【登場人物】
河芭十八郎〔かわば・じゅうはちろう〕(28)
薬の行商人。実は河童
箕平妙子〔みひら・たえこ〕(64)
お食事処『みひら』店主
箕平昌泰〔みひら・まさやす〕(36)
妙子の一人息子
宮那紀久志〔みやな・きくじ〕(72)
妙子の店の馴染み客
谷尻利三〔やじり・としぞう〕(48)
暴力団員。昌泰の兄貴分
お食事処『みひら』の客
【シナリオ】
○湖畔(早朝)
河芭十八郎(28)、仰向けに倒れて呻
いている。全身に殴られたような跡が
あり、まぶたも腫れている。
河芭「あー、全身を責め苛むこの感覚は、人
の言葉で何と申したか……おお、そうだ、
『痛い』というのでした。いたたたた」
河芭の手が辺りを探るように動く。
河芭「かっぱ……河童膏はいずこ……」
河芭から数メートル離れた所に鞄が落
ちている。鞄と一緒に落ちている蛤の
貝殻。ずれた貝殻から膏薬がはみ出し
ている。
○タイトル
『秘伝河童膏(ひでんかっぱこう)』
○林の中(早朝)
箕平妙子(64)、小さな祠に、庭で摘
んで来たと思しき花を供え、手を合わ
せる。
○湖畔(早朝)
妙子、歩いて来る。
その前方に倒れている河芭。
妙子、河芭に気がついて走り寄る。
妙子「ちょっと、どうしたの。大丈夫?」
河芭「顛末をお話しすれば、いたた……昨晩
のこと、ある男に金の無心をされたのです
が、小生の所持金が、先方の要求に足りま
せんで」
妙子「その男って、誰?」
河芭「存じません。初めて会う男です。大層
立腹させてしまい、その男が振り回した手
足が悉く小生に当たりましてこの有様」
妙子「待ってよ、強盗じゃないのそれ」
河芭「いやいや、すべては小生の不徳の致す
ところであります」
妙子「何言ってるの。救急車、呼ぼうか?」
河芭「それには及びません。どこか、近くに
鞄は落ちてございませんか」
妙子「鞄?」
妙子、あたりを見回し、落ちている鞄
を見つけて立ち上がる。
河芭「その中に薬が……いたた、残っておれ
ばよいのですが……」
妙子、鞄と、膏薬の入った貝殻を持っ
て戻って来る。
妙子「これ?」
河芭、手探りで鞄と貝殻を確認し、安
堵の溜め息を漏らす。
河芭「ああ、よかった。これがあれば大丈夫
でございます」
妙子「そんなことより、ここじゃ満足に手当
ても出来ないでしょう。うちへ来なさい。
立てる?」
妙子、河芭に肩を貸し、起き上がらせ
る。
河芭「何処のどなたか存じませんが、御婦人
は、小生の命の恩人であります」
妙子「大袈裟な。それよりあなた、若いのに
似合わない妙な喋り方するのねえ」
○お食事処『みひら』・外観(朝)
湖畔の小さな飲食店。『お食事処・みひら』の看板とのれん。
妙子、河芭を連れて入っていく。
妙子「さ、着いたよ」
○同・座敷(朝)
妙子、河芭を寝かせ、頭に枕をあてが
ってやる。
河芭「かたじけない」
妙子「本当にいいの? 救急車」
河芭「よいのです。それより膏薬は……」
妙子「はい」
妙子、河芭に貝殻を渡す。
河芭「これだけあればなんとか……暫しの間、
ここで休ませていただけましょうか」
妙子「勿論、構わないけど……じゃあ、私は
店の支度があるから、厨房の方にいるけど、
具合が悪くなったらすぐ呼んでよね」
河芭「かしこまって候」
妙子、心配そうに河芭の様子を窺いな
がら、座敷を出ていく。
○同・食堂内
壁の時計が十二時過ぎを指している。
店内には四~五名程度の客。
妙子、カウンターに食事を出す。
客はその食事を受け取って席につく、
セルフサービス。
