過去と未来が交錯する場所。確かさっきまで隣で愛奈はいたはず、右手は彼女を求めていた。
「起きたか、小僧」
目の前には赤い顔をした大男がこちらを見つめている。
「あ、いた…。なんだよここ」
大男は嬉しそうに目を細めた。
「どこだかわからないのか。小僧よ。わしもわからないのか」
頭がずきんとするが、さっきまでの空腹感はない。
「ここは三途の川のほとり。お前の隣で倒れた女子は天国に連れていかれたんだ」
狛利はひどくうろたえた。
「まじか、どうしたらいいんだ、おっさん」
目の前に分厚い書類が置かれる。
「物おじしない性格、わしは気に入った。お前に本日から試練を与える。うまくいけば彼女とやり直せるぞ。いいな?」
「おっさん、もしかして」
「口を慎みなさい。この方をだれと心得るのですか」
「ミトラ、じきにわかる日が来る。」
ミトラという若い女の子がわなわなしている。狛利は内心
ーほー、孫と祖父って関係か。しかもじじいの方はえらいやつだなー
と書類をしげしげと見つめていた。
「閻魔大王か?」
「口を慎みなさい。様を付けないとどんな目に…」
閻魔大王はすぐさま狛利のもとに駆け寄り
「お前の過去を見てきた。随分とひどい目にあったんだな…どれわしがつらい記憶を消し去ってやろうか」
狛利は抵抗した。
「いやだ、やめてくれ。それって愛奈を忘れることにもなるんだろ、意味がない」
ミトラは眼鏡の奥を光らせて眺めていた。
「それでこそ門番見習い。これから49日間の間にこの法律全て暗記し、この用紙に訂正部分を全て書き記せ。いいな?最後のチャンスを与えたぞ、狛利」
狛利は圧倒されながらもうなづいた。
「ミトラ、この人間は全ての感情を理解している。見た目はアレだがお前を成長させる」
閻魔大王はそう言い残し大きな柱の方へと向かっていった。
「法律、ねえ」
「狛利さま、わからないことはすぐこのミトラに聞いてくださいませ」
「様付けしなくていいよ、面倒だろ。この世の中上下関係のせいでどんだけ人が苦しい思いをしたか俺にはわかるんだ、な、ミトラ。赤ペンと黒ペンあるか?」
ミトラは何を言っているのかわからないけど、仕事をする気になっている目の前の人物の目の奥に希望の光がさしているのをはっきりと見、ポケットから赤ペンと黒ペンを差し出した。
「今から30分測ってくれ。俺は変な部分全部赤で囲む」
「水時計の指し示す方角を見ておきます。では30分後戻ってきますから」
そういうと姿を消した。
「人に見張られるのやだもんなー…」
と言いながら古い拷問のところを赤丸し、訂正に入る。時々ありえない語句もあったので黒丸で囲み始めた。
20分が過ぎようとしたところ、目の前がなびいた。何かの気配がしている。
狛利にはその匂いがいとおしく感じた。
「…愛奈、なのか…ああ、やっぱり君だな…」
突風が狛利を優しく包み、西の方角へ去っていった。
ミトラはちょうどその様子を見ていた。
「死してなお…お二人は…」
「ミトラ…お前にはゆくゆくわしの後を担ってもらうが、足りないものがあるんだ」
ミトラが後ろを振り返ると閻魔大王は優しくほほ笑んだ。
「101人の孫の中でなぜ私を?」
「お前が一番かわいいからだな。他は欲望まみれだ」
「…ではなぜ?」
「しっ…何が足りないかって柔軟さだ。戒律はいつか破られる。ここんとこ下界は大変だな?」
ミトラは次々と起きる自然災害や戦災を水鏡の向こうで苦しむ民の姿を目撃し無言になった。
「30分経ちます…おじい様、どうか私を見守っていてください。」
「言われなくともそのつもりじゃ、な、またなミトラ」
煩悩の中には希望だってかすかに残されている。ミトラは信じたかった。しかし狛利を目の前にそれを言うのはあまりにむごいのではないか、と躊躇しつつ狛利の肩をポンと叩いた。
「随分と…お勤めになられて」
「ミトラ…か。約束は果たしたぞ。それ清書してもらえないか」
ミトラは頼られることの喜びをかみしめながら会釈をする。
