歌舞伎脚本 玉虫紅涙染(たまむしべにのなみだぞめ) 舞台

顔に焼き鏝の傷を負い、夜鷹に落ちた大店の娘お袖は、老職人源六が練った玉虫紅で傷を隠し、美貌の後家に変わる。源六は己の血を紅に混ぜて息絶える。お袖は父を毒殺した婿庄三郎と女房お甲の座敷に現れ、雷雨の庭で刺し違えて仇を討つ。夜が明け、唇の紅が剥がれると、隠れていた傷が浮き、お袖は玉虫色の血の涙を流して崩れ落ちる。
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第一稿

生世話狂言 三幕四場

 人物

お袖(おそで)もと日本橋の紅問屋玉紅堂の娘。顔に焼き鏝の傷を負ひ、夜鷹に落ちる
源六(げんろく)もと玉紅堂の紅職人。幻の玉虫紅を練る
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生世話狂言 三幕四場

 人物

お袖(おそで)もと日本橋の紅問屋玉紅堂の娘。顔に焼き鏝の傷を負ひ、夜鷹に落ちる
源六(げんろく)もと玉紅堂の紅職人。幻の玉虫紅を練る
庄三郎(しやうざぶらう)玉紅堂の主。お袖のもとの婿
お甲(おかふ)庄三郎の女房。もと深川の芸者
市松(いちまつ)紅花売りの若者
幇間桜八(さくはち)
酔客、仲居おみつ、芸者おきく、芸者衆
竹本、三味線


 序幕 山谷堀川端夜鷹窟の場

 時 文政七年十月、神無月の夜
 所 江戸、浅草山谷堀、土手下

 ト、幕明く。枯れ柳。上手に筵を下げし掘立小屋、下手に土手の石段。奥は山谷堀の暗き水。青き照明。下座、風の音に、遠く吉原の清搔。
 ト、お袖、筵の前に立つ。顔の右半分を古手拭にて隠し、継ぎだらけの袷、素足に草履。手に提灯。
お袖 「お寄んなさいな。寒い晩だよ。二十四文で、ひと晩の夢を買つてやつておくんなさい」
 ト、花道より酔客、よろめき出づ。
酔客 「おう、ここだここだ。柳の下の夜鷹ツてのは、てめえかい」
お袖 「へえ、お袖と申しやす。旦那、お寒うござんしよ。中へお入んなさいまし」
酔客 「待て待て。夜鷹は顔が肝心だ。その手拭ひは何だ」
お袖 「これは、風邪でござんして」
酔客 「風邪で顔が隠れるかよ。取つて見せろ」
お袖 「ご勘弁を。見ても、面白いものではござんせん」
酔客 「面白えかどうかは、おれが決める」
 ト、酔客、手拭ひを引き剥ぐ。お袖、顔を背く。下座、はつと打つ。提灯の灯に、右の頬より目許にかけ、焼き鏝の痕、赤黒く引き攣れてあらはる。
酔客 「うわつ。こりや、化け物だ」
お袖 「(ト、両手で顔を覆ひ)返しておくんなさい」
酔客 「二十四文が惜しくなつたぜ。こんな面を抱いて寝たら、夢見が悪くていけねえ」
 ト、酔客、手拭ひを泥へ投げ捨て、お袖を突き飛ばす。お袖、泥水に倒れる。
酔客 「ざまあねえや。化け物は化け物らしく、水でも浴びて出直しやがれ」
 ト、笑ひながら行かうとする。
源六 「待ちなせえ」
 ト、上手石段より源六、風呂敷包みを提げ出づ。老いたれど背筋伸び、十本の指先、紅花の汁にて赤黒く染まる。
酔客 「何だ、爺イ」
源六 「爺イでござんす。そのお手拭ひを拾つて、お返しなさい」
酔客 「何をつ」
源六 「拾ひなさらねえと、この爺イの手が、旦那の腕を捻ぢりやすぜ」
 ト、源六、赤黒き手を差し出す。酔客、その眼の据わりに気圧され、手拭ひを拾ひ、投げ出して、逃げ去る。ツケ入り、花道へ引込み。
源六 「(ト、お袖を助け起こし、手拭ひの泥を払ひて渡す)怪我はござんせんか」
お袖 「ありがたう存じます。……お見苦しいところを」
 ト、お袖、手拭ひにて顔を隠さうとする。源六、ふとその手首を見て、はつとす。
源六 「待つておくんなさい。その手首の火傷の痕は」
お袖 「(ト、手首を隠し)これは、子供のころの」
源六 「釜の縁でござんしよ。紅を煮る、大釜の縁。……足を滑らせたお嬢さんの手を、おれが掴んで引き上げた。その痕だ」
お袖 「(ト、驚きて見上げ)お前さんは」
源六 「玉紅堂の源六でござんす。お嬢さん。お袖さま」
お袖 「(ト、思はず)源六……。おお、源六」
 ト、お袖、源六の胸にすがる。下座、寂しき三味線。
源六 「どうして、こんなところに。先代の旦那が亡くなり、おれは暇を出されて、お嬢さんがどうなすつたか、ずつと気に掛かつてゐた」
お袖 「(ト、涙を拭ひ)源六、聞いておくれ」
 ト、お袖、手拭ひを取り、顔をあらはにして、語る。
お袖 「おとつつぁんが亡くなつたのは、病ひではなかつたのさ。あの人が、庄三郎が、毎晩のおとつつぁんの薬に、毒を混ぜてゐたんだよ。あたしは何も知らず、あの人を信じて」
源六 「やはり、さうでござんしたか」
お袖 「気がついたときには、もう遅い。店の判も蔵の鍵も、お甲といふ女の手にあつた。あたしが問ひ詰めると、あの人は笑つて、火鉢の鏝を抜いたよ」

