「虚数の生まれる場所」
登場人物
須藤栢(19)大学生
安積理(17)高校生
和泉言葉(17)高校生
教師・津村
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○ライフパーク駒沢・外・道
住宅街の一車線。
須藤栢(19)、立ち止まり、タブレットPCを操作すると、そばの建物を見上げる。
鉄筋7階建てのマンション。
○同・安積家・理の部屋・中
フローリングの6畳間。
安積理(17)、デスクのPCでマインスイーパーをしている。
○同・安積家・理の部屋・外
栢、ドアの前に立ち、ノックする。
栢「アヅミオサムさん。初めまして。私。今日から安積さんの家庭教師をするスドウカヤと申します。よろしいですか?」
栢、ドアノブに手をかける。
ドアには鍵が掛かっている。
○同・安積家・理の部屋・中
安積、マインスイーパーをしている。
栢の声「私。アイドルグループKBJ23の前島由里に似ているとよく言われます」
安積、手を止める。
○同・安積家・理の部屋・外
安積、ドアを開け、顔を出す。
栢「正確に言えば前島由里より私の方が顔のパーツのバランスは整っています」
ドアが閉まる。
栢「それより今安積さんがされているマインスイーパーですが。右4列目、下2段目の旗は間違いです。地雷はありません」
栢、掌をドアに置いて、眼を閉じる。
○同・安積家・理の部屋・中
安積、マインスイーパーをしている。
栢の声「残りの地雷は3つ。左10列目、上5段目と、その一つ下」
安積、栢に言われるままにクリックしていく。
栢の声「そして右15列目、上8段目です」
PC画面に「あなたの勝ちです」の文字が表示される。
安積、ドアを開ける。
栢、ドアの外に立っている。
栢「改めまして。今日から安積さんの家庭教師になる帝和大学理科一類一年の須藤栢と申します。よろしくお願いします」
安積「さっきドア開けた一瞬で?」
栢「一瞬見えれば十分です。マインスイーパーは極めて論理的なゲームですから。入室してよろしいですか?」
安積、ドアを開けたまま部屋に入る。
栢「失礼します」
栢、部屋に入る。
栢「先ほどお母さまから伺いました。安積さん。3週間ほど学校に行ってらっしゃらないそうですね」
安積「関係ないでしょ。家庭教師には」
栢「はい。しかし3週間マインスイーパーをやっていてその腕前では帝和大は厳しいでしょう。仮にも最高学府ですから」
安積「オレ文系なんで」
栢「論理的思考は必要ないと?」
安積「そういうわけじゃないですけど。数学ってリアルに必要ないじゃないですか。解の公式とか。知ってても使わないし」
栢「リアルですか」
安積「帝和大に行きたいのはリアルに必要な学歴と肩書きがほしいからです」
栢「リアルをご存じなんですね」
安積「知ってますよガキじゃないんだから。リアルって先が知れてるっていうか。公平でも平等でもないでしょ」
栢「ええ。その通りです」
安積「正しいことしても。努力しても。報われない」
栢と安積、目を見合わせる。
栢「数学Bの教科書。60ページを開いてください」
安積「授業ですか?」
栢「教科書を。数学を学ぶことで養われるのは。論理的思考と想像力です」
安積「想像力?」
安積、床から教科書を探し当て、開く。
栢「2乗すればマイナス1となる新しい数を導入する。それはこれまでの数とは異なるので特別な記号iで表すことにする」
安積「虚数。ですよね」
栢「iは報われない数です。16世紀に虚数を発表したカルダノも使用に伴う精神的苦痛は忘れるようにと残しています」
安積「精神的苦痛。ですか」
栢「働きに関してもそうです。掛けても掛けてもマイナスを作るだけ。虚ろな数という表現は言いえて妙です」
安積「なんか。リアルっすね」
栢「いえ。虚数はリアルには存在しません」
安積「え?」
