芸道世話狂言 三幕四場
人物
千代造(ちよざう)盲目の三味線弾き。常人を絶する聴覚を持つ
雪乃(ゆきの)北新地島村屋の芸妓。耳聞こえず、床の震へにて舞ふ
黒川武之進(くろかはたけのしん)勤皇派の浪人。暗殺者
おまき 島村屋の女将。二人の親代はり
市兵衛(いちべゑ)堂島川の船頭。千代造の幼馴染み
小野寺求馬(をのでらもとめ)幕府勘定方の役人
柏木弥十郎(かしはぎやじふらう)東町奉行所与力
幇間繁八(はんぱち)
刺客甲、乙、丙、仲居おなつ、捕り方
竹本、三味線
序幕 北新地茶屋島村屋奥座敷の場
時 元治元年十二月、冬の夜
所 大坂、北新地、茶屋島村屋
ト、幕明く。大道具、豪奢なる奥座敷。金屏風、行灯の灯。下手は縁側、障子の外に庭の気配。上手は襖。下座、座敷の三味線に、遠く川風。
ト、上座に小野寺、傍らにおまき、下手に幇間繁八。その前に毛氈を敷き、上手に千代造、三味線を構へて座る。眼を閉ぢ、撥を持つ。
繁八 「いやあ、旦那。今宵のお座敷は、島村屋の秘蔵つ子を見せていただける、言ふて、北新地中の噂だすで」
小野寺 「ふむ。耳の聞こえぬ芸妓が、舞ふと聞いたが」
おまき 「へえ、お恥づかしい話でおます。熱病で耳を失ひましてからも、舞だけは寸分も狂はんといふ、不思議な子で。旦那はんのお目汚しでござりますが、どうぞご覧くださいまし」
小野寺 「おもしろい。やつてみせい」
ト、おまき、襖に向かひ手を打つ。襖あき、雪乃、白足袋に白襟の舞姿にて、扇を持ちて静かに現れる。毛氈の中央に進み、小野寺に深く一礼。
繁八 「ほう、これはまた、お美しいこと」
ト、雪乃、顔を上げ、千代造の方を見る。千代造、三味線に撥を置く。
千代造 「(ト、小野寺に)旦那はん。今宵は、地唄の雪を、弾かしていただきます」
小野寺 「……うむ」
千代造 「(ト、ふと首を傾け)旦那はん、今宵の息は、いつもと違ひます」
小野寺 「なに」
千代造 「ご無礼を。目の不自由な者の、耳の癖でおます。何ぞ、お胸に懸かることでもおありやと」
小野寺 「(ト、咳払ひ)気のせゐだ。始めい」
ト、千代造、撥を振る。下座、三味線入り。千代造の弾き唄。
千代造 〽夜の雪 降るとも見えず 積もるとも 知らで灯影に ひとり寝の 袖の氷を 誰か解かまし
ト、雪乃、千代造の三味線の音ではなく、足裏に伝はる畳の震へに合はせ、扇を開き、舞ひ始める。足拍子、ト、トン、ト、トン。千代造の撥と、一瞬の狂ひもなく重なる。
ト、繁八、悪戯を思ひつき、雪乃の背後で突然、手を叩く。雪乃、振り向かず、舞を続ける。
繁八 「(ト、目を丸くし)聞こえてへん。ほんまに聞こえてへんのや」
小野寺 「(ト、感嘆し)見事。……これは、寸分違はぬ。足の裏で、音を聞いておるのか」
おまき 「へえ。三味線の胴から、板敷きの畳へ、畳から足へ。千代造はんの撥の震へだけを、頼りに舞ひますのや」
小野寺 「目の見えぬ弾き手と、耳の聞こえぬ舞手。……奇妙な縁だな」
ト、雪乃、舞ひ終へ、扇を閉ぢて一礼。小野寺、酒を飲みながら、ふとあたりを窺ふ。
小野寺 「(ト、低く)おまき。今宵は人払ひを頼んであつたな」
おまき 「へえ。お言ひつけどほり」
小野寺 「ならばよい。……もう一差し、舞つてもらはうか」
ト、千代造、はつと顔を上げ、耳を澄ます。
千代造 「(ト、小声)女将はん」