竹本 〽焼き鏝の 赤き火の色 目に残り 泣く声すらも 焦げ失せて 橋の下にぞ 捨てられし

お袖 「顔が焼けて、意識を失つて、気がつくと、橋の下に捨てられてゐた。……目をつぶれば、鏝を持つた男が笑ふ。鏡を見れば、化け物がゐる。生きる道は、夜鷹に落ちるよりほかになかつた」
源六 「お嬢さん」
お袖 「(ト、立ち上がり、石段の上に出で)源六。あの二人を地獄へ落とせるなら、この身が灰になつても構ひやしない。命でもなんでも、くれてやる。誰か、あたしに力を貸しちやくれないか。誰か」
 ト、風の音、高くなる。源六、じつとお袖を見つめ、やがて懐より小さき陶の紅猪口を取り出す。
源六 「お嬢さん。これを、ご覧なさい」
 ト、紅猪口の蓋を取る。青き照明のうちに、猪口の内、鈍く緑金に光る。
お袖 「それは」
源六 「玉虫紅。紅を幾重にも塗り重ねて、赤が緑金に返るまで練つた、幻の紅だ。先代の旦那が生涯をかけ、とうとうできなかつたものを、おれが、この十年、指がすり減るまで練り続けた」
お袖 「紅が、緑に」
源六 「この紅を唇に差せば、傷は紅の下に沈み、人の目には見えなくなる。肌は白磁のやうに冴え、この世のものとも思へぬ美しさになる。だが」
お袖 「だが」
源六 「これは、人の生気と怨念を吸つて光る、毒の紅だ。差すほどに命が削れる。それに、今ここにあるのは、まだ仮の紅。保ちは短く、本当の紅にするには、もう一仕事ある。沈んだ傷は、紅の力が尽きたとき、いつか浮いて出る。……それでも、お嬢さんは」
お袖 「(ト、言下に)差しておくれ」
源六 「お嬢さん」
お袖 「命なんぞ、とうに夜鷹に売りましたよ。この傷と引き換へに、あの二人の首が取れるなら、安い買ひ物さ。源六、早く」
 ト、源六、頷く。懐より紅筆を取り出し、猪口の紅を含ませ、お袖の唇に差す。下座、三味線、妖しき調べに変はる。

