第一話:一枚のメモ
「理想のカップルだよね」
そんな言葉を、何度聞いただろう。
真山美華、30歳。
営業職として働き始めて8年。仕事にも慣れ、後輩から相談を受けることも増えた。営業成績は安定しており、上司からの信頼も厚い。
そして、恋人にも恵まれていた。
根岸隆人、30歳。
同じ会社で働く彼とは、交際を始めて約1年になる。
仕事ができて、優しくて、容姿も整っている。誰に対しても分け隔てなく接する隆人は、社内でも評判が良かった。
美華自身、そんな彼を誇らしく思っていた。
「美華、土曜日どうする?」
金曜日の昼休み。
社員食堂で向かい合って座っていた隆人が、スマートフォンを見ながら尋ねた。
「土曜日?」
「この前行きたいって言ってたイタリアン、予約取れそうなんだけど」
「あ、覚えててくれたんだ」
「当たり前だろ。美華が行きたいって言ってたんだから」
隆人は自然に笑った。
こういうところが好きだった。
何気なく話したことを覚えていてくれる。仕事で疲れているときには無理に会おうとしないし、体調が悪いときには真っ先に心配してくれる。
付き合い始めた頃は、そんな一つひとつが嬉しかった。
今だって、嬉しくないわけではない。
「じゃあ、土曜日にしようかな」
「了解。予約しておく」
「ありがとう」
美華は微笑んだ。
隆人も笑った。
何も問題のない、穏やかな昼休みだった。
それなのに。
美華は最近、こうした時間に小さな違和感を覚えるようになっていた。
隆人といても、つまらないわけではない。
会いたくないわけでもない。
ただ、以前のように心が弾まない。
食事をして、映画を観て、他愛もない話をして、帰宅する。
幸せな時間のはずだった。
けれど、その日の出来事を思い返しても、なぜか心に残るものが少なくなっていた。
自分でも理由が分からなかった。
そして、理由が分からないことが、何よりも嫌だった。
⸻
「真山さん、ちょっといいですか?」
午後3時過ぎ。
営業部のデスクで資料を確認していた美華に、背後から声がかかった。
振り返らなくても、誰なのか分かった。
「何? 加依くん」
「今日の俺、何か違うと思いません?」
「……何が?」
「いや、何かこう、いつもより仕事できそうな雰囲気ありません?」
美華はゆっくりと顔を上げた。
そこには、妙に得意げな表情を浮かべる吉田加依が立っていた。
26歳。
美華より4歳年下の営業社員で、入社以来、何かと話す機会の多い後輩だった。
誰とでも気軽に話せる性格で、社内ではよく冗談を言っている。
ただし、仕事に対して不真面目というわけではない。顧客への対応は丁寧で、任された仕事もきちんとこなす。
美華も、そんな加依を評価していた。
「いつもより仕事できそうってことは、普段はできなさそうって自覚があるの?」
「いや、そういう意味じゃないんですけど」
「じゃあ、どういう意味?」
「今日の俺、ちょっと頼もしくないですか?」
「それ、自分で言う?」
「誰も言ってくれないんで」
美華は思わず吹き出した。
「もう、何なのよ」
「いや、笑ってもらえたならいいです」
「仕事して」
「はい。真面目に働きます」
そう言いながら、加依は自分のデスクへ戻っていった。
美華は小さく笑い、再び資料に目を落とした。
加依とは、いつもこんな調子だった。
仕事の相談を受けることもあれば、くだらない冗談を言い合うこともある。
気を遣わなくていい相手。
少なくとも、美華はそう思っていた。
加依のほうは、少し違っていた。
彼は以前から、美華に好意を抱いていた。
ただ、それを誰かに話したことはない。
美華に恋人がいることも知っていたし、その恋人が同じ会社の根岸隆人であることも当然知っていた。
だから、どうにかなりたいとは考えていなかった。
そもそも加依は、人を好きになること自体が少ない。
過去の恋愛にも、これといって良い思い出はなかった。
誰かと付き合いたいと強く思うことも、最近ではほとんどなかった。
それなのに、美華だけは違った。
いつから好きになったのか、本人にもはっきりとは分からない。
仕事に厳しいところ。
後輩の小さな成長にも気づいてくれるところ。
誰に対しても態度を変えないところ。
そして、冗談を言うと呆れながらも笑ってくれるところ。
気づけば、美華と話す時間が楽しみになっていた。
それでも、今の関係で十分だった。
少なくとも、そのときの加依は本気でそう思っていた。
⸻
その日の夜。
営業部の時計は、午後9時を回っていた。
社内に残っている社員は、数えるほどしかいない。
美華はパソコンの画面を見つめながら、何度目か分からないため息をついた。
週明けに提出する営業資料の修正が、思うように進んでいなかった。
「……あと少し」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
スマートフォンが震えた。
隆人からだった。
『まだ仕事? 無理するなよ』
美華は画面を見つめ、短く返信した。
『もう少しかかりそう。ありがとう』
すぐに返事が届く。
『帰り気をつけてな。土曜日楽しみにしてる』
『私も楽しみにしてるね』
そう打って、スマートフォンを伏せた。
嘘をついたつもりはなかった。
土曜日のデートが嫌なわけではない。
楽しみではある。
ただ、以前のように、その日を待ち遠しく感じることがなくなっていた。
美華は再びパソコンに向き直った。
誰もいない静かなオフィスで、キーボードを打つ音だけが響いていた。
⸻
翌朝。
美華が出社すると、デスクの上に数枚の資料が置かれていた。
その一番上に、小さな黄色いメモ用紙が貼られている。
見慣れた文字だった。
少し右上がりで、決して綺麗とは言えない字。
けれど、一文字ずつ丁寧に書かれていた。
『真山さん
この資料、確認お願いします。
昨日も残業されていましたか?
あまり無理しないでくださいね。
吉田』
美華は、そのメモを手に取った。
「……加依くん」
小さく名前を呟く。
ただの業務連絡だった。
資料の確認をお願いするために、加依が書いたもの。
そこに、ほんの少しだけ労いの言葉が添えられていた。
それだけだった。
けれど、美華はなぜか、そのメモから目を離せなかった。
昨日も残業していたことを、加依は知っていたのだろうか。
それとも、たまたま遅くまで残っている姿を見かけたのだろうか。
普段はあんなにふざけているのに。
どうして、こういうときだけ真面目なのだろう。
美華はもう一度、最後の二行を読んだ。
『あまり無理しないでくださいね。』
不思議だった。
隆人からも、昨夜ほとんど同じことを言われていた。
いつも気にかけてくれる。
自分を大切にしてくれる。
それなのに。
どうして、この短い手書きの言葉が、こんなにも心に残るのだろう。
美華は資料を確認し、必要な修正箇所を書き込んだ。
そして、メモを剥がした。
いつもなら、そのまま処分している。
業務連絡のメモなど、毎日のように受け取っているのだから。
しかし、その日は違った。
美華は小さな紙を指先で持ったまま、しばらく考えていた。
やがて、そっと引き出しを開ける。
そして、メモを一番奥にしまった。
自分でも、なぜそうしたのか分からなかった。
⸻
午後6時半。
加依は取引先から戻ると、デスクでメールの確認を始めた。
「吉田くん、今日もう帰る?」
隣の社員に尋ねられ、時計を見る。
「そうですね。あと少しで帰れそうです」
「お疲れ」
「お疲れ様です」
その会話を、美華は少し離れた席で聞いていた。
本来なら、美華も帰れる時間だった。
今日の仕事は、ほとんど片づいている。
それでも、なぜか帰る気になれなかった。
加依に、メモのお礼を言いたかった。
朝、顔を合わせたときに言えばよかったのに、仕事が忙しくてタイミングを逃してしまった。
別に明日でもいい。
月曜日でもいい。
そう思いながら、美華は何度も時計を確認していた。
午後7時過ぎ。
「お先に失礼します」
加依が鞄を持って立ち上がった。
美華は反射的に顔を上げた。
「あ、加依くん」
「はい?」
「もう帰る?」
「はい。今日は珍しく早く帰れそうです」
「そっか」
「真山さんは?」
「私も、そろそろ帰ろうかな」
「じゃあ、一緒に出ます?」
何でもないように言われた言葉に、美華は少しだけ驚いた。
「……うん。ちょっと待ってて」
パソコンを閉じ、鞄を持つ。
二人は並んでオフィスを出た。
エレベーターを待つ間、加依はいつものように仕事の愚痴を冗談交じりに話していた。
美華は笑いながら相槌を打つ。
そして、会社の外に出たところで、ようやく口を開いた。
「あのさ、加依くん」
「はい?」
「今日の朝、メモありがとうね」
「ああ、資料のやつですか?」
「うん」
「何か不備ありました?」
「違う違う。そうじゃなくて」
美華は少し笑った。
「昨日も残業してたの、気にしてくれてたんだなって」
「ああ……」
加依は一瞬だけ考えるような表情をした。
「昨日、帰るときに真山さんの席、まだ電気ついてたんで」
「そうだったんだ」
「最近ずっと忙しそうじゃないですか」
「まあ、ちょっとね」
「真山さん、何でも自分でやろうとするから」
「そんなことないよ」
「ありますよ。人には頼れって言うくせに、自分は全然頼らないじゃないですか」
美華は言葉に詰まった。
確かに、そのとおりだった。
「……よく見てるね」
「まあ、一応同じ部署なんで」
加依は軽く笑った。
「本当に無理しないでくださいね」
その言葉を聞いた瞬間、美華は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
「ありがとう」
自然と笑顔になった。
「嬉しかったよ、あのメモ」
加依は少し驚いたように美華を見た。
「そんな大したこと書いてないですよ」
「そうかもしれないけど」
美華は少し間を置いた。
「でも、嬉しかった」
加依は視線を逸らした。
「……じゃあ、また書きますよ」
「何それ」
「真山さんが仕事頑張れるように、毎朝応援メッセージでも」
「それはちょっと重いかな」
「ひどいですね」
二人は笑った。
いつもと変わらない、何気ない会話。
けれど、美華にとっては少しだけ違う時間だった。
駅へ向かう途中、加依は何度か冗談を言い、美華はそのたびに笑った。
気づけば、会社で感じていた疲れが少し軽くなっていた。
駅前で別れるとき、美華は思った。
もう少し話していたかった。
その感情に、自分でも少し驚いた。
⸻
週明けの月曜日。
加依が出社すると、自分のデスクに一枚の資料が置かれていた。
先週、美華に確認をお願いしたものだった。
修正箇所には丁寧に印がつけられている。
そして、その上に小さなメモが貼られていた。
『加依くん
資料、確認しました。
修正箇所だけ見直してね。
あと、金曜日はありがとう。
おかげで少し元気が出ました。
真山』
加依は、その文字を見つめた。
美華からメモをもらうこと自体は珍しくない。
仕事上の伝言なら、これまでも何度もあった。
けれど、最後の二行は少し違った。
加依は小さく笑った。
そして、資料の修正を終えると、新しいメモ用紙を一枚取り出した。
『真山さん
修正終わりました。
確認お願いします。
元気が出たならよかったです。
でも、俺のおかげってことは忘れないでくださいね。
吉田』
いつもの冗談だった。
加依は特に深く考えず、そのメモを美華のデスクに置いた。
昼過ぎ。
席に戻った美華は、メモを見つけた。
読み終えた瞬間、思わず笑ってしまった。
「……ほんと、何なの」
そう呟きながら、もう一度読み返す。
