登場人物
森川貴子 ・・・ 中卒の板前見習いの女子。勝気な性格。
辰巳早苗 ・・・ 板前割烹『ほほえみや』の板前店主。
有馬拓人 ・・・ 新富裕層のブロガー。『ほほえみや』の常連客。
0
時は2020年。
裸舞台の上には、一つのテーブルと、2つの椅子が置いてある。
しばらくして、板前見習いの森川貴子と、板前店主の辰巳早苗が登場。
早苗「そこに座って」
貴子「どうしたんスか、親方」
早苗「いいから座って」
貴子「……」
貴子、椅子に座る。
貴子が座ったのを見て、早苗も椅子に座りだす。
早苗「今日、あんたをここに呼びつけたのはね、大切な話をしたかったからだよ」
貴子「大切な話?」
早苗「そう」
貴子「どんな話なんスか?」
早苗「……いいかい。落ち着いて聞いておくれよ。実は……この板前割烹『ほほえみや』を、閉めようと思ってる」
貴子「……ええ? 何でです、親方。理由を説明してください」
早苗「そんなのわかってるだろう」
貴子「わからないですよ」
早苗「コロナのせいだよ」
貴子「……」
早苗「貴子。あんたもわかるだろう? ウチの経営はここ半年間、ずっと赤字だ。持続化給付金で、今はなんとか店の赤字を埋めてはいるけれど、正直そのお金だけじゃ、足りないんだよ」
貴子「何言ってるんスか、親方」
早苗「本当に、申し訳なく思ってるよ、貴子。もう、何て言えばいいのか……」
貴子「ウソですよね?」
早苗「(首を振る)」
貴子「そんな……。ウソだと言ってください。どうせ親方のことですから、あたしを驚かしたいだけなんでしょう? ねえ、そうでしょう?」
早苗「…………」
貴子「ウソだと言ってくださいよ。ね? 冗談なんでしょう?」
早苗「これが現実なんだ」
貴子「……あたし、一生懸命働いてましたよね? この割烹のために、必死に料理をつくり続けてきたじゃないですか。なのに、どうして……」
早苗「それは申し訳なく思ってる。私の実力不足だ。すまない」
貴子「あたし、親方と一緒に仕事したいんスよ! どんな状況になっても、親方のもとで生きていきたいんス!」
早苗「それはどうしてもできないんだよ!」
貴子「お金なんていりません。せめて、一緒に料理を続けさせてください。お願いです。お願いですから……」
しみじみとした音楽。
早苗「……どうしてお前は、ウチで働くことにこだわるんだい。ウチで働くよりも、よその大手で働いた方が給金はいいだろう? なのに、どうして……!」
貴子「今でも忘れません。あたしが初めて上京してきたときに、親方はあたしに、一杯のご飯をくれました」
早苗「そんなことをした覚えはないね」
貴子「いいえ! 親方も本当は覚えているのでしょう? 私が9年前、路頭に迷ってたときのことを、親方ははっきりと覚えているはずです」
早苗「忘れたね」
貴子「ウソをつかないでください」
早苗「ウソなんかついてないよ」
しばらく互いをにらみ合う早苗と貴子。
貴子「あたしは、あたしが受けたあの時の恩を、忘れたことはありません。一度たりとも。そう、一度たりとも!」
照明転換。
1
時は2011年。
舞台は前場に同じ。
早苗は椅子の上に座って、のんびりとしている。
貴子は、店の前でぽつりと立ち尽くしている。
早苗「はあ〜、今日も繁盛したね〜。よし! それじゃあ、明日の仕込みをしようか」
早苗、店の出入り口に向かっていく。
すると早苗は、そこに貴子がいることに気づく。
早苗「あら、お客さん? すみませんね。今日はもう終わってるんですよ」
貴子「……」
早苗「もしもし?」
貴子「…………」
貴子、その場を去ろうとする。
早苗「待ちなさいよ。こういう時は、何か返事をしてもいいんじゃないかい?」
貴子「(じっと睨んでいる)」
早苗「あんた、まだ未成年でしょ。学校に通ってるのかい?」
貴子「………」
早苗「……しょうがないねえ」
早苗、舞台上のテーブルを整えだす。
早苗「ほら、入りなさい。ここの方が暖かいよ」
貴子「…………」
早苗「はっきりしなよ。入るの? 入らないの?」
貴子は店に入り、椅子に座る。
早苗「いらっしゃい。夕ご飯でも食べるかい?」
貴子「……お金がない」
早苗「お金がない!? ……そうかい。もう、ホントしょうがないなぁ」
早苗、キッチンへ向かう。
早苗「あんた、名前はなんて言うんだい」
貴子「貴子。森川貴子」
早苗「貴子ちゃんか。貴子ちゃんは、今どこに住んでるんだい?」
貴子「どこにも住んでないよ」
早苗「どこにも住んでない?」
貴子「そ」
早苗「なんで」
貴子「説明するのがめんどい」
早苗「だったら話さなくていいんだよ」
貴子「……」
間。
貴子「……あたしさ。上京してきたの。地元は愛知なんだけど、ある目的があってここに来たの」
早苗「ほう〜。どんな目的なんだい」
貴子「あんま話したくない」
早苗「だったら話さなくていいんだよ?」
貴子「……音楽だよ。あたし、ミュージシャンになりたかったの」
早苗「へぇ〜、ミュージシャンに?」
貴子「うん」
早苗「すごいじゃない」
貴子「すごくないよ。事務所に入ったのはいいけど、結局あたしらは解散しちゃったから」
早苗「そうなのかい?」
貴子「そ」
早苗「なんで」
貴子「ズケズケと聞いてくるんだね、あんた」
早苗「話したくなかったら、別にいいんだよ?」
貴子「……パートナーと、喧嘩しちゃって。二人でギターを弾いて、あたしがボーカルをしてて、向こうが作詞と作曲をしてたたんだけど。デビューしてから2、3年で、あっちの方から『やめたい』って言い出したんだよね」
早苗「そうなんだね〜」
早苗、ご飯とおかずを持ってくる。
早苗「ほら。これ、余り物で悪いけど、よかったら食べとくれよ」
貴子「いや、いいよ。お金ないから」
早苗「余り物を売るワケないだろう? もちろんタダだよ」
貴子「……いただきます」
貴子、おそるおそる食事を始める。
早苗「それにしても、貴子ちゃんも大変だったんだね〜。音楽家って、結構稼いでるイメージがあったけど」
貴子「いやいや、全然ッスよ。最近CDはどんどん売れなくなってるし、ライブの集客にもいつも苦労してるし」
早苗「でもさ、世の中にはファンクラブで稼いでるアーティストもいるって聞くよ?」
貴子「そんなことができるのは一握りの人間だけッスよ」
早苗「そうなのかい?」
貴子「はい」
早苗「そうなんだ〜」
貴子「だって、考えてもみてくださいよ。見ず知らずの新人歌手に、気軽にお金を払う人がいますか? いないですよ」
早苗「そうなのかい?」
貴子「はい。これが現実なんス」
早苗「そうかい。そりゃあ、大変だ」
貴子「でも、地元に帰ろうにも帰れないッスよ」
早苗「どうしてなんだい?」
貴子「あたし、親の反対を押し切ってここまでやってきたンス。グループを解散したからといって、このまま地元に戻るわけにはいかないッスよ」
早苗「なるほどね〜。それじゃあ、この東京でバイト暮らしをするわけだ」
貴子「ところがそうもいかないンスよ」
早苗「どういうこと?」
貴子「あたし、バイトに向いてないンスよ。いつもしくじってばかりで、まともにレジ打ちもできないンス」
早苗「そうなのかい?」
貴子「はい」
早苗「それは困ったね〜」
貴子「ほんとッスよ。あたし、ホントわがままなヤツなんスよ」
早苗「そうなのかい」
貴子「はい」
早苗「それじゃあ、今はどうやって暮らしてるんだい。ホームレス生活ってこと?」
貴子「まあ、それに近いッスね」
早苗「大丈夫なのかい?」
貴子「いや、なんとかなるもんスよ。知ってます? おたくの隣のパン屋、無償でパンの耳をくれるンスよ。もう、むっちゃやさしくて……」