竹本 〽差す紅の ひと刷毛ごとに 赤は沈みて 緑金の 艶ぞ浮かべる 玉虫の 唇ひとつ 闇に燃え

 ト、照明、次第に唇のみを照らす。お袖の唇、鮮血の赤より、鈍き玉虫色へと変はる。お袖、ゆつくりと顔を上げる。傷痕、いつか薄れて見えず、白き頬に、緑金の唇のみ光る。源六、息を呑む。
お袖 「(ト、己が頬に手を当て)傷が、ない。……源六、あたしの顔は」
源六 「(ト、頭を垂れ)お美しうござんす。……この世のものとも思へぬほどに」
お袖 「(ト、遠く山谷堀の水を見て、低く笑ふ)ほんに、地獄の色だねえ」
 ト、ツケ。下座、清搔、風の音。お袖、緑金の唇のまま見得。浅葱幕、振り被せ。


 二幕目 本所竪川源六紅工房の場

 時 その数日後、霜月の夕
 所 江戸、本所竪川、源六の陋屋の紅工房

 ト、幕明く。大道具、板敷の仕事場。鴨居より紅花餅を無数に吊る。上手に甕、下手に寒の水を張りし桶。奥は竪川の岸。遠く、水鳥の声。下座、川風に時雨の音。
 ト、源六、桶の水に両手を浸し、紅を揉み出してゐる。指先、紅に染まり、ところどころ裂けて血を滲ます。
 ト、市松、紅花の袋を背負ひ、花道より出づ。
市松 「(ト、唄ふ)紅花ア、紅花ア、最上の紅花ア、買はぬ女は鬼瓦……。親方、市松でござんす。千住の問屋から、花を担いで参じました」
源六 「(ト、振り向かずに)遅え」
市松 「そりやあ親方、遅えつて言はれたつて、橋が三つも違ひますよ。……それにしても親方、寒の水に朝から晩まで手を浸けつぱなしで、指が千切れちまひやせんか」
源六 「千切れても構はねえ。紅が出来りやあ、それでいい」
市松 「へへ、だから職人ツて奴ァおつかねえんだ」
 ト、市松、袋を置き、あたりを見回す。
市松 「それより親方。あの、夜鷹のお袖さんは、その後」
源六 「(ト、手を止め)なぜ、市松がそれを知つてゐる」
市松 「あつしだつて、玉紅堂の頃から、紅花を納めてゐたんでござんす。お嬢さんの顔が、変はつたとか何とか、噂は耳に入りますよ。……親方、あのお嬢さんに、毒の紅を差してやつたツて」
源六 「(ト、ぎろりと睨み)誰から聞いた」
市松 「いえ、その、河岸の婆さんが……。親方、悪いこたあ言ひやせん。あの紅は、人の命を吸ふ紅だ。お嬢さんが可哀想で」
源六 「市松」
市松 「へい」
源六 「お前の言ふことは、正しい。だがな、先代の旦那の薬が妙に濁るのを、おれは見て見ぬふりをした。お嬢さんが顔を焼かれたのも、そのせゐだ。……手を出さずにゐたおれが、今さら、人の情で止められるかよ」
市松 「親方」
源六 「千住へ戻れ。寒紅の水に使ふ、極上の寒花を、半貫ばかり。急げ」
市松 「今からでござんすか。もう日が暮れますぜ」
源六 「行けと言つてゐる」
 ト、市松、渋々袋を背負ひ、花道へ入る。振り返り、
市松 「(ト、独り言)お嬢さん、どうか、ご無事で」
 ト、花道より引込み。入れ替はりに、お袖、ゆつくりと現れる。竪川の岸を伝ひ、舞台へ。
 ト、お袖、紅の唇に緑金の艶を湛へ、白き頬、黒き髪。夜鷹のぼろは捨て、粗末ながら小ざつぱりした木綿の着物。身の内より色香匂ひ立つ。
源六 「お嬢さん。いらつしやいましたか」
お袖 「源六。……あの紅を差して以来、あたしの体は、あたしのものではないやうだよ」
 ト、お袖、ふと胸を押さへ、咳き込み、懐紙に口を当てる。紙に、鮮血に混じりて緑金の糸。
源六 「お嬢さん」
