トラベラー SF

冒険家・上川たちは、月着陸に挑戦していた。月面で金属鉱脈を発見し、探査していると月面が沈下して崩れてしまった。死にかけた上川たちは、そこで金属質増殖細胞体・トラベラーに救われた。生命体なのか機械なのか曖昧なトラベラー。光速以上で移動ができ、その使命は人間のサンプル・リターンなどであった。上川たちは、選択の余地がなかったが、新たな人生が始まった。
中野剛 33 0 0 04/10
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第一稿

登場人物:上川 圭
     一倉陽菜
     トラベラー

●1.宇宙空間
  太陽光を受けながら進む『ネオかぐや』号。
  アポロ宇宙船より少し長い船体にはスポン ...続きを読む
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登場人物:上川 圭
     一倉陽菜
     トラベラー

●1.宇宙空間
  太陽光を受けながら進む『ネオかぐや』号。
  アポロ宇宙船より少し長い船体にはスポンサー企業名が付されている。
  企業名は簡体字、アルファベット、カタカナで書かれている。
  
●2.ネオかぐや号の船内
  船内の内壁にはモニター画面がある。
  上川は画面の前で浮遊している。
上川「アイカ、2日後の着陸シミュレーションをもう一回やろう」
アイカ「これで3回目です。それよりも筋トレの時間です」
上川「小姑のようなAIだな」
アイカ「その比喩は適切ではないようです。カルシウム分の流出を抑えるために…」
上川「わかった、わかった。筋トレをやるよ」

●3.ネオかぐや号の船内
  上川は筋トレを終えて、モニター画面の前に戻ってくる。
  カメラを調整している一倉。
一倉「だいたいさぁ、冒険家って一人で挑戦しない」
上川「今風の冒険スタイルは、これなんだよ。こうしないとスポンサーがつかないんだ」
一倉「そんなもんなの、でも夫婦で冒険にチャレンジするなんて聞いたことがない」
上川「今、夫婦って言わなかったか」
一倉「言ったかしら。この冒険に成功したら結婚する約束よね」
上川「そうだけど、ここまで一緒に来たんだから、文句言わずに船内生活をレポートしてくれ」
一倉「この冒険を失敗させたら破談ね」
上川「おいおい、そんな気なのか」
アイカ「上川船長、まもなく地球との交信をオンにする時間です」
上川「最初はどこのテレビ局の中継だ」
アイカ「最初はTBS朝日テレビ、次に日本フジ東京テレビ、最後にNHKです」
上川「地上波テレビだからキー局3社で済むか。後はネット配信関係だな」
アイカ「ネット大手10社は明日の予定になっています」

●4.ネオかぐや号の船内
  一倉はカメラを持って浮遊している。
一倉「このように我々は、船内で用を足しているわけです」
  汚物を吸引する便器にカメラを向けてレポートしている一倉。
中継の声「それはそうと一倉さん、宇宙ってメイクののりは良いんですか」
一倉「乾燥しているので保湿分を多くしないとのりが悪いです」
中継の声「無重力でお薦めのヘアスタイルはなんですか」
一倉「ありきたりですが、まずポニーテールですかね」
中継の声「船内ウェアの着こなしで気を付けている点はどこですか」
上川「あのぉ、月に関しては質問はないんですか」
中継の声「これらは視聴者からお寄せいただいた質問なんですけど」
上川「他にないんですか」
中継の声「そうですね、月には何色のパラシュートで降りるのですか」
上川「ええっ、空気はないんですよ」
中継の声「あっ、忘れてましたぁ」
  中継は一瞬気まずい雰囲気になる。
一倉「引き続き、ネオかぐやの船主部分をご紹介します」
  一倉はカメラを持って移動する。

●5.ネオかぐや号の船内
  一倉はカメラをUSBソケットから外している。
一倉「局アナとかあの人たちって、可愛い子ぶってバカを演じているのかしらね」
上川「そんなところだろう。日本のマスコミよりもアメリカや中国のマスコミを優先させた方が
 良さそうだな」
一倉「NHKもあれじゃね」
上川「全然、冒険家の有人月着陸なんて興味がないんだろう。だから日本の企業よりも中国やア
 メリカの企業が数多くスポンサーになってくれたんだな」
一倉「でもネオかぐやグッズは売れているそうよ」
上川「グッズか。こんな日本の状況では、宇宙立国はほど遠いな」

●6.ネオかぐや号の船内
  一倉がカメラを持って浮遊している。
中継の声「アポロ13号のようなことが起こっても自動で対処できるわけですか」
一倉「はい。コンピューターが格段に進歩していますから。さすがに右肩上がりの東京サイバー
 TVさんは、言うことが違いますね」
中継の声「ところで上川船長、これは一昔前までは考えられない規模の冒険ですよね」
上川「私がこの冒険を始めよう思い立ったきっかけは、日本の宇宙開発機構がいつまで経っても
 独自の有人探査 をやらないことにありました」
中継の声「それは予算が足りないのと、一回でも失敗すると野党の追及が激化するので、やらな
 いんだと思いますが、その点はどうお考えなのですか」
上川「私は、この冒険に成功したら、政界に打って出ようと思っています。周辺国の驚異にさら
 されている今、どこに配慮する必要がありますか。極東で核を持っていないのは日本だけです
 よ。再び核の惨禍を招かないためにも日本独自の核兵器保有を目指すべきです。そうすれば
 自力の核の傘ができ、米軍駐留の必要もなくなり沖縄の基地問題もなくなります。自衛隊は
 自衛軍として…」
一倉「あのぉ、上川さんのお考えはわかるのですが、今日は月の冒険に関しての番組なので」
上川「あぁ、これは脱線しました」
一倉「船長は、誇大妄想癖がありまして、失礼しました。それでは引き続き空気浄化装置をお見
 せします」