そして、ふと気づいた。
自分は今日、加依から何か返事があるのではないかと、少し期待していた。
その事実に、美華は戸惑った。
けれど、深く考えることはしなかった。
ただ、嬉しかった。
それだけだと思うことにした。
美華はメモを剥がし、引き出しを開けた。
そこには、金曜日にもらった最初の一枚が入っていた。
二枚のメモを重ね、そっとしまう。
そのとき、スマートフォンが震えた。
隆人からだった。
『昨日は楽しかったな。また来週どこか行こう』
美華は画面を見つめた。
土曜日のデートは、確かに楽しかった。
美味しい料理を食べて、たくさん話をした。
隆人はいつもどおり優しかった。
何一つ、不満などなかった。
それなのに。
美華の頭に浮かんだのは、土曜日のレストランではなかった。
金曜日の帰り道。
隣を歩きながら、くだらない冗談を言っていた加依の横顔だった。
美華は慌ててスマートフォンに視線を戻した。
『うん、また行こうね』
そう返信する。
そして、引き出しを閉めた。
たった二枚の、小さな手書きのメモ。
その時点では、まだ誰も知らなかった。
その何気ない紙切れが、三人の未来を大きく変えることになるなど。
美華自身でさえ、まだ気づいていなかった。
自分が、加依からの次のメモを待ち始めていることに。
そして、その小さな期待が、いつしか恋と呼ばれる感情に変わっていくことに。
第一話・完
第二話「二十三時の約束」
月曜日の午後。
真山美華は、デスクの引き出しを開けた。
中には、小さな黄色いメモ用紙が二枚入っている。一枚は先週の金曜日に吉田加依から受け取ったもの。もう一枚は、今日の昼過ぎに受け取ったものだった。
『元気が出たならよかったです。でも、俺のおかげってことは忘れないでくださいね。』
美華はその一文を読み返し、小さく笑った。
「……本当に調子いいんだから」
そう呟いて、メモを元の場所に戻す。仕事中に何をしているのだろう。自分でも少しおかしくなった。
加依とは以前から仲が良かった。仕事の相談をすることもあれば、休憩時間にくだらない話で盛り上がることもある。だから、今さら特別な関係になったわけではない。
そう思っていた。
ただ、最近は少し違う。
加依が近くを通ると、無意識に顔を上げてしまう。彼が誰かと楽しそうに話していると、何となく会話の内容が気になる。そして、デスクに戻るたび、小さなメモが置かれていないか確認してしまう。
そんな自分に気づくたび、美華は心の中で苦笑した。
たかがメモなのに。
⸻
火曜日。
加依のデスクに、一枚の資料が置かれていた。その上には、美華からのメモが貼られている。
『加依くん
資料、確認しました。
今回は修正なしです。
昨日はずいぶん自信満々だったね。
その自信、少し分けてほしいくらい(笑)
真山』
加依はメモを読み、思わず笑った。
「……何ですか、それ」
誰もいないデスクに向かって、小さく呟く。そして、引き出しから新しいメモ用紙を取り出した。
『真山さん
修正なし、ありがとうございます。
俺の自信は非売品です。
でも、真山さんになら少し貸してあげてもいいですよ。
吉田』
昼過ぎ、美華がその返事を見つけたとき、思わず声を出して笑ってしまった。
「真山さん、何かいいことありました?」
隣の席の女性社員に尋ねられ、美華は慌てて表情を整えた。
「ううん。何でもないよ」
そう答えながら、メモを資料から剥がす。
そして、誰にも見られないように引き出しへしまった。
その行動が、いつの間にか習慣になり始めていた。
⸻
それから数日。
二人のメモのやり取りは、少しずつ増えていった。
最初は資料の確認や業務上の連絡が中心だった。しかし、いつしか仕事とは関係のない言葉が添えられるようになった。
『今日、昼ご飯食べました?』
『食べたよ。加依くんこそ、ちゃんと食べなさい』
『今日はちゃんと食べました。褒めてください』
『小学生じゃないんだから(笑)』
そんな他愛もないやり取りだった。
直接話せば済む内容ばかり。それなのに、紙に書かれた言葉を読む時間が、美華には妙に心地よかった。
手書きの文字には、その人らしさがある。
加依の字は少し右上がりで、ところどころ形が崩れている。急いで書いたのだろうと思う日もあれば、妙に丁寧な字で書かれている日もあった。
美華は、そんな違いにまで気づくようになっていた。
そして、ある日。
加依からのメモがなかった。
業務上の連絡もなく、加依は朝から外回りに出ていた。夕方になっても戻らず、結局その日は顔を合わせることもなかった。
美華は仕事を終え、鞄を持った。
何となく物足りなかった。
加依と話せなかったからなのか。それとも、メモがなかったからなのか。
自分でも分からなかった。
帰宅後、スマートフォンを確認すると、隆人から連絡が届いていた。
『今週の日曜日、映画でも行かない?』
『いいね。何観る?』
いつもどおりの会話だった。
けれど、返信を終えた美華は、ふと考えてしまった。
明日は加依に会えるだろうか。
そう思った瞬間、自分の気持ちに少しだけ戸惑った。
⸻
翌日の夕方。
美華が外回りから戻ると、デスクに一枚の資料が置かれていた。
その上には、小さなメモ。
『真山さん
昨日は一日外回りでした。
今日もお疲れ様です。
最近、あんまり話せてないですね。
吉田』
美華は最後の一文を見つめた。
最近、あんまり話せてないですね。
加依も同じことを思っていたのだろうか。
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
美華は新しいメモ用紙を取り出した。
『加依くん
外回りお疲れ様。
確かに最近あまり話せてないね。
またゆっくり話そうね。
真山』
書き終えたところで、少し迷った。
「またゆっくり話そうね」
何気なく書いた言葉だったが、読み返すと少し特別な意味を持っているように感じた。
それでも、美華は書き直さなかった。
加依が席を外している間に、資料と一緒にデスクへ置いた。
翌日の午後、返事が届いた。
『真山さん
じゃあ、今日の仕事終わり、少しだけ話しませんか?
近くの公園とかどうですか。
もちろん、疲れてたらまた今度で大丈夫です。
吉田』
美華は、そのメモを何度も読み返した。
仕事帰りに少し話すだけ。
特別なことではない。
そう自分に言い聞かせながらも、心臓が少し速くなっているのが分かった。
返事は短かった。
『いいよ。仕事終わったら声かけてね。』
⸻
その日の夜。
二人は会社から少し離れた公園にいた。
時刻は午後9時を過ぎていた。街灯に照らされたベンチに並んで座り、近くの自動販売機で買った温かい飲み物を手にしていた。
「何か、変な感じですね」
加依が言った。
「何が?」
「会社以外で、真山さんと二人で話すのって」
「確かに。初めてかもね」
「ですよね。何話せばいいんですか?」
「誘ったの加依くんでしょ」
「そうでした」
美華は笑った。
加依も笑った。
最初は仕事の話をしていた。最近の営業成績、取引先での出来事、社内のちょっとした笑い話。
けれど、いつしか話題は私生活へと移っていった。
「加依くんって、休みの日何してるの?」
「特に何もしてないですよ。寝てるか、友達と遊ぶか」
「彼女とか作らないの?」
加依は少しだけ視線を落とした。
「いや、まあ……なかなか好きな人できないんですよね」
「そうなんだ。意外」
「よく言われます」
「モテそうなのに」
「真山さん、それ本気で言ってます?」
「うん。普通に」
加依は困ったように笑った。
「じゃあ、今度誰か紹介してくださいよ」
「いいよ。どんな人がタイプ?」
「そうですね……」
加依は少し考えた。
「仕事に真面目で、優しくて、ちゃんと怒ってくれる人ですかね」
「何それ。お母さんみたい」
「違いますよ」
二人は笑った。
美華は気づいていなかった。
加依が挙げた特徴が、自分自身によく似ていることに。
そして加依も、それ以上は何も言わなかった。
帰り際、美華は公園の出口で足を止めた。
「今日はありがとう。楽しかった」
「こちらこそ。付き合ってもらってありがとうございます」
「また話そうね」
「はい。ぜひ」
その言葉を交わして、二人は別れた。
帰宅する途中、美華は何度も公園での会話を思い返していた。
何か特別な話をしたわけではない。
それでも、久しぶりに時間が過ぎるのを惜しいと感じた。
⸻
それから二人は、仕事帰りに時折会うようになった。
会社から離れた公園。駅とは反対方向にある小さな広場。人通りの少ない河川敷。
場所はその都度変わった。
最初は偶然、帰る時間が重なった延長のようなものだった。しかし、いつしかメモで待ち合わせを決めるようになっていた。
そして、二人のメモには仕事の話がほとんど書かれなくなった。
『今日、少し話せる?』
『今日は難しいです。明日なら大丈夫ですよ』
『じゃあ明日ね』
短い言葉だけで、十分だった。
メモは互いのデスクに置くことが多かったが、私的な内容が増えるにつれ、周囲の目が気になり始めた。
ある日、美華は加依に小声で言った。
「メモ、デスクの上だと誰かに見られそうだよね」
「確かに。じゃあ、やめます?」
その言葉に、美華は一瞬だけ黙った。
やめる。
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥が小さく沈んだ。
「……右側の引き出しなら、私しか開けないから」
加依は少し驚いた表情を浮かべた。
「いいんですか?」
「うん。加依くんも、引き出しでいい?」
「大丈夫ですよ」
こうして、二人のデスクの引き出しが、新しい連絡場所になった。
業務連絡とは違う、二人だけのやり取り。
美華はそれまで取っておいたメモを見返し、最初の一枚を除いてシュレッダーにかけた。
紙が細かく裁断されていく音を聞きながら、少しだけ胸が痛んだ。
どうして隠す必要があるのだろう。
ただ話しているだけなのに。
そう考えた瞬間、美華は自分の中にある答えに気づきそうになった。
けれど、まだ認めたくなかった。
⸻
金曜日の夜。
美華は隆人と夕食を共にしていた。
「最近、仕事どう?」
「忙しいけど、何とかやってるよ」
「そっか。あんまり無理するなよ」
「ありがとう」
隆人は美華の顔を見つめた。
「最近、何かいいことあった?」
「え?」
「いや、前より楽しそうだから」
美華は一瞬、言葉に詰まった。
「そうかな?」
「うん。何となくだけど」
「仕事が少し落ち着いてきたからかな」
「それならよかった」
隆人は笑った。
美華も笑い返した。
しかし、胸の奥に小さな違和感が残った。
隆人は何も悪くない。
優しくて、自分を大切にしてくれる。
それなのに、最近の自分が楽しそうにしている理由を、彼には話せなかった。
その夜、帰宅した美華は、しばらく眠れなかった。
加依に会いたい。
ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。
美華は枕元のスマートフォンを見つめた。
連絡先は知っている。
けれど、仕事以外の用事で連絡したことはほとんどない。
そして何より、二人には小さなメモがあった。
美華は目を閉じた。
明日、会社は休みだった。
加依も休みのはずだった。
それなのに、会いたいと思っている。
仕事帰りでもない。
何か用事があるわけでもない。
ただ、会いたかった。
⸻
翌週の金曜日。
美華は小さなメモ用紙を取り出した。
何度かペンを持ち直し、ようやく文字を書いた。
『加依くん
明日の夜、時間ある?
23時頃なんだけど、
この前の公園で少し話さない?