栢「虚数は論理的思考と想像力が生み出した虚像の数です。現実には存在しません」
安積「現実には存在しない」
栢と安積、目を見合わせる。
栢「授業を始めます」
栢、鞄から問題集を取り出す。
栢「まず基礎から徹底的にやりましょう」
安積「先生」
栢「せんせい。あ。私ですね。はい」
安積「先生。変わってますね」
栢「変わってる。ですか」
安積「先生はちゃんとした大人です」
栢「どれも定義が不十分な言葉です」
安積「聞いてほしい話があるんですけど」
栢と安積、目を見合わせる。
○都立深沢高校・正門前(夕)
「都立深沢高校」の看板。
校庭で練習する野球部が見える。
和泉言葉(17)、校門から出てくる。
栢の声「イズミコトハさん。ですね?」
栢、タブレットPCを手に校門脇に立っている。
言葉「どちら様ですか?」
栢「私は帝和大学一年の須藤栢と申します」
和泉「帝和大。未来の先輩後輩ですね」
栢「安積理さんの家庭教師をしています」
言葉「安積? 誰ですか? それ」
栢「和泉さんと同じクラスの生徒です」
言葉「へぇ。そうなんですか」
栢「安積さん。3週間ほど学校を休んでいるんですが。その理由はご存知ですか?」
言葉「さぁ。私。負け犬に興味ないんで」
栢「負け犬ですか」
言葉「ええ。負け犬はいてもいなくても誰もなにも感じない存在ですから」
栢「誰もなにも感じない存在」
栢と言葉、目を見合わせる。
津村の声「和泉。どうした?」
担任・津村、栢と言葉に歩み寄る。
言葉「ツムラ先生。こちら帝和大の須藤さん。安積くんの家庭教師をされている方だそうです」
栢「安積理さんの担任。津村先生ですか?」
津村「ええ。津村です」
言葉「あの。塾があるので。私はこれで」
栢「和泉さん。まだお話が」
言葉「帝和大のリアル。今度ゆっくり聞かせてくださいね。先輩」
言葉、一礼して、去る。
津村「あの。須藤さん。安積が何か?」
栢「安積さんが学校に来ていない原因は何か。ご存知ですか?」
津村「え? あー。地味な生徒ではありますが、いじめの報告も上がってきていませんし。まぁ。難しい年頃ですから」
栢「安積さんは。リアルでは正しいことをしても報われない。というようなことを話していらっしゃいました」
津村「ああ。最近の生徒はみんなそんなものですよ。諦観というか。あれですよ。さとり世代ってヤツです」
栢「そうなのかもしれません。私もはじめはその言葉をそれほど重く受け止めてはいませんでした。ですが」
津村「なにか?」
栢「和泉言葉さんは帝和大学を受験されるんですね」
津村「ええ。和泉は学年ではもちろん全国模試でも常にトップクラスの結果を出しています」
栢「けれど日常的に万引きをしている」
金属バットの快音が響く。
津村「そんな報告は」
栢「報告なら安積さんから受けているはずです。二度も」
津村「そんな報告は受けていません。一度も」
栢「そこから否定されるんですね」
栢と担任、目を見合わせる。
津村「須藤さん。須藤さんはなぜ今日こちらにいらっしゃったんですか」
栢「なぜ? とは」
津村「こんなことをしても須藤さんに現実的なメリットはないでしょう」
須藤「現実的なメリット」
津村「それどころか名誉棄損で」
栢「名誉棄損。津村先生。津村先生はいま誰の名誉の話をしていますか?」
津村「は?」
栢「私は安積理という私の生徒の名誉を守るためにここに来ました」
栢と津村、目を見合わせる。
津村「私からお話しできることは何もありません。失礼します」
津村、栢に背を向け、校舎に向かう。
栢「あなたはここで何をしているんですか?」
津村、歩いていく。
栢「ここで。生徒に何を教えているんですか?」
栢、津村の背中を見送る。
〈おわり〉
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