歌舞伎脚本 解体奇談心臓鑑(かいたいきだんこころのかがみ) 舞台

天明の江戸、小塚原。蘭方医の涼庵が、刑死した刺青師彫芳の腑分けに臨む。胸を開いた瞬間、落雷で闇となり、心臓だけが消える。「心は血を送る袋にすぎぬ」と断じる涼庵は、結び目の癖や湯灌の細工から、共謀の真相に迫る。深川の長屋で待つ病身の娘お雪と、桐箱の心臓。闇に響く拍は、箱の音か、己の胸の音か。
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第一稿

新歌舞伎 時代世話狂言 三幕四場

 人物

佐伯涼庵(さへきりやうあん)若き蘭方医。蘭書を信奉し、魂も霊も迷信と断ずる合理主義者
彫芳(ほりよし)稀代の凶賊にして江戸一 ...続きを読む
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新歌舞伎 時代世話狂言 三幕四場

 人物

佐伯涼庵(さへきりやうあん)若き蘭方医。蘭書を信奉し、魂も霊も迷信と断ずる合理主義者
彫芳(ほりよし)稀代の凶賊にして江戸一の刺青師。刑死して腑分けに付される
お雪(おゆき)彫芳が命がけで愛した深川の娘。心の臓を病む
土壇場の平吉(どだんばのへいきち)小塚原の腑分けを取り仕切る非人頭。皮肉屋の老人
助炭の弥助(ぢよたんのやすけ)涼庵の弟子。血と解剖が苦手
彫吉(ほりきち)彫芳の刺青の弟子。お雪を支へる若者
竹本、三味線、下座鳴物


 序幕 千住小塚原腑分け小屋の場

 時 天明四年九月、秋の嵐の夜
 所 江戸、千住、小塚原仕置場の板小屋

 ト、幕明く。大道具、粗末な板小屋の内。上手に土壇場、板の台に刑死者の遺体、白布をかけて横たはる。下手に行灯二つ、奥は破れ障子、外は吹き荒るる嵐。ト、風音、遠雷。竹本、