無理なら全然大丈夫だよ。
真山』
書き終えてから、しばらく見つめた。
休日の夜二十三時。
恋人でもない男性を、そんな時間に誘う。
自分でも、普通ではないことくらい分かっていた。
それでも、会いたかった。
美華は加依が席を外している間に、引き出しへメモを入れた。
午後4時過ぎ。
加依が戻ってきた。
美華はパソコンに向かいながら、彼の様子を気にしていた。
加依が引き出しを開ける。
少しして、顔を上げた。
一瞬だけ、美華と目が合った。
加依は何も言わず、小さく笑った。
それだけで、美華の胸が高鳴った。
夕方、引き出しに返事が入っていた。
『真山さん
大丈夫ですよ。
23時に、この前の公園で。
吉田』
美華はメモを読み、思わず口元を緩めた。
明日が楽しみだった。
その感情は、隆人とのデートを楽しみにしていた頃の自分によく似ていた。
けれど、美華はまだ、その意味を考えないようにしていた。
⸻
土曜日。
夜十時半。
美華は自宅の鏡の前に立っていた。
普段着のままでいいはずだった。
ただ公園で話すだけなのだから。
それなのに、服を選ぶのに思った以上の時間がかかっていた。
「……何やってるんだろう、私」
小さく笑う。
結局、落ち着いた色のニットに、いつものパンツを合わせた。
スマートフォンを確認する。
隆人からは昼間に連絡が来ていた。
『今日はゆっくり休めてる?』
『うん。のんびりしてるよ』
そう返信していた。
嘘ではなかった。
昼間は本当に家でゆっくり過ごしていた。
けれど、今から加依に会うことは伝えていない。
美華はスマートフォンを鞄にしまい、家を出た。
夜の空気は少し冷たかった。
街灯の下を歩きながら、何度も時計を確認する。
午後十時五十五分。
公園に到着すると、既に加依がベンチに座っていた。
「加依くん」
声をかけると、加依が顔を上げた。
「あ、真山さん。お疲れ様です」
「お疲れ様。早いね」
「ちょっと早く着いちゃいました」
「私も、少し早く来たつもりだったんだけど」
美華は笑った。
加依も笑った。
二人は並んでベンチに座った。
休日の夜二十三時。
公園には、ほとんど人の姿がなかった。
遠くを走る車の音と、時折吹く風の音だけが聞こえていた。
「こんな時間に呼び出してごめんね」
美華が言った。
「いや、全然大丈夫ですよ」
「本当に?」
「はい。明日も休みですし」
「そっか」
少し沈黙が流れた。
美華は足元に視線を落とした。
「……何か、変だよね」
「何がですか?」
「休日のこんな時間に、わざわざ会うなんて」
加依は少し考えた。
「まあ、確かに珍しいですよね」
「普通、同僚とはこんなことしないよね」
「そうですね」
加依は笑った。
けれど、その笑顔はいつもより少し控えめだった。
美華は横顔を見つめた。
「……加依くんは、どうして来てくれたの?」
加依は一瞬、言葉を失った。
いつものように冗談を言おうとした。
暇だったから。
真山さんに呼ばれたら断れないから。
そんな言葉なら、いくらでも思いつくはずだった。
けれど、なぜか口にできなかった。
少しの沈黙の後、加依は静かに答えた。
「……会いたかったからです」
美華は顔を上げた。
「え?」
「いや、その……最近、真山さんと話すの楽しいんで」
加依は照れ隠しのように笑った。
「だから、普通に会いたかったです」
美華は何も言えなかった。
胸の奥が、じんわりと温かくなっていく。
そして、気づけば笑っていた。
「……そっか」
少し間を置いて、続けた。
「私も」
加依が美華を見る。
「私も、会いたかった」
二人の間に、静かな沈黙が流れた。
気まずい沈黙ではなかった。
むしろ、その時間さえ心地よかった。
美華は夜空を見上げた。
月が、雲の隙間から少しだけ顔を出していた。
隆人と付き合ってから、約1年。
自分は幸せだった。
今も、幸せなはずだった。
それなのに。
どうして、恋人ではない男性と過ごすこの時間が、こんなにも大切に思えるのだろう。
美華は答えを出せなかった。
ただ、一つだけ分かっていた。
今夜は、まだ帰りたくなかった。
そして、その気持ちが自分だけのものではないことを、少しだけ期待していた。
夜二十三時。
誰も知らない場所で、二人だけの時間が静かに流れていく。
その夜を境に、二人の関係は少しずつ変わり始めた。
まだ恋人ではない。
好きだと伝えたわけでもない。
それでも、二人はもう、ただの同僚ではいられなくなっていた。
第ニ話・完
第三話:恋人ではない二人
日曜日の午前一時。
真山美華は、自宅のベッドに横になっていた。
眠れなかった。
正確には、眠りたくなかったのかもしれない。
つい二時間ほど前まで、吉田加依と一緒にいた。
休日の夜二十三時。人通りの少ない公園で、二人は一時間半ほど話をしていた。仕事のこと、学生時代のこと、好きな食べ物や休日の過ごし方。どれも特別な話ではなかった。
それなのに、帰り道で交わした言葉まで、鮮明に覚えていた。
『また、こうやって話せたら嬉しいです』
別れ際、加依はそう言った。
美華は迷わず答えた。
『うん。私も』
たったそれだけの会話だった。
けれど、その言葉を思い返すたび、胸の奥が温かくなった。
美華は枕元のスマートフォンを手に取った。
隆人から、メッセージが届いていた。
『明日、少し電話できる?』
美華は画面を見つめた。
根岸隆人。交際を始めて約一年になる恋人。
優しくて、誠実で、自分を大切にしてくれる人。
何一つ、不満などない。
それなのに、どうして今夜、加依に会ったことを話せないのだろう。
同じ会社の後輩と、少し話しただけ。
何もやましいことはしていない。
そう言い聞かせようとして、美華は指を止めた。
本当に、そうだろうか。
もし隆人が、別の女性と休日の夜二十三時に二人きりで会っていたら。
そして、そのことを自分に黙っていたら。
美華は、何とも思わないだろうか。
答えは分かっていた。
スマートフォンを伏せ、目を閉じる。
それでも頭に浮かぶのは、加依の横顔だった。
⸻
月曜日の朝。
「真山さん、おはようございます」
出社した美華に、加依が声をかけた。
「おはよう、加依くん」
いつもと変わらない挨拶。
いつもと変わらない笑顔。
けれど、美華は一瞬だけ緊張した。
土曜日の夜、二人は確かに特別な時間を過ごした。
しかし、会社では何も変わっていない。
変わってはいけない。
美華はそう思っていた。
「昨日、ちゃんと休めました?」
加依が尋ねた。
「うん。加依くんは?」
「めちゃくちゃ寝ました」
「何時間?」
「たぶん十時間くらいです」
「寝すぎじゃない?」
「真山さんも見習ってくださいよ」
「十時間は無理かな」
二人は笑った。
そのとき、背後から声がかかった。
「美華、おはよう」
振り返ると、隆人が立っていた。
「おはよう、隆人」
「昨日、電話できなくてごめんな」
「ううん。大丈夫だよ」
「今週、どこかでご飯行こう」
「うん。予定見ておくね」
隆人は微笑み、加依にも声をかけた。
「吉田もおはよう。先週の案件、うまくいったらしいな」
「あ、はい。ありがとうございます」
「よかったな。お疲れ」
「ありがとうございます」
隆人が離れていく。
加依はその背中を見送り、美華に視線を戻した。
「じゃあ、俺も仕事戻りますね」
「うん。頑張って」
加依はいつものように笑い、自分の席へ戻っていった。
美華はその後ろ姿を見つめた。
さっきまで普通に話していたはずなのに。
隆人が現れた瞬間、何かを隠しているような気持ちになった。
その感覚が、美華には少し怖かった。
⸻
二人のメモは、以前より短くなっていた。
『今日、少し会えますか?』
『うん。仕事終わったらね』
それだけで、待ち合わせが決まる。
仕事帰りに会う場所も、毎回変わった。
駅から少し離れた公園。川沿いの遊歩道。住宅街の外れにある小さな広場。
誰かに見つからないため。
二人とも、そう口にしたことはなかった。
けれど、会社の近くでは会わなくなっていた。
そして、以前なら気にしなかったことを、気にするようになった。
並んで歩くときの距離。
周囲に知っている人がいないか。
別れ際、どちらが先に帰ると言い出すか。
二人はまだ、互いの気持ちを確かめていなかった。
それでも、何かが変わっていることだけは分かっていた。
ある水曜日の夜。
二人は川沿いのベンチに座っていた。
「真山さんって、学生時代どんな人だったんですか?」
加依が尋ねた。
「普通だよ。真面目だったと思う」
「絶対、学級委員とかやってたでしょ」
「やってたけど」
「やっぱり」
「何で分かるの?」
「何となくです。人の面倒見るの好きそうなんで」
「好きっていうか、放っておけないだけかな」
「それを面倒見がいいって言うんですよ」
美華は笑った。
「加依くんは?」
「俺ですか? 普通ですよ」
「絶対嘘」
「何でですか」
「授業中とか、ずっと喋ってそう」
「まあ、否定はできないです」
二人は声を出して笑った。
しばらくして、美華が尋ねた。
「ねえ、加依くん」
「はい?」
「今まで、どんな人と付き合ってきたの?」
加依は少し考えた。
「……あんまりいい恋愛してこなかったですね」
「そうなの?」
「はい。好きになっても、うまくいかなかったり。付き合っても、何か違うなって思ったり」
「そっか」
「だから最近は、無理に恋愛しなくてもいいかなって」
美華は横顔を見つめた。
「寂しくならない?」
「たまにはなりますよ」
加依は笑った。
「でも、寂しいからって誰かと付き合うのも違うじゃないですか」
その言葉に、美華は何も返せなかった。
自分はどうなのだろう。
隆人と一緒にいる理由。
好きだから。
大切だから。
それは間違いない。
けれど、もし今、何のしがらみもなく、誰か一人を選べるとしたら。
そんな考えが浮かび、美華は慌てて打ち消した。
「真山さん?」
「え?」
「どうかしました?」
「ううん。何でもない」
美華は笑った。
加依も、それ以上は尋ねなかった。
⸻
金曜日の夕方。
隆人は、少し離れた場所から美華を見ていた。
最近、彼女はよく笑うようになった。
以前は仕事が忙しく、疲れた表情を浮かべることも多かった。それがここ数週間、どこか楽しそうに見える。
本来なら、喜ばしいことだった。
けれど、隆人は小さな違和感を覚えていた。
美華が楽しそうにしている理由を、自分は知らない。
以前なら、仕事であった面白い出来事も、誰かに褒められたことも、真っ先に話してくれた。
最近は、それが少なくなっていた。
「美華」
声をかけると、彼女が振り返った。
「どうしたの?」
「今日、仕事終わったら少し時間ある?」
「あ……今日はちょっと」
「予定ある?」
「うん。少し用事があって」
「そっか。じゃあ、また今度にしよう」
「ごめんね」
「いいよ。気にするな」
隆人は笑った。
美華も笑い返した。
その笑顔を見て、隆人は何となく分かってしまった。
彼女は、何かを隠している。
ただ、それが何なのかは分からなかった。
そして、分からないままでいたい気持ちもあった。
⸻
その夜、美華は加依と会っていた。
場所は、会社から電車で二駅ほど離れた小さな公園だった。
「今日、根岸さんにご飯誘われたんだけど」
美華が何気なく言った。
加依は顔を上げた。
「そうなんですか」
「うん。でも、今日は加依くんと約束してたから」
「……そうだったんですね」
「だから断っちゃった」
加依は少し黙った。
美華はその沈黙に気づき、慌てて言葉を続けた。
「あ、別に加依くんのせいじゃないよ。私がそうしたかっただけだから」
「……はい」
加依は小さく笑った。
けれど、その笑顔はいつもと違っていた。
「真山さん」
「うん?」
「俺と会うの、無理してないですか?」
美華は驚いた。
「何で?」
「いや……根岸さんとの時間もあるじゃないですか」
「それはそうだけど」
「俺と話すために、そっちを断る必要はないですよ」
美華は加依を見つめた。
その言葉が、少しだけ寂しかった。
「……加依くんは、私と会うの嫌?」
「そんなわけないじゃないですか」
加依はすぐに答えた。
その速さに、美華は少し驚いた。
加依も、自分の返事が早すぎたことに気づいたのか、視線を逸らした。
「……嫌なわけないです」
美華の胸が高鳴った。
「そっか」
小さく答える。
そして、少し間を置いて続けた。
「私も、嫌じゃないよ」
加依は何も言わなかった。
美華も、それ以上は言わなかった。
二人の間に、静かな時間が流れた。
⸻
翌週。
二人の関係は、さらに少しずつ変わっていった。
美華は加依に会える日を楽しみにするようになった。
朝、会社へ向かう電車の中で、今日は話せるだろうかと考える。
昼休みには、加依がどこにいるのか気になる。
仕事が終わる頃には、引き出しにメモが入っていないか確認する。
そして、何も入っていない日は、少しだけ寂しくなる。
加依もまた、美華と過ごす時間を大切に感じていた。
ただ、彼には迷いがあった。
美華には恋人がいる。
しかも、その恋人は同じ会社の先輩だった。
根岸隆人は、加依にも親切に接してくれる。
仕事で困っていれば助けてくれるし、成果を出せば素直に褒めてくれる。
そんな人の恋人に、自分は惹かれている。
そして、その恋人も自分に会いたがっている。
加依は、その事実を考えないようにしていた。
けれど、考えないようにするほど、気持ちは大きくなっていった。
⸻
木曜日の午後。
美華は加依のデスクへ向かった。
彼は取引先との打ち合わせで席を外していた。
周囲には数人の社員がいたが、皆それぞれの仕事に集中している。
美華は小さなメモを取り出した。
『加依くん
土曜日、23時。
この前の公園でいい?
