今井 信夫(41) ・凛の父親
竹下 凛(17)(5)・信夫の娘
竹下百合子(39) ・凛の母親、信夫の元妻
紗英(15)
瑠美(16)
○××デパート・正面入口・前(夜)
鳴り続ける携帯電話の呼び出し音。
黒い革靴が、苛立った様子で石畳をコツコツと鳴らしている。
竹下凛(17)が、スマホを耳に当て、仁王立ちしている。
呼び出し音が止み、受話器の向こうで息を押し殺した気配。
信夫の声「(声を潜めて)……はい……」
凛「(冷たく)ちょっと、ずっと待ってるんですけど」
信夫の声「(声を潜め)ごめん、ちょっとパパ、遅れそうなんだ」
凛「(舌打ちして)だったらいいよ、帰るから」
信夫の声「ああ! 待て、すぐ近くまで来てるんだ」
凛「はあ?」
信夫の声「いや、本当なんだよ。パパ、お前がいるデパートのすぐ
近くにいるんだよ」
凛「じゃ、早く来てよ。こっちはカナダ行く前に一度会いたいって
言うから、わざわざ時間割いて来てるんだから」
○公園(夜)
鬱蒼とした木立の中、電灯に照らされた古びた公衆トイレ。
『痴漢に注意! 不審者を見たらすぐに110番』の看板。
信夫の声「おい、そんなこと言うなよ」
○公衆トイレ・入口・前(夜)
女性用のマーク
○同・個室・中(夜)
スーツ姿の今井信夫(41)が便器に腰かけ、スマホで話している。
壁には、空のペーパーホルダー。
『ペーパーの持ち出し厳禁』の貼り紙。
信夫「欲しい服があるって言ってただろう? パパ、約束通り買っ
てあげるから、なあ、もうちょっと待ってくれ」
凛の声「要らない」
信夫「おい、拗ねるなよお」
○××デパート。正面入口・前(夜)
寂しそうにデパートを見上げる凛。
シャッターがゆっくりと降りる。
凛「いいよ、もう、デパート閉店だし」
○公衆トイレ・個室・中(夜)
慌てて腕時計を見る信夫。
信夫「ええ? もうそんな時間か?」
× × ×
凛「って言うか、無理して来ようとしなくていいから。いつも言い
訳ばかり。その気もないくせに。まあ、別に期待してないけど」
凛、ショーウインドーに歩み寄る。
蒼いワンピースをじっと見る凛。
× × ×
信夫「違うんだよ、パパ、行く気満々だったんだよ」
× × ×
凛「ふーん、じゃ、なんで来ないのよ?」
× × ×
信夫、空のペーパーホルダーを恨めしそうに眺めながら、
信夫「それがな、それがな、凛ちゃん、聞いてくれよ、パパな、出
るに出られないんだ」
× × ×
凛「はあ?」
× × ×
信夫「あのな、パパ、お腹痛くなっちゃってな、急いでトイレに駆
け込んだらな、か、紙が無くてさ、ハハ……」
凛「(真顔で)最低……」
× × ×
信夫「な、なにが最低なんだよ!」
言って、はっとして声を潜める信夫。
信夫「お前な、そういう言い方ないだろう、拭かずに出てこいって
言うのか?」
× × ×
凛「もっと最低」
× × ×
信夫「だろう? そうだろう?」
× × ×
凛「本当、カッコ悪いオヤジ。ママが愛想尽かすのも分かるわ」
× × ×
信夫「な、なんだよ、その言い方。パパだってな、お前から貰った
大事なカルバンクラインのパンツを汚したくないと思ったんだよ、
それこそ、カルバンクライン様に申し訳ないだろうが」
× × ×
凛「だったら、ずっとそこに居たら? あたし、もう、帰るから」
× × ×
信夫「(必死に)おい! 待て、待ってくれ! 凛!」
× × ×
冷めた表情の凛、スマホを切る。
× × ×
慌てた顔の信夫、少し脂ぎっている。
急いでズボンを上げ、ドアノブに手を伸ばす信夫。
○××デパートの前(夜)
踵を返す凛の黒い革靴。
大通りを歩く凛の後ろ姿。
○公衆トイレ・個室・中(夜)
ドアノブを掴み、まさに出ようとする信夫。
少女達の笑い声やら話声が聞こえてくる。
ドアノブを掴んだまま固まる信夫。
○同・入口~洗面台・中(夜)
紗英(15)と瑠美(16)が楽しそうに話しながら入ってくる。
洗面台の前に立つ紗英と瑠美、鏡を見て髪を直したり、バッグからリップクリを
出して塗ったりしている。
紗英「でさあ、グミとマシュマロと、どっちが美容にいいかって話
になってさあ、そいつ、延々と蘊蓄語って、マジうざくてさあ」
瑠美「なにそれ、変な奴、マジ受けるう」
○同・個室・中(夜)
信夫、ノブに手をかけたまま怪訝そうに聞き耳を立てている。