宮那紀久志(72)、食事をしながら、
厨房の妙子に話しかける。
宮那「……で、妙子さん、そいつはまだ奥で
寝てるの?」
○同・厨房内
妙子、調理をしている。
妙子「ええ、医者はいいって言ってるけど、
これが終わったら連れてこうと思ってる
の。本当に全身傷だらけなんだから」
河芭の声「御迷惑をお掛けしました」
○同・食堂内
河芭、客達に会釈する。顔や体の傷は
消えている。
宮那ほかの客、何だといった様子。
河芭「お陰様をもちまして、本復致し候」
妙子、厨房から出て来る。
妙子「何……もう大丈夫なの」
河芭「はい」
妙子「信じられない。あんなに酷い傷が」
河芭、膏薬の入っていた貝殻を見せる。
河芭「河童膏のお陰でございます」
妙子「何? かっぱ……?」
宮那「河童膏! 昔話の、あれかい。河童が、
炙り魚を食った罪滅ぼしに、よく効く膏薬
の作り方を書き残したって、この辺に伝わ
る言い伝え」
妙子「そういえば、そんな話があったような」
宮那「実際に売られていたんだよ。そういう
薬がさ」
妙子「でも、その薬を売ってたのは、戦前の
話でしょう。あ……」
河芭、その場にへたりこむ。
妙子「どうしたの。まだ傷が痛むんじゃない」
河芭「傷は癒えましたが、腹が減って」
宮那「(笑う)おい妙子さん、何か食わせてや
ったら」
妙子「(微笑)そうね、河童つながりで、かっ
ぱめしでも作りましょうか」
河芭、狼狽する。
河芭「かっぱめし! ひええ、そればかりは
どうか御容赦を」
妙子「え、胡瓜は嫌い?」
河芭「あ、胡瓜? 河童をさばいて食するの
ではありませんで?」
妙子「やあねえ、そんな、本物の河童なんか
出せる訳ないじゃないの」
周りの客達、笑う。
宮那「いちいちせわしない奴だなあ」
妙子、笑いながら厨房に戻って行く。
× × ×
河芭、テーブルについている。
妙子、その前に『かっぱめし』を置く。
妙子「どうぞ」
河芭「(合掌)いただきまする」
河芭、かっぱめしをかき込むように食
べ、感涙に咽ぶ。
宮那と他の客、周りで見ている。
河芭「美味い……大変美味い……実に美味い」
妙子「他の店じゃいろいろトッピングしてる
みたいだけど、うちのは本当にとろろと胡
瓜だけ」
河芭「いやいや、それが良いのです。この素
朴な味わいが」
河芭、はっと気がついたように箸を置
く。
河芭「これはしたり。小生、銭を持っており
ませんでした」
妙子「別にいいのよ。在り合わせで作ったん
だし」
河芭「いえいえ、そうは参りません。この店
で働いてお返し致しとう存じます」
宮那「文無しじゃ、どこにもいけないしなあ、
しばらくここに住み込みで、働いたらいい」
妙子「ちょっと宮那さん、勝手に話を進めな
いでよ」
宮那「あんたも、旦那が亡くなってから一人
で頑張ってきたけど、いずれ無理もきかな
くなって来るよ」
妙子「私はまだ……」
宮那「こいつを助けたついでと思いなよ。あ
の兵六玉の昌泰なんかより、よっぽど礼儀
も弁えてるし、愛嬌もあるじゃねえか」
はっとして俯く妙子。
客の一人が宮那の袖を引き、『まずいよ』
というように首を振る。
宮那、気まずさを誤魔化すように、
宮那「あ、ああ、そうだ。(河芭に)あんた名
前なんていうんだ」
河芭、立ち上がる。
河芭「河芭十八郎と申します。薬を売り歩く
のを生業としております」
宮那「薬の行商か。その途中で暴漢だかに遭
ったんだってな」
河芭「有り金全部と、売り物の薬をほとんど
持って行かれました」
宮那「おい、警察に届けた方がいいんじゃな