美華』
書き終えてから、少し迷った。
これまで、メモには必ず「真山」と書いていた。
しかし、今日は違った。
美華。
自分の名前を、初めて下の名前で書いた。
特別な意味などない。
そう思おうとした。
けれど、心のどこかでは分かっていた。
加依に、自分を少しだけ違う存在として見てほしかった。
美華はメモを折り、加依のデスクの右側の引き出しへ入れた。
そして、何事もなかったように自分の席へ戻った。
その様子を、少し離れた場所から見ていた人物がいた。
根岸隆人だった。
最初は、仕事の資料でも渡しているのだと思った。
しかし、美華は資料を持っていなかった。
小さな紙を一枚、引き出しへ入れただけだった。
なぜ、デスクの上ではなく、引き出しなのだろう。
隆人は、その場から動けなかった。
美華が自分の席へ戻る。
しばらくして、周囲の社員たちも会議室へ移動していった。
加依のデスクには、誰もいなかった。
隆人は、ゆっくりと近づいた。
引き出しに手を伸ばす。
そして、止めた。
何をしているのだろう。
他人の引き出しを勝手に開けるなど、許されることではない。
ましてや、そこにあるかもしれないのは、恋人が別の男性へ渡したものだった。
見なければ、何も知らずに済む。
そう思った。
けれど、最近の美華の様子が頭をよぎった。
以前より楽しそうな笑顔。
増えた仕事帰りの用事。
自分には話してくれなくなった日常。
そして、先ほどの行動。
隆人は、ゆっくりと引き出しを開けた。
中には、小さく折られたメモが一枚あった。
手に取る。
開く。
そこには、見慣れた美華の文字があった。
『加依くん
土曜日、23時。
この前の公園でいい?
美華』
隆人は、その場で動けなくなった。
土曜日。
夜二十三時。
この前の公園。
何度か会っているのだろうか。
しかも、休日の深夜に。
最後の二文字を、何度も見つめた。
『美華』
彼女は、仕事のメモに自分の名前を書くとき、いつも名字を使っていた。
それを、隆人は知っていた。
なぜ、吉田には下の名前なのだろう。
胸の奥が、冷たくなっていく。
ただの同僚。
ただの後輩。
そう思おうとした。
けれど、どうしても無理だった。
隆人はメモを元どおりに折り、引き出しへ戻した。
そして、静かに閉めた。
何も見なかったことにしよう。
そう考えた。
けれど、もう遅かった。
一度読んだ文字は、頭から消えてくれなかった。
⸻
その日の夜。
隆人は美華に電話をかけた。
「もしもし?」
いつもと変わらない声だった。
「美華、今大丈夫?」
「うん。どうしたの?」
「いや、何となく声聞きたくなって」
電話の向こうで、美華が笑った。
「何それ。珍しいね」
「たまにはいいだろ」
「うん。嬉しいよ」
隆人は目を閉じた。
その言葉を、以前なら何の疑いもなく受け取れた。
「……最近、仕事忙しい?」
「まあまあかな。でも、前より落ち着いてきたよ」
「そっか」
「隆人は?」
「俺も、いつもどおり」
少し沈黙が流れた。
隆人は、聞こうと思えば聞けた。
吉田と何かあるのか。
土曜日の夜、どこへ行くのか。
どうして自分には話してくれないのか。
けれど、言えなかった。
もし、美華が本当のことを話したら。
もし、自分ではない誰かを好きになったと言われたら。
その瞬間、二人の関係が終わってしまう気がした。
「美華」
「うん?」
「……俺たち、うまくいってるよな?」
電話の向こうが静かになった。
ほんの数秒。
けれど、隆人には長く感じられた。
「……どうしたの、急に」
美華が尋ねた。
「いや、何でもない」
隆人は笑った。
「変なこと聞いたな」
「ううん」
「じゃあ、また連絡する」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
電話が切れた。
隆人はスマートフォンを握ったまま、しばらく動かなかった。
美華は、うまくいっているとは答えなかった。
そのことが、何よりも苦しかった。
⸻
土曜日。
午後十時四十分。
美華は自宅を出た。
いつもより少しだけ丁寧に髪を整え、落ち着いた色の服を選んでいた。
鏡を見る時間も、以前より長くなっていた。
自分でも気づいている。
加依に、少しでも綺麗だと思われたい。
そんな気持ちがあることに。
もう、ただの同僚だとは思えなかった。
けれど、恋人でもない。
好きだと伝えたわけでもない。
それなのに、会いたい。
会って、話したい。
できれば、少しでも長く一緒にいたい。
美華は駅へ向かう道を歩きながら、スマートフォンを確認した。
隆人からの連絡はなかった。
少しだけ安心してしまった自分が、嫌だった。
午後十一時。
公園に着くと、加依が待っていた。
「真山さん」
「お待たせ」
「いや、俺も今来たところです」
美華は笑った。
「それ、絶対嘘でしょ」
「何で分かるんですか」
「いつも先に来てるから」
加依は困ったように笑った。
「……バレました?」
「うん」
二人は並んで歩き始めた。
公園の奥には、小さな池があった。
水面に街灯の光が揺れている。
「今日、何してたんですか?」
加依が尋ねた。
「掃除して、買い物して、あとは家でのんびりしてた」
「充実してますね」
「普通だよ。加依くんは?」
「昼まで寝てました」
「また?」
「休日の特権です」
美華は笑った。
そして、少しだけ真面目な声で言った。
「……でも、今日会えてよかった」
加依が横を見る。
「俺もです」
「本当に?」
「本当ですよ」
美華は足を止めた。
「ねえ、加依くん」
「はい?」
「私たちって、何なんだろうね」
加依は答えられなかった。
美華も、答えを求めているわけではなかった。
ただ、口にしてしまった。
「会社では普通に話して、仕事が終わったらこうやって会って……」
美華は少し笑った。
「何か、不思議だなって」
加依は静かに頷いた。
「……そうですね」
しばらく沈黙が流れた。
やがて加依が口を開いた。
「真山さん」
「うん?」
「もし、俺と会うことで困ることがあるなら、ちゃんと言ってくださいね」
美華は彼を見つめた。
「困ること?」
「はい。無理してまで会ってほしいわけじゃないんで」
その言葉に、美華は胸の奥が少し痛くなった。
加依は優しい。
いつも、自分のことを気にかけてくれる。
でも、その優しさが時々、距離を感じさせる。
「……加依くんは?」
「え?」
「私と会うの、困らない?」
加依は少し黙った。
そして、ゆっくりと答えた。
「困ることは、あります」
美華の表情がわずかに曇った。
「……そっか」
「でも」
加依が続けた。
「それでも、会いたいと思ってます」
美華は顔を上げた。
加依は夜の池を見つめていた。
「……だから、来ました」
美華は何も言えなかった。
胸の奥が、苦しいほど温かくなった。
嬉しかった。
けれど、同じくらい怖かった。
自分たちは、どこへ向かっているのだろう。
⸻
帰り道。
二人は駅の手前で足を止めた。
「じゃあ、また月曜日に」
加依が言った。
「うん」
美華は頷いた。
けれど、足が動かなかった。
もう少し一緒にいたい。
その言葉が、喉元まで出かかっていた。
「……加依くん」
「はい?」
「また、会ってくれる?」
加依は少し驚いたように美華を見た。
そして、静かに笑った。
「もちろんです」
その返事を聞いて、美華は安心したように笑った。
「ありがとう」
二人は別れた。
加依の姿が見えなくなるまで、美華はその場に立っていた。
そして、ようやく歩き始めたとき、気づいてしまった。
自分はもう、加依に会える日を待っているだけではない。
会えない時間を、寂しいと感じ始めている。
隆人と会えない日には、こんな気持ちにならなかった。
その事実が、美華の胸を締めつけた。
⸻
同じ頃。
隆人は、自宅のソファに座っていた。
テレビはついていたが、内容はほとんど頭に入ってこなかった。
時計を見る。
午後十一時二十分。
今頃、美華は吉田と会っているのだろうか。
どんな話をしているのだろう。
笑っているのだろうか。
自分には見せなくなった笑顔を、彼には見せているのだろうか。
考えたくなかった。
それでも、考えてしまう。
隆人はスマートフォンを手に取った。
美華に連絡しようとして、やめた。
もし今、電話をかけたら。
彼女は出るだろうか。
それとも、出られない理由を考えるだろうか。
どちらの答えも、知りたくなかった。
隆人はスマートフォンを伏せた。
そして、小さく呟いた。
「……俺じゃ、駄目なのかな」
誰もいない部屋に、その声だけが残った。
⸻
日曜日の夜。
美華は、引き出しから一枚のメモを取り出していた。
最初に加依からもらったものだった。
『昨日も残業されていましたか? あまり無理しないでくださいね。』
何度も読んだ言葉。
たった一枚の、何気ないメモ。
あの日、これを受け取らなければ。
加依と仕事帰りに話すことも、休日の夜に会うこともなかったのだろうか。
美華は、メモを指先でなぞった。
そして、ようやく認めた。
自分は、加依が好きなのだと。
ただの後輩ではない。
仲の良い同僚でもない。
会いたくて、声が聞きたくて、笑ってほしくて。
他の誰でもなく、加依に会いたい。
その気持ちに、もう名前をつけないわけにはいかなかった。
美華はメモを胸元に寄せた。
嬉しさよりも先に、涙がこぼれた。
好きになってはいけない人を、好きになってしまった。
隆人は何も悪くない。
自分を傷つけたことも、裏切ったこともない。
それなのに、自分の心は別の人へ向かっている。
美華は涙を拭った。
そして、小さく呟いた。
「……どうしたらいいんだろう」
答えは出なかった。
ただ一つ、分かっていた。
もう、以前の自分には戻れない。
その頃、加依もまた、自宅で一枚のメモを見つめていた。
『土曜日、23時。この前の公園でいい? 美華』
最後に書かれた名前。
美華。
加依は、その二文字を見つめた。
嬉しかった。
けれど、同じくらい怖かった。
最近、美華の気持ちが自分へ向いていることを、何となく感じていた。
もし、それが勘違いではなかったら。
もし、美華が本当に自分を好きになっていたら。
そのとき、自分はどうするのだろう。
加依はメモを折りたたんだ。
好きだった。
ずっと前から。
けれど、彼女には恋人がいる。
自分がその関係を壊していいはずがない。
それなのに、会いたいという気持ちを抑えられなかった。
加依は目を閉じた。
そして、心の中で初めて考えた。
このままでは、いけないのかもしれない。
二人が同じ夜に、それぞれの部屋で同じように悩んでいることを、互いに知るはずもなかった。
そして、もう一人。
根岸隆人もまた、二人の知らない場所で傷ついていた。
誰も、誰かを傷つけたいわけではなかった。
