田龍子を絡《から》め取《と》った。

「このままズタズタにすることもできるんだよ?」
「いいよ。それで雅が、救われるのなら」
「……なめやがって」
「――!」

 そのまま一気に締《し》め上《あ》げる。

「どうよ? これでもまだ、同じことを言えんのかよ?」
「かまわない……わたしが、ウツロくんを、愛している、事実は、変わらないから……」
「――!?」

 星川雅は葛藤《かっとう》した。

 真田龍子を殺せば、彼女のウツロへの愛は、永遠に封印される。
 かといって、生かしておいても同じだ。
 どちらに転んでも、二人は愛し合う。

 ――ジレンマ――

 自分とは関係なく、ウツロと真田龍子は愛し合う。
 そのジレンマに、彼女は何もできなくなった。

「……ずるいよ、龍子……」

 真田龍子を縛る髪の毛が緩《ゆる》む。
 耐えられなくなって、星川雅はまた、涙を流した。

「ごめん、雅。わがまま言っちゃって。でも、これだけは許してほしいんだ。それ以外なら、なんでも好きにしていいから」
「生意気……必ず、豚にしてやるんだから……」
「楽しみにしてるよ? 《《わたしの》》『ご主人様』?」
「うるさい、豚女……」
「『帝王』になるのも、楽じゃないよね」

 星川雅の顔が、いや、心が癒《いや》されていく。
 真田龍子がその能力を使ったわけではない。
 彼女はアルトラなしで、『親友』の心を開いたのだ。

 それは見せかけの『同情』などではなく、彼女が友に対して、純粋な『あわれみ』を向けたからにほかならない。
 真田龍子の『慈《いつく》しみ』の結果だった。

「なんか、あっちのほうも、うまくいったみてえだな。ひやひやしたけどよ」
「ウツロが見守ろうっていうから、おとなしくはしてたがな。マジで危なかったぜ」

 南柾樹《みなみ まさき》とアクタは、肩の力が抜けて、胸を撫《な》で下《お》ろした。

「俺は、信じてたから。真田さんを、そして、雅を。感傷的《かんしょうてき》だし、漠然《ばくぜん》とだけれど、大丈夫だと思ったんだ」
「ほんと、甘《あま》ちゃんだよな、お前は」
「そこがお前のいいとこだけどな」

 ウツロの判断を、アクタと南柾樹は賞賛《しょうさん》した。

 信じるという行為《こうい》は、曖昧《あいまい》であるがゆえに、勇気を伴《ともな》う。
 それをウツロはやってのけたのだ。

 しかしたとえ、結果がどう転ぼうとも、誰もウツロを責《せ》めることはしなかっただろう。
 それもやはり、二人がウツロを『信じて』いたからに、ほかならない。

 三人にはこのとき、奇妙な結束力が生まれていた。
 やはり曖昧なものであって、証明など不可能であるが、小さな、しかし確かな信頼の力だった。

「ふふ、ふふふ」
「――!?」

 似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》――

 いつの間《ま》にか覚醒《かくせい》していた彼は、一連《いちれん》の状況を観察していた。
 そして薄気味《うすきみ》の悪い、下卑《げび》た笑い声を上げたのだった。

「面白かったぞ、お前たち。信じる力か。こんなことが、人間には可能なのだな。まったく、『反吐《へど》が出る』」

「お師匠様っ!」
「あら、叔父様《おじさま》、生きてたんだ?」
「おい、おっさん! この落とし前はちゃーんと、つけてもらうぜ?」

 ウツロとアクタ、そして星川雅と南柾樹は、場違《ばちが》いなこの男に、それぞれの言葉をかけた。
 しかし彼自身はまったく、意《い》に介《かい》してなどいない。

「さえずるな、ガキども。雅、まさか《《お前も》》アルトラに開眼《かいがん》していたとはな。そしてその口ぶりから、どうやら《《ウツロも》》出会ったようだな、『魔王桜《まおうざくら》』に」
「――!?」

 思わぬセリフを口にしたことに、一同《いちどう》は驚愕《きょうがく》した。

「わしもなんだよ。わしも出会ったことがあるのだ、魔王桜に。すなわち、わしも『アルトラ使い』なのだよ。つまりどうやら、アクタを除《のぞ》き、この場《ば》にいるのは《《全員》》、『アルトラ使い』というわけのようだ」

 ウツロたちは絶句《ぜっく》した。

「アルトラにはアルトラで。見せてやろう」

 大柄《おおがら》なその体が、地鳴《じな》りのような音を立てて、蠢《うごめ》きだす。

「これがわしの、『ブラック・ドッグ』だ!」

 みるみるうちに、似嵐鏡月の体が、山のように膨《ふく》れ上《あ》がった――

(『ブラック・ドッグ』へ続く)
「これがわしの『ブラック・ドッグ』だ!」

 似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》の体が、山のように盛り上がった。

「お師匠様《ししょうさま》……」
「なんて、ことだ……」

 ウツロとアクタは言葉を失いかけた。

「どうだ? アクタ、ウツロ。これがお前の父の、お前たちの人生を奪《うば》った者の、その正体《しょうたい》だ」

 山犬《やまいぬ》――

 彼の姿は、漆黒《しっこく》の巨大な『山犬』となった。

 白い『牙《きば》』をむき、その目は爛々《らんらん》と光っている。

 二人はすっかり、気が動転《どうてん》してしまった。

「はん! まさか叔父様《おじさま》まで、アルトラ使いだったとはね。まあ、醜《みにく》いこと! 子どもの人生を平気で踏《ふ》みにじる、そんな親にはぴったりだよね!」
「それは雅《みやび》、自分の母のことを言っているのではないかね?」
「――!?」

 星川雅《ほしかわ みやび》は指摘の裏をかかれ、言葉に詰《つ》まった。

「ほら、何も言い返せんだろ? われらは同じ穴のムジナよ。いや、ひいては人間。人間の存在とは、そういうものなのだ。人間の存在は、間違っているのだ」
「……ずいぶん、『人間』が嫌いなんだね。だから、『人間』を傷つけるのが得意なんだ? あなただって『人間』じゃん? バカなの? そんなに『人間』が嫌いなら、まず自分が死んだらいいじゃん?」

 星川雅は最大級の毒を吐いたつもりだった。

「――っ!?」

 笑っている、似嵐鏡月は――
 その裂《さ》けた口を不気味に歪《ゆが》ませて。

 こんなことを言われて、どうして笑えるのか?
 彼女は得体《えたい》の知れない恐怖を覚えた。

「ああ、もちろん、《《そのつもりさ》》。ただ、『本懐《ほんかい》』を遂《と》げることができてから、の話だがな」
「本懐……って、なんのことよ……?」

 星川雅はおそるおそる聞いた。

「この世から、『人間』を駆逐《くちく》する」

 何を言っているんだ?
 頭は大丈夫なのか?

 『人間』を駆逐するだって?
 正気《しょうき》じゃない。
 いったいどういう意味だ?

 理性的な彼女ですら、意味がわからず、混乱した。

「『人間』の存在は、間違っている。だから、駆逐する。単純明快《たんじゅんめいかい》、それだけだ」

 『牙』の隙間《すきま》からよだれを垂《た》らしながら、似嵐鏡月は答えた。

「……なんで」
「ああ?」
「なんで、そんなに、『人間』が憎《にく》いんですか? 《《似嵐さん》》……?」

 真田龍子《さなだ りょうこ》――

 黙《だま》って聞いていた彼女が、狂気の山犬にそう、問いかけた。

「『憎い』、か。それは違うな、お嬢《じょう》ちゃん。『憎い』のではない、宇宙の真理に照らして、『人間』の存在は間違っている。そう、言っているのだ」

 似嵐鏡月はにわかに、遠い目をした。

「あれは……わしがまだ、ガキの時分《じぶん》のことだ……」

(『毒虫《どくむし》の鏡月《きょうげつ》』へ続く)
「人間って、何だろう?」

 昼下《ひるさ》がりの竹林《ちくりん》を着物姿《きものすがた》で散策《さんさく》しながら、当時十六歳だった少年・似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》は、そんなことばかり考えていた。

「なぜ僕は、人間であって、虫ではないのだろうか?」

 石畳《いしだたみ》の上にそれは矮小《わいしょう》な、一匹《いっぴき》の毒虫が這《は》っているのを見つけた。
 彼はしゃがみこんで、その毒虫を、じっと観察した。

「お前は、いいね」

 名前もわからないような毒虫に、彼は語りかける。

「人間は、疲れる。僕は、君になりたいよ」

 似嵐鏡月の頬《ほほ》を、滴《しずく》が裂《さ》いた。

   *

 京都の山深《やまぶか》いところに、似嵐一族代々《にがらしいちぞくだいだい》の屋敷《やしき》はあった。
 辺《あた》りは一面《いちめん》、杉林《すぎばやし》。

 鏡月は次期当主《じきとうしゅ》となるべく、姉・皐月《さつき》とともに、父・暗月《あんげつ》から、厳しい鍛錬《たんれん》を課せられていた。

「あらら、鏡月。もうへばったん? あんたが珍《めずら》しく、稽古《けいこ》をつけてくれなんて言うから、せっかくつきおうてあげとるのに。ほんに、ダメな弟やね」

 似嵐皐月《にがらし さつき》は、両手に持つ大刀《だいとう》・両面宿儺《りょうめんすくな》をしまいながら、深いため息をついた。

「鏡月っ! なんや、そのザマは! 次期当主としての自覚《じかく》が、ほんまにあるんか!? わしに恥《はじ》をかかす気ぃかいな!?」

 似嵐暗月《にがらし あんげつ》の《《しごき》》は常軌《じょうき》を逸《いっ》していた。
 それでも鏡月は、次期当主の座を嘱望《しょくぼう》される身として、父に、そして姉に、必死で応《こた》えようとしていた。

「お父様、鏡月は似嵐家《にがらしけ》の当主よりも、哲学者なんぞが向いとるんやありません? なにやら一生懸命《いっしょうけんめい》、そげな本を読んどるようですし」
「そうやもしれん。まったく、人間がどうたらなんぞ、考えんのになんの意味があるんやろうかの。はーあ、似嵐の家も、わしの代《だい》で終わりか。こん、面汚《つらよご》しがっ!」

  *

「僕はきっと、向いていないんだ、『人間』に……だから、君になりたい……僕は毒虫になるんだ……」

 そっと手を伸《の》ばす。
 指先《ゆびさき》が触《ふ》れる。
 ほら、もう独《ひと》りじゃないよ――

「若様《わかさま》っ!」

 竹林の奥から響《ひび》いた声に、似嵐鏡月は急いで、着物の袖《そで》で涙を拭《ぬぐ》った。
 似嵐一族の者より数段《すうだん》、貧しい着物を纏《まと》った少女が、彼の元へ駆《か》け寄《よ》ってきた。

「若様、お館様《やかたさま》に酷《ひど》くしごかれていたようですが、大事はないでしょうか?」
「《《アクタ》》、ありがとう。心配してくれて。こんなところに来てはダメだ。僕と一緒《いっしょ》にいるのが、父上《ちちうえ》に知られたら、また《《せっかん》》されてしまうよ」
「何をおっしゃるのですか。若様はわたしのような、卑《いや》しい身分《みぶん》の者にも、やさしく接《せっ》してくださいます。わたしは若様のためなら、この身だって、捧《ささ》げる心づもりなのです。それがたとえ、魔道《まどう》に落ちるようなことであったとしても」

 《《アクタ》》は、身寄《みよ》りのない子だった。
 物心《ものごころ》もつかない時分《じぶん》に拾《ひろ》われ、似嵐家の小間使《こまづか》いとして、劣悪《れつあく》な環境で働かされていた。

 『アクタ』とは『芥《あくた》』、『ゴミ』という意味をこめて、似嵐暗月がつけた名だった。

 だが、彼女は幸せだった。
 鏡月だけは心を許し、大切に扱《あつか》ってくれていたからだ。

 若様だけは、わたしを『人間扱い』してくださる――

 それがなによりうれしく、唯一《ゆいいつ》の生きがいだった。

 鏡月もまた、純粋に自分に尽《つ》くしてくれるこの少女に、身分の差を越《こ》えた想《おも》いを抱《いだ》いていた。

 それはいつからか、特別な感情に変わっていた――

「アクタ」
「――!?」

 似嵐鏡月は、アクタを抱《だ》きしめた。

「おやめください、若様! 身分が違いすぎ――」

 口づけ。

 アクタの思考は吹っ飛んだ。

 ああ、信じられない。
 『願い』がかなった。
 《《絶対にかなわないはずの願い》》が――

 うれしい。
 こんなに幸せで、いいのだろうか?

「ん……」

 見つめ合う。
 そのほてった顔を互《たが》いに、確認した。

「若様、どうか、浅《あさ》ましいわたしを、お許しください……」
「僕のほうこそ、こんなことをしてしまって……許しておくれ、アクタ……」

 竹林の静寂《せいじゃく》は、二人《ふたり》の愛をしばし、世界から封印《ふういん》した――

   *

 事《こと》の一部始終《いちぶしじゅう》を、竹林の奥から観察していた者があった。

 鏡月の姉・似嵐皐月だ。

 彼女はペロリと舌をなめ、その場から姿を消した。

 『事件』が起こったのは、明くる深夜のことだった――

(『人間《にんげん》』へ続く)


<作者から>

今回は、残酷描写が特に、強めになっております。
最大限、配慮いたしましたが、閲覧に際し、じゅうぶんにご留意ください。



 似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》が何かの気配《けはい》を感じて、その目を覚《さ》ましたのは、明《あ》くる深夜一時を過《す》ぎたころだった。

「……なんだろう?」

 屋敷《やしき》を囲《かこ》む杉林《すぎばやし》の、さらに奥《おく》――竹林《ちくりん》へとつながる道の辺《あた》りだろうか?

 あそこには、《《アクタ》》の住む『納屋《なや》』がある。
 何か……胸騒《むなさわ》ぎがする……

 鏡月は布団《ふとん》から起き上がり、その場所へと急いだ――

   *

 アクタの納屋から漏《も》れ聞《き》こえるのは、人間の呻《うめ》き声《ごえ》だった。

 やはり、何かある――

 鏡月は気配を殺して近づき、納屋の格子窓《こうしまど》から、中の様子をうかがった。

「――っ!」

 アクタだった。

 そして、似嵐家《にがらしけ》を守る『お庭番《にわばん》』の中でも、屈強《くっきょう》の男たちが数名《すうめい》。

 そう、アクタは一方的《いっぽうてき》に、辱《はずかし》めを受けていたのだ。

 鏡月は怒《いか》り狂《くる》った。

 こいつらを八つ裂きにしてやる――そう思った、が。
「遅かったねえ、鏡月」
 振り向いたその先には、姉・皐月が、にたにたしながら腕を組んで立っていた。
「姉さん……どういうことだ……!?」
「あんたのためやん。あの汚らしいメス豚が、あんたをたらしこんでたんやろ? まったく、お父様から受けた大恩も忘れてからに。ほんに『芥』、『ゴミ』やねえ」
「きっ、貴様あああああっ!」
 姉だろうと関係ない。いますぐこの女を殺してやる――
 しかし次の瞬間、似嵐皐月は、思いもかけない物を、鏡月の前に差し出した。
「これは――」
「そう、似嵐家の宝刀・黒彼岸や。お父様の言いつけで、借りてきたんやで? 鏡月、こいつであの女の頭を、砕くんや」
「――!?」
「それができたら、お前を似嵐の次期当主として、認めたる――それが、お父様の意志や」
「な、そんなこと……」
「わかっとる思うけど、それほどの覚悟があるならゆう、意味やで? さあ、はよしい」
「……」
 従うしかない、従うしか……
 それしか、僕の生きる道はない――似嵐鏡月は、究極の選択に追い込まれたのだった。

   *

 鏡月が納屋へ足を踏み入れたとき、アクタはすでに、虫の息だった。
 虚ろなその瞳は焦点が定まらず、鏡月のことを認識できているのかすら、わからない状態だった。
「さあ、鏡月。ひとおもいに、カチ割るんや」
「あ……あ……」
 こんなことが許されるんだろうか?
 こんなこと、『人間』にできることじゃない……
 悪鬼……鬼畜……外道の所業だ……
 『人間』じゃない……『人間』じゃ……
「はよしいなあ」
 『人間』だと……?
 こんなことをする者が……?
 そんな存在が『人間』であるならば……『人間』なんていらない……『人間』の存在は、間違っている……『人間』は、駆逐しなければならない……
「……う」
「ああ? なんやて、鏡げ――」
「うわああああああああああっ!」
「――!?」
 正気を失った鏡月は、お庭番を皆殺しにし、黒彼岸とアクタを抱え、その場から逃走した――

   *

 凄惨《せいさん》な過去を話したあと、『山犬《やまいぬ》』の姿の似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》は、その目から血の涙を流した。

 その場に立ち会うウツロたちは、息の詰まる感覚に、呼吸すら忘れてしまいそうだった。

「あとでわかったことだがな……《《アクタ》》を殺せなどとは、親父は命じていなかったのだ……あれは……わが姉・皐月《さつき》が……すなわち、雅《みやび》……お前の母の独断でのことだった……だから《《わざと》》わしを逃がしたのだ……黒彼岸《くろひがん》も、姉貴が勝手に持ち出していた……それをすべて、わしが似嵐《にがらし》の家をのっとろうと策謀《さくぼう》してのこと、そう、誘導したのだ……」

 星川雅《ほしかわ みやび》は複雑な胸中《きょうちゅう》だった。
 彼女は母の性格をよく知っている。
 だからこそ、《《やりかねない》》――そう思ったからだ。

「なんで……『お姉さん』は、そんなことを……自分の、『弟』なのに……」

 真田龍子《さなだ りょうこ》が語りかけた。
 星川雅に助《たす》け舟《ぶね》を出す意味もあるが、なにより、『姉と弟』という関係。

 なぜ、星川皐月という人は、この弟に、そんな仕打ちをしたのか?
 それが気にかかってしかたがなかった。

 そして彼女はあえて、『お姉さん』と表現した。
 『雅のお母さん』と言ってしまえば、心痛《しんつう》は計り知れないだとうという配慮からだ。

「さあな……自分が似嵐の家をのっとりたかったのか、あるいは単に、わしが憎かったのか……もう、どうでもいいさ……どうでもな……」

 同時にこのとき、もう一つ、引っかかってしかたがないことがあった。
 自分もそうなのではないのか?