竹本 〽秋の嵐の 小塚原 草も木もなき 仕置場 骸ばかりの 夜の宿 誰が目に見ゆる 明日の世ぞ

 ト、下手より平吉、提灯を提げ、背を丸めて出づ。続いて弥助、おどおどと、風呂敷包みを抱へて出づ。
弥助 「(ト、あたりを見回し)平吉さん、こ、ここは、まことに仏の寝てゐる所で」
平吉 「寝てゐるどころか、お前さんの目の前に、一人横たはつてゐるぢやねえか。ほれ、そこに」
弥助 「(ト、白布を見て飛びのき)ひえつ」
平吉 「(ト、にやりとし)腑分けの弟子が、仏に驚いてどうする。お前さんの先生は、昨日から、この仏の話ばかりだ」
弥助 「先生は、あのお人は、血を見ても平気の平左。わたしは、卵の黄身が割れても、目を回します」
平吉 「(ト、白布の端を持ち)では、まづ顔、といきたいが、首はもう獄門台だ。胴ばかり頂戴いたしました。……見な」
 ト、平吉、白布をめくる。胸より腹にかけて、血煙の立つ如き、極彩色の阿修羅の刺青。弥助、思はず目をおほふ。
弥助 「(ト、指の間より覗き)きれいだ。……いや、おそろしい。三つの顔が、こちらを睨んでゐる」
平吉 「彫芳の手になる、おのれの肌に彫り、手の届かぬところは弟子に彫らせたといふ、いはく付きでね。検視の役人も、気味悪がつて、さつさと引き上げた。湯灌は、わしが済ませておきました」
 ト、花道にて、雨音。涼庵、白衣に黒の羽織、蘭書を抱へて出づ。七三にて足を止め、仕置場の方を見やる。
涼庵 「(ト、独り言)獄門の首は、鳥の餌か。……罪も、魂も、あの首と共に晒されて朽ちるのみ」
 ト、涼庵、舞台へ進む。
平吉 「(ト、頭を下げ)これは先生、お待ち申してをりました」
涼庵 「平吉、ご苦労。弥助、道具を並べよ」
弥助 「は、はい」
 ト、弥助、風呂敷を解き、銀のメス、鋸、鉗子などを、台の脇に並べる。涼庵、土壇場に歩み寄り、阿修羅の刺青を見つめる。
涼庵 「(ト、低く)見事なものだ。江戸一の刺青師が、己の肌に彫つた阿修羅か。……惜しいかな、皮の模様に過ぎぬ」
平吉 「先生は、彫物をお好みでない」
涼庵 「好むも嫌ふもない。皮は皮、肉は肉。人の値打ちは、皮の絵柄にも、死に際の言葉にも宿らぬ。この下に何があるか、それを見るのだ。見て、記す。記せば、後の世の医者が、一人の病人を救ふ。……それが、わたしの信ずる、ただ一つの功徳だ」
 ト、涼庵、蘭書を開き、掲げる。
涼庵 「聞け、平吉。この国では古来、心は胸の奥の霊魂に宿ると信じてきた。されど、阿蘭陀の書『ターヘル・アナトミア』は申す。心の臓は、血を送る袋にすぎぬ、と。今宵、わたしはこのメスで、それを確かめる」
平吉 「(ト、薄く笑ひ)袋でございますか。……それは結構。袋ならば、わしらの商売も、気が楽でございます」
涼庵 「何が可笑しい」
平吉 「いえ、先生。仏の胸を開く者は、皆、同じことを仰る。……開いたあとで、顔色を変へる者もございます」
涼庵 「(ト、鼻で笑ひ)迷信の中に生きる者の言ふことだ。弥助、行灯をこれへ」
弥助 「は、はい」
 ト、弥助、行灯を土壇場の脇に寄せる。涼庵、メスを取り上げ、刃先を灯にかざす。ト、遠雷。