それでも、三人の気持ちは、少しずつすれ違い始めていた。
恋人ではない二人。
けれど、ただの同僚でもない二人。
その曖昧な関係が、誰かの幸せを静かに奪い始めていた。
第三話・完
第4話:気づいていた恋人
月曜日の朝。
真山美華は、いつもより少し早く会社に到着した。
営業部のフロアには、まだ数人しかいない。自分のデスクに鞄を置き、パソコンを立ち上げる。そして、何気なく右側の引き出しを開けた。
何も入っていなかった。
当然だった。まだ始業前なのだから。
それでも、美華は少しだけ寂しくなった。
土曜日の夜、吉田加依と会った。
別れ際には、また会おうと約束した。
それなのに、たった一日会わなかっただけで、もう彼のことを考えている。
美華は引き出しを閉めた。
自分の気持ちには、もう気づいていた。
加依が好きだった。
いつからなのかは分からない。最初のメモを受け取った日なのか、仕事帰りに初めて二人で話した日なのか。それとも、休日の夜二十三時、会いたかったと言われた瞬間なのか。
ただ、今ははっきりしている。
加依に会いたい。
会って、話して、笑ってほしい。
そして、できることなら、自分のことを特別な存在として見てほしい。
そんな気持ちが、日に日に強くなっていた。
「真山さん、おはようございます」
聞き慣れた声に、美華は顔を上げた。
加依だった。
「おはよう、加依くん」
「今日、早いですね」
「ちょっと仕事が残ってて」
「真面目ですねえ」
「加依くんも早いじゃない」
「俺はたまたまです」
いつもの冗談。
いつもの笑顔。
それなのに、美華は何となく違和感を覚えた。
加依は、いつもより早く会話を切り上げた。
「じゃあ、俺も仕事しますね」
「……うん」
加依は自分の席へ戻っていった。
美華はその後ろ姿を見つめた。
気のせいだろうか。
ほんの少しだけ、距離を置かれたような気がした。
⸻
その日の午後。
加依は、営業資料を確認しながら小さくため息をついた。
土曜日の夜、美華と会った。
楽しかった。
一緒にいる時間が、以前よりもずっと大切に感じられた。
けれど、帰宅してから何度も考えていた。
『私たちって、何なんだろうね』
美華の言葉が、頭から離れなかった。
その問いに、自分は答えられなかった。
答えれば、何かが変わってしまう気がした。
加依は、美華が自分に好意を抱き始めていることを感じていた。
もちろん、確信があるわけではない。
けれど、休日の深夜に会いたいと言われることも、別れ際に寂しそうな顔をされることも、以前とは明らかに違っていた。
そして何より、自分自身がその変化を喜んでいた。
そこが、一番の問題だった。
「吉田」
声をかけられ、加依は顔を上げた。
根岸隆人だった。
「先週の提案書、見たよ」
「あ、ありがとうございます」
「よくまとまってた。あの構成なら先方にも伝わりやすいと思う」
「本当ですか。よかったです」
「最近、頑張ってるな」
隆人は自然に笑った。
「何か困ったら言ってくれよ」
「……ありがとうございます」
加依は頭を下げた。
隆人が離れていく。
その背中を見ながら、加依は胸の奥に重いものを感じた。
隆人は、何も知らない。
そう思っていた。
自分が彼の恋人と、何度も夜に会っていること。
休日の二十三時に待ち合わせをしていること。
そして、自分が彼女を好きであること。
そんなことを知らずに、仕事の成果を褒めてくれる。
加依は目を伏せた。
自分は、何をしているのだろう。
⸻
火曜日。
美華は、加依のデスクに一枚の資料を置いた。
その上には、いつものメモが貼られていた。
『加依くん
資料、確認お願いします。
今週、どこかで少し話せる?
美華』
書き終えてから、少しだけ迷った。
最近、メモの最後には「真山」ではなく「美華」と書くようになっていた。
加依は、そのことについて何も言わなかった。
けれど、美華は密かに期待していた。
いつか彼も、自分を「真山さん」ではなく「美華さん」と呼んでくれるのではないかと。
午後三時過ぎ。
加依が資料を返しに来た。
「真山さん、確認終わりました」
「ありがとう」
「あと、メモの件なんですけど」
美華は顔を上げた。
「うん?」
「今週、ちょっと予定が詰まってて」
「……そっか」
「すみません」
「ううん。仕事忙しいもんね」
美華は笑った。
加依も笑った。
しかし、彼が離れた後、美華はしばらくパソコンの画面を見つめたままだった。
断られた。
たったそれだけのことだった。
恋人でもないのだから、会えない日があって当然だった。
それなのに、胸が苦しかった。
⸻
木曜日の夜。
美華は、隆人と食事をしていた。
以前から約束していた、駅前のレストランだった。
「最近、疲れてる?」
隆人が尋ねた。
「え?」
「何か、元気ないように見えるから」
「そうかな。ちょっと仕事が忙しくて」
「そっか」
隆人は頷いた。
「無理するなよ」
美華は微笑んだ。
「ありがとう」
その言葉を聞くたび、胸が痛んだ。
隆人は優しい。
いつも、自分のことを気にかけてくれる。
何かあれば相談に乗ってくれるし、忙しいときには無理に会おうとしない。
こんなに良い人を、どうして好きでい続けられないのだろう。
美華は、自分が嫌になった。
「美華」
「うん?」
「最近、俺といるとき、あんまり笑わなくなったよな」
美華は顔を上げた。
隆人は責めるような口調ではなかった。
ただ、静かに尋ねていた。
「……そんなことないよ」
「そう?」
「うん」
隆人は少し笑った。
「ならいいんだけど」
その笑顔を見て、美華は胸が締めつけられた。
嘘をついている。
何もないような顔をして、彼を安心させようとしている。
それが、どれほど残酷なことなのか。
美華は、ようやく分かり始めていた。
⸻
金曜日の午後。
加依は、会議室で資料を整理していた。
そこへ、美華が入ってきた。
「加依くん」
「……真山さん」
「少し、いい?」
「はい」
美華は扉を閉めた。
会議室には、二人しかいなかった。
「最近、避けてる?」
加依は一瞬、言葉に詰まった。
「……そんなことないですよ」
「本当に?」
「はい」
美華は彼を見つめた。
「じゃあ、どうして会ってくれないの?」
加依は答えられなかった。
美華は少しだけ視線を落とした。
「私、何かした?」
「違います」
加依はすぐに答えた。
「真山さんは、何も悪くないです」
「じゃあ、どうして?」
しばらく沈黙が流れた。
加依は、ゆっくりと口を開いた。
「……最近、ちょっと考えてたんです」
「何を?」
「俺たちのことです」
美華の胸が高鳴った。
俺たち。
加依が初めて、二人の関係をそう表現した。
「……俺たち?」
「はい」
加依は視線を落とした。
「仕事終わりに会ったり、休日の夜に会ったり……最初は、普通に話してるだけだと思ってました」
美華は黙って聞いていた。
「でも、最近は違う気がして」
「……どう違うの?」
加依は答えを探すように、少し間を置いた。
「真山さんには、根岸さんがいますよね」
その名前を聞いた瞬間、美華は胸の奥が冷たくなった。
「……うん」
「根岸さん、いい人じゃないですか」
「うん」
「俺にも、いつも親切にしてくれます」
加依は小さく笑った。
「だから、これ以上は……」
言葉が途切れた。
美華は、続きを聞きたくなかった。
これ以上は会わないほうがいい。
そう言われる気がした。
「……加依くん」
「はい」
「私と会うの、嫌になった?」
加依は顔を上げた。
「違います」
「じゃあ、何?」
「……嫌じゃないから、困ってるんです」
美華は息を止めた。
加依は苦しそうに笑った。
「会いたくないなら、こんなに悩まないですよ」
その言葉に、美華の目が潤んだ。
嬉しかった。
けれど、同時に苦しかった。
加依も、自分と同じように悩んでいる。
それが分かってしまったから。
「……私ね」
美華は小さく口を開いた。
「加依くんと会う時間、すごく楽しみだった」
加依は何も言わなかった。
「仕事が大変な日も、加依くんと話せるって思うと頑張れた。メモが入ってるだけで嬉しくて、何度も読み返して……」
美華は少し笑った。
「自分でも、何やってるんだろうって思ってた」
加依は、静かに聞いていた。
「でも、最近はそれだけじゃなくなってきた」
美華は彼を見つめた。
「会えないと、寂しいの」
加依の表情が変わった。
美華は続けた。
「加依くんが他の人と楽しそうに話してると、ちょっと気になるし。仕事終わりに会えないって言われると、すごく落ち込む」
言葉にするほど、自分の気持ちがはっきりしていった。
「……こんなの、普通じゃないよね」
加依は答えなかった。
答えられなかった。
美華は、涙をこらえるように笑った。
「ごめん。困らせちゃったね」
「……真山さん」
「大丈夫。分かってるから」
美華は一歩下がった。
「加依くんの言うとおりだと思う。私たち、このままじゃ駄目なんだよね」
加依は何も言えなかった。
美華は扉に手をかけた。
そして、振り返らずに言った。
「……でも、会いたかったのは本当だから」
そう言い残して、会議室を出た。
加依は、その場に立ち尽くしていた。
追いかけたかった。
引き止めたかった。
自分も会いたかったと、もう一度伝えたかった。
けれど、それを言えば、美華をさらに苦しめる気がした。
加依は机に手をつき、深く息を吐いた。
「……何やってんだ、俺」
誰もいない会議室に、その声だけが残った。
⸻
その夜。
美華は、自宅で一人泣いていた。
加依に避けられていた理由が、ようやく分かった。
嫌われたわけではなかった。
むしろ、加依も自分との関係に特別な感情を抱き始めていた。
それが分かったからこそ、苦しかった。
好きなのに、会えない。
会いたいのに、会ってはいけない。
そして、その理由は、自分に恋人がいるからだった。
美華はスマートフォンを手に取った。
隆人との写真が、画面に映し出される。
付き合い始めた頃、二人で撮った写真だった。
あの頃は、本当に幸せだった。
隆人と一緒にいる未来を、疑ったことなどなかった。
結婚するのかもしれない。
いつか、家族になるのかもしれない。
そんなことを自然に考えていた。
それなのに。
今、自分が一番会いたいのは、隆人ではなかった。
美華は写真を見つめた。
そして、ようやく気づいた。
自分は、隆人を失いたくないのではない。
隆人を傷つけたくないのだ。
それは、似ているようで全く違う感情だった。
優しい彼を傷つけたくない。
自分を大切にしてくれる人を裏切りたくない。
だから、今まで何も言えなかった。
けれど、このまま付き合い続けることこそ、彼を傷つけるのではないだろうか。
美華は涙を拭った。
そして、隆人にメッセージを送った。
『明日、少し話せる?』