「狛利…さま、少しお休みください。」
と机に向かうも狛利は寝息を立てていた。
ミトラは少し寝かせておこうと思い赤丸印のところを読み始めた。
「拷問…八つ裂き。たしかに古い…」
一方の狛利は真っ白な柱の陰で誰かが手招きする夢を見ていた。
「愛奈?…僕だよ…」
マスケラを外すと愛奈だった。たまらず愛奈は狛利を腕いっぱい引き寄せた。
「さみしかった…会いたかった…なんで…なんで」
「まあ、そういうなよ…僕だって会いたかったよ。もう少しの辛抱だからさ」
「…やっぱりあなたなのね…噂はかねがね…」
女の顔色はころころ変わるが愛奈はやっぱり可愛い。狛利はそう思った。
「な、なんだよ。もったいぶって」
「若い男が戒律を変えようとしているって」
「変な男よりはましだな」
「昔のことはもう思い出したくないわ…」
「愛奈、それは僕のことも忘れたいってことになるぞ」
「…ちが…」
春一番が二人を包んだ。愛奈は狛利の胸の中で泣いていた。
「さっき風が吹いたのって」
「そうよ、私よ」
「そうか…嬉しいな、夢の中でこうして君といつまでもいたいな」
「だーめ。お仕事しなさい」
愛奈が目に涙を浮かべて狛利のおでこにキスをした。
狛利は目を覚ました。
「今何時だ?」
「狛利様、慌てなくてもまだ30分しか経っておりません。泣いたり笑ったりうなされておいででしたよ。…ミトラも心配です」
「48日と23時間…厄介だな、この感情は」
「散歩して気分転換されてはいかがでしょうか。ミトラはまだ清書が済んでおりません」
「どこまでならいい?」
ミトラは指さした。
「あの黒い柱までなら」
「わかった。戻ってくるよ」
狛利は虹色の空の向こう側が天国なのだと確信した。
「やむを得ず…こっちに来た場合、どうすんだ…」
黒いTシャツは翻り、垢鬼と青鬼がこちらに気づいた。
「若造、またきたのか」
「よ、お二人さん。ここは何なの?」
青鬼は赤鬼と目を見合わせた。
「忘却の湖だ。罪人はここでまず100日間歩き回るんだ」
「…そうだ、兄者。この金棒で時折寝ている奴を起こすんだよな」
「然様。お前はここに来る前になぜか閻魔大王様に運ばれていったんだ」
「…ふーん。俺以外誰か例外っているわけ?」
「駆け落ち失敗したやつがほとんどだな、後は心中図った親のほうだな」
「兄者、もうそれ以上は…」
「仕方ないであろう。ここのところ俺も寝ていない」
あくびをしながら見張り番をしていることが分かった。
「…わかった…ありがと…これでも舐めてな」
狛利はカンロ飴を二人に手渡し、踵を返した。
青鬼と赤鬼の兄弟はカンロ飴をなめながら
「これってわいろっすかねー」
「差し入れか謝礼だろ、馬鹿いえ」
と半ばじゃれあっていた。
腐敗していく世の中、飢餓に見舞われ亡骸から離れようとしない幼子。
閻魔大王は狛利を呼びつけた。
「今日一日、やってみるか。その間にわしはミトラから手渡された書類に目を通す」
「ん。」
一日に猶予が付くのか狛利にはわからないまま、最初に来た少年を見た。
少年は泣きながらすがりついた。
「閻魔のお兄ちゃん、僕は死んじゃいけなかったんだ。お父さんがずっと泣いてるんだ」
閻魔大王に手渡れた杖を少年にかざした。
ずっと動かない息子を抱いて離れようとはしない父親らしき姿があった。
「サッカーボール追っかけてこうなったわけ?」
少年は目に大粒の涙を浮かべ深くうなづいた。
「チャンスは一度きり。次来るのは100年後。どんなに苦しくてもリハビリしな」
「…え?100年?」
「やっと笑ったな。じゃ、会うことはないだろうけど行け」
光を包む少年。水鏡の向こうでは二人が泣きながら抱き合っていた。
「…この仕事も悪くはねえな」
次はだれだろうかと思っていたが、来たのは小さな赤ん坊だったのでコウノトリのゆりかごに移すことにした。
後ろから気配がするので振り返るとミトラと閻魔大王が立っていた。
「気配消すのやめてくんねえかな」
「仕方なかろう。こうでもしないと見張られてる気がするんだろ」
