朝、ボサボサの髪を掻きながら足立浩二は眠気が覚めない中、大きく口を開けてあくびをするとゴミ袋を持ってアパートの玄関を出た。
50メートルくらい先にある地域のゴミ集積所に向かってサンダルをひきずるように歩いた。
若い主婦「おはようございます」
足立「あ、おはようございます」
ゴミを出し終わったばかりの近所の若くてきれいな主婦と挨拶を交わした。若い主婦は風采のあがらない足立にも会うたびに少し微笑みながら挨拶をしてくれる。
軽く会釈をしながら通り過ぎる若い主婦のシャンプーの匂いを足立は目をつむって吸い込んだ。
足立は集積所の金網のカゴの中に自分のゴミ袋を置くとそのまま引き返した。
すると足立が住むアパートの隣家の男性が門を閉めているところだった。60才くらいでスーツ姿の男性はその家の主人で大学教授だった。頭髪はほぼ白く少し薄くなってきているが、背が高くダンディーな感じで、足立を見ると穏やかな笑みを浮かべた。
教授「おはようございます」
足立「お、おはようございます」
教授「お元気ですか?」
足立「は、はい、なんとか」
教授「ではまた」
足立「い、いってらっしゃい」
緊張しながら受け答えをした足立はスマートに歩く教授の背中に向かって頭を下げた。
と同時に自分がトランクスしか履いていないことに気づいた。
(えぇ⁉)
上は白のトレーナーを着ている。下もトレーナーを履いている、はずだった。
足立は目を見開いて青ざめると慌てて部屋の玄関に飛び込んだ。
(しまった!夜中に暑くて脱いだのを忘れていた‼やっちっまったぁ・・・)
玄関ドアに背中をもたせながら力が抜けたようにしゃがみこんだ。
(・・・ああ、どうしよう・・・ん?)
足立は頭を上げた。
(あれ?あの若い主婦、普段通りだったよな?隣の教授も確かにオレのトランクスを見たはずだけど、いつもと同じだったよな?なんでだ?気づいてなかったのか?それとも今どきはその程度では騒がないか?いやいや、今だからこそ騒ぎそうなもんだよな・・・)
不思議に思った足立は次のゴミ出しの日にまたトレーナーとトランクス姿でゴミ出しに行った。
また若い主婦と大学教授に出会ったが2人とも前回と同じような挨拶をした。
(どういうわけだ?これはありなのか?それともオレなんか眼中にないってことなのか?)
足立は次のゴミ出しの日に白のランニングシャツとトランクスだけで行ってみたがやっぱり若い主婦と大学教授は同じ挨拶した。
試しにランニングシャツとブリーフで行ってもみたが結果は同じだったので、次はブリーフ1枚だけで行ってみたがやはり同じだった。
(うーん、おかしいなぁ)
足立は訳がわからなかった。
(さすがに通報されてもよさそうなもんだけどな・・・)
よしそれなら、と足立は次のゴミ出しにはブリーフも履かずに行ってみた。全裸だ。
(もしかするとあの2人がヘンなのかもしれない)
と思い、時間帯を変えてみた。
さすがに恐る恐る玄関を出た。サンダルも履かなかった。
歩きながらなんとなくゴミ袋で前の方を隠した。
向こうから東南アジア系の家族が歩いてきた。足立と同じくらいの年の夫婦と8才くらいの男の子で、時々見かけた。妻の方は宗教上の理由からか、頭に黒の布をかぶっている。
3人はクリクリっとした目を足立に向けて小さな会釈をして通り過ぎた。
(おかしい・・・どうしてなにも起こらないんだ?)
足立はゴミを出し終えて戻ろうとすると近所の60才を過ぎたくらいの主婦に会った。
足立は喜んだ。この主婦は足立がこの町内に引っ越してきてからずっと足立を胡散臭げに見て、1度も挨拶をしたことがない。だから、全裸の足立を見れば必要以上に大騒ぎをするに違いないと思ったのだったが、主婦はいつものように目を三角にして足立をちらっと見ただけで通りすぎただけだった。
(わからん・・・なんでだ?なんで誰も騒がない?なんで通報してくれないんだ?・・・)
その日から足立はゴミ出しは全裸で行くことが普通になった。
4回目のゴミ出しをしたあとアパートに戻ろうとしたとき2台のスクーターが遠くから足立の方に向かってくるのが見えた。2人ともヘルメットと紺色のベストを着用している。
(やった!派出所の警察官だ!やったぞ!ようやく誰かが通報してくれたんだ!)
