23:38 ミステリー

23:38 出発間際の終電に身体を滑り込ませ、倒れこむように座席に座った「私」は、閉じた瞼の裏側で、忘れたはずの「夢」を見た。
やこう かい 19 0 0 04/06
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第一稿

 深夜のホームに、最終電車を知らせるベルがけたたましく鳴り響く。私は一週間分の疲労を溜め込んだ両脚をどうにかこうにか動かして、狭い改札をすり抜け、階段を駆け下りる。ドアが動き出そう ...続きを読む
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 深夜のホームに、最終電車を知らせるベルがけたたましく鳴り響く。私は一週間分の疲労を溜め込んだ両脚をどうにかこうにか動かして、狭い改札をすり抜け、階段を駆け下りる。ドアが動き出そうかというその瞬間、間一髪で電車内に体を滑り込ませることに成功すると、目の前の空席に倒れ込むようにして座る。斜め前に座っていたサラリーマンに怪訝な視線を送られたのを感じながら、私は大きく息を吐いて、目を閉じた。
 特に何を頑張って生きているわけでもない。ただ周りと同じように一人の大学生として当たり前のことをこなして、ご飯を食べて、寝て、また朝を迎える。そんなありきたりな毎日。多分、間違いなく恵まれた環境にいて、恵まれた生活を送っているのだと思う。それなのにどうしてか生活していくのを苦痛に感じている自分がいて、それが金曜日ともなるといつもより顕著になる。家に帰りたくなかった。漠然と、ここではないどこかに行きたかった。でも電車の窓に映る情けない顔の私はどこからどう見ても平凡で、なんだかとてもくだらないことを考えているような気分になってしまうのだった。
 だから決まって私は席についたら目を瞑るようにしていた。何かから逃げるように。それが見たくない現実なのか、なんなのかはわからないけれど、そうやって何も考えないようにすることで私は私を守っていた。だから私は今日もいつもと同じように目を瞑り、あざみ野行の最終電車に揺られるのだった。

 しばらくして、一度駅名を確認するために重たいまぶたに少し力を込める。乗り換えの戸塚駅までは大体十分程度だ。だからいくら疲れているとはいえぐっすり眠ってしまうと、あっという間に寝過ごしてしまうのだ。特に今日は終電。これを逃すと寒空の下30分近く歩くことになる。
 さてどの辺りまで来たかな、と電光掲示板を確認しようと瞼を開いて、ふと周りの違和感に気がつく。車両内に人がいない。疲れ果てて電車内の椅子に張り付くようにして眠っていた数人の乗客たちは、いつの間にか皆いなくなっていた。先程、終電に駆け込み乗車をする女子大生に怪訝な視線を送ってきたサラリーマンは?降りたのだろうか。不思議に思って隣の車両を覗き込むと、そこにも乗客は一人もいない。なんだか薄気味悪くなって、慌てて電光掲示板を確認し、私ははっと息を呑む。なんとそこには何も表示されていなかった。気づけば普通なら絶え間なく続くはずのアナウンスも聞こえない。ただ電車の車輪が轟音を鳴らしながら回る音だけが、空っぽの電車内に響いていた。ぞくり、と背中に冷たい汗が流れる。一体何がどうなっているのだろう。トンネルが続く。車窓はただ黒い壁面を映し出すばかりで周りの状況もわからない。汗が、止まらない。・・・きっと少し、疲れているのだ。自分を落ち着けるため、私はまた無理矢理眼を閉じた。。
 すると、さっきまでそれしか聞こえなかった車輪の音の中に、何やら軽やかな音が混じっていることに気がつく。次第にそれは大きくなって、しまいには車内は完全にその音で満たされた。ピアノの音だ。なんの曲だったか、たしか一度弾いたことのある曲だったけれど、もう遠い昔のことで、題名はわすれてしまった。
「即興曲第四番。嬰ハ短調。」
唐突に隣から少女の声がし、振り返る。たしかに空席だったはずのそこに、いつのまにか柔らかそうな髪をちょこんと二つに結った、小学生くらいの少女が座っていた。いろいろなことが起こりすぎて、本能が夢だと割り切ったのだろうか。自分でも驚くほどに私は落ち着いていた。少女を目にして私が一番最初に思ったのは、こんな時間に小学生が外を出歩いていていいのか、ということだった。
「どうして、こんな時間にひとりで電車に乗っているの。」
そう尋ねる私を、少女は首をかしげてそのきれいな瞳で見つめると、ぷいとそっぽを向いた。どうやら質問はなかったことにされたらしい。まだ床につかない足をぶらぶらさせながら少女は言葉を続ける。
「これ、私が弾いてるんだよ。ピアノ弾くの、好きなの。」
今度は私が首をかしげる番だった。しかしそれでも、楽しそうに目を閉じてピアノの音に耳を傾ける少女の横顔を見ていると、なぜだかまあいいかと思えてしまうのが不思議だった。しばらくの間そうして少女と一緒に地下鉄に揺られていると、ふいに流れていた曲がーーそう、即興曲第四番、嬰ハ短調が静かに終わった。そしてそれとともにアナウンスがかかる。
「まもなく、停車いたします。お忘れ物にご注意ください。」
電光掲示板は一貫して黒い画面を映し出すばかりだ。一体どこに停車するというのだろう。
 ゆっくりと車体が止まり、プシュゥッという空気音とともに扉が開く。開いた扉に身を乗り出してホームを確認するが、駅名の表示された看板などは見当たらない。するとまた軽快なピアノの旋律が遠くに聞こえてくる。今度は向こう側のホームに停車している電車からのようだ。ふと隣を見ると先程まで楽しげに足をぶらつかせていた少女の顔はうかない表情でこわばっていた。どうしたの、と声をかけようとした瞬間にはっとする。その唇はきゅっと噛み締められ、くすみのないその瞳はどこか一点を見つめていた。この少女は泣くのを我慢しているのだ、と気づいた瞬間、かけようとした言葉は喉元で消えた。
「ピアノ、好きなの。」
そう小さくつぶやいた声は震えていた。出発を知らせるベルが鳴る。そういえば私もピアノが好きだったな、と思った。こんなでも小さな頃は周りよりも少しばかり上手に弾けて、得意気になっていた時期もあったのだ。うつむく少女の小さなつむじになぜだかそんな昔のことを思い出す。私は見ていられなくなって、反対側のホームの電車を焦点の向こうに捉えながらこう言った。
「降りなくていいの。」
ドアが閉まります、ご注意ください、というアナウンスがかかり、また気の抜けた空気音とともにドアが閉まった。少女は今一体どんな顔をしているのだろう、と隣に目を向けると、そこに少女の姿はもうなかった。少女の座っていた座席を思わず手でなぞる。しかしそこには、ただざらりとした感触のオレンジの座席があるだけだった。