●7.ネオかぐや号の船内
  上川と一倉はモニター画面に映し出された日本のニュース画像を見ている。
  手には宇宙食のチューブを手にしている。
上川「東京は今年最高の43℃だってさ」
一倉「皆、暑そうにしているわね」
上川「しかしこの船内も空調を切ったらプラスもマイナスも凄いことになるだろうな」
一倉「アイカがコントロールしているから大丈夫よ。ところでアイカってなんの略なの」
上川「アイカは、Artificial Intelligence Communication of Automaticの略だけど、日本語にすれば
 自動コミュニケーション人工知能って言ったところかな」
一倉「女性の名前みたいだけど、そんな意味があったの。でもこじ付けっぽくない」
上川「だから会話が成立するんだよ。なっ、アイカ」
アイカ「上川船長、後2分35秒後に月の周回軌道に入ります」
上川「もうそんな所まで来ていたのか。俺らがすることはないのか」
アイカ「私が制御していますので、何もする必要がありません」
  一倉はスピーカーボックスを見つめている。
一倉「あのスピーカーの中に入っている気がしてならないんだけど、アイカの本体は機械室にあ
 るのよね」
アイカ「はい。しかしこのネオかぐや号全体が私と認識して構わないと思います」
  一倉はチューブをすすっている。

●8.月の軌道上
  ネオかぐや号は、月の裏側に入って行く。地球の姿は見えなくなる。

●9.ネオかぐや号の船内
  モニター画面を見ている上川と一倉。
一倉「これが地球から見えない月面ね」
上川「こちら側に今回の着陸ポイントがあるはずだが…、アイカ、ポイントマーカーは消したの
 か」
アイカ「地球で得た月面図と若干違いがあるようです。再度安全に着陸できるかサーチしてい
 ます」
上川「変化したかな、1年前に中国の有人船が撮影し公開したものだぞ」
アイカ「分析不能な領域が月面下にあります」
上川「それじゃ、他の着陸候補地点に切り替えるか」
一倉「でも、第一候補のここじゃないと、レアメタルの鉱脈はないんでしょう」
上川「スポンサーの契約金が減ることになるが、分析不能な領域じゃな」
アイカ「特殊な鉱脈がある可能性があります。新しい元素の発見につながる可能性もあります」
一倉「もしかしたら、特別ボーナスになるんじゃないの」
上川「月面踏破の上に新しい元素の発見か。地球に凱旋したら一躍全世界の注目を集めることに
 なるのか。夢が広がるな。陽菜、世界中のリゾート地に別荘が持て、その土地の最高の季節
 に滞在しよう」
一倉「また動き出したわ。誇大妄想の虫が」

●10.月着陸船内
  宇宙服を着て座っている上川。
上川「これより着陸船を切り離す。陽菜、アイカ行って来るな」  
陽菜の無線の声「無理しないでね」
  上川は操縦パネルの切り離しボタンを押す。

●11.月の軌道上
  ネオかぐや号は着陸船と軌道船に分離する。
  切り離された着陸船は、姿勢制御ロケットを噴射しながら月面に向かう。

●12.月着陸船内
  上川は、船内カメラを意識しながら、着陸レバーを操作している。
  着陸船のモニターには、月面の映像が映っている。
  画面上の白い+印に赤い+印が重なりかけるが、少し降下するとわずかにズレる。
  上川は、慎重にレバーを操作する。
  画面の端には『月面高50センチ』と表示されている。
  白い+印と赤い+印はほぼ一致している。
  着陸船はふわりと月面に着陸する。
上川「着陸したぞ」
  宇宙服のスピーカーから一倉の歓声が聞こえる。

●13.月面着陸地点
  着陸脚も含めて高さ5メートル程の着陸船の下部にあるハッチが開く。
  宇宙服姿の上川は、簡易タラップを降りていく。
  月面に降り立つと宇宙服のブーツの底から薄っすらと月面の砂粒が舞い上がる。
  上川は自撮り棒についたカメラに向かって片手を振る。
  その後周囲を撮影する。

●14.月面着陸地点
  宇宙服姿の上川は、折り畳みのポール伸ばし日章旗を立てる。
  日章旗に敬礼している姿は、着陸船の船外固定カメラが捉えている。
  上川は小さなスコップで月面を掘り、月の石を採取する。

●15.月面着陸地点
  折り畳み椅子に座り周囲を眺めている上川。
  宇宙服の袖口の時計を見てから立ち上がる。
  観測機器ユニットを設置し、ソーラーパネルを広げる。
  
●16.月面着陸地点から少し離れたクレーターの縁付近
  上川の宇宙服のフェイスプレートには、遠く小さく見える着陸船が見える。
  上川は資源探査センサーを月面に向けている。
  クレーターの底に向けたセンサーは、レベル表示LEDが『最大』を示している。

●17.クレーターの底
  上川はクレーター底をふわふわしながら歩く。
  宇宙服のブーツが月面に触れるが、そのままズブズブとめり込んでいく。
  再度、浮き上がろうと踏ん張ると、さらに沈んでいく。
  上川は、ゆっくりと月面の砂埃の中に吸い込まれていく。
  周りの砂埃がどんどん落ちていき、クレーターの真ん中辺りに大きな穴があく。
  上川は5メートル程、落ちた所で堅い物質に足がつく。

●18.穴の中
  5メートルほど上に月表面が見える。
  砂埃は堅い物質と穴の側面との間に落ちきっている。
  金属質の堅い物質の上に上川はうずくまっている。
  上川はジャンプするが月表面スレスレの所まで飛び上がると、ゆっくりと落ちていく。
  上川は金属質の堅い物質の滑らかな側面に沿って滑りどんどん落ちていく。
  どこもつかまる所がなく、滑り落ち続け、穴の暗がりまで落ちて止まる。
  上川は立ち上がるが、ヘルメットの照明を点灯させないと周りが見えない。
  遥か上方に月表面の明かりがある。