お袖 「(ト、懐紙を握り)大事ないよ。胸が時々、焼けるやうに痛むだけさ。……でもね源六、あたしは、それがちつとも辛くないんだ。かうして痛むたびに、あの二人の首が、ひとつ近づく気がしてね」
源六 「痛むのは、紅が生気を吸つてゐる証拠でござんす。このまま差し続ければ、仮の紅は半月と持たぬ。……お嬢さん、お聞きなさい」
お袖 「なんだえ、改まつて」
源六 「玉虫紅の、本当の完成には、ひとつだけ、足りぬものがある」
お袖 「足りぬもの」
源六 「作り手の、最後の命の血でござんす」
 ト、下座、ぞつとする三味線。
お袖 「(ト、はつと)なんだつて」
源六 「先代の旦那は、これを知りながら、できなかつた。己が命を紅に溶かす覚悟が、持てなかつたのでござんす。……おれは持つた。十年、練るうちに、決めた」
お袖 「源六、お待ち。それは」
源六 「紅の秘伝は、玉紅堂の看板と一緒に、庄三郎に奪はれた。おれは暇を出され、先代の旦那の墓前にも立てぬまま、この陋屋で十年、ただ玉虫の光をだけ追つてきた。……お嬢さんが、夜鷹小屋の前に立つてゐるのを見たとき、おれは神仏の引き合はせだと思ひやした」
お袖 「(ト、頭を振り)いけない、いけないよ。あたしのために、お前の命まで」
源六 「お嬢さんのためだけではござんせん。おれの、職人の意地でござんす。先代の旦那が見たかつた光を、この手で、見たいんだ」
 ト、源六、立ち上がり、棚の小刀、紅花の花弁を切る鋭き刃を取る。
源六 「見ておくんなさい。これが、玉虫紅の、最後の一刷毛」
 ト、お袖、止めようと走り寄る。源六、その手を静かに払ひ、己が胸に刃を突き立てる。ツケ、一つ。下座、太鼓の音。
お袖 「源六!」
源六 「(ト、呻きながら)お嬢さん、猪口を。……早く、血が冷めぬうちに」
 ト、お袖、震へる手に紅猪口を持ち、源六の胸の下に差し出す。源六、突き立てし刃を引き抜き、滴る血を猪口に受ける。血、紅と混じり、猪口の内、一瞬、真紅に燃え、次いで鈍き緑金の光に返る。
源六 「(ト、猪口を覗き込み、微かに笑ふ)これだ。……これだ。先代の旦那、やりましたぜ」
 ト、源六、猪口をお袖の手に握らせる。
源六 「この紅は、もう仮の紅ではござんせん。差せば、傷は沈み、命の続くかぎり、お嬢さんを輝かせる。……ただし、お嬢さん。この紅が唇から剥がれ落ちたとき、沈んだ傷は、また浮いてまゐります」
お袖 「(ト、涙を流し)源六」
源六 「そのときが、お嬢さんの、命の尽きるとき。……それまでに、仇を」
お袖 「(ト、頷き、猪口を胸に抱く)一滴も無駄にはしないよ。……源六、おまへは、あたしの二人目のおとつつぁんだ」
源六 「(ト、笑みを湛へ)もつたいない。……お嬢さん。あとは、頼みましたぜ」
 ト、源六、静かに崩れ落ちる。下座、時雨の音、高まる。お袖、手を合はせ、しばし動かず。やがて立ち上がる。
お袖 「(ト、猪口の紅を、己が唇にもう一度ゆつくりと引く。唇の緑金、さらに艶を増す)……庄三郎。お甲。この紅の色を、見せてやるからね」
 ト、お袖、きつと決まり、傘もささずに花道へ走り出づ。ツケ入りの飛び六方、雨の音。
 ト、入れ替はりに、市松、袋を背負ひ、舞台へ駆け込む。
市松 「親方、親方。千住の花が手に入りやした。大安売りで……」
 ト、源六の亡骸を見て、はつと立ちすくむ。
市松 「親方。……親方アつ!」
 ト、市松、亡骸にすがりて泣く。時雨の音、竹本、