返事は、すぐに届いた。
『もちろん。何時でも大丈夫だよ』
その言葉を見て、美華は再び泣いた。
最後まで、優しい人だった。
⸻
土曜日の午後。
美華と隆人は、以前よく訪れていた喫茶店で向かい合っていた。
付き合い始めた頃、何度も来た場所だった。
窓際の席。
美華が好きだったカフェラテ。
隆人がいつも注文するブラックコーヒー。
何も変わっていなかった。
変わってしまったのは、自分の心だけだった。
「……話って、何?」
隆人が静かに尋ねた。
美華はカップを両手で包み込んだ。
「……隆人に、謝らなきゃいけないことがある」
隆人は黙っていた。
美華は顔を上げられなかった。
「私、最近ずっと、自分の気持ちが分からなくなってた」
「うん」
「隆人は何も悪くないの。いつも優しくしてくれるし、大切にしてくれるし……」
声が震えた。
「本当に、何も不満なんてない」
隆人は静かに聞いていた。
「でも……」
美華は言葉を詰まらせた。
言ってしまえば、もう戻れない。
それでも、言わなければならなかった。
「……好きな人が、できたの」
隆人は、目を閉じた。
ほんの数秒。
そして、ゆっくりと目を開けた。
「……そっか」
その声は、驚くほど静かだった。
美華は涙をこぼした。
「ごめんなさい」
隆人は何も言わなかった。
「本当に、ごめんなさい」
美華は何度も謝った。
隆人は、しばらく窓の外を見つめていた。
そして、静かに尋ねた。
「……吉田?」
美華は顔を上げた。
「……え?」
「好きになったの、吉田なんだろ?」
美華は答えられなかった。
隆人は苦しそうに笑った。
「……やっぱりな」
「どうして……」
「分かるよ」
隆人はカップに視線を落とした。
「ずっと一緒にいたんだから」
美華は涙を拭った。
「……いつから?」
隆人は少し迷った。
そして、ゆっくりと答えた。
「最近、美華が楽しそうにしてるのは気づいてた。でも、その理由を俺には話してくれなくなった」
美華は黙って聞いていた。
「それで、何となく……俺じゃない誰かがいるんじゃないかって思ってた」
隆人は言葉を切った。
引き出しのメモを見たことは、まだ話せなかった。
あの行動が許されるものではないと、自分でも分かっていたからだった。
「……俺、怖かったんだよ」
美華は顔を上げた。
隆人は、初めて苦しそうな表情を見せた。
「聞いたら、本当のことを言われる気がして。そうしたら、もう終わりなんじゃないかって」
美華の涙が止まらなかった。
「だから、気づかないふりしてた」
隆人は小さく笑った。
「情けないよな」
「……そんなことない」
「いや、情けないよ。美華が何か隠してるって分かってたのに、何も聞けなかった」
隆人は少し俯いた。
「……俺、美華のこと、本当に好きだったんだよ」
その言葉に、美華は顔を覆った。
「ごめん……」
「今でも好きだよ」
隆人は静かに続けた。
「だから、正直、別れたくない」
美華は息を詰まらせた。
隆人は、少しだけ声を震わせた。
「吉田じゃなくて、俺を選んでほしいって思ってる」
美華は何も言えなかった。
「でも……」
隆人は言葉を止めた。
しばらくして、ようやく続けた。
「美華がもう俺を好きじゃないなら、無理に引き止めても仕方ないんだろうな」
美華は涙を拭った。
「……隆人」
「うん」
「私、隆人のこと、大切だよ」
「分かってる」
「本当に、大切なの」
「……うん」
隆人は頷いた。
「でも、それと好きって気持ちは、違うんだよな」
美華は何も言えなかった。
隆人は、その沈黙を答えとして受け取った。
しばらくして、彼は静かに尋ねた。
「……美華は、どうしたい?」
美華は涙を拭い、顔を上げた。
「……別れたい」
その言葉を口にした瞬間、胸が締めつけられた。
隆人は目を閉じた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
美華は再び泣いた。
「ごめんなさい」
隆人は、少しだけ笑った。
「謝らなくていい、とは言えないな」
美華は顔を上げた。
「正直、傷ついたよ。すごく」
隆人は静かに続けた。
「俺と付き合ってる間に、他の男を好きになったんだから」
美華は頷いた。
「……うん」
「それは、簡単に許せることじゃない」
「……分かってる」
隆人は窓の外を見た。
「でも、美華がちゃんと話してくれたことは、よかったと思ってる」
美華は何も言えなかった。
「このまま何も知らずに付き合い続けるよりは、よかった」
隆人は、少しだけ寂しそうに笑った。
「……ありがとう」
美華は涙を拭った。
「こちらこそ……今まで、本当にありがとう」
二人は、しばらく黙って座っていた。
以前なら、その沈黙も心地よかった。
けれど、今は違った。
もう、恋人同士ではない。
その事実が、静かに二人の間へ降りてきた。
⸻
喫茶店を出ると、夕方の風が吹いていた。
「じゃあ……」
隆人が言った。
「うん」
美華は頷いた。
「気をつけて帰れよ」
最後まで、いつもと変わらない言葉だった。
美華は涙をこらえた。
「……隆人も」
隆人は小さく笑った。
そして、ゆっくりと歩き始めた。
美華は、その背中を見送った。
何度も見慣れた後ろ姿だった。
けれど、もう追いかけることはできなかった。
隆人が角を曲がり、見えなくなった瞬間、美華はその場に立ち尽くした。
自分で選んだ。
誰かに言われたわけではない。
加依に求められたわけでもない。
自分の気持ちと向き合い、自分で決めた。
それでも、苦しかった。
大切な人を傷つけた。
その事実は、これからも消えることはない。
美華はゆっくりと歩き始めた。
⸻
同じ頃。
加依は、自宅で一人過ごしていた。
美華からのメモは、あの日以来届いていなかった。
自分からも、何も書いていない。
これでよかったのだと思おうとしていた。
美華には恋人がいる。
自分が踏み込んではいけない関係だった。
そう考えるたび、胸の奥が痛んだ。
加依はスマートフォンを手に取った。
美華の連絡先を開く。
何か送ろうとして、やめた。
彼女を困らせたくなかった。
それ以上に、自分が彼女の気持ちを確かめてしまうことが怖かった。
もし、好きだと言われたら。
自分は、きっと断れない。
加依はスマートフォンを伏せた。
そして、目を閉じた。
「……会いたいな」
小さく呟いた。
誰にも聞かれることのない言葉だった。
⸻
日曜日の夜。
美華は、自宅の引き出しを開けた。
一枚の黄色いメモを取り出す。
最初に加依からもらったものだった。
『昨日も残業されていましたか? あまり無理しないでくださいね。』
何度も読み返した文字。
あの日、何気なく受け取った一枚のメモ。
それが、こんな未来につながるとは思わなかった。
美華は、メモをそっと机に置いた。
隆人とは別れた。
けれど、だからといって、すぐに加依と付き合えるわけではない。
加依が自分をどう思っているのか、まだはっきりとは分からなかった。
ただ、今なら言える気がした。
好きだと。
会いたかったと。
これからも一緒にいたいと。
美華は新しいメモ用紙を取り出した。
そして、ゆっくりと文字を書いた。
『加依くん
明日、仕事が終わったら少し話せる?
伝えたいことがあります。
美華』
書き終えたメモを、しばらく見つめた。
もう、隠すための言葉ではなかった。
自分の気持ちを伝えるための言葉だった。
美華はメモを丁寧に折りたたんだ。
明日、加依の引き出しに入れよう。
そう決めた。
⸻
その夜。
隆人は、自宅で一人、スマートフォンの写真を見返していた。
美華と初めて旅行へ行ったときの写真。
誕生日を祝った日の写真。
何気ない休日に撮った写真。
どれも、幸せそうに笑っていた。
隆人は一枚の写真を開いた。
美華が、こちらを見て笑っている。
その笑顔が好きだった。
ずっと、自分の隣で笑っていてほしかった。
けれど、もう叶わない。
隆人はスマートフォンを伏せた。
そして、静かに涙を流した。
誰かを好きになることは、必ずしも幸せなことばかりではない。
好きだからこそ、失うことが怖い。
好きだからこそ、引き止めたくなる。
そして、好きだからこそ、相手の幸せを願いたいと思う。
けれど、今の隆人には、まだそこまで強くなれなかった。
吉田のところへ行け。
そんな言葉を、今すぐ笑顔で言えるはずがなかった。
ただ、いつか。
美華が自分を選ばなかったことを、受け入れられる日が来るのだろうか。
隆人は目を閉じた。
そして、小さく呟いた。
「……幸せになれよ」
その言葉は、まだ美華には届かなかった。
⸻
月曜日。
美華は、いつもより少し早く出社した。
営業部のフロアには、まだ誰もいなかった。
加依のデスクへ向かう。
右側の引き出しを、ゆっくりと開けた。
そして、昨夜書いたメモを入れる。
『伝えたいことがあります。』
たった一行。
けれど、美華にとっては、これまでで一番勇気のいる言葉だった。
引き出しを閉め、振り返る。
窓の外には、朝の光が差し込んでいた。
美華は深く息を吸った。
もう、誰かの優しさに甘えながら、自分の気持ちをごまかすことはしない。
加依がどんな答えを出しても、受け止めよう。
そう決めていた。
その頃、加依は会社へ向かう電車に乗っていた。
今日も、美華と顔を合わせる。
何を話せばいいのか分からなかった。
以前のように冗談を言えるだろうか。
何事もなかったように笑えるだろうか。
加依は窓の外を見つめた。
そして、心の中で思った。
もう一度だけ、二人で話したい。
ただ、それだけでいい。
けれど、その願いが叶うとき、二人の関係が大きく変わることを、彼はまだ知らなかった。
一枚のメモから始まった恋。
その結末が、ようやく近づいていた。
第四話 完。
最終話:もう、隠さなくていい
月曜日の午前八時四十分。
吉田加依は、いつもより少し早く会社に到着した。
営業部のフロアには、まだ数人しかいない。鞄をデスクに置き、パソコンを立ち上げる。いつもと変わらない月曜日の朝だった。
ただ、一つだけ違うことがあった。
加依は、自分のデスクの右側にある引き出しを見つめた。
最近、そこを開けるのが怖くなっていた。
以前は違った。
仕事の合間に引き出しを開けると、小さなメモが入っていることがあった。少し丸みを帯びた、丁寧な文字。仕事の話もあれば、くだらない冗談もあった。
それを読む時間が、加依は好きだった。
いつの間にか、引き出しを開けることが一日の楽しみになっていた。
けれど、最近は何も入っていない。
自分が距離を置いたのだから、当然だった。
それでも、心のどこかで期待してしまう。
今日こそ、何か入っているのではないかと。
加依は小さく息を吐き、引き出しを開けた。
一枚のメモがあった。
『加依くん
今日、仕事が終わったら少し話せる?