竹本 〽銀のメスこそ 光れども 恐るる色は なかりけり これぞ阿蘭陀 渡りたる 理の剣と 名にし負ふ

 ト、涼庵、阿修羅の胸にメスを当て、すつと引く。弥助、顔をそむけ、平吉は身じろぎもせず見つめる。
涼庵 「(ト、手を止めずに)皮を開き、肋の肉を分ける。……弥助、鋸を」
弥助 「(ト、震へながら鋸を渡し)せ、先生」
涼庵 「しつかり持て。ここからは、骨だ」
 ト、涼庵、鋸を胸骨にあてる。ぎり、ぎりと骨の軋む音。外に雷鳴、次第に近づく。涼庵、肋骨を左右に押し広げる。
涼庵 「(ト、覗き込み)見よ、弥助。これが心の臓。まごふかたなき、肉の塊。霊魂などが、どこにあるものか」
弥助 「(ト、目を閉ぢたまま)み、見えませぬ」
涼庵 「(ト、冷ややかに)目を開け。それも修業だ」
 ト、弥助、おそるおそる目を開けようとする。そのとたん、天地を裂く落雷。ト、小屋、激しく揺れ、行灯二つながら吹き飛んで、真の闇となる。
弥助 「(ト、悲鳴)うわあ」
涼庵 「(ト、闇の中より)うろたへるな。弥助、動くな」
 ト、舞台真つ暗。風音、雨音。その中に、ぎり、と骨の軋む音、さらさらと衣擦れの音、破れ障子の鳴る音。下座、だんまりの合方。ト、雷光、一閃。土壇場のあたりに、人影が動く如し。再び闇。
涼庵 「(ト、手探りにて)誰か、そこにゐるか」
弥助 「(ト、這ひながら)せ、先生、わたしは、ここに。足に、何か、冷たいものが」
涼庵 「それは、わたしの手だ。……落ち着け」
 ト、二人、手探りにて互ひを探し当て、背中合はせになる。
涼庵 「平吉」
平吉 「(ト、闇の中より、障子のあたりにて)へい。ここでございます。風で障子が飛びさうで、押さへてをりました」
涼庵 「火を。弥助、火打ちを」
弥助 「は、はい。……あ、ありました」
 ト、弥助、火打ち石を打つ。何度か空打ちののち、ぽつと火が灯る。弥助、行灯を起こして火を移す。舞台、ほのかに明るくなる。
 ト、涼庵、土壇場を見やる。その顔色が変はる。
涼庵 「(ト、愕然として)……ない」
弥助 「は」
涼庵 「心の臓が、ない」
 ト、弥助、おそるおそる土壇場を覗き、悲鳴を上げて尻餅をつく。阿修羅の胸は大きく開かれ、そこにあるべき心の臓だけが、根こそぎ消え失せてゐる。
平吉 「(ト、驚いた体にて、障子のそばより近づき)こ、これは。……仏の胸が、からつぽでございます」
涼庵 「(ト、屈み込み、胸の中を調べ)血が、床に落ちてゐない。切り口が、きれいだ」
 ト、涼庵、傷口を食ひ入るやうに見つめる。
涼庵 「(ト、低く)これは、引きちぎつたのではない。心の臓に出入りする血の道が、結んである。結んで、その外側を、一筋の刃で切り離してゐる。しかも、この結び目、糸の掛け方が妙にこまかい。針と糸を、日ごと扱ふ手の癖だ。……素人の手ではない」
弥助 「で、では、誰かが、この暗闇の中で」
涼庵 「ほんの、数呼吸の間にだ」
 ト、涼庵、立ち上がる。小屋の中を見回す。戸口は閉ざされたまま。破れ障子が風に鳴る。
涼庵 「戸は閉ざされてゐた。わたしと、弥助と、平吉。この小屋に居たのは、三人のみ。……その中で、死人の心の臓が消えた」
平吉 「(ト、ひそかに目を伏せ)まことに、不思議なことで」
 ト、遠雷。涼庵、メスを握り直す。
涼庵 「(ト、低く、しかし力強く)妖術などありはせぬ。人の仕業だ。必ず、からくりがある。……この謎、解かずには措かぬ」
 ト、涼庵、阿修羅の空洞を見据へて見得。雷光。竹本、