早苗「パンの耳で食いつないでいるのかい」
貴子「そうッス」
早苗「体に良くないだろう」
貴子「そうッスね。時々、野菜とか肉が欲しくなることもあるッスね」
早苗「だからうちの前で立ち尽くしてたんだ」
貴子「いや〜、そうッス(笑う)」
早苗「なるほどね〜」
貴子「ごちそうさまでした! いやぁ、おいしかった〜」
早苗「いいえ。で、これからどこに行くんだい?」
貴子「……実は、つい最近、マンションを追い出されちゃって……」
早苗「ホントにホームレスなのかい」
貴子「いや、ホームレスじゃないンス!」
早苗「でも帰る家がないんだろう?」
貴子「はい」
早苗「ホームレスじゃないか」
貴子「違いますっ!」
妙な沈黙。
早苗「……私がなぜそれを聞いてるのか、わかるかい?」
貴子「いえ。なんでナンスか?」
早苗「いやね、何というか。……うちで、働いてみないかい?」
貴子「えっ?」
早苗「ちょうど人手が欲しかったところなんだ。給金はあまり良くはないけど、一緒に、働いてはくれないかい?」
貴子「いいんすか?」
早苗「勘違いしないでおくれよ。たまたまウチでバイトを探してたところなんだ。なにも、あんたを庇うために言ってるんじゃないよ」
貴子「ありがとうございます! 恩に着ますッ。……でも、住む家が……」
早苗「部屋に余裕があるから、泊まらせてもいいよ」
貴子「マジすか?」
早苗「当たり前じゃないか。大事な店員を養うのは、親方として当然のことさ」
貴子「……ありがとうございます!」
早苗「さあさ。そう決まったところで、明日から早速働いてもらうよ。ウチを案内するよ」
貴子「はいっ、お世話になります!」
一同、退場。
2
舞台は前場に同じ。
貴子、登場。
貴子は掃除をしている。
早苗、登場。
早苗「おはよう、貴子」
貴子「あっ。おはようございます、親方ッ」
早苗「朝からご苦労さん」
貴子「はいっ!」
早苗「えらく気合いが入ってるじゃないか」
貴子「はい!」
早苗「結構結構。やる気がみなぎっているようで何よりだよ」
貴子「そりゃあそうでしょう、親方。あたしはこれから料理人デビューするんスから」
早苗「……はあ? 今あんた、なんて言った」
貴子「いや、だから、あたしは料理人デビューするって」
早苗「何言ってるんだい」
貴子「違うんスか?」
早苗「当たり前だろう? 誰があんたを調理場に立たせる、って言ったんだい」
貴子「ええ〜?」
早苗「ここをどこだと思ってるんだい。東京の板前割烹『ほほえみや』なんだよ?」
貴子「カッポウ……? なんスか、それ」
早苗「えっ? 割烹を知らないのかい?」
貴子「ええ、知らないッス。漢方じゃないんスか?」
早苗「バカ! 全然違うよ! 割烹っていうのは、一流の日本料理を出す店のことだよ」
貴子「へぇ〜」
早苗「聞いたことないのかい?」
貴子「ええ、全然知りませんでした」
早苗「そうかい。じゃあこれから、ちゃんと覚えておくんだね」
早苗、自分の準備を行う。
貴子「親方、何してるんすか?」
早苗「見てわからないのかい? 仕込みをしてるんだよ」
貴子「仕込み?」
早苗「仕込みも知らないのかい」
貴子「ええ」
早苗「仕込みも知らないんじゃ、料理人は務まらないね」
貴子「知ってますよ?(ウソをつく)」
早苗「……仕込みってのは、見ての通り、料理の準備をすることさ。料理人は毎日、朝と夜にこうやって、仕込みをするものなのさ」
貴子「へぇ〜」
早苗「ほら、どいたどいた!」
早苗、貴子をどけて仕込みを始める。
貴子、その場で立ち尽くしている。
早苗「何やってんだい、早く仕事をしなよ」
貴子「いや、あの〜。あたしの仕事は、何をやるんでしたっけ?」
早苗「昨日話したろ? まずはここの掃除だよ」
貴子「そうでしたっけ?」
早苗「そう言ったよ。まったく。まともにメモを取ろうとしないから、こうなるんだよ」
貴子「……」
早苗「なんだい、文句でもあるのかい?」
貴子「いいえ」
早苗「だったらさっさと働きな」
貴子「……こんなはずじゃなかったのに」
早苗「何か言ったかい?」
貴子「なんも!」
しばらくの間、二人はそれぞれの仕事に取り組んでいる。
だが、貴子は早苗の仕事にだんだん目がいくようになり、結局自分の清掃業務を止めてしまう。
貴子「親方」
早苗「ん?」
貴子「あたしも、そっちの手伝いしていいスか?」
早苗「ダメだ」
貴子「ケチ!」
早苗「(仕事を止めて)……あんた、何か勘違いしてないかい? ここは高級料理屋なんだよ? 素人が手を出していい世界なんかじゃないんだ。ここで掃除ができるだけでも、ありがたく感じて欲しいものだね」
貴子「(顔が膨れている)」
早苗「そもそもあんた、音楽をやろうとしてたんだろ? 料理の道をちゃんと学んだこともないだろ」
貴子「そうなんスけど。あたしは『音楽をやりたい』というよりは、自分の得意なことで食べていきたいと思ってるんス」
早苗「得意なこと?」
貴子「そうッス!」
早苗「あんたの得意なことって、音楽や料理ってことかい?」
貴子「そうッスね」
早苗「手が止まってるよ」
貴子、清掃作業を再開する。
貴子「あたし、こんな感じで見ての通り、社会性があまりないんスよ。こんな男まさりな口調をしてるから、まわりの話に合わせるのが、どうも苦手で」
早苗「そうかい」
貴子「でもあたし、料理とか音楽ならできるんス。音楽なら自分の曲づくりに集中すればいいだけだし、料理も、いい食事をつくることに集中すればいい。だからあたし、料理人になるのも、挑戦してみたかったンス」
早苗「なるほどねぇ」
貴子「親方。今すぐにとは言いません。あたしを弟子にしてもらえませんか?」
貴子、頭を下げる。
早苗「……本気なのかい?」
貴子「本気です」
早苗「板前の世界は大変なんだよ? 家庭料理とはワケが違うんだ」
貴子「覚悟の上です」
早苗、自分の作業を止める。
早苗「……それじゃあ、いくつか聞きたいことがあるんだけど」
貴子「なんスか?」
早苗「あんた、彼氏はいるのかい?」
貴子「何でなんスか?」
早苗「板前をやろうとすると、必ずぶち当たる壁があるんだ。それが何なのかわかるかい」
貴子「さあ、サッパリ」
早苗「プライベートとの両立だよ。特に彼氏持ちだと、大抵の女子は自分のことで手一杯になっちゃって、結果的には仕事をおろそかにしちゃうのさ」
貴子「なるほど」
早苗「で、彼氏はいるの、いないの?」
貴子「いないッスよ。今のところは」
早苗「そう。『今のところは』ね」
貴子「多分、これからもないと思うスけど」
早苗「さあ、どうだかね。それと二つ目。親御さんはあんたが板前になることを、深く理解してくれているかい?」
貴子「何でそれを聞くんスか?」
早苗「逆質問しない、質問に答えてから」
貴子「……まあ、そもそもあたしは、ミュージシャンになる夢を反対されてたけど。料理人になるぐらいだったら、理解してくれるかな」
早苗「ああ、そう」
貴子「で、何でそんなことを聞くんスか?」
早苗「昔の料理人はね、ヤクザな仕事として有名だったからさ」
貴子「そうなんすか!?」
早苗「そうだよ。知らなかったのかい?」
貴子「はい。あの、もう一つ質問なんスけど……」
早苗「何だい」
貴子「『ヤクザ』って何スか?」
早苗「ヤクザも知らないのかい?」
貴子「いや、ヤクザは知ってるんすけど」
早苗「どういう意味だい」
貴子「『ヤクザな仕事』って意味がわからないンスよ」
早苗「なるほどね」
貴子「どういう意味なんすか?」
早苗「まあ、何というかねぇ。言い換えれば、気の荒い人が集まりやすい仕事、ってことだよ」
貴子「そういう意味なんスか?」