●19.穴の底
  穴の底には6~7メートル程の広めの隙間がある。  
  上川は宇宙服の無線アンテナー伸ばす。
上川「これでどうだ。感度が良くなったか」
無線の一倉の声「良く聞こえるけど、そこから出られないの」
上川「アイカは何か良い案が浮かんだか」
無線の一倉の声「思考中だけど、とにかく酸素の消費量を減らすために、極力呼吸は安静にして
 ね」
上川「あぁ、わかった」
無線の一倉の声「なんで、そんなことになったの。もっと慎重に歩くべきだったのよ」
上川「今さら、そんなこと言われてもな」
無線の一倉の声「あたしが、そっち降りていくしか手はなさそうね」
上川「でもな、着陸船を無人で上昇させて再度着陸させるとしたら、3時間はかかるだろう」
無線の一倉の声「宇宙服の酸素は後、どのくらいなの」
上川「2時間半ほどだ」
無線の一倉の声「本来なら5時間は持つはずよね。あぁ、どうしよう」
上川「ここに落ちる際に、宇宙服に小さな穴があいてしまったからな。まだ他にもあいているよ
 うだし」
  上川は、太もも付近の穴を手袋で抑えている。

●20.穴の底
  上川のフェイスプレートには、宇宙服の酸素警告LEDが黄色になっているのが映っている。
上川「死刑囚の気持ちってこんなものなのかな」
無線の一倉の声「何言ってるのよ、あんたを失ったら、生きていく気持ちがまた失せるじゃない
 の」
上川「あの時、俺が橋の欄干に立っているお前を救った命だぞ。無駄にするな」
無線の一倉の声「今、無人の着陸船とドッキングしたわ。1時間後には迎えに行くから」
上川「無理しなくて良い、空気がなくなった30分後になるから」
無線の一倉の声「ダメ、とにかく行くわ。通話を切らないでぇ」
  上川は宇宙服のアンテナを縮める。

●21.穴の底
  上川のフェイスプレートには、宇宙服の酸素警告LEDが赤になっているのが映っている。
  上川は宇宙服の首のあたりを触って、もがいている。
  上川の背後には白い鈴のような球体状の物体が浮いている。
  球体状の物体は直径5メートル程の大きさがある。
  その物体は上川を包み込む。

●22.月着船内
  着陸船のモニターには、月面の映像が映っている。
  一倉は必死に着陸レバーを操作している。
  画面上の白い+印に赤い+印が重なっている。
  画面上の月面はどんどん近づいてい来る。  
  赤い警告LEDが点滅している。
  一倉は慌てて噴射レバーに手をかける。

●23.月面
  月着陸船は勢いよく月面に衝突し、着陸脚は吹き飛んでいく。
  月着陸船のコックピットのひび割れた窓から空気が漏れ出している。
  半壊している月着陸船は、直径10メートル程の白い鈴のような球状物体に包み込まれる。

●24.球状物体の中 
  上川のフェイスプレートは溶けて穴があいている。
  上川はヘルメットを外すと不思議そうな顔をしている。
  上川は宇宙服のマイクに向かって呼びかけるが、雑音しかしない。
  ヘルメットのスピーカーから、人の声のようなものが聞こえるが、
  言葉にはなっていない。
  徐々に日本語のようになってくる。
声「クッキィ、くうがる、空気ある」
  上川は白い球状物体の中を見回している。
上川「誰だ。どこにいる」
声「私、前にある」
  球状物体の一部が透明になる。
上川「前って、金属鉱脈か何かだろう。どこだ」
声「それ、私」
上川「そうか宇宙船なのか」
声「わからない」
上川「あんた何者だ」
声「中、入る」

●25.金属質の堅い物質の前
  金属物質の側面に穴が開く。
  球状物体はその穴の中に入って行く。

●26.金属物質内
  上川を運んできた球状物体は透明になる。  
  上川はサッカーコート程の空間の中にいる。
  空間の内壁は白くぼんやりと光っている。
上川「なんだか知らないけど、呼吸ができるから、助けてくれたんだな」
  上川は周囲を見回すが何の変化もない。
  空間の内壁に穴が2ヶ所開き、大きめの球状物体が二つが入ってくる。  
上川「おいおい、あれなんだよ」
  上川を包み込んでいる球状物体が溶けてなくなる。
上川「あっ、これがなくなっても息ができる」
  大きめの球状物体も溶け始める。
  球状物体の中から軌道船と月着陸船が姿を現す。  
  半壊している月着陸船に駆け寄る上川。
  中から一倉がふらふらと出てくる。
一倉「あたし、着陸に失敗して死んだの」
  一倉は上川の顔を見ている。
上川「いや、死んではいないようだ。月の重力が感じられる」
一倉「そうなの、あっ本当だ」
  一倉は、軽く飛び上がると、ふわりと下りる。
  上川が軌道船の方を見ると、金属ネットのようなものが覆いかぶさっている。
上川「陽菜、軌道船まで、どうやって持ってきた」
一倉「え、軌道船も。知らないわ」