竹本 〽心の臓の 消えし夜 理に生きたる 若き医師 初めて抱く 疑ひの 闇は深き 江戸の秋

 ト、柝の頭。定式幕、閉まる。


 二幕目 本所竪川佐伯蘭学塾の場

 時 それより数日後、九月末の昼下がり
 所 江戸、本所、竪川べりの蘭学塾

 ト、幕明く。大道具、蘭学塾の書斎。上手に書棚、蘭書の山。下手に障子、縁先に竪川の水の面。正面に文机、そのかたはらに人体の絵図が掛けてある。ト、秋の日差し、のどかな鳥の声。
 ト、涼庵、文机に向かひ、蘭書を読み漁り、筆を走らせてゐる。かたはらには、書き損じの紙が散らばる。弥助、茶を持つて出づ。
弥助 「先生、お茶が入りました。……あの、先生、昨日から何も召し上がつてをりませぬ」
涼庵 「(ト、振り向かずに)要らぬ」
弥助 「そのやうに根をお詰めになつては、お体に障ります。……それに、あの夜のことは、やはり祟りでございます。おそれながら、わたしは、戸口に魔除けの札を」
涼庵 「(ト、筆を止め)弥助。祟りで心の臓が消えるなら、蘭書はすべて反故だ」
弥助 「は、はい。……でも、現に」
涼庵 「現にだ。現に消えた。ゆゑに、人の仕業だ。理は嘘をつかぬ。嘘をつくのは、いつも人だ。人が為した事ならば、必ず理屈がある。理屈を辿れば、必ず人に行き着く」
 ト、涼庵、立ち上がり、人体の絵図の前に立つ。
涼庵 「見よ、弥助。心の臓は、胸の骨に守られ、血の道に繋がれてゐる。あの夜、わたしが断ち、押し開いたのは、骨のみ。血の道は、まだ元のまま、心の臓に繋がつてゐたはずだ」
弥助 「それが、どうかいたしましたか」
涼庵 「繋がつたままのものを、暗闇の数呼吸で、結んで切り離す。……そんな芸当が、できるものか。あらかじめ、根元に細工がしてあつたのだ」
弥助 「あらかじめ、と申しますと」
涼庵 「胸を開く前に、仏の胸に触れた者が居る。すなはち、その者は、……」
 ト、涼庵、言ひかけて口をつぐむ。そのとき、下手より、平吉、笠を手に、腰をかがめて出づ。
平吉 「(ト、縁先より)ごめん下さいまし。先生、お邪魔いたします」
弥助 「(ト、飛び上がり)ひ、平吉さん」
涼庵 「(ト、振り返り、静かに)平吉。よく来た。上がれ」
 ト、平吉、笠を脱ぎ、ゆっくりと座敷へ上がる。弥助、茶を出す。
平吉 「(ト、茶を啜り)これは結構な茶で。小塚原では、茶といへば白湯のことで」
涼庵 「用向きは」
平吉 「へい、いえ、あの晩の仏の弔ひをいたしたく、先生に、ご挨拶を。心の臓のなくなつた仏では、成仏もままなりますまい」
涼庵 「成仏などと、気休めを」
平吉 「(ト、にやりとし)先生は、お信じにならぬ。……ならば、わしが、ちと昔話をいたしませう。あの仏、彫芳の」
涼庵 「聞かう」
 ト、平吉、茶碗を置き、居住まひを正す。竹本、

竹本 〽語れば長き 身の上を 老いたる声に 乗せて語る 世間の人の 知らぬこと

平吉 「彫芳といふ男は、もとは深川の、ただの刺青師でございました。腕は江戸一。彫つた客は、大名、旗本、博打打ちまで数知れず。……ところが、この男、彫るばかりで、金が残らぬ」
涼庵 「放蕩者か」
平吉 「いえ。深川の裏店に、お雪といふ娘がをりまして。生まれつきの病弱、胸の苦しさに、夜も眠れぬ。医者に診せれば高い薬代。彫芳は、稼ぐ金の残らず、お雪の薬に注ぎ込みました」
涼庵 「その娘は、治つたのか」
平吉 「(ト、首を振り)治りませぬ。蘭方の先生にも、漢方の先生にも匙を投げられた。……彫芳は、思ひつめた。金だ。もつと金があれば、遠国の名医も呼べる、舶来の薬も取り寄せられる」
 ト、平吉、遠くを見る。舞台、薄暗くなる。上手の障子の奥に、ほのかな灯り。ト、障子すつと開き、深川の長屋の一間の見立て。夜具にお雪、枕もとに彫芳、藍の着流し、袖をまくり、針の道具を膝にして座す。竹本、

