今年35才になる独身の村田和義は郊外の2階建てのショッピングモールで掃除の仕事をしていた。
非正規社員ではあるが村田は掃除の仕事に誇りを持っていた。決して大きくはないショッピングモールだが来てくれる客に気持よく過ごしてもらうおうと小柄な体をせっせと動かして一所懸命に建物中を掃除した。
床は手押し式ではあるが床洗浄機を使えて楽であるのだが、村田が一番きついと思うのはトイレ掃除だった。もちろん嫌ではない。汚れているのをキレイにすることが好きだったし、トイレこそ最もキレイにしなければならないと思っていた。トイレがしっかり掃除されていないモールは一見きらびやかに見えても流行らない、というのが村田の持論だった。
ただ、こういう所のトイレはいくら掃除しても3時間もすれば汚れたし臭った。いろいろな人間がいるし、汚しても大抵はそのままにされている。そのために日中は1日3回掃除をすることになっているのだ。
他の社員たちはトイレ掃除が嫌いな人が多かったので順番で当たるようにしていたが、村田は自ら進んで3回入っていた。だから村田がいる日は他の社員たちに喜ばれた。
そんな村田でもトイレ掃除の中で唯一許せないことがあった。
掃除という仕事があるのだから汚れるのはかまわない。特に男性トイレの小便器の両サイドの床に小便がハネてしぶきが床にたまるのも仕方ないと思ってはいる。けれども、小便をするときに、せめてもう1歩前に進んで用を足せばハネも少しは抑えられるのだ。掃除する人間がいるとはいえ、なるべく汚さないようにしようという気持があったっていいじゃないか。それくらいの気遣いもできないのか。小便器の上に貼ってある小さな白いプレートにだって、
<もう一歩前に進んでください>
と書いてあるではないか。客なら万引きしなけりゃなんでもありか。違うだろ!
常々村田はこう思っていたのでトイレ掃除をするときにはまず小便器の両サイドの床を見た。全くハネていないときはほぼない。中には両サイドを狙ってしたのではないかと疑いたくなるようなときもあった。
多くの男性は自分の一物を隣に立っている男性の視界から外すために、
<もう一歩前に進んでください>
というプレートが目に入らなくても前に進んで用を足すものだ。小便器には構造上やその材質のおかげで小便のハネ返りが抑えられているからもう一歩前に進んでも大丈夫なのだ。
村田が掃除に入るときに小便器で用を足している客がいることは当然ある。そういうときにたまに小便器から少し離れている客もいる。村田は舌打ちしたくなるのをこらえて掃除を始める。なにも言わないでいるが、どちらかというと言わないというより言えないのだ。非正規とはいえモールの社員だからということもあるが、本音は怖いのだった。
背が低くて細い体なので、注意したりして取っ組み合いになったらまず勝ち目はない、と思っているのでなにも言えないのだ。
自分より背の低い大人はめったにおらず、いるのはほとんどが老人か、小学生くらいだった。最近では老人や小学生にだって見上げるようなのが多くなった。だから結局は黙っているしかなかった。
腹で思っていることを言えたらどんなにすっきりした気分になれるだろうか。村田は狭いアパートにいるとき、よくシミュレーションをした。
『おい、あんた!なにをやってるんだよ!そこのプレートが見えないのかよ、プレートが!もう一歩前に進めって書いてあるだろ!あんたのションベンを掃除する者の身にもなってみろよ!いい年してそんなこともわからねぇのかよ!図体ばっかりでかくても頭は空っぽかよ!・・・なんだよその顔はよ!文句あんのかよ!やるんならやってやるぜ!かかってきやがれ!』
隣や2階の住人には決して聞こえないほどの小さな声で村田は1人で凄んでみる。時にはニヤッと余裕の笑みを浮かべてみせる。実際にはとてもできないことだった。
あるときついにそのシミュレーションを生かせる機会がきた。
その日2回目の掃除をするためにトイレに入って、並んだ5つの小便器のそれぞれの両サイドを見ると、珍しく床にしぶきが飛び散っている小便器がなかった。日曜日の午後だし客の入りも多かったので床が濡れていないなんて村田は想像すらしていなかったのだ。
意外だったが嬉しくなった村田は気分良く鼻歌を歌いながら大便器がある4つの個室の掃除をした。床も便器もいつも以上にピカピカにした。
4つ目の個室の掃除が終わって出てきたときである。
その正面の小便器の前でだぶだぶの学ランを着ている坊主頭の学生が立っていた。村田に背中を見せてズボンのベルトを外しているところだった。しかも、小便器から30センチくらい手前でガチャガチャしていた。彼は学生服を着てはいるものの小学校低学年くらいの身長で、村田より背が低く細かった。
村田は洗剤ボトルが入ったバケツとブラシを両手に持ったまま、なんとなく学生を見ていた。小便器の30センチ手前というのが気になったのである。
(ん⁉)
学生はズボンを下げると一物を出そうとしているようだった。
(え?まさか・・・)
村田は学生が完全に一物を出したのを学生の背中の動きを見て確信した。
(まさか、その位置からするつもりか?)
ところがその途端学生はその格好のまま村田の方に更に20センチほど後に下がってきた。そして用を足そうとしたのである。
「あ、あんた!ちょっと待て!」
村田は思わず大声を出した。おそらく生まれて初めて出した大声だった。
「は、はい?なん、なんですか?」
突然後から大声を出された学生は一瞬背中を震わせて立ち止まると顔だけを後に向けようとしながら答えた。
「なんですかじゃないよ!」
こういうやつがいるからトイレが汚れるんだ、許せない!こいつなら、かかってこられてもなんとかなるだろう、と村田は声が恐怖で裏返りそうになるのを必死に押さえ込みながら怒鳴った。
「どこで小便するつもりだよ!なんで後に下がるんだよ!便器から50センチも離れてるじゃないか!なにを考えてるんだ!」
「いや、で、でも・・」
「見えないのか!そこに<もう一歩前に進んでください>って書いてあるだろ!」
「いや、で、でも・・」
「オレたちトイレ掃除をしてる人間をバカにしてんのか!」
「そ、そんなこと、な、ないです」
学生は村田の剣幕にうろたえて、前で一物を押さえるような格好で立っていた。
村田は投げ捨てるようにバケツとブラシを音を立てて床に置くと、学生の背中を押すようにして小便器を指さしながら、
「ほらあ!もっと前に行けよ!せめて便器の」
手前まで行けよ、と言おうとして何気なく視界に入った学生の一物を見た。
そこにはフランパンが、いや、フランスパンのような長さと太さをもった一物が小便器まで伸びていた。一物の先は小便器の内壁面にくっつきそうになっていた。
村田は言葉が出なかった。
(いったいこれはなんだ?)
村田は根元から先まで視線をゆっくりと往復させた。
(本物なのか?)
申し訳なさそうな顔をしている学生は、消防隊員がホースを持つように両手で一物を支えている。
(これをいったいどこにしまっておくんだ?)
村田はもう一度視線を往復させた。
「あ、あの、小便してもいいですか?」
学生はオドオドしながら、自分の一物を呆然と見ている村田に聞いた。
「・・・はい・・・どうぞ・・・すみませんでした」
やがて小便器の内壁面にチョロチョロと当たる小便の音がトイレ内に静かに響いた。
村田はヨロヨロと後ずさりをしながらバケツもブラシも置き捨ててトイレを出ていった。
コメント
コメントを投稿するには会員登録・ログインが必要です。