いとはん物語
人 物
千代(16)薬種商屋『糸屋』の一人娘
佐之助(17)『糸屋』の丁稚
糸屋平八郎(52)『糸屋』の主人
沢田権平(49)呉服屋『澤乃屋』の主人
◯呉服屋『澤乃屋』・店内・中
振袖姿の千代(16)が退屈そうに座敷に
座っている。
千代の周りには色とりどりの反物が広
げられ、並べられている。
千代の横には父親である糸屋平八郎
(52)が座っている。糸屋、ニコニコ笑
って反物を手に取り、
糸屋「ほんに、ええお品ばかりで」
糸屋の向かい側に座っている、店の主
人、沢田権平(49)が身を乗り出し、
沢田「仮にもウチは呉服屋でっしゃろ。新妻
となるいとはんをお迎えするため、職人た
ちに大急ぎで染めさせたんでっせ」
糸屋、千代をちらりと見て、
糸屋「うちのいとはん……。千代は幸せもん
ですわ。沢田はんのような立派な方にお嫁
入りできまして。なあ、いとはん」
千代、無表情で、
千代「へえ」
糸屋、引きつった顔で、
糸屋「なんや、えらい恥ずかしがってます
わ。未来のだんさんの前やからさかいに」
沢田、ニヤけながら、
沢田「いい年して、こんな若(わこ)うて美しい後添
えを頂くなんて、こちらが照れて仕方ない
ですわ。立派な御寮人さんがいると、この
店もより繁盛します」
障子窓に雪の影。
千代「あ、雪……」
◯同・店前・外
雪が降っている。
佐之助(17)が息で手を温めている。
◯同・店内・中
糸屋「今日はやたら冷えるなと思うたら……。
佐之助を中に入れささな」
千代「(強く)あきません!」
糸屋・沢田「!」
千代「わざわざ見苦しい丁稚を、この澤乃屋
のお店(たな)に入れることありゃしまへん」
糸屋「いや、しかし風邪でも引かれたら」
千代「佐之助は、その体の丈夫さをお父はん
が見込んで私の世話係にしたのやないの?」
糸屋「いとはん……」
千代、立ち上がる。
千代「今日のお稽古がまだやったわ。先に失
礼します」
糸屋「稽古って……」
千代「寒さで箏(こと)の糸が切れてしまうかもしれ
へん。調子を見な」
沢田「いや、この雪の中をお一人では……」
千代「佐之助がおります」
糸屋・沢田「!」
◯同・店前・外
千代が出てくる。
佐之助「いとはん! 雪で滑りますさかい、
私が手を……」
佐之助、千代に右手を差し出す。
千代、佐之助の顔をじろりと見る。
千代「なんや。寒さで顔が真っ赤やないの。
猿みたいや。みっともな」
佐之助「へ、へえ……」
千代、佐之助の手を取る。
佐之助、微笑む。
佐之助、千代を連れてゆっくり歩く。
× × ×
佐之助、千代を連れて歩いている。
佐之助「旦那はんはどうされたんですか?」
千代「置いてきた! 澤乃屋の狸ジジイを顔
合わせんのうんざりしてな。先帰ることし
てん」
佐之助「そんな……。春には夫婦になる方を」
千代「……私の気持ち知ってて、そないなこ
と言えるんか」
佐之助「……」
千代「そないに澤乃屋に嫁に行きたいんやっ
たら、お父はんが行けばええんや」
佐之助「……」
千代「あんたも春には清々するやろ。我が儘
な『いとはん』の世話から解放されて」
佐之助、歩みを止める。
千代「!」
止まる千代。
佐之助「そないなこと、そないなこと……。
ずっといとはんの手をこないに引いて歩け
たらといつも思うて……」
千代「……あんたは歩くばかりやものな」
佐之助「?」
千代「ほら、もうウチ着くよって」
遠くに、薬種商屋『糸屋』が見える。