竹本 〽語るに落つる 夜の底 病む娘御の 枕辺に 彫る手は止まり 針を置く

彫芳 「(ト、お雪の額に手を当て)熱が高いな。……すまねえ、お雪。薬代が、尽きた」
お雪 「(ト、かすれ声にて)いいの、芳さん。わたしは、もう、薬は要らない」
彫芳 「馬鹿を言ふな。お前が居なくなつたら、俺の彫る絵は、誰が見る」
お雪 「芳さんの彫る絵は、皆、きれいで、皆、さびしい。……わたし、知つてゐるの。あれは、皆、わたしを彫つてゐるのでせう」
彫芳 「(ト、はつとし、やがて苦く笑ひ)お見通しか」
 ト、彫芳、針の道具を懐に収め、すつと立ち上がる。羽織を引つかけ、七三に立つ心にて見得。
彫芳 「(ト、七五調にて)金で買へぬが お雪の命 金で延ぶるも お雪の命 闇夜に身をば 投げ入れて たとへ阿修羅と 呼ばれても お前の息を 延ばしてみせる」
お雪 「(ト、身を起こし)芳さん、どこへ」
彫芳 「(ト、振り向かず)ちよいと、日本橋まで、夜桜を見にな」
 ト、彫芳、闇に消える。障子、すつと閉まり、舞台、元の昼の明るさに戻る。
平吉 「(ト、茶に手を伸ばし)……それきりでございます」
涼庵 「それで、押込みを」
平吉 「あの男は、日本橋の大店に忍び込み、番頭を縛り上げ、三百両を奪ひました。……ところが、帰り道に、御用。打ち首、獄門」
 ト、涼庵、うつむいて黙して聞く。弥助、息を詰める。
平吉 「(ト、声を落とし)処刑の朝、彫芳は、わしに申しました。『平吉。俺の亡骸は、必ず腑分けにまはしてくれ』と」
涼庵 「(ト、はつとして)何」
平吉 「小塚原に、先生の願ひ出てゐることを、牢内で聞いたそうで。『あの蘭方の若先生に、俺の胸を開かせてくれ』。……そして、打ち首の台の上で、最後に、かう呟きました」
 ト、平吉、遠くを見るやうに。
平吉 「『俺の心臓は、あの娘のもとへ行く』」
 ト、静寂。竹本、三味線のみ。
涼庵 「(ト、低く)心臓が、娘のもとへ行く。……妄言だ」
平吉 「へい。妄言でございませう。刑死者の肝や胆は薬になると、昔から申します。山田様のお屋敷では、人胆といふ薬を売つてゐるとか。……まあ、死にゆく男の迷ひ言でございます」
涼庵 「(ト、きびしく)迷信だ。死んだ人間の肉が、生きた人間の病を治すなどと」
平吉 「へい。先生は、さうお思ひで」
 ト、涼庵、平吉をじつと見つめる。
涼庵 「平吉。あの夜、仏の胸に触れたのは、湯灌をしたお前だ」
平吉 「(ト、眉ひとつ動かさず)へい。湯灌は、わしの仕事でございます」
涼庵 「胸の骨が開く前に、血の道の根元に細工をする。そのやうな芸当が、お前の手でできるか」
平吉 「(ト、自分の手を見て)先生。わしの手は、七十の年まで、数え切れぬ仏を扱つてまゐりました。……きれいに切るのは、いささか得手でございます」
弥助 「(ト、あつけにとられ)で、では、平吉さんが」
平吉 「(ト、声を荒げず)弥助さん、さういふ話は、先生の口から聞くものだ。わしの口から言ふものではない」
涼庵 「(ト、立ち上がり)では、聞かう。平吉、心の臓は、いま、どこにある」
平吉 「(ト、立ち上がり、笠を持ち)先生。もし、わしが仮に、あの心の臓の行方を知つてゐるとして。……先生は、お上に訴へなさいますか」
 ト、涼庵、答へず。平吉、静かに笑ふ。
平吉 「お答へがなくば、それで結構。……深川、蛤町の裏長屋。お雪といふ娘が、桐の箱の前で、待つてをります。ただし、先生。行かれるなら、メスは、お置きなさいまし」
涼庵 「(ト、低く)メスを置けとは、どういふ意味だ」
平吉 「(ト、背を向け)人の胸を開く道具は、人の胸の前では、無力になることもございます。……ごめん下さいまし」
 ト、平吉、笠をかぶり、下手へ去る。涼庵、立ちつくす。
弥助 「(ト、おずおずと)先生。そ、それと、もうひとつ。……この三日ほど、塾の前を、若い男が行つたり来たり。手の指先が、藍だか墨だかで、真つ青に染まつてゐるのです」
涼庵 「(ト、はつとして)指先が、青い」
弥助 「へい。声をかけると、逃げてゆきました」
 ト、涼庵、懐のメスを握り、しばし考へる。
涼庵 「(ト、独り言)刺青師の指は、針の墨で染まる。……弥助、羽織を」
弥助 「は、はい。どちらへ」
涼庵 「深川だ」
 ト、涼庵、メスを懐に忍ばせ、羽織を肩にかけて、大股に花道へ。弥助、慌てて後を追ふ。竹本、