●27.金属物質内の空間
  上川と一倉は立ったまま空間内を見回している。
上川「全く継ぎ目がない」
一倉「閉じ込められたわけね」
  一倉は額の傷を触っている。
一倉「痛みが引いているけど、治ってるの」
上川「大した傷じゃなかったんだろう」
一倉「あれよ、あれでも」  
  一倉は、半壊している着陸船を見ている。
声「お待たせした。君たちがAIもしくはアイカと呼んでいるものから知識を得て言語を習得し
 た」
上川「軌道船のアイカからか」
声「現状の重力を6倍にする」
一倉「なんか体重が重くなったわ」
声「私の体内空間の温度は地球の平均気温15℃に設定した」  
上川「ここはあんたの腹の中なのか」
声「君たちに私の存在を説明するなら…金属質増殖細胞体でどうだろう」
上川「生き物なのか」
声「その定義が難しい。君たちのAIやロボット程単純ではなく、生殖もしくは複製能力がある金
 属質の物体だ。ある意味生物と呼べるかもしれない」
一倉「それってマジなの」
上川「しかしなんでこんな所にいるんだ」
声「私の親世代の金属質増殖細胞体が、君たちの時間で約31.6年前に私をここに未成熟状態で生
 み落とした。私は成熟しこの星系から飛び立つことになっている」
上川「アポロ計画の後なのか。あれからつい最近まで人は誰も降り立っていなかったからな」
一倉「ここで成長したっていうの」
声「信じたくなくても、それが事実なのだ」
上川「それにしても、こんな広い空間が腹の中にあるなら、あんたは相当デカいのか」
声「君たちの単位で約4180メートルの直径があり、高さは約418メートルになる。あなたが目に
 した外観はほんの一部でしかない」
上川「でも、そんなデカいものが飛び立てるのか」
声「飛び立つとは、あくまでも比喩に過ぎない。君たちの表現では…ワープと言うのが一番近い
 かもしれない」
一倉「ワープって、やっぱあたし、頭がイカれたのかしら」
上川「ワープして生殖する旅人ってわけか。あんたはトラベラーだな」
声「それは的確な比喩かもしれない。私をそう呼んで良い」

●28.トラベラー内の空間
  上川たちは、空間の天井方向を見ている。
上川「高さは20メートルぐらいはあるだろう」
一倉「あの上にトラベラーはいるのかしら」
トラベラー「ここ全体が私だ」
上川「地球の重力になっているから、ずーっと立っているのも疲れたよ。椅子か何かないのか」
トラベラー「用意しよう。これで良いかな」
  空間内の底面に黒い革張りソファがほぼ瞬時に現われる。
一倉「凄い、これ本物なの」
  一倉は恐る恐るソファに座る。
  上川もゆっくりと座る。
上川「こんなこと簡単にできるのか」
トラベラー「驚きには値しない」
上川「それでトラベラー、あんたの目的は何なんだ」
トラベラー「サンプル・リターン」
  上川と一倉は顔を見合わせている。
上川「サンプルって、もしかして俺らのことか」
トラベラー「その通りです」
一倉「あたしたちを、連れて行くために救ったの」
トラベラー「そのままでは死ぬ運命にあった。道義的に見て間違っていない」
上川「ということはだ。どこに到着するまで俺らは、ここから出られないのか」
トラベラー「それほど驚くことはない。非常に快適に過ごせる。わかりやすい比喩をすれば、動
 物園の動物は野生の状態よりも格段に健康で長寿となり、幸せというものにつながる。それに
 匹敵するかそれ以上となる」
一倉「えぇ、いゃだぁ。地球に戻れないの」
上川「俺らには、選択の余地はないのか」
トラベラー「そんなに動揺してしまうのか。これだと2743年の旅に耐えられないかもしれない」
上川「2743年って、トラベラー、人間の寿命は知っているのか」
トラベラー「もちろん世代重ねる必要がある。生殖能力があるから問題はない」
上川「まだ飛び立たないでくれ。もっと知的でサンプルに相応しい科学者なんかがいるぞ」
トラベラー「それは無理だ。既に光速の20倍で移動している」
上川「光速の20倍…」
  上川たちは口が開いたままになる。
トラベラー「太陽系は脱している」
上川「光速の20倍も出せるテクノロジーを持っているなら簡単に止められるだろう」
トラベラー「一度動き出したものを止めると、再始動に必要な物質を探し出し精製しなければな
 らない。この物質が見つからなければ止まれない。現在のコース上で、それが可能な恒星系
 は10.21年後に到達する」
一倉「あたしは、この人の誇大妄想に慣れているから、そんな嘘っぱち言われても信じませ
 んよ」
  一倉は上川を見ている。
トラベラー「ハッタリとか誇大妄想ではない。しかし我々のテクノロジーが遥かに進んでいる
 ことを認めてもらうしかない」
  上川と一倉が座っているソファの周囲は、ほぼ瞬時に富士山が見える草原地帯になる。
上川「地球に飛ばしてくれたのか」
トラベラー「いいえ。少しでも落ち着いてもらおうと空間環境を変えてみた」
  上川と一倉はそよ風に髪を揺らしている。

●29.銀座中央通り
  2階建てオープンバスに乗っている上川と一倉。
  二人は沿道の観衆に手を振っている。歓声が上がっている。
  沿道の横断幕には『~お帰りなさい上川さん、一倉さん~』とある。
  バスの側面には『月着陸帰還凱旋パレード』とラッピングされている。
  ゆっくりと進むバス。
一倉「これって、本物なの」
上川「これが現実であって欲しいな」
  係員が上川たちの所に上って来る。
係員「記者会見の準備はよろしいですか」
上川「あんた、本物」
  上川は係員の肩を触ってみる。係員は平然としている。
一倉「どう」
上川「確かに存在している」
  銀座中央通りの空間像が少し揺らぎ、次の瞬間も記者会見場になる。