 かつて自分は弟を、虎太郎《こたろう》を追いつめ、最悪の事態を招く寸前までいった。

 同じなのではないか?
 自分もその、似嵐皐月と――

 いつか自分も、彼女が弟にしたように虎太郎にまた災厄《さいやく》を、もたらすのではないか?
 そんな思いに締めつけられた。

「ふふふ」

 山犬が笑っている。
 牙の生えそろった口もとを凸《とつ》に歪《ゆが》めて――

「お嬢ちゃん、お前さんの考えていることがわかるぞ、手に取るようにな」

 悟られている――
 しかし、虎太郎のことなど、この男は知らないはずだ。
 彼女は言いしれない不安に駆《か》られた。

「部分的ではあるが、スズメに施《ほどこ》した『口寄せ』、その『目』をとおして、見ていたぞ、お前が弟……『虎太郎』といったか、なにをしたかをな」
「――!」

 こいつはいま、おそろしいことを考えている。
 今度は星川雅が、真田龍子を助けなければと思った。

「やめて、叔父様《おじさま》っ!」
「黙れ雅。お前はその娘を、人形にして遊んでいたのだろう? その、『真田龍子』を。母がするようにもてあそんで、楽しんでいたくせに。助ける義理など、あろうはずもない、そうだろう?」

 下唇《したくちびる》を噛《か》む。
 言い返せなかった。
 山犬・鏡月は追い打ちをかける。

「真田龍子よ、どう思うかね? お前も弟に、いつか同じことをするのではないか、そう、葛藤《かっとう》しているのだろう? 雅の言うとおり、それは『偽善』なのだ。慈愛だとか慈悲だとか、そんなものは存在しない。すべて、まやかしなのだよ。はっ、そんなものがあるのなら、なぜ、あんなことに? なぜだ? なぜ、《《アクタ》》は、あんな仕打ちを? まるで、『ゴミ』のように――」

 似嵐鏡月は矢継早《やつぎばや》に、憎悪の言葉を吐いた。

「真田龍子、いつかお前は、弟を不幸に陥れるだろうよ――」
「お師匠様あっ!」

 ウツロが叫んだ。
 もう耐えられなかった。
 侮辱《ぶじょく》されることに。
 それは彼の、真田龍子への気持ちの発露《はつろ》だった。

「なんだ、いたのか、毒虫。言いたいことでもあるのか? あーん?」

 興ざめした似嵐鏡月は、ひどくつまらなそうな顔をした。

「……これ以上の、暴挙《ぼうきょ》は、許されることでは、ありません……!」

 ウツロは勇気をふりしぼって、山犬に反論した。
 しかし、聞く耳など持つはずがない。

「ははっ、『暴挙』だと? わしによくも、そんな口が利けたなあ。それで、『暴挙』だったら、どうだというのだ?」
「いますぐ、こんなことは、どうか、おやめください……」
「バカか貴様? せっかく楽しくなってきたというのに。いまさらやめられるわけ、ないだろう?」
「こんなことは、人の道に、外れております」
「なにが『人の道』だ。毒虫の分際《ぶんざい》で。ああ、吐き気がする、お前を見ているとな」

 呪いの言葉で次々と、《《わが子》》を罵《ののし》る。
 ウツロは苦しかった。
 否定されることに。
 だが、守りたい。
 もう守られっぱなしは、嫌だ――

「お願いです、お師匠様、どうか、どうか……」

 もはや、呼吸すら満足にできない。
 だが、何としても止めなければ。
 彼女の心を踏みにじることだけは――

「なんだ、もう限界か? カスが。虫ケラのお前に、わしに逆らうことなどでき――」
「おい、おっさん」

 南柾樹《みなみ まさき》――
 すべてをつぶさに静観《せいかん》していた彼が、口を挟《はさ》んだ。

「ああ? なんだ、ガキが。お前はすっこんでいろ」
「ひとつ、教えてくれねえかな?」
「何をだ?」
「なんでそんなに、ウツロを、アクタを嫌うんだ? あんたの息子なんだろ?」

 山犬は少しだけ退屈が癒《い》えたという顔になった。

「冥土《めいど》の土産《みやげ》に教えてやろう。まあ、話の流れで、おおよその見当《けんとう》は、ついているだろうがな」

 彼は再び遠い目をして、語りだした。

「アクタとウツロ、その名の由来につながることだ。つまり、わしが似嵐の家を飛び出したあとの話よ」

(『第55話 ウツロなアクタ』へ続く)
「わしが似嵐《にがらし》の家を飛び出した、そのあとの話だ……」

 似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》は遥《はる》か遠い眼差《まなざ》しで、昔のことを思い出した。

「『アクタ』はすっかり、抜《ぬ》け殻《がら》のようになってしまった……それほど、あのとき――姉・皐月《さつき》の謀略《ぼうりゃく》で得たトラウマは、深すぎたのだ、あまりにもな……虚《うつ》ろな目つきで、ただ、うなだれているだけ……ろくに動くこともせず、表情も変わらず、食事は点滴の栄養剤がほとんど……わしのことを、わしだとすら認識できない、そんな状態だった。わしは傷ついた『アクタ』を連れ、海を越え、遠くアメリカの地へと渡った。彼女を世界でも最高の医療技術を有するアメリカで、ゆっくりと静養させたい――そんな願いからだった」

 『アクタ』の受けた不条理、それを語る彼の口調《くちょう》は、ゆらゆらと不安定なロウソクの炎のようだった。

「『アクタ』の治療にかかる金のため、わしは民間の傭兵《ようへい》――よりまとまった金を得るため、《《カタギ》》ではない組織を選んだが――そこで必死に、働いた。いま思えば、目を覆《おお》いたくなるようなことも、たくさんやった。だがすべては、彼女の、『アクタ』のためだった。皮肉なことだが、そのおかげでわしは、『アクタ』に当時最高の治療を、与えることができた。しかし、現実とは残酷なもの。『アクタ』が負った心の傷は、想像以上に深いものだった」

 『山犬《やまいぬ》』と化した異形《いぎょう》の男は、おどろおどろしいその顔を、しわくちゃに歪《ゆが》めて激しく嗚咽《おえつ》した。

「かわいそうな『アクタ』……わしは絶望したよ、その現実に……いや、彼女に何もしてやれない、自分自身にな……『悪魔』が、《《あの女》》が現れるまでは……」

 『あの女』とは?
 『悪魔』とはいったい、どういうことだ?

 桜の森に居並《いなら》んだ少年少女たちは、意外な話の展開に、生唾《なまつば》を呑《の》んだ。

「グレコマンドラ・ジョーンズ――当時|若干《じゃっかん》40代で、すでに世界の名門・ハーフォード大学の名誉教授だった、精神医学・脳神経科学の最高権威――天才の名をほしいままにする彼女が、ひょっこりと、わしの前に現れた。そして、悪魔の誘惑を持ちかけた……」

(『第56話 魔女・グレコマンドラ』へ続く)
「グレコマンドラ・ジョーンズ……あの悪魔のような天才科学者が、わしに誘惑をしかけてきたのだ……」

――ミスター・キョウゲツ、わたしに力を貸していただきたい。人間の可能性の限界を打ち破る、その『実験』に、協力してもらいたいのです――

「気味の悪い女だった……その|容姿《ようし》や|風貌《ふうぼう》、|醸《かも》し|出《だ》す|雰囲気《ふんいき》は……なんというか、『ザクロ』が|弾《はじ》けたような……そんな女だった……」

――『|魔王桜《まおうざくら》』と呼ばれる、|異界《いかい》の支配者がいて、《《その存在》》が、《《それ》》を可能にするのです。わたしは人間の技で、『魔王桜』を『|召喚《しょうかん》する』ことに成功しました――

「いったいなんの|冗談《じょうだん》かと、最初は思ったよ。しかし彼女は、グレコマンドラは|大真面目《おおまじめ》だった。世界で名だたる科学者・工学者・技術者たちの手を集結し、完成させていたのだ――『魔王桜』を人工的に《《呼び出す》》装置――その名も、『ファントム・デバイス』をな」

――もし、『魔王桜』の手によって、『|治癒《ちゆ》』の能力が|開花《かいか》すれば、あなたの大切な方――『アクタさん』、でしたか――助けることも可能となるでしょう――

「まさに悪魔の誘惑……だが、わしにそれを|拒《こば》む理由など、なかった……こうしてその『実験』は、まるで台本にでも書かれていたように、|首尾《しゅび》よく進んだのだ。わしと、グレコマンドラの|娘《むすめ》・テオドラキアの、二人でな……」

(『第57話 テオドラキア』へ続く)
「『実験』に先駆《さきが》けて、わしとグレコマンドラの娘・テオドラキアの、奇妙な共同生活が始まった」

――キョウゲツ! いっしょに遊びましょう! ここには何でもある、ママは何だって、用意してくれるんだよ!? ――

「米国防総省《ペンタゴン》の地下深くに、その『実験施設《じっけんしせつ》』はあった。事《こと》の決行が、一週間後に迫《せま》る中、わしより少し年上――ちょうどあの、皐月姉《さつきねえ》と同《おな》い年《どし》くらいの無邪気なその子は、母が進めている得体《えたい》の知れない『実験』のことなど、まるで知りもしないように、わしに遊び相手をせがんだ」

――ママはね、わたしにすごい力をプレゼントしてくれるんだって! きゃはは! 楽しみだなー! その無敵の力で、わたしはママのこと、絶対に守ってあげるんだー! ――

「無機質な、冷たい施設の中にあって、彼女の、テオドラキアの無垢《むく》な笑顔には、癒されたよ。だが、わしは気がかりでしかたがなかった。グレコマンドラはいったい、この天使のような少女に、《《何をしようとしているのか》》、とな。同時にそれは、《《わしに対しても》》、ということになるが……そもそもなぜ、わしだったのか……なぜ、あまたいる人間の中で、《《わしが選ばれたのか》》……それを問い正しても、あの『魔女』はひたすら、お茶を濁《にご》すだけだった。そして実験が開始される直前、わしはグレコマンドラの口から、『異界《いかい》の王』だという、『魔王桜《まおうざくら》』の秘密を、聞かされた――」

(『第58話 魔王桜《まおうざくら》の秘密《ひみつ》』へ続く)
「グレコマンドラ、『魔王桜《まおうざくら》』とはいったい、何なのですか?」

 わしはたずねた、あのマッド・サイエンティストに。
 すると彼女は、《《どこか楽しげに》》、その『秘密』を口走《くちばし》ったのだ――

「わたしの祖先《そせん》は、古代ギリシャのすぐれた『巫女《みこ》』だったのです。|神々《かみがみ》の託宣《たくせん》を司《つかさど》る巫女の中で、いちばんすぐれた、ね。ディオティマというその巫女は――なんとも喜劇《きげき》ですが――『神』ではなく、よりにもよって『悪魔』――すなわち、『魔王桜』を呼び出したのです。『悪魔』などという、概念《がいねん》すらなかった、その時代、その場所においてね。そして彼女――ディオティマは人類史上、《《最初のアルトラ使い》》になった――どんな能力だったのか、までは……ふふ……彼女を開祖《かいそ》とする一族の、現・頭領《とうりょう》であるわたしにも、わからないのですが……」

 彼女のする話はまるで『おとぎ話《ばなし》』、そのすべてが。だが、もちろん彼女は大真面目《おおまじめ》、わしの意思とはまったく関係なく、|着々《ちゃくちゃく》と進行する『実験』の準備――あわただしく動き回る研究者たち、見たこともない最新鋭《さいしんえい》の機器の|数々《かずかず》、そして何より、それを統括《とうかつ》する、誰あろう、魔女・グレコマンドラの、いっぺんのくもりもない、自信に満ちあふれた態度が、如実《にょじつ》にそれを、物語《ものがた》っていた。

 ただ、気になったのは……開祖・ディオティマを語るときの、愉悦《ゆえつ》に満ちた、あの笑顔……まるで、《《自分自身が》》ディオティマであるような……

「キョウゲツ、心配しないで! キョウゲツの大切な人――『アクタさん』はきっと、よくなるから! ママに任せておけば大丈夫。ママならきっと、『魔王桜』の力で、『アクタさん』を治してくれる。わたしも、強い力を手に入れる……誰にも負けない、最強の力を……そして絶対、『神』になるんだ……!」

 正直に思った、彼女は、テオドラキアは……この狂った母に……《《だまされているのではないか》》……とな。しかし、いまさら引き返せない……『アクタ』を助けるためなら……わしは、魔道《まどう》にだって落ちる……その覚悟だったからだ。そしてついに、『実験』のときがやってきた――

(『第59話 ファントム・デバイス』へ続く)
「さあ、ミスター・キョウゲツ。その装置の前に立ってください。それだけでいいのです。あのはその『ファントム・デバイス』が、すべてやってくれます」

 奇妙な『装置』だった。
 金属でできた、大きな『盆《ぼん》』のような形で、その周《まわ》りには、太いケーブルがところ狭《せま》しとつながれている……なるほど、ここから『魔王桜《まおうざくら》』が姿を現すのだな……そう思った。

「そういえば、テオドラキアはどこに?」
「となりの部屋で控《ひか》えています。あなたの『実験』を終えたあと、《《もう一つの》》『実験』をするためにね」
「……どういうことだ」
「概要《がいよう》はこうです。まず、この『ファントム・デバイス』で『魔王桜』を召喚《しょうかん》する。『魔王桜』はあなたに、『アルトラ』を植えつけようとするでしょう。その『隙《すき》』に、『魔王桜』から、その体細胞《たいさいぼう》を採取し、すぐさまアンプルを作成、テオドラキアに、『移植《いしょく》』するのです」
「……なんと、なぜ、そんなことを……」
「そうすれば……ふふ……テオドラキアに、『魔王桜』の能力が、備わるのですよ」
「なん、だって……テオドラキアは、グレコマンドラ……あなたの娘だぞ……?」
「これはわが一族《いちぞく》――ディオティマの一族が、長いときの中で培《つちか》ってきた知識であり、われわれの悲願《ひがん》なのです。テオドラキアも、その血を継《つ》ぐ者として、じゅうぶん了解しています」
「……狂っている……なぜ、僕が選ばれた……? いったいお前は、何者だ……?」
「ミスター・キョウゲツ、『共感覚《きょうかんかく》』、というものをご存じですか?」
「キョウカンカク……とは……?」
「生まれ持った脳の機能で決まると考えられている、特別な能力で、たとえば、物質を見ると、数字の羅列《られつ》が頭に浮かんだり、音を聞いたとき、固有の周波数がわかる、などといった、事例《じれい》が確認されています」
「それが……僕の質問と、何の関係が……?」
「わたしも持っているのですよ、その、『共感覚』をね。わたしには人間の精神状態が、『色《いろ》』でわかる。ミスター・キョウゲツ……あなたの『色』は、真っ赤……血のように、いや、地獄の炎のように」
「わけがわからない……何を言っているんだ、あなたは?」
「『魔王桜』はそんな赤い、『負《ふ》の感情』に満ちた色を持つ者を、好むのです。『食事』としてね……」
「……」
「あなたを病院で見かけたとき、興奮を禁じえませんでした。ふふ、こんな『赤』は、見たことがない、とね」
「……たばかったな、グレコマンドラ」
「もう遅い、遅いのです、ミスター・キョウゲツ。ほら、この『音』が聞こえるでしょう? 『ファントム・デバイス』が、起動したのです。そして、ふふ……」
「――!?」

 グレコマンドラの手は、わしの胸《むな》ぐらを、そっと後ろへ押した。

「《《最後に》》教えてあげましょう。ディオティマの『アルトラ』、その『能力』とは……自分の『精神』を、『思念体《しねんたい》』として、その血を継ぐ者に、『バトンタッチ』させることができる……能力名は、『ファントム・デバイス』……そう、《《わたしが》》ディオティマなのです」
「わあああああっ!」
「長かった……ここまでたどりつくのに……これでわたしは、『魔王桜』の力で、『全知全能《ぜんちぜんのう》』に……オリュンポスの|神々《かみがみ》すら、蹴散《けち》らせる存在に……ふふ、ふふっ、ふはははははっ!」