いか」
河芭「いえ、すべては小生の不徳の致すとこ
ろであります。薬はまた作ります。金もそ
れを売ってまた稼ぎます」
妙子「あの、膏薬を作るって?」
河芭、懐から古びた巻物を見せる。
河芭「はい、河童膏の製法はこれ、先祖直伝
の書に記してございます」
宮那「へえ、ちょっと見せてよ」
河芭、巻物を懐にしまう。
河芭「誠に申し訳ございませんが、製法は門
外不出でありまして、お見せする訳には参
りません。平にご容赦を」
宮那「企業秘密か。まあ、しょうがねえな」
妙子「食事の最中に色々訊いて済まなかった
わね。さ、ゆっくり食べて」
河芭「それでは失礼して」
河芭、着席してかっぱめしを再び食べ
始める。
妙子、その様子を微笑して見ている。
○同・厨房内(夕)
妙子、調理をしている。
河芭は流しで洗い物をしている。
客の声「すいません、お会計」
妙子「河芭さん、悪いけどお願い」
河芭「かしこまって候」
河芭、厨房を出ていく。
○同・食堂内(夕)
レジに立つ河芭に、客が一万円札を渡
す。河芭、札を両手で持って不思議そ
うに眺めている。
客「ちょっと、お釣り」
河芭「はあ、肖像の書かれたこの紙は、一体
どのようなものでありましょうか?」
客「は?何言ってるんだ、あんた」
河芭、札を持ちながら、もう片手でレ
ジにある小銭を掴んで、札と小銭を交
互に上げ下げしてみせる。
河芭「どう見ても、この銭の方が重いように
思われまするが如何」
客「当り前だろう。ふざけてないで釣りを出
してくれよ」
妙子が駆けて来て、河芭と客の間に割
って入る。
妙子「……ええと、一万円のお預かりで、八
千と二百円のお返し……」
妙子、素早くレジから釣りの札と小銭
を出し、客に渡す。
妙子「(客に)ありがとうございました」
客は怪訝そうな顔で店を出ていく。
河芭、呆けたような顔。
妙子「あなた、お札、分からないの?」
河芭「はあ、あれもおカネ、なのでしょうか」
妙子「本当に変わってるわねえ、あなたも商
売してるんじゃないの」
河芭「小生は、銭しか扱ったことがございま
せんで」
妙子「呆れた。じゃ、あの薬、いくらで売っ
てたの」
河芭「いくら、と問われましても、真に必要
とされる方にお渡しし、気持ちだけいただ
きますので……」
妙子「(笑う)人がいいにも程があるわね」
河芭「小生の不徳の致すところで」
妙子「違うのよ、あなた、いい人だって言っ
てるの。でも、レジはもういいわ。明日に
でも物置の掃除をお願い」
河芭「かしこまって候」
○同・物置部屋
丁寧に掃除され、整理整頓された内部。
妙子、入って来て見回す。
妙子「あら、随分綺麗に……ありがとうね、
河芭さん……?」
河芭、物置の奥に張った蜘蛛の巣に向
かい、小声で呟いている。その周囲だ
け掃除が済んでいない。
河芭「……うむ、ではそういう事で手打ちと
いたしますか。ご協力に感謝するものです」
妙子、奥に歩いて来る。
妙子「何を話してるの」
河芭、振り返る。
河芭「ああ、この隅の蜘蛛の巣を払おうとし
たところ、この方が先住権を主張されまし
たので、立退き交渉を」
妙子「立退き?」
河芭「ご安心ください。外の軒先に移動して
いただけることになりました。では、移住
先にお連れして参ります。一旦失礼」
河芭、糸の先に吊るした蜘蛛を持って
出口に向かうが、何か思い出したよう
に振り返る。
河芭「あ、それから、掃除の途中にあれを見
つけましてございます」
河芭の視線の先、棚の上に、丸まった
古い画用紙がある。