× × ×
紗英「でね、グミもマシュマロもおんなじコラーゲンなんだって」
瑠美「ええ? そうなんだあ、ますます受けるう」
紗英「でしょう、なんか、すっごく感動しちゃって、なんか、う
ざいと思ってたら、なんかぐっときちゃってさあ、そいつに」
瑠美「へえ、なにそれ、マジ受ける、やばくない?」
× × ×
信夫のこめかみに一筋の汗。
落ち着きなく目を泳がせている信夫。
薄汚れた天井。
『ペーパー持ち出し厳禁』の貼り紙。
隅にちんまりと置かれたサニタリーボックス。
信夫、「ああ!」と息を飲み、口元を抑える。
はずみでよろめき、尻にペーパーホルダーが当たり、
信夫「(呻くように)あイタ……」
笑っている瑠美「え?」と顔色を変える。
瑠美「なに? なんか聞こえた」
紗英「なに? なんか聞こえたって」
× × ×
信夫、大きく顔を顰める。
瑠美の声「なんか、今、オッサンの声しなかった?」
× × ×
紗英「オッサンの声?」
瑠美「うん、絶対、オッサンの声だよ」
紗英「ええ? それ、やばくない?」
瑠美「ちょっと、確かめてみようか?」
× × ×
信夫、壁にへばりつき、息を殺している。
革靴の足音。
個室のドアの下の隙間から、黒い革靴が行ったり来たり。
信夫M「ああ、なんてこった、駆け込んだ先が女子トイレとは」
苦々しく顔を顰める信夫。
紗英の声「やだ、怖い、変態? 痴漢?」
その声に抗うように、首を激しく横に振る信夫。
信夫M「違う、違います」
額の汗を拭う信夫、天井を仰ぎ、口をパクパクさせる。
信夫M「ああ、なんという不覚。もし痴漢で捕まりでもしたら、凛
に一生軽蔑され、会ってさえくれなくなる」
× × ×
個室の中の気配を探るように、ドアに耳を当てる瑠美。
ドアノブを凝視する瑠美。
ドアノブの施錠が赤くなっている。
瑠美「やっぱり、この中、誰かいるよ、赤いマーク出てるもん」
恐る恐るドアノブを掴む瑠美。
ガチャガチャとドアを開けようとする音。
信夫、青ざめた顔でドアノブを必死に引く。
× × ×
ムキになって力任せにドアを開けようとする瑠美。
瑠美「ねえ、誰かいるんでしょう?」
× × ×
信夫M「居ません、いるけど、居ません」
必死の信夫。
× × ×
意地でも開けようと奮闘する瑠美。
× × ×
信夫M「だから、本当に居ないんです!」
ガチャガチャと鳴るドアノブと重なって、コミカルな携帯電話の着信音。
紗英の声「あ、もしもし、うん、うん、ええ? マジ?」
ドアノブの音が一瞬止む。
信夫、肩で息をし、ドアノブを握りしめながら様子を伺うように耳をドアに寄せる。
ドアノブが再び、乱暴にガチャガチャと鳴る。
ぎょっとして、信夫、ドアノブにしがみつく。
× × ×
紗英、嬉しそうにスマホを眺め、瑠美を見る。
紗英「ねえ、あいつが今から会おうって言ってるから、もう、行
こうよ」
瑠美「ええ? でも……」
紗英「もう、いいじゃん、そんなの」
瑠美「うん、でも、絶対、この中に誰かいるよ」
紗英「放っておこう、もし本当に変態だったら、なんかされるか
も知れないし。怖いよ」
瑠美「(不服そうに)うん……、ま、それもそうだよね」
紗英「行こう、それよりさ、あいつになんか奢ってもらおうよ」
瑠美「わあ、じゃ、ラーメン食べたい」
紗英「ええ? またラーメン?」
言いながら、トイレを出ていく紗英と瑠美。
× × ×
トイレから遠ざかる足音。
個室の中の信夫、大きく安堵のため息を吐く。
ドアを細めに開け、外の様子を伺う信夫。
× × ×
誰も居ないトイレ。
× × ×
ズボンの乱れを直し、個室を出ようとする信夫。
コツコツと、入口の方から足音。
はっとして、再び、個室に隠れる信夫。
× × ×
ズンズンと、力強く踏みしめて歩く黒い革靴。
× × ×
ドアを背に、顔を歪め、天井を仰ぐ信夫。
× × ×
個室の前でピタリと止まる黒い革靴。
× × ×
躊躇うことなくドアノブに伸びる手。
× × ×
背中で再び、ガチャガチャとドアノブが鳴り、慌ててドアノブにしがみつく信夫。
信夫M「ううう、神様、もう勘弁してください」
額に大粒の汗を浮かべ、必死にドアノブを握る信夫。
唇を噛みしめ、おもむろに腹をおさえてしゃがみ込む信夫。
○信夫の回想
喫茶店で、向かい合って座っている信夫と竹下百合子(39)。