竹本 〽雨の夜に 紅花の 散る花びらは 血の色か 消ゆる命を 紅に継ぎ 継ぐや恨みの 一筋を
 ト、柝の頭。幕。


 大詰 第一場 深川八幡前料亭紅葉楼奥座敷の場

 時 その幾日か後、霜月の宵
 所 江戸、深川八幡前、料亭紅葉楼

 ト、幕明く。大道具、豪奢なる奥座敷。金屏風、床の間に唐渡りの花瓶、燭台の灯。下手障子の外に庭の気配。遠雷。下座、お座敷の三味線に、雨の音。
 ト、庄三郎、上座に座り、傍らにお甲、下手に幇間、芸者おきく、盃を重ねてゐる。庄三郎、縞縮緬の羽織、色白の美男。お甲、鼈甲の簪に黒襟の毒婦の風情。
幇間 「いやあ、旦那。このたびの抜け荷は大成功、長崎の船が唐の薬種を山と積んで着いたとか。おめでたうござんす」
庄三郎 「口が軽いぞ、桜八。壁に耳あり、障子に目ありだ」
お甲 「構ひやしないよ、あんた。ここは紅葉楼のいちばん奥の離れ座敷。誰が聞き耳立てたつて、雨と雷が消してくれる」
庄三郎 「違えねえ。……お甲、玉紅堂の看板に、唐渡りの薬種と安紅の乱売。これで、あと三年で身代は倍だ」
お甲 「先代の旦那には感謝しなくちやね。看板だけは、立派なものを残してくれたんだから」
庄三郎 「(ト、盃を傾け、冷たく笑ふ)毒を盛つた湯呑みの礼も、言はなくちやなるめえ」
お甲 「ほほ、おまへさんも口が軽い」
幇間 「(ト、慌てて)あ、あつしは何も聞こえやせん。聞こえやせんが、旦那、そのお袖とかいふ先妻のお嬢さんは、今ごろどうなすつたでございませうなあ」
庄三郎 「(ト、舌打ち)あの化け物か。山谷堀で夜鷹をしてゐたといふが、もう凍え死んだらう。顔に焼き鏝の痕を持つて、誰が相手にするものか」
お甲 「(ト、扇を口に当て)あの女が生きてゐようが死んでゐようが、もう関はりないよ。今夜はお祝ひ、飲みなさいな」
 ト、仲居おみつ、下手より出づ。
おみつ 「旦那さま、お客人でございます」
庄三郎 「客人。こんな夜にか」
おみつ 「薩摩屋の御後家さまと名乗られる、たいそうお美しい方が、玉紅堂の旦那さまにお目にかかりたいと」
庄三郎 「薩摩屋。……聞いたことがあるな。薩摩の豪商と言へば、唐物の取引に絡むかもしれぬ。通せ」
お甲 「あんた、夜中に女の客なんて」
庄三郎 「商売だ、商売。お甲、お前は機嫌を悪くするな」
おみつ 「かしこまりまして」
 ト、おみつ、引込み。下座、雷鳴、笛入り。花道揚幕、あく。