早苗「そうだよ。……あとは、辞書でも引いてみな」
貴子「知らないンスか?」
早苗「うるさい」
貴子「知らないンスね?」
早苗「うるさいって」
貴子「うっわぁ〜、知らないんだ」
早苗「これ以上口出しするんじゃない、不採用にするよ!?」
貴子「聞かなかったことにしてください」
少しの間。
早苗「最後に一つ。聞きたいことがあるんだけど」
貴子「何スか?」
早苗「あんた、一つのことにちゃんと集中するタイプかい?」
貴子「え?」
早苗「目の前の仕事を、ちゃんとこなせるんだろうね?」
貴子「そんなのやりますよ。当たり前じゃないッスか」
早苗「ほう。言ったね?」
貴子「ええ」
早苗「それじゃぁあんた、一人前の板前になるために、どんな努力も惜しまない、覚悟を持ってる、っていうんだね?」
貴子「……はい!」
早苗、疑(うたぐ)った表情で何度も貴子を凝視する。
早苗「本当だろうね?」
貴子「マジっすよ! あたしは、自分の言うことに対して、嘘をついた覚えはありません!」
早苗「ほんとかい?」
貴子「はい!」
早苗「じゃあ聞くけど、」
貴子「まだあるんすか!?」
早苗「不採用にするよ?」
貴子「なんでもないッス! ご自由にどうぞ!」
早苗「あんたは本当に一度たりとも、生涯、ウソをついたことがないのかい?」
貴子「……はい!」
早苗「何だい、この微妙な間は!」
貴子「自分にウソはついてません!」
早苗「というと?」
貴子「正直に白状しちゃえば、あたしは結構、ひとに散々ウソをついてきました。からかい半分にウソをついたり、先公の前で」
早苗「先公?」
貴子「もとい、ティーチャーの前で、」
早苗「なぜ英語なんだ」
貴子「ウソはさんざんついてきました。ですがあたしは、自分自身にウソをついた覚えはありません! 料理は、あたしの得意中の得意ッス! それは本当です!」
早苗、じっと貴子を睨んでいる。
貴子「信じてください!」
早苗「バカ! いま考えごとをしてたんだよ」
貴子「(傍白)わっかりにくいヤツだな〜」
早苗「何か言ったかい?」
貴子「(全力で首を振る)」
間。
早苗、自分の作業を終える。
早苗「…………ついてきな」
貴子「え?」
早苗「『ついてきな』って言ってるんだ」
貴子「えっ!? それじゃあ親方、採用してくれるんすか?」
早苗「んなの大体わかるだろう!?」
貴子「やった〜!」
早苗「ついてきなって言ってるんだよ!」
貴子、急ぎ足で早苗にくっつく。
貴子「どちらへ向かいましょうか」
早苗「勝手口へ案内するよ。覚えることが多いからね」
貴子「ありがとうございマス!」
早苗「早くしな!」
貴子「はいっ!」
早苗と貴子、退場。
3
舞台はキッチン。
早苗と貴子が登場。
貴子「うっわ、くっせ! サカナ臭(くさ)ッ!」
早苗「いちいちうるさいねぇ、不採用にするよ?」
貴子「もう言いません!」
早苗「普段はここで、まずは野菜や肉・魚の在庫を確認する。冷蔵庫の中身を見てみな」
貴子「はい」
早苗「何がある」
貴子「キャベツとかにんじん数本ぐらいしかありません」
早苗「にんじんの本数は、具体的に何本?」
貴子「えーっと、2本です」
早苗「ああ、そう。それじゃあ、あの裏口にある箱を持ってきておくれ」
貴子「はいっ」
早苗「あまり時間がないね。手短に話すから、しっかり覚えるんだよ。一度しか言わないつもりだから、メモをしな」
貴子「はいっ」
早苗「在庫の確認は1日におもに、営業前とピーク後の2回しかしない。在庫確認は私がやるから、今後は一切手を出さないこと」
貴子「何でなんスか?」
早苗「時間を効率化させるためさ。在庫確認をいちいちしていたら時間の無駄だ」
貴子「なるほど……」
早苗「時間の効率化で言ったらもう一つ。皿洗いはある程度溜まってから行うこと。自分の好きなタイミングではなく、ここに書いてあるスケジュール表に基づいて行なうんだ。いいね?」
貴子「はいっ」
早苗、厨房に立つ。
早苗「で、今からやるのが仕込み。あんたがやるにはまだ3年早いから、しばらくは、私のやる作業を見て覚えること。わかったかい?」
貴子「はいっ」
早苗「いちいち解説するつもりはないからね、仕事と技術は自分から盗みな」
貴子「マジすか……」
早苗「いちいち余計な合いの手を入れない、返事だけでいい」
貴子「はいっ」
早苗、仕込みの作業を行う。
早苗「(仕事をしながら)あと、ここは基本的に、刃物を扱う仕事場になるから、互いに緊張感を持って取り組むこと。余計なおしゃべりは厳禁だ」
貴子「うっわ〜、すげぇ〜。やることはっや!」
早苗「おしゃべりは厳禁だと言っているだろ!」
貴子「す、すみませんっ!」
早苗「いいかい、よく見るんだ。キャベツを切るときは、こうやって切るんだ」
早苗、テンポよくキャベツを切り出す。
貴子「(客席に向かって、小声で)早い、はやいよ〜」
早苗「ちょっと見てみな」
貴子「もう見てます〜」
早苗「黙れ!」
貴子「はいっ!」
早苗「ほら、わかるかい? これが料理人の切るキャベツだ。普通の家庭料理で出すキャベツとは、雲泥の差だ。なぜだかわかるかい」
貴子「何でなんスか?」
早苗「言い方!」
貴子「な、何ででしょうか……」
早苗「芯を垂直に切っているからだ。平行に切るとゼッタイこうはならない。ウチの店では、ふわふわのキャベツを出すことを基本としているから、この切り方を心がけるように。切り方にもちゃんと気をつけること」
貴子「切り方とは?」
早苗「そんなのは見て覚えな」
貴子「マジスカ……」
早苗「何だい、もうやる気をなくしたのかい」
貴子「やります! やってみせます!」
早苗「やる気があって結構!」
貴子「はいっ!」
早苗「次に、魚。ウチの目玉といったら寿司だ。いただいた値段以上の価値で、最高級の料理を、日々出していく努力をしている。ウチの寿司は割高だからね。お金に見合った味を提供すること。もっと言えば、いただいた代金以上の感動を与えること。それがウチのモットーだ。よく覚えておいておくれよ」
貴子「はいっ!」
早苗、貴子に包丁を差し出す。
早苗「貴子、ちょっと持ってみな」
貴子「……重っ! これ重くないスか!?」
早苗「あんたの力がなさすぎるんだよ。これは腕立て伏せを、1日最低・60回はやっておくべきだな」
貴子「60回!? 1日で?」
早苗「ヤならやらなくていいんだよ?」
貴子「やります!」
早苗「いい心がけだ」
貴子「ありがとうございます!」
早苗「いちいち感謝しなくていい、それぐらいの気概は常にもて。有り難くなんかない」
貴子「はいっ!」
早苗、時計を見る。
早苗「おっと、ちょっと喋りすぎたな。じゃあ、ここからはしゃべらずに行う。一つ一つの作業をしっかり観察しておくれよ」
貴子「はいっ!」
早苗「何度も言うが、仕事と技術は見て盗め。いちいち教えてもらう気でいるんじゃないよ」
貴子「はいっ!」
早苗、仕込み作業を猛スピードで行っていく。
貴子「(傍白)すごい、すごすぎる〜! あんなに重い包丁を、いともカンタンに使いこなしてる。この包丁使いはまるで、剣(つるぎ)の舞のようだ! しかも早いだけじゃない。一つ一つの切られた素材も生き生きしてる。一人前の板前とはこういうことか!」
早苗「いちいち口に出すな! 耳障りなんだよ!」
貴子「すみませんっ!」
貴子、深々と頭を下げる。
4
暗い舞台の上に一本のスポットライトが当たり、貴子はその中に入る。
