〇 路上(夕)
遠くに山の端霞む田舎町。すべてを赤く染める強い夕焼け。
古びたスピーカーから『家路』がひび割れながらも町に流れ、子供たちが帰宅の途を急ぐ。
浜岡(52)とその妻、街子(49)、並んで歩く。2人の間には夫婦と捉えるには広すぎる間が開いている。
浜岡、何気なく宙空を指さし、
浜岡「子供の頃、なんだった?」
街子「『夕焼け小焼け』、かしら」
浜岡「こっちは『ふるさと』」
言葉が少し途切れ、
浜岡「ここは『家路』だったんだな。今でも『ふるさと』の方がしっくりくるよ」
街子「そう? この曲が鳴ると孝が帰って来るからご飯用意して。生活の一部になっていたわ」
街子、ふと空を見上げる。茜の空から逃げていくように、一本の飛行機雲が伸びている。
街子「大丈夫かしら。孝、これから1人で」
2人の間に中途半端に開いた空間を、友達とじゃれ合う子供が駆け抜けてゆく。
浜岡、それを見送り、
浜岡「心配ないさ。男なんていざ1人になれば好き勝手生きていくもんだ」
街子「そうね……もう私たちの親としての仕事もほとんど終わりなのよね」
浜岡、小さく笑う。
浜岡「さすがにそれは気が早いんじゃないか」
街子「そうかしら」
街子、先程までと変わらぬ声音で、
街子「私たち、終わりにしましょうか」
〇 居酒屋(日替わり)
寂れた居酒屋の、影が差し込むような隅の席、浜岡が1人で酒を飲んでいる。
店内には他に客もおらず、女将の房枝(50)、浜岡の空いたお猪口に酒を注ぎながら、
房枝「初恋の人、か。同窓会で焼け木杭に火が着くなんて、よくある話じゃない」
浜岡「まあな」
房枝「それで、その男の人の所へ行くの、止めなかったの?」
浜岡「変なとこ強情なヤツだから。朝にはこれだけ残していなくなってたよ」
浜岡、ポケットから離婚届を取り出すとカウンターに放り、苦笑いで酒を呷る。
房枝「ま、仕方ないわね。あなたも好き勝手やってきたんだから」
浜岡「好き勝手ってほどじゃないだろう……俺の浮気はあの一度だけだ」
浜岡、酒に朱が差した瞳を房枝へ向ける。
房枝、ついと浜岡から目を逸らし、
房枝「……そうね。でもそれ以外の、火遊びにもなりきる前の、種火の内に消してしまった関係、私何度も見てきたから。それだって立派な浮気よ」
言って房枝は離婚届を手に取る。
房枝「名前、まだ書いてないのね」
浜岡「ああ。なんとなくな」
房枝「別れたくないの?」
浜岡「……曲がりなりにも25年を暮らしてきたんだ。数文字の署名にだって25年分の重さがあるさ」
浜岡、背を丸めて肴をつつき、酒を飲む。
その姿には妻を失った焦りや後悔は見えてこない。
房枝、そんな浜岡を見つめると、カウンター内にあったボールペンと離婚届を突きつける。
房枝「いいわ。今ここで記入して」
浜岡、伺うように房枝と離婚届を見比べる。
浜岡「本気か?」
房枝「もちろんよ」
浜岡と房枝の間に緊張を孕んだ沈黙が流れる。
交錯する浜岡と房枝の視線。
やがて浜岡、静かに離婚届だけを房枝の手から受け取ると、それを畳んでポケットにしまう。
浜岡「今日はもう帰るよ」
房枝、頷くと伝票を浜岡に差し出す。
浜岡、現金で支払いをし、お釣りを受け取ろうとしたとき、
房枝「意地があったのよ。一晩の火にだって、25年に負けないほどの」
〇 浜岡家(日替わり・夕)
浜岡、居間でカーテンも引かずにテレビを見ながらビールを飲んでいる。
窓からは西日が差し込む。
と、町に『家路』が流れ始める。
浜岡、なんとなく『遠き山に日は落ちて』と口ずさみはじめるが、その先の歌詞がわからず掠れるようなハミングになる。
すると街子、何事もなかったかのように帰ってくる。
街子「ただいま」
浜岡、街子を見ると少し驚くも、
浜岡「おかえり」
街子「こんな時間からお酒飲んで、毒よ」
浜岡「日曜日くらい、いいだろう」
街子、またもそれまでと同じ口調で、
街子「離婚届、書いてくれた?」
浜岡も特別なことはないように、
浜岡「いや、やめたよ」
街子「そう……晩ごはん、今からじゃ面倒だし、出前でもとらない?」
浜岡「そうだな……なあ、『遠き山に日は落ちて』の続き、知ってるか?」
街子、少し考えて、
街子「『星は空を散りばめぬ』
浜岡「ああ。そうか」
街子「孝の住んでいる町も、『家路』だったわ」
浜岡、目を丸くし街子を見る。
浜岡「孝の所にいたのか」
街子「ええ。最初はそのつもりじゃなかったんだけど、でもダメね。あの曲を聞いたら」
浜岡、小さく笑ってから、真面目な目で街子を見る。
浜岡「すまなかったな」
街子、なにも答えずに立ち上がると、固定電話の元から出前のメニュー表を持ってくる。
街子「蕎麦でいいわね」
浜岡「ああ」
2人、並んでメニュー表を眺め始める。
了
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