竹本 〽死んだ肉体 動かずと 固く信じた 若き医師 懐に呑む 銀のメス 向かふは深川 蛤町

 ト、柝の頭。幕、閉まる。


 大詰 第一場 深川蛤町お雪長屋の場

 時 同夜、五つ過ぎ
 所 江戸、深川、蛤町の裏長屋

 ト、幕明く。大道具、貧しき裏長屋の一間。上手に薄い夜具、お雪、臥してゐる。下手に粗末な仏壇、その前に小さな桐の箱。正面に障子、外は暗き路地。行灯ひとつ、ほのかに灯る。ト、冬近き風の音、遠くに夜回りの拍子木。
 ト、彫吉、お雪の枕もとにて、濡れ手拭ひを絞り、額に当ててゐる。指先は藍に染まつてゐる。
お雪 「(ト、弱々しく)彫吉さん。……今夜も、すまないねえ」
彫吉 「何を仰います、姐さん。親方の、いや、芳さんの大事な人は、おれにとつても大事な人だ」
お雪 「(ト、桐の箱の方を見やり)あの人は、あの箱の中に、ゐるのかしら」
彫吉 「(ト、ぎくりとし)姐さん」
お雪 「わたしはね、怖くないの。……あの人が、芳さんが、牢から便りをくれたの。『俺が死んだら、俺の心臓は、お前のもとへ行く。食ふのではない。枕もとに置いて、俺の拍を聞いてくれ』と」
彫吉 「(ト、目を拭ひ)姐さん。もう、お休みなさい」
 ト、お雪、胸を押さへて、苦しげに咳き込む。彫吉、背をさする。そのとき、障子の外に人の足音。
彫吉 「(ト、はつと振り向き)誰だ」
 ト、障子がすつと開く。涼庵、羽織姿、静かに立つ。懐に手を入れてゐる。
涼庵 「夜分、失礼する。佐伯涼庵と申す者。この家に、お雪といふ娘が居ると聞いて来た」
彫吉 「(ト、立ちふさがり)なんだ、てめえは。ここは病人の家だ。帰れ」
涼庵 「病人なればこそだ。……その手を見せよ」
彫吉 「手だと」
 ト、涼庵、彫吉の右手をむんずと取り、行灯の光に向ける。指先は、藍と墨とで青く染まつてゐる。
涼庵 「刺青の針の墨。何年彫つても、指先から色が抜けぬ。……小塚原の小屋の破れ障子の外で、あの夜、風雨に打たれてゐたのは、お前だな」
彫吉 「(ト、手を振りほどき)知らねえ。おれは何も」
お雪 「(ト、かすれた声にて)彫吉さん。……いいの。お通しして」
彫吉 「姐さん」
お雪 「先生は、あの夜の、お医者様でございませう。……お待ち申してをりました」
 ト、彫吉、悔しげに身を引く。涼庵、枕もとに膝をつく。
涼庵 「お雪殿か。……わたしは蘭方医だ。まづ、病を診る。手首を」
お雪 「(ト、驚き)は、はい」
 ト、涼庵、お雪の手首を取り、脈を診る。眉をひそめ、しばし黙す。
 ト、涼庵、ふとお雪の襟もとに目を留める。左の胸の上に、藍の針で打つた、小さな一つの点。
涼庵 「(ト、低く)この点は」
お雪 「(ト、そつと襟を押さへ)芳さんが、彫つてくれました。針の先でたつた一つ、痛くないやうに。『ここが、俺の心臓の置き所だ。俺が居なくなつたら、ここへ帰る』と」
涼庵 「(ト、無言にて視線を落とし)……脈が、とぎれる。ひとつ打つて、間をあけて、またひとつ。胸は、いつから」
お雪 「生まれつきでございます。走ると、息が、苦しくなつて」
涼庵 「(ト、低く)心の臓の、戸が傷んでゐる。蘭書にも、これを癒す法は、記されてゐない」
 ト、涼庵、手を離す。お雪、静かに微笑む。
お雪 「やつぱり。……お医者様は、皆さん、さう仰います」
涼庵 「治る、とは言へぬ。だが、冬を越すことは叶はぬ、とも言はぬ。……それより、お雪殿。あの桐の箱の中身を、見せていただきたい」