●30.記者会見場
  上川と一倉は会見場の席に座る。
  記者たちは、二人の様子を見ている。
上川「急に会見と言われても、言うことを考えてなかったな」
一倉「誇大妄想を言えば」
上川「あぁ、幾多の困難の末、地球に無事帰還できました。月ではトラベラーというロボット
 宇宙船とファースト・コンタクトしました」
  記者たちがざわめく。
上川「彼は、我々をサンプルとして…」
  会見場が消え、トラベラー内の空間になる。
トラベラー「私をロボット宇宙船と表現するのは適切ではない」
上川「金属質増殖細胞体じゃ、わかり難いだろう」
トラベラー「君らの作るロボットや宇宙船とはかけ離れている」
上川「わかったよ。でも茶番劇はもうやめようぜ」
トラベラー「もっと楽しめる空間演出がいいか」

●31.古城ホテルの一室
  一倉は、天蓋付きのベッドを見て喜んでいる。
  上川は、窓からローテンブルクの街並みを眺めている。
一倉「あたし、こんなベッドに憧れてたのよ」
上川「これは新婚旅行のようなものになるのかな」
一倉「取りあえず何でも、いいじゃない」
上川「それじゃ、街を散策して本場ドイツ料理でも食べに行くか」
  上川は上着を着る。

●32.マルクト広場近くのレストラン
  レンガ造りの内装になっている。
  上川と一倉は奥まった席に座っている。
一倉「なんか、中世の街みたいで良くない」
上川「確かに、良く出来ている」
  上川は店員がこちらに向かってくるのを見ている。
上川「なんとかシュニッツェル…あぁドイツ風のカツレツとソーセージの盛り合わせが来たぞ」
  一倉はジョッキのビールを飲み干している。
一倉「アイスバインも頼んだのよね。食べ切れるかしら」
上川「どこまでデータを習得しているかにも関わると思うが」
一倉「ここにいれば、世界中の観光地に行けるんじゃない。悪くないかも」
  上川はシュニッツェルを口に入れる。
上川「うっ、うまい。味つけとか良く再現できるな」
一倉「でも、肉とか野菜はどうやって採取しているのかしら」
上川「トラベラーの体内に牧場や畑はなさそうだからな」
男「堪能中、良いかな」
  上川たちのテーブルの脇に店員ではない髭を生やしたドイツ人が立っている。
上川「あんた日本語がわかるのか」
男「私は、トラベラーだ。違和感ないように現われてみた」
一倉「声だけでも良かったけど、気分ぶち壊しにはならないわよ」
トラベラー「君たちが食べている食べ物は、高濃度圧縮栄養素によって作られている。見た目は
 肉や野菜になっているが、歯ごたえがあるサプリメント的なものだ」
一倉「味付けもバッチリよ」
トラベラー「地球のデータは軌道船経由で入手しておいたから完璧なはずだ」
上川「わかった。もう少しドイツ観光を楽しませてくれ」
トラベラー「邪魔をした」
  男は姿を消す。

●33.首相官邸の首相執務室
  上川は官房長官の説明を聞いている。
  上川は席から立ち上がり5階の窓から外を眺める。
官房長官「憲法改正に抗議している左翼団体が新宿で暴動を起こしています」
上川「暴動を起こすとは、思いもよらなかった。実際に首相になるとこうなるのかな」
官房長官「野党が暴動の責任を取って辞任しろと息巻いています」
上川「野党が背後で糸を引いているのだろうか。とにかく暴動は鎮圧する必要がある」
官房長官「核兵器保有の件も、マスコミが一斉に批判しています」
上川「結局、何もできないようになっているのか。トラベラー、このシミュレーションはあんた
 が考えたのか」
  官房長官の動きが止まる。
トラベラー「今までの情報もとに推察したものを空間演出した。こうなる可能性は極めて高い」
  官房長官は一時停止を解除する。
上川「内閣支持率は、どうなっている」
官房長官「野党やマスコミが騒ぐほど、下がってはいません」
  上川は腕組をして席に戻る。

●34.ヒナ・イチクラのヘッドオフィス
  窓辺に立つ一倉は青山通りを見下ろしている。
  秘書の女性は衣装を持って少し離れた位置に控えている。
秘書「パリコレはこれで行きますか」
一倉「そうね、あたしのデザインがどこまで通用するかしら」
  一倉は首に巻いているスカーフを軽く撫でている。
秘書「それでTGCのオープニングゲストには、上川首相はお見えになるのですか」
一倉「彼も忙しいからね。でも都合はつけてもらいましょう」
秘書「お願いいたします」
一倉「あぁ田中、コスメ・ブランドの件だけど、原宿の旗艦店は拡張する必要があるわね」

●35.首相官邸の首相執務室
  上川は、暴動の映像が流れているテレビを見ている。
上川「奴らによる原発のテロも考えられるな。警戒態勢を怠るな」
官房長官「はぁぁぁ…」
  官房長官の姿が揺らぎ首相執務室が消え、トラベラー内の空間になる。

●36.トラベラー内の空間
  50メートル程離れた所に一倉が立っている。
軌道船や半壊している月着陸船もある。
  上川はさっきまで官房長官が立っていた辺りを見ている。
  一倉が上川の方に駆け寄ってくる。
一倉「どうしたの」
上川「俺にもわからない」
一倉「壊れちゃったのかしら」
トラベラー「同時に2ヶ所の空間演出をすると負荷が大きいので、不具合が生じた」
上川「でも、この前は、問題なかったろ」
トラベラー「今回は、2つのシュミレーションが複雑化しているためだ。現在修復作業を開始し
 た」
上川「どのくらいで直るんだ」
トラベラー「140.91日で完了する」
一倉「結構かかるのね」
トラベラー「自然修復だからな。長旅においては問題がない。しかし能動的な修復では28.14時間
 で完了する」
上川「能動的な修復ってなんだよ」
トラベラー「君たちが、空間演出細胞組織を能動的に改良すれば良いのだ」
一倉「凄い難しいんでしょう。無理だわ」
トラベラー「私の説明通りやれば良い。しかしこの空間以外は真空だ。球状物体に入っての作業
 になる」
上川「どうせ、やることもないのだから、やってみるよ」