おまき 「どないしはりました」
千代造 「庭に、足音が」
おまき 「足音」
千代造 「五人。……いや、六人。草履の鳴りが、普通のお客はんのとちがひます。刀の鞘が、石に当たつとります」
ト、おまき、はつとして障子を見る。
小野寺 「(ト、顔色変はり、懐に手を入れ)来たか」
繁八 「な、何だす、何が来たんだす」
ト、ツケ。下座、早間の三味線。庭の障子、蹴破られ、黒川、刺客三人を従へ踏み込む。黒川、黒羽二重の着流し、眼に冷たき光。
黒川 「小野寺求馬。公金を横領し、幕府の腐敗を肥え太らせた罪、天に代はりて誅す」
小野寺 「おのれ、勤皇浪人ども。……わしが何をしたと申す」
黒川 「懐のものを出せ」
小野寺 「出せるものか」
ト、小野寺、刀を抜く。同時に、刺客の一人、行灯を叩き落とす。座敷、真の闇。下座、ぱたりと止まる。ツケ、小さく。
ト、暗闇の立ち回り(だんまり)。人々、手探りにて入り乱れ、無言にて動く。刀の触れ合ふ音、衣擦れの音のみ。
千代造 「(ト、闇の中、低く)雪乃。動くな。……伏せ」
ト、千代造、雪乃の気配を探り、そつと膝で這ふ。雪乃、床に手をつき、震へてゐる。その掌に、湿り気と温みが触れる。雪乃、はつと手を引く。指先に、黒き血。
千代造 「(ト、耳を澄まし)今、膝から崩れた。……小野寺の旦那、斬られはつた」
ト、小野寺の呻き声。雪乃のすぐ傍で、小野寺、這ひずりながら、血に濡れた手で雪乃の袂へ書状を押し込む。雪乃、身を強張らせる。
小野寺 「(ト、掠れ声で)……頼む。……柏木……」
ト、小野寺、息絶える。
千代造 「(ト、小声)柏木。……そない言ふたな」
黒川 「(ト、闇の中)手燭を」
ト、刺客乙、手燭に火を移す。座敷、ほのかに明るくなる。小野寺の亡骸。畳に広がる血。繁八、座敷の隅に腰を抜かして気絶。千代造と雪乃の姿は、すでに無い。
黒川 「(ト、亡骸の懐を探り)ない。密書が、ない」
刺客甲 「黒川さん、あの芸妓と盲目の三味線弾きが、居りません」
黒川 「(ト、鋭く)あの女が持つてゐる。死に際、小野寺は、あの女の気配のする方へ這うて行つた。……追へ」
ト、刺客たち、庭へ飛び出す。黒川も続かうとして、おまきが縁側に立ちはだかる。
おまき 「お待ちやす」
黒川 「退け」
おまき 「ここは島村屋の座敷や。お上の旦那を殺しはって、あの子らまで連れてゆく気かいな」
黒川 「(ト、冷たく)女。退かねば、お前も斬る」
おまき 「斬りたいなら斬りなはれ。……けどな、あの二人は、あたしの子や。手え出したら、地獄の底までも呪ひますで」
ト、黒川、一瞬たじろぐが、おまきを突き飛ばして、縁側から庭へ消える。ツケ。おまき、倒れたまま、裏口の方を見やる。
おまき 「(ト、独り言)堂島の市兵衛はんを頼りや。千代造、雪乃。……無事に、逃げ延びてや」
ト、竹本、
竹本 〽血の香を連れて 夜の闇 見えぬ眼が 聞こえぬ耳の 手を引けば ふたつ欠けたる 身を寄せ合ふ 道の先ぞ 知られぬ
ト、座敷の奥の納戸より、千代造、雪乃の手を引き、三味線を背負ひて、裏口より庭へ走り出る。雪乃、袂の書状を押さへ、怯えた眼にて千代造を見る。千代造、その手を強く握り返す。
千代造 「(ト、耳を澄ませ)あつち。北の方角や。……市兵衛のとこへ行く。ついてき」