貴子「こうして、あたしの板前修行が始まった。最初の仕事内容は『追い回し』と言って、雑務の仕事を多くやらされた。その仕事を振ってもらえること自体は、悪く思ってないし、最初はとてもワクワクした。でもそんな仕事だけを、まさか、3年も続けることになるとは思わなった! だってそうでしょう? 一人前の板前になるのに、ただの雑務を3年もやらされるだなんて、思う人いますか? いないでしょう? 少なくともあたしは、全っ然想像してなかった! だって、料理人は料理をするから料理人じゃん? なのに何で、調理場の経験を積ませないの? おかしくない? しかもまるまる3年間。あたしの3年間を清掃業務に使うぐらいだったら、料理系の高校や専門学校に入った方がまだマシだっての! えっ? だったら親方に抗議すればいいじゃないかって? できるワケないよ〜。だって親方、怖いんだも〜ん。ただ叱られるだけならまだいいんだよ。ただ、暴力までされるとなったら、話は別よ。ちょっとでも反抗してみなさいよ。そしたら親方は、急に顔を真っ赤にさせて……」
早苗「馬鹿野郎!」
早苗、突如として現れ、貴子の頬をはたく。
貴子、倒れる。
早苗「一人前の板前になるのに、3年間の下積がいらないってのかい? 新人の分際でいい度胸してるじゃないか。こちとら、もう30年以上も板前をやってるんだ。あんたの素人考えなんざ、この世界では通用しないんだよ! 『石の上にも3年』って、聞いたことないのかい」
貴子「聞いたことありませんっ!」
早苗「バカヤロウッ!」
早苗、再び貴子をはたく。
ブウッ、と倒れる貴子。
早苗「何で聞いたことないんだ!」
貴子「いや、だってあたし中卒だから、国語が苦手で……」
早苗「中卒だからといって甘えてんじゃねえよ!」
早苗、貴子をサッカーボールのように蹴り転がす。
貴子「甘えてなんかないッスよ! 本当に苦手なんス!」
早苗「この社会でのうのうと、中卒が楽して生きれると思ってんじゃねえよ!」
貴子「思ってません! 誰がそういったんスカ!?」
早苗「お前だろう!」
早苗、まるでサッカー選手のように見事に貴子を蹴り飛ばす。
「うわあ〜!」と叫ぶ貴子。
貴子「あたしは宙に舞い、向こうのほうの壁にゴールが決まった! その頃のあたしは、もはや、サッカーボールのようなものだった」
バタッ、と倒れる貴子。
妙に楽しげに笑っている早苗。
貴子「どうしようもなかった。少しでも反抗しようものなら、親方にはたかれるわ・蹴られるわ、しかも、それを遊びのように楽しんでいるのだから、タチが悪い!」
早苗「(客席に向かって)めっちゃたのし〜」
貴子「腹立つわ〜」
早苗「何か言ったかい?」
貴子「いえ、何も」
早苗「そうかいそうかい、ケッコーケッコ〜」
と、早苗は舞台を去りかけるが……
早苗「あっ。これ以上反抗したら、3枚に下ろすからな」
貴子「(心の声)怖いよ〜〜〜」
早苗「じゃ、あとはよろしく!」
早苗、ルンルン気分で去っていく。
貴子「(客席に向かって)こんな状況で反抗できますか!? できないでしょう〜!? ウチの親方は怖すぎるんだよ〜。あたしはそんな環境で育ったものだから、もう反抗する理由も無くなってくるのですわ。心の中では折り合いをつけていたつもりでした。けれど、いざ現場に立つと、だんだん重苦しく感じるようになっていったわけなんですよ。でも、そんなことにちっとも気づかない、能転気な親方! ミュージシャンの夢を捨てて、一生雑用で人生を終えてたまるか! そういう気持ちが、だんだんと強くなっていったからだろうか。4年目に突入した2014年の元旦に、あたしは、親方の家から出ていった」
5
時間帯は未明。
舞台は東京の山中。
青年・有馬拓人が登場。
有馬「ああ、やっぱここはサイコーだな〜。とても同じ東京だとは思えないよ〜。いやあ、我ながらよく確保できたものだなぁ。東京の土地って地価が高くて、手に入れにくいんだけど、こんなに素晴らしい光景が見れるなんて、ほんと運が良かったな〜。(客席に向かって)見てくださいよ、ここには都心にはない魅力的なものばかり! あるのはビルだけじゃない。緑に茂った木や森、山の風景が広がってますよね。いや〜、田舎ってサイコー! これは同じ東京なのか!? 大自然とは畏れ多いものですな。日頃から受けている恩恵もたくさんあるのに、そんなことにはちっとも感謝せずに、やれ『世界が滅びる』だの、やれ『社会が悪くなってる』だのと愚痴をこぼす。情けないねえ、人類ってのは。2011年。あの時に起きた、例の東日本大震災。あの震災の時に東京がどうなったか、みなさんご存知ですか? そこら中で、トイレットペーパーの買い占めが始まったんですよ。トイレットペーパーだけじゃない。コンビニに人がものすごく殺到して、いろんな食糧や飲み物、日用品をみんな買い占めをするようになったんです。2011年に行われた今年の漢字で、『絆』っていう文字になりましたよね? 東北の人たちは、みんなで力を合わせて、震災の苦境を乗り越えていったみたいですが、東京は違うんですね。東京の絆は薄い! 薄っぺらいんだよ! 日本一栄えている街のくせに、世界一自分のことしか考えてない都市なんですからね。いやあ〜、悲しいかな人類。寂しいかな、人間社会! でも、そんな東京でも、こんなに美しい光景があるとは、思いもしなかったな〜。大自然よ、いつもありがとう! 僕はこれからも生きていくよ! ブロガーとして生きていくよ!」
貴子、登場。
有馬「あら? こんな時間にお客さんかな? こんばんは〜」
貴子「うわっ、びっくりした!」
有馬「これはこっちのセリフだよ! マジか。僕はキミがいる前で独り言をしていた、ってことだよね? はっずかし〜」
貴子「ここで、何やってたんですか?」
有馬「いや、僕は自分の別荘地で、散歩してただけさ」
貴子「別荘地?」
有馬「そう」
貴子「この山って、あなたの別荘地なんスか?」
有馬「そう、実は僕の所有地なんだ」
貴子「知らなかった〜」
有馬「あれっ? アレアレレ? ごめん、見間違いだったら申し訳ない。キミって割烹料理屋の店員さんじゃないかい?」
貴子「ええ、そうですけど」
有馬「やっぱり!」
貴子「どうして知ってるんですか?」
有馬「どうしてって。僕は『ほほえみや』の常連なんだよ」
貴子「マジすか!?」
有馬「マジすよ!」
貴子「すみません、お名前を伺ってもいいすか?」
有馬「有馬拓人っていいます。いつも大変お世話になってます」
貴子「いやあ、……はい」
有馬、ずっこける。
有馬「いやあ〜、キミって面白いね」
貴子「えっ、どこがっスか?」
有馬「いやさ。フツーはそこで、『いつもありがとうございます』とか、『お世話になってます』とか言うじゃない」
貴子「そういうモノなんスか?」
有馬「うん、フツーはね」
貴子「そうなんスか」
有馬「でも、そこがいいんだよ」
貴子「えっ?」
有馬「社会の常識にとらわれてない所が、すっごくいいんだよ」
貴子「いや、とらわれてない、っていうか……」
有馬「僕の別荘で何やってたの」
貴子「えっ。いや、なんていうか〜」
有馬「地元が、ここの近くだったりするの?」
貴子「いや、そうじゃないんス」
有馬「じゃあどうして?」
貴子「……今日、仕事をサボったんスよ」
有馬「ええ? 仕事をサボった!」
貴子「はい」
有馬「なんで」
貴子「いや、なんでなんスかね。自分でも、よくわからないッス」
有馬「はあ〜、なるほどね〜。言われてみれば、キミはいつも楽しそうに、仕事してたわけじゃなさそうだからな〜」
貴子「わかります?」
有馬「うん、顔に出てるよ。今でもね」
貴子「そうなんだ〜」
有馬「飲食店の仕事って、結構大変だよね。店長にいろいろと、こき使われて」
貴子「そうなんすよ、いつも雑用ばかりで、すっごくイヤなんス」
有馬「へえ、雑用の仕事がイヤなの?」