テーブルの上には、高校生交換留学のパンフレット。
信夫「凛のカナダ留学の夢、叶えてやりたいと思ってな……、父親
として。まあ……、もう、親子じゃなくなっちまったけど」
百合子「まさかね……、貴方がここまで考えてくれていたなんて」
信夫「俺だって、ちゃんと凛のことは……」
百合子「(頷き)私から凛に、カナダに行く前に、一度貴方に会う
ように言っておくから、貴方もちゃんと時間作ってよ、いつも言い訳ばかりなんだから」
信夫「仕方ないだろう、仕事なんだから」
百合子「それ、私には通用しても、あの子には通用しないわよ」
信夫「(自信なさげに)ああ……、うん」
× × ×
PCの前の信夫、ネットでカナダについて調べている。
日本人留学生達が学生生活を満喫している写真。
眠そうな目を擦りながら、カナダで発生した「テロ襲撃事件」
の記事を食い入るように見ている信夫。
スタンガンのHPを見ている真剣な顔の信夫。
スマホを取り出す信夫。
信夫「あ、ごめん、ちょっと聞きたいことがあって」
百合子の声「なに? こんな夜中に?」
信夫「あのさ、凛に何買ってやったらいいかな?」
百合子の声「そうね、服が欲しいって言ってたから」
信夫「服か……、いや、スタンガンとかいいかなあって」
百合子の声「何、バカなこと言ってるのよ」
信夫「バカなことじゃないぜ、大事な嫁入り前の娘が外国行くんだ」
そう言いながら、信夫の顔が寂しそうな表情になる。
PC画面には、純白のウエデイングドレスを着た日本人女性が、白人男性と一緒に
けた笑顔を浮かべている。
信夫「あいつ、まさか、外人となんか結婚しないよな?」
百合子の声「何言ってるのよ、凛はまだ十七よ」
信夫「だけど、カナダ行って、もう帰って来ないなんてことないよ
な? ちゃんと帰って来るよな?」
百合子の声「とりあえず、一年だけだから」
信夫「だけど……」
信夫、目頭を押さえて言葉に詰まる。
× × ×
朝食の納豆をかき混ぜながら、日付に×が並んだ壁際のカレンダーを眺めている信夫。
6月22日の欄に、「凛とデート・七時半時間厳守」とあり、
にんまりする信夫、食卓を立ち、カレンダーの20日の欄に×を付ける。
6月25日の欄には、「凛、カナダ出発」。
寂しそうに眼を瞬かせる信夫。
× × ×
夕暮れの公園前の通り。
額に油汗をかき、必死で便意を堪えている信夫。
公衆トイレを見つけ、猛ダッシュで駆け込む信夫。
× × ×
女性用のマーク。
○元の公衆トイレ・個室・中(夜)・回想終わり
ガチャガチャとドアノブの鳴る音。
ドアノブにしがみつき、必死で耐える信夫。
凛の声「いつも言い訳ばかり。ま、期待してないけど」
× × ×
フラッシュ
「パパ」と、あどけない凛(5)の笑顔。
× × ×
信夫を見ても無視する凛の醒めた顔。
× × ×
信夫M「凛! 凛! ああ、神様……」
体を屈めて、腹をおさえている信夫の悲壮な顔。
天井とドアの隙間から、トイレットペーペーがスローモーションで落ちてくる。
信夫の頭上にトイレットペーパーが落ち、弾みで空のペーパーホルダーに当たり、
「カラン」と音を立てる。
その音に、ギクっとなる信夫。
足元に転がったトイレットペーパー。
信夫、不思議そうな顔で、それを手に取り、
信夫「(独り言で)え? 神様ならぬトイレットペーパー……?」
不思議そうに天井を見上げる信夫。
凛の声「一体いつまでそこに居るつもり?」
× × ×
ゆっくりと開くドア。
仁王立ちの凛、左手にはトイレットペーパーのパック、右手にはGPS画面のスマホ、「公衆トイレ」に赤い位置情報。
凛「(冷たく)しかも、女子トイレだし」
信夫「(泣き笑いの顔で)凛……」
憮然とした顔で、トイレットペーパーのパックを信夫に押し付ける凛。
凛「はい、来年の父の日のプレゼント」
信夫「(苦笑し)ええ? 出来ればパンツの方が……。カルバンク
ラインの……」
凛「知るか」
さっと踵を返し、歩き出す凛。
信夫「ねえ、凛、凛ちゃん、待って、なあ、服、服買いに行こう、
いや、何でも買ってやるよ、パパ、なんだって……」
電灯の下で凛を追いかける信夫の影と、スタスタ歩く凛の影、その距離が伸びたり縮ん
だりしている。
完
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