足立は満面の笑みで2台のスクーターが来るのを待った。少し足をガニ股に開いた。
スクーターはブーと乾いた音をたてて足立の横を通りすぎた。足立を見向きもしなかった。
(え⁉)
足立は2人の警察官の背中に声をかけようとしたが背中はどんどん遠くなる。
(なんでだ?オレの姿が見えないのか?)
しばらくするとスクーターが戻ってくるのが見えた。
(そうだろそうだろ!)
足立は再び顔をほころばせた。
2台のスクーターは足立の前に来ると止まった。2人の警察官はいかめしい顔をして降りてきた。
警察官A「すみません」
足立「はいっ、なんでしょう!」
警察官A「今朝方このあたりで猫が逃げたっていう通報があったんですけど、どの家かご存じありませんか?」
足立「・・・、は?」
警察官B「白のスコティッシュなんとかっていう種類の猫らしいんですが」
足立「・・・いえ、知りませんけど」
警察官A「そうですか、わかりました、ご協力ありがとうございます」
笑顔でそう言うと2台のスクーターは走り去った。
後ろ姿を呆然と見送っていた足立は、はぁ~っ、と息をつくとトボトボとアパートに帰った。
(裸で外に出るようになって今日で1ヶ月、どうして誰も騒がないんだ?なんでいつものように挨拶をするんだ?オレはスコティッシュなんとか以下なのか?)
足立は憂鬱な気分のまま上下のトレーナーとパンツを脱ぐとゴミ出しに行った。最近では全裸で外に行くことに迷いがなくなっていた。
てくてく歩きながらいつも通り近所の住民と普通に朝の挨拶をするとカゴにゴミ袋を置いた。その時カゴの中で8の字を描いて飛んでいた数匹の小バエのうちの1匹が足立の口の中に入ってきた。
「うえっ」
と声をあげて、ぺっ、と道路に小バエが混ざったツバを吐き出した。すると、
「ギャー‼」
と叫び声が聞こえた。
足立が声がする方を見ると、いつも足立を胡散臭げに見る60過ぎの主婦が、恐怖で開かれた目をして、口を両手で覆って足立を見ていた。体が震えているのがわかった。
叫び声で近所中の住民たちがぞくぞくと出てきた。60過ぎの主婦が足立を指さしながら周りの住民たちになにかを訴えているのがわかった。住民の中にはあの若くてきれいな主婦もいて、足立を見ると目をつむって顔をそむけ自宅の方に足早に去るのが見えた。ダンディーな大学教授は門に手をかけてじっと睨んでいる。東南アジア系の家族の妻は夫の胸に顔をうずめ、夫は妻の肩を抱きながら怒りと憐れみの目で足立を見ていた。地域全体が不穏な空気に包まれているようだった。
(これだよ、これ!とうとうわかってくれたか!そうです、そうなんです、けっこう遅かったけど、これでいいんです!)
足立の心は喜びに満ちあふれていた。じーんとして少し涙さえ出てきた。
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。誰かが通報したのだ。
辺りは野次馬がどんどん増えだし騒然となった。
サイレンはやかましく鳴り響き、1台ではないようだった。少なくても3台はいるようだった。結局5台のパトカーがやって来て、足立を囲むようにして止まった。
(やったよ、親父、おふくろ、喜んでくれ!オレはとうとうやったよ!生んでくれてありがとう‼)
各パトカーから2人ずつの警察官が素早く降りてきて足立を取り囲んだ。
10人の警察官の中で、大柄で1番貫禄がある警察官が足立の前に進み出てきた。
貫禄がある警察官「こちらの住民の方から通報があったんですが」
足立「はい!」
貫禄がある警察官「あなたが道にツバを吐いたんですか?」
足立「へ⁉」
貫禄がある警察官「君が、ツバを吐いたっていう通報があったんだよ」
足立「いや、あの・・・」
貫禄がある警察官「あんたがツバを吐いたのか?」
足立「そ、それは小バエが口の中に・・」
貫禄がある警察官「お前がやったんだな?」
足立「そうですけど、小バエが」
貫禄がある警察官「逮捕だ」
貫禄がある警察官がそう言うと近くにいた若い警察官が足立に荒っぽく手錠をかけた。
そのまま足立は頭を押さえられながらパトカーに押し込まれた。
足立を乗せたパトカーはゆっくりと動き出した。足立を見ようとする住民たちを数人の警察官たちが制していた。怒号が飛び交う中、スマホのシャッター音があちこちで鳴り、フラッシュがたかれた。
全裸で座っている足立はぼんやりとしながらつぶやいた。
「一応、法律はあるんだな」
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