河芭「大変貴重な絵画かと」
河芭、出て行く。
妙子「……絵画?」
妙子、棚の上の画用紙を開いて見る。
妙子「これ……」
幼児がクレヨンで描いたと思しき女性
の絵。『おかあさんありがとう みひら
まさやす』と拙い字で添え書きがある。
× × ×
河芭、蜘蛛の巣があった一角を掃除し
ている。
妙子、部屋の隅で絵に見入っている。
妙子「まだ取ってあったんだねえ……もう、
とっくに捨てちゃったと思ってた」
河芭、掃除の手を止める。
河芭「先程拝見させていただきました。御子
息が御幼少の頃描かれたものですか」
妙子「そう。宮那さんが言ってたでしょう。
昌泰の兵六玉って」
河芭「実に善い絵です。愛に溢れております」
妙子「褒め過ぎよ。全然似てないし、ありが
とうなんて、幼稚園で先生に言われて書い
たに決まってるのに」
河芭「そうかも知れませぬが、絵は嘘を付き
ますまい。して御子息は今……」
妙子「どこにいるのか……三十過ぎてもぶら
ぶらしてたんで、叱りつけたらそれきり家
を出て行って……もう五、六年になるかな」
河芭「それは心配ですなあ」
妙子「別に……たまに電話をよこすんだけど、
あまり良くない仕事に係わってるみたいで」
河芭「良くない……仕事……でございますか」
妙子「いっそのこと、野垂れ死にでもしてく
れた方が……」
妙子の瞳が潤む。
河芭、背を向けて掃除をする。
○山の中
河芭、籠を背負って薬草を採集してい
る。
河芭の声「では、本日はお休みをいただきま
して、河童膏の材料を採って参ります」
妙子の声「いってらっしゃい。気をつけて」
○林の中(早朝)
妙子、花を持って歩いて来る。
その先の祠の脇に、箕平昌泰(36)が立っている。
昌泰「よう、早いなお袋」
妙子「昌泰……」
昌泰、妙子に歩み寄る。
昌泰「ここにいりゃ会えると思ってさ。昔か
ら欠かさなかったもんな。お参りは」
妙子、昌泰に構わず、祠に花を供え、
手を合わせる。
昌泰「ちょっと頼み事があって来たんだ」
妙子、昌泰に向き直る。
妙子「なぜ家に来ないの」
昌泰「町の奴に聞いたんだ。今、変な居候が
いるだろ」
妙子「河芭さんのことね。あんたなんかより
ずっと立派な人だよ」
昌泰「そいつが持ってる膏薬の作り方を書い
た巻物、それを持って来てくれないか」
妙子「私に泥棒をしろって? 冗談じゃない」
昌泰「まあ聞きなよ。あの野郎の持ってた膏
薬、試しに使ってみたら、すげえ良く効く
薬でさ、あちこちから引き合いがあるんだ」
妙子「ちょっとお待ち。ってことは、あんた
なの? 河芭さんに怪我させたのは」
昌泰「ちょっと金を借りただけだよ。小銭し
かなかったけどな。ついでと思ってた貝殻
の中身の方が、金のなる木だったって訳だ」
妙子、昌泰を平手打ちする。
妙子「お前って子は、どこまで……」
昌泰「あいつが心を許してるお袋にしか頼め
ないんだ」
妙子「お断りだね」
昌泰「本当に、頼むよ。俺、闇金に追われて
てさ、金がいるんだよ」
妙子「闇金って、そんなもんに手を出して。
どうせ遊ぶ金にでも使ったんだろう」
昌泰「家に戻れなかったのも、借金取りに追
われてたからなんだ。膏薬で儲けた金で借
金を返したら、家に戻って食堂を手伝うよ」
妙子、動揺したように俯く。
妙子「本当に……」
妙子、昌泰に何か言おうと一歩踏み出
す。
昌泰「じゃ、頼んだぜ。また明日、ここで待
ってるから」
昌泰、走り去る。
妙子、物思いに沈む。
○お食事処『みひら』・和室(夜)
河芭、薬研で薬草をすり潰している。