(『第60話 似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》と魔王桜《まおうざくら》』へ続く)
「起動した『ファントム・デバイス』……そこに放《ほう》り込《こ》まれたわしは……気がつけば深い、真っ暗な闇の中にいた……そして、一つ、また一つと、『鬼火《おにび》』がともり、突如《とつじょ》として、あれが……『魔王桜《まおうざくら》』が、その姿を現した……わしは恐怖よりも、むしろ、『美しい』……そう思ったよ……そしてやつは、『魔王桜』は……その触手《しょくしゅ》のような枝で、わしを絡《から》め取《と》り、わしの脳天《のうてん》を貫《つらぬ》いた……何かが、わしの中で何かが目覚めたのを感じた……それがこの能力、『ブラック・ドッグ』だ……しかしすぐに、わしはもっと驚くことになる……あの恐るべき、『実験結果』についてだ……」

(『第61話 実験結果』へ続く)
 目が覚めたとき、わしが見た光景は……おそろしい、実におそろしいものだった……

 この世の終わりのように崩壊《ほうかい》した実験施設……研究員たちの体は引きちぎれ……その顔は、恐怖に歪《ゆが》んでいた……

 わしはすぐに、テオドラキアのことが、頭をよぎった――

「テオドラキア……テオドラキアは……!」

 施設内を探し回って、ようやく見つけた……ある小さな、『処置室《しょちしつ》』の中に……手術台《しゅじゅつだい》のようなものの上に寝かされていて、傍《かたわ》らにはあの『魔女』、グレコマンドラが倒れていた……絶命《ぜつめい》していたよ……

「テオドラキア! テオドラキア、しっかり! いったい何が――」

 すると彼女は静かに、その目を開いた。

「……あ……あ……キョウ……ゲツ……」
「そうだ、僕だ! しっかりするんだ、テオドラキア! いったい何が、何があった!?」

 おぼつかない口ぶりで、テオドラキアはしゃべり出した。

「……実験は……『失敗』……キョウ……ゲツ……」
「なん、だって……失敗……どういうことだ……?」
「……魔王……桜……の……力……は……想像……以上……だが……」
「だが、何だ、テオドラキア……?」

 すると、ああ……《《彼女は》》……にわかに、《《笑い出した》》……気味の悪い、ひょっとすると……あの『魔王桜』よりも、ずっとおそろしい『笑い』を……

「だが、わたしは、諦《あきら》めない……決して……《《わが悲願を果たすまでは》》……」
「あ、ああ……まさか、君は……いや、《《お前は》》……」

 《《彼女の》》『笑い』はますます、不気味なものになっていった。

「そう、《《ディオティマ》》ですよ、ミスター・キョウゲツ。最後の力を振《ふ》り絞《しぼ》り、アルトラ『ファントム・デバイス』の能力で、グレコマンドラの体から、このテオドラキアに、《《乗り移った》》のです」
「……あ……あ……」
「《《今回の》》実験は失敗した……だが、《《次こそは》》必ず……あの力を、『魔王桜』の力を、わが手に……ミスター・キョウゲツ……《《協力していただけますよね》》?」
「わあああああっ!」

 わしは逃げた――
 どこをどう走ったのか、それすらも覚えていないほど……

 だが、わしの耳には……ずっと、あの『悪魔』の高笑《たかわら》いが……こびりつくように、鳴《な》り響《ひび》いていた……

(『第62話 死と誕生』)
 いったいどこをどう歩いたのか……気がついたとき、わしは『アクタ』を入院させている『闇医者《やみいしゃ》』の診療所の前にいた。

「『アクタ』……」

 『実験』の話で、しばらく『アクタ』とは離れていたからな……とにかく、一刻も早く会いたい……そう、思ったよ……さきほどのおそろしい事件のことなど、すっかり忘れてな……

「『アクタ』――」

 ……死んでいたよ……彼女は……『子』を産んだ、そのショックでな……

「あ……があああああっ!」

 衰弱《すいじゃく》した体での出産……しかもよりによって、『双子《ふたご》』……それに、肉体も、精神も、耐えられなかったのだ……

「ああああああああああっ!」

 わしは叫《さけ》んだ……ひたすら、むせび泣いた……
 『アクタ』の死……それによって誕生した、『わが子』を抱きしめてな……

 そしてすっかり、涙《なみだ》が枯《か》れ果《は》てたころ……《《また》》、『悪魔』がささやいた……ある、『おそろしい考え』が、頭に浮かんだのだ……

(『第63話 呪うべき存在』へ続く)
「はじめわしは、殺そうと思った……アクタ、ウツロ……お前たちを……そしてひとおもいに、自分も死のう……そう、思った……だがな……」

 漆黒《しっこく》の山犬《やまいぬ》・似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》は、牙の生えた口をもごもごさせながら呟《つぶや》いた。

「ある『考え』が……『悪魔の考え』が、頭をよぎったのだ……それは……」

 今度はへらへらと、薄気味悪《うすきみわる》い笑《え》みを浮かべはじめる。

「この子らに……愛する『アクタ』の命を奪った、にっくき二人の『呪《のろ》い子《ご》』に……地獄の苦しみを与えてやる……みずからがみずからの存在を呪うような、地獄の苦しみを……それがわしの、わしにできる……お前たちへの、『復讐《ふくしゅう》』……そう、考えたのだよ……」

 アクタとウツロの胸中《きょうちゅう》やいかばかりであろう?
 彼らがいったい、何をしたというのだ?

 それをこんな理由で、自分を世界でいちばん不幸だと《《思い込んでいる》》男の、的の外れた『わがまま』で、すべてを奪われたのだ。
 家庭も、青春も、人生そのものも――

 こんなことを実の父から告白されて、冷静でいろというほうが常軌《じょうき》を逸《いっ》している。
 ウツロとアクタの頭の中は、真っ白になった。

 もう何も考えられない。
 もう、どうでもいい――
 いっそ殺してくれ、それがいちばん楽だ。

 二人の『呪われた存在』は、次の瞬間、何かの気まぐれによって、意識が吹っ飛びそうな状態に陥《おちい》っていた。

 しかし、そんな二人を救おうとする存在が、一歩《いっぽ》、歩《あゆ》み出《で》た。

「ガキだな」

 南柾樹《みなみ まさき》だ。

「話はわかった。だがな、てめえの理由で、てめえの都合《つごう》だけで、よりによって、てめえの子どもを苦しめる……おっさん、そりゃあ、『ガキの屁理屈《へりくつ》』だぜ?」

 そのセリフに、似嵐鏡月は腹立《はらだ》たしくなった。

「何がわかる? 貴様のようなガキに。『アクタ』の不幸を、わしの苦しみを――」
「じゃあてめえは、アクタとウツロの苦しみがわかんのかよ?」
「黙れ、ガキがっ! 偉そうに説教か? そんなやつらのことなど、知ったことではないわ!」
「どうあっても、アクタとウツロに、わびを入れる気はねえってか?」
「当たり前だ。その二人を苦しめることが、わしの『生きがい』だからな」
「……そうか。似嵐鏡月……てめえは『クソ』だ……! てめえがてめえの『わがまま』で、どんだけ取り返しのつかねえことをしでかしたのか、それをわからせてやるよ……!」
「ははっ、これはケッサクだ! いったい何ができる? 貴様のような年端《としは》も行かぬ、『バラガキ』風情《ふぜい》に……!」

 にやり――南柾樹は笑った。

「アルトラにはアルトラで、なんだろ?」

 星川雅《ほしかわ みやび》と真田龍子《さなだ りょうこ》は、彼の考えていることがわかった――だからこそ、止めようとした。

「柾樹、ダメよっ! あの能力を使ったら、あなたはただでは済まない……!」
「そうよ、柾樹っ! あれを使ったら、ほかでもない、あなたがいちばん、苦しむことになる……!」

 だが、彼の決意は固かった。

「だから何だよ? アクタとウツロの苦しみに比べりゃあ、『屁《へ》』みてえなもんだろ?」

 桜の森の大気《たいき》がざわつく。
 あやかしのような大木《たいぼく》の群れが、眼前《がんぜん》の少年に怯《おび》えているようだった。

「な、なんだ、いったい……」

 似嵐鏡月もそうだった。
 山のような猛獣《もうじゅう》と化した自分が、目の前のちっぽけなガキに身震《みぶる》いしている――
 彼はその得体《えたい》の知れなさに、額《ひたい》から冷や汗を垂《た》らした。

「拝《おが》ませてやるぜ……これが俺のアルトラ……『サイクロプス』だ……!」

(『第64話 サイクロプス』へ続く)
「拝《おが》ませてやるぜ……これが俺のアルトラ……『サイクロプス』だ……!」

 南柾樹《みなみ まさき》に体が、変形しながら巨大化する。
 『濁《にご》った大理石《だいりせき》』のような色合いと模様、指の数は3本、顔はといえば、鼻も耳も口もない『のっぺらぼう』の中心に、大きな1つだけの目が、どろどろと真っ赤に光っている。
 まさにギリシャ神話の1つ目|巨人《きょじん》『サイクロプス』を想起《そうき》させる。

「どうだウツロ、醜《みにく》いだろ? これが俺の正体……生きるために何でもしてきた、そのおぞましい本性《ほんしょう》の、『投影』なんだぜ?」

 ウツロは心を引き裂かれた。

 柾樹、違う……それは、その姿は……お前の心の醜さなんかじゃ、決してない……!
 お前が味わってきた……《《戦ってきた》》、苦しみ《《そのもの》》なんだ……!

「だけどな、俺はこんな自分と……このおぞましい『本性』と、必死で戦ってきた……! 毒虫がなんだ……! こんな俺に比べりゃあ、かわいいもんだろ……!? だから戦え……お前も戦え、ウツロ……!」

 この少年は……南柾樹という男は……こうやって、自分の『正体』と呼ぶものを《《あえて》》晒《さら》すことによって、俺を……こんな俺を、助けようとしてくれている……毒虫と卑下《ひげ》する自分を、自己否定に弄《もてあそ》ばれる俺を、わが身を犠牲《ぎせい》にして、救おうとしてくれている……やめてくれ、柾樹……! 俺なんかのために、お前が苦しむなんて、あってはならない……!

 『怪物《かいぶつ》』の矜持《きょうじ》とは裏腹《うらはら》に、ウツロの心境《しんきょう》はただごとではなかった。
 南柾樹の覚悟に答えなければと思う反面、『逆効果』もまた、及《およ》ぼしていたのだ。

「ははっ! わしも醜いが、貴様《きさま》は輪《わ》をかけて醜いな、『南柾樹』! 生ゴミの山の中に、捨てられていたそうだな? 《《同情するよ》》!」

 似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》は、目に映る『滑稽《こっけい》な怪物』を嘲笑《ちょうしょう》した。

「うっせーの! 自分の子をいたぶる親に、言われる筋合《すじあ》いなんざねえぜ!」
「ふん、なんじに問《と》え、愚《おろ》か者《もの》が! 貴様のやっていることは、アクタとウツロのためなどでは、断《だん》じてない……ほかならぬ貴様自身……! その二人に自分を投影しての、いわば『存在証明《そんざいしょうめい》』、図星《ずぼし》だろ!?」
「へっ、そうかもな……だから、だったらなんだよ……? 自分も救えて、そこの二人も救えりゃあ、最高にハッピーじゃねえか……!」
「ふん、何が『ハッピー』だ。しょせん貴様も『虫ケラ』よ。ほら、かかってこんのか? 腰抜けが!」
「上等だよ、この、《《クソ親父》》……!」

 南柾樹はその巨体《きょたい》を加速し、勢いをつけて、黒い山犬《やまいぬ》にタックルをしかけた。

「ぐ、ぬう……!」

 似嵐鏡月は巨人の攻撃を受け止めたが、その圧倒的なパワーに、押《お》し潰《つぶ》されそうになった。
 山犬の大きな両足が、じわじわと固い地面を抉《えぐ》り、後ろに退《しりぞ》いていく。

「柾樹が競《せ》り勝《か》ってる……!」
「いける、いけるわ……!」

 星川雅《ほしかわ みやび》と真田龍子《さなだ りょうこ》は、形勢《けいせい》の優位《ゆうい》さに、思わず歓声《かんせい》を上げた。

「へっ、このままペシャンコにしてやるぜ!」
「ぬう……なめる……なああああああ……!」
「うっ……!」

 似嵐鏡月は土壇場《どたんば》で踏《ふ》ん張《ば》り、その反動で、南柾樹を押し返そうとした。

「柾樹くん、今日は生ゴミの回収日だよ?」
「な……」
「ほらほら、後ろを見てごらん。ゴミ収集車《しゅうしゅうしゃ》が、そこまで来ているよ?」
「う……」

 この期《ご》に及んで似嵐鏡月は、『精神攻撃』という、狡猾《こうかつ》な作戦に走った。
 その内容はとてつもなく陳腐《ちんぷ》で、子どもじみたものだ。
 しかし彼には、南柾樹には、思いがけないダメージとなった。

 ゴミ、生ゴミ――

 周囲からはいつも、そう、罵《ののし》られていた。
 彼は何も、何も持っていなかった。
 生きるためにケンカし、盗み、変質者の相手だってやった。

 自分はいったい、何のために生まれてきたのか?

 チンピラの憂《う》さ晴《ば》らしのためか?
 変態の肉便器としてか?

 呪われている……自分の存在は、間違っている……
 ずっとそう、思ってきた。 

 次々とよみがえってくるトラウマ。
 苦しい、苦しい……

 こうなってはもう、似嵐鏡月の思《おも》う壺《つぼ》だ。
 彼の体から徐々《じょじょ》に、力が抜けていく。

「……う……う……」
「ふん、勝負あったな、南柾樹……!」

 ここぞとばかりに、山犬は巨人の体を、逆に押し返していく。

 この光景を目撃して、いちばん耐えられなかったのは、誰あろう、ウツロだ。
 自分の苦しみを吐露《とろ》したときの、南柾樹の悲痛な顔が、その涙がフラッシュバックする。
 いったいどれほどの苦しみだったというのか?
 やめてくれ、もう、やめてくれ……
 
「柾樹っ! もういい! もう、やめてくれ! お師匠様も! どうか、おやめください! 彼を、柾樹を……傷つけるのは、おやめください……!」

 同情かもしれない、偽善なのかもしれない。
 でも、そんなことは、どうでもいい。

 過去の壮絶《そうぜつ》な体験を引き合いに罵倒《ばとう》され、心を抉《えぐ》られている者がいる。
 ウツロにはそれを、傍観《ぼうかん》するなどということは、どうしてもできなかった。

「ふん、ウツロ、こんなやつに助《たす》け舟《ぶね》か? 虫ケラどうし、傷口《きずぐち》をなめ合って、お似合いだな! お前もこいつと同じよ、自分を相手に投影し、自分の存在を肯定《こうてい》したい……『弱者《じゃくしゃ》』の思考回路なのだ!」

 山犬・鏡月は|忌々《いまいま》しいという表情で、ウツロを見下《みくだ》した。

「……『弱者』で、けっこうだよ……! だけどな、『弱者』で、何が悪い!? 似嵐鏡月……てめえみてえに、自分が『弱者』だってことにすら気づかねえ……そんな『救えねえバカ』に比べりゃ、ずっとマシだよ!」
「何をまあ、偉《えら》そうに……『屁理屈《へりくつ》』を言っているのは、南柾樹……貴様のほうだろ……!?」
「てめえにゃ、ぜってえ……永遠にわかんねえよ……!」
「ぬ、ぐう……!」

 ウツロの気持ちは確かに届いた――

 南柾樹は、心を傷つけられながらも、負けてなるかと、山犬に力をかけた。
 それはウツロとアクタのためであり、それにも増して、自分のためだった。

 似嵐鏡月の言うとおり――それはわかっている。
 《《だからなんだ》》?
 『存在証明』だって?
 《《何が悪い》》?
 もう、考えるのは面倒《めんどう》だ。
 俺は俺の、やりたいようにやる。
 こうしたいと、これでいいと思ったことをやる――!