貴子「はい」
有馬「なんで」
貴子「え?」
有馬「なんで雑用の仕事が、そんなにイヤなの?」
貴子「いや……でもフツー、雑用って魅力ないんじゃないスか」
有馬「そうかな〜」
貴子「じゃあ有馬さんは、雑務をしたいスか?」
有馬「したいか・したくないか、っていったら、したくはないね」
貴子「ほら」
有馬「でも、それは魅力がないのとは関係ないよ」
貴子「え? どういうことッスか」
有馬「つまり、キミが雑務がキライなのと、世間の人が一般的に雑用に魅力がないのとは、全然関係ないってこと」
貴子「はあ?」
有馬「わからない?」
貴子「いや、わかるような、わからないような〜」
有馬「じゃあ、言い方を変えてみるか。たとえば、キミが雑務をこなすことによって、世界中の人が喜んでくれるとしよう。もしもそういう仕事をしてた場合、それでも魅力を感じないってこと?」
貴子「世界中の人が喜ぶ? 雑用一つで?」
有馬「たとえば、だよ。どう? それならどんな仕事でも、やりがいを感じたりしないかな」
貴子「う〜ん……やりがいは感じるかも」
有馬「そうだよね。フツーの人って、むしろ自分のできることがあまりわからない人が多いんだよ。だからそういう、世間の人が喜んでくれる仕事をしてた方が、やりがいを感じるんだと思うんだよね」
貴子「へえ、そういうモノなんスか」
有馬「いや、あくまで僕の、経験上での話なんだけどね」
貴子「有馬さんって、どんな仕事をしてるんですか?」
有馬「ブロガーだよ」
貴子「ブロガー?」
有馬「そう。日頃からネット上に自分の記事を上げ続けて、その記事に広告を載せて稼ぐ仕事。それがブロガー」
貴子「へぇ、そういう仕事もあるんスね」
有馬「そう。でも最近は、そこから派生して、ちょくちょくとメンタルコーチや人生相談、コンサルも受け付けてるんだよね」
貴子「すごい」
有馬「いやいや、大したことないよ。心理相談なんて、やろうと思えば誰でもできるさ。資格を取るのはそれほど難しくないし、集客ができさえすれば誰だってやれる。ブログだってそう。今ならブログをやれば、みんな稼げるよ。ただね、お金を稼ぐこととやりがいのある仕事をやるのは、全く別問題なんだよ。だから始めたわけなんだよ、コーチングやコンサルを」
貴子「ふう〜ん」
有馬「名前、なんていったけ」
貴子「森川貴子」
有馬「貴子さんは自分の仕事に、やりがいは感じているの?」
貴子「雑用仕事のことッスか?」
有馬「まあ、そういうことだね。どうなの?」
貴子「……正直、あんま、やる気ないんス」
有馬「そうなの」
貴子「はい。だって、めんどくさいじゃないスか」
有馬「まあ、雑務って確かにめんどくさいよね」
貴子「だからイヤなんスよ」
有馬「なるほどね。つまりキミは、めんどくさいことをやるのが好きじゃない、ってことかな?」
貴子「はい」
有馬「じゃあ、何をするのが好きなの」
貴子「え?」
有馬「貴子さんは、何をするのが好きなの?」
貴子「……う〜ん。なんだろうな〜」
有馬「じゃあ、聞き方を変えてみるか。小さい頃の夢は、どんな夢だったの」
貴子「ミュージシャンか、料理人になりたかったッスね」
有馬「ミュージシャンか料理人に!」
貴子「はい。元々、あたしは音楽事務所に所属するために、上京してきたんス」
有馬「へぇ〜! 夢が叶ったんだ〜」
貴子「まあ、CDデビューはしたものの、全然売れませんでしたけどね」
有馬「それでもすごいよ」
貴子「そうスか?」
有馬「うん。なんでやめたの」
貴子「相方とケンカしちゃって。それでマンションから追い出されちゃったんス」
有馬「ああ、そうなんだね」
貴子「はい」
有馬「なるほど。それでもう一方の夢である料理人の道へ進むために、『ほほえみや』の門戸を叩いたってことか」
貴子「モンコをたたく?」
有馬「つまり、訪ねたのかってこと」
貴子「ああ」
有馬「つまり、そういうことなの?」
貴子「いや……正確には、微妙に違うンス」
有馬「ほう」
貴子「あたしは親方に、拾われたンス。あたしが路頭に迷ってたところに、たまたま親方が気にかけてくれて、それで、あたしに仕事をくれたんスよ。今でもめちゃくちゃ感謝してるンス。もう、どうお礼をすればいいか、ってくらいに」
有馬「だったら、その気持ちでやればいいじゃない」
貴子「えっ?」
有馬「雑用の仕事も、親方さんの笑顔を想像しながらやればいいんじゃないの?」
貴子「……いやいやいやいやいやいやいやいや」
有馬「なんで否定するの」
貴子「一応、あたしが今やってる追い回しの仕事は、一人前の板前になるためにやってるからなんスよ」
有馬「一人前の板前に?」
貴子「そうッス」
有馬「ふう〜ん」
貴子「でも、親方は全然、料理のことを教えてくれないンスよ」
有馬「なるほどね。そういうことか」
貴子「はい」
有馬「つまり、今やっている仕事は、自分の料理仕事に大きくつながってない気がしてるんだね?」
貴子「はい、そういうことッス」
有馬「そのせいなんだね。どうも、仕事に身が入らないのは」
貴子「そうなんス! よくわかりますね」
有馬「心理学を学んでいるからね。これぐらいは朝飯前さ」
貴子「すごい……」
有馬「でもまぁ、親方さんの気持ちにもなってみなさいよ。親方さんは、業界の未経験者であるキミを雇ってるんだろ? ただでさえ自分の仕事で手一杯なのに、素人を育てるほどの余裕はないよ、フツーは。それでも雇ってくれているのは、明らかに、親方さんの人情だよ。『ほほえみや』はね、結構な高級料理屋として有名なんだよ? 見た目こそ小さいけれど、富裕層の間では、認知度と信用がすごく高いんだ。毎日舌の肥えたお金持ちを満足させるのも、並大抵のことじゃないよ。わかるかい? 職場は学校じゃないんだ。自分のスキルを磨きたければ、自分で磨くしかないんだ」
貴子「なるほど……でも、どうやって」
有馬「キミ、ユーチューブって知ってるかい?」
貴子「ユーチューブ? あの素人が投稿する、動画サイトの?」
有馬「そう。そこで寿司の握り方とか野菜の切り方とか、魚の捌き方を教えてくれる動画が流れてるから、それを見るといいよ」
貴子「そんなのがあるンスか」
有馬「ああ。なんなら、いま見せてもいいんだよ?」
有馬、ポケットからスマートフォンを取り出し、動画アプリを起動させる。
そしてその動画を貴子に見せる。
貴子「すごい……」
有馬「スマホは持ってるかい?」
貴子「いや、それが持ってないンス」
有馬「なんで」
貴子「お金がなくて」
有馬「なるほど。だったら、買ってあげるよ」
貴子「えっ!?」
有馬「僕が新品のスマホを、買ってあげるよ」
貴子「いいんすか?」
有馬「ただし、いくつか条件がある。一つ目は、今回行う僕の支援内容を、SNSで報告させてほしい。その際、キミの本名と『ほほえみや』の名前も、ネットで投稿したいんだ。いいかな?」
貴子「はい、それなら全然いいッスよ」
有馬「ありがとう! それともう一つ! 一度支援を受けたからには、途中で投げ出さないでほしい。あまり言いたくないんだけど、僕がキミを支援するのは、自分の影響力が欲しいからなんだ。自分のお金を次世代への支援に回す。そうすることでまわりからのさらなる信用や認知度を上げる。そういう目的でもあるんだよ。つまり言い換えれば、僕はキミのスポンサーになる、ってことでもある」
貴子「なるほど」
有馬「僕の支給するスマホを使って、キミの夢を叶えてほしい。約束してくれるかい?」
貴子「……はい! 約束しますっ」
有馬「よし! それじゃあ、取引は成立だ」
音楽。
有馬、貴子と強い握手を交わす。
舞台転換。
6
舞台は板前割烹『ほほえみや』。