千代、佐之助の手を離し、『糸屋』に
向かって走っていく。
佐之助「いとはん!」
千代、立ち止まって佐之助を見て、
千代「(大声で)浄瑠璃やったら、女の手を引
いたときは走るもんや!」
佐之助「?」
去っていく千代。
◯人形浄瑠璃小屋・中
客たちで賑わっている。
佐之助が舞台を見ている。
舞台では心中物が上演されている。
激しく響く三味線。
太夫の張り上げた声。
汗をかいていく左之助の顔。
舞台上、人形の侍が花魁の手を取って
走る。
太夫「この世の名残り、夜も名残り。死に行
く身をたとふればあだしが原の道の霜」
息を飲む左之助。
手と手を取り合う侍と花魁。
太夫「一足づつに消えて行く夢の夢こそあは
れなれ」
左之助の拳に汗が落ちる。
◯『糸屋』・千代の部屋・中(夜)
箏を焦立ち気に掻き鳴らす千代。
障子に左之助の影が現れる。
手を止める千代。
千代「なんや」
左之助の声「いとはん……。命だけは、大事
にせなあきまへん」
千代「そないなつまらんこと言いにきたんか」
左之助の声「……」
千代「ふん。あんたが大事な命というのは、
私のやなくて自分の命やものな」
左之助の声「そんなことありゃしまへん!」
千代、右手に琴爪をつけたまま、障子
を指先で突き刺す。
左之助の額に琴爪が当たる。
左之助「う!」
額を押さえて俯く左之助。
障子の穴から覗く千代の目。涙が流れ
ている。
千代「(涙声)女三界に家なしとは上手く言っ
たもんや」
左之助、苦しそうに千代の目を見て、
左之助「いとはん……」
千代「慕った男は意気地なし。嫁入り先は狸
爺。私の一生もう終わったわ」
左之助「あのお店(たな)の御寮人はんなれば、一生
安心して、苦労せず、美しいままのいとは
んでいれます。ワイと一緒におっても……」
千代「絹に包まれた死霊となる。これが人生
なんか」
左之助、障子を開けようとする。
千代、開いた障子の間から、左之助の
手を叩く。
左之助「!」
千代、障子を背に、
千代「帰り」
左之助「……」
左之助、去っていく。
千代、再び箏を乱暴に掻き鳴らす。
箏の糸が切れる。
千代「!」
千代、後ろに飛び退く。
◯『糸屋』・玄関前・外
人だかりがある。
晴れ着の糸屋と親戚達が笑顔で立って
いる。
嫁入りの荷を担ぐ十人の男衆。
糸屋の後ろで控える左之助。
玄関から花嫁姿の千代が出てくる。
左之助が千代の手を取る。
左之助と千代が先頭を歩き、その後ろ
を糸屋と親戚達、男衆が付いていく。
千代、俯いたままで、
千代「これで手ェ引かれるのも最後やなぁ」
左之助「最後やない」
左之助、歩みを速めていく。
千代「!」
必死でついていく千代。
糸屋「左之助! なにしとるんや」
左之助「振り返ったらあきまへん」
左之助、走り出す。千代、引っ張られ
ていく。
左之助「いとはん、道中決め込みまひょ」
千代「……死に行くんか」
左之助「生きてもらいます。いとはんを死霊
にはさせへん」
千代、微笑み、高下駄を脱ぎ、左之助
と駆けていく。
糸屋「誰か、はよう! 千代が拐かされた!」
男衆が荷を下ろし、左之助と千代を追
い掛けていく。
左之助「(大声で)いとはんはワイがいただき
ます!」
千代、打掛を脱ぎ捨てる。
千代「丁稚への嫁入り衣装にはちと派手やな」
左之助「麻を着てても幸せやと思ってもらえ
るように、ワイ、頑張りますさかい」
駆けていく左之助と千代。
(続)
コメント
コメントを投稿するには会員登録・ログインが必要です。