 彼の気持ちはもう、揺《ゆ》るぐことはなかった。

「柾樹っ、加勢《かせい》するわ!」

 星川雅はアルトラ『ゴーゴン・ヘッド』の髪の毛を、しゅるしゅると伸ばして、山犬の首を、胴《どう》を、四肢《しし》を絡《から》め取《と》った。

「ぬっ、雅……!? 貴様あああああっ!」

 柾樹と雅の連携《れんけい》プレーに、さすがの似嵐鏡月も、ほとんど身動《みうご》きが取れなくなった。

「おらっ! アクタとウツロに、『わび』を入れな! てめえの子の人生を弄《もてあそ》んだ、その重さを、わびるんだよっ!」
「あ、ぐ……誰……がああああああっ!」

 そのとき、似嵐鏡月はその血走《ちばし》った瞳《ひとみ》に、何かを捉《とら》えた。
 桜の森の入り口、鳥居《とりい》の下だ。

 突然動きを止めた山犬に、南柾樹もそちらに顔を向ける。
 それにつられて、ほかの|面々《めんめん》も。

 そこには人影《ひとかげ》が一つ。

 浅黒《あさぐろ》い肌《はだ》、赤白《あかしろ》チェックのネルシャツに、カーキのチノパン。
 鼻穴は開き、口は一文字《いちもんじ》に結び、ただでさえ大きな目は、さらに丸く見開いている。
 降ろした両手の拳《こぶし》を、強く握《にぎ》りしめ、震《ふる》わせている『彼』は――

「虎太郎《こたろう》……!」

 『姉』はむせ返るように、言葉を吐《は》き出《だ》した――

(『第65話 招《まね》かれざる客《きゃく》』へ続く)
「虎太郎《こたろう》……!」

 真田虎太郎《さなだ こたろう》――弟の場違いすぎる登場に、姉・龍子《りょうこ》は、呻《うめ》くような声を上げた。

「なん、で……虎太郎が、ここに……?」

 南柾樹《みなみ まさき》も振り返った状態で、その意味がわからず、混乱した。

「ああ、たいへん、あの『メモ』だわ……わたし、なんてことを……」

 星川雅《ほしかわ みやび》は思い出した。
 ウツロを弄《もてあそ》ぶため、《《たわむれ》》に書いた『置《お》き書《が》き』のことを。
 それがまさか、こんな最悪の事態を招《まね》くなんて……

 実際に彼、虎太郎は、そのメモを見て、姉たちのあとを追う形で、ここ人首山《しとかべやま》にやってきた。
 しかしそれは、やはり最悪のタイミングで、だった――

 柾樹の巨体と、雅の髪の毛が、自分を拘束《こうそく》するその力が、明らかに緩《ゆる》んできたのを、似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》は見逃《みのが》さなかった。

「ぬうん!」
「うがっ!?」

 油断していた柾樹の体を、彼は勢いよく、押しのけた。

「柾樹っ!」
「お前もこうだ、雅っ!」

 絡《から》め取《と》られていたのを逆に利用し、髪の毛を掴《つか》んで振り回し、桜の大木に叩《たた》きつけた。

「きゃあっ!」

 星川雅は背中をしたたかに打ち、木の下に転げ落ちる。

「柾樹、雅っ!」

 真田龍子が叫んでいる間にも、似嵐鏡月はおよそ考えうる、最悪の行動に出た。

「わあっ!」

 自由を得た隙《すき》に、真田虎太郎のもとまでダッシュし、あろうことか『人質《ひとじち》』に取ったのだ。

「うぐぐ……」

 山犬の大きな手が、小柄《こがら》な虎太郎の体を握《にぎ》り、締《し》めつける。

「虎太郎っ! やめて、似嵐さんっ!」

 助けを請《こ》う真田龍子の顔は、絶望に歪《ゆが》んでいる。

「そうはいかんな、お嬢《じょう》ちゃん。しかし、ふふ……どうだ? わしの言ったとおりだろ? お前の存在は、真田龍子……弟を不幸にすると。くく、くくっ」
「あ……あ……」

 彼女は絶望のあまり、地面にへたりこんでしまった。

「うぬぬ……」

 相変わらず握りしめてくる手に、真田虎太郎は苦しそうにしている。

「『虎太郎くん』、君も不幸だな、『愚《おろ》かな姉』を持って。なんだか同情を禁じえないよ。まあ、『方便《ほうべん》』だがなあ」

 似嵐鏡月の卑怯《ひきょう》きわまる仕打ち。
 しかし真田虎太郎は、その大きな目を、カッと見開いた。

「……姉さんに……謝ってください……!」

 こんな状況で弟は、姉を擁護《ようご》してみせた。
 その態度に山犬は、面《つら》をしかめた。

「なんだ貴様? 姉を守ろうというのか? 貴様のような、何の力も持たぬガキが? 虎太郎くん、わしは知っているのだぞ? 君の姉がかつて、君にどんな仕打ちをしたのかをな。それでも君は、姉を守るというのか?」

 似嵐鏡月は自分と虎太郎を重《かさ》ね合《あ》わせた。
 それゆえ、姉を助けようとする弟の心理が、まったく理解できない。
 その発露《はつろ》としての、言動だった。

「……謝って……ください……!」

 真田虎太郎の意志はいっこうにブレない。
 山犬・鏡月は、ますます腹立たしくなった。

「なぜだ……なぜ、姉を守る……!? お前を死に追いやろうとした、にっくき姉だぞ……!? そんな者を、助ける価値など――」
「謝ってくださああああいっ!」

 弟は丸く開いた目を血走《ちばし》らせて絶叫《ぜっきょう》した。
 そして『もう一人の弟』は、ついに《《ブチ切れた》》――

「ならば、こうしてくれるわあっ!」
「虎太郎おおおおおっ!」

 ああ、真田虎太郎は、山犬の拳《こぶし》の中に消え失せた。

「あ……」

 ショックのあまり、姉・龍子は呼吸のしかたも忘れそうになった。

 やっぱり自分は、この男の言うとおり、弟を不幸にする存在……

 真田龍子は、わき上がる自責《じせき》の念に、思考が吹っ飛ぶ寸前《すんぜん》だ。
 しかし、そのとき――

「ああ、あれを見て……!」

 満身創痍《まんしんそうい》で事の成り行きを見守っていた星川雅が、山犬の手を指差しながら叫んだ。

 似嵐鏡月の拳が、緑色のまばゆい光に包まれている。

「あれは、まさか……虎太郎のアルトラ……!」

 南柾樹も、驚いてそれを凝視《ぎょうし》した。

 緑色の光は、ついに山犬の握《にぎ》り拳《こぶし》から、あふれ出た――

「イージス……!」

(『第66話 イージス』へ続く)
「イージス!」

 山犬《やまいぬ》・似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》の大きな手の中から、緑色のまばゆい光があふれ出た。

「なっ、なんだと!?」

 内側から膨《ふく》らんでくるような感覚に、彼は耐《た》えられず、その手を開いた。

「虎太郎《こたろう》っ!」

 真田龍子《さなだ りょうこ》の叫《さけ》び声《ごえ》に応じるように、山犬の握《にぎ》り拳《こぶし》の中から出現したのは、緑色の球体《きゅうたい》に包《つつ》まれた、真田虎太郎《さなだ こたろう》だった。

「……あれが、虎太郎くんのアルトラ……」

 ウツロは呆然《ぼうぜん》として、その光球《こうきゅう》を見つめた。
 光に纏《まと》うその姿は、彼に神仏《しんぶつ》の降臨を想起させた。

「やったぜ、虎太郎!」
「虎太郎くん、早く逃げて!」

 南柾樹《みなみ まさき》と星川雅《ほしかわ みやび》は、とりあえず似嵐鏡月から距離を取るべきだと、真田虎太郎を差し向けた。

「ふん、させるかっ!」

 山犬は宙《ちゅう》に浮《う》かぶ真田虎太郎を掴《つか》もうとした。

「うおっ!?」

 しかし光球は、まるで磁石の反発のように、ひょいとその手を逃《のが》れ、脇《わき》の死角《しかく》に反《そ》れる。

「ぐぬっ、こしゃくな!」

 似嵐鏡月は必死になって、光る球をなんとか掴もうとするが、一事《いちじ》が万事《ばんじ》、いっこうに捉《とら》えることはかなわない。

「す、すごい……」

 ウツロはその光景に、今度は弁慶《べんけい》をかく乱《らん》する牛若丸《うしわかまる》を思い起こした。

「ふう、ふうっ……なんと、生意気な……このわしを、馬鹿にしくさって……もういい……! ほかの誰かを、『質《しち》』にとって――」
「させません! イージスっ!」
「おっ、おお!?」

 ウツロは自分の体が、真田虎太郎と同じ、緑色の光球に包まれたことにびっくりした。

「うおっ!? こいつは……!?」

 ウツロだけではない、アクタも――いや、真田龍子、星川雅、南柾樹――怒《いか》り狂《くる》った山犬《《以外の》》すべて、その場にいる者が、やはり緑色の光に包まれたのだ。

「これは、この光は……なんだか、温かい……」
「ウツロの言うとおりだ……なんだか、この中にいると……体が、楽になってくるような……」

 ウツロとアクタは驚きとともに、この光がすなわち、この能力を使う真田虎太郎の、やさしい心の投影なのではないか――そんなことを考えた。

「ぐ、ぬう……おのれ、ガキがあああああ……!」

 似嵐鏡月はハラワタが煮《に》えくり返《かえ》った。

「貴様っ、許さん!」

 性懲《しょうこ》りもなく、また、真田虎太郎に攻撃をしかける、しかし――

「うぐっ――!」

 やはりその手は、彼を掴むことはできない。

「おーい、おっさん! えらく間抜《まぬ》けだな! まるでひとりで、ダンスでもしてるみてえだぜ!?」
「くすくす、叔父様《おじさま》! いまのあなた、《《馬鹿丸出し》》だよ? あはっ、おかしい!」

 南柾樹と星川雅は、猛《たけ》った山犬をさらに挑発した。

「ぬぐっ……ぬうううううっ……!」

 似嵐鏡月はいよいよ激昂《げきこう》して、顔いっぱいに脂汗《あぶらあせ》を浮かべている。

「似嵐さん、お願いです! 降参してください! これ以上の争いは、無意味です!」

 真田虎太郎は、中学生とは思えない態度で、紳士的な提案をした。

「ぐう、ガキが……なめくさりおって……降参など、誰がするものか……!」

 似嵐鏡月に折れる意思はない。

「お願いします! もうこれ以上、みんなを傷つけるのは、やめてください!」

 真田虎太郎はさらに食い下がる。

「ふん、貴様のようなガキのいうことなど、聞くものかよ……!」

 そう吠《ほ》えながらも、似嵐鏡月は懸命《けんめい》に考えていた。

 何か、何かあるはずだ……このアルトラを、このガキの力を、破《やぶ》る方法が……

 そのとき――

「――!?」

 真田虎太郎たちを守る緑色の光球――その光り具合が、心なしか、弱くなってきている――似嵐鏡月はそれに気づいた。

「ははあ、なるほどな……」

 山犬の顔が再び、下品に歪《ゆが》んだ。

「これは……!?」
「なんだ、光が……弱まってきてるぞ……!?」

 ウツロとアクタも、遅れてそれに気がついた。

「はあ……はあっ……」

 いつの間《ま》にか真田虎太郎の呼吸は、ひどく荒《あら》くなってきている。

 思ったとおり――似嵐鏡月はニヤリと笑った。

「ふふふ、虎太郎くん! そのアルトラは、けっこうなパワーを使うのではないかね? 何せ、自分だけでなく……ほかに5人も、その力をかけているのだからな」
「む……」

 似嵐鏡月の指摘は図星だった。

 これは暗黙《あんもく》の了解《りょうかい》ではあるが、アルトラのパワーとは、イコール『精神力』――まだ年齢の若い虎太郎には、この強い力を、100パーセント自分のものにするところまでは、到達《とうたつ》できていなかった――

「くく、どうやら君は、そもそもその能力を、完全に使いこなせるところまでは、いっていないのではないかね? うーん?」

 またも図星をつかれ、真田虎太郎は、ますます焦《あせ》った。

「ぬっ……むうーん!」

 彼はがんばって力を振《ふ》り絞《しぼ》り、光球は再び、大きくなった。
 だが、悲しいかな、それはやはり、『付《つ》け焼刃《やきば》』にすぎなかった。

「ううっ……」
「虎太郎っ!」

 姉・龍子が叫ぶ中、緑色の光は、急激にその輝《かがや》きを失っていった。

「うっ……くう……」
「虎太郎っ! もういい! もうやめてっ!」

 真田龍子のかけ声《ごえ》もむなしく、ついに光は、消え失せてしまった。

 真田虎太郎は、ゆっくりと地面に降り、そのまま大地に倒《たお》れこむ。
 弟の窮地《きゅうち》に、姉は無我夢中《むがむちゅう》で駆《か》け寄《よ》った。

「真田さんっ!」

 今度はウツロが叫んだ。
 似嵐鏡月が次に取るであろう行動――そのおそろしい映像が、頭をよぎったからだ。

「虎太郎っ、しっかり!」
「おおっと」
「きゃっ――!?」

 ウツロの予見は、しかして当たった。
 弟に駆け寄る姉の体を、山犬の大きな手が掴み取ったのだ。

「龍子っ!」
「やろうっ!」

 星川雅は、『ゴーゴン・ヘッド』の髪の毛を、しゅるしゅると伸ばした。
 南柾樹もまた、『サイクロプス』の巨体で、似嵐鏡月を止めようとした、だが――

「おおっと、動くなよ、お前ら? 少しでも動けば、この女が『肉の塊《かたまり》』になるぞ?」

 およそ考えうる、もっとも卑怯《ひきょう》な手段を、似嵐鏡月は取った。

「ぐっ……」
「恥を知りなさい、叔父様……!」

 二人はどうすることもできず、ただ歯を食いしばるしかなかった。

「ふん、何とでも言え。さあ、武装解除《ぶそうかいじょ》だ。二人とも、アルトラを解いて、元の姿に戻ってもらおうか?」
「……」

 星川雅と南柾樹の姿が、人間のそれへ戻っていく。
 悔《くや》しいが、こんな状況では、応じるしかなかった。

「ふはは! なかなかいい気分だな! さてと――」

 山犬は、真田龍子を掴んで《《いないほうの手》》を、ゆっくり振りかぶって、力をこめた。

「ぐあっ!?」
「ぎゃっ!?」

 その手は続けざまに、南雅樹と星川雅の体を、遠くへ吹き飛ばした。
 桜の大木に打ちつけられ、二人は気を失ってしまった。

「柾樹っ! 雅っ!」
「お師匠様っ! 何ということを!」

 ウツロとアクタは絶叫した、が――当然のごとく、似嵐鏡月は意《い》に介《かい》していない。

「ふん、雑魚《ざこ》どもが。青二才《あおにさい》の分際《ぶんざい》で、わしに歯向かうからこうなる。当然の報《むく》いよ」

 山犬は真田龍子を握りしめたまま、傲然《ごうぜん》としている。

「さて、ウツロよ、わしはこれから、いったい《《何をする》》と思うね?」

 漆黒《しっこく》の山犬が、下劣《げれつ》な顔で舌なめずりをした――

(『第67話 絶体絶命』へ続く)
「くく、ウツロ……これからわしは、いったい《《何をすると思う》》?」

 山犬・似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》は、その大きな手をゆっくりと、握《にぎ》りしめた。

「あああああっ!」

 体を圧迫《あっぱく》され、真田龍子《さなだ りょうこ》は苦しみに絶叫《ぜっきょう》した。

「ああっ、真田さんっ!」
「お師匠様《ししょうさま》っ! おやめくださいっ!」

 ウツロもアクタも叫《さけ》んだ。

「ふふ、ウツロ。お前、この女に惚《ほ》れただろ? 気づかないとでも思ったか? こいつのことを考えていると、体がムラムラする。そうだろう?」
「う……」
「こいつをいま、お前の目の前で八《や》つ裂《ざ》きにしてやったら、さぞ、面白いだろうなあ?」

 拳《こぶし》の中で悶《もだ》え苦《くる》しむ少女の姿に、山犬は下卑《げび》た表情で舌をなめた。

「あっ……があああああっ!」

 似嵐鏡月はなおも、真田龍子を手の中で弄《もてあそ》ぶ。
 そのたびに彼女の顔は、痛みのあまり、苦悶《くもん》に歪《ゆが》んだ。

「あはは、楽しいなあ、お前で遊ぶのは。弟を苦しめる、邪悪な姉め。その痛みを、刻みこんでやる。くく、ゆっくり、たっぷりとな」
「あ……あ……」

 蹂躙《じゅうりん》に次《つ》ぐ蹂躙によって、真田龍子はもう、限界だった。
 大きな親指に頭をもたげ、いまにも事切《ことき》れてしまいそうだ。

「や……やめ……もう……」

 ウツロとてもう、限界だった。
 似嵐鏡月からの指摘――真田龍子を愛している――

 そうだ、そのとおりだ。
 認める、そうなんだ。
 俺は彼女を、真田さんを愛しているんだ……

 奇《く》しくもではあるが、この陵辱劇《りょうじょくげき》によって、ウツロはやっと、その事実を認識したのだ。

 だからこそ、その愛した相手――真田龍子が、このような辱《はずかし》めを、これ以上与えられるのは、耐《た》えられない、とうてい――

 もう破れかぶれだ。
 このときウツロは理屈ではなく、彼としては珍しく、本能のおもむくままに、行動した――

「うっ……うおおおおおっ……!」
「ああん?」

 まさしく体当たり――
 それをウツロは、自分を呪う『愛する存在』へ向け、行《おこな》おうとした。

「寄るな、毒虫っ!」
「ぐおっ!?」

 しかし、突進してきた彼を、山犬はその大きな足で、|軽々《かるがる》と蹴《け》り上《あ》げた。
 ウツロはくるくると回転しながら、地面を転がった。

「ウツロっ! なんてことを……お師匠様……!」
「ふん、『ゴミ』は黙ってろ。お前には何もできん」

 アクタの気づかいも、似嵐鏡月はためらわず、はねのけた。

「うっ……ぐっ……ううっ……うううううっ……」

 あまりのショックに、ウツロはすっかり打ちひしがれて、その場にうずくまってしまった。

 無力だ、あまりにも。
 俺には、何もできない。
 愛する人が、真田さんが目の前で、苦しみ喘《あえ》いでいるというのに。
 助けてもやれない、何もしてやれない。
 無力だ、俺は、俺は……

「あはは、楽しいなあ。ウツロ、お前をいじめるのは。自分は無力だ、そう考えているのだろう? そのとおりだな。愛する女のひとりも、お前は守れんのだ。あまりにも無力、ああ、悲劇的だなあ」
「う……ぐ……ぐううううう……」
「ふん、苦しいか? 自分の矮小《わいしょう》さあまって? 頭がおかしくなりそうだろ? なってしまえ。そのままこの場で、壊れてしまえ!」

 形容しがたい暴虐《ぼうぎゃく》。
 こんな仕打ちが果たして許されるのか?