早苗はあちこち歩き回っていて、何だか落ち着かない様子である。
早苗「(傍白)ハァ〜。今頃、貴子は何してるんだろう。私、ひどいこと言いすぎたかな? 全っ然帰ってこない……。いや。私は悪くない! 私は貴子の時よりももっと、辛い思いをしてきたんだ。この程度でへこたれているようじゃ、とてもこの世界は生きていけない。……でも、相手は初心者、しかもまだ20代の女の子だ。いくら何でも言いすぎたんじゃないかい? いいや。『若い時の苦労は買ってでもしろ』というじゃないか。悪いのは向こうなんだ。仕事を舐め腐っていたあの子が悪いんだ。……でも心配だな〜。大丈夫かな〜。あれからもう2ヶ月も見てないよ? あの子、生きてるかな〜。無事だったらいいんだけど……」
貴子、登場。
貴子「親方! ご心配おかけしました!」
早苗、ビビ〜ンッとびっくり仰天の様子。
早苗「貴子かい? 貴子なんだね?」
貴子「そうです。森川貴子、ただいま戻りました!」
早苗「貴子!」
貴子「親方!」
早苗、貴子に近寄り、ペチン! と彼女の頬を叩く。
貴子「何するンスか!」
早苗「あんた、急に店からバックレて、どこに行ってたんだい!」
貴子「いやぁ、その……」
早苗「何もいうな!」
貴子「どっちなんすか!」
早苗「貴子のことだ。どうせそこらじゅうを遊び呆けて、お金が足りなくなったから、またうちで働きたくなったんだろ」
貴子「いや、それは……」
早苗「何も言わなくていい。わかってるんだ。大体わかるんだよ。私の第6感を舐めないでおくれ」
貴子「違うンス!」
早苗「……違うのかい?」
貴子「はい。確かに、あたしはこの2ヶ月間、親方から逃げ続けてたンス。正直、ここに来るのにもすごく、勇気がいりました。でも、あたしが今までいなかったのは、決して、バックレたかったからではありません! あたしがこの2ヶ月間やっていたのは、料理の修行なんス」
貴子、調理場に立つ。
貴子「親方。一度、あたしの握る寿司を、召し上がっていただけませんか。今度という今度は、本気ッス。あたし、一人前の板前になりたいんス」
早苗「……いいだろう。作ってみな」
貴子「はいっ! ありがとうございます!」
貴子、必死に料理を行う。
照明転換。
貴子「この2ヶ月間、あたしはただスマホと向き合い、地道に調理場に立ち続けていた。以前とは違って、もう受け身の姿勢で料理の技術をインプットしてはいない。学んでは実践し、失敗しては学び直す。そんな学習スタイルをずっと続けていた。その効果もあってのことだろうか。親方のあたしを見る目が、一気に変わっていた。親方の真剣な視線が、あたしの方にじっと注がれている。あたしは調理をしながらも、その真剣な眼差しを向けられていることに気づいていた。でも、今は刃物を扱っている調理の現場。命に関わる、大切な作業なんス。よそ見をしている暇はない!」
貴子、料理の仕上げの作業に移る。
貴子「この料理で、親方を感激させるんだ。この料理をきっかけに、あたしの腕前を認めてもらい、『ほほえみや』の専属料理人になるんだ。一人前の板前に、あたしはなる!」
貴子、早苗に料理を差し出す。
貴子「お待たせしました」
早苗「ん」
貴子「親方。ぜひご審査のほど、よろしくお願いします」
早苗「わかった」
早苗、じっくりと貴子のにぎった寿司を眺めたのちに、パクッと食べる。
貴子「どうです、親方」
早苗「……うまい! この寿司は、よく握れてる」
貴子「ありがとうございます!」
早苗「切り身の筋がちゃんと垂直に切れていて、臭みもしつこさもない。魚の下処理がしっかりやられている。私は教えた覚えはない。なのに、貴子は私の技をちゃんと盗めている。2ヶ月間でこの急成長は、大したもんだ」
貴子「どうもどうも」
早苗「だけど、調子に乗っちゃいけないよ」
貴子「わかってます」
早苗「あんた、どこで学んできた」
貴子「ユーチューブです」
早苗「ユーチューブ?」
貴子「はいっ」
早苗「何だい、それは」
貴子「素人が投稿する動画サイトです。そこに投稿されている料理の動画から、いろんな技を学びました」
早苗「そんなものがあるのかい」
貴子「そうなんス!」
早苗「へぇ〜、時代も変わったねぇ〜」
早苗、貴子に手を差し出す。
貴子「親方……」
貴子、早苗の手を強く握る。
早苗「何やってんだい、あんたじゃないよ!」
貴子「はい?」
早苗「わからないのかい? 私にも見せてほしいんだよ」
貴子「何をですか?」
早苗「ユーチューブに決まってるだろう!」
貴子「ああっ! す、すみません!」
音楽。
舞台転換。
7
貴子「ユーチューブの存在を知ってからのあたしは、猛スピードの成長を遂げた。世の中には本当に良心的な人がいるもので、一流の調理方法を解説する動画チャンネルがたくさんあった。西洋の料理から中華料理、タイ料理。もちろん和食の調理方法まで! スマホってほんとにすごい! コレがひとつあるだけで、専門学校の教材をまるまる学べるンスよ。これは低学歴であるあたしからしたら、革命ッス! すごくありがたい存在ですわ。もう、スマホに足を向けて眠れません! あたしはあれからも、密かに親方の見てない所で、いつも料理の練習を重ねていた。動画がひとつひとつ丁寧に教えてくれるから、あとはその手順に従えばいいだけ。それだけで、あたしの料理の腕はグンと上げられる! こんなのアリッスか? これはもはや、『チート』というべきじゃないスか!? いや、これはチートっすよ! ユーチューブと調理場さえあれば、板前の修行はいらない。正直、あたしはそうも思った。だから、無理に親方のところで働く必要もなかったワケなんス。でも、あたしはその選択肢を、選ぶことはなかった。なぜなのか。正直、自分でもよく、わからないッス」
調理場の準備を行う早苗。
早苗「貴子! 注文が入ったよ!」
貴子「はぁ〜い!」
貴子、調理場に立つ。
早苗「おまかせ会席一丁!」
貴子「はいっ! おまかせ会席一丁!」
貴子、調理を行う。
貴子「まあ、こんな感じで日々を過ごしてるんス。注文が入っては調理をして、調理をしてはお客様に出して、そしてまた注文が入っての繰り返し。この時間がなんともいいんスよね。命をかけて命を美味しく仕上げる。もう、最高じゃないスか! 仕事にハマればハマるほど、この作業の時間がとても、病みつきになるんスよね!」
早苗「貴子! 板場の調子はどうだい!」
貴子「はい、絶好調です!」
早苗「結構結構! じゃあ、私も板場を手伝うよ」
貴子「はいっ!」
早苗、貴子の隣で野菜を切り出す。
照明転換。
貴子「いつまでも、こういう日々が続けばいいのに。正直、そう思ってた。でも、この幸せな日々が、いつまでも続くわけではなかった。どういうことか、説明しましょう」
貴子、調理場から離れる。
舞台転換。
貴子「まず、世間では調理の機械化が進められたンス。みなさんが召し上がっているお寿司は、ウチらのような高級の板前割烹で召し上がりますか? 大方は違うでしょう。じゃあどこで食べるのか。回転寿司でしょう? 昔の回転寿司はここだけの話、全然美味しくなかったンス。だから個人の高級料理店でも、ずいぶん通用したわけなんス。でも近年では、調理技術のロボット化が大きく進んでいる関係で、あまりにも格安な寿司が登場してしまったンスね。会社の名前は伏せておきますが、仮にその会社を、『クソズシ』と名付けておきましょう。『クソズシ』の登場によって、ウチだけに限らず、『美味しい』だけで勝負をしてきた料理店は、次々と苦しくなってくるンス。それはそうですよね? 8000円で提供する板前割烹の寿司と、一皿たったの110円で提供される『クソズシ』の寿司、あなただったらどちらを選びますか? 味は同じなんスよ? だとしたら明らかに、後者でしょう? だって美味しさは変わらないんだから。少なくとも素人では、人が握った寿司と機械が握った寿司の区別はできないスよ。だから板前割烹のような高級料理店は、存続が難しくなっていくわけなんス。しかも、問題はそのロボット化だけじゃないんス。その上にさらにのしかかってきたのが……」