その脇に鞄と、そこから覗く巻物。
× × ×
河芭、すりこぎで鉢の中の薬剤を混ぜ
合わせている。
河芭「ふう、後はこれを一晩寝かせれば、よ
うざいまする」
妙子、半分開いた入口からその様子を
見ている。
× × ×
河芭、横になって寝息を立てている。
脇に鞄と巻物。
妙子、足音を忍ばせ部屋に入って来る。
妙子、深呼吸をして巻物を凝視すると、
ゆっくり巻物へ手を伸ばす。
河芭、寝返りを打つ。
妙子、驚いたように手を引っ込める。
寝ている河芭。
妙子、再び巻物に手を伸ばす。が、首
を振って、そのまま部屋を出て行く。
河芭、うっすらと片目を開く。
○同・外(早朝)
妙子、店の前で掃除をしている。
河芭、店から出て来る。
河芭「おはようございます」
妙子「ああ、おはよう。何、まだ寝ててもい
いのに」
河芭、懐から巻物を取り出す。
河芭「もしや、これがご入り用なのでは」
妙子「……起きてたの。昨日の夜」
河芭「事情があらばお聞かせ願いたく」
× × ×
河芭、大きく頷く。
河芭「そうでありましたか。御子息がこれを
欲しておられる、と」
妙子、河芭に背を向けている。
妙子「虫のいい話よね、酷い怪我を負わせて、
お金や薬を奪った挙句、その巻物までよこ
せだなんて」
河芭、天を仰いで思案している。
妙子「ごめんなさい、もう忘れて頂戴」
妙子、振り返る。
河芭、巻物を差し出す。
河芭「どうぞ、お持ちください」
妙子「え、いけないわ」
河芭「御子息が戻られ、恩返しが叶うならば、
小生もこれに勝る喜びはありませぬ」
妙子「でも、これはあなたの大事な……」
河芭「何、河童膏の作り方は、すっかり覚え
てしまいました」
河芭、妙子に巻物を受け取らせる。
妙子、巻物を眼前に捧げ持つ。
妙子「あ、ありがとう……あんな人間でも、
私にはたった一人の息子で……」
○湖畔
人気のない草むら。
黒塗りの車が停まっている。
谷尻利三(48)、煙草を吹かし、いら
ついたように辺りを見回している。
昌泰、走って来る。手には巻物を持っ
ている。
谷尻「遅えぞ、昌泰」
昌泰「すんません、兄貴」
谷尻「で、分かったのか。膏薬の作り方は」
昌泰「はい。これです。これに書いてありま
す」
昌泰、巻物を差し出す。
谷尻、煙草を咥え、巻物を受け取り、
しげしげと眺める。
昌泰「これであの薬を大量に作れば、大儲け
間違いありません」
谷尻「暴対法だか何だか知らねえが、近頃は
シノギもやりづれえからなあ。おめえの言
うとおりなら、組の資金も当分安泰だ」
昌泰「上手くいったら、例の件、若頭によろ
しくお願いしますよ」
谷尻「ああ、正式に盃を交わそうじゃねえか。
働きによっちゃ、下部組織一つ任せてもい
いと仰ってる」
昌泰「本当ですか!」
谷尻「まずは、薬の製法を拝んでからだ」
谷尻、巻物を開く。みるみるその表情
が怒りに染まっていき、咥え煙草を吐
き捨てる。
谷尻「昌泰!てめえ、俺をからかってんのか!」
昌泰「そ、そんな滅相もない」
谷尻「じゃあ、なんだこりゃ!」
谷尻、開いた巻物を昌泰に見せる。
中身は絵とも文字ともつかぬ、判読不
能な記号の羅列。
昌泰「ええっ!」
谷尻「これでどうやって薬を作れってんだ。
こんな所にわざわざ呼び出しやがって、ふ
ざけるなこの野郎!」
怯える昌泰。
× × ×
全身傷だらけで血を流して這いつくば
っている昌泰。
谷尻、それを更に足蹴にする。
傍には巻物が落ちている。
谷尻「二度と俺に、その汚ねえ面を見せるな。
そのまま野垂れ死にでもしやがれ!」