ト、二人、花道へ。雪、ちらりと一片、舞ひ落つる。千代造、足を止め、顔を上げる。
千代造 「(ト、小声)雪や。……降り出した」
ト、柝の頭。幕。
二幕目 堂島川端舟小屋の場
時 それより数日の後、冬の夜
所 大坂、堂島川のほとり、廃船の舟小屋
ト、幕明く。大道具、朽ちかけた舟小屋の内。破れ舟が一艘、屋根を支ふ。上手に川へ抜ける戸口。奥は堂島川の暗き水、対岸に葦原。凍てつく風の音。下座、川波に遠き犬の遠吠え。
ト、舞台中央、千代造、破れ筵の上に座し、三味線を傍らに置く。その膝に、雪乃、千代造の羽織にくるまり、寒さに震へてゐる。
千代造 「寒いか、雪乃」
ト、雪乃、千代造の手を取り、己が頬に当てて頷く。
千代造 「火ィ焚きたいとこやけど、煙が上がれば追手に見つかる。……堪忍やで。こんな目の見えぬ男に、こんな目に遭はせてしもて」
ト、雪乃、首を振り、千代造の掌に指で字を書く。
ト、雪乃、指で「ち」「よ」と書く。千代造、静かにそれを読み取る。
千代造 「(ト、微笑み)ち、よ。……あたしの名ァを呼んでくれたんか」
ト、雪乃、さらに指で書く。「あ」「り」「が」「と」。千代造、頷く。
千代造 「何言ふてるのや。礼なんぞ要らん。あたしはお前の舞を、ずつと聞いてきた。お前が踏む足拍子で、あたしの目ェは、お前の姿を見てきたんや」
ト、雪乃、千代造の頬に手を伸ばし、そつと触れる。千代造、その手に己が手を重ねる。
千代造 「雪乃。……あたしは幼い頃に光を失ひ、世の中の音だけが、あたしの全てやつた。人の声の裏にある嘘、風の音の奥の冷たさ。そんなもんばかり聞こえて、ほんまに心を開けるもんは、なかつた」
ト、雪乃、千代造の顔を見つめる。
千代造 「そこへお前が来た。耳の聞こえぬ、舞手や言ふて。……あたしの三味線の震へだけで、お前は舞ふ。あたしの音を、嘘も真もなく、ただそのまま、受け取つてくれた。……あれは、あたしにとつて初めての、全部を預けられる相手やつた」
ト、竹本、
竹本 〽言の葉の 届かぬ人と 見えぬ人 掌に書く字 ひと文字ごとに 心通ふ 夜の底
ト、雪乃、千代造の手を取り、己が胸の中央に当てさせる。心の臓の鼓動が、千代造の掌に伝はる。
千代造 「(ト、はつと息を呑み)雪乃の心の臓の音や。……早いな。怖いんやな」
ト、雪乃、頷く。千代造、三味線を引き寄せ、撥を使はず、右手の指先で静かに弦を爪弾く。ごく微かな音。
千代造 「聞こえんでも、この木の震へなら、お前には届くやろ」
ト、千代造、三味線の胴を、雪乃の胸にそつと押し当てる。弦をゆるやかに爪弾く。雪乃、眼を閉じ、胴の震へを胸で受ける。
ト、下座、千代造の爪弾きに合はせ、極めて小さく三味線。竹本、ゆるやかに、
竹本 〽爪弾く糸の 一筋に 言はぬ思ひを 乗せぬれば 音には出でず 胴の木の 震へとなりて 胸に染む
ト、雪乃の眼より、涙、零れ落ちる。やがて雪乃、千代造の掌に指で書く。
ト、雪乃、「す」「き」。千代造、息を止める。
千代造 「(ト、声を震はせ)今、何と」
ト、雪乃、もう一度、ゆつくりと「す」「き」と書く。千代造、静かに頷き、雪乃を抱き締める。
千代造 「(ト、小声)あたしもや。……言ふてなかつたけど、ずうつと前から」
ト、戸口の外に足音。千代造、はつと顔を上げ、雪乃を背に庇ふ。