伝えたいことがあります。
美華』
加依は、その文字を見つめた。
何度も読み返した。
最後の二文字。
美華。
彼女が自分の名前をそう書くようになったのは、いつからだっただろう。
最初は「真山」だった。
仕事のメモだったから、当然だった。
それが、いつしか「美華」に変わった。
自分は最後まで「吉田」と書いていた。
名前で呼びたいと思ったことは、何度もあった。
けれど、その一歩を踏み出してはいけない気がしていた。
加依はメモを折りたたみ、しばらく手の中で握っていた。
そして、新しい紙を一枚取り出した。
『真山さん
大丈夫です。
仕事が終わったら、いつもの場所で待ってます。
吉田』
書き終えた加依は、少しだけ迷った。
いつもの場所。
そう書いたものの、二人には決まった場所などなかった。
会社から離れた公園。川沿いの遊歩道。駅の裏にある小さな広場。
会うたびに場所を変えていた。
それでも、加依には分かっていた。
美華が最初に自分と仕事帰りに話した、あの公園。
きっと、彼女も同じ場所を思い浮かべるはずだった。
午前九時十五分。
美華はデスクに戻ると、資料の下に小さなメモが置かれていることに気づいた。
加依からだった。
『仕事が終わったら、いつもの場所で待ってます。』
美華は、その一文を見つめた。
会ってくれる。
その事実だけで、胸の奥が温かくなった。
けれど、今日はいつもとは違う。
ただ会いたいから会うのではない。
自分の気持ちを、きちんと伝えるために会う。
そして、加依がどんな答えを出しても、受け止める。
そう決めていた。
「美華、おはよう」
背後から声がした。
振り返ると、隆人が立っていた。
「……おはよう」
別れてから、初めて顔を合わせた。
美華は一瞬、何を話せばいいのか分からなくなった。
隆人は、いつもと変わらない表情を浮かべていた。
「今日の会議、資料できてる?」
「あ、うん。さっき共有したよ」
「ありがとう。助かる」
「ううん」
短い会話だった。
隆人は小さく頷き、自分の席へ戻っていった。
美華は、その後ろ姿を見つめた。
昨日まで恋人だった人。
つい数日前まで、当たり前のように隣にいた人。
今はもう、仕事上の会話しか交わせない。
その現実が、胸に刺さった。
自分が選んだことだった。
だからこそ、目を逸らしてはいけないと思った。
昼休み。
隆人は、社員食堂で一人昼食を取っていた。
普段なら、美華と向かい合って座っていた。
今日も、無意識に二人分の席を探してしまった。
そのことに気づき、苦笑する。
習慣というものは、簡単には消えないらしい。
「根岸さん、ここいいですか?」
声をかけられた。
加依だった。
隆人は顔を上げた。
「ああ、いいよ」
加依は向かいの席に座った。
二人は、しばらく仕事の話をした。
最近の案件のこと。来月の営業目標のこと。新しく入った後輩のこと。
いつもと変わらない会話だった。
けれど、隆人は分かっていた。
目の前の男が、美華の心を動かした相手なのだと。
加依は何も知らないように見えた。
少なくとも、自分が二人の関係に気づいていることは知らないはずだった。
「吉田」
隆人が声をかけた。
「はい?」
「最近、仕事どう?」
「まあ、何とかやってます」
「そっか」
隆人は少し間を置いた。
「無理するなよ」
加依は笑った。
「ありがとうございます」
その笑顔を見た瞬間、隆人は胸の奥に苦いものを感じた。
悪い男なら、よかったのかもしれない。
仕事も適当で、人の気持ちを考えず、軽い気持ちで美華に近づくような男だったら。
そうすれば、心の底から嫌うことができた。
けれど、加依はそうではなかった。
仕事には真面目で、周囲への気遣いもできる。少しふざけたところはあるが、根は誠実な男だった。
だからこそ、苦しかった。
自分が嫌いになれない相手を、美華は好きになった。
それが、何よりも残酷だった。
「……吉田」
「はい?」
隆人は、言葉を飲み込んだ。
美華のこと、好きなのか。
そう聞こうとした。
けれど、今ここで聞くべきではないと思った。
「いや、何でもない」
隆人は笑った。
「午後も頑張ろうな」
「はい。ありがとうございます」
加依は何も気づかず、頭を下げた。
隆人はその姿を見ながら、静かに考えていた。
美華は、もう自分の恋人ではない。
分かっている。
それでも、まだ好きだった。
そして、好きだからこそ、簡単には割り切れなかった。
午後七時四十分。
美華は仕事を終え、会社を出た。
加依からは、昼過ぎにもう一枚メモが届いていた。
『先に着いてたら、ベンチで待ってます。焦らず来てくださいね。』
美華は、その言葉を思い返した。
焦らず来てくださいね。
本当に、加依らしい。
いつも自分のことを気にかけてくれる。
最初のメモも、そうだった。
『あまり無理しないでくださいね。』
何気ない一言だった。
それなのに、自分はその言葉に救われた。
仕事が忙しくて、心に余裕がなくて、誰かに優しくされても素直に喜べなくなっていた頃。
加依の手書きの文字だけが、不思議と胸に残った。
美華は歩く速度を少し落とした。
今夜、すべてを伝えよう。
そう決めていた。
午後八時十五分。
公園に着くと、加依は既にベンチに座っていた。
最初に二人で話した場所だった。
「あ、真山さん」
加依が立ち上がった。
「お疲れ様です」
「お疲れ様。待たせちゃった?」
「いや、全然です」
「また先に来てたんだね」
「まあ、ちょっとだけ」
美華は笑った。
「いつもそう言うよね」
加依も笑った。
けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。
二人は並んでベンチに座った。
しばらく、何も話さなかった。
遠くで車が走る音が聞こえる。
風が吹き、木々の葉が小さく揺れた。
美華は、膝の上で両手を重ねた。
「……加依くん」
「はい」
「今日は、来てくれてありがとう」
「いえ」
加依は少しだけ美華のほうを向いた。
「伝えたいことって、何ですか?」
美華は深く息を吸った。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……隆人と、別れたの」
加依は、言葉を失った。
「……え?」
「土曜日に、ちゃんと話した」
加依は何も言えなかった。
美華は続けた。
「私の気持ちが変わったことも、好きな人ができたことも、全部話した」
加依は視線を落とした。
「……そうだったんですね」
「うん」
しばらく沈黙が流れた。
加依は、ゆっくりと口を開いた。
「……俺のせいですか?」
美華は首を横に振った。
「違うよ」
「でも……」
「加依くんのせいじゃない」
美華は、はっきりと言った。
「私が決めたの」
加依は顔を上げた。
「隆人は何も悪くなかった。優しくて、誠実で、本当に大切にしてくれた」
美華の声が少し震えた。
「でも、私の気持ちは変わってしまった」
加依は黙って聞いていた。
「それを隠したまま付き合い続けるのは、違うと思ったの」
美華は少しだけ笑った。
「だから、ちゃんと終わらせた」
加依は深く息を吐いた。
「……真山さん」
「うん?」
「俺、何て言えばいいか分からないです」
「うん。分かってる」
美華は頷いた。
「でも、今日はちゃんと伝えたくて」
加依は彼女を見つめた。
美華は、まっすぐに彼の目を見た。
「……私、加依くんが好き」
その瞬間、周囲の音が遠くなったように感じた。
加依は、何も言えなかった。
美華は続けた。
「いつから好きになったのか、自分でも分からない。でも、気づいたら加依くんのことばかり考えてた」
声が震えた。
「メモが届くのが嬉しくて、仕事で会えるのが楽しみで、夜に会える日は朝からずっと落ち着かなくて」
美華は小さく笑った。
「会えない日は、寂しかった」
加依は視線を落とした。
美華は言葉を続けた。
「最初は、ただ仲の良い後輩だと思ってた。でも、違った」
少し間を置いた。
「加依くんに会いたかったの。誰でもよかったわけじゃない」
美華の目から、涙がこぼれた。
「……加依くんがよかった」
加依は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……ずるいですよ」
美華は顔を上げた。
「え?」
加依は困ったように笑った。
「そんなこと言われたら、もう我慢できないじゃないですか」
美華は息を止めた。
加依は、少しだけ視線を落とした。
「俺、ずっと好きだったんです」
美華は動けなかった。
「真山さんのこと」
加依は静かに続けた。
「最初から、どうにかなりたいと思ってたわけじゃないです。根岸さんと付き合ってることも知ってましたし」
美華は黙って聞いていた。
「だから、普通に仲の良い先輩と後輩でいられれば、それでよかったんです」
加依は小さく笑った。
「でも、メモのやり取りが始まって、仕事帰りに会うようになって……」
少しだけ声が震えた。
「どんどん好きになってました」
美華の目から、また涙がこぼれた。
「……本当に?」
「はい」
加依は頷いた。
「本当です」
美華は涙を拭った。
「……じゃあ、どうして避けたの?」
加依は少しだけ俯いた。
「怖かったんです」
「何が?」
「真山さんの気持ちが、俺に向いてる気がして」
美華は静かに聞いていた。
「もし本当にそうだったら、俺はきっと嬉しくなってしまう。根岸さんがいるのに、そんなこと思っちゃ駄目だって分かってたんです」
加依は深く息を吐いた。
「それなのに、会いたかった」
美華は何も言わなかった。
「だから、距離を置こうと思いました。これ以上好きになったら、きっと止められなくなるから」
加依は、美華を見つめた。
「……でも、無理でした」
美華は涙をこらえながら笑った。
「私も、無理だった」
加依も笑った。
二人は、しばらく見つめ合っていた。
やがて、美華が静かに尋ねた。
「……加依くん」
「はい」
「私と、付き合ってくれますか?」
加依は、少し驚いたように目を見開いた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……はい」
美華の目から、涙があふれた。
「本当に?」
「もちろんです」
加依は、少しだけ照れくさそうに続けた。
「俺でよければ、よろしくお願いします」
美華は笑った。
涙を流しながら、笑った。
「……ありがとう」
加依も笑った。
「こちらこそ」
しばらくして、美華が言った。
「ねえ、加依くん」
「はい?」
「一つ、お願いしてもいい?」
「何ですか?」
美華は少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「……名前で呼んでほしい」
加依は、思わず笑った。
「急ですね」
「だって、もう恋人なんでしょ?」
「まあ、そうですけど」
「じゃあ、お願い」
加依は少しだけ考えた。
そして、静かに口を開いた。
「……美華さん」
その瞬間、美華の胸が温かくなった。
ずっと、聞きたかった言葉だった。
「……うん」
加依は笑った。
「美華さん」
もう一度、名前を呼んだ。
美華は涙を拭いながら笑った。
「何?」
「好きです」
美華は、しばらく何も言えなかった。
そして、ゆっくりと答えた。
「……私も、大好き」
夜の公園に、二人の笑い声が静かに響いた。
翌日。
営業部のフロアには、いつもどおりの朝が訪れていた。
電話の音。
キーボードを打つ音。
社員同士の会話。
何も変わらない日常だった。
美華はデスクで資料を確認していた。
すると、加依が近づいてきた。
「真山さん、この資料確認お願いします」
「うん。分かった」
仕事中は、いつもどおり。
そう決めていた。
二人は、特別な関係になったからといって、職場での態度を変えるつもりはなかった。
ただ、一つだけ違った。
資料を受け取るとき、加依が小さく笑った。
美華も、思わず笑い返した。
それだけだった。
けれど、二人には十分だった。
その日の夕方。
隆人は、営業部の廊下で加依とすれ違った。
「吉田」
「あ、根岸さん。お疲れ様です」
「お疲れ」
隆人は少しだけ迷った。
そして、静かに言った。
「……ちょっと、いいか?」