谷尻、車に乗って走り去る。
× × ×
昌泰、動けずに呻いている。
河芭、草を分けて近付いて来る。
河芭「人に河童の文字を読むことは出来ませ
なんだか。無念至極であります」
昌泰「……お、お前は……」
河芭、巻物を拾い上げ、元どおり巻き
取ると懐にしまう。
昌泰「か、河童って、まさか……」
河芭「小生の出自などは、この際、瑣末な事
です」
河芭、昌泰に歩み寄る。
河芭「貴殿に一つ質問がございます。河童膏
で稼ぎ、借金を返したら、ご母堂の元へ帰
るのではなかったのですか」
小さく呻く昌泰。
河芭、昌泰になおも近づく。
河芭「貴殿のような輩は、こうしてやるので
ございます」
昌泰、逃げようともがく。
昌泰「わ、ああっ、殴って悪かった、金も倍
にして返す、許してくれ!」
河芭、屈みこんで昌泰を押さえ付ける。
河芭「これ、神妙にしなさい」
昌泰「(絶叫)」
河芭、貝殻に入った河童膏を取り出し、
昌泰の全身に塗りたくる。
河芭「ご母堂は、小生から巻物を奪おうとな
さいました。あの清廉な心根の持ち主が。
それも全ては貴殿を思ってのこと」
昌泰、次第に大人しくなる。
河芭、泣きながら昌泰に包帯を巻いて
いく。
河芭「そこまでしてくださったご母堂の慈愛
の心を、貴殿は裏切ろうとなさった。ご幼
少のみぎり、愛に溢れたご母堂の肖像をお
描きになった時のお気持ちは、残ってはお
らんのですか」
昌泰、ハッと息を飲む。
○お食事処『みひら』・厨房
妙子、仕込みの手を止めて、壁に貼っ
た昌泰の描いた絵を眺めている。
○湖畔
河芭、昌泰に巻いた包帯を縛る。
河芭「河童膏は如何なる傷にも効く万能の膏
薬。しかし、悪い性根を正す効能はないの
です。それを今ほど口惜しいと思ったこと
はございません」
顔を含め全身に包帯を巻かれ、ミイラ
のような状態の昌泰。
河芭「このまま一晩、身を横たえていれば傷
は完治するでありましょう」
河芭、立ち上がる。
河芭「ですが、正しい分別を取り戻すのは、
貴殿自身の心持ち次第なのであります。よ
くよくお考えになっていただきたい」
河芭、立ち去る。
寝転がったままの昌泰の目に一筋の涙。
○湖・遠景(夜)
周辺のそこかしこに灯りが灯る夜景。
○お食事処『みひら』・食堂(夜)
妙子、のれんを外して入って来る。
妙子「河芭さん、どこいったのかしら。遅い
わねえ……」
妙子、心配そうに外を窺う。
○同・同(朝)
妙子、テーブルに突っ伏して寝ている。
戸の開く音がして、妙子、目を覚ます。
妙子「河芭さん? 昨日はどこへ……」
戸口に昌泰が立っている。
妙子「昌泰!」
昌泰「済まなかった、お袋……」
妙子「お前……」
昌泰「戻って来ても、いいかな」
妙子「え……」
昌泰「借金も片が付いてねえし、もしかする
ともっと迷惑かけることになるかも……」
妙子「いいよそんなことは。後でゆっくり考
えりゃ。それより腹空いてないかい」
昌泰「そういえば」
妙子「何か作るよ」
妙子、厨房へ歩いていく。妙子と昌泰、
それぞれ微笑している。
○湖畔(早朝)
妙子の店が遠くに見える湖畔。河芭が
店の方を見ている。
河芭「やれやれ、無事に母上の元に帰ったよ
うですな。それでは小生も、故郷へ帰ると
しますか」
× × ×
ボチャンという水音がする。
湖畔から河芭の姿が消えている。
湖の水面に何かが飛び込んだ波紋が広
がっている。
(了)
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