 暫くの間そのオレンジ色にとらわれていた私の意識は、シャッ、シャッという鋭い音によって引き離された。今度はなんだろうと音の元をたどるように車内を見渡すと、次はセーラー服を身にまとった少女が斜め向かいの席に座っていた。その手にはスケッチブックが握られ、真剣な様子で何やらそこに絵を描いているようだった。シャッと大きく線を引くたびに顎のところできっちりと切りそろえられた黒髪が均整を保ったまま揺れる。彼女の動きが止まるとそれに遅れて静かに黒髪も動きを止める。手を止めるたびに彼女はこちらをちらっと見たが、すぐにその視線の先はその手に握りしめたスケッチブックへと切り替えられた。その繰り返しを私はしばらく見つめていた。ふと気がつくと少し不安げに彼女の瞳はこちらを捉えたまま、手が止まっている。それから少し考えて、ようやく私は先程から度々送られてくる視線の意味を理解した。
「いいよ、続けて。」
そう言ってやると、ぱっと明るい表情を見せ、小さく会釈をし、それから彼女はすぐにまたスケッチブックとのにらめっこを再開させた。きっと彼女は私の画を描いているのだろう。好きなだけ描けばいい。絵を描く者にとって心惹かれる題材は、日常の思わぬところに転がっているものなのだ。だから高校生の授業用ノートの角には、好きなあの子の横顔からギターのヘッドまで本当にいろんなものが現れる。描きたいと思ったときにペンをとれることは、描きたいものを描きたいように描けるということは、きっと多分、幸せなことだと思う。
 それにしても私もこのとんでもない状況をよくも驚かずに受け入れられているな、と他人事のように考えていると、また停車のアナウンスが入った。この少女もまた忽然と姿を消すのだろうかと彼女に目をやる。すると彼女は画を書き上げたようで、満足げにスケッチブックを眺め、それから自分の乗っている電車が速度を落とし始めたことに気づくと急いで身支度を始めた。ああ、この子は降りるのか。ドアが開く。今度のホームには大きな広告が一つ貼られていた。色とりどりの絵の具で埋め尽くされた油絵だった。すっかり降りる準備を整えた彼女はそれをキラキラと目を輝かせながら見つめ、それから急に私の方に向き直ると、ぐいとスケッチブックの切れ端を差し出してきた。
「これ、おねーさんに、あげるね。」
えへへと照れくさそうに笑って、彼女は駆け下りていく。見送ろうと席を立ち、お礼を言う直前にドアは閉まった。私の「ありがとう」は、一人きりになった車内に投げ出され、余韻だけを残して、消えた。手元にはスケッチブックの切れ端だけが残った。二折になったそれを開くと、目を閉じて眠る私がいた。なぜだか胸が締め付けられるような気持ちだった。