市兵衛 「(ト、外より)おい、千代造。おれだ、市兵衛だ」
千代造 「(ト、安堵)市兵衛か」
ト、市兵衛、戸口より身をかがめて入る。縞の半纏に腹巻、肩に雪をのせ、手に竹皮包みと徳利を提げる。
市兵衛 「ふう、寒い寒い。握り飯と、焼酎を持つて来た。まづ腹に入れろ」
千代造 「すまんな、市兵衛。お前にも迷惑かけて」
市兵衛 「何を言ふ。幼馴染みを見捨てるやうな男に、船頭が務まるか。……おう、嬢ちやん、これを」
ト、市兵衛、雪乃に握り飯を差し出す。雪乃、深く頭を下げて受け取る。
市兵衛 「(ト、声をひそめ)千代造。外の様子を話すぞ。島村屋は、お上の探索で上を下への大騒ぎだ。小野寺様を斬つた下手人は、勤皇浪人の黒川武之進。そいつが今、血眼で二人を探してゐる」
千代造 「黒川。……あの、冷たい足音の男や」
市兵衛 「川下の船宿はもう押さへられた。この舟小屋も、見つかるのは時間の問題だ。夜明け前に八軒家から京へ上る舟が出る。それに乗れ」
千代造 「八軒家。……あそこは遠いな」
市兵衛 「淀川の堤を行くしかねえ。おれが先に走つて、舟の手配をする」
ト、雪乃、握り飯を食べ終へ、手を拭ふ。袂を整へようとして、袂の中から、血のにじんだ書状が滑り落ちる。
市兵衛 「(ト、拾ひ上げ)なんだ、これは」
ト、雪乃、はつとして取り戻さうとする。千代造、耳を澄ます。
千代造 「それや。小野寺の旦那が、死ぬ間際に雪乃の袂に押し込んだもんや。あたしは、柏木、いふ言葉だけ聞いた」
市兵衛 「(ト、書状を開き、戸の隙の雪明かりにかざし)……東町奉行所与力、柏木弥十郎様。……軍資金の出納控へ。(ト、読み進め)……勘定方、小野寺求馬。……受け取りし者、尾張屋喜助、浪人黒川武之進……(ト、息を呑み)これは」
千代造 「どないした」
市兵衛 「横領した公金の行き先が、書いてある。浪人どもの名前も。黒川の名も、ここにある」
千代造 「(ト、静かに)さうか。黒川は、これを取り戻さんと、自分の首が危ないわけや」
市兵衛 「幕臣の汚職と、勤皇浪人の資金源。……両方を暴く、とんでもねえ書付だ」
ト、雪乃、書状を見つめ、事の重大さを悟る。やがて千代造の掌に指で書く。
ト、雪乃、「わ」「た」「し」。さらに、「お」「と」「り」。
千代造 「(ト、愕然と)お、と、り……囮、か。あかん。そんなん、絶対にあかん」
ト、雪乃、首を振り、千代造の頬に手を当て、静かに微笑む。そして書状を市兵衛に差し出し、深く頭を下げる。
市兵衛 「(ト、受け取り)嬢ちやん」
千代造 「雪乃、なんで、そんなこと。お前ひとりで」
ト、雪乃、さらに千代造の掌に、ゆつくりと指で書く。
ト、「ち」「よ」「を」「に」「が」「す」。
千代造 「(ト、声を震はせ)あたしを、逃がす……。そんな勝手な」
ト、戸口の外に、ざくり、ざくりと足音。千代造、さつと耳を澄ませる。
千代造 「(ト、小声)来たな。葦原を踏む足音や。……三人、いや五人。あの黒川の足の運びも、混じつとる」
市兵衛 「もう嗅ぎつけやがつたか」
ト、千代造、顔を上げる。戸の隙から、雪の一片が舞ひ込む。
千代造 「(ト、静かに)それと、もう一つ聞こえる。……雪や。さつきより、ずつと重い音で降つてきた。大雪に、なる」
ト、下座、風の音、強まる。