●37.球状物体の内部
  上川は内部で浮遊している。
  つかまるものは何もない。
上川「このサイズの鈴玉があるとは知らなかった」
トラベラー「直径2.5229メートルの球状物体だ。鈴玉と呼ぶことにしたのか」
上川「だって鈴みたいな形をしているだろう」
トラベラー「わかった。その鈴玉は、一旦私の体表面に出て、空間演出細胞まで移動し作業開始
 する」
上川「おいおい、ワープ中なのに外に出て大丈夫なのか」
トラベラー「私の体表面から20.4637メートル以上飛び出せなければ問題ない」
上川「飛び出すとどうなる」
トラベラー「そのワープ地点に置いて行くことになる」

●38.球状物体の内部
  内壁が半分透明になる。
  線状の光が無数に見え、薄っすらと赤味がかっている部分がたまに動いて行く。
上川「これがワープ船の外なのか。まんざらSF映画のものと違うわけじゃないんだな。でも赤方
 偏移とか、光のドップラー効果はないのか」
トラベラー「極めて初歩的な知識はあるようだな。では説明しよう。厳密にいうと私は一瞬一瞬
 は停止している状態にあり、小刻みにワープ繰り返しているに過ぎない。それゆえに光のドッ
 プラー効果もウラシマ効果もないのだ」
上川「何言っているかよくわからないけど、そうなんだ」
トラベラー「着いたぞ。手元にある箱をあそこに見える黒い点の中に入れて、私の指示を待て」
上川「どうやってやるんだ」
トラベラー「鈴玉が伸びるから素手でできる」
  上川は、手を鈴玉の壁面に押し当てると、内壁がゴムのように伸び手に密着し鈴玉の外に出
  せる。
  手元にあった箱は、瞬時に外に移動している。
  上川は、箱を黒い点の中に入れる。
 
●39.トラベラーの体表面
  箱は黒い点の中で大きくなり、一部が飛び出してくる。
  
●40.球状物体の内部
  上川は外の状況を内壁の透明な部分から見ている。
トラベラー「あの飛び出している部分を押し込んでくれ」
上川「わかった」
  上川は手を伸ばして押し込む。
  押し込んでも、すぐに飛び出してくる。
上川「なんかどんどん伸びてくる気がするが」
トラベラー「手を緩めるな。何回も繰り返せ」
  飛び出してくる部分がどんどん大きくなり、鈴玉そのものを押し上げる。
トラベラー「わかってるのか。現在12.37メートル盛り上がっている。鈴玉の推進力で抑えるの
 だ」
上川「わかったけど、あぁ、今現われたこのボタンを押すんだな」
トラベラー「遅い。ボタンを連打しろ」
  鈴玉が変形する。
  徐々に出っ張り部分が引っ込んでいく。
  鈴玉も体表面近くに戻ってくる。

●41.トラベラー内の空間
  上川は鈴玉から出てくる。
一倉「楽勝だったみたいじゃない」
上川「いや、ちょっとヤバかった」
トラベラー「私は君たちを過信し過ぎていた。かなり危なかった」
一倉「トラベラーも見誤ることがあるんだ」
トラベラー「人間は不確定要素が多過ぎるようだ。私の認識が甘かった、以後気を付ける」
上川「どうだ。直ったんだろう。洒落た空間演出をしてくれよ」
  周囲は、ほぼ瞬間的に東京ドームになる。
  スタンドは満員で巨人阪神戦をやっている。
トラベラー「私は選手たちを含めて、ここにいる人間全ての行動を操作している」
一倉「それじゃ、これは過去の試合の焼き直しではないわけ」
トラベラー「私が推察して演出している新しい試合だ」
  上川は手を挙げてビールタンクを背負った女性に声を掛けている。

●42.松濤鍋島公園が望める邸宅
  上川は新緑の鍋島公園を窓から見下ろしている。
上川「こんな一等地に住めるとはな」
一倉「どうせなら渋谷じゃなくて白金にしても良かったのに」
上川「だってここなら東急本店やBunkamuraに近いぞ」
一倉「距離はあまり関係ないんじゃない。演出なんだから」
上川「まぁな、それで、陽菜の方はどうなった」
一倉「デザイナーじゃなくて、パティシェになってみたわ」
上川「そんな望みがあったのか」
一倉「ここなら、いろいろな人生の選択ができるからね。そっちは上手く行ってるの」
上川「今度はアメリカに根回ししてから核兵器保有にしたし、中距離ミサイル搭載ということに
 してアメリカの脅威ならないようにした」
一倉「なんだか良さげね」
上川「それに憲法の方は、9条の理念は最終目的とし、そこに至るまでは国家存亡が大切とし
 て、兵力の保持を明記した」
一倉「ふーん、また新宿で暴動がなければ良いけど」
上川「たぶんあるだろうな。暴動の責任は首謀者にあるとして、辞任はしないつもりだ」

●43.本能寺
  髷を結った上川は、白い襦袢を着て寝ている。
蘭丸「上様、明智の軍勢に囲まれました」
  がばっと飛び起きる上川。
上川「だろうな。蘭丸、例の陣形の鉄砲隊600で本堂を囲め」
蘭丸「はっ」
  
●44.本能寺
  境内では150ヶ所から銃口が向けられている。
  一人の銃士に対して、三人の火薬弾込め士による陣形で総勢600名が布陣する。
  門が破られ、明智勢がなだれ込んでくる。
  鉄砲隊が一斉に火を噴く。
  ほぼ途切れがなく銃弾の雨が降り注ぎ、明智勢は死体の山になる。
  火矢が一本飛んできて本堂の屋根に突き刺さる。
  上川は槍を持って本堂の前に立つが、敵兵は誰も来ない。  
  明智勢は門の辺りで釘付けとなる。
  さらに明智勢の外側を丹羽長秀の軍勢が取り囲む。
  一ヶ所だけ逃げ道を開けておくと明智勢の雑兵たちは次々に逃亡する。