加依は頷いた。
二人は、誰もいない小さな会議室へ入った。
隆人は扉を閉めた。
しばらく沈黙が流れた。
「……美華と、付き合うことになったんだって?」
加依は、驚いたように顔を上げた。
「……え?」
「いや、まだ聞いてないけど」
隆人は小さく笑った。
「何となく、そんな気がした」
加依は言葉に詰まった。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
隆人は目を閉じた。
覚悟していたはずだった。
けれど、実際に聞くと、胸が痛んだ。
「……そっか」
加依は深く頭を下げた。
「……すみません」
隆人は、しばらく何も言わなかった。
そして、静かに口を開いた。
「謝られても、正直、困るな」
加依は顔を上げられなかった。
「俺は、美華のこと本当に好きだったから」
隆人は続けた。
「今でも、好きだよ」
加依は何も言えなかった。
「だから、簡単に祝福できるわけじゃない」
隆人は少しだけ笑った。
「正直、悔しいし、腹も立ってる」
加依は頷いた。
「……はい」
「でも、美華が自分で決めたことなんだろ?」
「……はい」
隆人は深く息を吐いた。
「だったら、俺が何か言っても仕方ない」
少し間を置いて、続けた。
「ただ、一つだけ聞かせてくれ」
加依は顔を上げた。
「……はい」
「美華のこと、本当に好きなのか?」
加依は迷わず答えた。
「はい」
隆人は、その目を見つめた。
加依は続けた。
「本当に、好きです」
隆人は、ゆっくりと頷いた。
「……そっか」
しばらく沈黙が流れた。
そして、隆人は静かに言った。
「……幸せにしてやってくれ」
加依は、驚いたように顔を上げた。
隆人は少しだけ笑った。
「俺には、もうできないから」
その言葉に、加依は何も言えなかった。
隆人は続けた。
「美華、最近ずっと笑ってなかったんだよ」
加依は黙って聞いていた。
「俺といるとき、楽しそうにしてくれてた。でも、どこか無理してるように見えた」
隆人は視線を落とした。
「それが、最近また笑うようになった」
加依は何も言えなかった。
「……悔しいけど、その理由がお前なんだろうな」
隆人は小さく笑った。
そして、ゆっくりと扉へ向かった。
「根岸さん」
加依が声をかけた。
隆人は振り返った。
「……ありがとうございます」
隆人は少しだけ苦笑した。
「礼を言われることじゃない」
そして、静かに続けた。
「……俺の前では、しばらく惚気るなよ」
加依は思わず笑った。
「……はい」
隆人も、小さく笑った。
そして、会議室を出ていった。
廊下を歩きながら、隆人は深く息を吐いた。
まだ、胸は痛かった。
美華を失った悲しみが消えたわけではない。
加依を心から許せたわけでもない。
けれど、少しだけ前へ進めた気がした。
美華が選んだ未来を、自分も受け入れよう。
そう思った。
それから数週間が過ぎた。
美華と加依は、以前と同じように仕事をしていた。
会社では先輩と後輩。
仕事が終われば、恋人同士。
二人は、少しずつ新しい関係に慣れていった。
休日には昼間から会うようになった。
人目を気にして場所を変える必要もなくなった。
夜二十三時まで待たなくても、会えるようになった。
それでも、二人は時々、あの公園を訪れた。
最初に仕事帰りに話した場所。
初めて休日の夜に会った場所。
互いの気持ちを確かめた場所。
二人にとって、大切な場所だった。
ある土曜日の午後。
美華と加依は、公園のベンチに並んで座っていた。
「ねえ、加依くん」
「はい?」
「覚えてる? 最初にここで話した日のこと」
「もちろんです」
「何話したっけ?」
「真山さんの学生時代の話とか」
「そうだったね」
美華は笑った。
「あと、加依くんの好きなタイプも聞いた」
加依は少しだけ困ったように笑った。
「ああ……そんな話もしましたね」
「仕事に真面目で、優しくて、ちゃんと怒ってくれる人」
加依は顔を上げた。
美華は、いたずらっぽく笑った。
「……あれって、私のことだった?」
加依は少し黙った。
そして、諦めたように笑った。
「……今さら聞きます?」
美華は声を出して笑った。
「やっぱり!」
「いや、まあ……そうですけど」
「何で言ってくれなかったの?」
「言えるわけないじゃないですか」
加依は笑った。
「彼氏いる人に、好きなタイプはあなたですなんて」
美華は笑いながら頷いた。
「確かにね」
しばらくして、加依が尋ねた。
「美華さんは?」
「何?」
「俺のどこが好きなんですか?」
美華は少し考えた。
「……全部」
加依は笑った。
「それ、ずるくないですか?」
「本当だもん」
「一つくらい教えてくださいよ」
美華は、少しだけ真面目な表情になった。
「……優しいところ」
加依は何も言わなかった。
「でも、ただ優しいだけじゃないの」
美華は続けた。
「私が頑張ってることも、無理してることも、ちゃんと見てくれるところ」
加依は静かに聞いていた。
「それから、一緒にいると自然に笑えるところ」
美華は微笑んだ。
「加依くんといると、無理に明るくしなくてもいいんだよね」
加依は少しだけ照れくさそうに笑った。
「……それ、嬉しいです」
美華も笑った。
そして、ふと思い出したように言った。
「そうだ。見せたいものがあるの」
「何ですか?」
美華は鞄から、小さな封筒を取り出した。
中には、一枚の黄色いメモ用紙が入っていた。
加依は、それを見て驚いた。
「……え?」
美華は笑った。
「覚えてる?」
加依はメモを手に取った。
そこには、自分の字があった。
『真山さん
この資料、確認お願いします。
昨日も残業されていましたか? あまり無理しないでくださいね。
吉田』
加依は、しばらく黙っていた。
「……これ」
「うん」
美華は微笑んだ。
「最初にもらったメモ」
加依は驚いたように顔を上げた。
「まだ持ってたんですか?」
「うん。ずっと」
「……何で?」
美華は少しだけ笑った。
「捨てられなかったの」
加依はメモを見つめた。
「こんなの、ただの業務連絡ですよ」
「そうだね」
美華は頷いた。
「でも、私には違った」
加依は顔を上げた。
美華は、ゆっくりと続けた。
「あの頃、仕事も忙しくて、何となく気持ちに余裕がなくて。誰かに優しくされても、素直に嬉しいって思えないことがあったの」
加依は静かに聞いていた。
「でも、このメモを読んだとき、すごく嬉しかった」
美華は少しだけ目を細めた。
「誰かがちゃんと見てくれてるんだって思った」
加依は何も言わなかった。
「それで、加依くんにお礼を言いたくて、仕事が終わるのを待ってた」
加依は、小さく笑った。
「……そうだったんですね」
「うん」
美華は頷いた。
「そこから、全部始まったんだよ」
加依は、もう一度メモを見つめた。
何気なく書いた言葉だった。
特別な意味を込めたわけではない。
ただ、忙しそうにしている美華が心配だった。
それだけだった。
けれど、その一枚が、彼女の心に残っていた。
そして、自分たちをここまで連れてきた。
加依は、ゆっくりとメモを美華へ返した。
「……大切にしてくれて、ありがとうございます」
美華は笑った。
「こちらこそ、書いてくれてありがとう」
しばらく、二人は黙っていた。
公園には、穏やかな午後の光が差し込んでいた。
以前、夜二十三時に会っていた頃とは違う。
周囲には家族連れや散歩をする人たちがいた。
誰かに見つからないようにする必要もない。
帰る時間を気にする必要もない。
ただ、隣にいる。
それだけで、十分だった。
「ねえ、加依くん」
「はい?」
「もう、メモ書かなくなっちゃったね」
加依は笑った。
「そうですね」
「ちょっと寂しいかも」
「じゃあ、また書きましょうか?」
「本当?」
「はい。毎朝、応援メッセージでも」
美華は声を出して笑った。
「それ、最初にも言ってたよね」
「覚えてたんですか?」
「もちろん」
加依も笑った。
「じゃあ、明日から書きますよ」
「何て?」
加依は少し考えた。
そして、静かに言った。
「……今日も好きです、とか」
美華は、一瞬だけ黙った。
そして、笑った。
「それ、毎日書いてくれるの?」
「毎日でも」
「じゃあ、私も返事書くね」
「何て?」
美華は、少しだけ照れくさそうに笑った。
「……私も大好き、って」
加依は笑った。
「それ、いいですね」
美華も笑った。
そして、もう一度、最初のメモを見つめた。
あの日、この一枚を受け取らなければ。
加依を好きになることもなかったのだろうか。
そう考えた。
けれど、すぐに首を横に振った。
きっと、いつか好きになっていた。
仕事に真面目で、優しくて、少しふざけていて。
自分のことを、ちゃんと見てくれる人。
そんな加依を、いつか好きになっていたと思う。
ただ、このメモが、そのきっかけになった。
美華は、メモを封筒へ戻した。
そして、加依を見つめた。
「……加依くん」
「はい?」
「好きになってよかった」
加依は、少しだけ驚いたように目を見開いた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……俺もです」
美華は微笑んだ。
もう、気持ちを隠す必要はない。
会いたいと思ったら、会いたいと言える。
好きだと思ったら、好きだと伝えられる。
夜二十三時まで待たなくてもいい。
引き出しにメモを隠さなくてもいい。
誰かに見つかることを恐れながら、離れた場所で待ち合わせる必要もない。
二人は、もう恋人同士なのだから。
月曜日の朝。
美華が出社すると、デスクの上に一枚の資料が置かれていた。
その上には、小さな黄色いメモ用紙。
見慣れた、少し右上がりの文字だった。
『美華さん
この資料、確認お願いします。
今日も無理しすぎないでくださいね。
あと、今日も好きです。
加依』
美華は、そのメモを見つめた。
そして、思わず笑った。
「……本当に書いてる」
少し離れた席で、加依が仕事をしていた。
美華が顔を上げると、彼と目が合った。
加依は、小さく笑った。
美華も笑い返した。
そして、新しいメモ用紙を取り出した。
『加依くん
資料、確認しました。
今日も頑張ろうね。
私も、大好きです。
美華』
書き終えた美華は、少しだけ考えた。
以前なら、このメモを加依の引き出しに入れていた。
誰にも見られないように。
二人だけの秘密として。
けれど、今日は違った。
美華は資料を持ち、加依のデスクへ向かった。
「加依くん」
「はい?」
「資料、確認したよ」
「ありがとうございます」
美華は資料を渡した。
その上には、小さなメモが貼られていた。
加依は文字を読み、思わず笑った。
「……ありがとうございます」
美華も笑った。
「どういたしまして」
それだけの会話だった。
けれど、二人には十分だった。
美華は自分のデスクへ戻り、引き出しを開けた。
中には、最初にもらった一枚のメモが、大切にしまわれていた。
『あまり無理しないでくださいね。』
美華は、その文字を見つめた。
そして、静かに微笑んだ。
一枚のメモから始まった恋。
誰かを傷つけ、悩み、迷いながら、それでも自分の気持ちと向き合った恋。
決して、綺麗なことばかりではなかった。
それでも、美華は思う。
あの日、加依がこのメモを書いてくれてよかった。
あの日、自分がその言葉を受け取ってよかった。
そして、あの日、勇気を出してお礼を伝えてよかった。
もし、あのとき何も言わずに帰っていたら。
二人は今も、ただの先輩と後輩だったかもしれない。
美華は、引き出しをそっと閉めた。
そして、仕事へ戻った。
窓の外には、穏やかな朝の光が差し込んでいた。
今日も、いつもと変わらない一日が始まる。
けれど、その日常には、確かな幸せがあった。
もう、隠さなくていい。
もう、遠回りしなくていい。
これからは、同じ未来を見つめていける。
美華は、少し離れた席にいる加依を見た。
彼もまた、こちらを見ていた。
二人は、何も言わずに微笑み合った。
それだけで、十分だった。
――たった一枚のメモが、二人の未来を書き始めた。
完
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