「第四象限の命題」
登場人物
藤倉千里(28)刑事
新庄司(28)医師
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○帝和大学付属病院・屋上
物干し竿に大量のシーツ。
藤倉千里(28)、紙コップを両手に持って入ってくると、立ち止まる。
新庄司(28)、白衣を着て柵の前に立ち、街を眺めている。
千里、笑顔を作り、新庄に歩み寄る。
千里「新庄先生。お疲れ様です」
新庄「ああ。藤倉さん。お疲れ様です」
千里「コーヒー。全部入りです」
新庄「ありがとうございます」
新庄、紙コップを受け取る。
新庄「お仕事ですか?」
千里「ええ。先日の解剖所見のことで浮田先生にお伺いしたいことがあって」
新庄「刑事さんも大変ですね」
千里「いえ。仕事ですから」
千里、新庄の隣に並ぶ
千里「あー。その。あの」
新庄「はい。なんでしょう」
千里「え。と。浮田先生から聞きました。今朝の解剖のこと」
新庄「ああ」
千里「虐待だったそうですね」
新庄「ええ。まだ可能性ですが。ほぼ間違いないと思います。先ほど警察に」
千里「はい。生活安全課が動いてます」
新庄「そうですか」
学校のチャイムが小さく聞こえる。
千里「あの」
新庄「はい」
千里「えっと。その。あの」
新庄「なんでしょう?」
千里「あー! やっぱ無理!」
新庄「え」
千里「浮田先生に新庄先生が凹んでるだろうから元気付けてほしいって言われたんですけど。私。そういうの苦手で」
千里と新庄、目を見合わせる。
千里「あの。元気。出してください」
新庄、微笑む。
新庄「はい。元気。出します」
千里「よかった」
子ども達の談笑が聞こえる。
新庄「小学校3年生の時。クラスでインコのつがいを飼っていたんです」
千里「え?」
新庄「思い出話です。卵が産まれて。クラスの皆がヒナを楽しみにしていました」
千里「私のクラスもメダカ飼ってました」
新庄「そうですか。ある日。インコの母親が自分の卵を割りました」
千里「え」
新庄「過度にストレスがかかると、そうなることがあるんだそうです」
千里「そうなんですか」
新庄「親なのになんで自分の子どもを大事にできないんだって。子ども心に思ったのを覚えています」
千里「新庄先生」
新庄「虐待のご遺体に出会うといつもあの日のことを思い出すんです」
乳児の鳴き声。
新庄「ああ。すみません。こんな話」
千里「いえ。でも優しいですね。新庄先生は」
新庄「やさしい?」
千里「ええ。やさしいから20年近く前のことにいまだに心を痛めてる」
新庄「やさしい、か。やさしいのかな?」
千里「やさしいです」
新庄「それは。たとえば僕が人を殺したことがある。と言ってもですか?」
風に煽られたシーツが音を立てる。
千里「え」
新庄、千里に微笑む。
新庄「たとえばの話です」
千里「冗談でもやめてください。新庄先生がそんなことするわけないじゃないですか」
千里と新庄、目を見合わせる。
千里「え。と。あの」
新庄「藤倉さん。ジョハリの窓ってご存知ですか?」
千里「ジョハリの窓? いいえ」
新庄「心理学の考え方なんですけど。あ。これ。ちょっとお願いします」
千里「ああ。はい」
新庄、紙コップを千里に渡すと、白衣からメモを取り出し、新しいページに、大きく田んぼの田の字のような四分割の正方形を描く。
新庄「心をこんな風に四つの象限。窓に分けて。左側2つを自分が知っている自分。右側2つを自分が知らない自分とします」
千里「はぁ」
新庄「で。今度は上下に見て。上段2つを他人が知っている自分。下段2つを他人が知らない自分。という風に考えるんです」
千里「なんか血液型考えるヤツみたいですね。ってことは左上のここが自分も他人も知っている自分ってことですね」