●45.安土城
  上川は世界図が描かれている屏風を見ている。  
上川「これで天下統一ができた。猿、次は明だな」
秀吉「上様、まず朝鮮に使者を送り、明に離反する者を探しましょう」
上川「それも良いのだが、女真のヌルハチに使者を送り、同盟を結ぼう」
秀吉「ヌルハチですか」
上川「女真を統一し、明を倒して清の初代皇帝になるからな」
秀吉「清でございますか。さっそく女真に使者を送ります」
上川「トラベラー、一時停止してくれ。一気に20年後の設定にできないか」
  秀吉の動きが止まる。
トラベラー「この状況下での推察は、不確定要素が多過ぎる」
上川「早く結果を見てみたいんだが」
トラベラー「これは演出と言えども人生。結果にごたわるのは良くない」
上川「何か哲学的なことも言うんだな、わかった。それじゃ松濤の自宅に戻してくれ」

●46.松濤鍋島公園が望める邸宅
  邸宅内には、誰もいない。
  ホワイトボードには『武道館コンサート』と書かれている。
上川「トラベラー、誰もいない渋谷を散歩してみたいな」
  邸宅内が揺らぐと、センター街の通りになる。
  
●47.渋谷の街並み
  センター街はファストフード店などが並ぶものの、人は誰もいない。
  初夏の日差しを浴びてゆっくりと歩く上川。
  スクランブル交差点の所まで来る。
  信号が変わるが車も人も来ない。
  高架橋を通る電車もない。  
  上川は交差点のど真ん中で、大の字に寝てみる。
  上体を起こしてあぐらをかく上川。
  静かにヨガのポーズを取り瞑想する。

●48.タワーマンションの一室
  レインボーブリッジが窓から見下ろせる。
  広々としたリビングルームのソファに座る上川と一倉。に
一倉「やっぱりタワーマンションは、最上階でないとね。都心も富士山も見えるから」
上川「今頃は、もうちょっとマンションが増えているのだろうな」
一倉「トラベラーが、得た地球の情報は5年程前だからね」
  ベランダ寄りの所にベビーベッドが置いてある。  
上川「陽菜、今やっているのは、昭和のアイドルだっけ、宝塚スターだっけ」
一倉「一之倉蒼衣は、そろそろ宝塚引退記念公演だけど」
  赤ん坊の泣き声がする。
  一倉はベビーベッドに駆け寄る。
一倉「ミルクね。恵美子さん、ミルクをお願い」
恵美子「奥様、すぐにお持ちします」  
  キッチンの方から声が聞こえる。
上川「家政婦のいる生活なんて、なんかリッチだな」
一倉「地球にいる時よりも、人生が充実しているわね」
上川「そう言えば、子供ができたけど、結婚式をしてたっけ」
一倉「人生を楽しんでいたから、すっかり忘れてたわ」
上川「絶好の場所を探しておくよ」

●49.海辺の教会
  開け放たれた扉の向こうには、強い日差しにきらめく海が見える。
  上川と一倉の向かい側に神父が立っている。
  神父はフランス語で何か言っている。
上川「タヒチの教会だけど、日本語にしてくれりゃ良かったな」    
陽菜「たぶん、生涯添い遂げるか誓えって言ってるのよ」
上川「誓います」
  神父は一倉に向き直る。
陽菜「あ、誓います」
  上川は一倉の指に結婚指輪をはめる。
  教会にいる両家の親族たちが歓声上げる。
上川「君の祖父も列席させたのか」
陽菜「トラベラーに頼んで、生き返らせたのよ」
上川「俺らのさくらは、誰が面倒を見ている」 
陽菜「あそこであたしの母親が抱いているわ」
  陽菜の母親は、さくらの幼い手を振らせている。
  上川と陽菜は、親族たちが投げる花吹雪の中を歩いて行く。

●50.大学の講堂
  階段状取り囲む席には上川の他、男女20人程が学生が座っている。
  演壇にはヘッドセットを付け、スーツを着た男が立っている。
男「トラベラーのワープ機能は、128個のワープ球によって成り立っている」
  男は演壇近くの空間に浮かぶ構造図を手で指し示している。
上川の近くの女子学生「8×8が2面で128ということですね」
  男はうなずく。
男「個々のワープ球がワープできる距離はおよそ28590キロだが、これらが約1秒間に次々に合
 計256回ワープすることで秒速731.9万キロと同等となり、光速の約24.4倍になる。皆さんも
 ご承知の通り、全宇宙共通で光速は秒速約29.979万キロですからな」
演壇近くの男子学生「それなのに、なぜ現在の速度は光速の20倍程度なのですか」
男「確かに最大ワープが光速の24倍でも巡行となると余裕が必要となる。定期的休ませている
 ワープ球があるからな」
上川「このワープ球は、何で出来ているのですか」
男「電磁性重力化合物として知られるpiynntzaer同位体283ですな」
上川「そのぉ、piynntz…なんとかは、地球で生成できるのですか」
男「あなたもご承知の月面のあの場所にまだ少し残っている」
上川「後はその生成のやり方を知りたい」
  男の声が咳ばらいをするとトラベラーの声になる。
トラベラー「未開の種族に航宙技術を教えるのも私の使命の一つだ。しかし難しいぞ」