竹本 〽夜の雨 傘も差さずに 来る人の 唇の紅 玉虫の 色にも似たる 世にも稀なる 美しさ 恐ろしさ

 ト、花道より、お袖、薩摩屋の後家の風姿にて出づ。豪奢な縮緬の着付、金糸の打掛、伽羅の香を漂はせ、後ろに芸者衆を従へ、ゆるゆると歩む。傘を畳み、七三にて見得。唇は、緑金に鈍く光る。
お袖 「(ト、花道にて、静かに)薩摩屋の後家、おたまと申します。……はばかりながら、座敷へ上がらせていただきます」
 ト、舞台へ進み、座敷に入る。庄三郎、思はず立ち上がる。
庄三郎 「こ、これは……なんと、お美しい」
お袖 「ご挨拶が遅れまして。亡き主人の遺した唐物のうち、紅の取引について、玉紅堂さまのお力をお借りしたく、夜分にまかり越しました」
庄三郎 「ささ、どうぞお座りを。お甲、盃を」
お甲 「(ト、不審げにお袖を見つめ)……お見かけしたところ、お唇の色が、なんとも不思議でございますね」
お袖 「ほほ、お恥づかしい。亡き主人から譲られた、薩摩の紅でございます。灯の下では、赤にも緑にも見えるとか」
 ト、お袖、座敷の灯を背に笑ふ。唇、赤から緑金へ、緑金から赤へと揺らめく。庄三郎、魅入られたやうに見つめる。
庄三郎 「(ト、うつとりと)これは、見事な」
お甲 「(ト、膝をつねり)あんた」
庄三郎 「な、なんだ」
お袖 「(ト、芸者おきくに)お酌を」
 ト、おきく、銚子を取り、お袖の盃に注ぐ。お袖、盃を庄三郎に差す。
お袖 「まず、一献。旦那さまのお幸せな商ひと、お美しい奥方さまのために」
庄三郎 「かたじけない」
 ト、庄三郎、盃を受けて飲む。お袖、お甲にも盃を差し出す。
お甲 「あたしは、あいにく、今宵は薬を飲んでをりますので」
お袖 「(ト、にこりと)さようでございますか。ならば奥方さまのお代はりに、旦那さまに、もう一献」
 ト、お袖、袖の陰にて、懐から小さき紅猪口を取り出し、庄三郎の盃を満たす酒にひと刷毛、緑金の紅を溶かし入れる。誰も気づかず。ただ幇間のみ、はつとするが、笑ひにまぎらはす。
お袖 「ところで、旦那さま。座興に、ひとつ昔話を申してよろしうございますか」
庄三郎 「昔話」
お袖 「ある紅問屋にまつわる話でございます。……雷の晩には、似つかはしい話ゆゑ」
 ト、雷鳴。下座、ゆるやかな三味線に変はる。
お袖 「ある日本橋の紅問屋に、ひとり娘がをりました。気立てのよい、働き者の娘でございました。父親の薬を、毎晩、婿養子が煎じてまゐります」
 ト、庄三郎、盃を持つ手が、わづかに止まる。
お袖 「ところが、その薬には、少しづつ毒が混ぜられてをりました。婿は女房の目を盗んで、外に深川の芸者を囲ひ、その女と二人、店と財産をそつくりいただく腹でございました」
お甲 「(ト、顔を硬くし)不躾なお話でございますね」
お袖 「いえいえ、ここからが肝心。……父親は、ひと月で息を引き取りました。娘は婿を疑ひ、問ひ詰めました。すると婿は、何と申したと思はれます」
庄三郎 「(ト、掠れ声で)……な、何と」
お袖 「火鉢の鏝を抜いて、娘の顔に押し当てたのでございます」
 ト、下座、一際高く。庄三郎、盃を取り落としさうになり、あわてて酒を煽る。
お袖 「顔の半分は焼けただれ、娘は橋の下に捨てられました。……娘は夜鷹に落ち、泥にまみれ、ただひとつの願ひを胸に生き長らへました。婿と芸者を、同じ目に遭はせてやりたい、と」
 ト、障子の外に稲妻。座敷の灯、ちらつく。
お甲 「(ト、立ち上がり)もう結構でございます。お客人、お顔の色が変はつておいでです」
お袖 「(ト、静かに微笑み)雷の晩は、人の顔色が、よく見えるものでございます」
 ト、稲妻。お袖の面に光が走り、右の頬に焼き鏝の傷痕、一瞬、浮かび上がり、闇に沈む。庄三郎、お甲、ぎよつとして後ずさる。
庄三郎 「今のは、いつたい」
お袖 「この紅は、闇では傷を隠し、光に透かせば、傷を浮かせる。……源六の紅は、嘘をつきません」
 ト、お袖、手元の手拭ひで己が顔をゆつくり拭ふ。稲妻、ふたたび。手拭ひを払ひ落とす。同時に、ぶつ返り。縮緬の艶やかな着付は、一瞬にして白装束に紅裏の衣裳へと変はる。唇、玉虫色に妖しく燃え、頬には焼き鏝の傷、稲妻に映える。
庄三郎 「(ト、愕然と)あ、あれは……お、お袖!」
お甲 「お袖。……お袖だと。生きてゐたのか」
お袖 「(ト、低く)生きてをりますとも。あんたたちの首を取るまでは、死にたくても死ねないんですよ」
 ト、庄三郎、はつと胸を押さへ、喉を掻きむしる。盃、手より落ちて転がる。
庄三郎 「ぐ、ぐうつ。……喉が、焼けるやうだ」
お甲 「あんた、どうしたんだい」
お袖 「(ト、盃の酒の残りを指差し)旦那の盃には、源六の血で練つた玉虫紅が溶かしてございます。……おとつつぁんの薬に混ぜられた毒の味、わかりましたか。それより、ずつと苦い味ですよ」
庄三郎 「こ、この女……」
 ト、庄三郎、立ち上がり、よろめきながら障子を蹴破り、庭へ。お甲、簪を引き抜く。
お甲 「おのれ、化け物め。生かしてはおかぬ」
お袖 「来な、お甲。あんたの番も、すぐ回つてくる」
 ト、お甲、簪にて斬りかからうとす。お袖、これをひらりとかはし、障子の外へ。お甲、追ふ。幇間、芸者おきく、悲鳴を上げて座敷の隅へ逃げ惑ふ。
幇間 「ひええ、お助けを」
 ト、雷鳴。大太鼓、ツケ入り。下座、早間の三味線。