 ウツロに地獄の苦しみを与えているのは誰あろう、血のつながった『実の父親』なのだ。
 
「……お師匠様……もう……おやめください……」

 アクタはひたすら制止を試みる。
 無理だとわかっていても――

 もはや、この狂った山犬を、自分たちを憎悪《ぞうお》する『父』を止められるのは、『俺』しか残っていないのだ。

「黙れと言っておろうが、『ゴミ』め。貴様もウツロと同じ、無力な存在よ。弟が発狂するところを、指でも咥《くわ》えて見ているがいい。そのあとは、ひとおもいに仲良く殺してやる」
「う……」

 苦しかった、アクタは苦しかった。
 つらい、死ぬほどつらい。
 だが、それはウツロだって、いや、ウツロのほうが、ずっとつらいはずだ。
 こんなに憎まれて――その存在を、否定されて――

 俺しかいない、やれるのは俺しかいない。
 もう、俺しか、ウツロを守れるのは、俺しか――

「う……う……」
「ウツロ、そのかっこう、最高の『構図』だぞ? 醜い毒虫、おぞましいその存在に、ふさわしい最期だ、実にな。アクタよ、お前も災難《さいなん》だな? 《《馬鹿な弟を持って》》……!」

 アクタの中で、何かが《《切れた》》。

 こんなやつに?
 こんなやつに俺らは?

 いや、俺なんかどうでもいい。
 《《ウツロが》》、《《俺の弟が》》、《《こんな侮辱を受けている》》。

 もう、後先《あとさき》なんかどうでもいい。
 俺は守る、ウツロを守る、弟を、守る――!

「ウツロ」

 アクタの呟《つぶや》きに、うずくまっていたウツロは、嗚咽《おえつ》を抑《おさ》えながら、声のするほうに首を傾《かたむ》けた。

「……お前は……何がなんでも……生きろ……!」

 ウツロは始め、言っているその意味がわからなかった。

 だが、決然とした面持《おもも》ちで立ち上がるアクタに、その『覚悟』を背負った姿に、胸騒《むなさわ》ぎがわき起こった。
 おそろしい、何かとんでもなくおそろしいことが起ころうとしている、その前触《まえぶ》れを感じたのだ。

 アクタは凛然《りんぜん》と立ち上がり、そびやかすその肩で、大見得《おおみえ》を切った――

「……俺が相手だ……《《クソ親父》》……!」

(『第68話 兄として――』へ続く)
「俺が相手だ……《《クソ親父》》……!」

 アクタは敢然《かんぜん》と、『父』に向かってタンカを切った。

 当然、山犬《やまいぬ》と化《か》した似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》は、面白くない。

「ああ? アクタ、何だって? いま何か、言ったかな?」
「これ以上、ウツロを侮辱《ぶじょく》するのは許さねえ、そう言ったんだよ、『クソ親父』っ!」

 アクタはますます語気《ごき》を強めて、『弟』に暴虐《ぼうぎゃく》を働く『父』を牽制《けんせい》した。

 その双眸《そうぼう》には、この暴君《ぼうくん》を――曲がりに曲がった『ロクデナシの父親』を――何としても正気《しょうき》に戻《もど》そうという、『息子《むすこ》』の切《せつ》なる願いが、宿されていた。

 しかし、そんな純粋な気持ちなど、われを忘れた山犬の耳には、届かなかった――

「ああ、お前な、口の利《き》き方《かた》に気をつけろよ? 育ててやった『恩《おん》』も忘れおって、この『ゴミ風情《ふぜい》』が!」

 似嵐鏡月はいっこうに折れない。
 それどころか、さらに激しく、『わが子』を罵倒《ばとう》する。

 つらかった、アクタはつらかった。
 それでも、俺がやらなければ……

 俺はウツロを、弟を守る――
 そう、誓《ちか》ったじゃねえか。

 負けねえ、俺は負けねえ……
 絶対に、だ――!

 彼の覚悟は鉄壁《てっぺき》だった。
 腹は、決まった――

「俺はゴミじゃねえ! それにウツロも、毒虫なんかじゃねえ! てめえこそ口の利き方に気をつけろ、この『クソ親父』が!」

 似嵐鏡月はしかし、すっかり呆《あき》れた顔をしている。

「アクタあ、おやおや、『親』に向かってそんな口を利いて、いますぐ息の根を、止められたいのかなあ?」

 アクタの勇気も、この男には、まるで溜飲《りゅういん》が下がっていない。

 何か、わけのわからないことを喚《わめ》いている、『バカ』がいるな――

 その程度にしか、映っていないのだ。

 どうしてだ、どうしてわかってくれないんだ――

 アクタは苦しかった。

 だが、負けるか。
 ここで負けて、なるものか――

「てめえなんざ、『親』じゃねえ。『親』とは認めねえ。俺の『弟』を、侮辱するようなやつはな! それに、息の根が止まるのは、てめえのほうだ!」
「あーあ、何も死に急ぐことなど――」
「これでも、食らいやがれ――!」
「なにっ――!?」

 アクタは大地を蹴《け》って、高く跳躍《ちょうやく》した。

「目え、覚《さ》ましやがれ、《《クソ親父》》いいいいいっ!」

 そのまま山犬の腹に、タックルを決めた。

「ごおっ!?」
 あまりの衝撃に、似嵐鏡月は、手に掴んでいた真田龍子を、放り出した。
「きゃあっ!」
 空中に放たれた彼女は、地面に激突しそうになった。
「させるかよっ!」
 山犬の腹をステップ台に、アクタは真田龍子をすくい取り、そのままトンボ返りをして、気絶している真田虎太郎のそばへ着地した。
「あ……ありがとう、アクタ、さん……」
「いいってことよ」
 彼女をやさしく地面へ下ろすと、アクタは真田虎太郎をゆっくり抱えて、姉にゆだねた。
「あの、わたし……」
「ウツロがさんざん、世話になったようだ、その、真田さん……ありがとう。『兄』として、礼を言わせてもらう。本当に、ありがとう……」
「あ……そんな、わたしは、何も……」
 似嵐鏡月からさんざん罵倒され、傷つけられた彼女を、アクタはなんとか、慰めようと思った。同じ『弟』を持つ者として――
「あんたにも、『弟』がいる。だが、あんたは間違っても、『弟を不幸にする存在』なんかじゃあ、ねえ。気休めかもしれねえが、あんたを見てれば、わかる。どうか弟を、虎太郎くんを、守ってやってくれ。それはきっと、あんたにしか、できねえことなんだ」
「あ……う……アクタ、さん……」
 正直な気持ちからだった。
 自分もボロボロになりながら、気づかいを見せてくれる彼に、真田龍子はうれしかった。
「大丈夫。あんたなら絶対、大丈夫だ」
「アクタ、さん……あり、がとう……」
 彼だって心をズタズタにされているのに、わたしのことをこんなに案じてくれている。
 彼女はその『強さ』に、むせび泣いた。
 似嵐鏡月は眼前でのやり取りに、すっかり呆れている。
「ふう……はあ、アホらしい……お涙頂戴の小芝居か? 弟を守るだとか何とか、どうすればそんな白々しい『茶番』が、演じられるのかのう」
「てめえにゃ、ぜってえ……永遠にわかんねえよ……!」
「……なんか、ついさっきも、聞いたようなセリフだな。頭の悪い奴は、同じことしか言えんのかあ?」
 痛みなどわからぬ、『愚かな父』――アクタはそれを、決然とにらみ上げた。
「……頭がわりいのは、てめえだろ……」
「柾樹っ――!」
 やっと覚醒した南柾樹が、似嵐鏡月を諌める。
「……目の前にいるのが、誰か……わからねえのか……てめえの『息子』、だろ……アクタが、どんな気持ちか……考えたこと、あんのか……」
「おやおや、『生ゴミの柾樹くん』、まだ生きていたのかね? とっくに『ゴミの処分所』に、送られたのかと思っていたよ」
「いいかげん、目え覚ませっつってんだろ……そんなんだからバカにされる、親父にも、姉貴にも……それが何でなのか、てめえこそ『なんじに問え』ってんだ……この、『クソ親父』が……!」
「まだ言うか、死に損ないが! 本当に今度こそ、息の根を止めてしまうぞ!?」
 彼にはこの山犬が、なんだか滑稽なピエロに見えてきた。
「へっ……」
「……何がおかしい?」
「弱い犬ほど、よく吠える、ってか……」
「きっ、貴様あああああっ!」
 アクタたちへの注意を反らす意味もあったが、それ以上に、「バカは死んでも治らない」という、率直な気持ちからだった。
「待ちな、『親父』――」
「ああ――?」
「その男に、南柾樹に、指一本でも触れてみろ。俺が叩きのめしてやる、そう言ってるんだぜ、『親父』よ?」
 アクタは似嵐鏡月の注意を、逆に自分に引きつけた。
 南柾樹の矜持に、アクタも改めて、覚悟を決めたのだ。
「おやおや、困ったの。この期に及んで虚勢か、アクタ?」
「虚勢じゃねえ。それに俺は、本気だぜ?」
 南柾樹は不安を禁じえなかった。
 アクタは、死ぬ気だ――やめろ、それだけは、やっちゃいけねえ……
「……よせ、アクタ……」
 彼はなんとか、それだけは止めなければならない――そう思った。
「本当に殺すぞ、アクタ?」
「やってみろよ、『腰抜けのクソ親父』!」
「貴様あっ!」
「やめろ、アクタっ!」
 『父』を挑発する『息子』を、南柾樹は抑えようとした。
 だが、アクタの決意は、揺るがなかった。
「マサキっ! ウツロが世話になった! 短けえ間だったが、楽しかったぜ! 最高だよ、あんた! だから、どうか……どうかウツロを、『弟』を、頼む……!」
「アクタっ、よせっ、よせええええっ!」
「俺がこいつを、クソ親父を連れていく! さよさらだ、マサキっ!」
 やはり最悪のことを考えている。なんとしても、止めなければ――
 しかし彼の体は、とても動かせる状態ではなかった。
 アクタはもう一度、山犬に向かって、高く跳躍した。
「ふん、望みどおりにしてくれるわ!」
 似嵐鏡月は向かってくるアクタに、拳を握って殴りかかった。しかし――
「何っ――!?」
 動きを予測していたアクタは、その手をすり抜けてステップにし、さらに高く跳んで、山犬の背後を取った。
「ぐうっ――!?」
 アクタのたくましい両腕が、似嵐鏡月の首を捉える。
 チョーク・スリーパーの要領で、一気に締め上げた。
「ぬ……ぐぬっ……!?」
 その手を振りほどこうと、山犬は手を振り回して暴れた。
「させねえぜ、これでも食らいな!」
「――っ!?」
 アクタはさらに、両脚をも絡みつかせ、全身の力を振り絞った。
「うっ……ぐ……ぬう……!?」
 アルトラの能力によって、凶暴な獣に変身しているとはいえ、首という肉体上の弱い部分、さらには、アクタの剛力で、フルパワーに締め上げられているのだ。
 さすがの似嵐鏡月も、息が苦しくなってきた。
「がが、やめろ……やめんか、『ゴミ』が……!」
「ぐがあ――!?」
 山犬はアクタの背中に、その鋭い爪を立てた。
 耐えがたい激痛が走る。
 だが、放さない。アクタはその手を、脚を――
 まだどこかに、『期待』があった。
目を覚ましてくれるのではないかという、『期待』が――
「……やめろ、アクタ……やめてくれ……」
 ウツロが何か、言っているな。もう俺の耳には、よく聞こえない。
 でもな、ウツロ。お前は、お前だけは、生きるんだ。
 そしてきっと、幸せになってくれ。生きろ、生きてくれ、ウツロ――!
「ぐうう……アクタあ……放せえええええ……!」
「……あんたが死んだって、泣いてくれるやつなんか、いやしねえ……! だから俺が、せめて俺が……!」
「……ならば、こうしてくれるわあっ!」
「――っ!?」
 似嵐鏡月は、アクタを鷲掴みにして、力強く放り投げた――
「ぐふっ――!?」
 ああ、アクタは桜の大木に、したたかに打ちつけられた。
 そのままズルズルと落下し、彼は動かなくなった。
「あ、あっ、アクタあああああっ!」
 口の中からナイフが飛び出すような絶叫――
 そのナイフは、ウツロの喉だけでは飽きたらず、心までをも切り裂いた。
「ふん、ゴミが。当然の報いよ」
 『息子』をさんざん痛めつけておいて、似嵐鏡月は『ハエ』を振り払ったような『ため息』をついた。
「あ……あ……」
 ウツロは顔を両手で押さえながら、激しく嗚咽している。
 いまにも呼吸が不可能になりそうな感覚――
 苦しい……死ぬ、死ぬ……う……
 彼の中で、何かのスイッチが入った――
「ウツロ、落ちつけ……!」
 いけない、このままでは危険だ。
 鋼鉄の棺桶のように重い体を引きずりながら、南柾樹はウツロのほうへ、何とか近づこうとする。
「ぐ……クソっ……!」
 だが、言うことを聞いてくれない。
似嵐鏡月にやられたダメージは、桁外れに大きかった。
 そのとき――
「あ……が……ああああああああああっ!」
 ウツロに異変が生じた。
 皮膚の色が、ものすごい勢いで濁っていく。ヘドロのような、汚らしい色合いだ。
 そしてさらに、『ヘドロ』がドロドロに溶けるように、かつ、増殖するように、膨らんでいく。
「これは……いったい……」
「アルトラよ……」
「――雅っ!?」
 すぐ近くに倒れていた星川雅が、ようやく目を覚まして、南柾樹に語りかけた。
「きっと……アクタを傷つけられたショックで……ウツロのアルトラが、発動したんだわ……」
「マジ、かよ……」
 南柾樹は言葉を失った。
 ウツロは頭を抱えながら、それを縦横無尽に振り回して、悶え苦しんでいる。
 その間にも全身は、泥人形のように崩れていく。
 変わり果てていくその姿に、弟を抱きかかえながら、真田龍子は全身を震わせ、おそれおののいた。
「ウツロくん……」
 変貌が止まったとき、彼女は絶句した。
 ウツロの姿は醜い、おぞましい、異形の『毒虫』に変じていた――
 『ダンゴムシ』のような見た目だが、甲殻類のようでもあり、軟体動物のようでもある。
 それはすなわち、ウツロが持っている『トラウマ』の結晶なのだ。
「なんてこと……」
「おい、ウツロ! 落ち着け! しっかりしろ!」
 星川雅と南柾樹は、事態に驚きつつも、変わり果てていくウツロを、何とかしなければと考えた。しかし先ほどの戦いで、大きなダメージを負った体は、ほとんどいうことを聞いてはくれない。
「ははっ、これはケッサクだ! 見ろ、アクタ! ウツロのあのおぞましい姿を! 本当に毒虫になってしまいおったぞ!」
 似嵐鏡月はあろうことか、苦しみ悶える『わが子』を嘲笑した。
「ウツロ、よかったな! 悲願が叶ったではないか! お前は正真正銘、毒虫になれたんだぞ!?」
 牙をカチカチ鳴らしながら、下品に笑う。
 事の異様さに、皮一枚のところで生存していたアクタが、その重いまぶたを開けた。
「……ウツ、ロ……」
 指を動かすのもやっとだ――が、何とかしなければ――
 ウツロがあんなに、苦しんでいるんだ。俺が何とか、しなければ――
 だが、ほとんど虫の息の彼には、満足に体を動かすことは、かなわなかった。
「ウツロくん……」
 真田龍子は思案していた。
 この状況で、ウツロを救えるのは、自分しかいない。
 でも、いったい、どうやって――
「あ……が……あ……」
 ウツロの体は少しずつ、だが確実に膨らんでいく。
 周囲の土や、草や、あるいは桜の木を取り込むように、どんどん増殖していく。
「ああ、ウツロくん……わたし、いったい、どうすれば……」
 真田龍子は焦った。
 こんな状態のウツロを、どうすれば止められるというのか?
「……ねえ、さん……」
「こ、虎太郎……!」
 目を覚ました真田虎太郎が、姉に語りかけた。
「……ウツロさんを、助けてください……」
「でも、どうやって……」
「……ウツロさんの、心を……取り戻すのです……僕が、援護します……」
「――っ!?」
 真田龍子の体が、柔らかい緑色の光に包まれた。
 真田虎太郎がアルトラ『イージス』を発動させたのだ。
 だが満身創痍によるそれは、姉の体の上に、薄い『膜』を張るのが精一杯だった。
「だめ、虎太郎っ! そんな体で、力を使ったら――」
「早く……長くは、持ちません……どうか、ウツロさんを……」
「……」
 やるしかない――わたしが、やるしかない――
 彼女は意を決して、毒虫と化したウツロのほうへ、足を踏み出した。
「龍子っ、だめよ! いまウツロに近づいたら――」
 星川雅は真田龍子を制止しようとした。
「雅、ありがとう。でも、わたしが……わたしに、やらせて……!」
 このときすでに、彼女の覚悟は決まっていた。
「龍子っ、だめだ、龍子っ!」
 南柾樹も同様に制止を試みる。
「柾樹、大丈夫。わたしがきっと……ウツロくんを、助け出す……!」
 何ができるかなんて、わからない。だが、何もしないよりは、ずっといい。
「ふん、真田龍子。いったいお前などに、何ができるというのだ?」
 似嵐鏡月は嘲笑する。だが、真田龍子の心に、もはや『くもり』は消えていた。
「似嵐さん、覚悟してなさい。ウツロくんが目を覚ましたとき、きっとあなたは、『息子の手によって倒される』――!」
「……」
 なぜそう言い放ったのか、真田龍子自身にもわからなかった。
 だがそんな気が、そんな『予兆』を感じたのだ。
 もちそん、それがかなうかは、自分の手にゆだねられている――
 彼女は強く、拳を握った。
「……真田さん、ウツロを……ウツロを……」
 息も絶え絶えのアクタは、真田龍子を心配していた。
 だが、彼女ならきっとできる――
 漠然とだが、そう信じていた。
「ウツロくん」
 ドロドロと蠢く、異形となったウツロの前に、真田龍子は立った。
「さあ」
 大きく手を広げ、ほほえむ。
 その姿は、ウツロのすべてを受け入れる――
 そう言っているかのようだった。
「あ……があああああっ!」
 毒虫は咆哮して、目の前の少女を呑み込んだ。
「龍子おおおおおっ!」
 桜の森に、星川雅の絶叫がこだました――