早苗「コロナのせいだよ」
貴子「…………」
照明転換。
舞台は板前割烹『ほほえみや』の中。
早苗「貴子。あんたもわかるだろう? ウチの経営はここ半年間、ずっと赤字だ。持続化給付金で、今はなんとか店の赤字を埋めてはいるけれど、正直そのお金だけじゃ、足りないんだよ」
貴子「何言ってるんスか、親方」
早苗「本当に、申し訳なく思ってるよ、貴子。もう、何て言えばいいのか……」
貴子「ウソですよね?」
早苗「(首を振る)」
貴子「そんな……。ウソだと言ってください。どうせ親方のことですから、あたしを驚かしたいだけなんでしょう? ねえ、そうでしょう?」
早苗「…………」
貴子「ウソだと言ってくださいよ。ね? 冗談なんでしょう?」
早苗「これが現実なんだ」
貴子「……あたし、一生懸命働いてましたよね? この割烹のために、必死に料理をつくり続けてきたじゃないですか。なのに、どうして……」
早苗「それは申し訳なく思ってる。私の実力不足だ。すまない」
貴子「あたし、親方と一緒に仕事したいんスよ! どんな状況になっても、親方のあとで生きていきたいんス!」
早苗「それはどうしてもできないんだよ!」
貴子「お金なんていりません。せめて、一緒に料理を続けさせてください。お願いです。お願いですから……」
早苗「……どうしてお前は、ウチで働くことにこだわるんだい。ウチで働くよりも、よその大手で働いた方が給金はいいだろう? なのに、どうして……!」
貴子「今でも忘れません。ウチが初めて上京してきたときに、親方はあたしに、一杯のご飯をくれました」
早苗「そんなことをした覚えはないね」
貴子「いいえ! 親方も本当は覚えているのでしょう? あたしが9年前、路頭に迷ってたときのことを、親方ははっきりと覚えているはずです」
早苗「忘れたね」
貴子「ウソをつかないでください」
早苗「ウソなんかついてないよ」
しばらく互いをにらみ合う早苗と貴子。
貴子「あたしは、あたしが受けたあの時の恩を、忘れたことはありません。一度たりとも。そう、一度たりとも!」
間。
早苗「……ダメだ。ダメなんだよ」
貴子「どうしてですか」
早苗「どうしてもなんだ」
貴子「……」
早苗「今年に新型コロナが蔓延してから、お客が全然入らなくなっただろ。おかげで、半年もオーナーに家賃を払うことができなくなってるんだ。正直こんな状況じゃ、とてもやっていけない」
貴子「そんな。何とかならないんですか」
早苗「(首を振る)」
貴子「そこをなんとか!」
早苗「どれだけ頭を下げても無駄だ。もう、決めたことなんだ」
貴子「……急にどうしたんですか。以前までの親方なら、そんな弱気な姿勢を見せなかったじゃないスか。誰かに吹き込まれたんですか? 本当に親方なんですよね!?」
早苗「……私はね。正直、もう、疲れちゃったんだよ。回転寿司屋に客を全部持ってかれて。業界の競争も激しくなって。もう経営のことで、頭を使いたくはないんだ。私は、自分の料理に集中したいんだ」
早苗、鞄を持って立ち上がる。
貴子「どこへ行くんスか」
早苗「履歴書を買ってくる」
貴子「履歴書?」
早苗「私は、介護施設の調理場で働くつもりだ」
貴子「介護施設?」
早苗「今日でもって、この板前割烹『ほほえみや』は、店を畳む」
貴子「いやです」
早苗「貴子」
貴子「あたしはもっとここで働きたいんです! 親方!」
早苗「出て行っておくれ」
貴子「親方」
早苗「出て行っておくれ! これ以上はもう、限界なんだ!」
貴子「………」
悲しみの音楽。
早苗、舞台を退場。
貴子、その場でうわぁ〜っと泣き叫ぶ。
ジメジメした空気が、舞台中に覆い尽くされる。
貴子は店のものに手を出し、八つ当たりをしようとするが、どうしてもそれができないでいる。
間。
やがて、貴子はその場を去ろうと、店の出口へ向かった。
舞台転換。
8
舞台は昼間の街中。
貴子は物憂げに街路を歩いている。
そこに、有馬拓人が登場。
有馬「あれっ、貴子さんじゃないか。しばらくぶりだね! 元気にしてた?」
貴子は有馬を無視して、素通りしようとする。
有馬「ちょっと待ってよ! 貴子さん、僕のことを忘れた? 『ほほえみや』の常連の、有馬拓人だよ。ブロガーの! いや、正確には元ブロガーだけど。……貴子さん、どうしたの?」
貴子「別に」
有馬「いや。どう見たって『何かあった』って、顔に書いてるよ? 何かあったんじゃないの?」
貴子「……解雇されちゃった」
有馬「えっ?」
貴子「『ほほえみや』から、追い出されちゃった。それでお店も閉めるって」
有馬「『お店を閉める』って、廃業するってこと?」
貴子「そう」
有馬「……そうか。よっぽどコロナのせいで、経営が苦しかったんだね」
貴子、その場から去ろうとする。
有馬「どこへ行く気なの」
貴子「さぁ、どこへ行くんだろうね」
有馬「今は緊急事態宣言が発令中なんだよ? 家に帰りなよ」
貴子「もう、家はないから。あたし、解雇されたから」
有馬「貴子さん! 何言ってるんだよ」
貴子「あたしは今まで、親方の家に居候してたんです。でも、もう帰る家はありません。ほっといてください」
有馬「ほっとけば、キミは家に帰ってくれるのかい?」
貴子「だから『帰る家をなくした』って言ってるでしょう!?」
有馬「ほっとくわけないだろう! 僕は『ほほえみや』の常連なんだよ? その店員であるキミを、ほっとくわけないだろ」
貴子「……一人にさせてください。もう、疲れちゃったんですよ」
有馬「何に」
貴子「何に、って」
有馬「まさかとは思うけど。人生に疲れた、なんて、言うんじゃないだろうね?」
貴子「……そうだよ。もう、あたしの人生はメチャクチャだよ」
有馬「貴子さん」
貴子「なんでコロナが蔓延したの? 流行る前に、ちゃんと対策しとけよ。不要不急の外出を禁止するぐらいだったら、もっとちゃんと支援をしろよ。マスクなんか支給するなよ、そんなものいらねえよ。商品券を配られても困るだろ。商品券なんかで家賃が払えるっての? 牛肉の割引き券なんかで、国民を救った気でいるんじゃねえよ!」
有馬「貴子さん!」
貴子「……やっぱり、ダメだわ。あたし、どうかしてるわ」
有馬「ちょっと、向こうで話をしよう」
貴子「ほっといて」
有馬「いいからついてきて!」
貴子「……」
有馬、貴子を広場へ連れて行く。
有馬「……親方さんはね。やめようと思ってたんだよ。ずっと前から」
貴子「え?」
有馬「『ほほえみや』を閉じようと思っていたのは、今日が最初じゃないんだ」
貴子「そうなんですか?」
有馬「うん。実はね、僕は過去に、何百万っていうお金を寄付してきたんだ。『ほほえみや』に。理由は大したことない。ちょっとした恩返しの目的さ」
貴子「親方が、有馬さんから支援を受けてたんですか?」
有馬「そうだね」
貴子「知らなかった」
有馬「それだけじゃない。時々僕に、『ほほえみや』の経営コンサルを頼まれたこともあるし、集客や商品開発のお手伝いもよくしてたんだ。しかも、無償でね」
貴子「どうしてですか」
有馬「僕もお世話になったからだよ。いつも『ほほえみや』に行くたびに、何度も声をかけてもらって、話まで聞いてもらってさ。あんなに温かい場所を、失いたくなかったんだよ」