竹本 〽雷鳴り 雨は礫と 降りしきる 逃ぐる悪党 追ふ女 紅の唇 鬼とも見えて 庭へ回れば 本水の 修羅の巷ぞ 恐ろしき

 ト、座敷の屋台、回り舞台にて、庭先へ。


 大詰 第二場 同庭先本水の場

 時 同じ夜の明け方
 所 同じく、紅葉楼の庭先

 ト、回り舞台、回り止まる。大道具、雨に打たるる庭先。築山、飛石、石灯籠、松の古木。中央に池。奥は黒き塀。本水、篠突くやうに降り注ぐ。稲妻、雷鳴。下座、荒れたる波の音に大太鼓。
 ト、庄三郎、泥の中を這ひ、石灯籠にすがる。顔色土のごとく、口許に血を滲ます。
庄三郎 「(ト、喉を押さへ)ぐ、ぐう……。お、お甲……お甲はどこだ」
 ト、お甲、座敷の縁より飛び降りる。続いてお袖、白装束のまま悠然と現れ、縁の端に立つ。
お甲 「あんた、しつかりおし。……ええい、この化け物め」
お袖 「(ト、雨に打たれ、静かに)お甲。あんたが庄三郎に毒の包みを渡したのは、いつのことだえ」
お甲 「知らぬ、そんなことは知らぬ」
お袖 「あたしの顔に鏝を当てるとき、あんたは横で何と言つた。『もつと深く、跡の残るやうに』と、笑つてゐたんだよ」
お甲 「(ト、うろたへ)おのれ」
 ト、お甲、懐剣を抜いて斬りかかる。お袖、懐より源六の小刀を抜いて受け止める。ツケ入り、立ち回り。