   *

「う……」
 真田龍子が気づいたとき、彼女は深い、杉林の中にいた。
 ただ、真夜中のように、辺りは暗い。
 キョロキョロと見回すと、前方に日本家屋、その右側には、小さな畑もある。
「ここは……きっと、『隠れ里』……ウツロくんの、心の中なんだ……」
 彼女は不安と恐怖に押し潰されそうだったが、表皮に光る緑色の膜を見て、弟・虎太郎や雅に柾樹、アクタのことを思い出し、勇気を振り絞った。
「みんな、お願い……わたしに、力を貸して……!」
 真田龍子は勇んで、足を踏み出した。
 彼女がさらに目を凝らすと、屋敷の縁側に、誰かが腰かけて、うなだれているのに気がついた。
「ウツロくん――!」
 ウツロ、確かにウツロだ。
 だが、『彼』は、真田龍子が呼びかけても、微動だにしない。
 それは、聞こえていないのではなく、聞こえているけれど、応じる気はない――
 そんな風に、彼女は感じた。
「ウツロくん、大丈夫!?」
 真田龍子はウツロに駆け寄った。
「しっかり、ウツロくん!」
 ウツロは顔も上げず、ただただ、うなだれているだけだ。
「ウツロくん……」
 真田龍子の再三にわたる呼びかけに、ウツロはやっと、口を動かした。
「……誰も俺のことを、わかってくれない……」
「――」
 予想はしていたが、その闇は想像以上に深い――
 真田龍子は、慎重に行動しなければと、自分に言いきかせた。
「……こんなにつらいのに、こんなに苦しいのに……」
「ウツロくん……」
 ウツロの主張は、自分本位のもの――
 しかしそれは、どんな人間でも抱えているもの。
「……苦しい、苦しい……俺は、毒虫だ……俺という存在は、呪われている……」
「……」
 苦しいのは誰だって同じ――
 真田龍子の頭には、その思いがあった。
 しかし、言い方というものがある。
 苦しみも個性であるならば、それは名状しがたい事実ではある――
 だが、現実に苦しんでいる人間に、その言葉はあまりにも、重すぎる。
「……なんで、なんでだ……なんでこんなに、苦しいんだ……つらい、つらい……こんなにつらいのなら、いっそもう……生きたくなんか、ない……」
「……」
 苦しみを次々と吐露するウツロ。
 その姿に、真田龍子は、なんだかだんだん、腹が立ってきた。
「……苦しい、苦しい……俺なんか、生まれてこなければ、よかったんだ――!」

   ぱしんっ

 ウツロの頬《ほほ》を、真田龍子の平手が打った。
「めそめそすんなあああああっ!」
彼は頬を押さえながら、怯えた顔で彼女を見た。
「誰も俺のことをわかってくれない? わかってもらおうだなんて思うな。そんなことを考えてるうちは、まだ、ガキなんだよっ――!」
 真田龍子は怒りの形相をウツロへ向けている。
 しかしそれは、憎悪からではない。
 たとえ悪鬼のごとく思われようとも、すべての責任において、彼の目を覚まさせる――
 その決心の表れだった。
「……あ……あ……」
 ウツロは赤くなった頬に、涙を垂らした。
 なんだ?
 なんだ、この感覚は?
 これが本当の優しさ……?
 上辺で笑顔を向けられるのではなく、気にかけてくれているからこそ、あえて厳しい態度を取る。簡単なようで、それは一番、難しいことではないのか……?
「ねえ、ウツロくん」
 彼女は両手でウツロの顔を引き寄せた。
「毒虫だって? それが何? 虫は存在してちゃ、いけないっていうの? そうじゃないでしょう? たとえウツロくん、あなたが本当に毒虫だとしても、這えばいい、這い続ければいい。必死に、懸命に――たとえ、蝶になんてなれないとわかりきっていても、ひたすら這い続ける毒虫――そんな愚直な、でも高潔な存在を、わたしは……わたしは、愛する」
「……」
「好き、ウツロ……」
「――!?」

 口づけ。

 その甘さは、醜い毒虫の殻を、粉々に打ち砕いた――
「……真田さん、苦しい……」
「ああ、ごめん……わたし、つい。へへ」
「……バカのほうがいいこともある、か――」
「あとでたっぷり、バカになりましょう。ね、ウツロ?」
「うん、真田――」
「うーん?」
「……その、りょ……龍子……」
「いい顔だね。そんないい顔、できるんじゃん?」
「……龍子のせいだよ?」
「なにそれ、ヘンテコ」
「どうせ俺は、パッパラパー助くんだよ」
「はは」
「あ、はは」
 ウツロは、いや、真田龍子も――
 互いが互いに、おそらく生まれてはじめての、開放感――
 心を開いたときの自由さを、享受した。
「ウツロ、みんなが……虎太郎が、柾樹が、雅が、アクタが、待ってる……そして――」
「わかってる、龍子……俺は、龍子に、助けてもらった……そして今度は、俺が助ける番なんだ……!」
「行こう、ウツロ――!」
「うん、龍子――!」
 二人の体は光の渦となって、暗黒の鉄格子を破壊した――

「……なんだ、ありゃあ……!」
「まさか、龍子が……ウツロに……」
 南柾樹と星川雅は、呻くような声を上げた。
 真田龍子がウツロに取り込まれてから、実時間にして、五分足らず。
 一時的に静止していた異形の毒虫が、にわかにまた、蠢きはじめたのだ。
「ふふ、やはりあの女には、君の姉には無理だったようだな、虎太郎くん?」
 正座して待っていた真田虎太郎を、似嵐鏡月はさりげなく罵った。
「いえ、逆です」
「なに?」
「あれをご覧ください、似嵐さん」
「――!」
 蠢いていた毒虫が、また静止した。
「……なにも起こらんではないか。ガキが、ふざけたことを――」
「気づかねえのか、『バカ親父』」
「ああ?」
 桜の木にもたれかかっていたアクタが、『父親』を制した。
「お前までふざけるのはよせ、ゴミが」
「虎太郎くん、ありがとうな……君のおかげだ」
「僕はなにも。姉さんが……いえ、ウツロさんの力です」
 似嵐鏡月など眼中になく、アクタと真田虎太郎は、うれしそうに対話している。
「……無視しおって。いったい、ウツロがなんだと――」

   バキッ

「――!?」
 音が聞こえた。
 硬い物体に、亀裂が入るような音だ。
「……な、なんだ……」

 バキッ、バキバキ

「な、なんだ、この音は……!」
 どんどん大きく、激しくなる。
「アクタさん」
「ああ、虎太郎くん。お姉さんが、ウツロが……戻ってきた……!」

 バチンッ

「……ど、どういうことだ……!?」
 『毒虫』の表皮が弾けとんで、まばゆい光があふれ出す。
「この光は、龍子の……!」
「……ったく、心配かけやがってよ……」
 星川雅と南柾樹が驚き、涙腺を緩ませている間にも、『毒虫』の殻は砕け、そこから光線があふれ続ける。
「な、なんなのだ……いったいこれは、なんなのだ……!?」
 似嵐鏡月が黒い山犬の姿で戦慄する中、ついにその光は、桜の森の夜を消し飛ばすがごとく、強く強く、輝いた。
「姉さん……!」
「おせえぜ、ウツロ……!」
 森の中空に集約した光の中心には、真田龍子を両手で抱きかかえた、ウツロの凛とした勇姿があった――
「ったく、おせえんだよ、ウツロ……!」
「龍子、よかった……」
 南柾樹と星川雅は、歓喜の顔で涙を浮かべた。
「ウツロさん、姉さん、ご無事で、なによりです……!」
「いまごろ、目覚めてんじゃねえぜ、バカな弟がよ……」
 真田虎太郎とアクタは、感慨もひとしおだ。
 彼らは一様に、夜の闇を照らし出すかのようなその輝きに、しばらく見とれていた。
 いっぽう、面白くないのは似嵐鏡月である。
「……バカな、こんなことが……信じる力だと……? なにが、愛だ……そんなものが、そんなものがあるのなら……なぜ、天は……わしには、ほほ笑まなかった……? なぜ、『アクタ』は……? わしの愛する者を、わしの手から、奪い去ったのだ……?」
 彼は膿を吐き出すような口調で、自身が被った不条理について、呪う言葉を唱えた。
「それですよ、お師匠様」
「……」
「なぜ、なぜ、なぜ……! あなたはご自身の命運を、ご自身以外に託した。自分は何も悪くない、すべては周りのせい。そんな心づもりだから、何も掴めない、何も得られない……それはきっと、永遠に……!」
「だ……」
「自分に向き合わず、いや……自分を認めることすらせず、すべてにおいて、他人任せ。腹が立てば、殴ればよい。喉が渇けば、奪えばよい。何も背負わず、何も耐えず……いったいこの世の何者が、そのような人間に、解答を与えるでしょうか?」
「だ、だ、だ……」
「お師匠さま、あなたはいま一度……『鏡月』という、そのお名前の意味について、ご自身にお問いかけください。そして少しは……恥というものを、お知りなさい――!」
「黙れええええええええええっ!」
 山犬は吠えた。その振動は、桜の森を縮みあがらせた。
 黒獣はぜえぜえと荒い呼吸をして、敗北感という脂汗を、しとどに垂れ流した。
「なんだ、なんなんだ、貴様は……!? 説教か、偉そうに!? 貴様を生み出してやったわしに? 貴様を育んでやったわしに? 貴様の存在を許したのは、このわしなんだぞ――!?」
「ピエロですね」
「……」
「奪うために与える……『クズの思考回路』だ。誰がゴミだって? 誰が毒虫だって? あなたこそゴミだ、毒虫だ……独りぼっちでダンスを踊っている、あわれな、滑稽なピエロだ……あなたは!」
「……殺す、殺してやる……殺してやるぞ、ウツロおおおおおおおおおおっ!」
 山犬は再び、吠えた。
 だが今度は、口で打ち負かされたうっぷんを、ゲンコツで晴らそうという、みじめな『負け犬』の咆哮だった。
 もちろん、ウツロは動じていない。それどころか、さらに冷静さを得た。
 そして、毅然とした眼差しを、眼下のあわれな『父』に送った。
「どうぞ、ご勝手に。ただし、『あなたにはできない』、なぜなら――」
「――!?」
 桜の森が蠢き出した。何かが地の奥底から、わき上がってくる。
 眠っていた者たちが、目を覚ますように……蛹が高らかに、脱皮するときのように――
「俺が、俺の『アルトラ』が……それを許さないからです――!」
 ウツロは自身のアルトラの覚醒を宣言した。
「魔王桜が与えた力……これが俺の、『アルトラ』です」
 地の底を何かが這うような音が聞こえる。
 だが、ただそれだけだ。
「……何も起こらんではないか。生意気にハッタリなどかましおって」
 似嵐鏡月はウツロの言葉を『こけおどし』だと断じた。
「おい、ウツロ。そんなところに、いつまで浮いている気だ? 目障りだぞ?」
「……」
「叩き落としてくれるわ!」
 彼はウツロに襲いかかろうとした。
「――?」
 首の下に違和感を覚え、似嵐鏡月はそちらに目を向けた。
「ひっ……」
 山犬の肩口を、一匹の大きなムカデが這っている。
 彼は慌てて、すぐさまそれを手で払おうとした。
「な、なんだ……? 体が、ムズムズするぞ……」
 似嵐鏡月は、全身に感じる奇妙なむずがゆさを不信に思った。
「おい……なんだ、ありゃあ……!」
「叔父様《おじさま》の体の上を、何かが這ってる……それも、一匹や二匹じゃない……あれは、あの形は、まさか……」
 山犬の皮膚の色に『擬態』して蠢く、異形の者どもの存在に、南柾樹と星川雅は気がついた。
「こっ、これは、ムカデの群れ……ひ、やめろ、来るな……!」
 似嵐鏡月はあまりのおぞましさに動転して、必死でそれを振り払おうとした。
 だが、薙いでも薙いでも、ムカデの群れは延々と、無限にわいてくるかのように、彼の足を伝って、体に上ってくる。
「これが俺の能力です、お師匠様。『虫使い』――どうです? 俺にはピッタリだと思いませんか?」
 ウツロの言葉など耳に入れる暇もなく、ムカデの大群は休むこともなく、似嵐鏡月を襲い続ける。
「……おのれ、ウツロ。こしゃくな真似を……!」
 彼は破れかぶれで、中空のウツロを攻撃しようとした。
「――!?」
 足から突然、力が抜けて、似嵐鏡月はその場に、ひざまずいた。
「ぬ、なんだ……体に、力が入らんぞ……?」
 そのまま両手も地面について、彼はすっかり、『土下座』でもしているようなかっこうになった。
「ムカデの毒ですよ。生き物の体を麻痺させる効果があり、実戦における暗器の代わりとして、または古来から医療の手法として用いられる。あなたに教わったのですよ、お師匠様?」
 自分の教えた技を、自分に使用される――似嵐鏡月は屈辱でならなかった。
 だが、いくなんでも、一度にこれほど大量のムカデを用意できることまでは、さすがの彼も、想定の範囲外だった。
「ぐ、ぬう……ウツロ、よくもわしに、こんな真似を……!」
 山犬は『土下座』をしながら、大量の汗を大地に垂れ流している。
 無様なかっこうをさせられ、似嵐鏡月は耐えがたい心境だった。
「雅」
「――?」
 ウツロは星川雅に視線を送った。
「俺は『砂時計』に似ている……そう言ったね? 永遠に埋まらない穴を、埋めようとしている、と。そうかもしれない……俺の心には、どこかにポッカリと、『穴』が開いている……そんな気がするんだ」
「ウツロ……」
「欠落している……それはちょうど、欠落した月、『月蝕』のように……」
 ウツロは天を仰いで、鏡のように光る、満月を眺めた。
「『エクリプス』……それがいい。この力の名前は、『エクリプス』――」
 エクリプス――
 『蝕』、すなわち『欠落』――
 ウツロは『月蝕』を引き合いに出したが、それは誰あろう、実の父・似嵐鏡月への、意識があってのことだった。
 ウツロは真田龍子を両手に抱えたまま、ゆっくりと降下した。
「ウツロさん、姉さん、よくぞご無事で」
 降り立った二人のそばへ、真田虎太郎はすぐさま駆け寄った。
「虎太郎、ありがとう……あなたの能力がなかったら、わたし……」
「いえいえ、なんにもです。ひとえに、姉さんとウツロさんの、『愛の力』の勝利です」
「え……ああ、あはは……」
 弟の指摘を受け、姉はかなり、気恥ずかしくなった。
「虎太郎くん、お姉さんを、龍子を頼みます」
「はい、お任せください、ウツロさん!」
 ウツロは真田龍子を、弟・虎太郎に託した。
「やはり、『愛の力』だったようです……!」
「……あはは」
 姉の名前をウツロが『呼び捨て』にしたことに、真田虎太郎は『愛の力』の成就を確信した。
 弟が何か勘違いしているような気がすると、姉は少し、照れくさく感じた。
 いっぽうウツロは、父・似嵐鏡月の前へ、凛然と立ちはだかった。
「お師匠様、立ち合いを望みます。俺は……その中で、答えを見出したいのです」
 このように彼は、自分の覚悟のほどを、父親に向かって表明した。
「……父子対決か、ふむ、悪くない。ならばウツロ、見せてもらおうか、わしがついに成し得なかったこと……『人間論』に、お前が解答を見出せるかどうかをな」
 ムカデの姿はいつの間にか消え失せていた。毒のしびれも、ほとんど納まっている。
 尋常に立ち合いたいという、ウツロの気構えからだった。
「その虫を操る能力、確かに脅威だ。だがウツロよ、よもやそれだけで、このわしをねじ伏せられるとは、思ってなどおるまいな?」
「さすがはお師匠様、ご理解の早さ、おそれいります」
「ふん、恐縮などせんでよい。見せてみろ、お前の『とっておき』をな」
「されば、お師匠様……」
 再び大地が蠢きだす。
 地の底から何か、異形の者どもが、次々とわき出してくる。
「虫たちよ、俺に力を、貸してくれ――!」
 ウツロの呼びかけに応えるように、それらは姿を現した。
「……!」
 先ほどのムカデ、いや、それだけではない。
 春を支配する虫たち、チョウ、ハチ、アブ、ガ、ハンミョウ、テントウムシなどの羽虫から、地中で眠っていた者たちも、時期を間違えたように顔を出し、名前もわからないような地虫にいたるまで、夥しい数が、ウツロの体にどんどん、纏わりついていく。
「これは……!」
 虫たちを纏って、ウツロは『異形の戦士』の姿へと変身した。
 美しさと毒々しさが混在した色合い、部分によって甲殻だったり軟体だったり……
 しかしその本質は、およそ虫という存在が持つ要素の結晶である――そんな所感を与えずにはいられない姿だった。
「魔道に堕ちても、か……本当にそれでよいのだな、ウツロ?」
「すべては偉大なるお師匠様のため。覚悟はとうに、決まっております」
「……わかった。来い、ウツロ……!」
 似嵐鏡月は、すでにオモチャのようなサイズに見える『黒彼岸』を、前方に構えた。
 それを受け、ウツロもまた、『黒刀』を同様に構える。
「推して参ります、お師匠様――!」
「来るがいい、ウツロ――!」
 次の瞬間、目にも止まらぬ速さで、『異形の戦士』へと変身したウツロは、跳躍した。

 速い――

 似嵐鏡月は慌てて、握っている『黒彼岸』へ、力を込めなおした。

 ガキン!