貴子「……」
有馬「僕さ。ネット上でどういう名前をつけられてるか、知ってるかい?」
貴子「さあ、わかりません。何なんですか?」
有馬「『ネット詐欺師』って言われてるんだよ」
貴子「え? 有馬さん、詐欺をしたんですか?」
有馬「してないよ。もししてたら、今頃刑務所の中だよ」
貴子「じゃあ、なんでそんなこと言われるんですか?」
有馬「簡単な話さ。アンチのせいだよ」
貴子「アンチ?」
有馬「僕のことを嫌ってる人間が、勝手にそう呼んでるんだ。で、そのアンチの言葉を真に受けて、世間では僕のことを、『詐欺師』と呼ぶようになったんだよ」
貴子「ひどい」
有馬「ほんとそうだよね。理不尽にも程があるよ。正直、一時期は僕も疲れ切っちゃってた。ちょうど、今のキミのような感じにね」
貴子「大丈夫なんですか?」
有馬「ああ、今はもちろん大丈夫だよ。全然気にしてない」
貴子「すごいですね」
有馬「いやいや。これというのも、みんな、キミの職場のおかげなんだ」
貴子「どういう意味ですか?」
有馬「『ほほえみや』の親方さんが、いつも温かく出迎えてくれていたから、僕も生き抜くことができたんだ」
貴子「そうなんですか?」
有馬「うん。そういう意味で『ほほえみや』は、僕の、命の恩人だと言っても、過言じゃないね」
貴子「そうだったんですね」
有馬「そう。だから僕、いつもお店が困った時には、サポートをしてたんだよ。経営の面も、お金の面も」
貴子「すごいですね」
有馬「いや。キミもお金持ちになれば、きっと同じような行動をするさ。お金を持ってたっていいことは一つもないからね。特に日本では。そりゃあ、もちろん、お金は最低限必要なんだよ? でも必要以上にお金を持つと、まわりから結構妬(ねた)まれちゃうんだよ。自分がいつまでも何億持ってたって、社会が良くならなくちゃ、結局はそのお金も死金でしかない。だからお金持ちは寄付するんだよ。たとえば、近年話題になってる、『お金配りおじさん』。彼だって、そういう人間心理で動いているんだよ。十中八九ね」
貴子「なるほど……」
有馬「でも、最近親方さんは、僕の支援を拒むようになったんだ」
貴子「えっ、そうなんですか?」
有馬「うん」
貴子「どうしてなんですか?」
有馬「僕もよくわからないんだ。こっちが聞きたいぐらいだよ。何でなんだろう。やっぱり、コロナのせいなのかな」
早苗「疲れたんだよ」
早苗、登場。
貴子「親方。いつからそこに?」
早苗「有馬くんが何て呼ばれてるか、ってところぐらいから。あそこにいたよ」
有馬「そうだったんですか」
早苗「今、私がなんで、あんたの支援を拒んだかの話をしてたろう」
有馬「はい」
貴子「そうッスね」
有馬「『疲れた』って、どういうことなんですか?」
早苗「新型コロナの影響で、ウチの経営が苦しくなったのは知ってるだろう? それで家賃が払えなくなって、ビルのオーナーに、契約の更新を止められたんだよ」
貴子「そうだったんですか?」
早苗「そう。実は、何度もオーナーに頭を下げてたんだ。『このまま追い出されたら、従業員たちが路頭に迷ってしまう』って、訴え続けてた。でも、それでもダメだった……これはひとえに、私の力量不足だ。申し訳ない!」
早苗、深々と頭を下げる。
貴子「いやいや! 頭を上げてください、親方」
有馬「そうですよ」
早苗「いや、ダメだ。私は経営者として失格だ」
貴子「何言ってるんですか」
早苗「本当のことを言うと、私は何度も、挫折してきたんだ。正直、会計の仕事は今でも苦手だし、集客や経営の勉強は、すごくイヤで仕方がなかった」
貴子「えっ? そうだったンスか?」
早苗「ああ。でも、あの店を見捨てることだけは、どうしてもできなかった。いや、正確には、『ほほえみや』を継がなくちゃ、やっていけなかったんだ」
有馬「というと?」
早苗「『ほほえみや』だけだったんだよ。私のことを、人間として扱ってくれたのは」
有馬「どういうことですか?」
早苗「他の和食料理店では、私が女だという理由だけで、みんな採用してくれなかったんだ。でも、『ほほえみや』の先代親方は、私を弟子として受け入れてくれた。人として尊重してくれたんだ。だから引き継いだんだよ。私も先代のように、どんな人も微笑んで暮らしていけるような、店にしたくてね」
貴子「親方……」
早苗「でも、結局は無理だった。私には経営者は向いてないんだ。それを改めて痛感したんだ」
貴子「親方……」
早苗「ごめんな、貴子。やれることは全部やったんだ。でも、結局こんな形になってしまって……。すまない!」
貴子「いいえ! 親方は悪くないスよ! 悪いのはコロナなんですから」
早苗「でも!」
貴子「自分を責めないでください! 親方は、悪くないですから」
早苗「………」
貴子「やり直しましょう」
早苗「え?」
貴子「土地のオーナーから追い出されたンなら、またやり直せばいいンスよ」
早苗「貴子……」
有馬「そうですよ。店が潰れたら、立て直せばいいじゃないですか」
早苗「それができたら苦労しないよ」
有馬「できますよ! できるようにするんです!」
早苗「………」
有馬「親方さん。あなたが継いできた『ほほえみや』は、これからも続けていくべきです。コロナのせいで、今こそお客さんが全然来てないけど、それは需要がないからじゃない。大切なのは、いかにお客さんに料理を届けるかです。単にそれだけなんですよ」
早苗「でも、具体的にどうやって届けるんだい」
有馬「これがあるじゃないですか」
有馬、自分のスマホを見せる。
有馬「ネットショップを立ち上げたり、SNSとか広告で集客をしたり、テイクアウトを受け付けてウーバーイーツに登録したり、いろいろあるじゃないですか」
早苗「そんなものが、当てになるのかい」
有馬「成功してる人はいます」
早苗「もし失敗したら」
有馬「何もやらないよりはいいでしょう!」
早苗「……」
貴子「親方。そのネットショップの仕事、ぜひあたしに、やらせていただけませんか」
早苗「え?」
貴子「親方の料理は、世界中の人を幸せにします。コロナのせいで店を畳むのは、あまりにも惜しいッスよ」
早苗「でも……」
貴子「親方。あたしに『ほほえみや』を、任せていただけませんか。お願いです!」
貴子、その場で深々と土下座する。
早苗「本当に、できるのかい?」
貴子「やってみせます」
早苗「どうやって」
貴子「ひたすらググります。そして自力で集客をして、『ほほえみや』の経営を、立て直します」
早苗「……そうかい」
音楽。
早苗「やってみな」
貴子「え?」
早苗「あんたの好きなように、やってみな」
貴子「親方」
早苗「どうやら、まだ私は、『ほほえみや』から消えちゃいけないようだね」
貴子「親方……」
早苗「よし! いいだろう。一緒に立て直そう、板前割烹『ほほえみや』を」
貴子「はいっ!」
有馬、スマホをいじり始める。
有馬「よ〜し。そうと決まれば、まずは調理場の確保だな」
貴子も自分のスマホを取り出し、操作を始める。
貴子「えーっと。なんて検索すればいいのか……」
有馬「とりあえず、居抜き物件を探してみようか」
貴子「居抜き物件?」
有馬「調理場がついた既存の物件のことさ。この状況だから、格安で貸してくれる所があるはずだ」
貴子「なるほど」
有馬「ヘイ、Siri! 東京の居抜き物件を探して」
ストップモーション。
早苗「(傍白)やれやれ。最近の若い子には、敵わないね〜」
溶暗。
終わり
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