市兵衛 「(ト、雪乃に)嬢ちやん、囮はおれが引き受ける。お前は、千代造の杖になつてやれ。……千代造、裏から出て堤を渡るぞ。この書状は、おれが奉行所へ届ける」
ト、市兵衛、書状を懐に入れ、千代造に肩を貸す。千代造、三味線を背負ひ、雪乃の手を取る。雪乃、戸口に向かひ、振り返つて舟小屋に深く一礼する。
竹本 〽凍る夜に 雪の音聞く 耳持てど 人の覚悟を 聞くことはなし 聞こえぬ人の 胸の内
ト、三人、戸口より外へ。入れ替はりに黒川、刺客を従へ、戸口に現れる。無人の舟小屋を見渡し、床に残る握り飯の包みを拾ふ。
黒川 「(ト、冷たく)まだ温かい。……遠くへは行つてゐない。堤を探せ」
ト、刺客たち、散る。黒川、舞ひ込む雪を見上げる。
黒川 「雪か。……足跡が、残るな」
ト、ツケ。柝の頭。幕。
大詰 第一場 淀川堤の場
時 その夜更け
所 大坂、淀川の堤
ト、幕明く。大道具、堤の道。松の並木、下手は淀川の暗き流れ。雪、しんしんと降り積もる。下座、雪の音の鳴物、川風。
ト、花道より、市兵衛、千代造の肩を支へ、雪乃の手を取りて出づ。三人、雪を踏みしめる。
市兵衛 「ここまで来れば、八軒家の灯が見える。……千代造、よく聞け。船宿の灘屋に話はつけてある。夜明け前、船着場で待て。舟は必ず出す」
千代造 「市兵衛、お前は」
市兵衛 「おれはこの書状を持つて、奉行所へ走る。柏木様にお渡しすれば、黒川は追ふ側から追はれる側になる。……それまで、持ちこたへるんだ」
千代造 「(ト、手を握り)市兵衛。この恩は」
市兵衛 「馬鹿野郎。幼馴染みに、恩も糞もあるか」
ト、雪乃、市兵衛に向かひ、手を合はせて深々と頭を下げる。
市兵衛 「(ト、鼻をすすり)嬢ちやんも、頼んだぜ。千代造を、頼んだ」
ト、千代造、はつと耳を澄ます。
千代造 「(ト、低く)市兵衛。背後から、二人」
市兵衛 「何」
ト、花道より刺客甲、乙、抜刀して駆け出づ。
刺客甲 「居たぞ、盲と女だ」
市兵衛 「(ト、千代造を庇ひ)させるか。千代造、行け」
ト、立ち回り。市兵衛、腰の船頭の棹を引き抜き、刺客二人を相手取る。雪の中、足元を取られ、棹を振るふ。
市兵衛 「早く行け。おれがこいつらを引き受ける」
千代造 「市兵衛」
市兵衛 「行けッ」
ト、千代造、雪乃の手を引き、下手の松陰へ入る。市兵衛、棹で刺客乙の刀を打ち落とし、その間に懐の書状を押さへ、上手へ駆け抜ける。刺客甲、乙、追つて去る。ツケ入りの引込み。
ト、舞台、無人。雪、降り続く。下座、静か。やがて、花道より黒川、悠然と現れる。足元の雪を見下ろす。
黒川 「(ト、足跡を見て)雪が教へてくれるな。三人。……そして、下手の松陰には、二人分の足跡が続いてゐる」
ト、黒川、刀の鯉口を切り、ゆつくりと下手へ歩み出す。
黒川 「盲と、耳の聞こえぬ女。……逃げられると思ふな」
ト、松陰の千代造、はつと身を固くする。
千代造 「(ト、小声)あの足音。黒川や。……雪乃、行くで。八軒家まで、あと少しや」
ト、雪乃、千代造の手を握り返す。二人、松陰より足早に下手へ。ツケ。黒川、その後を追ふ。
竹本 〽雪は降り積む 淀川の 堤に残る 足跡を 隠すすべなき 白き道 追ふ影ありと 知りながら 夜明けを待つや 船着場
ト、道具替はり。
大詰 第二場 八軒家雪中船着場の場
時 夜明け前
所 大坂、八軒家の船着場