 黒彼岸とウツロの持つ『黒刀』――両者が激しくぶつかり、鈍い金属音が、桜の森にこだました。
「ぐ、ぬう……」
「くっ……」
 相殺――
 いや、師である似嵐鏡月と、互角な剣戟を放つことができた。
 これは、ウツロにとっては自信に、師・鏡月にとっては焦りとなった。
「ふんっ!」
「――っ!?」
 似嵐鏡月はそれを振り払うがごとく、ウツロの剣を押しのけた。
 ウツロは中空に素早くトンボ返りをして、土くれの地面に、低い姿勢で着地した。
「どうした、ウツロ? その程度か?」
「まだまだです、お師匠様!」
 彼は再び、師に向かって跳躍した。
「何度やっても、同じことよ!」
「それは、どうでしょうか――!?」
 ウツロは似嵐鏡月の斬撃をすれすれでかわし、背後へとすり抜けた。
「なにっ――!?」
 そのまま桜の木をステップとし、角度を変え、また別の木へ。
 それを何度も、執拗に繰り返す。
「まさか、これは――」
 似嵐鏡月は嫌な予感に、再び焦りを感じた。
「……あれは、そんな……『八角八艘跳び』……似嵐流の絶技を、どうしてウツロが……」
 『八角八艘跳び』――
 ほんの少し前、星川雅が似嵐鏡月に繰り出した技だ。
 もちろんウツロは、見よう見まねでやっている。
 だが、人間ならざる虫の能力――バッタやイナゴの跳躍力を得た彼が使うそれは、やはり人間ならざる、もはや人智を超えたレベルの『絶技』に生まれ変わっていた。
「……くそ、『コピー』のはずなのに、まったく捉えられん……」
 似嵐鏡月を徹底的にかく乱し、彼の死角から、ウツロは黒刀を薙いだ。
「くっ、そこか――!?」
「――っ!」
 黒彼岸は確かに、ウツロの脇腹を打った、はずだった。
「な……」
 だが、その部分は、まるでゴムのようにたわんで、マルエージング鋼の重い剣閃を、すっかり受け流してしまった。
「な、なんだと――!?」
「『粘菌』の柔らかさです、お師匠様。アメーバの一種である単細胞生物で、自由自在に形を変えることが、可能なのです」
「くっ、バカな……! これではまるで、無敵ではないか……!?」
「そう、一説には……すべての生物が、同じ大きさになったと仮定すると、最強はすなわち……『虫』であるといわれるそうです」
「……ならば、こうしてくれるわ!」
「――!?」
 似嵐鏡月は全身を横に翻して、大きな山犬の手で、ウツロの体を掴み取った。
「刀で斬れぬのなら、この牙で、粉々になるまで、噛み砕いてやるわ!」
「およしなさい……!」
「むぐ――!?」
 粉々になったのは、山犬の牙のほうだった。
「……あが、あがが……」
「俺の体はすでに、カブトムシの硬さになっているのです……!」
「……あが、わしの……歯が……」
「どうやら、幕の引きどきのようですね――はあっ!」
「ふぁあっ――!?」
 ウツロは体に力を込め、自身を握っていた山犬の手を、一気に弾き返した。
「お師匠様! いざ、勝負っ!」
「――!」
 横に回転しながら、ウツロは似嵐鏡月に突進した。
「あれは、秘剣・纏旋風……!」
 星川雅が驚愕に叫んだ。
 やはり彼女が見せた技の見よう見まねだったが、ウツロのそれは、巨人サイズのカマキリの威力を備えていた、そして――
「ぐがあっ――!?」
 その斬撃は、山犬の胸もとを、したたかに打ちのめした。
「――」
 似嵐鏡月は気が遠くなり、後ろへゆっくりと、倒れ込んだ。
 ウツロは静かに着地し、姿勢を正して、偉大なる師へと、一礼した。
「……お師匠様、最高の勝負を……ありがとう、ございました……」
 その目から、一筋の涙が、滴り落ちた――
 倒れ込んだ大きな山犬の体は、どんどん縮んでいって、元の似嵐鏡月の姿へと戻った。
「……なぜ……なぜだ……」
 彼は薄れた意識の中、まだそう、問いかけていた。
 ウツロもまた、元の姿へと戻り、その場にしゃがんで、凛と正座をした。
「枷をはめられ、鎖につながれていることに立ち向かうからこそ、自由の大切さがわかる。存在を否定されることに向き合うからこそ、自分を肯定できる。矮小な自分を認めるからこそ、勇気を振り絞れる。悪を思うからこそ、善に向かうことができる」
 星川雅、南柾樹、真田虎太郎、そして真田龍子。
 みんなはウツロが、自分たちのことをそれぞれ、言ってくれたことを理解した。
 そしてそれは、ウツロが自分自身に向けて言ったことでもあり、無理やり言いきかせているのではなく、本心からそう思えたことだった。
 ウツロはこのとき、すべての存在を肯定することができたのだ。
 彼を呪う父までも――
「お師匠様、俺は毒虫だってなんだっていい。毒虫が自分の醜さを呪ったら、本当に毒虫になってしまう。立ち止まっている毒虫ではなく、俺は、這い続ける毒虫になりたい。きっとそれが、人間になるということなんです。それが俺の、『人間論』です――!」
 ウツロはこのように、決然として言い放った。
 似嵐鏡月は、少年時代の自分を思い出した。
 思索に次ぐ思索の果てに形成された『人間論』――その解答を、必死で見出そうとしていた。
「……どうやらわしは……蒙を啓こうとして、蒙に沈んでいたようだのう……」

   鏡月、この能なしが!
   貴様は似嵐の面汚しだ!

   くすくす、鏡月。
   またお父様に叱られて。
   本当にダメな弟よね。

「わしはただ、ほめてもらいたかった……親父に、姉貴に……それだけなのに……」
 ウツロは悲痛な気持ちになった。
 自分の人生を弄んだ父――だが、彼もまた、弄ばれた存在だったのだ。
「ウツロよ……わしは自分に負けたが、お前は……お前という奴は……」
 似嵐鏡月の顔は、次第に穏やかになっていく。
 うまく言えないけれど、いい気分だ……
 彼は心の中のくもりが、晴れていくのを感じた。
「ウツロ、わしに止めを刺すのだ……!」
「――!」
 似嵐鏡月の言葉に、ウツロは衝撃を受けた。
「それだけのことを、わしはお前たちにした。人としてあるまじきこと……もはや生きている価値などない……さあ、ウツロよ、頼む……!」
 ウツロはアクタのほうを見た。
「……ウツロ、お前にぜんぶ、任せるぜ……」
 『兄』の委任を受け、ウツロも覚悟を決めた。
「……されば、お師匠様――!」
 彼は立ち上がり、師に向けて跳びかかった――
「お覚悟!」
 似嵐鏡月は目を閉じた。
 首の横に感じた、土を抉る鈍い音に、彼は再び、目を開けた。
 ウツロの黒刀は、師を止めてはいなかった。
 眼前には、歯を食いしばって涙をこらえる、『息子』の顔があった。
「……お師匠様、ここであなたが死を選んだのなら……いままであなたに踏みにじられた者の存在は、なんだったというのでしょうか……?」
「……」
「あなたがなすべきこととは……生きて、それらへの償いをする……それしかないのではありませんか……?」
「……ウツロ……」
「生きてください、お師匠様……! そしてまた、アクタと三人で……隠れ里で、暮らしましょう……!」
 これを聞いたアクタは、満足そうに落涙した。
 似嵐鏡月も同様だ。
「……完全に、わしの負けのようだな……そして、強くなったな、ウツロよ……」
「……」
「お前はもう、『毒虫』などではない……はばたけ、はばたくのだ、ウツロ――!」
 ウツロはこらえきれずに、涙をこぼした。その場にいる全員が、泣いていた。
 バラバラだったものを、ウツロが、一つにつなぎ合わせた。
 みんながみんな、それがうれしくてならなかった。
 夜空が少しずつ白いでくる。
 もう、夜明けか……しかしそれは、特別な意味での『夜明け』……
 みんながそう、思っていたとき――
「――!?」
「な、なんだ……この『音』は……!」
 星川雅と南柾樹は辺りを見回した。
「地震……いえ、違うわ……!」
「姉さん、何かがおかしいです……! 気をつけて……!」
 真田虎太郎は姉・龍子を守った。
「いったい、なんだってんだ……こんなときによ……!」
 アクタも満身創痍ながら、身を守るしぐさをした。
「……この感じ……まさか、まさか……!」
「お師匠様、お気をつけください……!」
 ウツロも地面に伏している師をかばった。
 地鳴りはどんどん大きくなり、地は割れ、桜の森は裂けていく。そして、鎮守の一本桜と一同を残して、すべてが粉々に砕け散った。暗黒の世界と化したその空間。
一本桜がにわかに蠢きだす。
 みるみるうちに巨大化し、アクタ以外の全員が知る、忘れもしない、いや、忘れることなどできない、あの『異形の王』の姿へと、変貌を遂げた。
「……バカな、『これ』は……」
「……魔王桜……」
 似嵐鏡月とウツロは、呻くように口走った。
 人間の前に出現し、異能の力『アルトラ』を植えつける、『異界の王』。
 それがこの桜の森の空間を破壊して、姿を現したのだ。
 面前の者たちは、激しい戦慄を禁じえなかった。
「……あの女が、グレコマンドラが言っていた……」
「――!?」
 似嵐鏡月が、誰かに動かされるように、口を開いた。
「……魔王桜は、人間の持つ、『悪意』を主食にすると……そして、その『悪意』を効率よく生み出すため……人間に、『アルトラ』を発動させるのだと……」
「……なぜ、『アルトラ使い』を作り出すことが、『悪意』を生み出すことに、つながるのでしょうか……?」
 ウツロは震える体を黙らせながら、師にたずねた。
「アルトラの能力とはすなわち、『精神の投影』……もし、強い願望なり欲望なりを持つものが、『アルトラ使い』となれば、より多くの『悪意』を、吐き出させることが可能となる……」
「願望……それでは、まさか……!」
「ああ、魔王桜にとって、われら人間は、『食い物』でしかないのさ……しかも、より長く味わえる、『あめ玉』であるほどよい……」
「そん、な……」
「やつがいったい、何者で……どこからやってくるのかまでは、わからんがな……」
 魔王桜は怪しい妖気を振りまいて、呼吸でもするかのように、どろどろと蠢いている。
「魔王桜め、一度アルトラを与えた者たちの前に、また現れるとは……いったい何を考えて……まさか――!?」
 似嵐鏡月は自分で放った言葉に、愕然とした。
 ウツロも『そのこと』に気がついた。
「アクタ、逃げろっ!」
「――?」
「わしとしたことがうかつだった! この中で魔王桜に会ったことのない……アルトラ使いになっていないのは、アクタ! お前だけだ!」
「な……」
「きゃつめ、おそらくお前にアルトラを植えつけるため、出現したのだ! 逃げよ、アクタ! 逃げるのだ!」
「……そんなこと、言われてもよ……体が……ん……!」
 皮肉なことにもアクタは、彼の身を案じる父・鏡月に受けたダメージのせいで、満足に体を動かすことができない。
「くそっ、お師匠様! 俺がアクタを……なっ――!?」
 アクタの元へ走ろうとしたウツロの足が、根を張ったように動かない。
「これは……!?」
 文字どおり、『根を張っていた』――
 いつの間にか地面から顔を出した、魔王桜の『根』が、彼の足を、しっかりと絡め取っていたのだ。そして、太い枝の一本がゆっくりと、ウツロのほうへその先端を研ぎ澄まし、向かってくるではないか。
「ヤロウ、邪魔しようとするウツロを、まず始末する気だぜ……!」
「ウツロっ! くそ、こうなったら、わたしの『ゴーゴン・ヘッド』で……な――!?」
「な、なんだ、こりゃあ!?」
 なんと南柾樹と星川雅の体までも、魔王桜の『根』によって、封じられてしまった。
「柾樹っ、雅っ!」
「ならば、僕の『イージス』で……わっ――!?」
「きゃあっ!」
「ぬぬぬ……」
 やはり真田龍子と弟・虎太郎も。
「みんな! くそっ、こんな『根』なんかに……ぐあ――!?」
「ウツロっ! くそ、わしの体さえ動けば……」
 『根』は歯向かおうとするウツロを、さらに強く締めあげた。
 似嵐鏡月はなんとか助けようともくろむが、やはり皮肉なことに、ウツロから受けたダメージのため、うまく体を動かせない。
「あ……あ……」
 魔王桜の鋭い枝先は、目玉のような夥しい数の花を咲かせ、ウツロの目前まで迫ってきた。
「くっ――!」
 恐怖のあまりウツロは目を閉じた。
「……」
 何も起こらない。ゆっくりとその目を開くと……
「――!」
 似嵐鏡月が、そこに立っていた。
 全身の半分、いや、三分の一にも満たない程度が、『山犬』の姿に変わっている。残された僅かな力を振り絞り、『息子』を守るため、アルトラ『ブラック・ドッグ』を使ったのだ。
 その胸もと――心臓の辺りを貫いて、枝の先端が、ウツロの目の前で、止まっている。
 ウツロの顔が、崩れた――
「『父さん』っ――!」
 なぜ、そう言い放ったのか、彼にもよくわからない。
 しかしウツロは、魔王桜の攻撃から、わが身を呈して自分を守った似嵐鏡月を、確かにそう呼んだのだ。
 魔王桜は鋭い大枝を、乱暴に引き抜いた。そしてそれをわが元へ引き寄せ、暗黒の世界を連れつように、いずこかへと消え去った。
 あとには、さっきまでの桜の森の空間と、七人の人間たちだけが残された。
 ウツロは瀕死の『父』に駆け寄り、その体を抱きかかえた。
「父さん、しっかり!」
「……わしを、父と呼んでくれるのか、ウツロ……」
 似嵐鏡月は血を吐いて、出血した胸ぐらを手で押さえている。
「お願いです、父さん! 毒虫でもなんでもいい! 俺は父さんと一緒にいたいんです!」
 ウツロは顔をくしゃくしゃにして、そう叫んだ。
「……完全に、わしの負けのようだ……わしは自分に負けた、だが、ウツロ……お前は、お前という奴は……」
 似嵐鏡月はそっと、その手をウツロの頭に置いた。
「万城目日和は、生きておる」
 一同は驚愕した。
 似嵐鏡月がかつて命を奪ったという、悪徳政治家の娘――
その名前が確か、万城目日和だった。
「殺したというのは方便……隠れ里とは別の場所で、わしが密かに保護し、お前たちと同じように、育てておったのだ……」
 彼はなぜ、その少女を生かしておいたというのか。
「わしがあやつを始末しようとしたとき、あやつはこう言い放った」

   その技を教えろ、お前を殺すために……!

