深夜のバー。
ドアを押すように若い男が入ってくる。
マスター 「いらっしゃい……ってお客さん、どうしたんですその目の周りのアザ」
客の男 「いや、ちょっと彼女とケンカしちゃってね」
マスター 「おや意外。お客さんお目にかかるのは初めてですが、彼女さんの尻にしかれるタイプにはお見受けしませんがね、フフフ」
客の男 「そうかい? まあ誉め言葉と受け取っておくよ」
マスター 「にしてもそうとう腕っぷしの強いお嬢さんのようですな」
客の男 「いや、彼女じゃなくて彼女の彼氏にやられたのさ」
マスター 「あんたが間男かよ!」
客の男 「まあとにかくスコッチのダブルを頼む」
マスター 「かしこまりました……」
客の男 「あーあ、部屋も追い出されたし、今夜どうしよう」
マスター 「間男のくせに女の家に居候までしてたんですか? ホントしょうもないな」
客の男 「それも今日までのこと。今夜からは宿なしさ。この町には友だちもいないし、完全に詰んじまったよ」
マスター 「お勘定は大丈夫なんでしょうね……スコッチのダブルおまたせ」
客の男 「……ふう。この払いをすませたら、あとは親の住んでる隣町までへの電車賃しか残ってないな」
マスター 「おや、それならひとまず頭を下げて、親御さんのお家に厄介になったらどうです?」
客の男 「そんなことできるもんか! 啖呵きって家を飛び出してきたんだ、いまさらおめおめと出戻りなんてできるかよ!」
マスター 「まあいい歳して親御さんの家で暮らすのを恥ずかしく思うのはわかります。でも、背に腹はかえられないでしょう?」
客の男 「いや、俺の親も、その親の家に転がりこんで暮らしてるんだ」
マスター 「こどおじ一族かよ!」
客の男 「俺の転がり込むスペースはないんだよ」
マスター 「聞くだけで息の詰まりそうなお話ですな……」
客の男 「そういうわけで、オレの人生もうお仕舞なのさ」
マスター 「やけになっちゃいけません。まあ人生の先輩としてすこしだけ言わせてもらいますけどね……」
客の男 「ほう? 聞いてやろうじゃないの」
マスター 「わたしがこの町にやってきたときだって、ホームレス同然、持っていたものは薄汚いトランクひとつという有様でしたよ」
客の男 「へーえ?」
マスター 「それがこうして今じゃ500万円で開いたこのお店と、500万円で購入したマンションの部屋を手に入れるところまできたんです」
客の男 「そりゃすごいな!」
マスター 「もちろん幸運にもめぐまれたというのもあります。慢心はしません。でも、運ってのは努力した人間にのみ向いてくるもんです」
客の男 「そうか……苦労したんだろうな」
マスター 「フフフ。そこはほら、若い時の苦労は買ってでもしろと申しますでしょう?」
客の男 「……そうだな、俺もがんばらないと!」
マスター 「そうそう、その意気ですよ」
客の男 「ところで、その持っていたトランクにはどんなものをつめていたんだい?」
マスター 「1000万円の現金ですよ。親が死んで、その遺産です」
客の男 「どこに苦労があるんだよ!」
マスター 「だから幸運にもめぐまれたって謙遜したでしょ?」
客の男 「運しかねーじゃねーか!」
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