 ト、彫吉、思はず桐の箱を庇ふやうに前へ出る。
彫吉 「ならねえ。あれは、芳さんの」
涼庵 「彫吉、といふか。あの夜の暗闇を、わたしは解いた。順に語らう。違ふところあらば、言へ」
 ト、涼庵、立ち上がり、座敷の中央に進む。
涼庵 「問ふ。彫芳は獄中より、平吉に何を頼んだ」
彫吉 「(ト、観念して)己の亡骸を、先生の腑分けにまはしてくれ、と」
涼庵 「平吉は湯灌のとき、胸の血の道の根元に、前もつて刃を入れ、糸にて結んだ。切り離しやすいやうにだ。その糸の掛け方を教へたのは、お前だな」
彫吉 「へい。針と糸は、おれたちの商売道具で。……親方の言葉を、そのまま平吉さんに伝へました」
涼庵 「当夜、わたしが骨を開き、落雷にて行灯が消えた。闇の中、平吉は、数呼吸のうちに、結んだ血の道を切り、心の臓を取り出した。それを破れ障子の外へ手渡した。……受け取つたのは」
彫吉 「(ト、がつくりと膝をつき)おれでございます。雷の音に紛れて、懐に抱いて、ここまで駆けました」
お雪 「(ト、涙ぐみ)先生。堪忍して下さい。あの人の、たつた一つの願ひでございました」
 ト、涼庵、桐の箱の前に進む。蓋に手をかける。
涼庵 「見よう」
 ト、涼庵、蓋を取る。中に、酒と塩に浸した布に包まれた、ひとつの心の臓。ほのかに血の匂ひ。涼庵、そつと手に取り、しげしげと見る。
涼庵 「(ト、医師の目にて)見事な切り口だ。血の道の結び目も、鮮やかな。……これが、あの男の心の臓か」
 ト、涼庵、心の臓を行灯の光にかざす。
涼庵 「冷たい。固い。……死んだ肉だ。お雪殿、はつきり申す。これを食ふても、病は治らぬ。刑死人の肝や胆が薬になるなど、ただの迷信だ」
お雪 「食べはいたしませぬ。……ただ、枕もとに置いて、あの人の拍を、聞きたいのでございます」
涼庵 「拍だと。(ト、はつきりと)死んだ心の臓は、打たぬ。血を送る袋が、血を失へば、ただの肉塊だ。そこに想ひを読むのは、人の側の錯覚にすぎぬ。……蘭書が、さう記してゐる。わたしも、昨日までそれを疑はなんだ」
 ト、涼庵、心の臓を桐の箱に戻さうとする。そのとき、どこかで、小さく、とく、と鳴る音。
涼庵 「(ト、手を止め)……今、何か」
彫吉 「(ト、顔を上げ)先生、聞こえましたか」
 ト、とく、とく、とく。下座、小鼓、遠く微かに、心の臓の拍の如く。行灯の火、青く揺らぐ。
涼庵 「(ト、愕然と)まさか。この箱から。……いや、風の音だ。いや」
 ト、障子の外、青い燐火、ぼうと浮かぶ。障子に映る人影、阿修羅の刺青を背負つた彫芳の幻影。お雪、はつと身を起こす。
お雪 「(ト、嬉しげに)芳さん」
 ト、涼庵、障子の幻影を、凝然と見る。拍は次第に高まり、涼庵の胸の音と重なる。
涼庵 「(ト、震へる声にて)聞こえる。……誰の拍だ。これは、箱の中の音か。それとも、わが胸の音か」
 ト、涼庵、手の中の心の臓と、己の胸とに、交互に目をやる。
涼庵 「(ト、低く)血を送る袋が、拍を打つのは、血の巡りの故だ。……ならば、この拍は、何の巡りだ。蘭書に、この言葉は記してゐない」
 ト、涼庵、がくりと膝を折り、メスを懐より取り出す。仏壇の前に進み、そつと置く。
涼庵 「(ト、頭を垂れ)彫芳殿。わたしの負けだ。……あなたは、わたしの胸を開かせて、わたし自身の胸を、開いたのだ」
 ト、幻影、障子の向かふにて、静かにうなづく如し。燐火、しだいに消える。拍の音、遠のく。竹本、