「わしが死んだと知ったとき、あやつがどんな行動に出るのか、わしにもわからん。わしの代わりにウツロ、お前をつけ狙うかもしれん。あるいは――」
 似嵐鏡月は激しく咳きこんで、また血を吐いた。
「父さん!」
「ただ、一つだけ言っておこう、ウツロ……お前では、あやつには、勝てん……」
 彼は酷く荒い呼吸をしながら、話を続ける。
「ウツロよ、お前は問いかけに、解答を見出した……しかしその解答は、やはり問いかけなのだ。お前はその問いかけから、さらに解答を、見出さなければならない……その連鎖は果てしなく、終わることのない、イバラの道だ……夜はまたやってくるだろう……乗りこえられない夜も、あるかもしれん……しかし、お前の選んだ道なら、進むがいい……迷いに迷って、活路を探すのだ……それがつまり、人間になるということ……そうだろう?」
 似嵐鏡月の口調は、次第にとぎれとぎれになっていく。
「わしは、人間のクズだ……だが、最後に、人間に、近づけた気がする……ウツロ、お前のおかげだ……」
 末期の言葉だった。
 だがウツロは、決してそれを認めたくはなかった。
「なりません、父さん! 死んではなりません! ウツロは父さんと、兄さんと三人で、また暮らすのです!」
 似嵐鏡月は体を無理やり動かして、アクタのほうを見た。
「アクタ、わが子よ……愚かな父を、許してくれ……息子をともに連れていく、この外道を……」
 涙もしとどに、わびを入れた。だがアクタは、満足した顔だ。
「なに、言ってやがる、クソ親父……あんたと、行けるなんて、最高の、気分、だぜ……」
 ぼろぼろになった状態で、それでも笑っている。
「はは、お前らしいのう……最後の最後まで、間抜けなセリフを、吐きおって……」
「言ってろよ……人間のクズが……」
 アクタは笑顔で、涙を流した。
「ウツロよ、一つだけ、言い残すことがある……」
 『父』は最後の力で、『息子』に思いを託す。
「よいか、たとえ、お前が愛するものを、傷つけられたとしても……怒りでわれを、失ってはならん……もし、そうなりかけたときは、わしのことを、思い出せ……この、愚かな父の言葉を、気つけとし、目を覚ますのだ……よいか、これだけは、忘れては、ならんぞ……」
 似嵐鏡月は死期を悟った。
「時間だ、ウツロ……お前が這うさまを、しっかり、見届けさせてもらうぞ……地獄の、底でな……」
「いやだっ、行かないで! 父さんっ!」
「さらばだ、息子たちよ……」
 似嵐鏡月は息を引きとる寸前になって、やっと心が晴れわたっていくのを感じた。
「人間とは何か?」という、自身を生涯苦しめた問いかけに、わが子が解答を出してくれた。自分が真の意味で、『父親』になれたような気がしたのだ。あまりに遅かったとしても、外道のまま旅立つよりは、よいのではないか。
 それがこの男の、世界を愛するがゆえに、世界を呪った男が最後にした、思索だった。
 最期に及んでだけれど、認めることができた。息子たちへの愛を――
「父さん……」
 本心など、どうでもいい。父さんは俺を、認めてくれた。
 少なくとも、ウツロはそう、確信していた。
「よかった、ウツロ……」
「アクタ!」
 ウツロは今度は、『兄』のほうへと駆け寄った。
「俺も、先に、行くぜ……クソ親父と、一緒に、見守ってるからよ……」
 もう力など出ないはずなのに、アクタは顔を上げて『弟』を見た。
「その人たちなら、大丈夫だ……ウツロ、俺の代わりに、お前を守って……」
「もういい! しゃべるな、アクタ!」
 アクタにもまた、最期がやってきた。彼は傍らの南柾樹に視線を送った。
「弟を……頼む……!」
 南柾樹は黙って歯を食いしばり、うなずいた。
「もう……なってるだろ……」
「……アク……タ……?」
「人間、だぜ……ウツ、ロ……」
 アクタは父に続いた――
 その顔は、ウツロでさえ初めて見る、穏やかさに満ちあふれていた。
「アクタっ、『兄さん』っ! いやだ……行かないでくれ! 兄さん、兄さあああああんっ!」
 ウツロが絶叫する中、桜の森に集う少年少女たちは、それぞれの思いを、それぞれの胸に宿した。
 そして夜は白々と、明けてきた――

   *

 死亡した似嵐鏡月とアクタを除き、真田龍子は『治癒の能力』で、残る四名の応急処置をしていた。
「姉さん、僕は大丈夫ですから……ウツロさんたちを、どうか……」
 弟・虎太郎は、自分も傷つきながら、周りを気づかう彼女を心配した。
「姉さんのアルトラ『パルジファル』は、かなりの精神力を使うはずです……本当に、僕は平気ですから……」
「いや、なんか、わたしだけ何もしてないしね……ちょっとくらい、いいかっこさせてよ、虎太郎」
「……」
 真田虎太郎は姉のやさしさに、やはり姉から酷《ひど》い仕打ちを受けたという、似嵐鏡月のことを思い出していた。
 真田龍子も同様に、なぜ姉である似嵐皐月――イコール、雅の母・星川皐月が――あれほど、自分や虎太郎に親身に接してくる精神科医が――そのような蛮行を――あるいはそれが、穏やかな名医の本性なのかもしれないが――弟・鏡月へ向けたのか、頭に引っかかってしかたがなかった。
 両者とも、「あのやさしい皐月先生が、まさか」「何かの間違いではないか」と考えるいっぽう、真田虎太郎は「自分の姉は違う」と、真田龍子は「自分もいつか、同じことをするのではないか」という、似嵐鏡月の言葉を思い起こした。
 ウツロは並べて寝かせた父・鏡月と兄・アクタの躯の前で正座し、じっと目を閉じていた。
 星川雅は、何かの器械を取り出して、何者かと連絡を取り合っている。
 すなわち、彼らを管理・監督する組織、特定生活対策室の朽木支部とだ。
「第三課の救護班は、どれくらいでこれそうだって?」
 傍らの南柾樹がたずねた。
「『盗聴器』が拾った内容は、どうせ『つつぬけ』だろうから、そんなにはかからないはずだよ」
「何だかな……」
「あと、処理班もちゃんとお願いしたからね」
「処理班……ここで起こったことの痕跡を、消しておくってことだな?」
「そうだね。あと、叔父様とアクタの、『遺体の始末』もね」
 その言い方に、南柾樹は憤った。
「『始末』だと? てめえ、言葉の選び方に気をつけろよ? ウツロの親父と兄貴なんだぞ!?」
「なによ? アクタはともかく、あんたをさんざんコケにしたクズにまで、感情移入しちゃったの?」
「てめえ、雅――!」
 南柾樹は星川雅に殴りかかる勢いだ。
「柾樹、いいんだ」
「ウツロ……」
「父さんが最終的に改心したとしても、やったことはやったことだ。これから俺は……父さんの手にかかって、奪われた人たちへの、償いをしていきたいんだ」
「ウツロ、おめえがそんなこと考える必要はねえって。アクタや親父の分まで生きる、それだけで、いいじゃねえか」
「……ありがとう、柾樹。でもきっと、父さんに傷つけられた者たち、万城目日和も含めて、俺に何かを、してくるかもしれない。でもそのときは、しっかり向き合いたいんだ。もちろん、父さんから承った言葉……どんなときだろうと、自分を見失ってはならない……それを、決して忘れないようにね」
「ウツロ……」
 南柾樹は複雑な気持ちだった。
 ウツロは、自分と初めて会ったときとは、別人のように成長した――それはうれしい。
 だが、いっぽうで、それによって、背負わなくてもよいものまで、背負ってしまうのではないか、と。
「ウツロ」
 星川雅は、正座しているウツロの背後まで歩み寄った。
「黒彼岸を渡してくれる? それは本来、似嵐家の所有物であって、叔父様の手で長い間、失われていたもの。返してほしいんだ」
「雅、てめえ、いい加減に――」
「柾樹――!」
 星川雅の態度に激昂する南柾樹を、ウツロは制した。
「それは事実だから……雅の主張は、的を射ているんだ。わかってる、雅。でも、もう少し……その、救護班とやらが、来るまでの間でいいんだ。もう少しだけ、父さんと一緒に、いさせてやってほしいんだ……」
「……」
 星川雅も心境は複雑だった。
 自分の母である星川皐月……その弟である叔父・鏡月が故人となった、いまこの場では、彼女のことを知るのは、自分だけだ。
 星川雅は知っている。
 彼女の母・皐月は、自分以外のすべての存在が、自分の『人形』のように振る舞わなければ気が済まない、『傀儡師』の精神を持っていることを。そして母が、あらゆる存在を自身の『人形』に作り変えてしまう、おそるべき『アルトラ使い』であることを。
 それを考えると、体が震えてきて、母が自分を支配するための『繰り糸』が、透けて見えてくるかのようだった。彼女は必死で、全身がこわばるのを抑え込んだ。
「雅さん、柾樹さん」
「うわっ――!?」
 対立するかのような構図になっていた二人の間に、真田虎太郎がいきなり、にゅっと顔を出した。
「び、びっくりした……」
「な、なんだよ、虎太郎……?」
 真田虎太郎は、丸い目を充血させて、ほほ笑んでいる。
「救護班のみなさんが来たかどうか、『三人で』確認しにいきましょう!」
 出し抜けに、そう申し出た。
「さすがにまだ来ないって、虎太郎く――」
 目で後ろに合図を送る彼に、星川雅は気がついた。
「おほん。確かに、虎太郎くんの言うとおりだね。場所がわからなかったら困るし。さ、柾樹、『三人で』行きましょう」
「な、なんだよ雅……お前まで……」
 星川雅も真田虎太郎と一緒に、「空気を読め」という顔をした。
 これにはさすがに南柾樹も、理解の及ぶところだった。
「あ、ああ、そうだな……はは、また魔王桜のヤロウが、襲ってこねえともかぎらねえしな……固まって動いたほうが、いいだろうなあ……」
 彼らの不思議なやり取りに気づいたウツロが、そちらに顔を向けた。
「おい、ウツロ。俺ら『三人は』、救護班が来たときのために、ちょっと近くに行ってくるから、りょ、龍子を頼むぜ」
「え? ばらばらになるのは、逆に危険じゃないかな?」
「心配ねえって、この中じゃウツロ、おめえがいちばん、頼りになるから。それじゃちょっと、行ってくるからな」
「え、あ? うん、わかったよ。気をつけてね、三人とも」
 このようにして、真田虎太郎、南柾樹に星川雅は、そそくさと桜の森の出口のほうへと退場した。
「なんだかヘンテコだな、ねえ、龍子――」
 傍らには、真田龍子が座っていた。
「……龍子?」
 彼女はウツロを抱きしめた。
「……」
 ウツロも彼女を抱きしめた。
「龍子、ありがとう……ぜんぶ君のおかげだ」
 真田龍子は首を横に振った。
「……さっきの答え、俺……まだ、言ってなかったね……」
 二人は見つめ合った。
「愛してる、龍子。俺も、君のことが、好きだ」
 吸い寄せられるように、唇が重なる。
 桜の森に朝がやってきた。その日の輝きは、二人をまばゆいばかりに、包み込んだ――

   *

 桜の森での出来事から、一夜が明けた。
 ウツロはくだんの洋館アパートの自室で、身支度を整えていた。
 はじめにここでもらった服は、ボロボロになっていたから、新しいもの――やはり、スポーツパーカーとジョガージャージだったが――それを身につけた。
 隠れ里では、動きやすいが着物がほとんどだったから、こういう現代的な衣装には、まだ、しっくりこない。
 しかし、真田龍子が用意してくれたものだから、纏うのは特別な気分だった。
「ウツロ」
「どうぞ」
 真田龍子が入室した。
 彼女も例により、桜色のブルゾンとロングスパッツの出で立ちだ。
「ここのリーダー、特生対第二課の朽木支部長……龍崎湊(りゅうざき みなと)さん、だっけ……もう、到着したのかな?」
「ああ、もうちょっと、かかりそうだね。わたしもそそっかしいけど、あの人は輪をかけて、だから」
「もうひとり、ここの住人さんがいるんだよね? その人にも、あいさつをしないと」
「武田暗学(たけだ あんがく)先生のことだね。あのおじさんなら、この時間はまだ、寝てると思うよ。黒龍館大学の元・哲学教授なんだけど、いまは引退して、自称・三文文士だそうだよ」
「哲学教授……気になるね……ぜひ、学問のご教授を――」
「やめといたほうがいいよ? なんていうか、偏屈だし。まあ、悪い人じゃないけどね」
「龍崎さん、のほうは、どんな人なのかな?」
「このアパートに事務所をかまえてる、弁護士の先生だね。もちろん、『表向き』の話だけど。『自宅』で仕事をするから、『タクベン』なんて呼ばれるんだ。お酒が大好きで、いっけん頼りないけど……人情に厚い人だから、きっと、ウツロの力になってくれるよ」
「……そう、か……よかった。ありがとう、龍子……何から何まで、やってくれて……」
「なーにを、いまさら。それに、ウツロはもう――あ……」
「……」
 真田龍子は調子に乗って、余計なことを言いかけた。
 彼女の顔が一瞬くもったので、ウツロはフォローしようとした。
「いや、いいんだよ、龍子。これから俺が、体験することに……これから俺が、歩いていく道のりに比べれば……」
 ウツロが配慮をしてくれたことを、うれしく思う反面、真田龍子は、彼の今後が心配だった。
 さしあたってウツロは、『特定生活対策室』の本部へ送られ、身体検査や聞き取り調査などを、受けることになっている。
 そのあとは、戸籍を――当然、イレギュラーな形式でだが――それを与えられ、彼女らと同じ、朽木市内の名門私立、黒帝高校へ編入する流れだ。当たり前というか、管理・監督される形で――
 つらい目にもきっと、あうだろう。それに彼が、ウツロが耐えられるだろうか?
 そんなことを考えると、真田龍子は胸が締めつけられた。
「龍子」
「え――?」
 ウツロが彼女を見つめている。笑顔だ。
「大丈夫……父さんと、兄さんが、ついてるから……それに――」
「……」
 彼は真田龍子をすくい取るように抱きしめた。
 このときウツロは初めて、真田龍子への気持ちの正体を、理解したのだった。
 それは理屈ではなく、感情で――
「龍子」
「ウツロ」
 身を寄せあい、唇を重ねる。何度も何度も、舌を絡ませ合う。
「ん……」
「あ、ふ……」
 折りしも、風に乗った桜の花びらが窓から入り込み、渦を作り、二人をやさしく包み込んだ。
 これも魔王桜の意思なのか? それは誰にもわからない。
 ただ、その桜の渦は、ウツロと真田龍子の愛をしばし、世界から封印した――

「ウツロ、苦しい……」
「ご、ごめん……キスなんて、その、慣れてないから……」
「これから少しずつ、ね?」
「うん、龍子。で――」
「ん?」
「このあとはどうすればいいのか、不勉強で、その――」
 ウツロの顔面に鉄拳が炸裂した。
「なに? このケダモノ! 最低っ! 毒虫じゃなくて、ケダモノだよ!」
「うう、アクタあ……やっぱり俺は、毒虫なんだあ……」
「ぷっ……」
「あはっ、あはは」
 二人ははち切れんばかりに、笑いあった。
 ウツロが笑っている、こんなに素敵な笑顔で……
 真田龍子は、それがうれしくてうれしくて、しかたがなかった。
「ごほんっ――!」
 いつの間にか部屋の入り口に、星川雅が苦々しい顔で立っていた。
「ノックくらいしたらどうかな?」
 ウツロは毅然と、彼女の放つオーラを押しのけた。
「したんだけど。忙しくて、気づかなかったみたいだね」
 星川雅はあからさまに、「イライラしています」という態度を表明した。
「お楽しみのところ申し訳ないんだけれど、ウツロ。今後のことについて、みんなで話し合うから、ちょっと顔、貸してくれない?」
「かしこまったよ、雅」
 ウツロはどこか、余裕のある感じだ。
「急に人間っぽくなったじゃん。なんだか生意気」
「君には負けるよ」
 星川雅は「一本、取られました」というしぐさをした。
「これから俺は、概念の世界で生きていくことになるんだね」
「そういうことになりますわね」
 ウツロは凛として、自分の決心を伝える。
「はめこめばいい、枷でも鎖でも。概念がいくら、俺を縛りつけようとも、俺は必死で、あがいてみせる。そして俺は、『人間』になるんだ――!」
 ウツロの意志を、星川雅は受け取った。
「見届けさせてもらうよ、『毒虫のウツロ』?」
 それだけ言って、彼女は退室した。ただ、その表情は、満足感にあふれていた。
「君も」
「――?」
「見届けてくれ、龍子――!」
 真田龍子は、頬を流れた一筋の涙を拭い、とびっきりの笑顔を見せた。
「うんっ!」
 彼は、ウツロは矮小な毒虫にすぎないのかもしれない。
だが、その毒虫は、確かにいま、這い始めた――
(了)

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