新庄「ええ。で。右上の第二象限が自分は知らない。他人は知っている自分」
千里「左下は、自分は知っているけど他人は知らない自分。へぇ。おもしろい」
新庄「そして右下。第四象限。ここは。自分も他人も知らない自分」
千里「自分も他人も知らない自分」
新庄「そこにはいると思うんです」
千里「いる。なにが?」
新庄「やさしくない僕が」
千里と新庄、目を見合わせる。
千里「私。こう見えて刑事ですよ。いい人かどうかは見ればわかります」
千里、新庄に微笑む。
千里「新庄先生は。いい人です」
新庄「ありがとうございます」
千里「いえいえ。これ。お返しします」
千里、新庄に紙コップを渡す。
新庄「ありがとうございます。藤倉さんはどうして刑事になったんですか?」
千里「え?」
新庄「解剖医はたくさんの刑事さんに会います。でも藤倉さんは雰囲気が柔らかいので。なにか違うのかなと思って」
千里「あー。ウチ。姉妹多くて。私長女だったし。給料がそこそこ良くて安定した仕事に就きたかったんです」
新庄「現実的ですね」
千里「すみません」
新庄「いえ。だから違うんですかね」
千里「かもしれませんね。新庄先生はどうして解剖医に?」
新庄「ああ」
風に煽られたシーツが音を立てる。
新庄「別に解剖医じゃなくても。もっと言えば医者じゃなくてもよかったんです。周りがすごいって言ってくれる職業なら」
千里と新庄、目を見合わせる。
千里「なんか。意外です」
新庄「そうですか?」
千里「はい。もっと理想とか信念とか。こう。確固としたものがあって解剖医をされているんだと思ってました」
新庄「すみません」
千里「いえ。全然。私もそうですから」
千里と新庄、コーヒーをすする。
千里「似てますね」
新庄「え?」
千里「似てますね。私たち」
新庄「違いますよ」
千里「え?」
新庄「僕と藤倉さんは全然違います」
千里「新庄先生?」
新庄「僕の実家。すごく田舎なんですよ。周りは山と川だけの小さな過疎の町で」
千里「そうなんですか」
新庄「父は地元のテレビ局に勤めていて。なんというか。田舎とは不釣り合いにチャラチャラしていました」
千里「新庄先生とは真逆ですね」
新庄「どうでしょう? 父は絶えず母と喧嘩していて。そして外に恋人がいました」
千里「不倫ですか」
新庄「といっても田舎のことです。僕は父の恋人ともよく顔を合わせていました」
千里「なんかフクザツですね」
新庄「本当に。よくその状況に耐えていたなと自分でも思います」
夕方の時報が小さく聞こえる。
新庄「ある日。小学校近くの川で放課後。偶然父の恋人と会った時。聞いたんです。父と結婚する気はあるのかって」
千里「その方はなんて?」
新庄「そうしたいと。答えました」
千里「そうですか」
新庄「でも。私がほしいのはあなたのお父さんだけ。あなたはいらない。そう言われたんです。その時思いました」
新庄、紙コップを握りつぶす。
新庄「いらないのは、あんただ」
千里「新庄先生?」
新庄「だからもう誰にもいらないと言われないように、人が羨むような職業に就きたい。そう思ったんです」
コーヒーの雫、滴り落ちる。
千里「新庄先生。一つ。聞いてもいいですか?」
新庄「なんでしょう?」
千里「その。お父様の恋人は。その後。どうなったんですか?」
新庄「その翌日。溺死体で発見されました」
風が吹き、シーツが一枚飛んでいく。
新庄「警察の調べでは酔っ払って橋の上で足を滑らせ川に落ちたのではないかということでした」
千里「それは」
新庄「不幸な事故だったようです」
新庄の白衣の袖口がコーヒーで黒く汚れている。
千里「不幸な事故」
どこかで窓が開く音。
〈おわり〉
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