 相も変わらず世界を揺らし、どこかへと私を運んでいく電車。立ち尽くす私。さっきまで座席下のヒーターで暖められていたふくらはぎが寒いーーと、そこでようやく私は気づく。この謎の電車に揺られてしばらく経つ。そして何度か停車もしたというのに私はちっとも降りようとしなかった。
「どれも、あなたの選んだことだよ。」
後ろから聞き慣れた声が飛んできた。どこで聞いた声か、その声の主を確認しようと振り返りその顔を見て、心臓がどくん、と大きく一回跳ねた。
 それは私の人生の中で最も多く見るであろう顔だった。朝起きて一番最初に鏡の中で見る、そう、そこに立っていたのは、まぎれもない、私自身だった。固まる私をよそに、彼女は続ける。
「この電車には私しかいない。だってここは私の人生だから。」
何を言っているのだ、目の前の私は。彼女は確かに私だ。服装も身長も、ほくろの位置まで完全に同じ。そして鏡で見る私と左右対称なことが、彼女が「本物」であることを物語っていた。
「ここは私の人生、って、どういうこと。」
どうにか絞り出した言葉は私のものとは思えぬほどに消え入りそうな、弱々しいものだった。
「人生って、電車みたいだと思わない?」
「人生が、電車。」
確かに、考えてみれば、どこへ向かうのかわからないこの電車は、どこか人生に似ているところがあるのかもしれない。
「それだけじゃない。この電車はもう何度か停車しているでしょう。なのにあなたは降りなかった。どうして降りなかったの?思い出して、この電車は、あなたの、私の人生なのよ。」
目の前の私に、心の中が読まれているようだった。じっとりと掌が汗ばんでいるのを感じた。何か見たくないものを見させられているようで、私は私の目をまっすぐ見ることができなかった。
 だって、きっと私は気づいていたのだ。

「あのね、後悔しているなら、次の停車駅で降りて反対側のホームの電車に乗ればいいのよ。」
「でも、今からじゃもう、間に合わない。」

 本当はどこかで気づいていた。停車駅で消えていった少女たちは、皆私だった。ある程度の才能があったがゆえに自分に見切りをつけられてしまった過去の私。そしてどの夢もすべて、続きを描くことを私は諦めた。ピアノも絵も、本当はもっと続けたかったけれど、何度もあったチャンスを見ないふりをして、私は立ち上がろうとしなかった。後戻りできないと思うと怖かったから。傷つくのが、怖かったから。
「扉は開いてるよ。」
そう言われて、気づくといつのまにか電車は次の駅に停車していた。
「私は、降りる。」
立ち尽くす私を前に、もう一人の私はそう言って電車を降りていく。
「待って!私も・・・!」
出発のアナウンスがかかる。私はそこらに転がっている自分のかばんとマフラーを引っ掴んでドアをめがけて全力で駆け出す。閉まり出すドアの隙間にどうにか体を滑り込ませ、プラットホームに投げ出された私の体は勢い余って太い柱にぶつかった。急いでもう一人の私を探そうと顔を上げ、思わず息を呑む。駅のホームには人が普通に歩いていた。疲れた顔のおじさんや酔っ払ったサラリーマンが、茫然とした顔の私を物珍しげに眺めて歩いていく。駅の表示は。
 『戸塚』だった。
 そこは間違いなくいつもの戸塚駅で、走り去る電車も、いつもと何も変わらない、ただの地下鉄だった。固く握りしめた拳を開くと、そこに確かに握っていたはずのスケッチブックの切れ端も、いつのまにか姿を消していた。

 あの日はあれからどうやって帰ったのか、何を考えながら帰ったのかもうよく覚えていない。あれからもう二度と私があの不思議な電車に乗ることはなかった。疲れて夢でも見ていたのかもしれない。ただ、人生は電車のようだと言った私の声は、今もまだ鮮明に私の耳に残っている。あれがあってから私の生活が何か変わったかと言われれば、結局は何も変わらないままだ。それでも、あそこであの電車を降りられたことが、今までの私の何かを変えてくれた気がするのだ。もしかしたらそれはほんの小さなことかもしれないけれど。そう思うと私にはどうしても、あれがただの夢とは思えなかったのだった。

 そしてまた金曜日がやってきた。今日は目を瞑らないで帰ろう、そう心に決めて私はいつもの23:38発、あざみ野行の最終電車に乗り込む。

 夢を見て、寝過ごしてしまわないように。

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