ト、大道具、八軒家の船着場。中央、川へ突き出す板橋。奥に淀川の水面、対岸に松明の点々。上手に石灯籠。舞台一面に本雪、猛吹雪。下座、風の音に大太鼓。
ト、花道より千代造、雪乃の手を引き、よろめき出づ。千代造、羽織の裾に雪をまとひ、雪乃の白足袋は濡れそぼつ。
千代造 「(ト、耳を澄ませ)舟が、まだ来てへん。……灘屋の舟は、夜明けにならんと出ぇへんのや」
ト、板橋に二人、立ち止まる。雪乃、千代造の背に寄り添ふ。
ト、上手、下手、花道より刺客たち、十人あまり、抜刀して現れる。三方から包囲し、板橋の上の二人に迫る。黒川、石灯籠の傍らに立つ。
黒川 「ここまでだな、三味線弾き」
千代造 「(ト、静かに)黒川はん。書状は、もうここには無い。奉行所へ向かうた。今ごろは、柏木様の手に渡つとる」
黒川 「(ト、一瞬、眼を見開き)……なに」
千代造 「あんたが命懸けで追ふ書付は、もう、あんたの手の届かんとこや。あたしらを斬つても、何も変はらん」
黒川 「(ト、低く)ならば、貴様らの口を、塞ぐまでよ」
ト、黒川、抜刀。刺客たち、じりじりと間を詰める。千代造、三味線を前に構へ、雪乃を背後に庇ふ。
千代造 「雪乃、あたしの後ろへ」
ト、千代造、三味線の棹を握つて棍棒のやうに構へ、耳を澄ませて、刺客の足音を数へる。
千代造 「右から三、正面に二、後ろに、……」
ト、刺客丙、斬りかかる。千代造、これを三味線の棹で受け止め、返して打つ。刺客丙、板橋より雪の中へ倒れる。ツケ。
ト、さらに刺客二人、左右より斬り込む。千代造、片方を躱し、片方の刀を受けるが、三味線の胴が割れ、棹が折れかける。千代造、よろめき、膝をつく。
刺客甲 「(ト、嘲り)盲目の癖に、よくやる。だが、これまでだ」
ト、刺客たち、包囲を狭める。千代造、破れかけた三味線を握りしめ、肩で息をする。
ト、そのとき、雪乃、千代造の背後から、静かに抜け出す。
千代造 「(ト、はつと)雪乃。どこへ」
ト、雪乃、千代造の頬にそつと手を当て、微笑む。そして、雪の降り積もる板橋の真ん中へ、ゆつくりと歩み出る。
ト、雪乃、濡れた白足袋を脱ぎ捨て、続いて草履も脱ぐ。凍てつく雪の板の上に、素足で立つ。
黒川 「(ト、訝り)何のつもりだ」
ト、雪乃、懐から扇を取り出し、ゆつくりと開く。
ト、その瞬間、下座の鳴物、ぱたりと止む。風の音も、ふつと消ゆ。舞台、完全なる静寂。ただ、本雪の降る微かな気配のみ。刺客たちも黒川も、動かず、台詞を発せず。
ト、雪乃、片足を上げ、板橋の上に素足を下ろす。ト。乾いた足拍子の音のみ、静寂に響く。もう一度。ト、トン。
ト、雪乃、音のない世界の中、扇を翻し、雪を蹴立てて舞ひ始める。足拍子、ト、トン、ト、トン。雪、その白き裸足の周りに舞ひ散る。
ト、刺客たち、息を呑み、その舞に見入る。誰一人、動かず。
ト、膝をついた千代造、見えぬ眼を雪乃の方に向ける。そのとき、足拍子の乾いた響きが、雪の音を越えて、千代造の耳に届く。
千代造 「(ト、小声)……この音は」
ト、足拍子、ト、トン。ト、トン。千代造、はつと顔を上げる。
千代造 「(ト、愕然と)雪乃が、舞つてゐる。……素足で、この雪の上で」
ト、千代造、震へる声にて、
千代造 「あたしの、命のために」
ト、千代造の眼より、涙が零れる。やがて、千代造、折れかけた三味線を膝に構へ直す。指先は凍え、血が滲んでゐる。