「ミトラは大変感心しております。この体験も立派なお仕事なのです。猶予も伸びますよ」
「あのさー。下界で俺の体腐っていくわけなんだよ、どれくらいたってるんだよ」
「ああ、ご存じないのですね、ほんの数秒しか経っておりませんよ」
ミトラは虫まみれになる本体のことはあえて伏せた。
「キトラが時折下界を見て回っております。ゆえに腐敗する前にお仕事を終わらせましょう」
「…キトラ?」
「私の分身です。あと100ページ、訂正したら愛奈さんと下界に戻れます」
そのころ愛奈は必死に逃げ回っていた。
「待ちなさい。僕を忘れましたか」
「レイン、お前なんか大嫌いよ、放しなさい」
「愛奈、こんなに愛していたのに変な男とこんなところまで…」
雷がとどろいている。閻魔大王は何かを思い出したかのように狛利に告げた。
「昨日な、わしのところに血まみれの青年が来たんだ。とりあえず天国へ案内したんだけど」
「は?」
「気のせいじゃよな。強盗にやられたくらいで地獄に落とせんからな」
「あと95ページ修正してんだよ、頼むから煩わしいことは言わないでくれよ」
「すまんな、お前も変わったな」
「俺は何も変わってないよ」
そのころ天国では異変が起きていた。
「これから私はここを統べることにしました」
「独裁者め」
「…牢屋へぶちこめ…」
天国の住民の半数が牢獄に閉じ込められていた。
愛奈も牢屋の中で泣いていた。
「だれ、騒いでやるわ」
「お静かに。愛奈様。わしらは娘を下界に置いてきた民です。お逃げください」
「天国は崩壊寸前です。あなたが娘のように見えてならんのです」
「…じゃあ、三途の川までお願いね」
「もちろん。あとはみんなで暴動を起こします」
そのころ、ミトラは風向きが変わったのを肌で感じていた。
「風使い…キトラよ天国へ戻れ」
「愛奈…どこにいるのです」
レインは探し回ったがそこにいるのはキトラだった。
「キトラ、あなただけが頼りです。ここまでついてきてくれたのはキトラだけです」
「頼るだと?笑止千万」
キトラの白い肌が青く変色した。
「キトラ…あなたまで僕を…」
「レイン、貴様に通告する。今から忘却の湖へと連行しよう。500日間飲み食いせず歩くのだ。悪夢さえも愛おしく思えるであろう。」
「…僕をだれと心得ますか。他愛のないことを」
青鬼と赤鬼はレインの両脇を抱え忘却の湖の真ん中へ突き落した。
「カンロ飴くれたら見逃してやってもいいけどね」
「わいろですよ、兄者」
二人の高笑いがこだまする。
愛奈は三途の川のほとりでマスケラを外した。
「…狛利…」
ミトラはそのころ、閻魔大王と何やら話し合っていた。
狛利は見直しに取り組んでいると、ミトラは精一杯の笑顔を向けてやってくる。
「狛利様、お別れの時間です。今すぐ三途の川に向かいましょう」
「いいの?あなたがたはここに来るべき人間ではない。さ、愛奈様と手をつないで」
閻魔大王の杖で大きな円を描く。
「ミトラ、ありがとな」
「いいから早く」
強風が吹き荒れる中、二人は抱き合って落ちて行った。
「ミトラ…これから忙しくなるぞ」
「おじい様」
晴れ渡る青空。空腹感でいっぱいの愛奈は狛利をたたき起こす。
「起きて。…あの丘超えたら知らない町よ」
「さっきまでのは夢だったかな」
「そうでもないわよ、太陽がこっちを見ているわ」
農家のおじいちゃんが慌ててこちらへ向かう。
「えんま…ああ、人違いでしたね」
「どうしたんな?行き倒れか?」
「はい」
「住み込みでよかったらくるか?人手が足りんのんじゃ」
小型トラックが揺れる。おいしいおにぎりをほおばる二人。
「震災で息子夫婦がなくなってなあ…」
涙ぐむおじいちゃん。
「僕らでよければ近くに住みますよ」
「…空き家があるから案内するわ」
ラジオはお昼の放送が流れていた。
荒れた天気は良くなっていくと。
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