竹本 〽理のみに 生きし医師の 胸のうち 開いて見せしは 刺青の 愛の器の 阿修羅かな

 ト、柝の頭。幕、閉まる。


 大詰 第二場 深川堀端夜明けの露の場

 時 それより夜明け
 所 江戸、深川、運河のほとり

 ト、幕明く。大道具、運河の堀端。上手に柳、下手に長屋の路地口。奥は水の面、東の空がほのかに白む。ト、小鳥の声。
 ト、お雪、彫吉に支へられ、路地口より出づ。続いて涼庵、静かに出づ。お雪の頬には、朝の光とともに、うつすらと血の色が戻つてゐる。
お雪 「(ト、朝の空気を吸ひ)まあ。……夜明けの空気が、こんなに、やはらかいなんて」
涼庵 「煎じ薬を、のみ終へたか」
お雪 「はい。先生のお薬を。……胸が、軽うございます」
涼庵 「(ト、きびしく)言つておく。薬は、一時の助けにすぎぬ。治るか、治らぬか、わたしにも分からぬ。……そして、分からぬと言ふことを、わたしは今朝、初めて学んだ」
 ト、涼庵、彫吉に向き直る。
涼庵 「彫吉。心の臓は、仏壇のそばに、そつと据ゑておけ。腐らぬやうに、酒で湿して。……やがて、小塚原に埋め、回向をする」
彫吉 「先生は、お上に」
涼庵 「訴へぬ。ただ、わたしの帳面には、かう記す。『某月某日、刑死人の腑分けの折、心の臓、行方知れず』。……それで十分だ」
 ト、下手より平吉、弥助、出づ。弥助は大あくび、平吉は笠を手に。
弥助 「先生。夜通し探しました。ご無事で」
平吉 「(ト、涼庵のかたはらを見て)先生。メスは、お置きになりましたか」
涼庵 「置いた。……あれは、あの男の供へ物だ」
平吉 「(ト、にやりとし)それは結構。……心の臓を袋と言ふ者が、袋に頭を下げる。江戸も、面白うなりました」
 ト、涼庵、苦笑する。お雪、涼庵に深々と頭を下げる。
お雪 「先生。ありがたう存じます」
涼庵 「礼には及ばぬ。……解き明かしたのは、謎ではない。わたし自身の、浅さだ」
 ト、涼庵、東の空を仰ぐ。朝日がのぼり、運河の水面を黄金に染める。
涼庵 「(ト、独り言のやうに)蘭書に記されぬものが、まだ、この身の内に、あるのだな」
 ト、涼庵、ゆつくりと堀端を歩み出す。弥助、あわてて後に続く。朝日を背に、涼庵の後ろ姿。竹本、

竹本 〽夜明けの露の 玉と散り 胸にひとつの 拍を抱き 蘭方医こそ 歩み行く 江戸の運河の 朝ぼらけ

 ト、お雪、彫吉、平吉、朝日に向かつて見送る。ト、柝の頭。定式幕、ゆつくりと閉まる。

(幕)

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