千代造 「(ト、低く)雪乃。……聞こえてへんでも、あたしの音は、お前の足に届く。……今こそ、弾くで」
ト、千代造、撥を振り上げる。そして、雪乃の足拍子、ト、トンに寸分違はず、凄絶なる一撃を弦に叩きつける。
ト、下座、一斉に三味線、太鼓、笛、激しく炸裂。雪、吹雪となつて舞台を覆ふ。竹本、
竹本 〽音なき舞に 見えぬ撥 聞こえぬ耳と 見えぬ眼の ふたりが合はす 拍子の命 雪を裂きつつ 魂を削る 響くや糸の 張りつめて
ト、千代造の三味線、破れかけた胴から血を吐くやうな音を絞り出す。雪乃の舞、それに寸分違はず重なる。雪乃の素足は赤く染まりかけてゐるが、舞は崩れない。
ト、刺客たち、抜刀したまま、その気迫に圧倒され、一歩も踏み出せず。黒川、脂汗を浮かべる。
黒川 「(ト、歯噛みし)何だ、これは。……貴様ら、何をしてゐる。斬れ、斬れッ」
ト、刺客たち、動けず。
ト、そのとき、花道より松明を掲げた捕り方、どつと駆け込む。先頭に柏木、傍らに市兵衛、手に書状を持つ。
柏木 「御用だ。勘定方小野寺求馬殺しの下手人、黒川武之進、神妙にいたせ」
市兵衛 「(ト、声を張り)千代造、無事かあッ」
黒川 「おのれ」
ト、黒川、刀を振りかざし、柏木に斬りかかる。大立ち回り。刺客たち、捕り方に討たれ、あるいは逃げ散る。その間も、雪乃の舞、千代造の三味線、止まらず。
ト、黒川、板橋の端に追ひつめられる。柏木の刀を受け損ね、足を滑らせる。
黒川 「(ト、叫ぶ)勤皇の大義……」
ト、黒川、川へ転落。ツケ、水音。
ト、騒乱、静まる。東の空、白み始め、朝の光、雪原を金色に照らす。千代造、最後の一撃を弦に叩きつけ、撥を落とす。同時に、雪乃、舞ひ終へる。扇を閉ぢ、一礼。そして、糸が切れたやうに、雪の上に崩れ折れる。
千代造 「(ト、三味線を投げ捨て)雪乃ッ」
ト、千代造、雪を這ひ、雪乃のもとへ辿り着く。雪乃を抱き起こす。素足は紫に腫れ、息は浅く、唇は青ざめてゐる。
千代造 「雪乃。……しつかりせえ。もう終はつたんや。黒川は川へ落ちて、お奉行所の人らが来てくれた」
ト、雪乃の聞こえぬ耳に、千代造の声は届かない。ただ微かに眼を開き、千代造の濡れた頬へ手を伸ばす。そして、彼の唇に、冷たき指をそつと当てる。
千代造 「(ト、唇を震はせ)……雪乃」
ト、千代造が名を呼ぶ唇の震へを、雪乃の指が捉へる。雪乃、満足さうに、かすかに微笑む。
ト、市兵衛、柏木、捕り方、その場に立ち尽くし、深く頭を垂れる。
ト、雪、再び静かに降り積もる。下座、ごく微かな三味線のみ。千代造、雪乃の胸に耳を当て、じつと息を詰める。長き間。
千代造 「(ト、顔を上げ、天を仰ぎ)……雪が、降つてゐる」
ト、千代造の見えぬ眼から、涙が止めどなく零れる。
千代造 「音がする。……あたしにだけ聞こえる、雪乃の音が、まだ、してゐる」
ト、千代造、雪乃を抱き締め、号泣。朝の光、二人の肩に降り積もる雪を金に染める。竹本、
竹本 〽雪は降る降る 降り積もる 見えぬ眼に 音は積み 聞こえぬ耳に 温みは届く ふたり抱きし 雪の暁
ト、柝の頭。本雪、降り続く中、定式幕、閉まる。
(幕)
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