竹本 〽雨は礫 刃は閃く 泥しぶき 女と女の 意地と意地 恨みの底の 深さ知る

 ト、お袖とお甲、本水の中、泥を蹴立てて斬り結ぶ。お甲、懐剣を突き出すを、お袖、袖にて払ふ。お袖の小刀、お甲の髷を掠め、簪を斬り飛ばす。髪、ほどけて乱れ、お甲、狂乱の相。
お甲 「ええい、女狐め。あたしだつて、貧乏の底から這ひ上がつたんだ。深川の舟で泣いてゐた頃から、お前のやうな大店の娘が、憎くて憎くて」
お袖 「(ト、小刀を構へ)憎みなさい。憎んで、苦しんで、そのまま地獄へお行きなさい」
 ト、お甲、突つ込む。お袖、さつと躱す。お甲、飛石に足を取られ、泥に滑り、己が懐剣の上へ俯せに倒れ込む。ツケ、一つ。
お甲 「あつ。……う、うつ」
 ト、お甲、懐剣が脇腹に突き刺さり、泥水の中でもがく。
お甲 「口惜しや、口惜しや。あたしの顔が、泥に……」
 ト、お甲、這ひずりて池の縁に出で、水面に映る己が顔を見る。雷光に映る水面に、蒼白の顔。
お甲 「(ト、愕然と)これが、あたしの顔か。……あの化け物より、よほど醜い」
 ト、お甲、がつくりと池に顔を沈め、息絶える。お袖、これを見下ろし、しばし無言。
お袖 「(ト、低く)……因果は、巡るもの」
庄三郎 「(ト、石灯籠にすがり、のそりと立ち上がり)お甲を、お甲を、よくも」
 ト、庄三郎、脇差を抜く。血走りたる眼、髪乱れ、色悪の面影は残るも、鬼の形相。
庄三郎 「お袖。……お前は、おれの女房だつた。あのころは、可愛い顔をしてゐたぜ」
お袖 「(ト、冷たく)今さら、何を」
庄三郎 「だがな、おれは、お前のやうな世間知らずの嬢さんと添ひ遂げる気はなかつた。紅問屋の看板が欲しかつた。それだけだ。……それの何が悪い」
お袖 「何が悪い。……そのひと言で、おとつつぁんは死んだ。源六は死んだ。あたしは、顔と一緒に、人としての命を焼かれた」
庄三郎 「ふん。恨むなら、お人好しに生まれた己れを恨め」
お袖 「(ト、小刀を逆手に持ち替へ)庄三郎。……紅は、嘘をつきません」
 ト、庄三郎、脇差を振りかざし、お袖に斬りかかる。立ち回り。雷鳴。稲妻のたびに、二人の影が壁に大きく伸びる。

竹本 〽斬り結ぶ 二つの影の 壁に伸び 赤と緑の 光を曳きて 泥にまみれつ 果てもなし

 ト、庄三郎の脇差、お袖の袖を斬り、白装束の肩に血が滲む。お袖、よろめく。庄三郎、さらに斬り込む。お袖、小刀にて受け、押し返す。毒の回つた庄三郎の足、泥に取られ、膝をつく。
庄三郎 「(ト、這ひずりながら)おのれ……おのれ、この女……」
お袖 「(ト、にじり寄り)庄三郎」
庄三郎 「くそつ」
 ト、庄三郎、渾身の力にて脇差を突き出す。お袖、避けず、脇差、お袖の脇腹を貫く。同時に、お袖の小刀、庄三郎の胸に深々と突き立つ。ツケ、一つ。大太鼓、どろどろ。
庄三郎 「(ト、目を剥き)刺し違へ……か」
お袖 「(ト、血を吐きながら)これで、おあいこだよ」
 ト、庄三郎、がつくりと泥に倒れ、動かず。お袖、脇差の刺さりしまま、よろよろと数歩退き、池の縁に膝をつく。本水、次第に弱まる。

竹本 〽雨足の 遠のくままに 庭先は 果てし悪党 夢のあと 残る女の 息ぞ細しき

 ト、雷鳴、遠のく。雨音、細り、やがて止む。下座、静かなる三味線に変はる。
お袖 「(ト、空を見上げ)……源六。見てくれたかい」
 ト、夜、白々と明け、東の雲割れて、朝日の一筋、庭先に射し込む。道具替はり、庭に光、満ちる。
お袖 「おとつつぁん。仇は、討つたよ。……源六の紅のおかげで」
 ト、お袖、懐の紅猪口を取り出し、空へ差し上げる。朝日に透かされ、猪口の内の紅、緑金から黄金に光る。次の瞬間、お袖の唇より、紅、ほろりと剥がれ落ちる。同時に、頬の傷、ゆつくりと浮き上がる。
お袖 「(ト、頬に手を当て)傷が、浮いてきた。……時が来たんだね」
 ト、お袖、静かに笑ふ。やがて、その眼より、一筋の血の涙が頬を伝ひ、朝日を受けて、緑金に光りつつ落ちる。
竹本 〽朝の光に 零るる涙 赤は緑に 緑は金に 玉虫の 色に染まりて 泥に落つ これぞ紅の 涙染め
 ト、お袖、猪口を胸に抱き、ゆつくりと崩れ落ちる。朝日、お袖の白装束と、その傍らの泥とを、等しく照らす。下座、清搔。柝の頭。
 ト、定式幕、閉まる。

(幕)

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