●51.皇居乾通り
  通りの両脇の桜はほぼ満開になっている。
  上川、さくらの手を引く陽菜の3人は、春の日差しの中、ゆっくりと歩いている。
上川「その道灌濠の所で写真を撮ろう」  
陽菜「さくらも並んで」
さくら「パパもママもアイス食べたくないの」
陽菜「後で食べるから、おとなしくして」
  道灌濠近くの桜の木の下に一家は並んで立つ。
上川「トラベラー、撮ってくれ」
  シャッター音がして、空から写真がひらひらと落ちてくる。
陽菜「良く撮れているわ。スマホを使うより良いわね」
上川「スマホは、今でも使っているのかな。あらから何年になる」
トラベラー「10.21年になる。1日前に最初の停止場所に到着している」
上川「なんで昨日言わなかった」
トラベラー「花見が終わってから伝えようという配慮からだ」

●52.トラベラー内の空間  
  軌道船、半壊した着陸船が置いてある空間になっている
  壁面全体が白く光っている。
  空間の真ん中にあるソファーに上川、陽菜、桜が座っている。
  3人の前にはトラベラーの周りの状況を映しているモニターが置かれている。
  水星のような惑星の表面が映っている。
上川「どうした空間演出はしないのか」
トラベラー「再始動に必要な物質を探している間は、空間演出は最低限のものになる」
上川「最初の停止地点に止まってくれたのは良いが、これから戻るにしても、さらに10年がかか
 るのだろう」
陽菜「ここでの生活もまんざら悪くないしね」
トラベラー「サンプル・リターンの任務を実行しても良いのか」
上川「迷うところだ」
トラベラー「人生は周囲の環境がバーチャルでもリアルでも感じる所は同じではないか」
陽菜「そうかもしれないけど」
トラベラー「地球に戻って君らが自由と呼ぶ人生を体験するのと、捕らわれの身でもバリエーシ
 ョン豊富でやり直しの利く人生を送るのでは、どちらが良い。本当に束縛がないのはどちら
 だろうか」
上川「確かにトラベラーなしの人生は、どうなのか不安な気もする」
陽菜「でも、ここで戻っても後10年はこの生活ができるのよね」
トラベラー「感染症は全くない。子育てには向いている」
上川「正直言ってトラベラーが、こうやって停止してくれるとは思っても見なかった面もあるん
 だ」
トラベラー「私は、君らと信頼関係を築いてきたつもりだ」
上川「あんたよりも、ずる賢い人間は沢山いるからな」
トラベラー「…、kfopb spoptw…、私の同類がこの惑星にいた」

●53.トラベラー内の空間
  モニターには、トラベラーと同型のどら焼きのような形をした黒っぽい物体が映っている。
トラベラー「彼は、惑星の反対側にいる」
上川「久しぶりに仲間に会えて嬉しいのか」
  トラベラーの返答はない。
陽菜「どうしたの。今日は空間内の明るさが少し暗めよ」
上川「攻撃でもされたのか」
トラベラー「このspoptw…いや、この同類によると我々の創造主の星系は、超新星爆発で存在し
 ないと言っている」
上川「ええっ、存在しない。サンプル・リターンする先だろう」
陽菜「それに創造主っているわけ」
トラベラー「私は帰る所を失った。任務が全うできない」
上川「そう悲観するなよ。トラベラーの同類は相当いるんだろう。どこにかに避難して集まって
 いるんじゃないか」
トラベラー「それはない。基本的に同類と出会わないコースが設定されている。私のように緊
 急停止するのは、非常に例外的なのだ」
陽菜「でもあたしたちのおかげで緊急停止したから、わかったんじゃない。ある意味ラッキ
 ーよ」
トラベラー「私は、存続する意味がない」
上川「まさか死ぬなんて言うなよ。俺らが腹の中にいるんだからな」
陽菜「同類はこの先、どうするって言っているの」
トラベラー「ここで自然崩壊すると言っている」

●54.草原地帯
  半壊している月着陸船に駆けこむ上川たち。
上川「この雷に土砂降りの雨はなんだよ」
トラベラー「私の気持ちを天候で表現している、共感してくれ」
陽菜「辛いのね。こんなに繊細な感情を持っているの」
トラベラー「君らが心の支えになる」
上川「心の支えか。全くトラベラー、あんたって人は」
トラベラー「人間ではない」
陽菜「そうよね。でも心があるわよ」
  雨に濡れる上川は、雫を激しく振り払う。
上川「このバカもんが、雨に濡れて共感しろだと、創造主の任務はサンプル・リターンだけか。
 俺らを航宙種族にするというのがあっただろう」
トラベラー「それは、この空間から出ないからだ。私が認めるレベルに達しておらず、間違った
 使い方をしても問題がないからだ」
上川「それじゃ、俺らのレベルはどうなんだ」
トラベラー「残念ながら、達していない」
上川「あんたが認めるか認めないかだろう。信頼関係があるんだ認めてくれ。俺には壮大な夢が
 ある。このワープ技術でいろいろな惑星を冒険し、第二の地球を見つけ出したい。宇宙を股
 にかけるワープ船によるネットワーク築きたい。全てが硬直している地球に変革をもたらし
 たい。それにはどうしても、ワープ技術を習得したいのだ」
トラベラー「現状では達していないが、地球に戻る約10年間でどうなるかは未知数だ」
上川「それじゃ、あんたの新たな生きがいは見つかったかい」
トラベラー「生きがいではないが、興味深い提案を試してみる価値はあるかもしれない。しかし
 地球に着いた時点で低レベルにあれば降ろさない。さらに旅を続けてもらう」
  雨が止み、空が晴れ虹がかかる。

●55.トラベラー内の空間
  明るさは、いつも通りになっている。
トラベラー「再始動に必要な物質を精製次第、飛び立つことにする」
上川「帰りも空間演出を頼むぜ」
陽菜「人生をエンジョイさせてよ。今度はさくらも入れて3人分よ」
トラベラー「不具合があれば、また修理を頼む」
上川「今度は上手くやるよ」


続く

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